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アフガニスタンとは?

アフガニスタン・イスラム共和国
جمهوری اسلامی افغانستان
Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān



(国旗) | (国章)
国の標語:
アッラーフの他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。
国歌:ソルーデ・メッリー
公用語 パシュトー語ダリー語
首都 カーブル
最大の都市 カーブル
政府
大統領 アシュラフ・ガニー
行政長官(首相格) アブドラ・アブドラ
面積
総計 652,225(40位)
水面積率 極僅か
人口
総計(2013年) 31,108,077人(38位)
人口密度 47人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2013年)】
1兆1,481億アフガニ
GDP (MER)
【合計(2013年)】
207億ドル(106位)
GDP (PPP)
合計(2013年) 588億ドル(96位)
【1人あたり】
1,924ドル

【建国
独立
- 宣言】
1747年
イギリス保護国より
1919年8月19日
通貨 アフガニ (AFN)
時間帯 UTC +4:30(DST:なし)
ISO 3166-1 AF / AFG
ccTLD .af
国際電話番号 93

アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく)、通称アフガニスタンは、南アジアまたは中央アジアに位置する共和制国家内陸国であり、南および東にパキスタン、西にイラン、北にタジキスタントルクメニスタンウズベキスタンが位置し、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区に接する。首都はカーブル

パシュトゥーン人(狭義のアフガーン人)のほか、タジク人ハザーラ人ウズベク人トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家でもある。

目次

  • 1 国名
    • 1.1 国名の変遷
      • 1.1.1 ターリバーン政権期
      • 1.1.2 ボン合意以降
      • 1.1.3 国旗
  • 2 歴史
    • 2.1 先史時代
    • 2.2 ペルシア・ギリシア・インド文化の時代
      • 2.2.1 ペルシアとアレクサンドロス大王の支配
      • 2.2.2 南方のマウリア朝と北方のグレコ・パクトリア王国
    • 2.3 イスラーム化の進展
    • 2.4 モンゴル帝国
    • 2.5 ティムール朝
    • 2.6 サファヴィー朝、ムガル朝、オスマン帝国の抗争
    • 2.7 アフガンの王家による統治のはじまり
      • 2.7.1 ホータキー朝
      • 2.7.2 ドゥッラーニー朝
        • 2.7.2.1 サドーザイ朝
      • 2.7.3 バーラクザイ朝
      • 2.7.4 イギリス保護国期
      • 2.7.5 アフガンの王家による再独立
    • 2.8 冷戦
      • 2.8.1 パシュトゥーニスタン独立運動
      • 2.8.2 王政廃止からソ連軍の撤退まで
    • 2.9 ターリバーンとの戦い
      • 2.9.1 ソ連軍の撤退からターリバーン政権の統治とそれに対する有志連合の攻撃まで
    • 2.10 テロとの戦い
      • 2.10.1 有志連合のターリバーン政権に対する攻撃から暫定政権の樹立まで
      • 2.10.2 暫定政権樹立からアフガニスタン・イスラム共和国成立まで
      • 2.10.3 アフガニスタン・イスラム共和国成立以降
  • 3 政治
    • 3.1 元首
    • 3.2 行政
    • 3.3 腐敗問題
    • 3.4 立法
    • 3.5 司法
      • 3.5.1 人権問題
  • 4 軍事
  • 5 地理
  • 6 地域区分
  • 7 経済
    • 7.1 原油
    • 7.2 ガス
    • 7.3 鉱業
    • 7.4 麻薬
  • 8 交通
  • 9 国民
    • 9.1 民族
    • 9.2 言語
    • 9.3 宗教
    • 9.4 教育
  • 10 文化
    • 10.1 食文化
    • 10.2 スポーツ
    • 10.3 世界遺産
    • 10.4 音楽
  • 11 脚注
  • 12 参考文献
  • 13 関連項目
    • 13.1 1978年以降
    • 13.2 映画
    • 13.3 評論
    • 13.4 小説
    • 13.5 ボードゲーム
    • 13.6 ビデオ・ゲーム
    • 13.7 漫画
  • 14 外部リンク

国名

自称国名はافغانستان (Afghānistān ; アフガーニスターン)。ペルシア語ダリー語で「アフガーン人(パシュトゥーン人)の国(土地)」を意味する。正式名称は1973年の王制打倒以来政体が変化するごとに新政権によって改められてきたが、ターリバーン政権崩壊後のロヤ・ジルガ(国民大会議)で定められた2004年憲法による正式名称はダリー語で、جمهوری اسلامی افغانستان (ラテン文字転写 : Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān , 読み : ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)という。

公式の英語表記は、Islamic Republic of Afghanistan。通称Afghanistan。日本語の表記は、アフガニスタン・イスラム共和国。通称アフガニスタン漢字表記亜富汗斯坦

国名の変遷

ターリバーン政権期

ボン合意以降

国旗

現在の国旗は2002年1月に制定されたもの。中央の紋章に書かれている文字はコーランの冒頭の聖句(シャハーダ)である「アッラーフのほかに神はなし、ムハンマドはアッラーフの使徒なり」と書かれている。

歴史

詳細は「アフガニスタンの歴史」を参照

先史時代

紀元前10万年旧石器の文化があった。紀元前7000年新石器の文化があった。

紀元前3000年から紀元前2000年にかけて四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。アフガニスタンは、先史時代からイラン高原メソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった。

紀元前2000年から紀元前1800年は青銅器時代で、ムンディガク遺跡、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。

紀元前12世紀リグ・ヴェーダによれば、十王戦争が勃発し、バルフからパンジャブへ侵攻した。

ペルシア・ギリシア・インド文化の時代

ペルシアとアレクサンドロス大王の支配

紀元前5世紀ごろ、アラコシアには古代民族Pactyansが住んでいた

紀元前6世紀イラン人が建てたアケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、アレイヴァ(ヘラート)、アラコシア(カンダハールラシュカルガークエッタ)、バクトリア(バルフ)、サッタギディア(ガズニー)、ガンダーラ(カーブルジャラーラーバードペシャーワル)の地方名で呼ばれた。カンダハルの旧市シャル・イ・コナの発掘によって、紀元前6世紀にはこの町がすでにアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。

紀元前5世紀ごろ、アラコシアには古代民族Pactyansが住んでいたことがサンスクリット古代ギリシャ語文献から知られている。

紀元前4世紀アレクサンドロス3世(大王)はこの地を征服し、アレクサンドリアオクシアナ(Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した。

南方のマウリア朝と北方のグレコ・パクトリア王国

カンダハールで発見されたギリシャ語アラム語で書かれたアショーカ王碑文(紀元前3世紀)

紀元前3世紀中ごろ、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配した。

紀元前130年ごろ、メナンドロス1世が死んでインド・グリーク朝が分裂すると、サカ族ガンダーラ地方でインド・スキタイ王国を興した。

紀元前2世紀後半、匈奴に追われた遊牧民の月氏が侵入し、グレコ・バクトリア王国は滅びた。

1世紀以降、先の大月氏の立てたクシャーナ朝がこの地に栄える。このころギリシア文化は影響力を失い、代わって南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになる。4世紀ごろまでバクト商人シルクロード交易を掌握する。

3世紀末、クシャーナ朝に代わりサーサーン朝の支配がこの地に及ぶ。

5世紀前半、エフタルが起りアフガニスタン・パキスタンの地を支配する。

6世紀後半、アルタイ方面から南下してきた突厥による支配を受ける。

イスラーム化の進展

ゴール朝の時代に建てられたヘラートの金曜モスク

8世紀初頭、イスラム帝国アッバース朝のイスラム教徒軍がハザールソグディアナに侵攻し(アラブ・ハザール戦争トランスオクシアナ征服)、その支配下へ入る。751年タラス河畔の戦いによりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わったあとも10世紀ごろまで残存した。

9世紀中ごろ、再び土着イラン人によるターヒル朝サッファール朝サーマーン朝が興り統治する。

995年マームーン朝のイスラム教徒軍が侵攻、アムダリヤ川右岸の古都キャトに栄えていた土着のゾロアスター教国家、アフリーグ朝は滅亡した。

1017年ガズナ朝がマームーン朝を滅ぼした。10世紀以降、このころからパシュトゥーン人の存在が確認され始める。

1117年、シャンサブ家がゴール朝を興し、シハーブッディーン・ムハンマドに仕えるクトゥブッディーン・アイバクは北インド征服事業を成功させ奴隷王朝を開いた。1215年ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・ムハンマドによってゴール朝は滅亡した。

モンゴル帝国

モンゴルのホラズム・シャー朝征服のあと、アフガニスタンはモンゴル帝国およびチャガタイ・ハン国クルト朝の支配を受ける。

ティムール朝

1370年ごろ、テュルク系のティムール朝による支配を受ける。1470年、ティムール朝が分裂しヘラート政権に移行。1507年ウズベク族シャイバーン朝ムハンマド・シャイバーニー・ハーンの攻撃によってティムール朝は滅亡する。

サファヴィー朝、ムガル朝、オスマン帝国の抗争

カンダハールを奪還するムガル帝国(1638年)

1510年サファヴィー朝イランによって征服される。1526年第一次パーニーパットの戦いカーブルを拠点とするティムール朝の王子バーブルインドムガル朝を建設。

1540年、北インドのスール朝がカンダハール、カーブルを占拠。1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠。1556年第二次パーニーパットの戦いスール朝ヘームーを破る。

1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。1638年、ムガル帝国がカンダハールを占拠。1649年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。

アフガンの王家による統治のはじまり

ホータキー朝

1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族ミール・ワイス・ホータキーが反乱を起こし、カンダハールにホータキー朝を樹立。

1719年ミール・マフムードがサファヴィー朝のケルマーンに侵攻。

1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都・イスファハーンを占拠(グルナーバードの戦い)。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。

1729年アシュラフナーディル・シャーに敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した(ダムガンの戦い)。

1736年アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅。

ドゥッラーニー朝

サドーザイ朝
アフマド・シャー時代のドゥッラーニー朝の版図

1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族の族長アフマド・シャー・ドゥッラーニーによるドゥッラーニー朝が成立。

1757年マラーターのインド北西部侵攻パンジャーブが占領される。

バーラクザイ朝

1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。1834年に国名をアフガニスタン首長国(en)とする。

1838年 - 1842年第一次アフガン戦争でイギリスに勝利。

一方、第二次アフガン戦争(1878年 - 1880年)のカンダハールの戦いでアフガニスタン首長国もイギリスに敗れ、ガンダマク条約でその保護国となり、イギリスとロシアはアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。


イギリス保護国期

左からJenkyns、Cavagnariヤアクーブ・ハーン、Daoud Shah、Habibullah Moustafi(ガンダマク条約1879年)

1880年に起こった第二次アフガン戦争に敗れイギリスの保護国となる。1885年、イギリスとロシア帝国との間でパンジェ紛争が起きる。イギリスは巨文島巨文島事件を起こし、ロシアを牽制した。

1893年デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。1895年チトラル遠征

アフガンの王家による再独立

1919年第三次アフガン戦争に勝利したアマーヌッラー・ハーンはイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位した。1926年、国名をアフガニスタン王国とする。同年、オーレル・スタインインダス川上流およびスワート川流域(デュアランド・ライン)を調査旅行した。アマーヌッラーは、トルコ共和国の新指導者ケマル・アタテュルク世俗主義民族主義共和主義を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。

王妃ソラヤ・タルズィーは近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。

タジク人の指導者ハビーブッラー・カラカーニーは、イギリスから資金と武器の支援を受けてカーブルを占領し、アマーヌッラー政権を打倒した(アマーヌッラー・ハーンの改革と内戦)。

1929年、バーラクザイ王家の分家筋にあたるムハンマド・ナーディル・シャーが混乱を収めて、国王(アミール)に就任。

1931年に制定した新憲法の第一条でスンナ派ハナフィー学派を国教に定めた。この条文が国内少数派のシーア派に対する反ハザラ人政策の法的根拠となったことで恨みを買い、1933年11月8日に暗殺された。同日、息子のザーヒル・シャーが即位した。

1939年に開戦した第二次世界大戦では、日本ドイツなどからなる枢軸国、イギリスやアメリカソ連からなる連合国の、どちらにもつかない中立国として機能していた。

冷戦

パシュトゥーニスタン独立運動

ザーヒル・シャー(1963年)

1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタンは「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加せず、イギリスやパキスタンもカラート藩王国の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合として独立させた。しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争)に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。

パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン独立運動」を起こし牽制した。

ザーヒル・シャーは、1960年代には立憲君主制を導入して民主化路線を推進したが、1973年にイタリアで病気療養中にクーデターを起こされてそのまま亡命した。

王政廃止からソ連軍の撤退まで

首都カーブルに展開するソ連の空挺兵
チャールズ・ウィルソンムジャーヒディーン

1973年、旧王族のムハンマド・ダーウードクーデターを起こして国王を追放し、共和制を宣言して大統領に就任。新しい国名はアフガニスタン共和国(en)。アフガニスタン社会の近代化と軍事近代化を目指し、ソ

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出典:wikipedia
2019/11/18 20:24

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