このキーワード
友達に教える
URLをコピー

アップル_(企業)とは?

アップルインコーポレイテッド
Apple Inc.

Apple Park

種類
株式会社
【市場情報】
NASDAQ AAPL

【略称】
Apple
【本社所在地】
アメリカ合衆国
カリフォルニア州クパチーノ市
アップル・パーク・ウェイ1番地
(アップル・パーク)
北緯37度20分06秒 西経122度0分32秒 / 北緯37.33500度 西経122.00889度 / 37.33500; -122.00889座標: 北緯37度20分06秒 西経122度0分32秒 / 北緯37.33500度 西経122.00889度 / 37.33500; -122.00889
【設立】
1976年4月1日
業種
電気機器
【事業内容】
iPhoneiPadiPodMacApple WatchApple TVHomePod
macOSiOSwatchOStvOS
App StoreApple MusiciTunesApple PayiCloudAirPodsApple Cardの開発、販売等
【代表者】
アーサー・レビンソン会長
ティム・クックCEO
en:Jeff Williams (Apple)COO
【資本金】
US$128.249 billion (2016)
【売上高】
US$215.639 billion (2016)
【営業利益】
US$60.024 billion (2016)
【純利益】
US$45.687 billion (2016)
【総資産】
US$321.686 billion (2016)
【従業員数】
132,000人(2018年末時点)
【支店舗数】
453店舗(2015年3月時点)
【決算期】
9月30日
【主要子会社】
クラリス
ビーツ・エレクトロニクス
Anobit
Braeburn Capital
【関係する人物】
スティーブ・ジョブズ(共同創業者、第6代元CEO、元会長)
スティーブ・ウォズニアック(共同創業者)
ジョナサン・アイブ(元チーフ・デザイン・オフィサー)
アンジェラ・アーレンツ(元小売・オンラインストア担当上級副社長)
フィリップ・シラー(ワールドワイドマーケティング担当上級副社長)
クレイグ・フェデリギ(ソフトウェア担当上級副社長
スコット・フォーストール(元iOS担当上級副社長)
トニー・ファデル(元iPod担当上級副社長)
ダン・リッキオ(ハードウェア担当上級副社長)
アル・ゴア(社外取締役)
【外部リンク】
www.apple.com/jp/(AppleJapan合同会社(日本)版)

アップル(: Apple Inc.)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州に本社を置く、インターネット関連製品、デジタル家庭電化製品および同製品に関連するソフトウェア製品を開発、販売するアメリカ多国籍企業である。2007年1月9日に、アップルコンピュータ(Apple Computer, Inc.)から改称した。

目次

  • 1 概要
  • 2 歴史・沿革
    • 2.1 創業とApple I
    • 2.2 法人化とApple II
    • 2.3 株式公開とApple III・Lisa
    • 2.4 Macintoshの発表
    • 2.5 ジョブズとウォズニアックの離脱
    • 2.6 Newton
    • 2.7 業績低迷期とMacintosh互換機
    • 2.8 Apple売却交渉
    • 2.9 OS開発の失敗・NeXT買収
    • 2.10 ジョブズの復帰
    • 2.11 iMac
    • 2.12 Mac OS X(後にOS Xに改称、現macOS)
    • 2.13 iPod
    • 2.14 iPhone
    • 2.15 iPad
    • 2.16 ジョブズ退任と死去
    • 2.17 法人向けビジネスの拡充と異業種提携
    • 2.18 環境への取組みと太陽光発電事業
    • 2.19 Apple Park
    • 2.20 データセンター
    • 2.21 コンテンツデリバリネットワーク
  • 3 歴代CEO
  • 4 製品・事業
    • 4.1 ハードウェア
    • 4.2 ソフトウェア・サービス
    • 4.3 過去の製品
  • 5 社名とロゴマーク
    • 5.1 社名
    • 5.2 ロゴ
  • 6 CM
  • 7 Apple Store
  • 8 サポート
  • 9 Apple Japan合同会社
    • 9.1 歴代社長
    • 9.2 取扱店
  • 10 騒動・不祥事
    • 10.1 アップル対アップル訴訟
    • 10.2 電子書籍の価格操作で独禁法違反
    • 10.3 スイス連邦鉄道の時計デザイン盗用問題(和解)
    • 10.4 島野製作所との訴訟(アップル勝訴)
    • 10.5 子会社の源泉徴収漏れ
    • 10.6 iPhone販売契約における独禁法違反の疑い
      • 10.6.1 補足
    • 10.7 iPhoneの地図アプリにおける竹島表記問題
  • 11 脚注
    • 11.1 注釈
    • 11.2 出典
  • 12 参考文献
  • 13 関連項目
  • 14 外部リンク

概要

アップル・キャンパス

ハードウェア製品として、スマートフォンiPhoneタブレット型情報端末iPadパーソナルコンピュータMacintosh(Mac)、携帯音楽プレーヤーiPodウェアラブルコンピュータApple Watch、ソフトウェア製品としては、オペレーティングシステムmacOSiOSwatchOStvOS、iPadOS クラウドサービスとしてはiCloudなどの開発・販売を行っている。

直営店のApple StoreApple Online Storeにおいてハードウェアとソフトウェアの販売を行っているほか、音楽、映画、テレビ番組、アプリ電子書籍Podcastなど広範囲のデジタルコンテンツのダウンロード販売を提供している。現在の売り上げの半分以上を占めるのは創業事業のパソコン部門ではなく、iPhoneおよびiPadを中心とした携帯端末事業である。専門の音楽・映画産業向けソフトウェア製品の大手の提供元でもある。

1976年4月1日に “Apple Computer Company” として創業し、1977年1月3日に法人として設立されて以来は長きにわたり “Apple Computer, Inc.” と名乗っていたが、2007年1月9日(PST)に主力事業の変化を反映させ、現社名の“Apple Inc.”に改称した。

2012年8月20日、株式時価総額が6,230億ドルを超え、マイクロソフト社が1999年12月30日に記録した史上最高額を更新し、さらに2018年8月2日、株式時価総額が米国企業として史上初の1兆ドルを超え、最高額を再更新した。

スコット・ギャロウェイの著書The Four: The Hidden DNA of Amazon, Apple, Facebook, and Googleの翻訳本に日本独自でつけられたタイトル『the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』から、GAFAという呼称でまとめて呼ばれ、AmazonFacebookGoogleとともに世界的な巨大企業のひとつであるとの認識が広がっている。

歴史・沿革

詳細は「アップルの歴史」を参照

創業とApple I

コンピュータ歴史博物館に展示されるApple I。Apple Iはむき出しのマザーボードとして販売され、使用するにはキーボードモニタを用意して組み立てる必要があった。

1975年、大学を中退しアタリの技術者として働いていたスティーブ・ジョブズと、その友人でヒューレット・パッカード(HP)に勤務していたスティーブ・ウォズニアックは、シリコンバレーのコンピュータマニアによる「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ (HCC)」の会合に頻繁に参加していた。ウォズニアックは、当時HCCで高く評価されていたIntel 8080の代わりに、安価なMOS 6502を処理装置とするコンピュータの自作を開始し、1976年3月までにApple Iの原型となるマシンを独力で完成させた。ウォズニアック自身はマシンの回路図をHCCで無料配布することを望んでいたが、ジョブズはその商業的可能性に興味を抱き、このコンピュータを利用してビジネスを始めるべきだと訴えた。2人は当初、それぞれの勤務先であるHPとアタリにマシンの製品化を提案したが却下されたため、自ら起業してプリント配線板の製造・販売を行うことにした。

1976年4月1日、ジョブズとウォズニアックにロナルド・ウェインを加えた3人は、共同で「アップルコンピュータ・カンパニー(Apple Computer Company)」を創業した。アタリで製図工として働いていたウェインは、株式の10パーセントを持つことを条件としてジョブズに誘われ会社に加わった(ジョブズとウォズニアックはそれぞれ45パーセントの株式を所持した)。ウェインはアップル社の最初の製品であるApple Iのマニュアルを作成したほか、リンゴの木とアイザック・ニュートンが描かれた最初期のロゴマークをデザインした。

個人以外の販路を求めたジョブズは、マウンテンビューのコンピュータ店「バイトショップ(Byte Shop)」の経営者ポール・テレルにApple Iを売り込んだ。強い興味を持ったテレルはすぐにApple Iを50台注文し、納品時に1台につき500ドル(合計2万5,000ドル)を現金で支払うと約束したが、テレルが注文したのはApple Iのプリント配線板ではなく、パーツがすべて装着済みの完成品だった。手持ちの資金では必要な数の部品が購入できなかったため、ジョブズらは部品サプライヤーを説得して30日間の支払猶予つきでパーツを購入し、懸命な作業で29日後には50台のApple Iを完成させ、テレルの店に納品して約束の代金を受け取った。

Apple Iは1976年7月から希望小売価格666.66ドルで市販され、最終的に約200台が製造された。創業者の1人であったウェインは、ジョブズの野心的な経営方針に不安を抱いたため、800ドルを受け取って所有する株を放棄し、1976年4月12日にアップルを自主退社した。

法人化とApple II

1979年6月に登場したApple II Plus。同年10月に発売されたApple II専用表計算ソフトVisiCalc」の大ヒットは販売を大幅に増加させた。

テレルとの取引で手応えを得たジョブズは事業拡大を望み、そのために多額の資金が必要となった。ジョブズはセコイア・キャピタルの創業者ドン・バレンタインに会って融資を求めたが、バレンタインはアップルコンピュータへの投資に興味を持たず、代わりに自分の元部下で、個人投資家として財を成していたマイク・マークラを紹介した。マークラはジョブズの野心とウォズニアックの技術的才能に心を動かされ、1976年11月からアップルに加わった。マークラは自分の個人的資産から9万2,000ドルを投資したほか、バンク・オブ・アメリカから25万ドルの信用供与を確保した。

1977年1月3日、アップルコンピュータは法人化され、“Apple Computer, Inc.” となった。マークラはアップルの成長には経験豊富な経営者が不可欠と考え、ナショナル セミコンダクターから元同僚のマイケル・スコットを引き抜いて初代社長兼CEOの座につけた。スコットは1977年2月からアップルでの仕事を始め、社員番号を入れた社員証を発行するなど、会社をより組織的にするための施策を実行した。他方、ウォズニアックはApple Iの改良を着々と進めており、1976年8月末の時点で後継機となる「Apple II」のプロトタイプを完成させていた。

Apple IIは1977年4月16日にウェスト・コースト・コンピュータ・フェアで発表され、小売価格1,298ドルで発売された。Apple IIの販売は当初から好調だったが、1978年7月に発売された専用フロッピーディスクドライブ「Disk II」と、1979年10月に発売された専用の表計算ソフトVisiCalc」が大ヒットを記録し、Apple IIの販売台数は爆発的に増加した。1980年には設置台数で10万台、1984年には設置ベースで200万台を超え、アップルに莫大な利益をもたらした。

株式公開とApple III・Lisa

1980年に発売されたApple III。純正モニタのApple Monitor IIIを上に載せている。
1983年に発売されたLisa。当時としては先進的な機能を装備していたが、価格の高さから商業的には失敗した。

1980年12月12日、アップルコンピュータは新規株式公開(IPO)を行い、1956年に自動車会社フォードが行ったIPO以来となる記録的規模の資金調達を果たした。このIPOにより、ジョブズは約2億5,600万ドルの個人資産を手に入れた。

株式公開に先立つ1980年5月、アップルはビジネス向けに特化されたApple IIIを発表し、巨大企業IBMに商用コンピュータ市場で挑戦を仕掛けたが、4,340–7,800ドルという価格設定の高さと、ハードウェアの設計上の欠陥がわざわいし、Apple IIIは極度の販売不振に陥っていた。他方、IBMは1981年8月にIBM PCを発表してパーソナルコンピュータ市場へ参入し、アップルとIBMの競争は激化した。

ジョブズは1979年12月にゼロックスパロアルト研究所(PARC)を見学しており、そこで見たマウスによって操作される先進的なグラフィカルユーザインタフェース(GUI)に強い印象を受けた。ジョブズは当時アップルで開発中だった次世代コンピュータ「Lisa(リサ)」にPARCで目にしたようなGUIを実装することを決意し、設計への介入を強めたが、Lisaプロジェクトはジョブズの過剰な介入によって混迷することとなり、ジョブズはスコットら経営陣の判断で1980年9月にLisaの開発チームから外された。

1981年、ジョブズとの対立を深めたスコットは社長兼CEOを辞任することとなり、同年7月にはアップルを去った。1981年3月からはマークラが暫定的にCEOとなっていたが、ジョブズはスコットの後任としてマーケティングに優れた経営者を連れてくる必要に迫られた。1983年、ジョブズはペプシコーラからジョン・スカリーを引き抜いてアップルの新CEOに就けたが、スカリーを説得する際にジョブズが用いた「このまま一生、砂糖水を売り続ける気なのか?世界を変えるチャンスに賭けてみる気はないのか?」というフレーズはのちに有名となった。他方、開発の遅れたLisaは1983年1月にようやく発売された。Apple IIIの販売不振が続き、主力製品であるApple IIも次第にIBM PCにシェアを奪われる中で、GUIやマウスなど革新的機能を備えるLisaへのアップルの期待は大きかったが、9,995ドルという極端な高価格とソフトウェア互換性の欠如がユーザーを遠ざける結果となり、LIsaはApple IIIと同じく商業的な失敗作に終わった。

Macintoshの発表

1984年に発売された初代Macintosh

1980年秋にLisaの開発チームから外された後、ジョブズはジェフ・ラスキンが立ち上げた新型コンピュータ「Macintosh(マッキントッシュ)」のプロジェクトに参画した。Macintoshの開発は1979年9月に始まり、1,000ドル程度の安価な一般向けコンピュータというコンセプトの元で進められていたが、ジョブズはLisaに匹敵するGUIを持つ高性能なマシンへの方向転換を主張し、性能よりも価格の抑制を重視するラスキンとは激しく対立した。最終的に、ラスキンはジョブズとの争いに敗れて1981年1月にプロジェクトのリーダーを降りることとなり、1982年3月にはアップルを去った。Lisaプロジェクトに強い対抗心を抱いていたジョブズは、Macintoshの開発をアップル本社とは独立したプロジェクトとして推し進め、「海軍に入るより、海賊であれ(It's better to be a pirate than to join the navy)」などと説いて開発メンバーの連帯感と反骨精神を鼓舞した。

長い開発期間を経て、Macintoshは1984年1月24日に発売された。2日前の1月22日には、第18回スーパーボウルの放送でリドリー・スコットによる有名なテレビCM『1984』がオンエアされており、Macintoshには大きな注目が集まった。アップルによって The computer for the rest of usとして打ち出されたMacintoshは、一般向けPCとしては初めてマウス操作によるGUIを搭載しており、当初はメディアからの称賛を浴び、1984年4月末の時点で5万台を売り上げるなど販売も非常に好調だった。しかし、2,495ドルという価格が一般向けPCとしては高額であったことと、対応ソフトの不足がわざわいし、発売から数カ月が過ぎるとMacintoshの販売は停滞し始め、開発担当者であるジョブズとスカリーらアップル経営陣との関係も悪化した。

スカリーはジョブズをMacintosh部門から降ろすことを決定し、1985年4月には取締役会から全会一致の承認を得た。この決定に反発したジョブズは、スカリーが中国に出張する隙に彼を解任することを画策したが、スカリーはフランス法人のトップであるジャン=ルイ・ガセーから事前にジョブズの計画について知らされ、出張をキャンセルし重役会議でジョブズと対峙した。会議では、その場に居たアップルの重役の全員がスカリーへの支持を表明し、その後取締役会もスカリーへの支持を表明したため、ジョブズは1985年5月31日に全ての業務から外され、何の実権も持たない会長職を与えられた。

ジョブズとウォズニアックの離脱

1985年9月、ジョブズは当時所有していたAppleの株を1株だけ残して約650万株をすべて売却し、NeXT社を創立した。それと同時にスカリー宛てに郵送で辞職願を提出し、会長職も辞任した。2010年の記事で、スカリーは一番後悔していることとして、ジョブズを辞任に追い込んだことを挙げている。ウォズニアックもまた、別の事業を始めるため1985年前半にアップルを(ジョブズよりも先に)離れていた。その際、ウォズニアックはアップルがApple II部門を冷遇してきたことへの不満を表明し、会社が「過去5年間ずっと間違った方向に進んでいる」と述べた。

ジョブズとウォズニアックが去った1985年、アップルはMacintosh向けにキヤノンと共同開発したレーザープリンターであり、アドビシステムズが開発したPostScriptを搭載したLaserWriterを登場させ、コンピュータ上で描いた文字や絵を出力する際にドットの粗いディザを表示させることなく、きれいなアウトラインで出力することを可能にした。また、アルダス社(現・アドビシステムズ)の開発したPageMakerとMacintosh、レーザーライターを組み合わせることで、DTPという市場を創造した。精巧なタイポグラフィ機能を備えていたMacintoshは、DTP用コンピュータとして圧倒的な人気を博し、アップルは初期のDTP市場を事実上独占することに成功した。ジョブズに代わってMacintosh部門のトップに立ったガセーは、55パーセントの利益率という目標を意味する「55か死か (fifty-five or die)」というスローガンを掲げてMacintosh製品の値上げを実行し、1980年代後半のアップルで高価格・高利益率路線を推し進めた。高価格で販売された「Macintosh II」などの新型モデルは高い利益率を提供し、DTP市場での人気を背景に当初は売上高にも減少は見られなかった。さらに、アップルは外部のソフト会社にマック用のソフト開発を説得する職種であるエバンジェリスト(宣伝部)を作り、ガイ・カワサキらを任命した。

Newton

Newton(左)とiPhone(右)

スカリーは、Macintosh以外にAppleの柱となる製品が必要だと感じていた。スカリーはコンピュータの未来像としてKnowledge Navigatorというものを描いていた。これは、コンピュータがユーザの優秀な秘書をこなし、言葉や簡単なリモコン操作のみで自由自在に操れるというもので、この後の予定を教えてくれたり、電話を取り次いだり家にいながら会議を行ったりすることができる。Appleは、ナレッジ・ナビゲータを仮想ではない近未来のコンピュータとして提案した。

一方、スティーブ・サコマンはガセーの許可を受け1987年ごろにはNewtonと呼ばれるPDA開発のプロジェクトを開始していた。スカリーはこのNewtonに自身のナレッジ・ナビゲータを感じ取り、開発に力を入れるようになっていった。

1990年、スカリーはMac OS互換機(後述)およびニュートンの方向性をめぐってガセーと対立することとなる。ガセーを辞職させたあと、スカリー自身は技術者でないにもかかわらずAppleのCTO (最高技術責任者)に着任した。そして1992年、CPU にARMを採用し、スタイラスによる手書き認識などを実現したPDA、Newton Messagepadを発表した。

初代Messagepadはシャープと共同開発され、シャープにとってはのちのザウルスのヒットへとつながることとなる。世界初のPDAとなったMessagepadはNewton OSという独創的なOSを採用し、ペンデバイスで入力した文字をそのままテキスト文書として保存できることが特徴だった。それ以外にもフリーハンドで書いた文字や絵を保存する作業をせずに電源を落としても、電源投入後にはそのままの文字や絵を表示させることができ、紙のメモ帳にとって変わる新しいコンピュータの方向性を示したものといえる。しかし、ビジネスとしては失敗した。

業績低迷期とMacintosh互換機

 | 
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年7月)

ジョブズがAppleを去ったのに前後して、1985年6月25日にスカリーとハード担当責任者であったガセー宛に、マイクロソフトビル・ゲイツから「AT&Tヒューレット・パッカードソニーなど有力メーカーにMacintoshのOSをライセンスするべきで、ゲイツ自身もその手助けを惜しまない」という内容の手紙が送られた。ゲイツは自社でのOS開発凍結も考えていたほど本気だったようだ。

スカリーはOSライセンスの可能性について調査を指示したが、ガセーを筆頭にした技術陣からの猛反対を受けてこの提案は闇に葬られた。

その後、パソコン用の16ビットCPUは逐次32ビットに移行していく。Appleの採用したモトローラ系ではMC68000MC68020MC68030MC68040と推移していく。モトローラのCPUは最初のMC68000から、32ビットへ容易に移行できるように設計されていた。

Appleはライセンス違反をしているとして、マイクロソフトに対してGUIに対する対価を求めて裁判を起こす。ジョブズが復帰(後述)する頃まで裁判は長引き、その時点ではAppleに対して不利な裁定が下る事になる。しかしその数年前、ゼロックスがAppleに対して同様の裁判を起こし、ゼロックスに対して不利な裁定が下っている事も有り、熱心なマッキントッシュ・ユーザは複雑な心境を抱いていた。

AppleはマイクロソフトのMicrosoft Windowsに対して市場競争を模索する。これより68000系以外のCPUアーキテクチャへの移行である。その1つx86系への移植プロジェクトであるスタートレックが、1992年ごろにノベルの協力を得て開始される。しかし計画は後述のPowerPCに専念するため中断され、日の目を見ることはなかった。

1992年、スカリーはIBMと交渉し、同年AppleはIBMとモトローラと組んで新しいパーソナルコンピュータのプラットフォーム開発を発表した。IBM PCとマッキントッシュの経緯から、この共同開発発表は西海岸と東海岸の巨頭同士の歴史的和解とも言われた。

新しいPCは、CPUにRISCチップであるPowerPC、OSとしてTaligent(開発コード:Pink)、アプリケーションとしてマルチメディア開発ツール「カライダ」(開発言語ScriptX)からなる予定であった。

初期のPower MacintoshとなったPower Macintosh 6100

技術者が休暇中に趣味で作り上げた68000系エミュレータの出来がよく、またTaligentの開発は困難をきわめたため、1994年、PowerPCと68LC040エミュレータを搭載し、従来の68000系のバイナリプログラムの動作も可能なPower Macintoshシリーズを発表する。それまでの上位機種であったQuadraをベースにしており、メモリに72pinSIMM、拡張スロットバスにNuBusを採用するなど、ハードウェアの互換性も計られていた。しかし当時のMac OS(System 7.1.1や7.5.2)はバグが多く、たびたびエラーやフリーズを起こし、快適さと相反する不安定さも兼ね備えていた事実は否定出来ない。Mac OS 7.6までにはその不安定さは解消され、その後しだいに信頼性は向上したが、Mac OS 9.2.2に至るまで100パーセントのPowerPCコードで作られたOSとはならず、メモリ保護もない脆弱さもそのままであった。これらの問題が完全に解消されたシステムは2001年のMac OS Xの登場まで待たねばならなかった。

1994年にAppleは、モトローラ、IBMなどにMacintoshのライセンスを与え、互換機ライセンスを開始する。1995年にパワーコンピューティングパイオニアが初のMac OS互換機を発表すると、akia、UMAX、ラディウスなどが続々と参入した。しかし、PC/AT互換機からの市場奪還は進まず、互換機がMacintoshのシェアを浸食するという結果となった。

1995年後半になると、マイクロソフトはWindows 95を販売開始する。Windows 95は、Macintoshに似たGUIを搭載し、従来のMS-DOS上のWindows 3.1ではなし得なかったデスクトップ環境フォルダ管理のGUI化を果たした。様々な面でDOSのしがらみを依然として引きずっていたWindows 95ではあるが、操作性が3.1以前に比べて大幅に向上したことにより爆発的にヒットし、次期OSであるCoplandの開発に手間取っていたMacintoshの深刻な脅威となった。

Apple売却交渉

 | 
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年7月)

のちに公表されることとなるが、サン・マイクロシステムズとは1988年ごろから合併交渉を行っていた。1990年には、ほぼ合意に達していたが、AppleがIBMとモトローラとの提携を発表したことで白紙に戻ってしまった。その後もAT&Tやコダックと交渉を行うが企業風土の違いでまとまることはなかった。

Newtonや政治(スカリーはビル・クリントンの大統領選挙応援に力を入れていた)など、Macintoshに力を注いでいないスカリーの行為に、Appleの取締役会は不信の目を向けるようになった。1993年に業績が大幅に悪化すると、1993年6月18日、ストックオプションなど約1,000万ドル相当の退職慰労金を手にスカリーはCEOを退任し、Appleのヨーロッパ市場で功績を上げていたマイケル・スピンドラーが新たなCEOに就任する。

1993年にスカリーの後任としてCEOに就任したスピンドラーの仕事は、Apple本社を高く売ることだったとも言われている。

1994年は低価格MacintoshのPerformaシリーズを増産してクリスマスシーズンを迎えたが、スピンドラーはこの需要予測を大きく外すこととなる。リサーチ部門とセールス部門、さらには開発部門までもがそれぞれ大きく対立していたことと、市場ではPower Macintoshなどのハイスペックマシンの需要が高かったにもかかわらず、ロースペックで利益率の悪いPerformaの在庫が日に日に増えていき、需要の高いPower MacintoshやPowerBookが品薄状態で、生産がまったくもって追いついていないと言う最悪の結果となった。

当時のAppleは内部のいざこざがあまりにも多く、悲惨な状態であった。需要予測を外したうえに、スピンドラーの指示を誤解したセールス部門は、ただでさえ利益率の悪いPerformaを赤字でばらまいて売りさばいてしまった。それ以外にもさまざまな要因が重なり、この四半期で赤字は8,000万ドルに達した。

そのころ(1995年)Appleはキヤノンと1株54ドル50セントでの買収交渉を行うが、キヤノンの社長が急死したことも重なり、最終的には実現することはなかった。そしてAppleは再びIBMと交渉の場を持つが、IBMはロータス社を買収しサービスビジネスに会社を方向転換の最中で、Apple買収にはお世辞にも前向きな姿勢とは言えなかった。そのうえ、IBMはどんな買収交渉であっても、結論を出すまでに途方もない時間をかけることが通例で、交渉に入ってもまったく音沙汰がないということが多い企業である。どんな形であってもAppleを売り出したい取締役たちは、そのあまりにも遅いIBMの動きだけに目をとらわれてしまい、実際のIBMの過去の動向にはまったく気付いていなかった。最終的にはIBMとの交渉は決裂してしまい、その後にはフィリップスと1株36ドルで交渉を行うが、フィリップスの役員会であっさりと否決されてしまう。

1996年1月23日の株主総会で、Apple再建策としてマック互換機ライセンスビジネスの加速と人員削減による提案を行うが、株主から辛辣な言葉を浴びせられる。総会後の取締役会でサン・マイクロシステムズのスコット・マクネリも参加し、最後の買収交渉(1988年時とは異なりAppleが吸収される立場)が行われた。マクネリはApple1株につき23ドルを譲らず、買収交渉は頓挫。その後の取締役会で、スピンドラーは責任を取らされる形でCEOの座を下ろされた。

マイク・マークラを筆頭とするAppleの取締役会はスピンドラーの後任として、かつて倒産寸前だったナショナルセミコンダクターを再建し、Appleの社外取締役にも就任していたギル・アメリオをCEOの座につけた。アメリオはのちに、「当時の取締役の(アメリオを除く)全員がAppleをどこに売り渡すかということしか考えておらず、Appleを再建することはみじんも考えていなかった」と語っている。大のMacintoshファンでもあったアメリオは、Appleを売ることしか考えていなかった取締役のほとんどに失望を覚え、Apple再建の道標となるべく一歩を踏み出した。

OS開発の失敗・NeXT買収

 | 
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年7月)

Copland」も参照

MacintoshのOSは、1984年の出荷以降、System 7まで大幅に強化改良されたものの、基本的な部分はほとんど進化していなかった。1990年代に入ると、マルチメディアやネットワークの時代を迎え、従来はミニコンや大型汎用機のOSの機能であったマルチタスク(プリエンプティブマルチタスク)、メモリプロテクション(メモリ保護)、仮想メモリ、ネットワーク機能を備えた“モダンOS”が、次世代のパソコン用OSに必要だと考えられるようになった。

Apple社内で未来志向の“オブジェクト指向OS”として計画された“Pink”は、最終的にIBMと共同で別会社Taligentを設立して開発が進められたが、要求仕様だけが膨らみ続け、道半ばで頓挫した。Pink OSの反省からやり直された新OSが1994年に発表された「Copland」で、System 7.x系と互換性を持たせつつ、革新的なGUI、暫定的なマルチタスク機能と暫定的に改良されたメモリ管理機能を提供し、メモリ4MBのMac Plusでも動作するほどコンパクトというふれこみであったが、その

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2020/02/17 06:43

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「アップル_(企業)」の意味を投稿しよう
「アップル_(企業)」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

アップル_(企業)スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「アップル_(企業)」のスレッドを作成する
アップル_(企業)の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail