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アドルフ・ヒトラーとは?

ドイツ国政治家
アドルフ・ヒトラー
Adolf Hitler

1938年

【生年月日】
(1889-04-20) 1889年4月20日
【出生地】
オーストリア=ハンガリー帝国
オーストリア帝国オーバーエスターライヒ州
ブラウナウ・アム・イン
【没年月日】
(1945-04-30) 1945年4月30日(56歳没)
【死没地】
ドイツ国
プロイセン州ベルリン
【出身校】
基礎学校(小学校)修了
シュタイアー実科学校途中退校
【前職】
画家・軍人・諜報員
【所属政党】
ドイツ労働者党
(1920–1921)
国家社会主義ドイツ労働者党
(1921–1945)
【称号】
第一級鉄十字勲章
第二級鉄十字勲章
戦傷章
血の勲章
黄金ナチ党員バッジ
【配偶者】
エヴァ・ブラウン(1945)
【親族】
ウィリアム・パトリック・ヒトラー
ゲリ・ラウバル
【サイン】

ドイツ国
指導者兼首相(総統)

【在任期間】
1934年8月2日 - 1945年4月30日
ドイツ国首相

【内閣】
ヒトラー内閣
【在任期間】
1933年1月30日 - 1945年4月30日
大統領
パウル・フォン・ヒンデンブルク(1933-1934)
首相職との合一、個人による権限掌握
(1934-1945)
国家社会主義ドイツ労働者党指導者

【在任期間】
1921年6月29日 - 1945年4月30日
ドイツ国国会議員

【選挙区】
オーバーバイエルン=シュヴァーベン
【当選回数】
4回
【在任期間】
1933年3月5日 - 1945年4月30日
その他の職歴

ドイツ国防軍最高司令官
(1938年2月4日 - 1945年4月30日)
陸軍総司令官
(1941年12月19日 - 1945年4月30日)
A軍集団司令官
(1942年9月10日 - 1942年11月23日)
突撃隊最高指導者
(1931年1月1日 - 1945年4月30日)
ナチズム


党組織
国家社会主義ドイツ労働者党
指導者
突撃隊
親衛隊
大管区
大管区指導者
武装親衛隊
親衛隊階級
ヒトラーユーゲント

歴史
ナチス・ドイツ
ミュンヘン一揆
バンベルク会議
全権委任法
権力掌握
長いナイフの夜
ニュルンベルク法
オーストリア併合
T4作戦
水晶の夜
第二次世界大戦
独ソ戦
ヒトラー暗殺計画
ホロコースト
非ナチ化

用語
国家社会主義
25カ条綱領
指導者原理
強制的同一化
民族共同体
支配人種(en)
劣等人種(en)
血と土
第三帝国

書籍・新聞
我が闘争
二十世紀の神話
フェルキッシャー・ベオバハター
シュテュルマー

関連項目
ファシズム
ムッソリーニ
ハーケンクロイツ
ナチス式敬礼
ジークハイル
ナチ党党大会
ナチス左派
旗を高く掲げよ
宗教的側面(en)
積極的キリスト教
強制収容所
ヴァンゼー会議
生存圏
新秩序
レーベンスボルン
プロパガンダ
日独伊三国軍事同盟
退廃芸術
ハウスホーファー
北方人種
トゥーレ協会
反ユダヤ主義
ドイツ系アメリカ人協会
ネオナチ
第四帝国


アドルフ・ヒトラー(ドイツ語: Adolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、ドイツ政治家ドイツ国首相、および国家元首であり、国家と一体であるとされた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者。

1933年に首相に指名され、1年程度で指導者原理に基づく党と指導者による一極集中独裁指導体制を築いたため、独裁者の典型とされる。その冒険的な外交政策は全世界を第二次世界大戦へと導くことになった。また、ユダヤ人などに対する組織的な大虐殺「ホロコースト」を主導したことでも知られる。敗戦を目の前にした1945年4月30日、自ら命を絶った(アドルフ・ヒトラーの死を参照)。

目次

  • 1 概要
  • 2 出自
    • 2.1 ヒトラー家
      • 2.1.1 父母と兄弟
    • 2.2 親族
      • 2.2.1 シックルグルーバー家
      • 2.2.2 ペルツル家
  • 3 生涯
    • 3.1 幼少期
      • 3.1.1 生い立ち
      • 3.1.2 父とのいさかい
    • 3.2 青年期の挫折
      • 3.2.1 リンツでの日々
      • 3.2.2 ウィーンへの移住
      • 3.2.3 放浪生活
      • 3.2.4 ミュンヘンへの移住と逮捕
    • 3.3 第一次世界大戦
    • 3.4 政界進出
      • 3.4.1 ミュンヘン一揆
      • 3.4.2 権力闘争
      • 3.4.3 ナチ党の躍進
    • 3.5 首相就任
    • 3.6 独裁政権
      • 3.6.1 政治
      • 3.6.2 外交と生存圏
    • 3.7 第二次世界大戦
      • 3.7.1 開戦
      • 3.7.2 独ソ戦
      • 3.7.3 守勢転換
      • 3.7.4 暗殺未遂事件
      • 3.7.5 敗戦
    • 3.8 自殺
  • 4 略年表
  • 5 思想
    • 5.1 反ユダヤ主義
    • 5.2 著作
    • 5.3 宗教観
    • 5.4 対日本・日本人観
    • 5.5 ホロコースト
    • 5.6 健康政策
  • 6 政治手法
    • 6.1 演説
    • 6.2 部下の支配
    • 6.3 ヒトラーと軍事
    • 6.4 芸術やメディアの政治利用
  • 7 人物像
    • 7.1 体格
      • 7.1.1 記録
    • 7.2 健康状態
      • 7.2.1 健康法
    • 7.3 対人関係
      • 7.3.1 ベニート・ムッソリーニ
      • 7.3.2 クーデンホーフ=カレルギー
    • 7.4 女性関係
      • 7.4.1 エヴァ・ブラウン
    • 7.5 趣味
      • 7.5.1 芸術
      • 7.5.2 その他
    • 7.6 資産
  • 8 勲章
    • 8.1 国内
    • 8.2 海外
  • 9 逸話
    • 9.1 生存説
    • 9.2 子供
  • 10 創作作品
    • 10.1 映画
    • 10.2 テレビ映画
    • 10.3 テレビ番組
    • 10.4 舞台
    • 10.5 ドキュメンタリー
    • 10.6 小説
    • 10.7 ゲーム
    • 10.8 漫画
    • 10.9 アニメ
  • 11 関連書籍
  • 12 脚注
    • 12.1 注釈
    • 12.2 出典
  • 13 参考文献
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

概要

出生地はオーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州であり、国籍としてはドイツ人ではなくオーストリア人であったが、現在のオーストリア国民の大多数がそうであるようにドイツ民族に属する。1932年にブラウンシュヴァイク州のベルリン駐在州公使館付参事官に任ぜられてドイツ国籍を取得し、ドイツ国の国民となっている。

第一次世界大戦までは無名の一青年に過ぎなかったが、戦後にはバイエルン州において、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)指導者としてアーリア民族を中心に据えた人種主義反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになった。1923年に中央政権の転覆を目指したミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後は合法的な選挙により勢力を拡大した。

1933年には大統領による指名を受けてドイツ国首相となり、首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握した。1934年8月、ヒンデンブルク大統領死去に伴い、大統領の権能を個人として継承した(総統)。こうしてヒトラーという人格がドイツ国の最高権力である三権を掌握し、ドイツ国における全ての法源となる存在となり、ヒトラーという人格を介してナチズム運動が国家と同一のものになるという特異な支配体制を築いた。この時期のドイツ国は一般的に「ナチス・ドイツ」と呼ばれることが多い。

ヒトラーは人種主義優生学ファシズムなどに影響された選民思想(ナチズム)に基づき、北方人種が世界を指導するべき主たる人種と主張していた。またニュルンベルク法や経済方面におけるアーリア化など、アーリア人の血統を汚すとされた他人種である有色人種(黄色人種黒色人種)や、ユダヤ系スラブ系ロマとドイツ国民の接触を断ち、また迫害する政策を推し進めた。またドイツ民族であるとされた者でも、性的少数者退廃芸術障害者、ナチ党に従わない政治団体・宗教団体、その他ナチスが反社会的人物と認定した者は民族共同体の血を汚す「種的変質者」であるとして迫害・断種された(生きるに値しない命)。

さらに1937年の官邸秘密会議や「我が闘争」で示されているように、自らが指導する人種を養うため、旧来の領土のみならず「東方に『生存圏』が必要である」として帝国主義的な領土拡張と侵略政策を進めた。ヒトラー率いるナチス党によるドイツの統治は1939年のポーランド侵攻に始まる第二次世界大戦を引き起こし、一時的に領土を拡大した。この戦争の最中でユダヤ人に対するホロコースト、障害者に対するT4作戦などの虐殺政策が推し進められた。幾度か企てられた暗殺計画を生き延びたが、最終的に連合国の反撃を受け、全ての占領地と本土領土を失いヒトラー率いるドイツ国政府は崩壊した。ヒトラー本人は包囲されたベルリン市の総統地下壕内で自殺したが、その後生存していたという説も存在している(アドルフ・ヒトラーの死)。

出自

ヒトラー家

アロイス・ヒトラー」も参照
母クララ・ヒトラー

ヒトラー家の出自については謎が多く、本人も「私は自分の一族の歴史について何も知らない。私ほど知らない人間はいない。親戚がいることすら知らなかった。(中略)…私は民族共同体にのみ属している」と語っている。出自について詮索される事も非常に嫌い、「自分が誰か、どこから来たか、どの一族から生まれたか、それを人々は知ってはいけないのだ!」と述べており、妹パウラは「兄には一族という意識がなかった」としている。

そもそもヒトラーの実父アロイス・ヒトラーからして出自が不明瞭な人物で、彼は低地オーストリア地方にあるシュトローネス村にマリア・アンナ・シックルグルーバーという未婚女性の私生児として1837年に生まれ、アロイス・シックルグルーバーと名付けられている。父アロイスは祖母マリアが42歳の時に生まれた高齢での出産で、しかもこれが初産であった。さらに祖母は子供の父親として考えられる相手の男性について決して語らず、結果的にアロイスの洗礼台帳は空白になっている。後にマリアはアロイス出産後に粉引き職人ヨハン・ゲオルク・ヒードラーと結婚、アロイスは「継父と母が儲けた婚外子」で後に結婚したのだろうと語っているが、その根拠は示されていない。職人として各地を放浪しながら働いていたゲオルクとマリアに接点があったとは考えがたく、またアロイスはゲオルクの養子にはされずシックルグルーバー姓で青年期まで過ごしている。

暫くしてアロイスは継父の弟で、より安定した生活を送っている農夫ヨーハン・ネーポムク・ヒードラーに引き取られ、義叔父ネーポムクはアロイスを実子のように可愛がった。ちなみに兄弟で名字が異なるが、読み方の違いであって綴りは同じHiedlerと記載されている。もともとHiedlerは「日雇い農夫」「小農」を語源とする姓名で、それほど珍しい姓名でもなかったとされている。「ヒトラー」「ヒードラー」「ヒュードラ」「ヒドラルチェク」などの姓は東方植民したボヘミアドイツ人、およびチェコ人スロバキア人などに見られるとも言われる。

1887年、アロイスは地元の公証人に「自分は継父ヨハン・ゲオルク・ヒードラーの実子である」と申請を出し、教会にも同様の書類を提出した。改姓にあたっては義叔父ネーポムクが全面的に協力しているが、実はネーポムクこそアロイスの実父であったのではないかとする意見もある。それまでシックルグルーバー姓で満足していたアロイスが突然改姓したのは娘しかいなかったネーポムクが隠し子に一家の名と財産を相続させたかったからではないかと推測されており、現実に大部分の遺産を譲られている。あるいは体面を気にするアロイスにとって自身の出自が不明瞭である事を示す、母方のシックルグルーバー姓を忌まわしく感じた可能性もある。改姓前後からアロイスは母方の親族と全く連絡を取らなくなり、娘の一人である末女パウラは親戚付き合いが殆どない事について「父さんにも親族がいないはずはないのに」と不思議がっていたという。

ともかくアロイスは「Hiedler」姓に改姓したが、読み方については「ヒュットラー」でも「ヒードラー」でもなく「ヒトラー」と書かれており、おそらく公証人が読みやすい名前で記載したものと思われる。ちなみに日本で最初に報道された際には「ヒットレル」と表記され(舞台ドイツ語の発音が基になっている)、その後は「ヒットラー」という表記も多く見られた。

父母と兄弟

ヒトラーの家族」も参照
ブラウナウ・アム・インに現存するヒトラーの生家
1898年から1905年までヒトラーが家族と住んだリンツ郊外レオンディングの家

父アロイスは義叔父の下で小学校(国民学校)を出た後、ウィーンへ靴職人として徒弟修行に出向いている。しかしウィーンに出たアロイスは下層労働者で終わる事を望まず、19歳の時に税務署の採用試験に独学で合格して公務員となった。上昇志向が強いアロイスは懸命に働いて補佐監督官や監督官を経て最終的には税関上級事務官まで勤め上げたが、これは無学歴の職員としては異例の栄達であった。40年勤続で退職する頃には1100グルデン以上の年収という、公立学校の校長職より高い給与も勝ち取っていた。アロイスはこうした成功から人生に強い自尊心を持ち、親族への手紙でも「最後に会った時以来、私は飛躍的に出世した」と誇らしげに書いている。また軍人風の短髪や貴族然とした厳しい髭面を好み、役人口調の気取った文章で手紙を書くなど権威主義的な趣向の持ち主であった。

アロイスは性に奔放な人物で、生涯で多くの女性と関係を持ち、30歳の時にはテレジアという自分と同じような私生児を最初の子として儲けており、生物学的には彼女がヒトラーの長姉となる。1873年、36歳のアロイスは持参金目当てに裕福な独身女性の50歳のアンナ・グラスルと結婚したが、母マリアのような高齢出産しか望みのないグラスルとは子を儲ける事はなかった。代わりにアロイスは召使で未成年の少女だったフランツィスカを愛人とし、1880年に事実を知った妻アンナからは別居を申し渡されたが、人目も憚らずフランツィスカを妻の様に扱って同棲生活を送った。1883年、最初の妻アンナの死後にアロイスはフランツィスカと再婚して結婚前に生まれていた長男をアロイス・ヒトラー・ジュニア(アロイス2世)として正式に認知、続いて結婚後に長女アンゲラ・ヒトラーを儲けた。だがアロイスは既にフランツィスカへの興味を失いつつあり、新しい召使であったクララ・ペルツルを愛人にしていた。

クララの父はヨハン・バプティスト・ペルツル、母はヨハンナ・ペルツルという名前だったが、このうち母ヨハンナ・ペルツルの旧姓はヒードラーだった。彼女は他でもないアロイスの義叔父であり、実父とも考えられるヨーハン・ネーポムク・ヒードラーの娘であった。もしアロイスがゲオルクの子であったとすればクララとは従姪の間柄となり、ましてネーポムクの子であればですらあった。しかも彼女はアロイスより23歳年下と親子ほどの年齢差だった。フランツィスカはアンナの二の舞を恐れて結婚前にクララを家から追い出したが、フランツィスカが病気で倒れるとアロイスの手引きでクララは召使として再び入り込んだ。

1884年、二番目の妻が病没すると1885年1月7日に47歳のアロイスは24歳のクララと三度目の結婚を行った。少なくとも法的には従姪である以上、結婚には教会への請願が必要であったので「血族結婚に関する特別免除」をリンツの教会に申請して、ローマ教皇庁から受理されている。クララは結婚から5か月後に次男グスタフを生み、続いて1886年に次女イーダ、1887年に三男オットーを生んだが三子は幼児で亡くなっている。1889年、四男アドルフ(ヒトラー)が生まれ、長男アロイス2世とともに数少なく成人したヒトラー家の子となった。1894年に五男エドムント、1896年に三女パウラが生まれている。

後に長男アロイス2世はブリジット・ダウリングという女性と結婚してウィリアム・パトリック・ヒトラーを儲け、また長女アンゲラは父と同じ税務官であったレオ・ラウバルと結婚して三子を儲けたが、その一人がゲリ・ラウバルである。

また、上記にあるようにヒトラーの父のアロイスが婚外子ということで、ヒトラーが政権を把握すると彼自身が「ユダヤ系」ではないかと巷の噂が流布されたが、ヒトラーの死後の史家による徹底的な調査の結果、否定されている(下記も参照)。

親族

シックルグルーバー家

マリア・シックルグルーバーの生涯と出産、そしてアロイスの改姓や母方の一族を避けるという謎の多い行動は「何かを隠している」として噂の対象となった。父アロイスが10歳の時に祖母マリアは亡くなったが、彼女の出産経緯は息子のアロイスだけでなく、孫のヒトラーにも「出自の謎」として付いて回る事になる。顧問弁護士であり、ポーランド総督でもあったハンス・フランクは、1930年に異母兄アロイス2世の子である甥のウィリアム・パトリック・ヒトラーから「ヒトラーがユダヤ人の私生児であるという話に新聞が興味を持っている」と脅しをかけられた事にヒトラーが動揺し、家系調査を行わせていたと証言している。

フランクの調査結果は「マリアはグラーツのユダヤ人資産家、フランケンベルガー家に奉公に出ていた時期にアロイスを産んでおり、子息レオポルト・フランケンベルガーから14年間養育費を受け取っていた」として、アロイスの父親がレオポルトであると見られるというものであった。フランクの「フランケンベルガー実父説」は1950年代まで広く信じられていたが、次第に史学上の根拠に欠けると指摘されるようになった。またフランクは「ヒトラーは由緒正しいアーリア系である」と矛盾する証言もしている。

1932年にはオーストリアの首相エンゲルベルト・ドルフースがヒトラーの家系を調査させ、「ハイル・シックルグルーバー」という記事を載せた新聞を配布し、攻撃材料としたこともある。またニコラウス・フォン・プレラドヴィッチはアロイス出生時のグラーツでユダヤ系住民がすでに追放されていたことからこの説を否定し、1998年には歴史学者でヒトラー研究の第一人者であるイアン・カーショーも「政治的な攻撃材料以外のものではない」と結論している。

2010年には、ヒトラーの近親者から採取したDNAを分析した結果、西ヨーロッパ系には珍しく、北アフリカのベルベル人やソマリア人、ユダヤ人に一般的に見られる形の染色体があるという調査結果が発表されたと報道されたが、当の記事が報じた研究者からこの報道内容に疑義が呈されている。むしろこの研究の結果、父アロイスがヒトラー家の血を引いていることが確実となった。

ペルツル家

父方のシックルグルーバー家と並んでヒトラーの悩みの種であったのが、母方のペルツル家であった。祖母と同名であるために、ヒトラー家からは「ハンニおばさん」の渾名で呼ばれていた母の妹ヨハンナ・ペルツルは重度の猫背(くる病)で精神疾患も患っていた。ハンニは妹一家から家事手伝いや甥や姪の面倒を任され、特に姉からは頼りにされていたが、ヒトラー家の家政婦ヘルルからは「頭のいかれたせむし女(ハンニ)」と陰口を叩かれている。ハンニを診察したブラウナウの医師は現代的な呼称で言えば統合失調症に相当する症状が出ているとの診断を下し、ヒトラー家かかりつけの医師エドゥアルド・ブロッホもヒトラー家はヨハンナを周囲から隠していたと証言し、「恐らく軽度の精神薄弱である」と診断している。

後年にT4作戦で劣等人種や障碍者と並んで精神患者を抹殺しようとしたナチスやヒトラーにとって、その親族に精神患者が存在したという過去は隠さねばならなかった。ナチ政権下の歴史家たちはヒトラー家の顕彰に努めたが、ペルツル家の存在だけは殆ど触れられていない。ちなみにペルツル家以外にも低地オーストリアヴァルトフィアテル地方にはペルツル家の親族が幾らか点在しているが、一族という概念を嫌うヒトラーからはその存在を殆ど無視されていた。にも関わらず彼ら一族郎党は後年「アドルフ・ヒトラーの血族」として迫害を受ける事になった。

生涯

幼少期

生い立ち

幼少期の写真
ヒトラー(最後列の中央)が10歳から11歳まで通った小学校の集合写真

1889年4月20日の午後6時30分、当時ヒトラー家が暮らしていたブラウナウにある旅館ガストホーフ・ツー・ボンマーでアロイス・ヒトラーとクララ・ヒトラーの四男として出生、2日後の4月22日にローマ・カトリック教会のイグナーツ・プロープスト司教から洗礼を受け、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と名付けられた。洗礼には叔母ハンニと産婆ポインテッカーの二人が立ち会っている。

ヒトラーが3歳の時に一家は別の家に引っ越して、ドイツ帝国バイエルン王国パッサウ市へ転居している。バイエルン・オーストリア語圏の内、オーストリア方言からバイエルン方言の領域へ移住したことになった。彼の用いるドイツ語には標準ドイツ語と異なる独特の「訛り」が指摘されるが、それはバイエルン人としての出自ゆえのことである。幼いヒトラーは西部劇に出てくるインディアンの真似事に興じるようになった。また父が所有していた普仏戦争の本を読み、戦争に対する興味を抱くようになった。1895年、リンツに単身赴任していたアロイスが定年退職により恩給生活に入ると、一家を連れてハーフェルト村という田舎町に引越し、屋敷を買って農業と養蜂業を始めている。ヒトラーはランバッハの郊外にあったフィッシュルハムの国民学校(小学校)に通った。

1896年、異母兄アロイス2世が父との口論を契機に14歳で家から出て行き、二度とヒトラー家には戻らなかった。異母弟ヒトラーや継母と折り合いが悪かった事も一因と見られている。跡継ぎとなったヒトラーは1897年まで国民学校に在籍した記録が残っているが、フィッシュルハム移住後から学校の規律に従わない問題児として、ヒトラーも父と諍いを起こすようになった。1897年、父親の農業は失敗に終わり、一家は郊外の農地を手放してランバッハ市内に定住している。ヒトラーもベネディクト修道会系の小学校に移籍し、聖歌隊に所属するなどキリスト教を熱心に信仰して、聖職者になることを望んだ。ベネディクト修道会の聖堂の彫刻には後にナチスのシンボルマーク章として採用するスワスチカが使われていた。本人によれば、信仰心というよりも華やかな式典や建物への憧れが強かったようである。

1898年、ランバッハからも離れてリンツ近郊の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/05/26 10:04

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