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アメリカ独立戦争とは?

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【アメリカ合衆国独立戦争】


左上から時計周りに: バンカーヒルの戦いケベックの戦いにおけるリチャード・モントゴメリー将軍の死、カウペンスの戦いサン・ビセンテ岬の月光の海戦
戦争:アメリカ合衆国独立戦争
年月日:1775年-1783年
場所:北アメリカ東部(今日の アメリカ合衆国カナダ)、大西洋地中海カリブ海
結果:パリ条約; アメリカ合衆国の独立(イギリスの敗北)
【交戦勢力】

アメリカ合衆国(1776年7月4日以前は13植民地)

バーモント共和国
フランス王国
スペイン帝国
ネーデルラント連邦共和国
オナイダ族
タスカローラ族
ポーランド志願兵
プロイセン王国志願兵
ケベック志願兵
マイソール王国

 |  グレートブリテン王国

ハノーファー選帝侯領
ロイヤリスト
イロコイ連邦
ドイツ人傭兵隊


【指導者・指揮官】

ジョージ・ワシントン

ホレイショ・ゲイツ
ジョン・ポール・ジョーンズ
ナサニエル・グリーン
ベネディクト・アーノルド
ベンジャミン・リンカーン
ジルベール・ド・ラ・ファイエット
ロシャンボー伯
フランソワ・ド・グラス
ピエール・アンドレ・ド・シュフラン
ガルベス伯
ルイス・コルドバ・イ・コルドバ
タデウシュ・コシチュシュコ
シュトイベン男爵
ヨハン・ズートマン
ハイダル・アリー
ティプー・スルターン

 |  ジョージ3世

ウィリアム・ハウ
ヘンリー・クリントン
チャールズ・コーンウォリス(捕虜)
ジョン・バーゴイン(捕虜)
バナスター・タールトン
ベネディクト・アーノルド
ジョセフ・ブラント
ヨハン・ラール


【戦力】

アメリカ軍 250,000名

フランス軍 15,000名
スペイン軍 8,000名
総計: 273,000名

 | イギリス軍 12,000名

ロイヤリスト 50,000名
ドイツ人傭兵 40,000名
インディアン 5,000名
総計: 107,000名


【損害】

戦死または戦病死 25,000名
負傷 25,000名 | 戦死または戦病死 24,000名
負傷 20,000名
アメリカ独立戦争


アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう、: American War of Independence)は、1775年4月19日から1783年9月3日までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。現在のアメリカではアメリカ独立革命(: American Revolution)もしくは革命戦争(: Revolutionary War)と呼ばれ、主にイギリスではアメリカ独立戦争と呼ばれている。なお、日本の歴史教科書では、「アメリカ独立戦争」と表記することもあれば、単に「独立戦争」と表記することもある。

この戦争によって、植民地住民はイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。戦争の全期間を通して、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。

アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインネーデルラント連邦共和国(オランダ)もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年フランス海軍チェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍とフランス王国発遣軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。1783年のパリ条約で戦争は終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。

独立の社会的背景や影響については「アメリカ合衆国の独立」を、外交については「アメリカ独立戦争における外交」を、海上戦については「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」を、情報戦については「アメリカ独立戦争の情報戦略」を参照

目次

  • 1 植民地課税問題
  • 2 1778年までの戦闘員
    • 2.1 軍隊、民兵、および傭兵
    • 2.2 アフリカ系アメリカ人および先住民族
  • 3 北部での戦い 1775年-1780年
    • 3.1 マサチューセッツ
    • 3.2 カナダ
    • 3.3 ニューヨークとニュージャージー
    • 3.4 サラトガとフィラデルフィア
      • 3.4.1 サラトガ方面作戦
      • 3.4.2 フィラデルフィア方面作戦
  • 4 国際戦 1778年-1783年
    • 4.1 海上戦の広がり
    • 4.2 西インド諸島およびメキシコ湾岸
    • 4.3 インドおよびオランダ
  • 5 終戦への道
    • 5.1 南部戦線 1778年-1781年
    • 5.2 北部と西部の戦線
    • 5.3 ヨークタウン
  • 6 戦争のコスト
    • 6.1 人的損失
    • 6.2 財政的コスト
  • 7 イギリスが敗れた要因
  • 8 独立宣言署名州
  • 9 ヨーロッパへの影響
  • 10 年譜
  • 11 人物
  • 12 アメリカ独立戦争を題材にした作品
    • 12.1 映画
    • 12.2 ゲーム
  • 13 脚注
  • 14 参考文献
  • 15 関連項目
  • 16 外部リンク

植民地課税問題

アメリカ植民地が独立への道を歩み始めたそもそものきっかけはイギリス本国による課税の強化にあり、それはフレンチ・インディアン戦争(1754 - 1763)による財政危機の解消を目的としたものであった。イギリス政府は1764年に砂糖法1765年には印紙法を成立させて植民地からの税収増を図ったが、特に印紙法はアメリカで広範な反対運動を呼び起こし、撤廃に追い込まれた。

1767年イギリス本国議会タウンゼンド諸法を制定して植民地へ新たに税を課そうと試みると、またも反対運動が盛り上がり、1770年にタウンゼンド関税も撤廃された。だが、このとき茶に対する課税は廃止されず、本国の茶は植民地の不満の象徴となった。

1773年茶法によって東インド会社のおが安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月にはボストン港停泊中の東インド会社船に暴徒が乱入し、積載されていた茶を海に投棄した(ボストン茶会事件)。

1774年、イギリス議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を行なった。こうした危機にチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)は滞英中のベンジャミン・フランクリンと協力して議会に植民地と和解するようはたらきかけた。しかし、首相フレデリック・ノースは国王ジョージ3世の強い意志を背景に植民地に強い態度で臨む決意だった。

一連のイギリス側の政策に対し、13植民地は対策協議のために大陸会議を開いて本国との和解の道を探ったが、打開できないままであった。

1778年までの戦闘員

軍隊、民兵、および傭兵

戦争が始まったとき、アメリカには職業的な陸軍も海軍も無く、各植民地には地元の民兵隊が存在するのみで、これが自らの地域防衛にあたっていた。独立戦争前のアメリカでは、イギリス軍が各植民地の民兵隊を補助的に用いていた。開戦時、一部を除いてこの民兵隊のほぼ全てがアメリカ軍に加わった。民兵の装備は簡単なものであり、ほとんど訓練されておらず、通常は制服も無かった。当時、民兵の従軍期間は数週間から数か月間に限られており、家から遠く離れた所へは行きたがらなかったので、通常大規模な作戦には使えなかった。民兵には正規兵のような訓練や規律が欠けていたが数では勝り、レキシントン・コンコードの戦いベニントンの戦いとサラトガ、さらにボストン包囲戦では正規兵を打ち負かすことができた。米英両軍共にゲリラ戦を用いたが、アメリカ軍はイギリス軍正規兵がいない地域で効果的に王党派の活動を抑えた。

イギリス軍に従軍したドイツ人傭兵。ヘシアンと呼ばれた。

1775年6月、組織だった作戦行動をとるため、大陸会議は正規軍を(紙の上で)設立しジョージ・ワシントンを総司令官に任命した。大陸軍が成長を続ける中、ワシントンは正規軍と民兵の両方を使い続けた。1775年10月13日、大陸会議が大陸海軍のための艦船建造に承認を与えられたことによりアメリカ海軍が発足、この時4隻の武装船の購入および艤装が認められた。アメリカ海兵隊の前身である大陸海兵隊1775年11月10日の大陸会議決議により結成され、フィラデルフィアのタン酒場を最初の本拠にした。1783年の終戦時、大陸海軍と大陸海兵隊は解体された。独立戦争を通じ、延べ約25万人の兵士が正規兵または民兵として従軍したが、どの期間においても武装した兵士は9万人を越える事は無かった。陸軍は当時のヨーロッパの標準的な軍隊から考えれば小さなものだった。ワシントンが自ら戦場で指揮した兵士の数は一番多いときでも17,000名足らずであった。これは、戦術的選択の結果であったが、アメリカ軍が弾薬に不足していたために多くの兵士を一度に使えなかった側面も存在した。

1775年の初期、イギリス陸軍は世界で36,000名いたが、戦時には徴募によって確実にこの数字を増やしていた。さらにアメリカ独立戦争のときは、ドイツ諸侯から30,000名の兵士を雇用した。この兵士の多くはヘッセン=カッセル方伯領から来ていたので、「ヘシアン」すなわちヘッセン人と呼ばれた。この軍隊は主君に雇われた職業軍人という意味で傭兵軍であった。ドイツ兵は北アメリカでのイギリス軍兵力の3分の1を占めた。1779年までに北アメリカに駐屯するイギリス兵とドイツ兵の総数は6万名を超えた。ただし、カナダからフロリダまで分散した形になっていた。

アメリカ独立戦争におけるドイツ」も参照

アフリカ系アメリカ人および先住民族

アフリカ系アメリカ人は解放奴隷も奴隷のままの者も米英両軍ともに従軍した。イギリス軍は積極的に愛国者を主人に持つ奴隷を徴募した。大陸軍側においても、1776年1月、人員不足解消のためジョージ・ワシントンは奴隷徴募の禁止令を撤廃した。ロードアイランドマサチューセッツでは小さいながらも全て黒人の部隊が作られた。またフランス軍と共にハイチから全て黒人の部隊が参戦した。少なくとも5,000名の黒人が革命軍側で、2万人以上がイギリス軍に従軍した.。

ミシシッピー川から東にいた先住民族の大半が戦争に巻き込まれた。多くの部族社会は戦争へのかかわり方を巡って分裂することになったが、それまでアメリカの開拓者からの侵略に曝されていたために、先住民の多くはアメリカと敵対する道を選択した。およそ13,000名の戦士がイギリス側で戦ったと推定されており、その中ではイロコイ連邦の約1,500名が最大であった。

北部での戦い 1775年-1780年

マサチューセッツ

詳細は「ボストン方面作戦」を参照

開戦前のボストンでは反抗的活動が続き、1774年にイギリス政府は懲罰のためマサチューセッツ統治法を制定して自治を取り上げた。しかし、この政策は民衆の間に反発を広げる結果となり、新たに本国から任命された役人は辞職したり暴徒に追われてボストン市内を逃げ惑うことになった。イギリス軍北アメリカ総司令官になったトマス・ゲイジ中将はボストン市内の本部からイギリス正規兵4個連隊を指揮していたが、市内を外れれば革命勢力の手中にあった。

レキシントンの戦い

1775年4月18日の夜、ゲイジ将軍はマサチューセッツ州コンコードに植民地民兵が保管している弾薬を押収するために700名の部隊を派遣した。革命勢力に属するポール・リビアなどの伝令が郊外の町を駆け回り、イギリス軍が出動したという警告を伝えた。4月19日の朝、イギリス軍がレキシントンの村に入ると、77名の民兵が村の緑地に待ち構えていた。銃火が交わされ、数人の民兵が殺された。「1発の銃声が世界を変えた」という出来事であった。イギリス軍はコンコードに移動し、3個中隊の分遣隊がノースブリッジで500名の民兵軍と戦ったが成果を上げられなかった。イギリス軍がボストンに引き揚げ始めると、数千に及ぶ民兵が集まってきて、道路沿いからイギリス軍を攻撃し大きな損失を与えたが、イギリス軍は援兵が到着し壊滅を免れた。このレキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が始まった。

民兵達はボストンに集結し、ボストン包囲戦が始まった。約4,500名のイギリス援兵が大西洋を渡って到着し、1775年6月17日ウィリアム・ハウ将軍の指揮するイギリス軍がバンカーヒルの戦いチャールズタウンの半島を占拠した。アメリカ軍は後退したが、イギリス軍の損失が大きく次の攻撃に移ることが躊躇された。包囲戦は破られず、イギリス軍の指揮官はゲイジからハウに挿げ替えられた。

1775年7月、新しく指名されたワシントン将軍がボストン郊外に到着し、植民地軍の指揮を執り、大陸軍を組織化した。ワシントンは自軍に弾薬が不足していることを認め、新しい入手源を求めた。武器庫を襲撃したりまた製造も試みられた。1776年末までの軍需物資の90%は輸入に頼った。その総額は200万ポンドに上り、輸入元の大半はフランスからのものであった。

手詰まり状態が秋から冬まで続いた。1776年3月早く、愛国者がタイコンデロガ砦で捕獲した大砲がヘンリー・ノックス少佐によってドーチェスター高地に運び上げられた。大砲がイギリス軍を見下ろす形になったので、ハウ将軍は防衛できないと判断し、3月17日にボストン市を明け渡し、船でノバスコシアハリファックスの海軍基地まで移動した。その後ワシントンはニューヨーク市を守るために大陸軍の大半を移動させた。

カナダ

詳細は「カナダ侵攻作戦」を参照

ボストン方面で膠着状態に陥ってる間、大陸会議は戦争の主導権を掴もうと他方面で作戦行動を起こした。大陸会議は当初、フランス系カナダ人の領土を14番目の植民地として加えようと動いていたが、これに失敗するとカナダ侵攻作戦を承認した。その目的はフランス人の多いケベックからイギリスの支配を取り除くことであった。

カナダに向け2つの遠征隊が派遣されたが、そのうちの1つ、リチャード・モントゴメリー准将率いる1,700名の民兵隊は1775年9月16日タイコンデロガ砦を発進し、11月13日にはモントリオールを落とした。カナダの知事ガイ・カールトンはケベック市に撤退した。2つ目の遠征隊はベネディクト・アーノルド大佐に率いられた部隊で、東からケベック市に迫ったが、兵站に苦しみまた天然痘で倒れる者が多かった。11月初めにアーノルド隊がケベック市に到着した時、当初1,100名いた部隊は600名にまで減少していた。合流したモントゴメリー隊とアーノルド隊は12月31日にケベック市を攻撃する(ケベックの戦い)が、カールトンによって完璧に打ち負かされた。その後もアメリカ軍は1776年春までケベック市の郊外に駐屯していたが結局は退却した。カナダはアメリカ側よりも多くの兵力を擁し、戦線を堅守した。

アメリカ軍はもう一度ケベックまで押し返そうと試みたが、1776年6月8日トロワリビエールの戦いで敗北した。カールトンは逆襲に転じ、10月にはバルカー島の戦いでアーノルドの水軍を破る。アーノルドはカナダ侵攻作戦の出発点であったタイコンデロガ砦まで退却した。カナダ侵攻作戦はアメリカ軍にとって悲惨な結果に終わったが、アーノルドの工作でイギリス軍による全面的な反攻を遅らせることができた。

このカナダ侵攻により、アメリカはイギリス世論における支持基盤を失った。「だからアメリカに対する武力行使はこの国のあらゆる階層と職業の人々に快く受け入れられ支持されるのだ」

ケベックの戦いでジェイムズ・リビングストン大佐の第1カナダ連隊が、またサンピエールの戦いモーゼス・ヘイズンの第2カナダ連隊がアメリカ側に付いた。

ニューヨークとニュージャージー

詳細は「ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦」を参照

1776年7月4日、大陸会議はアメリカ独立宣言を採択した。

イギリス軍のハウ将軍はボストンから撤退した後でニューヨーク市の奪取に焦点を絞った。大陸軍のワシントンはニューヨークの防衛のためにロングアイランドマンハッタンの間に2万名の軍隊を分けた。イギリス軍がスタテン島に集結する間に、ワシントンは新しく発行されたばかりのアメリカ独立宣言を兵士達に読み聞かせた。もはや妥協の余地は無くなっていた。1776年8月27日、ロングアイランドに上陸した22,000名のイギリス軍は、独立戦争の中でも最大の会戦となったロングアイランドの戦いで大陸軍を駆逐し、ブルックリン・ハイツまで後退させた。ハウはそこで包囲戦を行おうとしたが、ワシントンは軍もろともマンハッタンに脱出できた。

9月15日、ハウは約12,000名の部隊をローワー・マンハッタンに上陸させ、直ぐにニューヨーク市を支配した。大陸軍はハーレム・ハイツまで退き、翌日ハーレム・ハイツの戦いがおこったが、なんとか陣地を確保することができた。ハウがワシントン軍を囲むように動いたとき、大陸軍はさらに後方に退いたうえで、10月28日ホワイトプレインズの戦いが起こった。ワシントン軍は後退を繰り返したので、ハウはマンハッタンに戻りワシントン砦を占領して約2,000名を捕虜にした。捕虜の数はロングアイランドの戦いの時と合わせて3,000名に上った。この後、ニューヨークで悪名高い「監獄船」が始まり終戦まで続いた。この監獄船で独立戦争のどの戦いよりも多くのアメリカの兵士や水夫が放って置かれたまま死んだ。

デラウェア川を渡るワシントン、エマヌエル・ロイツェ画

チャールズ・コーンウォリス将軍がワシントンを追ってニュージャージーまで進軍し、大陸軍は12月早くにデラウェア川を渡ってペンシルベニアまで後退した。このニューヨークからニュージャージーと続いたイギリス軍の方面作戦も冬に入って一旦停止し、ニュージャージーで冬の宿営に入った。ハウは何度も消耗を繰り返す大陸軍を潰す機会がありながらしくじってはいたが、5,000名以上のアメリカ兵を殺すか捕虜にしていた。

大陸軍の前途は多難であった。大陸軍と共に撤退を繰り返していたトマス・ペインは「今が兵士の心を試す時だ」と書き記した。使える兵力は5,000名足らずになっていた。兵士は1年で就役期間が終わるので12月末がくれば、1,400名まで減ることになっていた。大陸会議は絶望のうちにフィラデルフィアを捨てた。ただしイギリス軍の占領に対する大衆の反抗は強くなっていた。

ワシントンは年が改まる前に攻撃することに決め、クリスマスの夜に密かにデラウェア川を渡って12月26日トレントンの戦いで1,000名近いヘシアンを捕虜にした。コーンウォリスはトレントンを再度奪取しようと進軍してきたが、ワシントンはその裏をかき、1777年1月3日プリンストンの戦いでイギリス軍の後衛部隊を打ち破った。ワシン

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出典:wikipedia
2018/01/15 14:22

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