このキーワード
友達に教える
URLをコピー

アニメの歴史とは?

アニメの歴史(アニメのれきし)では、とくにことわりがなければ基本的に日本のアニメーション(アニメ)史について扱う。アニメーション映画テレビアニメも参照のこと。

目次

  • 1 歴史
    • 1.1 前史
      • 1.1.1 世界
      • 1.1.2 日本
    • 1.2 日本アニメの夜明け
    • 1.3 テレビアニメの始まり
    • 1.4 鉄腕アトム
    • 1.5 少ない制作費
    • 1.6 モノクロ(白黒)とカラー
    • 1.7 低年齢層に受け入れられたアニメ
    • 1.8 内製システムの崩壊
    • 1.9 コンピュータグラフィックス
    • 1.10 オリジナルビデオアニメ (OVA) の登場
    • 1.11 国によるアニメ産業育成
    • 1.12 深夜アニメの出現
  • 2 OVA
  • 3 アニメーション映画
  • 4 日本国外への輸出の歴史
  • 5 年表
    • 5.1 1890年代
    • 5.2 1900年代
    • 5.3 1910年代
    • 5.4 1920年代
    • 5.5 1930年代
    • 5.6 1940年代
    • 5.7 1950年代
    • 5.8 1960年代
    • 5.9 1970年代
    • 5.10 1980年代
    • 5.11 1990年代
    • 5.12 2000年代
    • 5.13 2010年代
  • 6 関連項目
  • 7 参考文献
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 参考DVD
  • 10 外部リンク

歴史

前史

世界

哀れなピエロ(動画)
愉快な百面相(動画)

アニメーションは、セル画によるものだけでなく、人形CGスライドによるものを含む。1902年ジョルジュ・メリエスによる『月世界旅行』の最後の、ロケットが港に戻るシーンで、すでに切り絵アニメーション(静止した背景画の前で、船の切り絵を少しずつずらしてコマ撮りする)が用いられ、これが映画のコマ撮り(ストップモーション)によるアニメーショントリックである。

作品としては、1892年フランスで作られたエミール・レイノーの『哀れなピエロ』(原題:Pauvre Pierrot)を初めとする一連の作品がある。しかし、レイノーの作品は純粋な意味での映画ではなく、テアトル・オプティークと呼ばれるゼラチンフィルムに別々に描かれた手書きの人物と背景をプロジェクターで同時にスクリーンに投影する装置によって上映されていた。他にアメリカジェームズ・スチュアート・ブラックトン監督による『愉快な百面相』(1906年、原題:Humorous Phases of Funny Faces)などがある。これは黒板に白チョークで描く実写と、そのコマ撮りを組み合わせた線画アニメであり、この最後のピエロの部分では白い枠線の切り絵がチョークアニメーションと組み合わされて用いられている。またアメリカでは1920年代半ばから『アメリカン・アニメーションの黄金時代』が始まっている。

ファンタスマゴリ

世界最初の実写部分を含まない純粋な短編アニメーション映画は、フランスの風刺画家エミール・コールによる『ファンタスマゴリ』(1908年、原題:Fantasmagorie)である。以後、数年間でアメリカおよび映画発明国フランスで線画アニメ映画の製作が盛んになった。世界初の純粋長編アニメーション映画は1917年にアルゼンチンキリーノ・クリスティアーニによって製作された。

1914年にセル画によるアニメーション技術がアール・ハードによって開発、特許申請される。しかし、当時、一般には、背景を印刷した紙にペン描き、というのが、一般的だった(『クレイジー・カット』シリーズ(1916年、原題:Krazy Kat)、『フェリックスの初恋』(1919年、原題Feline Follies)など)。また、アルゼンチンドイツなどでは、切り紙や人形アニメが盛んに創られていた。

アジアでは1941年に中国において万籟鳴万古蟾万氏兄弟監督で公開された『西遊記 鉄扇公主の巻』がアジア初の長編アニメーション映画とされる。1942年には戦時下の日本に輸出され、当時16歳の手塚治虫に影響を与えると共に、海軍省に長編アニメーション映画『桃太郎 海の神兵』(1945年)を制作させる動機となった。

日本

鳥獣人物戯画第16紙後半 - 第18紙。このカエルがウサギを投げ飛ばす場面は「現在」の連続であると高畑勲は言う。
信貴山縁起山崎長者の巻
日本の漫画の歴史」も参照

12世紀 - 13世紀(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)の日本の絵巻物にアニメーション技術の前史をさかのぼる見方がある。高畑勲によれば、『鳥獣人物戯画』『信貴山縁起』『伴大納言絵巻』などの絵巻物は、永遠や本質や現実に迫る西洋の物語絵画とは対照的に、時間的経過を空間的に表現して「現在」の連続として味わせるもので、表情の変化、線で書かれた動きなどは漫画やアニメと同じであり、日本のアニメの歴史は絵巻物から語らねばならないと述べている。

江戸時代の幻灯芝居である写し絵走馬灯草双紙合巻紙芝居影絵、のぞき絵にも、アニメのカット割り、マンガのコマ割りの技術がみられ、中でも写し絵は動画映画の始祖であるとされる。

日本アニメの夜明け

なまくら刀(塙凹内名刀之巻)
力と女の世の中
桃太郎 海の神兵

日本では大正期にかけて外国から輸入されたアニメーション映画の人気を受けて、天活(天然色活動写真株式会社)で下川凹天、小林商会幸内純一、日活北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始。1917年(大正6年)1月、下川が手がけた短篇アニメーション映画『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』が公開され国産アニメーション映画の第1号となったが、他の2人との差は数カ月程度でそれぞれ独自の方法で製作しているため、3人とも日本のアニメーションの創始者として扱われている。3作品はいずれも1917年に公開されたが、現存するのは幸内純一の『なまくら刀』のみである。

国産アニメ100周年に当たる2017年には、これら黎明期の作品を紹介するサイト「日本アニメーション映画クラシックス」が開設されたほか、京都国際マンガミュージアム川崎市市民ミュージアムで展覧会「にっぽんアニメーションことはじめ」が開かれている。

諸外国と同じく当初作られていたアニメは数分程度の短編映画が多かった。作り手も個人もしくは少人数の工房での家庭内手工業に準ずる製作体制で、生産本数も少なく、生産の効率化を可能とするセル画の導入も遅れていた。1930年前後にセル画が使われ始まるまでは、日本では、フランスなどと同様、切り絵によるアニメが主流であった。

太平洋戦争を迎えると、戦意高揚を目的とする作品が制作され瀬尾光世監督による長編アニメーション『桃太郎の海鷲』(1942年)が藝術映画社より製作され、1945年には松竹動画研究所により『桃太郎 海の神兵』が産み出された。この時期軍部が提供した潤沢な予算は技術力の向上に繋がったとの評価がある。上記2作のほか、戦争中には日本最初のフルセルアニメーション『くもとちゅうりっぷ』(1943年)があり、戦時中にも関わらず叙情性が豊かなミュージカル仕立ての作品となっている。

戦後、東映1956年日動映画を吸収合併しアニメスタジオ「東映動画」を発足。1961年には手塚治虫が「虫プロダクション」を発足させた。東映動画は劇場用アニメーション映画の製作を開始し、日本初のカラー長編アニメ映画白蛇伝』(1958年)が制作され「東洋のディズニー」を目指した目論見通りに日本国外へも輸出された、一方虫プロダクションは日本で最初の本格的連続テレビアニメ『鉄腕アトム』(1963年)とそれに付随する日本初のテレビアニメからの長編アニメ映画鉄腕アトム 宇宙の勇者』(1964年)を製作している。

テレビアニメの始まり

1953年にテレビ放送が始まると、単発で数分程度のアニメーションが番組内の1コーナーとして、また、CMにも用いられるようになり、後のエイケンの日本テレビジョン株式会社(TCJ動画センター)や漫画家横山隆一おとぎプロが制作に携わっている。また同年に日本初のフルコマ撮り人形アニメーションほろにが君の魔術師』が持永只仁川本喜八郎らの手によって制作されている。

1958年7月14日、カラーテレビ放送の実験放送用として作成された『もぐらのアバンチュール』(日本テレビ)が放送された。これが日本初のカラーテレビアニメーションではないかと考えられていた。フィルムは長らく行方不明になっていたが、2013年に日本テレビの倉庫から発見されたことが新聞等で報道され、その一部が2013年6月19日放送のZIP!およびスッキリ!!で公開され、日本初のテレビアニメーションがカラー作品という事実が確証されている。

1960年1月15日に、中村メイコのトークや実写を交えて3つの童話をアニメーション化した30分番組『新しい動画 3つのはなし』(NHK)が放送された。この他に短編アニメーションを利用した番組は、『みんなのうた』(NHK、1961年放送開始)や、おとぎプロ制作による日本初の連続短編テレビアニメーション『インスタントヒストリー』(放送時間1分、1961年5月8日~1962年2月24日)フジテレビ系列で放送されたが、新聞のテレビ欄での扱いは、読売は毎回掲載した以外は、朝日が数回、毎日・日経は掲載していなかった。

当時の映像業界では、アニメーション制作には長い期間と制作費がかかるというのが常識であり、NHK、民放を問わず、本格的なアニメーション番組を制作するテレビ局は現れず、『ポパイ』・『恐妻天国(後に『原始家族』として再放映)』・『宇宙家族』など日本国外から輸入されたアニメーションが盛んに放送されており、1963年の『鉄腕アトム』を待たなければならなかった。

鉄腕アトム

鉄腕アトム

1963年に放送が始まった『鉄腕アトム』は、週1回放送の30分番組という後のテレビアニメの基本形態を作り、日本におけるテレビアニメシリーズの嚆矢と位置付けられている。1961年放送開始の『インスタント・ヒストリー』は3分番組で実質は1分にすぎなかった。

タイトルは『鉄腕アトム』と当初から決まっていたわけではなく、元虫プロ営業部次長の須藤将三によると、スポンサーが明治製菓に決まる直前まで、『鉄腕アトム』か『0マン』かは未定であったという。

東映動画は、手塚治虫原作の『ぼくのそんごくう』をベースとして『西遊記』を制作する際、手塚自身からの申し出もあって、ストーリーボードなどのスタッフとして手塚を招聘することになった。手塚は独自にアニメーションについて研究していたが、フルモーションの長尺作品をベースとする東映動画の考え方とは必ずしも馴染まなかった点があり、独自のアニメ制作を模索することになる。

このために、原作者の手塚治虫自らが制作会社虫プロダクションを興し制作を指示、虫プロスタッフの坂本雄作、山本暎一の両名がテレビアニメ企画を広告代理店・萬年社(99年に破産)に持ちかけ、企画が実現した。

手塚のテレビアニメは、撮影そのものが秒8コマのリミテッドであるだけでなく、立絵紙芝居や切り絵アニメーション、古い30年代の部分アニメなどの技法を組み合わせて、止め絵、引き絵、口パク、バンクなどを多用し、カメラによって絵を動かしており、セルの動画とはまったく別の、より古いアニメーション原理に則っている(それはフラッシュアニメなどに近い技術でありテレビアニメの技術が後に日本をゲームで成功へ導く)。

虫プロのアニメを、東映動画の現場の大塚康生らは「電気紙芝居」と批判したが、東映動画の経営陣は、テレビアニメを製作しなければならないという経営上の必要性から、手塚のアシスタントを務めたこともある月岡貞夫の企画をもとに、『狼少年ケン』を製作する。また、やはり手塚に近かった石ノ森章太郎の絵で『レインボー戦隊ロビン』を作り、その友人・アシスタントの赤塚不二夫永井豪横山光輝などのアニメを量産することになる。宮崎駿は長編中心だが、高畑勲はテレビアニメにも関わっている。

少ない制作費

この時、手塚は「(一本につき)五十万で売って。それ以上高くしないでください。それ(くらい低価格)なら他でつくれないでしょ」と指示、「手塚さんはテレビアニメを独占するつもりだったのかどうか。萬年社は『安すぎる』と、手塚さんに内緒で百五十万円を虫プロに払っていました。実際は制作費がいくらなんて、どうでもよかった。ロイヤリティーが日銭で何百万円と入ってきたんですから。」 (虫プロ・元営業部次長・須藤将三)。

この時の価格が業界での標準となったため、現在に至るまでアニメ業界は低予算に苦しめられることになる。しかしその反面で、一部に以下の反論もある。

モノクロ(白黒)とカラー

白蛇伝
ジャングル大帝

1893年に、今日の映画であるシネマトグラフが発明される以前、フィルムを用いない映像玩具がありアニメーションの元祖とされるが、その一種であるゾートロープを改良したプラキシノスコープを使って1888年からフランスエミール・レイノーパリの蝋人形館で「光学劇場」と称して作品を上映していた。その内容は物語付きの数分間のアニメーションと言えるもので、着色も成されたものだったという。

フィルムによるアニメが制作されると、カラーフィルムの発明されるのを待たずに、フィルムに1コマずつ直接着色するという手法で早くからカラーのアニメが制作されている。例えば、ウィンザー・マッケイの短編作品「リトル・ニモ」は1911年の公開である。

1932年ディズニーが初めてフルカラーで製作した『花と木(Flowers and Trees)』を公開して以降、第二次大戦前にはアメリカではカラーによる短編アニメが盛んに製作され、1937年にはディズニーの初のカラー長編アニメ『白雪姫』を公開している。

日本では1958年東映動画による劇場版『白蛇伝』は初のカラーによる長編の劇場作品だったが、それ以前に大藤信郎が色セロファンや千代紙を使った短編のカラー作品を発表している。

劇場作品では、日本国外の作品を始めとして、カラー作品は既に制作されていたが、初期のテレビアニメはテレビ放送のカラー化及びカラーテレビの普及が進んでいない事情もあって、ほとんど白黒だった。1958年10月15日に放送された『もぐらのアバンチュール』はカラーテレビ放送のテストプログラムとして作成されたものだが、カラーで放送されたかどうかは不明である。当時はカラー放送の実験放送期間中であり、また、国産のカラーテレビがまだ発売されていなかったため、カラーで放送されていたとしても見た人は限られたものだろうと考えられる。 1963年12月20日から1964年にかけて全15話が放送された人形アニメーション『シスコン王子』、1964年1月25日に放映された『鉄腕アトム』の第56話はカラーで制作されたが、放送自体はモノクロであり、カラーのテレビアニメではなかった。 『ドルフィン王子』全3話が『ジャングル大帝』(1965年10月)に先立つこと半年前に放映されているが、放送回数が少なかったため、「ジャングル大帝」が事実上の日本カラーテレビアニメの嚆矢とされる。 そして、本格的な日本最初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』(1965年)は、アメリカ合衆国での放送を前提に資本が集められて実現した。

カラーによるテレビアニメは、制作費がかかることと、カラーの受像機が普及していなかった事情から、この後も数年間は新作はカラーと白黒の作品が混在していた。ただしこれはアニメに限った話ではなく、この時代、他の多くの番組も同様にカラーと白黒が混在していた。

楠部大吉郎によるとテレビアニメはカラー化によって制作費が大幅にアップしたそうである。モノクロの時は30分240万-250万だった所がカラーで540万になった。楠部によれば歴史的にいって日本のテレビアニメの制作費がこれほど上がったのはカラー化の時だけである。

低年齢層に受け入れられたアニメ

当初、アニメは日本では子供達の間で特に人気があった。大人達はそれまでに見慣れていた時代劇やホームドラマのようなものに関心が高く、アニメには余り興味を示さなかった。そして初期に作られたアニメで成功した作品はほとんどが子供向きのものであった。この事情から、1960年代から1970年代にかけて制作されたアニメはほとんどが子供、特に12歳以下を対象とした内容であった。キャラクターグッズを欲しがる年齢層もこの年齢層に重なっていたため、アニメ制作会社にとってもこれは好都合であった。

このように、初めてのテレビアニメが制作されてからの約10年間は、良くも悪くもアニメは『鉄腕アトム』に多くの影響を受けていた。現在の日本のアニメは原作を持つ作品が多いが、これは黎明期のテレビアニメに原作付きの物が多かったという例に倣った結果と言える。

内製システムの崩壊

テレビアニメは大人気となり、大量のプロダクションが生まれ、作品数も飛躍的に増加したがその結果、アニメーターの数が不足した。多くのプロダクションは美術系大学の卒業生などを集めたがそれでも足りなかった。優秀なアニメーターの引き抜きが恒常的に行われるようになり、アニメーターの人件費はみるみる内に高騰した。反面、テレビ局の製作費はそれほどは増えなかった。

それまでほとんどのアニメ制作プロダクションは内製システムを採っていた。キャラクター設定から原画・動画・動画チェック・彩色・撮影など、全ての工程を社内で行うことによって、作品の品質を保てていた。外注は1963年には既に存在したが、恒常的には行われていなかった。しかし、1971年から東映動画は主だった工程のみを自社内で行い、動画・彩色などの比較的単純な工程については外注や出来高払いに移行をし始め、実質的な人員整理を開始した。これに対しては組合側が激しく反発したが、経営側は応じず、1972年、指名解雇が始まる。経営側は組合側の反発にロックアウトを行って応酬した。経営側が強硬だったのは、赤字が嵩み、人件費の削減が行えない限り、会社の存続が困難だったためだと言われている。

一方、虫プロダクションでは1973年に労働争議が起き、解決しないまま倒産した。社長の手塚治虫は虫プロ設立当時「僕は何かあったら労組の先頭に立って一番に会社を糾弾する」と冗談を言っていたことがある。

内製システムを採っていた大手2社でこのような事態になり、同じく内製システムだったタツノコプロも1970年代半ばに賃金問題と社長の死去で、70名から80名の有力な人材が流出して結果的にリストラを行ったことと同じ状態になった。これらの事件を切っ掛けに、ほとんどのプロダクションは多くの作業を外注に頼るようになり、また、以後、アニメーターの給与は極めて低く抑えられるようになった。例えば、虫プロダクション出身者によって設立された日本サンライズは、虫プロダクションを教訓に、制作管理スタッフだけを正社員として発足した。この状況は現在も続いている。1980年代後半以降、動画・彩色という低賃金の工程はほとんどが東アジアで行われるようになり、アニメ制作の空洞化が指摘されている(なお東映動画は海外発注を1973年に開始している)。

コンピュータグラフィックス

コンピュータグラフィックス (CG) の利用は、1960年代から始まり、アメリカでは映画『2001年宇宙の旅』にも参加したジョン・ウィットニー(John Witney)が先駆者として評価され、1961年に『カタログ(Catalog)』を制作。日本でも、1967年11月に第1回草月実験映画祭において、山田学と月尾嘉男によるコンピュータ制御のプロッタで描画したアニメ『風雅の技法』を発表。日本初のCGアニメと目されている。黎明期のCGは表現力の乏しさから抽象的なアートアニメーション、計算に基づいたシミュレーションに用いられた。初期のコンピュータゲームも図形的なデザインによる、リアルタイムで生成されるアニメーションと見ることができる。

商業的な娯楽作品にCGを大々的に用いる切っ掛けとなったのは、1982年ディズニー制作のアメリカ映画『TRON』の登場が大きい。その影響からか、日本でもコンピュータを部分的に用いたアニメが登場するようになる。1983年には映画『ゴルゴ13』とテレビアニメ『子鹿物語』、1984年には映画『SF新世紀レンズマン』『超人ロック』などが制作された。これら1980年代前半の作品は話題性や新奇性による宣伝効果狙いを含んだ、実験的なものであった。

従来のアニメは長い間、紙に描いた線画をセルと呼ばれる透明なシートに転写し、それを手作業で着色した上で、順番に取り替えながら撮影する制作方式だった。これは人海戦術的な方式でありながら技術も必要であり、その放送時間と比較して大変な労力を要した。CGもしばらくは特殊効果としての補助的な使用中心だったが、技術革新となったのは1990年代後半頃からのセルの廃止や3D-CGである。セルの廃止は、原画を従来通り人間が手描きし、それをコンピュータに取り込んで以降の過程をコンピュータ上で処理する。着色はデジタル彩色となり、使用可能な色数はそれまでのアニメ専用絵具(アニメカラー)の80色程度から一気に1600万色となった。3D-CGは原画段階から3Dモデリングを元にコンピュータが作画を行う。基本的に紙への作画はしないので、手書きとは質感が異なるものの、立体物などがリアルに表現できる。これらにより、フィルムでの撮影や編集もコンピューター上での作業に移行することになった。

ディズニーとピクサーは共同で、CGアニメ制作用システム、コンピュータ・アニメイテッド・プロダクション・システム (CAPS) を開発した。CAPSは、1989年の『リトル・マーメイド』で試験的に最後の一部に用いられ、続く1990年に公開された『ビアンカの大冒険』で全面的に採用となった。1991年には『美女と野獣』、1992年には『アラジン』にも用いられ、興行的にも成功を収めた。セルアニメーションで培われた技法と、CG独自のカメラワークや表現を違和感なくを調和させて、1992年にはアカデミー賞の最優秀科学技術賞を獲得した。さらに1995年にはピクサーが制作した3D-CGによる『トイ・ストーリー』が大成功を収める。フルCG映画の登場によりCGの話題性や新奇性は薄れ、CGは単なるアニメ制作の手法の一つとして定着していった。

日本でも1995年に最初の3D-CG連続テレビアニメ『ビット・ザ・キューピッド』が放送開始された。新作アニメはセル非使用前提で開始されるようになり、セルの需要が減少したため、1997年に富士写真フイルムは利益の少ないセルの生産を停止、それを期に東映動画はほぼ全作品でセル非使用に切り替えた。2002年には旧来の長寿アニメの大半もセル非使用に切り替わった。『忍たま乱太郎』が4月放送から、『クレヨンしんちゃん』が5月放送から(例外あり)、『名探偵コナン』が6月放送から、『ドラえもん』が10月放送からなどである。『おじゃる丸』、『ポケットモンスター』、『ちびまる子ちゃん』も同年に切り替わっている。そして2013年には『サザエさん』もセル非使用に切り替わり、セルアニメは実質消滅した。

現在ではトゥーンレンダリングなどの開発により、手書きの質感を3D-CGで表現する試みも進んでいる。それ以外でもコンピュータの利用は進み、ペンタブレットによる作画工程からのデジタル化や、デジタル通信ネットワークの利用による分業(日本国外などの下請けスタジオまで原画データをデジタル通信で送り、完成したデータもデジタル通信で受けとる)も行われている。

オリジナルビデオアニメ (OVA) の登場

1980年代になり廉価な家庭用ビデオデッキが量産され始めるとOVAが登場した。これは劇場用映画でもなければ、テレビ放送もされないアニメの総称で、主にビデオソフトの形で販売された。最初のOVAは『ダロス』(1983年)で、この後も続々と新作が発売され、現在では日本アニメの柱の1つになっている。OVAは、作品そのものを購入できるような収入を持つ独身男性を主要購買層に定めた作品が多く、それらを対象にしたアニメは自然とOVAで発表されることが増え、結果的に、低年齢層・家族向けにはテレビアニメ、高年齢層向けにはOVAという流通形態に分化することとなった。

その後、高年齢層向けの作品を高年齢層向けの時間帯に放送し、その宣伝効果でビデオソフトやキャラクター商品を売り上げ、制作資金を回収する方法が確立された。これにより、高年齢層向けの作品のテレビアニメも増えてきた。これらの作品は深夜帯や独立UHF局、アニメ専門のケーブルテレビ局で先行放送した直後にビデオソフト化し、話題になっているうちに販売するという販売戦略が採られている。この形態での放送・ソフト化が広まり、現在では狭義のOVAは衰退し、高年齢層向けの作品が加わる形でテレビアニメの対象年齢層が拡大している。

要因としては少子化による玩具の売り上げ低下で玩具メーカーがスポンサーから撤退しゴールデンタイムのテレビアニメ放送が難しくなってきたこと、1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』の大成功、1997年頃に実用化されたコンピュータ彩色による制作費の低下・制作期間の短縮化、複数の企業が制作費を出し合う製作委員会方式によって制作費の調達が容易になったこと、テレビアニメのビデオソフト化で制作費を賄う仕組みができたこと、そして地上波の深夜放送枠、ケーブルテレビ局、WOWOWノンスクランブル枠、独立UHF放送局CS放送BSデジタル放送といった新たな放送枠が開拓されたことが挙げられている。

国によるアニメ産業育成

1977年から、文化庁は毎年数作品の「こども向けテレビ用優秀映画」を選定し、テレビアニメに製作援助金を交付する制度を開始した。1998年には一般向け作品を含む「文化庁優秀映画作品賞」に統合された。

2004年5月、アニメや漫画など日本のソフト産業の保護・育成に官民一体で取り組む為の「コンテンツ法」が参院本会議において全会一致で可決、成立した。

深夜アニメの出現

日本では1990年代後半から深夜帯の青年向けアニメが広まり始めた。1998年頃から特定の層に需要を見込んだ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/12/17 20:55

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「アニメの歴史」の意味を投稿しよう
「アニメの歴史」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

アニメの歴史スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「アニメの歴史」のスレッドを作成する
アニメの歴史の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail