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アポロ11号とは?


【任務種別】
有人月面着陸
【運用者】
NASA
COSPAR ID
  • CSM: 1969-059A
  • LM: 1969-059C

SATCAT №
  • CSM: 4039
  • LM: 4041

【任務期間】
8日と3時間18分35秒

【特性】

【宇宙機】

【製造者】

【打ち上げ時重量】
100,756ポンド (45,702 kg)
【着陸時重量】
10,873ポンド (4,932 kg)

【乗員】

【乗員数】
3名
【乗員】

【コールサイン】


【任務開始】

【打ち上げ日】
1969年7月16日13:32:00 (UTC) (1969-07-16T13:32:00Z)
ロケット
サターンV SA-506
打上げ場所
ケネディ宇宙センター LC-39A

【任務終了】

【回収担当】
USS Hornet
【着陸日】
1969年7月24日16時50分35秒 (UTC) (1969-7-24T16:50:35Z)
【着陸地点】
北太平洋
北緯13度19分 西経169度9分 / 北緯13.317度 西経169.150度 / 13.317; -169.150 (アポロ11号着水地点)

【軌道特性】

参照座標
月周回軌道
近点高度
54.5海里 (100.9 km)
遠点高度
66.1海里 (122.4 km)
傾斜角
1.25度
軌道周期
2時間
【元期】
1969年7月19日21:44 UTC

【月オービター】

【宇宙船搭載構成物】
司令・機械船
【軌道挿入】
1969年7月19日17:21:50 UTC
【軌道脱出】
1969年7月22日04:55:42 UTC
【軌道周回数】
30周
【月着陸船】

【宇宙船搭載構成物】
月着陸船
【着陸】
1969年7月20日20:18:04 UTC
【帰還】
1969年7月21日17:54 UTC
【着陸地点】
静かの海
北緯0度40分27秒 東経23度28分23秒 / 北緯0.67408度 東経23.47297度 / 0.67408; 23.47297
【標本採集量】
47.51ポンド (21.55 kg)
【船外活動回数】
1回
【船外活動時間】
2時間31分40秒

【月着陸船のドッキング(捕捉)】

【ドッキング(捕捉)日】
1969年7月16日16:56:03 UTC
【分離日】
1969年7月20日17:44:00 UTC
【月着陸船上昇段のドッキング(捕捉)】

【ドッキング(捕捉)日】
1969年7月21日21:35:00 UTC
【分離日】
1969年7月21日23:41:31 UTC


ミッション徽章


左から:アームストロングコリンズオルドリン
アポロ計画

アポロ11号(アポロ11ごう、: Apollo 11)は、史上初めて人類着陸させることに成功したアポロ宇宙船、およびそのミッションの名称である。

概略

アポロ11号は2人の人間を世界で最初に着陸させた宇宙飛行であった。ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン月着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、1969年7月20日20時17分(UTC=協定世界時)にアポロ月着陸船「イーグル」号を月に着陸させた。アームストロングは7月21日の2時56分15秒(UTC)に月面に降り立った最初の人物となり、その19分後にオルドリンがアームストロングに続いた。二人は約2時間15分をともに船外で過ごし、47.5ポンド(21.5キログラム)の月物質を地球に持ち帰るために採取した。2人が月面にいる間、マイケル・コリンズ司令船操縦士はひとり月周回軌道上で司令船「コロンビア」号を飛行させた。アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再び「コロンビア」に合流した。

アポロ11号は、7月16日13時32分(UTC)にフロリダ州メリット島にあるケネディ宇宙センターからサターンV型ロケットで打ち上げられ、NASAのアポロ計画の5番目の有人ミッションとなった。アポロ宇宙船は次の3つの部分(モジュール)から構成される。3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である司令船(CM)と、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する機械船(SM)、そして月に着陸するための下降段と、月を離陸して再び月周回軌道まで宇宙飛行士を送り届けるための上昇段の二段式になっている月着陸船(LM)である。

アポロ宇宙船の技術的詳細については「アポロ宇宙船」を参照

アポロ11号はサターンVの第三段の推力で月に向かう軌道に乗り、宇宙船をサターンVから切り離したあと、およそ3日間かけて旅し、月軌道に入った。アームストロングとオルドリンは月着陸船「イーグル」に移乗し、静かの海に軟着陸した。2人は「イーグル」の上昇段を使用して月面を離陸し、司令船「コロンビア」で待つコリンズと再び合流した。「イーグル」を投棄したあと、宇宙飛行士たちは司令船を地球へ帰還する軌道に乗せる操作を行い、エンジンを噴射して月軌道を離脱した。3人は8日間以上の宇宙飛行を終えて、7月24日に地球に帰還し、太平洋に着水 (splashdown) した。

アームストロングが月面に最初の一歩を踏み下ろす場面は、テレビジョン放送を通じて全世界に向けて生中継された。アームストロングはこの出来事について「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた。アポロ11号は実質的に宇宙開発競争を終わらせ、1961年に故ジョン・F・ケネディ大統領が掲げた「この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という国家目標を見事に達成した。

背景

1950年代後半から1960年代前半にかけて、アメリカ合衆国(米国)は地政学的な競争相手のソビエト連邦(ソ連)と冷戦の最中にあった。1957年10月4日、ソ連は世界初の人工衛星となるスプートニク1号を打ち上げた。この出し抜けの打ち上げ成功でソ連は世界中を驚かせ、人々の不安を煽り、想像力をかき立てた。ソ連には大陸間の距離を越えて核兵器を打ち込める能力があることを証明して見せ、米国の主張する軍事・経済・技術的優位を試したのである。これにより、突如としてスプートニク・ショックが起こり、宇宙開発競争の端緒が開かれた。

ソ連によるスプートニクの挑戦に対して、米国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領は国家航空宇宙局(NASA)を創設し、人を地球周回軌道に乗せることを目指すマーキュリー計画に着手した。しかし、1961年4月12日にソ連のコスモノート(宇宙飛行士)、ユーリイ・ガガーリンが世界で最初に宇宙を飛行し、初めて軌道上で地球を周回した人物となったことにより、スプートニク・ショックで傷ついたアメリカ人の自尊心に追い打ちをかける形となった。ソ連に遅れることおよそ1か月、1961年5月5日にアラン・シェパードが約15分間の弾道飛行の旅を成し遂げ、初めて宇宙を飛行したアメリカ人となった。シェパードは大西洋から回収されたあと、アイゼンハワーの後任のジョン・F・ケネディ大統領から祝いの電話を受けた。

ケネディは、他国に優越せんとすることは合衆国の国民的関心の中にあって、米国の国力に対する認識は少なくとも現実(の国力)と同程度に重要であると信じていた。それゆえに、宇宙探査の分野においてソ連が(米国よりも)先進的であることは耐えがたいことであった。ケネディは、合衆国は競争しなければならないと固く決心し、勝機を最大化する試練を探し求めた。

当時、ソ連は米国よりも優れたブースターロケットを有していたため、ケネディは米国がソ連と対等の立場で競争を始められるよう、既存世代のロケットの最大出力を超える試練を要求した。たとえそれが軍事上、経済上、科学上の理由で妥当なものとして認められなかったとしても、壮大な見世物であった。ケネディは自身の顧問と専門家に相談した結果、そのような事業計画を選択した。1961年5月25日、ケネディは "Urgent National Needs" (至急の国家的要請)に関して合衆国議会で次のように演説した。

私は、この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標を達成することに我が国民が真剣に取り組むべきであると信ずるものであります。これ以上人類に強い印象を与える宇宙事業計画はこの時代にただのひとつも存在せず、それが長期に及ぶ宇宙の探査のために重要であることもまたとないことでしょう。そして、完遂するためにこれほど困難をともない、費用のかかるプロジェクトもそうないことでしょう。我々はしかるべき月宇宙船の開発を加速するつもりです。我々は、これまでに開発されたいずれのものよりもはるかに大型で、それらの代わりとなる液体および固体の燃料ブースターを一定の優れた成果が得られるまで開発するつもりです。我々は、その他のエンジン開発および無人探査、我が国民が決して見落とすことのないことには、この大胆な宇宙飛行を最初に行う者が生還すること、そのひとつの目的のために特に重要である探査に充てる追加的な基金を提案します。しかし、本当の意味で、ただ一人の人間が月に行くのではありません。我々がこの判断を肯定すれば、全国民が月に行ったも同然です。と申しますのも、彼を月に送り込むには我々皆が働かなければならないからです。
第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ、1961年5月25日、上下両院合同会議における演説より

人間を月に着陸させるための取り組みには、すでにアポロ計画(Project Apollo)という名前がつけられていた。直接上昇方式と地球軌道ランデブーの両方にかかわる月軌道ランデブーは、早期にあったきわめて重大な決定事項であった。宇宙空間におけるランデブーとは、2機の宇宙船が宇宙空間を航行して落ち合う軌道操縦のことである。1962年7月11日、NASA長官のジェームズ・ウェッブは月軌道ランデブー方式を用いることに決定したと発表した。その結果、はるかに小さいロケットと3つのモジュールから成るアポロ宇宙船とでアポロ計画は進められることになった。この方法を選択したことは、アポロ宇宙船が(当時開発中だった)サターンV型ロケットで打ち上げられるであろうことを意味した。

アポロ計画に要求される技術および技巧はジェミニ計画で開発されたものである。アポロ計画は、1967年1月27日にアポロ1号が火災事故に遭い、3名の宇宙飛行士が亡くなったことと、それに関する調査のため、不意に中断された。1968年10月にアポロ7号が地球周回軌道上で司令船の評価を行い、同年12月にアポロ8号がそれを月周回軌道上で試験した。1969年3月にアポロ9号が地球軌道上で月着陸船の調子を試し、同年5月にアポロ10号が月軌道上で予行演習を実施した。こうして1969年7月までに、アポロ11号が月面に到達する最終段階までに必要な準備がすべて整った。

ソ連は米国と宇宙開発競争を繰り広げたが、米国のサターンVに匹敵するN-1ロケットの開発の度重なる失敗によって初期の優位は失われていた。それでもソ連は米国に打ち勝とうとして無人探査機を飛ばし、月物質を地球に持ち帰ること(サンプルリターン)を試みた。アポロ11号の打ち上げの3日前にあたる7月13日、ソ連はルナ15号を打ち上げ、アポロ11号よりも先に月軌道に到達させた。しかし、月面へ降下する間に探査機が機能不全に陥り、危難の海に激突した。そのときの衝撃はアポロ11号が月面に設置した地震計に詳細に記録された。アームストロングとオルドリンが月面を離陸して地球への帰路につくおよそ2時間前のことであった。イングランドにあるナフィールド電波天文学研究所の電波望遠鏡が月へ降下中のルナ15号から伝送された信号を記録しており、それらはアポロ11号の40周年記念にあたる2009年7月に公表された。

人員

正規搭乗員

地位 宇宙飛行士
船長 ニール・A・アームストロング
最後にして2回目の宇宙飛行
司令船操縦士 マイケル・コリンズ
最後にして2回目の宇宙飛行
月着陸船操縦士 エドウィン・E・オルドリンJr.
最後にして2回目の宇宙飛行

当初は、船長にニール・アームストロングを、司令船操縦士(CMP)にジム・ラヴェルを、月着陸船操縦士(LMP)にバズ・オルドリンを、それぞれアポロ9号の予備搭乗員として割り当てることが1967年11月20日に公式に発表された。ラヴェルとオルドリンは以前、ジェミニ12号の搭乗員として一緒に飛行したことがあった。月着陸船(LM)の設計と製造に遅れが生じたため、アポロ8号とアポロ9号は正規搭乗員および予備搭乗員が交代させられ、アームストロング船長以下の搭乗員はアポロ8号の予備搭乗員になった。通常の搭乗員ローテーション計画に基づけば、アームストロングは当時アポロ11号の船長になるものと予想されていた。

ところが、うち1人が変更されることになった。アポロ8号に正規搭乗員として乗り組む予定だったマイケル・コリンズが両脚に故障を抱え始めたためである。医師からは5番目と6番目の椎骨間の骨の成長に問題があると診断され、外科手術を要するほどの容態であった。そのため、ラヴェルがコリンズに代わってアポロ8号の搭乗員になり、コリンズは故障から回復すると司令船操縦士としてアームストロング船長以下の搭乗員に加わった。その間、フレッド・ヘイズが月着陸船操縦士として、オルドリンが司令船操縦士として、それぞれアポロ8号の予備搭乗員を務めた。搭乗員全員が先に宇宙飛行を経験したことのあるベテラン飛行士で編成されたのは、アメリカの宇宙開発史上、アポロ10号に次いでこれが2度目のことだった。以後、全員がベテラン飛行士で編成される3度目の機会は1988年のSTS-26まで訪れることはなかった。

一部では、オルドリンはともに働くことに難があると思われていたため、飛行乗組員の運用責任者だったスレイトンはアームストロングにオルドリンをラヴェルと交代させる選択肢を用意した。アームストロングはオルドリンと働くことに何も問題を抱えていなかったが、与えられた選択肢について日が暮れるまで熟考した。アームストロングが考えたところでは、ラヴェルは船長として彼独自のミッションを指揮してもらうのが当然であるとの結論に至った(結局、ラヴェルはアポロ13号の船長を務めた)。

アポロ11号の正規搭乗員は、アポロ12号の搭乗員に特徴的にみられたような、親密で積極的な仲間意識を持っていなかった。代わりに、気立てのいい仕事上の関係を築いた。とりわけアームストロングは周知のごとくよそよそしかったが、コリンズも自身を孤独が好きだと思っており、もっと個人的な関係を創出しようとしてきたオルドリンをはねつけていたことを告白した。オルドリンとコリンズはアポロ11号の乗組員について「親しげなよそ者たち("amiable strangers")」だったと記している。ただし、アームストロングはこの人物評価に同意せず、「私が接した乗組員は皆一緒にとてもよく働いた」と述べた。

予備搭乗員

地位 宇宙飛行士
船長 ジェームズ・A・ラヴェルJr.
司令船操縦士 ウィリアム・A・アンダース
月着陸船操縦士 フレッド・W・ヘイズJr.

予備搭乗員の構成は、ラヴェルが船長、アンダースが司令船操縦士、ヘイズが月着陸船操縦士だった。このうち、アンダースとラヴェルはアポロ8号で一緒に飛行したことがあった。ところが、1969年前半にアンダースは同年8月に実施される国家航空宇宙会議との仕事を引き受け、その日をもって宇宙飛行士を引退することを発表した。その時点で、万が一アポロ11号が予定されていた7月の打ち上げより遅れてアンダースを任用できなくなった場合に備えて、ケン・マッティングリーを地上支援員から異動させ、予備の司令船操縦士としてアンダースと並行して訓練を受けさせることにした。ラヴェル、ヘイズ、マッティングリーの3名は、のちにアポロ13号の正規搭乗員として配属されることになった。

地上支援員

マーキュリー計画とジェミニ計画の頃は、各ミッションに正規搭乗員と予備搭乗員の2つの枠があったが、アポロ計画では地上支援員(support crew)として知られる3つ目の枠が追加された。地上支援員は飛行計画、チェックリスト、ミッションごとのグランドルール(行動規範)を維持し、何かしらの変更があったときにそれを正規搭乗員および予備搭乗員に確実に知らせる任務を担っていた。また、正規搭乗員と予備搭乗員がシミュレータ内に訓練に来たときに練習して習得することに集中できるよう、特に緊急事態用の手順も開発した。アポロ11号では、ケン・マッティングリーロナルド・エヴァンスビル・ポーグが地上支援員を構成していた。

宇宙船通信担当官

飛行中のアポロ11号と交信するCAPCOMのチャールズ・デュークジェームズ・ラヴェルフレッド・ヘイズ

宇宙船通信担当官(Capsule communicators、CAPCOM)は、テキサス州ヒューストンにあるミッション管制センターの宇宙飛行士で、搭乗員と直接交信する唯一の人物であった。アポロ11号では、チャールズ・デュークロナルド・エヴァンスブルース・マッカンドレス2世ジェームズ・ラヴェルウィリアム・アンダースケン・マッティングリーフレッド・ヘイズドン・L・リンドオーウェン・K・ギャリオットハリソン・シュミットがCAPCOMを務めた。

飛行主任

以下の4名の飛行主任(flight directors)が交替勤務でこのミッションを支えた。

準備

徽章

アポロ11号の徽章

アポロ11号のミッション徽章はコリンズが「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴することを願ってデザインした。ラヴェルの提案で、コリンズはアメリカ合衆国の国鳥であるハクトウワシを象徴に選んだ。シミュレータ・インストラクターのトム・ウィルソンは、彼らの平和的な任務を表すオリーブの枝を配置してはどうかと提案した。そこで、くちばしに平和の象徴であるオリーブの枝をくわえたワシが描かれた。また、コリンズは遠くに地球を望みつつ月を背景に加えた。この図案の中の日光は差してくる方向が正しくなく、地球の影は左ではなくもっと下の方に描かれるべきだった。アームストロング、オルドリン、コリンズは、ワシと月を自然のままの色で彩り、円周を青色と金色で縁取ることに決めた。アームストロングが "eleven" 表記では非英語話者に理解されにくいのではないかと懸念したので、 "Apollo 11" とアラビア数字表記になった。また、アポロ11号の搭乗員たちは自分たちの名前を徽章に記載しないことに決め、徽章は「月面着陸に向けて働いた“みんな”を代表する」ものとなった。

有人宇宙船センターのイラストレーターが図案を作品に仕上げ、それからNASAの役人たちに承認を求めるために送付された。ところが、その図案は却下された。有人宇宙船センター長のボブ・ギルルースは、このワシの鉤爪が「あまりに好戦的すぎる」と感じたのであった。いくらかの議論があったあと、オリーブの枝をくちばしから足の爪に移すことで巧みに爪を隠すことにした。1971年にアイゼンハワーの1ドル硬貨が発行されたときには、硬貨の裏面にこの図案のワシが使用された。アポロ11号のミッションから10年後にあたる1979年に発行された小さなアンソニーの1ドル硬貨にも、この徽章の図案が使用された。

コールサイン

アポロ10号の搭乗員が自分たちの搭乗するアポロ宇宙船を「チャーリー・ブラウン(Charlie Brown)」および「スヌーピー(Snoopy)」と名付けたことがあって、広報担当のジュリアン・シアーは、当時有人宇宙船センターでアポロ計画室の室長を務めていたジョージ・M・ロウに、アポロ11号の搭乗員が自分たちのアポロ宇宙船を命名する際はもう少し真面目な名前をつけるようにしてはもらえないだろうかと提案した。NASAの計画の初期段階において、アポロ11号の司令船は「スノーコーン(Snowcone)」(「かき氷」の意)、同じく月着陸船は「ヘイスタック(Haystack)」(「干し草積み」の意)という名で呼ばれており、内外の伝達で使用されていた。

アポロ11号の月着陸船はミッション徽章で中心的な役割を演じたモチーフにちなんで「イーグル(Eagle)」(「ワシ」の意)と命名された。シアーの提案で、司令船は「コロンビア(Columbia)」と命名された。その由来はジュール・ヴェルヌの1865年発表の小説『地球から月へ』に登場する、(アポロ同様フロリダから)宇宙船を発射するための巨大な大砲「コロンビアード」で、アメリカ合衆国を象徴的に擬人化した伝統的な女性名「コロンビア」にもちなんでいる。また、コリンズは1976年に出版した自著の中で、「コロンビア」はクリストファー・コロンブスに関連していたと述べている。

記念品

アポロ11号と共に宇宙を飛行した銀のロビンス・メダル

アポロ11号の宇宙飛行士は、個人趣向キット(Personal Preference Kits、PPK:ミッションに持っていきたい個人的に意義深い記念の品々)を入れた小さな袋を所持していた。重さにして0.5ポンド(0.23キログラム)の5つの個人的な記念品(PPK)がアポロ11号に持ち込まれた。

ニール・アームストロングが月着陸船に持ち込んだのは、ライト兄弟が初めて空を飛んだ1903年のライトフライヤー号の左のプロペラから取った木片と、その翼から取った布切れ、そして当初ディーク・スレイトンがアポロ1号の搭乗員の配偶者たちからもらった、ダイヤモンドが散りばめられた宇宙飛行士の階級章だった。この階級章はアポロ1号で飛行し、ミッション後にスレイトンに与えられるはずだったが、発射台での悲惨な火災事故とあとに続いた葬儀を受けて、配偶者たちがスレイトンに渡したもので、アームストロングはそれを持ってアポロ11号に乗船した。

着陸候補地の選定

アポロ11号が着陸できる見込みのある地点を示した月面図。地点2が選ばれた。

NASAのアポロ着陸候補地選定委員会(Apollo Site Selection Board、ASSB)は1968年2月8日、5つの有力な着陸候補地を発表した。それらはルナ・オービター計画の5機の無人探査機が撮影した月面の高解像度写真、ならびにサーベイヤー計画で得られた月の表面の状態に関する情報に基づき、2年間かけて行われた価値ある調査の結果であった。地上に設置されたどんなに優れた望遠鏡でも、アポロ計画に要求される解像度で月面の特徴を解像することはできなかった。宇宙船が消費する推進剤の量を最小限に抑えることが要求されたため、着陸地点は月の赤道に近い場所でなければならなかった。さらに、機動的な飛行を最小限度に留めるために障害物のない開けた場所であることが求められ、着陸用レーダーのタスクを簡素化するために平坦であることが同時に求められた。科学的な価値は考慮に入れられなかった。

地球上で撮影された写真から有望そうに思えた領域は、そのほとんどがまったく許容できない場所であることがわかった。当初の要件はクレーターのない緩やかな場所だったが、そのような場所はひとつも見つからなかった。結局、5つの地点が候補地として検討された。地点1と地点2は静かの海に、地点3は中央の入江に、地点4と地点5は嵐の大洋にあった。最終候補地の選定は以下の7つの基準に基づいて行われた。

このうち太陽の角度に関する要件は特に制限的で、これによって打ち上げ日は1か月につき1日にまで制限されることとなった。宇宙飛行士が体験することになる温度の極値を制限するため、夜明けの直後に着陸することになった。ASSBは地点2を着陸予定地点に選出し、地点3と地点5は打ち上げ日が遅れた場合の予備の地点に選ばれた。1969年5月、アポロ10号の月着陸船は地点2から15キロ以内を飛行し、地点2は着陸予定地として容認できると報告した。

最初の一歩の決定

アポロ11号の搭乗員が発表されたあとの最初の記者会見で、記者から尋ねられた最初の質問が「あなた方の中で最初に月面に足を踏み出すのはどなたでしょうか?」であった。スレイトンは記者に「それはまだ決まっていない」と答え、アームストロングは「個々人の願望に基づいて決めることはない」と付け加えた。

退出チェックリストの初期の版のひとつでは、月着陸船操縦士は司令船操縦士よりも先に船を降りることになっており、以前のミッションで行われてきたことと一致していた。船長は一度も宇宙遊泳をしないことになっていた。記者たちは1969年の前半、最初に月面を歩行するのはオルドリンになりそうだと書いたが、ジョージ・ミラー副長官は記者に彼(船長)もまた最初(の1人)になるだろうと伝えた。当のオルドリンは、文民であるという理由でアームストロングが最初に月面を踏むだろうと聞いて激怒した。オルドリンはほかの月着陸船操縦士らに自分こそが最初の1人になるべきだと説得を試みたが、ロビー活動のようなものだと感づいた彼らは皮肉っぽく応じた。部局間の対立を止めようとして、スレイトンはオルドリンにアームストロングが船長なのだから最初の一人は彼になるだろうと伝えた。1969年4月14日の記者会見で、その決定が発表された。

オルドリンは何十年間も、この最終決定は大方、月着陸船のハッチの位置で決まったものだと信じていた。なぜならば、宇宙飛行士は宇宙服を着ており宇宙船の中はとても狭いため、宇宙船からうまく脱出することは難しかったからである。搭乗員の受けた模擬演習ではオルドリンが最初に宇宙船を出ていたのだが、オルドリンは脱出を試みる際に演習設備を壊してしまった。この出来事は、ミッション計画立案者が決断を下すのに十分な事由であった。オルドリンとアームストロングは春の終わりごろまでこの決定に関して知らされずにいた。スレイトンは、「彼が同意すれば、君に最初に宇宙船を降りてもらう計画だ」とアームストロングに伝え、アームストロングは「ええ、それがいい方法です」と答えた。

メディアは、船長の特権を利用して最初に宇宙船を降りる役を射止めたとしてアームストロングを非難した。クリス・クラフトが2001年に出した自叙伝の中で明かしたところでは、ギルルース、スレイトン、ロウおよびクラフトの四者間で協議を行い、オルドリンが最初に月面を歩くことにはならないことを確認したという。彼らは、最初に月面を歩く人物はチャールズ・リンドバーグのように冷静沈着な人物であるべきだと主張した。そして、飛行計画を変更する決定が下され、船長であるアームストロングが最初に宇宙船から月面に降り立つこととなった。

発射準備

ロケット組立棟から第39発射施設へと搬出される、宇宙船アポロ11号を搭載したサターンV型ロケット SA-506

月着陸船LM-5の上昇段は1969年1月8日にケネディ宇宙センターに到着し、その4日後には下降段が、1月23日には司令・機械船CM-107がそれぞれ到着した。LM-5とアポロ10号のLM-4との間にはいくつかの違いがあった。LM-5には月面で船外活動中に宇宙飛行士との通信を円滑に行うためのVHF無線アンテナ、軽量化された上昇用エンジン、熱防護が強化された着陸装置、初期アポロ科学実験パッケージ(Early Apollo Scientific Experiments Package、EASEP)として知られる科学実験装置一式が備えられていた。司令船の構成で唯一変更されたのは、前面ハッチからいくつか断熱材が取り除かれた点であった。司令船と機械船は1月29日に連結され、4月14日にO&Cビルディングからロケット組立棟に移された。

サターンV AS-506の第三段S-IVBは1月18日に到着し、続いて第二段S-IIが2月6日に、第一段S-ICが2月20日に、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/03/29 17:25

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