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アメリカ合衆国の植民地時代とは?

アメリカ合衆国の植民地時代(アメリカがっしゅうこくのしょくみんちじだい、: Colonial history of the United States)は、ヨーロッパ人による植民地化から始まり、ヨーロッパからの独立のときまでの歴史であり、特に1776年独立を宣言した13植民地の歴史である。16世紀後半からイングランドスコットランドフランススウェーデンスペインおよびオランダ北アメリカ大陸東部の植民地化を始めた。初期の多くの植民の試み、特にイギリスによるロアノーク植民地は失敗に終わったが、幾つかの植民地が設立された。ヨーロッパ人開拓者達は様々な社会と宗教の集団から出てきた者達だった。恒久的に定着した貴族階級はいなかったが、多くの冒険家、軍人、農夫および貿易業者が到着した。その中でもニューネーデルラントオランダ人ニュースウェーデンスウェーデン人フィンランド人ペンシルベニアのイギリス系クエーカー教徒、ニューイングランドのイギリス系ピューリタンジェームズタウンのイギリス系開拓者およびジョージアの「清貧な」人々、それぞれの集団が新大陸に来て植民地を建設し、社会、宗教、政治および経済の様式に特徴あるものをもたらした。

歴史家達は通常、後にアメリカ合衆国東部となった土地に4つのはっきりした地域を認めている。北から南にニューイングランド、大西洋岸中部、チェサピーク湾植民地(アッパー・サウス)およびローワー・サウスである。歴史家の中には5番目の地域としてフロンティアを加える者がいるが、これは別に組織化されたものではなかった。後のアメリカ合衆国に土地を与えたその他の植民地としては、ヌーベルフランスケベック(フランス領ルイジアナ)、ヌエバ・エスパーニャおよびロシアアラスカがあった。

目次

  • 1 植民地化の目的
  • 2 初期植民地の失敗
  • 3 スペインの植民地
    • 3.1 フロリダ
    • 3.2 ニューメキシコ(1598年-1821年)
    • 3.3 カリフォルニア(1769年-1821)
  • 4 ニューネーデルラント
  • 5 ニュースウェーデン
  • 6 ヌーベルフランス
  • 7 ロシアの植民地
  • 8 イギリスの植民地
    • 8.1 チェサピーク湾地域
      • 8.1.1 バージニア
    • 8.2 ニューイングランド
      • 8.2.1 ピルグリム・ファーザーズ
      • 8.2.2 ピューリタン
    • 8.3 大西洋岸中部植民地
    • 8.4 ローワー・サウス
      • 8.4.1 カロライナ
      • 8.4.2 ジョージア
      • 8.4.3 東フロリダと西フロリダ
  • 9 1776年におけるイギリスの統治体制
    • 9.1 直轄植民地
    • 9.2 領主領植民地
    • 9.3 特許植民地
  • 10 イギリスによる管理の統一
    • 10.1 共通の防衛
    • 10.2 フレンチ・インディアン戦争
    • 10.3 イギリス帝国への結びつき
  • 11 統一から革命
    • 11.1 王室宣言
    • 11.2 イギリス議会の法令
  • 12 植民地の生活
    • 12.1 ニューイングランド
      • 12.1.1 農園の生活
      • 12.1.2 町の生活
      • 12.1.3 文化と教育
      • 12.1.4 宗教
    • 12.2 大西洋岸中部
      • 12.2.1 生活様式
      • 12.2.2 農業
      • 12.2.3 海港
    • 12.3 南部植民地
      • 12.3.1 プランテーション
      • 12.3.2 奴隷
  • 13 脚注
  • 14 関連項目
  • 15 参考文献
    • 15.1 二次史料
    • 15.2 一次資料
  • 16 外部リンク

植民地化の目的

植民者達は高度に発達した陸軍、海軍、政府および企業家的な可能性を備えたヨーロッパの国々から来た。スペイン人ポルトガル人レコンキスタの数世紀にわたる征服と植民地化の経験があり、新しい海洋航行可能な船舶の操船術と組み合わされて新世界を植民地化する道具と能力および願望を持っていた。イングランド、フランスおよびオランダは西インド諸島と北アメリカ大陸の双方で植民地化を始めた。これらの国は海洋航行可能な船舶の造船術を持っていたが、スペインのように植民地化の強力な歴史は持っていなかった。しかし、イングランドのテューダー朝は初期資本主義(重商主義)を通じてアメリカ大陸の植民地に政府の統制をあまり必要としない商業に基づく投資の性格を与えた。

初期植民地の失敗

ノバスコシア(ニュースコットランド)は1629年に入植されたが1631年にフランスのために放棄された。

スペインは現在のアメリカ合衆国の領域に幾つかの植民地を造った。しかしこれらの幾つかは失敗した。1526年、ルーカス・バスケス・デ・アイロンが現在のジョージア州あるいはサウスカロライナ州の地にサンミゲル・デ・グアダルーペ植民地を造った。この植民地は短期間存在しただけで直ぐに崩壊した。この植民地は現在のアメリカ合衆国領土の中でアフリカ人奴隷の労働力を使った最初の例としても有名である。1528年にスペインのコンキスタドールパンフィロ・デ・ナルバエスフロリダに植民地を造る試みを始めた。ナルバエス遠征隊はわずか4人が生き残って1536年にメキシコにたどり着くという大惨事におわった。1559年に西フロリダに造ったスペインのペンサコーラ植民地は1561年のハリケーンで破壊された。ノースカロライナの内陸部に1567年に建設されたサンフアン砦は、18ヶ月後に土地のインディアンに破壊された。1570年に設立され翌年には失敗したアハカン伝道所は、後のイングランドのジェームズタウン植民地に大変近い所であり、そこは後にバージニアと呼ばれるようになった。

フランスも幾つかの植民地を造ったが、天候、病気あるいはヨーロッパ列強との抗争によって失敗した。1562年にフランス軍の小さな部隊がサウスカロライナのパリス島に残されてシャルルフォールを造ったが、フランスからの補給が無かったために一年後には放棄された。1564年に現在のフロリダ州ジャクソンビルにカロリーヌ砦が建設されたが、1年後にサン・アグスタンから来たスペイン人に破壊された。1604年、現在のメイン州セントクロワ島に短命のフランス植民地ができたが、病気、おそらくは壊血病に悩まされたために潰れた。

スペインの植民地

フロリダ

詳細は「フロリダ州の歴史」を参照

スペイン帝国はフロリダに多くの小さな開拓地を造った。最も重要なものは1565年に設立されたサン・アグスタン(現在のセントオーガスティン)だったが、何度も攻撃を受け焼かれた。小さな拠点は勿論、サン・アグスタンですら、海賊の攻撃は容赦しないものがあった。1702年と1704年に行われたサウスカロライナからの大規模遠征によって、実質的にスペインの伝道所群が破壊された。サン・アグスタンは生き残ったが、ヤマシー族などイギリス人と同盟したインディアンがフロリダ中で奴隷狩りを行い、この地域にいたインディアンの大半を殺すか奴隷化した。1700年代半ば、ジョージアから侵入したセミノール族インディンが残っていた土地のインディアン大半を殺した。イギリスがこの地域を支配した1763年には、スペイン人約3,000人が住んでいたが、そのほとんど全てが早々に退去した。1783年にスペインの支配に復したが、スペインは新たな開拓者や宣教師をフロリダに送ろうとはしなかった。アメリカ合衆国が1819年にスペインからフロリダの割譲を受けた。

ニューメキシコ(1598年-1821年)

詳細は「ニューメキシコ州の歴史」を参照

16世紀を通じてスペインはメキシコから現在のアメリカ合衆国南西部を探検した。その中でも最も著名な探検家はフランシスコ・バスケス・デ・コロナドであり、その遠征隊は現在のニューメキシコ州アリゾナ州コロラド州南部、オクラホマ州のパンハンドル地域およびカンザス州全体を旅した。しかし、コロナドは新しい開拓地を造らなかった。最初の植民地は1598年にフアン・デ・オニャーテにより、現在のニューメキシコ州エスパノーラに近いサンフアン・デ・ロス・カバレロスに造られたものであり、その後1609年頃のサンタフェが続いた。2番目の植民地はプエブロの反乱の後の1692年、ディエゴ・デ・バルガスによるものだった。ニューメキシコの王国内は幾つかの外国(テキサス、フランス、アメリカ合衆国)による領有権主張があったが、スペイン(223年間)およびメキシコ(25年間)による支配が続けられた。米墨戦争の1846年にアメリカ合衆国スティーブン・ワッツ・カーニーが指揮する西部軍がここを制圧した。当初スペイン、後にはメキシコに土地所有を認められた植民者の多くの直系子孫が今日でもこの地域に住んでいる。

カリフォルニア(1769年-1821)

詳細は「カリフォルニア州の歴史」を参照
スペインによるサンフアン・カピストラーノ伝道所の遺跡、カリフォルニア州

16世紀初期から18世紀半ばにかけてスペインの探検家がカリフォルニの海岸を航行したが、当時は開拓地が造られなかった。

スペインは1769年から宣教師や軍隊を送り始め、カリフォルニアの南部や中部の海岸に沿って一連のカトリック教伝道所を建設し、これに砦、町および牧場が併設された。フランシスコ会宣教師フニペロ・セラ牧師が1769年のサンディエゴ・デ・アルカラから初めて伝道所の繋がりを建設した。カリフォルニアの伝道所群は21箇所の拠点から構成され、インディアンにキリスト教を広める他に、その地域に対するスペインの領有権を確実にする利点があった。この伝道所はヨーロッパの技術、家畜や農作物を伝え、地域先住民を労働者として使っていた。

伝道所はサンディエゴからサンフランシスコ湾の直ぐ北にあるソノマの海岸に沿って、それぞれが馬で約一日の距離に配され、スペインの法律の下に「プレシディオ」すなわち砦と「プエブロ」すなわち町で補われた。全てが海岸線近くに配されたので、伝道所、プレシディオおよびプエブロの間の一本の道は「エル・カミノ・レアル」(王道)と呼ばれるようになり、これが今日のカリフォルニア州最初の公道となった。

1820年までにスペインの影響力はサンディエゴからソノマまでの伝道所の並びに及び、内陸にはおよそ25ないし50マイル(40ないし80 km)まで及んだ。この地帯の外にはおよそ20万人から25万人のインディアンが昔からの生活様式を続けていた。スペイン政府(1821年にメキシコが独立した後はメキシコ政府)が大規模な土地特許を認めて定住を奨励し、それが牛や羊の牧場に変わった。1840年代にはヒスパニック系住人の人口は約1万人だった。「エル・カミノ・レアル」と伝道所は後に牧歌的で平和な過去を偲ばせる象徴になった。伝道所復古調建築様式はカリフォルニアの過去の理想化された見解から想を得た建築運動だった。

ニューネーデルラント

詳細は「ニューネーデルラント」を参照
ニューアムステルダムの地図、1660年

「ニューネーデルラント」すなわちニューネザランドはネーデルラント連邦共和国の17世紀植民地であり、後にニューヨーク州になった。最盛期の人口は1万人足らずだった。オランダは少数の強力な土地所有者に封建制のような権利を与えてパトロン制度を作り上げた。それらの者達は宗教的寛容さと自由貿易の制度も作った。1625年に建設された植民地の首都ニューアムステルダムマンハッタン島の南端に位置し、その後世界的な都市に成長していくことになった。この町をイギリスが1664年に占領し、1674年には植民地全体を支配下に収めた。しかし、オランダ人土地所有者はそのまま居残り、ハドソン川流域は1820年代までオランダ的の伝統的な性格を残していた。

ニュースウェーデン

アマンダス・ヨハンソンによるニュースウェーデンの地図
詳細は「ニュースウェーデン」を参照

「ニュースウェーデン」 (スウェーデン語: Nya Sverige) は1638年から1655年までデラウェア川流域のスウェーデン植民地だった。現在のデラウェア州ウィルミントンにあったクリスティーナ砦を中心に、現在のデラウェア州、ニュージャージー州およびペンシルベニア州の一部を含んでいた。ピーター・ミヌイットが新しく作られたニュースウェーデン植民地の初代知事になった。ヨハン・ビョルンソン・プリンツ知事(在任1643年-1653年)の下で植民地は拡大し、デラウェア川の東岸、今日のニュージャージー州セイラム近くにニュー・エルフスベリ砦を、ティニカム島(今日のフィラデルフィア市の直ぐ南西)にニュー・ゴーテンベリ砦を建設した。オランダの総督ピーター・ストイフェサントが1655年夏遅くに軍隊を動かしてデラウェア川に向かい、即座にトリニティ砦とクリスティーナ砦を占領した。ニュースウェーデンは1655年9月にオランダ領ニューネーデルラントに組み入れられた。 入植地自体は、その後もある程度の地方自治を続け、1664年10月にイングランドがニューネーデルラント植民地を征服するまで続き、1682年にこの地域がウィリアム・ペンによるペンシルベニア勅許地に含まれるまでは非公式に継続された。

ヌーベルフランス

詳細は「ヌーベルフランス」を参照
1750年の各国の領有図、イギリス(ピンク)、フランス(青)およびスペイン(橙色)、現在のカナダとアメリカ合衆国国境も示す。

ヌーベルフランスは1534年にジャック・カルティエセントローレンス川を探検したことからフランスが植民地化した地域だった。1712年が最頂時期でありノバスコシアからスペリオル湖までとハドソン湾からミシシッピ川さらにはメキシコ湾まで伸びた。その領土はその後5つの植民地に分けられ、それぞれの政府ができた。すなわちカナダ、アカディアハドソン湾、ニューファンドランドおよびルイジアナだった。フランスから約16,000人が到来し、セントローレンス川やアカディアの集落に集まった。他の場所にはほとんど開拓者がいなかった。イギリスは1763年までに戦争の代償としてミシシッピ川より東のほとんど全ての領土を奪った。ニューオーリンズ周辺の地域およびミシシッピ川の領域はスペインに渡され、1803年にはフランスに戻っていたが、ルイジアナ買収の結果としてアメリカ合衆国に売却された。

ロシアの植民地

ロシアとアラスカの間の諸島およびベーリング海両岸の海岸部には、アレウト族、ユピク族、チュクチ族などが住んでいた。ロシアのツァーリはその帝国の東部の探検を決断した(アジアとアメリカの間に陸橋があるかどうかを見極めたいと考えた)。1730年代と1740年代初期に第二次カムチャッカ遠征隊が派遣された。最初のロシアの植民地であるアラスカは1784年にグリゴリー・シェリホフによって設立された。1799年にニコライ・レザノフの力で露米会社が設立され、ラッコを狩りその毛皮を求めた。その後ロシアの探検家や開拓者がアラスカ、アリューシャン列島、現在のブリティッシュコロンビア州ワシントン州オレゴン州にまで交易基地の建設を続けた。現在のカリフォルニア州ソノマ郡にあったロス砦がロシアの最南端の植民地だったが1841年に放棄された 。

1867年、アメリカ合衆国がアラスカを買収した。アラスカのハーマンなどロシアの宣教師が先住民の中にロシア正教会を設立した。ロシア正教会とアラスカの先住民は今でも密接な関係を続けている。

イギリスの植民地

13植民地」も参照
1606年にジェームズ1世ロンドンプリマスの会社に与えた勅許。重複している地域(黄色)は双方の会社に100マイル (160 km) 以上近付かないようにという条件で両社に与えられた。"J"のマークはジェームズタウンの位置を示す。

イングランドは幾つかの理由で17世紀の初めに最初の植民地化を始めた。この時代、スペインによる侵略の怖れがある中で、プロテスタントのある程度の軍事力と女王エリザベス1世の活力に援けられて、イギリスの第一の国家主義と国民的主張が花開いた。しかし当時、イギリスの政府によって植民地帝国を創設する公式の試みはなされなかった。むしろ植民地を建設する背後にある動機はばらばらで変化するものだった。商業的起業、過剰人口および宗教的自由の望みといった実際的な話がその動機の一部になった。

開拓の大きな波は17世紀に訪れた。1700年以降、植民地アメリカに到着する大半の移民は年季奉公としてだった。1610年代後半からアメリカ独立の間で、イギリスはそのアメリカ植民地に推計5万人の受刑者を運んだ。最初の受刑者が到着したのはメイフラワー号が到着する直前のことだった。

チェサピーク湾地域

詳細は「ジェームズタウン (バージニア州)」、「バージニア植民地」、および「メリーランド植民地」を参照

バージニア

最初に成功したイングランドの植民地はチェサピーク湾に近い小さな川沿いに1607年に設立されたジェームズタウンだった。この事業は金の探求を行う持ち株会社ロンドン・バージニア会社が資金を提供し、取りまとめた。開拓の初年は極めて難しい状況であり、病気、飢えおよび地元のインディアンとの戦争で高い死亡率となり、金も見つからなかった。この植民地はタバコを換金作物とすることで生き残り繁栄した。17世紀終わりまでにバージニアの輸出経済は大半がタバコに基づいており、新しく到着した金持ちの開拓者が広大な土地を所有して大きなプランテーションを造り、年季奉公者や奴隷を輸入した。1676年、ベイコンの反乱が起こったがイギリスから派遣されていた役人に鎮圧された。ベイコンの反乱後、バージニアにおける労働力として、年季奉公者に代わって急速にアフリカ人の奴隷が増加した。

植民地の議会は王室に指名された総督と権力を分け合っていた。地方に行けば政府の権力が自己永続性の郡政治を牛耳っていた(現職の者が役人の空席を埋め、人民による選挙はなかった)。換金作物の生産者であるチェサピークのプランテーションはイングランドとの貿易に大きく依存していた。川を使って容易に航行できたので、町や都市の数は少なかった。農園主は直接イギリスに向けて出荷できた。植民地の初期は高い死亡率と大変若い人口構成が特徴だった。

ニューイングランド

詳細は「コネチカット植民地」、「プリマス植民地」、「マサチューセッツ湾植民地」、「ニューハンプシャー植民地」、および「ロードアイランド植民地」を参照

ピルグリム・ファーザーズ

詳細は「ピルグリム・ファーザーズ」を参照

ピルグリム・ファーザーズはイングランドとオランダを本拠にするプロテスタントの小さな宗派だった。1つの集団がメイフラワー号で出港しマサチューセッツに入植した。この集団は自治権を広範に持つことになるメイフラワー誓約を結んだ後で、1620年に小さなプリマス植民地を建設した。プリマス植民地は後にマサチューセッツ湾植民地に吸収された。ウィリアム・ブラッドフォードがその主たる指導者だった。コネチカット植民地はコネチカット州になったイギリス人植民地である。当初川の植民地と呼ばれたこの植民地はピューリタンの天国として1636年3月3日に組織化された。プロビデンス・プランテーションロジャー・ウィリアムズナラガンセット族酋長カノニカスから得た土地に1636年に設立された。ウィリアムズはマサチューセッツ湾植民地での宗教的迫害から逃げてきており、「公的な事項」では多数決の原理を与え、「信教の自由』を保証する平等主義的憲法について仲間の開拓者達と合意を取り付けた。

ピューリタン

詳細は「ピューリタン」を参照

1629年、ピルグリム・ファーザーズよりかなり大きな400人の開拓者集団であるピューリタンがマサチューセッツ湾植民地を設立した。彼らは新世界で新しく純粋な教会を創設することでイングランド国教会を改革しようとした。1640年までに2万人が到着した。多くの者は到着後間もなく死んだが、他の者は健康的な気候を見出し、豊富な食糧を供給できるようになった。

ピューリタンは深遠な宗教、社会的に緊密な結びつきおよび政治的に革新的な文化を創り出し、これが現在のアメリカ合衆国にも生きている。彼らはこの新しい土地が「改革者の国」として機能することを期待した。彼らはイギリスから逃げてきており、アメリカで「聖者の国」すなわち「丘の上の町」を造ろうとした。厳格な宗教と完全に公正な社会がヨーロッパ全てにとって規範であろうとした。宗教的寛容さ、政教分離を説いたロジャー・ウィリアムズはイングランド国教会と完全に袂を分かち、マサチューセッツ湾植民地から追放されてロードアイランド植民地を設立した。そこはアン・ハッチンソンなどピューリタン社会から逃げてきた他の者達にとって天国になった。

経済的にピューリタンのニューイングランドはその設立者の期待を満足させた。チェサピーク地域の換金作物志向プランテーション経済とは異なり、ピューリタンの経済は自給自足農業を広めることに基づき、自分達で生産できない商品のみを輸入した。ニューイングランドではチェサピーク地域よりも概して高い経済的基盤と生活水準が得られた。農業、漁業および製材業と共に、重要な商業と造船業の中心となり、南部植民地とヨーロッパの間の貿易では中継点として機能した。

大西洋岸中部植民地

大西洋岸中部植民地とは現在のニューヨーク州、ニュージャージー州、ペンシルベニア州およびデラウェア州で構成され、宗教、政治、経済および民族においてかなりの多様化で特徴付けられた。オランダのニューネーデルラント植民地がイギリスに奪われてニューヨークと改名されたが、かなり多くのオランダ人が植民地内に留まった。多くのドイツ人アイルランド人移民がこれらの地域とコネチカットに入植した。ペンシルベニアに来た開拓者はかなりの比率でドイツ人だった。

ローワー・サウス

南部植民地にはチェサピーク地域のプランテーション型植民地(バージニア、メリーランドおよび場合によってデラウェア)とローワー・サウス(カロライナが分かれたノースカロライナとサウスカロライナ、およびジョージア)が含まれる。

カロライナ

詳細は「カロライナ植民地」、「ノースカロライナ植民地」、および「サウスカロライナ植民地」を参照

バージニアより南でイングランドが最初に開拓を試みたのがカロライナ植民地だった。これは民間事業であり、1663年にカロライナの王室勅許を得たイングランドの植民地領主(Lords Proprietors)8人によって資金が出され、南部の新しい植民地もジェームズタウンのように利益が出せることを期待していた。最初に入植の試みが行われたのが1670年になってからであり、この時は南部に移民することに何の特典も無かったので失敗した。しかし領主達が残っていた資本を掻き集めてジョン・ウェストが率いるこの地域への入植隊の費用を出した。この集団は後にチャールストン(当初はチャールズ1世に因んでチャールズタウンと呼ばれた)となる所に肥沃で防御にも適した土地を見つけた。サウスカロライナの当初の開拓者達はカリブ海の諸島と食糧、鹿の毛皮およびインディアンの奴隷という収益の上がる貿易品を見出した。それらは主にイギリスの植民地であるバルバドスからもたらされ、さらにはアフリカ人奴隷も連れてきた。サトウキビのプランテーションで富める島だったバルバドスは、プランテーション農業に大勢のアフリカ人を使った初期イングランド植民地の一つだった。西アフリカの米作地帯から輸入したアフリカ人を通じて1690年代にの栽培が始まった。この初期植民地時代は、ノースカロライナはまだ辺境のままだった。

まずサウスカロライナが政治的に分離された。その民族構成には当初の開拓者、バルバドス島から来た奴隷を所有し富めるイングランド人開拓者の集団、フランス語を話すプロテスタントであるユグノーが含まれていた。ウィリアム王戦争アン女王戦争などほとんど間断の無い戦争状態のために商人と農園主の間に経済と政治の面で亀裂を生じさせた。ヤマシー戦争による惨事のために1715年には政治的動揺の10年間が始まった。1729年までに領主政府は崩壊し、領主達はイギリス王室に植民地を買い戻させた。

ジョージア

詳細は「ジョージア植民地」を参照

18世紀イギリスの国会議員ジェームズ・オグルソープが2つの問題に関する共通の解決策としてジョージア植民地を設立した。当時スペインとイギリスは極度の緊張関係にあり、イギリスはスペイン領フロリダからイギリスの植民地を侵されることを恐れていた。オグルソープは両国が競合していた地域に植民地を建設し、イギリスの標準的習慣では投獄されているような負債者を集めて入植させることにした。この計画はイギリスから望ましくない要素を取り去り、フロリダ攻撃のための基地を備えさせるというメリットがあった。1733年に最初の植民者が到着した。

ジョージア植民地は厳格な道徳規範の上に設立された。奴隷制は禁じられ、アルコールなど不道徳と考えられるものも禁じられた。しかし、植民地の現実は理想とは程遠いものだった。植民地人はピューリタン的生活様式に不満であり、この植民地はカロライナの米プランテーションと経済的に競合できないと不平をこぼした。ジョージアは当初は繁栄しなかったが、最終的に規則が和らげられて奴隷制も許可され、カロライナと同じくらい繁栄するようになった。ジョージア植民地は特定の宗教を指定したことは無かった。様々な信仰を持った人の集まりとなった。

東フロリダと西フロリダ

詳細は「東フロリダ」および「西フロリダ」を参照

1763年、イギリスはスペインから東フロリダ西フロリダの割譲を受けた。両フロリダはアメリカ独立戦争の間もイギリスに忠実なままだった。1783年にハバナと引き換えにスペインに返還され、イギリス人の大半がそこを離れた。スペインは当時フロリダを無視しており、1819年にアメリカ合衆国がこの地域を購入した時はスペイン人がほとんど住んでいなかった。

1776年におけるイギリスの統治体制

1776年時点でイギリスの植民地統治体制には直轄、領主領および特許の3形態があった。イギリスの封建制の下でこれらは全て君主に従属するものであり、イギリスの議会とは明確な関係が無かった。

直轄植民地

ニューハンプシャー、ニューヨーク、ノースカロライナ、サウスカロライナおよびジョージアの各植民地が直轄植民地だった。

直轄植民地政府は君主の好みで創設された役人に治められた。知事と議会(council)議員が指名されて一般的な執行権を行使し、両院制の議会を招集する権限を与えられた(議会が上院であり、集会(assembly)が下院だった)。この集会には植民地内の自由土地所有者と農園主から議員を選んだ。知事は絶対的な拒否権があり、集会を休会にしたり解散する権限があった。

集会は地域の法律や条令全てを作ることができたが、それらはイングランドの法と一致していなければならなかった。

領主領植民地

ペンシルベニア、デラウェア、ニュージャージーおよびメリーランドの各植民地が領主領植民地だった。

領主領植民地政府は君主から1人以上の人物に対して特定の領土の特許を認められたものであり、その土地の領主として封建制あるいは王室に従属した一般的な統治権を与えられ、君主の支配に従うものだった。

領主は知事や議会議員を指名し、その意のままに組織したり招集することができた。行政権は領主あるいは知事にあった。

特許植民地

マサチューセッツ、ロードアイランド、およびコネチカットの各植民地が特許植民地だった。

特許植民地政府は特許状で創設された政治的法人であり、受権者が土地を支配し立法権を持った。特許植民地には基本的憲法があり、立法府、行政府および司法府に権限が分けられていた。

イギリスによる管理の統一

共通の防衛

植民地人がイギリスの臣民であるというアイデンティティを共有することを思い出させた事件は、ヨーロッパにおけるオーストリア継承戦争(1740年-1748年)だった。この紛争は植民地にも及び、ジョージ王戦争と呼ばれた。大きな戦闘はヨーロッパで起こったが、アメリカ人が管轄した部隊がニューヨーク植民地やニューイングランドでフランス軍およびその同盟インディアンと戦った。

1754年のオールバニ会議では、ベンジャミン・フランクリンが各植民地は防衛、拡張およびインディン問題で共通の政策を守る為に国民大会議で統一すべきという提案を行った。この案は各植民地議会およびジョージ2世に拒絶されたが、北アメリカのイギリス植民地が統一に向けて動き出す前触れとなった。

フレンチ・インディアン戦争

フレンチ・インディアン戦争の時のジョージ・ワシントン
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出典:wikipedia
2019/10/17 09:11

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