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アイオワ州とは?

座標: 北緯42度 西経93度 / 北緯42度 西経93度 / 42; -93

アイオワ州
State of Iowa



(州旗) | (州章)
州の愛称: 鷹の目の州
The Hawkeye State
州都
デモイン
【最大の都市】
デモイン
州知事
キム・レイノルズ
公用語
英語
面積
- 総計
- 陸地
- 水域 全米第26位
145,743 km²
144,700 km²
1,041 km² (0.7%)
人口(2010年)
- 総計
- 人口密度 全米第30位
3,046,355
21.2人/km²
【合衆国加入
- 順番
- 加入年月日】

29番目
1846年12月28日
時間帯
UTC -6
DST -5
緯度
北緯40°23' - 43°30'
経度
西経90°8' - 96°38'
【東西の幅】
320 km
【南北の長さ】
500 km
標高
-最高標高
-平均標高
-最低標高
509 m
340 m
146 m
【略称 (ISO 3166-2:US)】
US-IA
【ウェブサイト】
アイオワ州政府
【上院議員】
チャック・グラスリー
ジョニ・アーンスト

アイオワ州(: State of Iowa [ˈaɪəwə, ˈaɪ.oʊə] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国中西部に位置し、「アメリカのハートランド(中心地)」と呼ばれるである。1846年12月28日にアメリカ合衆国29番目の州となった。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第26位、人口では第30位である。州都かつ人口最大の都市はデモインである。「アイオワ」という名前はヨーロッパ人がこの地域に探検に入った時代に、数多く住んでいたインディアン部族の中のアイオワ族から採られた。その意味は、インディアン部族のスー族の言葉で「眠たがり」という意味である。アイオワ州法によって、アメリカ合衆国大統領選挙の前哨戦である大統領候補指名党員選挙を、全国に先駆けて行うことが定められている。したがって、アイオワ州は大統領選挙の初戦としての位置付けにあり、大統領選挙の際には世界的に注目される。なお、アイオワ州党員選挙にて敗北した候補者が大統領に就任した例は少なく、「アイオワを制する者が大統領選挙を制する」とも言われている。

アイオワ州となった地域はフランスヌーベルフランスと呼ばれた植民地に属していた。アメリカ合衆国によるルイジアナ買収後、開拓者が農業に基づく経済の基礎を作り、「コーンベルト」と呼ばれる地域の中心になった。「世界の食糧の首都」と呼ばれることも多い。20世紀の後半に農業経済から、先進的製造、加工、金融、バイオテクノロジー、再生可能エネルギーなど多様な経済分野に移行してきた。生活するには安全な州として位置づけられてきている。

【家庭で話される言語(アイオワ州) 2010】

 |  |  |  | 
英語 | 
 | 93.19%
スペイン語 | 
 | 3.76%
【人種構成(アイオワ州) 2010】

 |  |  |  | 
白人 | 
 | 88.7%
ヒスパニック | 
 | 5.0%
黒人 | 
 | 2.9%
アジア系 | 
 | 1.7%
インディアン | 
 | 0.4%
混血 | 
 | 1.8%

目次

  • 1 歴史
    • 1.1 前史時代
    • 1.2 探検と交易の時代(1673年-1808年)
    • 1.3 米英戦争と不安定なアメリカ支配
    • 1.4 インディアンの排除(1814年-1832年)
    • 1.5 アメリカ人による開拓と州昇格(1832年-1860年)
    • 1.6 南北戦争(1861年-1865年)
    • 1.7 農業の発展(1865年-1930年)
    • 1.8 世界恐慌、第二次世界大戦、製造業の興隆(1930年-1985年)
    • 1.9 複合経済としての再出発(1985年-現在)
  • 2 地理
    • 2.1 州境
    • 2.2 地質と地形
    • 2.3 生態系と環境
    • 2.4 気候
  • 3 人口動勢
    • 3.1 人種及び祖先
    • 3.2 田園部から都市部への人口移動
    • 3.3 言語
    • 3.4 宗教
  • 4 インディアン部族
    • 4.1 インディアンと第二次世界大戦
    • 4.2 インディアン・カジノ
  • 5 主要な都市及び町
    • 5.1 アイオワ州中部
    • 5.2 アイオワ州東部
    • 5.3 アイオワ州西部
    • 5.4 アイオワ州北東部と北部
  • 6 政治と法律
    • 6.1 政党
    • 6.2 有権者の投票動向
    • 6.3 大統領候補指名党員集会
    • 6.4 公民権
  • 7 経済
    • 7.1 製造業
    • 7.2 農業
    • 7.3 その他の分野
    • 7.4 税
  • 8 交通
    • 8.1 州間高速道路
    • 8.2 空港と商業便
    • 8.3 鉄道
  • 9 教育
    • 9.1 初等中等教育
    • 9.2 大学・短期大学
      • 9.2.1 州立大学
      • 9.2.2 私立大学
      • 9.2.3 コミュニティー・カレッジ
  • 10 スポーツチーム
  • 11 アイオワ州出身の有名人
  • 12 姉妹州
    • 12.1 日本の姉妹都市
  • 13 州の象徴
  • 14 注釈
  • 15 脚注
  • 16 関連項目
  • 17 外部リンク

歴史

詳細は「アイオワ州の歴史」を参照

前史時代

エッジウォーターパーク遺跡の発掘、3,800年前のものとされている

現在のアイオワ州には13,000年前に先住民族が現れており、更新世氷河作用を受ける環境の中で狩猟採集型の生活を送っていた。ヨーロッパ人探検家がアイオワを訪れたときまでに、インディアンの多くは複雑な経済、社会、政治の仕組みを持つ定住型農耕民となっていた。この転換は緩りと進行していた。古代(10,5000年から2,800年前)、インディアンは土地の環境や生態系に適応し、人口が増えるにつれて定住型に変わってきた。

古代後期にあたる3,000年以上前、インディアンは植物を栽培するようになった。その後のウッドランド期には農業や社会的仕組みへの依存度が増し、マウンド、土器および特化された生活手段が増えた。西暦900年頃からの後期前史時代、トウモロコシの栽培が増え、社会的な変化によって繁栄し中核のある集落ができていった。

ヨーロッパからの交易品と疫病が入ってくるようになると、劇的に人口が減少し、新参の部族やヨーロッパ人初期探検家と交易業者によって経済と社会が激変した。ヨーロッパ人による初期探検の時代には、アイオワに多くのインディアン部族が住んでいた。前史時代のオネオタ族の子孫とされるのは、ダコタ族、ホーチャンク族、アイオウェイ族、オトー族などである。前史時代後期あるいは有史初期にこの地域に入ってきた部族としては、イリニウェク族、メスクワキ族、オマハ族ソーク族などがいた。

探検と交易の時代(1673年-1808年)

1718年のアイオワ州、現在の州域をハイライトで示す

この地域を訪れたことが記録されている最初のヨーロッパ人は、1673年ミシシッピ川の探検をしていたケベック出身のフランス人ルイ・ジョリエと、彼と行動を共にしたフランス人宣教師ジャック・マルケットだった。彼等はアイオワ側の岸にあった幾つかのインディアン集落について記録を残した。アイオワを含む地域はフランス領とされ、1763年までフランス領ルイジアナと呼ばれた。フランスはフレンチ・インディアン戦争の敗色が濃くなったこの年に、同盟国であるスペインにルイジアナを譲渡した。スペインはアイオワの地域に大変緩やかな支配しか行わず、フランス人やイギリス人の交易業者に交易の免許を与えたので、ミシシッピ川やデモイン川の岸に交易拠点が造られた。

ヨーロッパ人交易業者はインディアンから得られる鉛と毛皮に興味を抱いた。18世紀後半から19世紀前半にかけて、ソーク族やメスクワキ族がミシシッピ川流域の交易を事実上支配した。ヨーロッパ人交易業者にはジュリアン・デュビュークロベール・ラ・サールポール・マランなどがいた。1808年以前にミズーリ川沿いには少なくとも5か所にフランス人とイギリス人による交易所ができていた。1800年、フランスのナポレオン・ボナパルトサンイルデフォンソ条約で、スペインからこの地域の支配権を取り戻した。

1803年ルイジアナ買収の後、アイオワはアメリカ合衆国の支配下となった。1805年にゼブロン・パイクがアイオワ大半の地図を制作したが、マディソン砦を建設したのは1808年になってからであり、アメリカ合衆国はようやくなんとか地域の軍事的支配を行うようになった。

米英戦争と不安定なアメリカ支配

マディソン砦の平面図、1810年

マディソン砦はミシシッピ川上流域での交易の支配とアメリカ合衆国の存在誇示のために建設されたが、お粗末な設計によっており、まだイギリスと同盟しており地域の領有権を放棄してはいなかったソーク族やホーチャンク族には嫌われた。米英戦争中の1813年、マディソン砦はイギリスに支援されたインディアンに落とされ、ウィスコンシンのプレーリードゥシェンにあったシェルビー砦もイギリス軍に落とされた。ソーク族ブラック・ホーク酋長がマディソン砦の包囲戦に加わった。

米英戦争の終戦後、アメリカ合衆国はイリノイにアームストロング砦、ミネソタにスネリング砦、ネブラスカにアトキンソン砦を構築して地域支配を取り戻した。

インディアンの排除(1814年-1832年)

アイオワのインディアン領土獲得の図

アメリカ合衆国はミシシッピ川東岸への入植を奨励し、インディアンの西方への移住を進めた。毛皮と鉛の交易は続いていたが、疫病とインディアンの強制移住によってその文化と経済を破壊していった。1804年にソーク族の酋長カシュカメとウィリアム・ハリソンの間に結ばれたイリノイ領土の大半をアメリカ合衆国に譲渡する条約は、多くのソーク族を怒らせ、1832年のブラック・ホーク戦争に繋がった。蜂起に対する懲罰として、またより大きな開拓戦略の一部として、その後の条約でアイオワから全てのインディアンを追い出すように図られた。

ソーク族とメスクワキ族は、1832年にミシシッピ川流域から、1843年にアイオワ川流域から、さらに1846年にはアイオワ全体から追い出された。メスクワキ族の多くは後にアイオワに戻ってきてタマ近くに落ち着いた。メスクワキ族の集落は今日も残っている。1856年、アイオワ州議会は、メスクワキ族が土地を購入することを認める前例のない法を成立させた。通常のインディアンにそのようなことを認めることは無かった。ホーチャンク族は1850年にアイオワから追い出され、ダコタ族は1850年代後半に排除された。現在のカウンシルブラフス市周辺のアイオワ州西部は、ポタワトミ族など他の部族が西方に移動するための中継点として使われた。

アメリカ人による開拓と州昇格(1832年-1860年)

アイオワ準州章

アイオワに公式にアメリカ合衆国の開拓者が入ったのは1833年だった。彼等は主に家族を連れてオハイオ州ペンシルベニア州ニューヨーク州インディアナ州ケンタッキー州バージニア州などから移ってきた。ミズーリ準州の一地区となったアイオワは、以後、ミシガン準州ウィスコンシン準州を経て、1838年7月4日、アメリカ合衆国議会がアイオワ準州を設立した。マーティン・ヴァン・ビューレン大統領がロバート・ルーカスを準州知事に指名した。当時のアイオワは22の郡があり、人口23,242人だった。

準州になるのとほとんど同時に州昇格を求める声が興った。1846年12月28日、ジェームズ・ポーク大統領がアイオワの編入法に署名して、アイオワは合衆国29番目の州に昇格した。この昇格と同じ頃に境界論争も解決され、その領土はインディアンから購入したものが大半だった。アイオワ州は発展計画に取りかかり、若いフロンティアの州の肥沃な農業用地、素晴らしい市民、自由で開放的な社会および良い政府を宣伝して、開拓者と投資家を惹き付ける組織的な運動を行った。

アイオワ州では昔から州祭や郡祭が行われている。第1回と第2回のアイオワ州祭はフェアフィールドのより開発の進んだ州東部で開催された。第1回は1854年10月25日から27日に開催され、費用は約323ドルだった。その後会場は州中央部に近付いていき、1886年からは州都デモインで開催されるようになった。1898年は米西戦争が起こり、ネブラスカ州オマハトランス・ミシシッピ博覧会が開催されたので、州祭の開催は見送られたが、これ以外は毎年続いていた。さらに第二次世界大戦の1942年から1945年にも中断された。

南北戦争(1861年-1865年)

アイオワは、1860年大統領選挙ではエイブラハム・リンカーンを強く推し、南北戦争でも北軍を支持した。その一方で、南部出身の開拓者やカトリック教徒の中には「カッパーヘッド」(アメリカマムシ)と呼ばれた強い反戦の動きがあった。州内で戦闘は無かったが、クロトンからデモイン川対岸のミズーリ州アセンズでは、1861年に戦闘があり、砲弾が州内に着地した。アイオワ州からは多くの食料が北軍や東部の都市に送られた。アイオワ州が北軍を支持したのは、戦時に知事を務めたサミュエル・カークウッドの功績によるとされている。当時の人口675,000人から約116,000人が軍務に就いた。南北を問わず他州よりも大きな比率で志願兵となり、75,000人が兵役に就いて、南軍アポマトックスで降伏するまでに、その6分の1が戦死した。

多くの兵はミシシッピ川流域戦線や南部での大きな作戦で戦った。ミズーリ州でのウィルソンズ・クリークの戦いアーカンソー州でのピーリッジの戦いヘンリー砦ドネルソン砦シャイローチャタヌーガチカマウガ、ミッショナリーリッジ、ロスビルギャップ、さらにはビックスバーグイウカコリンスと戦いが続いた。バージニア州ではポトマック軍に入り、シェナンドー・バレーではフィリップ・シェリダン将軍の下で戦った。多くの兵がアンダーソンビルで戦死し、埋葬された。ナサニエル・バンクス将軍が率いたレッド川方面作戦にも参加した。アイオワ州出身の27人の兵士が、アメリカ合衆国議会の贈る最高の軍事勲章である名誉勲章を贈られ、南北戦争では初めてのものだった。 アイオワ州からはグレンビル・メレン・ドッジサミュエル・R・カーティス、フランシス・J・ヘロン、フレデリック・スティールといった4人の少将やその他の准将を輩出し、戦後は彼等が州内や国内で傑出した存在になった。

農業の発展(1865年-1930年)

1875年のアイオワ州農園

南北戦争後、アイオワ州の人口は劇的に増加した。1860年に674,913人だったのが、1870年には1,194,020人となった。1850年代と1860年代に鉄道が開通し、アイオワ州は主要な農業生産州になった。

1917年、アメリカ合衆国は第一次世界大戦に参入し、アイオワ州は戦時経済を経験した。農夫にとってこの変化は重要だった。1914年に戦争が始まった時から、農夫は経済的繁栄を味わっていた。他の産業分野でもかなりの変化が進行した。1870年代に始まった農業関連の産業に加えて、事業や製造業の数が次第に増えていった。

世界恐慌、第二次世界大戦、製造業の興隆(1930年-1985年)

農業経済から複合経済への移行は緩りだった。世界恐慌第二次世界大戦がその動きを加速させ、小農から大規模農業に変わり、都市化の動きが始まり現在も続いている。第二次世界大戦以降、特に製造業が増えた。農業は依然として州最大の産業だったが、冷蔵庫、洗濯機、万年筆、農業機械、加工食品など様々な製品も製造され始めた。

1980年代の農場危機によって州内が大きな不況となり、世界恐慌以来の貧窮を生み出した。この危機で州人口が減り始め、10年間は続いた。

複合経済としての再出発(1985年-現在)

1980年代を底として、アイオワ州経済は農業への依存を徐々に脱し、現在は製造業、バイオテクノロジー、金融、保険、および行政サービスの複合的な様相になっている。州人口は国内平均よりも高い成長率を示している。人口は圧倒的に都市部に偏っている。

地理

アイオワ州の郡一覧」も参照
アイオワ州の地形図、郡と主要河川が見られる

州境

アイオワ州は北にミネソタ州、西にネブラスカ州及びサウスダコタ州、南にミズーリ州、東にウィスコンシン州及びイリノイ州と接している。

ミシシッピ川が東の州境となっている。一方、西の州境はスーシティより南ではミズーリ川、北ではビッグスー川の流路を以ってそれぞれ定められている。北の州境は河川の流路や山の稜線などの自然物ではなく、北緯43度30分で直線的に決められている。南の州境はデモイン川と北緯40度35分にほぼ沿ってはいるが完全に直線ではない線となっている。これは1839年の「ハニー戦争」と呼ばれたミズーリ州とアイオワ州の間の州境紛争が膠着化した後に、1849年アメリカ合衆国最高裁判所による「ミズーリ州対アイオワ州事件」判決で決着したものである。東西の州境が完全に河川で構成されていることでは全米唯一の州である。

アイオワ州は99の郡に分割されるが、リー郡のみ2つの郡庁所在地を持つため、郡庁所在地の数は100である。州都デモイン市はポーク郡に位置している。

デソト国立野生生物保護区にあるデソト湖
デラウェア郡にあるファウンテンスプリングス公園

地質と地形

詳細は「w:Geology of Iowa」を参照

アイオワ州の岩盤地質は概して西から東に行くに従って年代が古くなる。北欧部の白亜紀の岩盤は7,400万年前のものであり、東部のカンブリア紀の岩盤はおよそ5億年前のものである。

地形は平坦ではなく、うねりのある丘陵で構成されている。アイオワ大学のプライアーは、氷河作用、土壌、地勢、および河川流域によってアイオワ州を8つの地域に分割した。黄土丘陵は西側州境に沿ってあり、そのうち幾つかは数百フィートの深さがある。北東部のミシシッピ川沿いでは、氷河作用を受けていないために漂礫岩のない地帯であり、山岳部の急峻な丘陵や渓谷がある。

最も著名なスピリット湖、ウェストオコボジ湖、及び州北西部のイーストオコボジ湖等(総称してアイオワ・グレイトレイクスと呼ばれる)、州内に幾つかの自然の湖が存在する。東部にはクリア湖がある。人工湖としては、オデッサ湖、セイラービル湖、レッドロック湖、コーラルビル湖、マクブライド湖、ラスバン湖がある。州北西部にはバリンジャー・スロウなどかつて共通の湿地だったところの名残もかなり多く残っている。

生態系と環境

詳細は「w:Environment of Iowa」を参照

自然の植生は高地地域では高草プレーリーサバンナ、氾濫原や保護された河川流域では深い森と湿地、北部のプレーリーでは深いくぼみのある湿地である。土地の大半は農業に使われ、耕作用地が領域の60%、草原(プレーリーや湿地の牧場や干し草)が30%、森林が7%、都市部と水域が1%となっている。高密度の家畜施設がその数を急速に増やしたために、田園部の水質汚濁と大気質の低下の危険性が高まっている。州内環境を悪化させるその他の要因として、古い石炭焚き火力発電所の広範な利用、農耕用地からの農薬や殺虫剤の流出、およびジョーダン帯水層の消失があげられる。

アイオワ州の自然のままの地域に乏しい。かつて州内の土地の大半を覆っていた高草プレーリーの1%足らずが手つかずで残っている。プレーリー陥没湿地の約5%のみが残り、原生林の大半は失われた。公共用地の保有率は全米第49位である。絶滅が危惧される動物としては、アメリカコアジサシ、フエチドリ、インディアナコウモリ、パリッドチョウザメ、アイオワ更新世リクガイ、ヒギンズアイ・パールイシガイ、トピーカシャイナーがある。絶滅が危惧される植物としては、西プレーリー・サギソウ、東プレーリー・サギソウ、ミードトウワタ、プレーリー・ブッシュクローバー、ノーザンワイルド・トリカブトがある。

気候

中西部の大半と同様に湿潤大陸性気候(ケッペンの気候区分Dfa)であり、暑さも寒さも極端に走りやすい。デモインでの年間平均気温は50°F (10 ℃) である。北部ではこの数字が45°F (7 ℃) 以下になり、ミシシッピ川沿いのキオカックでは52°F (11 ℃) となる。冬は厳しく、降雪が多い。

春は異常気象の季節の始まりである。年間の雷雨発生日数は平均約50日である。竜巻は春から夏にかけて多く、年間平均では37回である。2008年には州内で竜巻による死者が12人となり、1968年以降では最悪となり、2001年からの年間発生個数では105個で第2位となった。

夏は暑く、湿度が高い。日中の最高気温は90°F (32 ℃) 近くになることが多く、時には100°F (38 ℃) を超える。平均的な冬には氷点下になり、0°F (-18 ℃) 以下になることもある。過去最高気温は1934年7月20日のキオカックで記録された118°F (48 ℃)、過去最低気温は1996年2月3日にエルケイダーで記録された-47°F (-44 ℃) だった。

州内各都市の月別平均最高最低気温 (°F)
都市 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
ダベンポート 30/13 | 36/19 | 48/29 | 61/41 | 72/52 | 81/63 | 85/68 | 83/66 | 76/57 | 65/45 | 48/32 | 35/20
デモイン 31/14 | 36/19 | 49/30 | 62/41 | 72/52 | 82/62 | 86/67 | 84/65 | 76/55 | 63/43 | 48/31 | 34/18
キオカック 34/17 | 39/21 | 50/30 | 63/42 | 73/52 | 83/62 | 87/67 | 85/65 | 78/56 | 66/44 | 51/33 | 33/21
メイソンシティ 24/6 | 29/12 | 41/23 | 57/35 | 69/46 | 79/57 | 82/61 | 80/58 | 73/49 | 60/37 | 43/25 | 28/11
スーシティ 31/10 | 35/15 | 47/26 | 62/37 | 73/49 | 82/59 | 86/63 | 83/63 | 76/51 | 63/38 | 46/25 | 32/13
[1]

州内の雨量の分布では比較的なだらかな勾配を描いており、南東部の年間雨量は38インチ (970 mm) 以上、北西部は28インチ (710 mm) 未満となっている。夏季に雨が多いのは州内共通である。州内のほぼ中央にあるデモイン市で、4月から9月に年間降水量34.72インチ (882 mm) の3分の2以上が降っており、年間降水量の半分は5月から8月の間に降る。

人口動勢

アイオワ州の人口密度図
【人口推移】

【年】
【人口】
の推計では2011年7月1日時点のアイオワ州人口は 3,062,309 人であり、2010年国勢調査から0.52%の増加だった。国内50州の中で人口では第30位である。

住民の72.2%はアイオワ州内の生まれであり、23.2%はアメリカ合衆国の中の他州生まれ、0.5%はプエルトリコ、アメリカ領島嶼地域生まれ、またはアメリカ人の両親のもとに海外での生まれ、4.1%は外国の生まれだった。

2008年時点の推計で、アイオワ州人口は3,002,555人、前年より約19,000人、0.6%増加し、2000年より76,000人、2.6%増加していた。この年はアイオワ州の人口が初めて300万人を超えたときだった。2007年では2000年国勢調査からの自然増53,706人 (出生197,163人、死亡143,457人) があり、州外への移住によって11,754人が減少していた。その内訳として国外からの転入者は 29,386 人増だったが、国内他州への転出者が 41,140 人減だった。

アイオワ州の人口の6.1%は5歳以下であり、22.6%が18歳以下、14.7%が65歳以上である。女性は人口のおよそ50.8%である。州平均の人口密度は52.7人/平方マイル (20.3 人/km) である。

アイオワ州の人口重心マーシャルタウン市がある、マーシャル郡となっている。

人種及び祖先

アイオワ州の人種的な構成は以下の通りである。

州内で申告された祖先による構成比は、ドイツ系 (35.7%)、アイルランド系 (13.5%)、イギリス系 (9.5%)、アメリカ人 (6.6%)、ノルウェー系 (5.7%)だった。

田園部から都市部への人口移動

2000年時点でアイオワ州住民の61%は都市部に住んでおり、田園部から都市部に移る傾向は20世紀初期に始まっていた。2000年から2008年の間に都市部人口は8.5%増えたのに対し、田園部人口は4.2%減少した。この人口移動によって、ダラス郡ジョンソン郡リン郡ポーク郡スコット郡等の都市化郡で人口増加が進み、逆に田園部郡は減少した。

アイオワ州は中西部各州(特にカンザス州、ネブラスカ州、ノースダコタ州サウスダコタ州)と共に田園部の過疎化を痛感しているが、州人口は1990年頃から増加している。デニソンやストームレイクのような小さな町では、人口流出を移民労働者で補っている。

もう1つの問題は頭脳流出である。教育を受けた若者はさらに高い教育や就職の機会を求めて他州に出て行く傾向にある。1990年代、単身の教育を受けた若者が他州に出て行く率を見ると、ノースダコタ州に次いで第2位だった。このことは経済的な手詰まりや、残った市民に対するサービスの低下に繋がっている。

言語

アイオワ州民の94%が英語を話しており、最も普通に使われる言語である。ウィリアム・ラボフとその同僚による「北アメリカ英語地図」によれば、アイオワ州で話されている英語には2つの大きな地域区分がある。スーシティ、フォートドッジ、ウォータールー各市を含む州北部生まれの者は、北中部アメリカ英語と呼ばれる方言を話す傾向にある。これはノースダコタ州、サウスダコタ州、ミネソタ州、ウィスコンシン州、ミシガン州でも聞かれるものである。カウンシルブラフス、ダベンポート、デモイン、アイオワシティ各市など州中部と南部では、北ミッドランド英語と呼ばれる方言を話す傾向にある。これはネブラスカ州、イリノイ州中部、インディアナ州中部でも聞かれる。

英語に続いてはスペイン語が多く話されている。州内にはヒスパニックあるいはラテン系出身住民が12万人おり、47,000人はラテンアメリカ生まれである。第3位がドイツ語であり、17,000人が話している。ドイツ語にも2つの方言があり、アマナ・コロニー周辺で話されるアマナ・ドイツ語と、アーミッシュの間で話されているペンシルベニアドイツ語である。他の言語話者で州人口の0.5%を超えるものはない。インディアンの言語では、メスクワキ・セトルメント周辺で使われるメスクワキ語がある。

宗教

出典:wikipedia
2019/06/19 10:09

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