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アフリカとは?

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アフリカ

【面積】
7013302215320000000♠30221532 km
【人口】
1,100,000,000 (2013年, 2位)
【人口密度】
30.51 人/km
住民の呼称
アフリカ人
【国数】
56 (国一覧)
【保護領】
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【標準時】
UTC-1 - UTC+4
【最大都市】
カイロ
衛星画像
アフリカの地形(NASA)

アフリカ(ラテン語:Āfrica英語:Africa)は、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼海域を含む地域の総称で、六大州の一つ。阿州。漢字表記は阿弗利加

目次

  • 1 概要
  • 2 語源
  • 3 歴史
    • 3.1 アフリカの形成
    • 3.2 先史時代
    • 3.3 エジプト・地中海文明の発生
    • 3.4 西アフリカ・北アフリカ
    • 3.5 東アフリカ・南アフリカ
    • 3.6 奴隷貿易
    • 3.7 アフリカ分割
    • 3.8 脱植民地化
  • 4 地理
  • 5 気候
  • 6 政治
  • 7 経済
  • 8 人口統計
    • 8.1 民族
    • 8.2 言語
    • 8.3 宗教
    • 8.4 教育
      • 8.4.1 運動
    • 8.5 保健
  • 9 文化
    • 9.1 食文化
    • 9.2 文学
    • 9.3 哲学
    • 9.4 音楽
    • 9.5 美術
    • 9.6 映画
  • 10 アフリカの国
    • 10.1 北アフリカ
    • 10.2 西アフリカ
    • 10.3 中部アフリカ
    • 10.4 東アフリカ
    • 10.5 南部アフリカ
    • 10.6 独立国以外の地域
      • 10.6.1 イギリス領
      • 10.6.2 フランス領
      • 10.6.3 スペイン領
      • 10.6.4 ポルトガル領
      • 10.6.5 モーリシャス領
      • 10.6.6 その他
    • 10.7 消滅した国
  • 11 アフリカと「黒」
  • 12 地域機構
  • 13 関連項目
  • 14 注釈
  • 15 出典
  • 16 参考文献
  • 17 外部リンク
    • 17.1 教育

概要

地理的には地中海を挟んでヨーロッパの南に位置する。 赤道を挟んで南北双方に広い面積を持つ唯一の大陸でもあり、それに伴って多様な気候領域がある。面積は3020万平方キロメートルで、地球表面の6%、陸地全体の20.4%を占めるが、人口は約10億人で、世界人口比では14.72%を占めるに過ぎない。2011年3月現在、島嶼を含めて54の独立国がある(西サハラを含めると55カ国)。経済成長率は2010年に約5.0%、2011年予測は5.5%である。

アフリカ、特に東アフリカは人類発祥の地と言われ、エチオピアからは20万年前のホモ・サピエンスの化石が発見されている。サハラ砂漠以南のアフリカは、かつてヨーロッパ諸国から「暗黒の大陸」と未開の地のように呼ばれたが、ヨーロッパに知られていなかった(あるいはその存在を認めようとしなかった)だけで、実際には古代から文明があった。

アフリカの地理的区分ではサハラ砂漠が大きな境界となり、この北側を「ホワイトアフリカ」、南側を「ブラックアフリカ」あるいは「サブサハラアフリカ」と呼び分ける場合もある。また、北アフリカ中部アフリカ東アフリカ南部アフリカ西アフリカに分ける区分もある。

語源

当初は、サハラ砂漠以北の地域をさす言葉であった。正確な語源ははっきりとはわからないが、有力説としては、現在のチュニジアに当たるカルタゴ近郊の北部アフリカに居住していたセム系部族を指す「Afri」(アフリ)と推測される。この言葉はフェニキア語の「afar」(「dust」の意)に結びつけられがちだが、1981年にはベルベル語の「洞窟に住む人々」を指す「ifri」が転じたものという仮説が提示された。これら「afar」「ifri」「Afri」は現在のアルジェリアおよびリビアに住むベルベル人のことである。ほかに、カルタゴ人が使っていたファラカ(faraqa:植民地の意)の変形または転訛という説や先住民の一部族アフェル(Afer、複数形Ifei)に由来するという説もある。他にも様々な仮説が提唱されており、歴史家レオ・アフリカヌス(1488年 - 1554年)は、ギリシア語の「phrike (φρίκη)」(「寒い」または「怖い」の意)に否定を意味する接頭辞 a-(α-)が上接し、寒さや恐れが無いところを意味する「aphrike (Αφρική)」となったと主張した。またジェラルド・マッセイen:Gerald Masseyは1881年に、エジプト語の「af-rui-ka」が語源だとの仮説を発表した。それによると、「af-rui-ka」は「カーの始まりに回帰する」を意味する。この「カー」は「すべての人々」と、カーの始まりという用法で「子宮・生誕地」両方の語源である。エジプト人にとってアフリカとはまさに「誕生したところ」を意味する。

起源が上述のいずれの説であるにしろ、ローマ時代、カルタゴがアフリカ属州になると、ラテン語で「アフリカ人の土地」を表す「Africa terra」(「-ca」は形容詞化接尾辞女性形)から「Africa」という語形が生じた。これが現在の『アフリカ』という言葉の直接の始まりである。その後、サハラ砂漠以南についての人類の知見が広がるに従い、サハラ砂漠の南北を含めて一つの大陸の名となった。

アイルランド語の女性名 AifricAfrica と英語化されるが、地名とは関係が無い。

歴史

アフリカの形成

アフリカの古竜脚類/基盤的竜脚形類であるマッソスポンディルス

中生代初期、アフリカは他の大陸と同じく超大陸パンゲアを形成した。その状況下で、獣脚類竜脚形亜目また原始的な鳥盤類が、三畳紀終わり頃まで繁殖していた。これらの化石はアフリカのいたるところで発見され、特に南部で顕著に見られる。三畳紀とジュラ紀を分ける地球規模の絶滅を示す発掘は、アフリカではあまり行われていない。

初期ジュラ紀の地層は三畳紀後期と重なって分布し、南部で多く露頭する。しかし化石層は南部では少なく、北に行くほどその数は優勢になってゆく。ジュラ紀には、アフリカでは竜脚下目鳥脚目などの恐竜が広い範囲で隆盛を極めた。中期の研究はあまり進んでいない。後期も発掘は遅れているが、数少ない例外に当るタンザニアのテンダグル層(en)では、北アメリカ西部で見つかったモリソン層(en)の古生物学的様相(en)と非常に近似したところが見られた。

スピノサウルスはアフリカを代表する肉食恐竜である。

1億6千-1億5千年前の中生代中頃、ゴンドワナ大陸には後のインド亜大陸マダガスカルが繋がっていた。そのため、マダガスカルからはアベリサウルス(en)やティタノサウルス上科(en)の化石が発見される。 その後、白亜紀初期にインドとマダガスカルは分離を始め、後期にはこの2つの陸塊も分離して現在に至る。中生代、マダガスカルとアフリカ大陸の相対的な位置には変化が無かった。その一方でパンゲア大陸そのものの変化は進行し、白亜紀後期の始まり頃には南アメリカがアフリカから分離し、南大西洋が形成された。この出来事は海流の変動を呼び、地球規模の気候形成に影響を与えた。

この白亜紀には、アロサウルス類(en)や最大の肉食恐竜として知られているものを含むスピノサウルス類(en)などが繁栄していた。ティタノサウルス属(en)は当時の生態系の重要な草食動物であった。アフリカでは、発掘された白亜紀の遺物は多いがジュラ紀のそれは少なく、今後の調査が待たれる。

先史時代

詳細は「アフリカ単一起源説」および「ミトコンドリア・イブ」を参照

ほとんどの古人類学者は、人類はアフリカで生まれたという説を採っている。アフリカは大陸移動や地殻変動から、大規模な気候変動を繰り返していた。人類の発生は約4000万年前に遡る東部での隆起帯が形成され、乾燥化が進展したことが要因にあると考えられる。「イーストサイドストーリー」では、豊かなコンゴ盆地森林から一部のサルが乾燥したサバンナへ分かれ、進化が始まったという。

南アフリカのヨハネスブルグ北部などが人類が初めて住んだ場所と考えられる。20世紀中頃には、人類学者たちは既に700万年以上古い人類の化石や生存の証拠類を発見していた。化石は、いく種もの類人猿に近い人類のものが発見され、放射年代測定から紀元前390-300万年頃に生きたと考えられるアウストラロピテクス・アファレンシスや紀元前230-140万年頃のパラントロプス・ボイセイ(en)、紀元前190-60万年頃のホモ・エルガステルが人類へ進化したと推察される。先史時代、他の大陸と同様にアフリカに住む人類は、国家を持たず、現代のコイコイ人サン人のように狩猟採集社会の集団をつくって生活していた。

アフリカはおおまかに、氷河期に乾燥して砂漠が拡大し、間氷期には森林が拡大するという循環を繰り返していた。20000年前頃には拡大をしていたサハラ砂漠は、12000年前頃には縮小に転じ、森林地帯の広がりとともにチャド湖など湖水の面積も大きくなった。この北部アフリカの「緑のサハラ」地域で人類は、狩猟や漁撈またの牧畜なども行っていた。

しかし5000年前頃から乾燥化が急速に始まり、砂漠の拡大と生存可能域の縮小に伴って人類は熱帯性気候の西や南、ナイル川流域などに移住した。

エジプト・地中海文明の発生

詳細は「アフリカ史」を参照

アフリカを歴史的、文化的に大きく区分すると、北アフリカの文化圏、西アフリカの文化圏、東アフリカの文化圏に区分される。東アフリカがコプト教のエチオピアとイスラム教のインド洋沿岸部と大きく区分されるほかは、西アフリカで独特なアニミズムの伝統が濃厚に残ってきたにもかかわらず、イスラム文化圏であったことが共通している。

アフリカの地図(G. and I. Blaeuによる1648年の地図) ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマがインド洋航路を発見した150年後に制作された。海岸線は正確だが、内陸部、特に河川の流路に関する情報が極端に不足していたことが分かる。例えばナイル川が南部アフリカに達しており、ニジェール川の流路は全く異なっている。冒頭の地図と比較されたい。

最古の史料が残っているのはファラオによる支配が始まったナイル川流域の古代エジプト王国であり、紀元前3300年頃の文字記録が発見されている。これは世界最古の文明の一つで、紀元前2900年頃、メネス王が上下エジプトを統一して以来、古王国時代に築かれたピラミッドによって世界的に知られている。紀元前1000年頃には製鉄技術が北アフリカにも伝播し、急速に広がってブラックアフリカ北部まで鉄器が使われるようになった。

一方、チュニジアでも紀元前800年頃にフェニキアの植民都市としてカルタゴが築かれ、経済大国となった。紀元前146年にカルタゴは共和政ローマに滅ぼされ、ローマ支配下のアフリカ属州となった。5世紀、ローマ帝国が弱体化し、ゲルマン民族の大移動の時代に、チュニジアでは、ヴァンダル族が、429年、カルタゴの故地にヴァンダル王国を建設したが、地中海世界の再統一に燃える東ローマ帝国によって534年に滅ぼされた。しかし、東ローマ帝国の北アフリカ支配も長くはなく636年、パレスチナのヤルムク河畔で、日ののぼる勢いのイスラム帝国(正統カリフ)に敗れると、エジプトを奪われ、北アフリカはウマイヤ朝時代にイスラム勢力の支配下に入った。アッバース朝時代に勢力争いで、ハールーン=アッラシードに敗れたイドリースは、マグリブ(現モロッコ)の地へ逃げて、フェズイドリース朝を開いた。9世紀以降、アッバース朝カリフは、800年にチュニジアのアグラブ朝、868年にエジプト総督代理のイブン=トゥルーンが築き、フマーラワイフが貢納を条件にエジプト総督を世襲して事実上エジプト独自のイスラム王朝となったトゥルーン朝、トゥルーン朝滅亡後、やはりエジプト総督のイブン=トゥグジュにイフシードの称号を与えるとともに大幅な自治を認め、イフシード朝の建国(935年)を許すなど分裂傾向を強めた。

西アフリカ・北アフリカ

西アフリカでは、紀元前900年にさかのぼるといわれる土偶製鉄技術をもったノク文化がナイジェリアの北部で生まれ、土偶の様式は、アフリカ中部から南部の彫刻に大きな影響をあたえた。ナイジェリアでは、9-10世紀のやイボ文化イボ=ウクゥ遺跡(イボ=ウクゥ)、10-13世紀のヨルバ文化(イフェ)、14-18世紀のベニン王国が繁栄し、優れた青銅製品で知られている。また西アフリカでは、紀元前500年頃に金属加工技術が到達したが、さらなる拡大は紀元後になった。エジプトやヌビア、エチオピアなど紀元前500年頃に製作された北部アフリカの青銅器が西アフリカで発掘されている。これは当時からサハラ交易が行われていた事を示す。この交易を背景に繁栄したのがセネガル川上流とニジェール川上流に4世紀にさかのぼるといわれるガーナ王国であり、11世紀後半まで岩塩と金の中継貿易で興隆を誇った。その後、交易路の東漸に伴って、マリ帝国がニジェール川上流のニアニ首都とし湾曲部のトンブクトゥを版図に含んで13-15世紀前半まで繁栄、ソンガイ帝国が15世紀後半から16世紀にかけて、ニジェール川湾曲部を中心にナイジェリア北部のハウサ諸国を従え、マリ帝国を屈服させてその版図の大部分を奪い、ほぼ西スーダンを統一する広大な版図を誇った。

一方、西スーダンのこのような王国のサハラ越えの隊商による交易に利害のあった北アフリカ西部、マグリブにもベルベル人によって11世紀中葉-12世紀中葉にムラービト朝、12世紀中葉-13世紀頃にムワッヒド朝、13-15世紀にマリーン朝という強力なイスラム王朝が建てられた。特にムラービト朝は、ガーナ王国を滅ぼしたことで知られる。ソンガイ帝国は、1590年に、16世紀中葉にモロッコで興った強力なサアド朝(サーディ朝)に攻め滅ぼされた。イフリーキヤと呼ばれたチュニジアも、909年にアグラブ朝を倒して、ファーティマ朝が興ると、926年には西隣のイドリース朝を滅ぼした。969年に、エジプトに東遷して、イフシード朝を滅ぼすと、北アフリカの統一を完成し、新首都カイロに遷都(973年)して、カリフを称した。西カリフ国と呼ばれたイベリア半島後ウマイヤ朝に比して、中カリフ国と呼ばれた。エジプトではその後対十字軍戦争で活躍したサラディンによるアイユーブ朝、アイユーブ朝のもとで実力をつけたバフリーヤなどのマムルークの力によって建国されたマムルーク朝が続く。一方、イフリーキヤでは、13世紀前半にムワッヒド朝から独立したハフス朝があり、これらの強力な王朝のもとで優れたイスラム建築が多数建設され、町並みが世界遺産に登録されているものも数多い。しかし、1517年にマムルーク朝、1574年にハフス朝オスマン帝国によって併合される。

モロッコ、アルジェリア、チュニジアなどの北アフリカの北西部に位置するアラブ諸国はマグリブと呼ばれ、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわち、時と場合によってはリビアモーリタニアも含められる。ただし、モーリタニアの南部は、歴史的に西スーダンのガーナ王国の中心部で、マリ帝国の版図に属していたことから、通常は西アフリカに区分される。

東アフリカ・南アフリカ

東アフリカの北部にあたるエチオピアでは、4世紀にコプト教を国教としたアクスム王国が、ギリシャ、ローマ帝国、そして東ローマ帝国との交流をもち、紅海貿易で繁栄した。11世紀頃にザグウェ朝が興り、世界遺産になっているラリベラの岩窟教会群が造られた。沿岸部では、イスラム商人によるインド洋交易がさかんで、モガディシオキルワ、マリンディなどの港湾都市が繁栄した。交易路は、モザンビーク南部の港町ソファラからジンバブエザンベジ川流域、リンポポ川流域にまで及び14-15世紀にショナ人によるモノモタパ王国象牙の輸出で繁栄した。モノモタパ王国の首都と目されるグレート・ジンバブエ遺跡からは、中国(代)の青花などの陶磁器インド綿製品、インドネシアの数珠玉、ペルシャなどの出土がみられ、当時の交易が盛んであったことを物語っている。モノモタパ王国が衰退すると、ロズウィ王国(1660年 - 1866年)が19世紀半ばまでジンバブエの地を支配した。

奴隷貿易

ベナンウィダーにある「帰らずの門」。この門をくぐって奴隷船に積み込まれた奴隷たちは、故郷を見ることは二度となかった
詳細は「奴隷貿易」を参照

長い間アフリカは、奴隷制度に蝕まれてきた。7世紀から20世紀に至るまでアラブ世界への奴隷貿易は継続して行われ、1800万人がサハラ交易インド洋貿易で取引された。大航海時代を迎えたヨーロッパのアフリカ進出は金が目的だったが、既にアラブ諸国への交易路が形成されていることを知ると、対象を奴隷の確保に変えた。15世紀から19世紀までの500年にはアメリカ州向けの奴隷貿易(en)が行われ、700-1200万人が新世界の奴隷として輸出された。

1820年代、西アフリカは大西洋航路の奴隷貿易が衰退し、地域の経済活動に変革を迫られた。ヨーロッパや新世界における奴隷制度廃止運動の沸きあがりに応じたジリ貧や、海岸部でのイギリス海軍駐留数の増加は、アフリカ諸国に新しい経済体制の選択をさせた。1808年から1860年の間に、イギリスの西アフリカ小艦隊(en)は約1600隻の奴隷船を拿捕し、15万人のアフリカ人を解放した。

また、奴隷貿易非合法化に抵抗する指導者層に対しても行動を起こし、例えば1851年「ラゴスの略奪王 (the usurping King of Lagos)」攻略などが挙げられる。反奴隷貿易の協定はアフリカ50カ国以上の国々で締結された。この動きに、国力があったアシャンティ王国ダホメ王国、オヨ王国(en)は順応する動きを取り、アシャンティやダホメはパーム油カカオ、ランバー材(en)や金など、現在の主力でもある商品輸出という「合法的な通商」へ転換した。しかしオヨ王国は適応できず、内戦の末に崩壊した。

アフリカ分割

アフリカの地図 1890年
詳細は「アフリカ分割」を参照

19世紀後半には、アメリカ解放奴隷が建国したリベリア第一次エチオピア戦争で独立を維持したエチオピアを除いて、ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が行われ、西アフリカの小王国が滅ぼされた。このとき国境線が民族や宗教に関係なく勝手に引かれたため、後の民族紛争の原因ともなった。 緯線経線を基準に引かれていることが多い。

脱植民地化

詳細は「アフリカの脱植民地化」、「en:Decolonization of Africa」、および「アジア・アフリカ諸国の独立年表」を参照

ヨーロッパ列強の帝国主義第二次世界大戦以降も続いたが、次第に弱まってアフリカ諸国の独立への機運が高まった。1951年にはリビアイタリアから、1956年にはチュニジアモロッコフランスから独立を果たした。翌年にはガーナが続き、サブサハラ初の脱植民地を成した。

1960年のいわゆる「アフリカの年」ごろからヨーロッパの植民地から次々に独立国が誕生したが、独裁政治の発生や内戦などの問題を抱えつつ今日に至っている。なお、政治的統合をして、新植民地主義への対抗や民主主義の促進、アフリカ地域の国際的地位向上などを目指し1963年5月に発足したアフリカ統一機構(OAU)が、2002年7月9日には発展解消してアフリカ連合が成立した。これは、個々の国を超えた枠でのアフリカ政治の中心的役割を担い、今日でも紛争、貧困、エイズなど山積みする問題の解決や国際的地位の向上を目指している。

地理

詳細は「アフリカの地理」を参照
現在のアフリカ

北は地中海、西は大西洋、東はインド洋および紅海に面する。南端のアガラス岬で大西洋とインド洋が接する。南北約8,000km、東西約7,400km。海岸線は総延長26,000kmである。かつてはスエズ地峡によりユーラシア大陸とつながっていたが、現在ではスエズ運河が開通して分断され、この運河がアフリカとアジアの境界と受け取られる場合もある。

大陸北側に世界最大の砂漠であるサハラ砂漠をもち、これによって大陸は大きく二つに分けられる。また大陸東部にはパンゲア大陸がゴンドワナローラシア大陸に分裂したときの名残である2,000kmの隆起地帯(ドーミング)と、それを東西に切り裂く世界最大長のアフリカ大地溝帯(東アフリカ地溝帯)が南北に走る。この南端にはアフリカ大陸最高峰キリマンジャロ山(5,895m)があり、これは他の五大陸最高峰が非火山であるのに対し唯一火山活動で形成されたものである。大地溝帯には複数の火山や東アフリカ大湖沼群があり、西側で接するエチオピア高原などの高地部分にもニアムラギラ山(en)ニーラゴンゴ山などの活火山ヴィクトリア湖などの古代湖が残る。しかしアフリカ大陸全体で、標高500m以上の領域は半分程度に過ぎない。理由はこれも大陸移動が関係しており、アフリカはパンゲア大陸の中心部として移動した距離が短く、山脈が形成されにくかったことが挙げられる。

気候

気候は多様である。ほぼ赤道直下に位置する大陸中央部は西部のギニア湾沿岸から大陸中部のコンゴ盆地にかかる熱帯雨林で高温多湿な地域が広がり、これを挟んでセレンゲティ高原などのサバンナ地域が広がる。さらに高緯度に向かうと砂漠気候域に入り、北にはサハラ砂漠、南にはカラハリ砂漠が広がる。大陸北端と南端は地中海性気候域となる。

政治

ソマリアで放棄された戦車。長期化する内戦は解決の糸口を見出せない。
食糧配給に列をなすソマリアの人々。

アフリカの多くの国々は情勢が非常に不安定であり、ヨーロッパなどに比べると遙かに治安が悪い地区が多い。政治的に安定している国はごくわずかである。イギリスの雑誌『エコノミスト』は、2008年にアフリカ各国の政治情勢を民主主義達成度から分析し公表した。これによると、対象50カ国(ソマリア、セーシェル、サントメ・プリンシペ及び西サハラ、ソマリランドは含まれない)のうち、完全な民主主義を実現している国はモーリシャスただ1国で、15カ国は独裁と民主政の混合状態、28カ国は完全な独裁体制と分析されている。

このような体制が出来上がった背景には、植

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出典:wikipedia
2018/02/15 08:15

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