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アルゼンチンとは?

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アルゼンチン共和国
República Argentina



(国旗) | (国章)
国の標語:En Unión y Libertad
(スペイン語: 統一と自由において)
国歌:アルゼンチンの国歌
公用語
スペイン語
首都
ブエノスアイレス
【最大の都市】
ブエノスアイレス
政府
大統領
マウリシオ・マクリ
首相(官房長官) マルコス・ペニャ
面積
【総計】
2,780,400km(8位)
【水面積率】
1.1%
人口
【総計(2011年)】
40,760,000人(32位)
人口密度
14人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2013年)】
3兆3,418億アルゼンチン・ペソ($)
GDP (MER)
【合計(2013年)】
6,103億ドル(21位)
GDP (PPP)
【合計(2013年)】
9,279億ドル(23位)
【1人あたり】
22,363ドル

独立
- 第一議会
- 独立宣言 スペインより
1810年5月25日
1816年7月9日
通貨
アルゼンチン・ペソ($) (ARS)
時間帯
UTC -3(DST:なし)
ISO 3166-1
AR / ARG
ccTLD
.ar
国際電話番号
54
  1. ^ アルゼンチンのスペイン語はEspañol(エスパニョール)ではなく、Castellano(カステジャーノ)と呼ばれる。コリエンテス州のみグアラニー語もまた公用語となっている。
  2. ^ 連邦同盟1815年6月29日に独立を宣言した。

アルゼンチン政府は南極の1,000,000 kmおよびマルビーナス諸島の領有を主張している。

アルゼンチン共和国(アルゼンチンきょうわこく、スペイン語: República Argentina)、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家である。西と南にチリ、北にボリビアパラグアイ、北東にブラジルウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を擁する。首都はブエノスアイレス

チリと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビーナス諸島(英語ではフォークランド諸島)の領有権を主張している。また、チリ・イギリスと同様に南極の一部に対して領有権を主張しており、アルゼンチン領南極として知られる。

2005年と2010年に債務額を大幅にカットする形で債務交換を強行し、9割以上の債務を再編した。これはアメリカ合衆国との国際問題に発展した。

目次

  • 1 国名
  • 2 歴史
    • 2.1 先コロンブス期
    • 2.2 スペイン植民地時代
    • 2.3 独立戦争と内戦
    • 2.4 ロサス時代
    • 2.5 国家統一と西欧化
    • 2.6 西欧による搾取から民主化へ
    • 2.7 戦間期
    • 2.8 忌まわしき10年間
    • 2.9 ペロニスタと軍部の戦い
    • 2.10 汚い戦争
    • 2.11 民政移管
    • 2.12 2001年の債務不履行
    • 2.13 2014年の債務不履行
    • 2.14 新自由主義への回帰
  • 3 政治
  • 4 軍事
    • 4.1 陸軍
    • 4.2 海軍
    • 4.3 空軍
  • 5 国際関係
  • 6 地方行政区分
    • 6.1 主要都市
    • 6.2 都市と都市圏
  • 7 地理
    • 7.1 地理的な国土
      • 7.1.1 パンパ
      • 7.1.2 グラン・チャコ
      • 7.1.3 メソポタミア
      • 7.1.4 パタゴニア
      • 7.1.5 クージョ
      • 7.1.6 北西部
    • 7.2 山
    • 7.3 河川と湖
    • 7.4 沿岸部と海
    • 7.5 飛地
    • 7.6 気候
  • 8 経済
  • 9 交通
  • 10 国民
    • 10.1 人口
    • 10.2 移民
    • 10.3 マイノリティ
    • 10.4 不法移民
    • 10.5 都市化
    • 10.6 アルゼンチン人移民
    • 10.7 言語
    • 10.8 宗教
    • 10.9 婚姻
    • 10.10 教育
  • 11 文化
    • 11.1 文学
    • 11.2 映画
    • 11.3 絵画と彫刻
    • 11.4 食文化
    • 11.5 音楽
    • 11.6 世界遺産
    • 11.7 祝祭日
  • 12 スポーツ
    • 12.1 サッカー
    • 12.2 テニス
    • 12.3 ラグビー
    • 12.4 バスケットボール
    • 12.5 ボクシング
  • 13 科学と技術
  • 14 通信とメディア
    • 14.1 出版
    • 14.2 ラジオとテレビ
  • 15 国の象徴
  • 16 脚注
  • 17 参考文献
    • 17.1 学術
      • 17.1.1 歴史
    • 17.2 政治
      • 17.2.1 地理
      • 17.2.2 経済
      • 17.2.3 社会
      • 17.2.4 文化
    • 17.3 ジャーナリズム
      • 17.3.1 総合
      • 17.3.2 紀行
  • 18 関連項目
  • 19 外部リンク

国名

マルティン・デル・バルコ・センテネラ叙事詩アルヘンティーナとラ・プラタ川の征服

正式名称は、República Argentina(レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、Argentina(アルヘンティーナ)。英語表記は公式にはArgentine Republic(アージェンタイン・リパブリック)、通称Argentina(アージェンティーナ)。

日本語の表記はアルゼンチン共和国。通称アルゼンチン。他にアルゼンティンとも表記され、原語音に即したアルヘンティーナと表記されることもある。漢字表記では、亜尓然丁亜爾然丁阿根廷など。

独立当時にはリオ・デ・ラ・プラタ連合州(Provincias Unidas del Río de la Plata)と呼ばれていた。リオ・デ・ラ・プラタスペイン語で「の川」を意味し、1516年フアン・ディアス・デ・ソリスの率いるスペイン人征服者の一行がこの地を踏んだ際、銀の飾りを身につけたインディヘナ(チャルーア人)に出会い、上流に「銀の山脈(Sierra del Plata)」があると信じたことから名づけたとされる。これにちなみ、銀のラテン語表記「Argentum(アルゲントゥム)」に地名を表す女性縮小辞(-tina)を添えたものである。初出は、1602年に出版されたマルティン・デル・バルコ・センテネラ叙事詩アルヘンティーナとラ・プラタ川の征服』とされる。その後、1825年に正式国名とした。

国名をラテン語由来へと置き換えたのは、スペインによる圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵略を契機として、フランス語読みの「アルジャンティーヌ(Argentine)」に倣ったものでもあるとされる。しかしながら、現在でも「リオ・デ・ラ・プラタ連合州」や「アルゼンチン連合(Confederación Argentina)」などの歴史的呼称は、アルゼンチン共和国とともに正式国名として憲法に明記されている。

歴史

詳細は「アルゼンチンの歴史」を参照

先コロンブス期

アイマラ人が15世紀に築いた、アルゼンチン北西部フフイ州ティルカラにあるティルカラのプカラ(石壁)。

アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11,000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々だった。彼らは現在パタゴニアに残る「手の洞窟」を描いた人々であった。

その後15世紀後半に現ペルークスコを中心に発展したケチュア人の国家クスコ王国(1197年 - 1438年)は、タワンティンスーユ(インカ帝国、1438年 - 1533年)の皇帝トゥパック・インカ・ユパンキワイナ・カパックによって征服され、北西部のアンデス山脈地域はタワンティンスーユに編入された。征服された地域はタワンティンスーユ内の四州の内の一州、コジャ・スウユ(ケチュア語族: Colla Suyo、「南州」)の辺境の地となり、30万人ほどのケチュア人やアイマラ人が住むようになった。アルゼンチンにおけるコジャ・スウユの領域は北は現在のフフイ州から南はメンドーサ州、東はサンティアゴ・デル・エステロ州の北部にまで広がっていた。その一方でインカ帝国の権威が及ばなかったチャコパンパパタゴニアには、チャルーア人のような狩猟インディヘナが主に居住しており、パンパやチャコにもグアラニー人のような粗放な農耕を営むインディヘナがいたが、全般的にこの地域に住む人間の数は少なかった。

スペイン植民地時代

スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

16世紀に入ると、1516年にスペイン探検家フアン・ディアス・デ・ソリスが最初のヨーロッパ人としてこの地を訪れたが、すぐに先住民といさかいを起こし、まもなく殺害された。その後もスペインによってこの地域の植民地化は進められた。1536年にラ・プラタ川の上流にあると思われた「銀の山」を攻めるために、バスク人貴族のペドロ・デ・メンドーサ率いる植民団によって、ラ・プラタ川の河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ市が建設されたが、まもなくインディヘナの激しい攻撃に遭って放棄され、以後200年ほどラ・プラタ地域の中心は、1559年にアウディエンシアの設置されたパラグアイアスンシオンとなった。

植民地政策の伸展に伴ってペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、ペルー方面からアンデス地域を軸に開拓が進み、1553年には現存するアルゼンチン最古の都市サンティアゴ・デル・エステロが建設された。アスンシオンからの内陸部開発も盛んになり、1580年には放棄されたブエノスアイレスが再建されたが、それでもこの地域はベネズエラなどと並んでイスパノアメリカでは最も開発の遅れた地域だった。また、1541年に放された12頭の馬がパンパの牧草を食べて自然に大繁殖したこともあり、いつしかガウチョが現れるようになっていった。同じようにして繁殖した牛は19世紀の始めにはラ・プラタ地域全体で2000万頭ほどいたといわれている(ちなみにこの頃の人口はアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイを併せても100万人を越えないほどだった)。植民地政策の経過により、当初は大西洋岸よりも内陸部の発展が早かった。1613年には内陸のコルドバコルドバ大学が建設され、以降19世紀までコルドバは南米南部の学問の中心となった。18世紀にはグアラニー戦争等に代表されるように、ポルトガル領ブラジル方面から攻撃を続けるポルトガルとの小競り合いが続き、スペイン当局がバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)を防衛するためもあって、1776年にペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となって正式に開港され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との密貿易により空前の繁栄を遂げた。しかし、この時点においてアルゼンチンの産業の中心は北西部のトゥクマンや中央部のコルドバであり、リトラル地域やブエノスアイレスには見るべき工業はなかった。このブエノスアイレス港の正式開港は、後に植民地時代に繁栄していた内陸部諸州に恐ろしい打撃をもたらすことになった。

独立戦争と内戦

詳細は「アルゼンチン独立戦争」を参照
近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照
五月革命の実行者の一人となったブエノスアイレスの代表者 マヌエル・ベルグラーノアルゼンチンの国旗の制定者でもある。

1806年、1807年の2度にわたるイギリス軍ラプラタ侵略を打ち破った後、スペインからの解放と自由貿易を求めたポルテーニョは1810年5月25日に五月革命を起こし、ブエノスアイレスは自治を宣言したが、ラ・プラタ副王領のパラグアイバンダ・オリエンタルアルト・ペルーコルドバはブエノスアイレス主導の自治に賛成しなかった。このためブエノスアイレス政府は各地に軍を送り、コルドバを併合することには成功したが、1811年のマヌエル・ベルグラーノ将軍のパラグアイ攻略は失敗した。1813年のサンロレンソの戦いにも勝利するとスペイン王党派軍との戦いが本格化するが、しかし王党派の支配していたアルト・ペルー攻略(第一次アルト・ペルー攻略第二次アルト・ペルー攻略)は失敗した。

スペイン語ケチュア語で書かれた南アメリカ連合州の独立宣言。

独立戦争が難航する中、1816年7月9日にはトゥクマンの議会で正式に独立を宣言したが、まだこの時点では独立の方向も定まっておらず、インカ皇帝を復活させて立憲君主制を導入しようとしていたベルグラーノ将軍のような人物から、ホセ・アルティーガスのようにアメリカ合衆国のような連邦共和制を求める勢力もあり、ブエノスアイレスは自由貿易、貿易独占を求めるなど、独立諸派の意見は全く一致しなかった。ベルグラーノ将軍が第三次アルト・ペルー攻略に失敗し、北部軍司令官を辞任すると、後を継いだアンデス軍司令官のホセ・デ・サン・マルティン将軍がアンデス山脈越えを行い、王党派の牙城リマを攻略するために遠征を重ね、王党派軍を破ってチリ(チャカブコの戦いマイプーの戦い)、解放者シモン・ボリーバルコロンビア共和国解放軍から派遣されたアントニオ・ホセ・デ・スクレペルー(アヤクーチョの戦い)を解放していったが、本国ではブエノスアイレスの貿易独占に反対する東方州リトラル三州のアルティーガス派(連邦同盟)とブエノスアイレス(トゥクマン議会派)の対立が激しさを増し、内戦が続いた。内戦の末、1821年にプエイレドンが失脚すると中央政府は崩壊したが、中央政府が存在しないことは外交上不利であったため、各州の妥協により1825年にブエノスアイレス州が連合州の外交権を持つことを認められた。

その後、ブエノスイアレスと敵対していた東方州がポルトガル・ブラジル連合王国に併合されたことをブエノスアイレスが見過ごしたことへの批判が強まり、33人の東方人を率いて独立運動を開始したフアン・アントニオ・ラバジェハ将軍のバンダ・オリエンタル潜入から、かの地を巡って1825年にブラジル帝国との間にブラジル戦争が始まった。この戦争に際して挙国一致が図られ、ベルナルディーノ・リバダビアを首班とした中央政府が一時的に成立し、この時に国名をリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナに改名したが、戦争の最中に制定された中央集権憲法と、ブエノスアイレスを正式に首都と定める首都令が国内の全ての層の反発を受けると、リバダビアは失脚し、再び中央政府は消滅した。戦局はアルゼンチン有利に進んだが、内政の混乱が災いし、最終的にはイギリスの介入によってバンダ・オリエンタルを独立国とするモンテビデオ条約が結ばれ、1828年にウルグアイ東方共和国が独立した。そしてこの地を以後再びアルゼンチンが奪回することはなかった。

ロサス時代

ブエノスアイレス州知事にして「独裁王」フアン・マヌエル・デ・ロサス。批判されることが多いが、パンパを代表とするアルゼンチンのもう一つの精神を体現していた人物である。1835年から1852年まで鉄の統治を敷いた。
ロサス時代の国旗。

ブラジルに対しての実質的な敗戦の影響もあって連邦派と統一派の戦いは激しさを増したが、1829年に統一派のブエノスアイレス州知事フアン・ラバージェを打倒した連邦派のフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事になると、ロサスはリトラル3州のカウディージョと同盟を結んで1831年11月に中央集権同盟を破り、ほぼ全アルゼンチンの指導者となった。この時期には中央政府こそ作られなかったもののアルゼンチン連合が成立し、以降内戦はしばらくの小康状態に入った。ロサスは1832年に州知事を辞すると、「荒野の征服作戦」で敵対していたパンパインディヘナを今日のブエノスアイレス州の領域から追い出して征服した土地を部下に分け与え、大土地所有制を強化した。

1835年にラ・リオハ州を中心とした内陸部の連邦派の指導者、フアン・ファクンド・キロガが暗殺されると再びアルゼンチン全土に内戦の危機が訪れた。この際のロサスの妻のドーニャ・エンカルナシオンのクーデターもあり、最終的にはブエノスアイレス州議会に請われてロサスは1835年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いた。以降のロサスの政治は恐怖政治であり、統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧・追放され、25,000人にも及ぶ市民が粛清されたが、その一方でロサスはパンパの伝統を守り、自由主義者によって弾圧されていた黒人ガウチョを保護するなどの面もあった。こうした政策で、ブエノスアイレス州の農民や都市下層民をはじめとする上流階級以外の各層から支持を得て、独裁制は成り立っていた。外交面では国粋主義と大アルゼンチン主義を貫き、移民を禁止するなどの政策をとったロサスは、1833年に マルビーナス諸島を売るように要求したイギリス商人の申し出を断ったため、イギリスに島を占領されてしまったものの、ラ・プラタ地域に野心を持っていたイギリスフランスとのウルグアイを巡っての大戦争や、それに続くラ・プラタ川の封鎖、さらにはパタゴニアを植民地化するとのフランスから恫喝、1845年から1846年の戦争となって顕在化したカウディージョの支配するパラグアイとの対立、これらの相次ぐ国難全てからロサスはアルゼンチン連合を守り抜いた。しかし戦争によって貿易が封鎖され、疲弊したリトラル諸州の怒りは激しく、まもなくブラジル帝国と同盟した腹心のフスト・ホセ・デ・ウルキーサエントレ・リオス州から反乱を起こすと、1852年にロサスはカセーロスの戦いでロサスは敗れ、失脚した。

国家統一と西欧化

最も代表的な自由主義(欧化主義)者ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント1868年から1874年まで大統領を務めた。
『我が子の遺体を前にするパラグアイ兵』ホセ・イグナシオ・ガルメンディア画。

カセーロスの戦い以後のアルゼンチン連合は、当時の自由主義知識人の意向により西欧化が進み、土着のスペイン的な伝統や、ガウチョや黒人やインディヘナは近代化の障害として大弾圧された。ウルキーサが設立したアルゼンチン連合1853年憲法は、事実上の起草者だったアルベルディの意向を反映して極めて自由主義的な憲法であった。ウルキーサがこの自由主義貿易によって自由貿易を導入すると、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業はほとんど壊滅してしまった。

その後もブエノスアイレス国と周辺諸州との間で内戦が続いたが、1861年にブエノスアイレス国がウルキーサを破り、アルゼンチン連合を併合して国家統一が達成された。このため、勝利した元ブエノスアイレス国知事ミトレら自由主義者が完全な主導権を握ることになり、国家の西欧化のためにヨーロッパから移民が大量に導入されることが決定した。ミトレは周辺国への干渉と中央集権政策を進め、アルゼンチン・ブラジル二大国によるウルグアイへの内政干渉をきっかけにして1864年から始まったパラグアイとの三国同盟戦争を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。この時期に極端な集権化に抵抗した勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めたフェリペ・バレーラなどが存在する。1868年に大統領に就任した自由主義者のサルミエント政権は、より自由主義的な経済政策や教育政策を成功に導き、ヨーロッパに倣った経済や社会の近代化が進んだが、反面土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国してモンテビデオに向かうことになる。一方パンパでは未だに敵対的インディヘナとの対立が続いていたが、1878年にロカ将軍の指揮した砂漠の征服作戦によってパンパからインディヘナが追いやられると、征服された土地は軍人や寡頭支配層の間で再分配され、より一層の大土地所有制拡大が進んだ。

西欧による搾取から民主化へ

民主化に努めた急進党のイポリト・イリゴージェン(1916年 - 1922年と1928年 - 1930年に大統領を務めた)。

1880年に正式にブエノスアイレスが国家の首都と定められ、首都問題が最終的に解決すると、このことが内政の安定につながり、外国資本と移民の流入が一気に加速した。これにより、イギリスの「非公式帝国」の一部として経済の従属化は進んだが、一方で農牧業を中心としたモノカルチャーによる奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだ。こうしてヨーロッパからの大量の移民が「洪水」のようにブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的で「偉大な田舎」に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙にコスモポリタンな大都市の「南米のパリ」に転身し、1914年には実に国民の約30%が外国出身者となるほどであった。同時にこの頃から、移民の流入や都市化以前のアルゼンチンを懐かしむ風潮が生まれ、1874年にはアルゼンチンの国民文学であるガウチョの叙事詩『マルティン・フィエロ』が完成した。

また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治を改めて政治の民主化を求める声も強くなり、1890年の反政府反乱をきっかけに1891年には急進的人民同盟が組織され、これは後の急進市民同盟(急進党)へと発展して行った。また、1890年の反乱は政府証券を保有していたベアリングス銀行に損失を被らせ、結局1893年恐慌に発展させた。急進党は1905年の武装蜂起に失敗したが、この反乱を恐れた保守派の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/01/08 06:40

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