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アメリカ合衆国の音楽とは?

この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2011年11月)

この項目では、アメリカ合衆国音楽について解説する。

目次

  • 1 概説
    • 1.1 多様性
  • 2 民俗音楽
    • 2.1 ブルースとスピリチュアル
    • 2.2 その他の移民コミュニティ
  • 3 クラシック音楽
    • 3.1 初期のクラシック
    • 3.2 20世紀
  • 4 ポピュラー音楽
    • 4.1 初期のポピュラー音楽
    • 4.2 ブルースとゴスペル
    • 4.3 ジャズ
    • 4.4 カントリー・ミュージック
    • 4.5 R&B、ソウル
    • 4.6 ロック/ヘヴィ・メタル/パンク
    • 4.7 ラップ/ヒップホップ
    • 4.8 その他のスタイル
  • 5 政府・政治・法律
  • 6 産業・経済
  • 7 教育
  • 8 学術研究
  • 9 余暇活動
  • 10 脚注
  • 11 出典
  • 12 参考文献
  • 13 外部リンク

概説

アメリカにおいて、音楽のもつ意味をもっとも強く決定づけているのは、音楽と人種の関係であろう。ヨーロッパ音楽とアフリカ音楽というまったく異なった源泉からブラックミュージックのアイデンティティが確立された過程は、歴史的研究における恒常的なテーマのひとつである。植民地時代における、西アフリカ全体のスタイル・歌唱法・楽器が奴隷のるつぼの中で混合されていった時期のブラックミュージックについてはほとんど文献が残っていない。19世紀中頃には、すでにアメリカ黒人の民俗的な伝統は広く有名になっており、ブラックミュージックのスタイル・楽器・イメージは、スピリチュアルミンストレル・ショーや労働歌を通じてアメリカ音楽の主流の一部になっていった。ブラックミュージックの技法は、ブルースジャズリズム・アンド・ブルース(R&B)、ロックンロールソウルミュージックヒップホップなどを通じ、アメリカのポピュラー音楽にとって不可欠な要素になっているが、元々は黒人の技法や慣習の中で作られたものが人種の壁を越えて広がったものである。これとは対照的に、カントリー・ミュージックはアフリカ、ヨーロッパ、さらにはインディアンやハワイの伝統をもその起源に含んでいたが、しかし長い間白人音楽の一種と考えられてきた。

アメリカ音楽の創作・享受には経済的・社会的な階級による溝がある。例えば交響楽には上流階級のファンからの出資があるのに対して、田舎風・民族風の民俗音楽の奏者は全体的に貧しい。とはいえこの分断は絶対的なものではなく、時には溝があるように「感じられる」だけという場合もある。例えばアメリカのカントリーミュージックは、「聴いているのが実際に労働者であるかどうかはともかくとして、労働者階級のアイデンティティに訴えかける」ようにデザインされた、ひとつの商業的ジャンルでもあるのだ。カントリーミュージックは地理的なアイデンティティとも関連しており、その起源と役割は特に田舎風である。R&Bやヒップホップといった他のジャンルは、伝統的に都市的だと認識されている。

多様性

アメリカは、世界中から文化を取り入れ、独特の新しい方法を生み出す文化のるつぼであるとよく言われている。アメリカ音楽の諸要素は、それぞれ元をたどれば特定の起源に行き着くことが出来る。とはいえ、アメリカ音楽はつねに技法・演奏法・ジャンルの移植と融合によって発展してきたため、ある音楽的要素の起源を何か特定の文化に求める主張には問題がある。外国音楽の要素がアメリカへ入ってきた経路は、個人やグループで行う教育活動・対外活動によって音楽を取り入れる公式なものと、奴隷制による西アフリカ音楽の移入や、移民によるアイルランド音楽の移入など非公式なものとがある。アメリカ独自の音楽は、緊密な接触を通じた異文化どうしの融合の結果生じたものである。この例として奴隷制があげられる。奴隷制によって様々な部族の出身者がごちゃまぜになって共同住居で生活することになった結果、ひとつの音楽的慣習が共有されることとなり、それがさらにラテンおよびヨーロッパ固有の音楽の要素と融合することで深まっていったのである。アメリカの民族・宗教・人種の多様性から生まれた音楽的要素は、フランス音楽・アフリカ音楽の融合であるルイジアナ・クレオール音楽や、インディアン音楽・メキシコ音楽ヨーロッパ音楽の融合であるテハーノ音楽、現代ハワイ音楽におけるスラックキーギター等の技法、などがある。

音楽を取り入れる過程には批判がなかったわけではない。例えば20世紀半ばのフォーク・リバイバルには、社会運動推進の目的もあり、様々な地方の音楽が盛り込まれたことから、「他集団の歌の商業化(……)と、それに伴う意味の希薄化」の原因になったのではないか、という議論が起こることとなった。文化的な割り当ての問題は、アメリカにおける人種同士の関係における大きな問題でもある。遅くとも19世紀半ばのスティーブン・フォスターや、ミンストレル・ショーのブーム以来、ブラックミュージックの技法・イメージ・言い回しをアメリカ白人がアメリカ白人のために使用することは多い。アメリカの音楽業界は、ブラックミュージックの白人演奏者を売り出そうと積極的に試みていた。これは、白人演奏者がアメリカで主流派に属する中流階級アメリカ人の嗜好に合うためである。こういった動きの中で、ベニー・グッドマンエミネムエルヴィス・プレスリーなどのスターや、ブルー・アイド・ソウルロカビリーなどのポップミュージックのスタイルが生まれた。

民俗音楽

アメリカにおける民俗音楽には、数々の民族グループごとの多様性がある。インディアンの各部族はそれぞれ多種多様な民俗音楽を演奏しており、その大半は自然の精霊についての曲である。ブラック・ミュージックにはブルースゴスペルなどがあり、これらは奴隷たちがアメリカへもたらし、西ヨーロッパ音楽との混交を果たしたものである。植民地時代には、イングランド音楽フランスの音楽スペインの音楽の技法や楽器が南北アメリカ大陸にもたらされた。20世紀初頭のアメリカは、チェコポルカウクライナポーランドフィドル奏法、アシュケナジムユダヤ人クレズマーや各種ラテン音楽など、世界中の民俗音楽の中心地となっていた。

現在アメリカ合衆国がある土地で最初に民俗音楽を演奏したのはインディアンである。用いたスタイルや技法は様々であったが、和音とポリフォニーが使われないこと、間投詞・下り旋律の使用などの特徴は、ほとんど全てのインディアンの部族に共通している。伝統的な楽器編成は、笛と、太鼓ラトルシェイカーなどの様々な打楽器からなる。ヨーロッパ・アフリカとの接触が確立されてからは、インディアンの民俗音楽は、ヨーロッパのフォークダンスやテハーノ音楽といった、まったく異なった音楽スタイルと融合する、新たな方向の成長を始めた。近代のインディアン音楽に関してもっとも有名なのはパウワウで、これは伝統的なスタイルの踊りや音楽が催される部族を超えた集会である。

アメリカ13植民地は、いずれも元々はイギリス帝国の領土だったため、アングロ・サクソンの文化がアメリカの民俗音楽・ポピュラー音楽の主な土台となった。アメリカ民謡には、イギリス民謡と同一の曲に新しい歌詞をつけたものが多くあり、歌詞が元素材のパロディとなっていることもしばしばである。アメリカ=アングロサクソン系の音楽は、五音音階のメロディが少ないこと、伴奏が目立たない(一方でドローンを多用している)こと、長調が多いことなどが比較上の特徴として挙げられる。他にもアメリカ=アングロサクソン系の伝統的な音楽には、様々なブロードサイド (broadside)、滑稽話、ほら話、鉱山労働・海難事故・殺人などにまつわる受難歌などが含まれている。ジョー・マガラック (Joe Magarac)、ジョン・ヘンリージェシー・ジェイムズといった伝説上のヒーローが盛り込まれた歌も多い。イギリス由来のフォークダンスには、アメリカに伝わったカドリーユに、ダンサーに指示を与えるコーラーの発明が加わって生まれたスクウェアダンスなどがある。18世紀にイングランドから移民してきた、いわゆるシェーカー教徒と呼ばれる宗教コミューンは、独自のフォークダンスのスタイルを作った。彼らの初期の歌の起源は、イギリスの民俗音楽をそのひな型にしていると考えられる。アメリカ合衆国の初期においてそれぞれ独自の音楽文化を育てていった宗教組織の例は、この他にもアーミッシュ音楽 (Amish music)、ハーモニー協会 (Harmony Society)、ペンシルベニアエフラタ修道院 (Ephrata Cloister)などがある。

今日のアフリカ系アメリカ人の祖先の多くは奴隷としてアメリカへ連れてこられ、主に南部のプランテーションで働いていた。この西アフリカ中の数百の部族出身者たちは、渡来とともにボーカルのコールアンドレスポンス、複合的なリズム、シンコペーションやアクセント遷移といった西アフリカ音楽の特色をアメリカへもたらした。リズミカルな歌唱やダンスに重点を置くアフリカ音楽が新世界に持ち込まれ、そこで独自の民俗音楽文化の一部となったことは、アフリカ出身者が「昔の音楽を通じてコミュニティを維持する」一助となった。アメリカにおける初期の奴隷は労働歌フィールドハラー (field holler)を歌い、キリスト教化の後は聖歌を歌った。19世紀に起こった大覚醒では、国中の人々が信仰に熱を上げることとなったが、これは特に南部の人々の心をとらえた。主にニューイングランドの牧師が書いたプロテスタント聖歌は、南部の敬虔なキリスト教徒の間で開かれたキャンプ集会 (camp meeting) の目玉ともなった。黒人たちによってアレンジされたこれらの聖歌はネグロ・スピリチュアルと呼ばれた。これらのスピリチュアル・労働歌・フィールドハラーから、ブルースジャズゴスペルが生まれたのである。

ブルースとスピリチュアル

スピリチュアルは元々、南部プランテーションの奴隷による教義を表現する歌であった。19世紀中盤から後半にかけて、スピリチュアルは南部の外へ広がっていった。1871年、フィスク大学 (en:Fisk University) はスピリチュアルをアメリカ中に広めるジュビリー・シンガース (en:Jubilee Singers) の拠点だった。ジュビリー・シンガースを模倣していくつかのゴスペルカルテットが生まれ、その後派生グループはさらに数を増していった。20世紀始めには素人歌手や牧師の歌手が流行し、ここからポピュラー音楽としてのゴスペルが生まれた。

ブルースは、1910年代に南部で生まれた、アフリカ出身者の労働歌・フィールドハラー・シャウトの融合による音楽である。ブルースの大きな特徴は、哀しみをこめた歌詞が多いことと、第3音を半音(もしくは微妙に)下げた五音音階(ブルー・ノート・スケール)である。どちらも20世紀以前のアフリカ系アメリカ人の民俗音楽に存在した特徴ではあるが、AAB形式のような体系化された現代ブルースは20世紀初期までは存在していなかった。

その他の移民コミュニティ

アメリカは、数々の民族グループからなる人種のるつぼである。これら諸民族の多くは、出身地の民俗音楽の伝統を保持しつつも、アメリカ独特のスタイルをもった外国音楽を生み出していった。ニューイングランドカーボベルデ音楽や、カリフォルニアアルメニア音楽ニューヨークイタリア音楽ウクライナ音楽などの民族は、定住したそれぞれの地域で流行を生み出した。

ルイジアナにはクレオール(アメリカによる州の買収前からルイジアナ州に住んでいた人々を中心とする、様々な非アングロサクソン系祖先をもつコミュニティ)やケイジャン(カナダのアカディアを去ってルイジアナ州に定住したフランス語圏のグループ)といった民族グループがあり、また大きな港町だったニューオーリンズにカリブ海域全域の人々が集まった結果、ケイジャン音楽クレオール音楽などの、多種多様なスタイルの混交が生じた。

米墨戦争以前は、テキサス州全域を含む現在のアメリカ合衆国西部のほとんどは、スペインおよびそれを引き継いだメキシコ共和国の管理下にあった。テキサス州がアメリカに編入されると、テキサスに住んでいた土着のテハーノたちは、他のテキサス住民とは別々の文化を保ちつつ、メキシコ人とも別々の文化を発展させた。初期のテハーノ音楽の発展の中心にあったのは、マリアッチコリード (en:corrido) といった伝統的なメキシコの技法と、19世紀後半に定住したドイツやチェコ出身者によるヨーロッパ大陸の技法であった。特に、アコーディオンは20世紀前後にテハーノ音楽の奏者に取り入れられ、テキサスや北メキシコのアマチュア音楽家に広く使われるようになった。

クラシック音楽

初期の一部の入植者がアメリカへもたらしたクラシック音楽は、ヨーロッパ芸術における教会音楽・演奏会音楽の伝統に根ざしている。この伝統における規範はバロック~ロマン派の時代を中心とする、1550年から1825年までの間に成立したものである。アメリカのクラシック作曲家の多くは、19世紀後半まで完全にヨーロッパのモデルの中で作品を作ろうとしていた。高名なチェコの作曲家、アントニン・ドヴォルザークは、1892年から1895年にかけてアメリカを訪れた際に、アメリカのクラシック音楽は、ヨーロッパの作曲家の模倣に代わる新たな独自のモデルが必要だと繰り返し語り、その後の作曲家がアメリカ独自のクラシック音楽を作るきっかけとなった。20世紀初めには、多くのアメリカ人作曲家がジャズ・ブルース・インディアンの音楽など、クラシックとは異質の要素を作品に取り入れるようになった。 アメリカは比較的オーケストラ活動が盛んな国で、世界でもドイツに次ぐ数のプロオーケストラを擁している。ただし、オペラは盛んではなく専属管弦楽団を擁した常設歌劇場は3つ(ドイツで約80、イタリアで約20)しかない。演奏活動においても当初は欧州の人材に依拠するところが大きく、19世紀から現在まで中断無く活動している5つの老舗オーケストラは、すべて初代指揮者がドイツ人であった。


初期のクラシック

植民地時代のアメリカでは、クラシック音楽のグループは2つあった。一つめの、アマチュア作曲家・衒学者グループは、シンプルな聖歌を基本としながら、年を追うごとに複合的な手法を用いるようになっていった。もう一つの分野は、フィラデルフィアバルチモアなど、中部大西洋岸の諸都市における、ほぼヨーロッパのモデルの中で活動する有名な作曲家たちのグループである。こちらの作曲家たちのほとんどはイングランド出身で、ヨーロッパ音楽の中でも特に、当時有名だったイングランドの作曲家のスタイルで活動していた。

クラシック音楽がアメリカに持ち込まれたのは植民地時代である。この時代、アメリカの作曲家の多くはヨーロッパ音楽を唯一のモデルとして活動していたが、ウィリアム・ビリング(en:William Billings)、サプライ・ベルチャー(en:Supply Belcher)、ジャスティン・モーガン(en:Justin Morgan)など、第一ニューイングランド派として知られる作曲家は、ヨーロッパのモデルから完全に独立したスタイルを生み出した。これらの作曲家の中でももっとも多く記録が残っているのはビリングである。ビリングはまた「アメリカの聖歌隊の創設者として、最初にピッチパイプを使った音楽家として、チェロを礼拝に取り入れた最初の人物として」その影響力は大きい。第一ニューイングランド派の作曲家の大半はアマチュア歌手であった。彼らはアマチュアによる演奏に向いた新たな形式の宗教音楽を作り出したが、その中で、ヨーロッパのスタンダードからすれば奇妙に思えるような和声の技法を用いることもしばしばあった。彼らのスタイルは「洗練された、当時のヨーロッパのやり型」の影響を逃れ、モードや、五音の音階・メロディといった技法を使用し、ヨーロッパの和声のルールを忌避した。

19世紀初頭、アメリカは風変わりで意図的な「アメリカ流」スタイルの作曲を行い、アメリカで交響楽団のための作曲を行った最初の作曲家となったアントニー・フィリップ・ハインリヒ(en:Anthony Philip Heinrich)などの様々な作曲家を生んだ。この他にも、有名なところではウィリアム・ヘンリー・フライ(en:William Henry Fry)、ジョージ・フレデリック・ブリストウなど、多くの作曲家が、方向性こそきわめてヨーロッパ的であったが、アメリカ流のクラシックスタイルのアイデアを支持した。しかしヨーロッパで有名になったアメリカの作曲家は、ジョン・ノウルズ・ペインが最初である。ペインの成功例は、エイミー・ビーチエドワード・マクダウェルホレイショ・パーカーといった第二ニューイングランド派の作曲家を刺激することとなった。

もっとも記憶に残っている19世紀アメリカの作曲家は、おそらくルイス・モロー・ゴットシャルクである。音楽史研究家のリチャード・クロフォードによれば、ゴッドシャルクは「土地に根ざした民俗上のテーマや韻律を、コンサートホールへともたらした」ことで有名である。ゴッドシャルクの音楽は故郷のニューオーリンズでの文化の交流を反映している。ニューオーリンズはラテン・カリブ・アフリカ・ケイジャン・クレオールと、様々な音楽が根づいた土地であった。ゴッドシャルクはその生涯において天才ピアニストとして知られており、作曲家としての活動は少ないにもかかわらず、その評価は高い。

20世紀

エルマイラ出身のチャールズ・トムリンソン・グリフスは1914年から革新的な作品を発表し、ニューヨークのクラシック音楽シーンに登場した。だがニューヨークの作曲家でもっとも有名なのは、ジョージ・ガーシュウィンである。ティン・パン・アレーブロードウェイ劇場の作詞作曲家だったガーシュウィンの作品は、ジャズの先駆者たちからの強い影響を受けていた。ガーシュインの作品によって、アメリカのクラシック音楽は前代未聞の国際的な注目を浴びることとなった。ガーシュイン以後、最初に有名になった作曲家はブルックリン出身のアーロン・コープランドである。コープランドは技法や形式においてはいまだヨーロッパ式ではあったものの、アメリカの民俗音楽の要素を最貧に用いた。コープランドは、その後はバレエ、さらにその後はセリエル音楽に傾倒した。国際的な注目を浴びたアメリカのクラシック作曲家の初期の人物にはチャールズ・アイヴズもいる。アイヴズはユニークなアメリカ流のスタイルの音楽を発表したが、1954年に死亡するまではほとんど無名であった。指揮者して活躍したレナード・バーンスタインは作曲家としても活動しており3曲の交響曲、オペラ、ミュージカルの作品を残している。

ジョン・ケージジョン・コリリアーノスティーヴ・ライヒなど、20世紀後半の作曲家たちの多くが、モダニズムミニマリズムの技法を用いた。ライヒは、同時に始まりそれぞれリピートを繰り返す2つの音楽の流れがしだいに同期を乱していき、自然と展開感を形成する、フェイジング(en:phasing)と呼ばれる技法を考案した。また、ライヒは非西洋音楽にも興味を持ち、アフリカのリズム技法を作曲に取り入れている。近年の作曲家や演奏家はフィリップ・グラスメレディス・モンク(en:Meredith Monk)などのミニマリズム作品に強い影響を受けている。

ポピュラー音楽

アメリカは、近現代において多くのポピュラーミュージシャンや作曲家を生み出してきた。レコード音楽の誕生に始まり、アメリカのアーティストたちはポピュラー音楽をリードし続けてきた。「アメリカ人の世界文化へのあらゆる貢献によって、ポピュラー音楽は世界中の注目を浴びている」とデビット・ユーアンは書いている。ポピュラー音楽の歴史家には、バラッドといったポピュラー音楽的な習慣から、ポピュラー音楽の起源をヨーロッパのルネサンスまでさかのぼって考える者もいるが、多くは、アメリカのラグタイムティン・パン・アレーをポピュラー音楽の始まりとして位置づけている。楽譜に着目し、アメリカのポピュラー音楽の起源をスピリチュアルミンストレル・ショーヴォードヴィル南北戦争時の愛国歌に求める見方が典型的である。

初期のポピュラー音楽

Sheet music for "Dixie"

アメリカ合衆国の独立の際の、トマス・ペイン作詞の「自由の樹」などの民衆による愛国音楽はポピュラー音楽界の始まりといえる。ブロードシートに安っぽく印刷された愛国歌は植民地中に広まり、家庭や集会で歌われた。ファイフ(en:Fife 横笛の一種)を使った曲が特に好まれ、独立戦争の戦場でも演奏された。ファイフ曲で最も長く流行したのが今日でも有名な「ヤンキードゥードゥル(日本では「アルプス一万尺」として有名)」である。この曲は1755年に生まれ、アメリカ・イギリス両軍の兵士の間で歌われた。愛国歌の多くは、イングランドのメロディを元にしながらも、イギリスの植民地主義を批判する替え歌をつけたものであったが、その他にも、アイルランド・スコットランド由来の曲を使ったものや、通俗曲を使用していないものもあった。有名な「コロンビア万歳」は、「星条旗」の採用までは非公式ながら国歌として通用していた。これら初期のアメリカ音楽は、セイクリッド・ハープ(en:Sacred Harp アメリカの南部に伝わるアカペラ音楽)の曲目の中にいまだ残っている。

アメリカ中の兵士が混成された南北戦争の中で、アメリカ音楽の様々なスタイルが混じり合って互いに影響を与えることとなった。また鉄道産業の成長などの技術的な発展により移動やコミュニケーションがより簡単になったことが、このプロセスをさらに助長した。国中のさまざまな地域出身の人々が集まった部隊の人々は、どんどん曲・楽器・技法を交換していった。南北戦争は、アメリカ特有の歌が作られて広く不動の人気を獲得していくきっかけとなったのだ。南北戦争時代に最も流行した曲はダン・エメット(en:Dan Emmett)作詞作曲の「ディキシー」である。この曲は元々“Dixie's land”というタイトルで、あるミンストレル・ショーのエンディングのために作られたものだったが、ニューオーリンズに伝わって出版されると、「南北戦争以前の大ヒット曲のひとつ」になった。またこれらの愛国歌の他にも、多くのブラスバンド作品が生まれた。

19世紀の作曲家、スティーブン・フォスター

南北戦争後、ミンストレル・ショーはアメリカ特有の音楽を表現する初めての場となった。ダン・エメットとヴァージニア・ミンストレルズが発案したミンストレル・ショーは、寸劇・様々な出し物・踊り・音楽からなるエンターテインメントで、通常、出演者は黒人に扮した白人であった。ミンストレル・ショーの音楽パフォーマンスには黒人文化の要素があったが、黒人は単純化されて描かれていた。後に奴隷制度廃止運動に巻き込まれるまで、ミンストレル・ショーの筋書きは黒人を生まれながらの奴隷・道化として描くものであった。ミンストレル・ショーによって、現在にもよく伝わるスティーブン・コリンズ・フォスターなどの作詞作曲家が生まれた。ミンストレル・ショーの人気が落ちた後にも、クーン・ソングスという同様の試みが1880年から1920年にかけて人気を博した。

作曲家ジョン・フィリップ・スーザは、19世紀末アメリカのポピュラー音楽における、もっとも大きな流行と深く関係している。元アメリカ海兵隊軍楽隊(en:United States Marine Band)のバンドマスターだったスーザは、星条旗よ永遠なれなどの「故郷と故国への郷愁」を反映し、「活発で男性的な特徴」をもったメロディの行進曲を作曲した。

20世紀初め、主にミュージカル劇場からポピュラー音楽作品が生み出された。これらの作品は、ブルース・ジャズ・カントリーなど、現在も残るポピュラー音楽のスタイルに影響を与えた。ミュージカルのスタイルが確立する中、中心地となったニューヨークではブロードウェイ劇場が街でもっとも有名な場所になった。ジョージアイラのガーシュウィン兄弟などの作曲家・作詞家は、アメリカ特有の口調や音楽を使った、アメリカならではの劇場のスタイルを作り出した。ミュージカルが目玉にしたのは、ポピュラー音楽と、主に恋愛をテーマにした展開の速いプロットであった。

ブルースとゴスペル

詳細は「ブルース」および「ゴスペル (音楽)」を参照

ブルースは、現代アメリカにおけるほとんどのポピュラー音楽の基礎となったアフリカ系の民俗音楽である。カントリー、ジャズ、ラグタイム、ゴスペルなどの一連の音楽スタイルに大きな影響を与えた。これらのジャンルはそれぞれ別個の形式を発展させているが、以下のような共通の起源をもっている。19世紀終わりから20世紀初めにかけて、ミシシッピ・デルタの周辺で初期のブルースが発展した。ブルースに類する音楽でもっとも古いものといえばまずコールアンドレスポンスが挙げられるが、コールアンドレスポンスには和音も伴奏もなければ、いかなる音楽的な形式・構造もなかった。ブルースは、奴隷やその子孫がフィールドハラーやシャウトを情熱をこめた独唱歌へと変化させて作り出したものである。さらに黒人教会伝道集会で、キリスト教の霊歌との交流が生まれると、ブルースはゴスペルの基礎になった。近代のゴスペルは1920年代の黒人教会において、即興の、しばしば音楽性をもった信仰告白という形式で始まったものである。トマス・A・ドーシー(en:Thomas A. Dorsey)などの作曲家が、伝統的な聖歌・霊歌にブルースやジャズの要素を取り入れたゴスペル作品を作った。

ラグタイムは、シンコペーションのリズムと半音階を多用する、ピアノを中心とした音楽スタイルである。元々はウォーキングベースを活かした、ソナタ形式で作曲されるダンスミュージックであった。ヨーロッパの行進曲・ポピュラーソングや、北部の町で19世紀終わりごろに黒人の大バンドが演奏していたジグなどのダンスミュージックなどの様々な要素を、黒人のケークウォークダンスに盛り込んで再構成・発展させたスタイルである。ラグタイム奏者・作曲家としては、スコット・ジョプリンが最も有名で、メイプルリーフ・ラグなどの作品が知られている。

ブルース歌手のベッシー・スミス

1920年代、ベッシー・スミスなどのクラシック女性ブルース歌手が人気を博し、ブルースはアメリカのポピュラー音楽の一部になっていった。レコード会社が、黒人の音楽愛好家に向け「レース・ミュージック(race music)」を売り出したのもこの時期である。デルタ・ブルースのロバート・ジョンソン、チャーリー・パットン、サン・ハウス、ピードモント・ブルース(en:piedmont blues)のブラインド・ウィリー・マクテル(en:Blind Willie McTell)など、この時期の有名アーティストは、ブルースや派生ジャンルのポピュラー音楽としての発展を後々まで刺激することとなった。しかし1940年代終わりごろには、純粋なブルースが、リズム・アンド・ブルースや初期ロックンロールといった派生ジャンルに押され、ポピュラー音楽の中ではマイナーな部位になっていた一方、ブギウギなどの、電子音楽やピアノ弾き語りのスタイルは多くの観客を維持していた。

1950年代には、マヘリア・ジャクソンが牽引役となったブルース・スタイルのゴスペルも人気を獲得した。またセンセーショナル・ナイチンゲールズやスワン・シルバートーンズ、ソウル・スターラーズらのゴスペル・カルテットも活躍した。しかし、1950年代のマディ・ウォーターズリトル・ウォルターといったシカゴ・ブルースのアーティストによってブルースは大きなリバイバルを果たした。またブリティッシュ・インヴェイジョンやフォーク・リバイバルの渦中にあった1960年代は、ミシシッピ・ジョン・ハートレヴァランド・ゲイリー・デイヴィス(en:Reverend Gary Davis)などのカントリー・ブルース奏者が再発見されることとなった。1950年代のチャック・ベリーなどのロックミュージシャンや、1960・70年代のブリティッシュ・ブルース(en:British blues)やブルースロックなどの音楽シーンは、1950年代のブルース奏者から大きな影響を受けている。この影響は、イギリスのエリック・クラプトンやテキサス州のジョニー・ウィンターにまで及んだ。

ジャズ

詳細は「ジャズ」を参照

ジャズは、スウィングブルー・ノート・スケールコールアンドレスポンスのボーカル、ポリリズム即興を特徴とした音楽の一種である。元々はダンスミュージックの一種であったが、ポピュラー音楽において主要な地位を占めるようになり、また西洋のクラシック音楽の重要な構成要素にもなった。ジャズのルーツは西アフリカの文化・音楽表現や、ブルース・ラグタイムといった黒人の音楽慣習や、ヨーロッパの軍楽にある。初期のジャズとラグタイムは近縁関係にあるが、ジャズのほうが複雑な即興リズムを用いているという点で区別できる。初期のジャズバンドはベント、ブルー・ノートといった多くのブルース用語や、グロウルスメアなど、ヨーロッパの器楽では用いられない技法を採用した。ジャズが誕生したのは、ケイジャンや黒人クレオールが住むニューオーリンズである。19世紀、黒人クレオールたちは、ケイジャンたちのフランス系カナダ人の文化とみずからの音楽スタイルと融合させた。葬式やパレードで演奏するクレオールの大型バンドが、初期のジャズの重要な基礎となり、やがてジャズはニューオーリンズからシカゴなどの北部の諸都市の都心へ広がっていった。

ビバップの先駆者、ディジー・ガレスピー

ジャズは長い間人気を保っていたが、そんな中でスター奏者となり、ジャズの発展を大きく後押ししたのがルイ・アームストロングと、その友人であるピアニストのアール・ハインズ(en:Earl Hines)である。アームストロングやハインズや共演者たちは即興演奏者であり、ひとつのメロディから数多くのバリエーションを創作することができた。スキャット(意味のない音を即興で歌う歌唱法)を世間に広げたのもアームストロングである。アームストロングとハインズは、スウィング・ジャズ(もしくは端的に「スウィング」とも)と呼

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出典:wikipedia
2019/06/20 12:20

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