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アレックス・ラミレスとは?

【基本情報】

【国籍】
ベネズエラ
【出身地】
首都地区ミランダ州カラカス
【生年月日】
(1974-10-03) 1974年10月3日(43歳)
【身長
体重】
180 cm
100 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
左翼手
【プロ入り】
1991年 アマチュア・フリーエージェントとしてクリーブランド・インディアンスと契約
【初出場】
MLB / 1998年9月19日
NPB / 2001年3月30日
【最終出場】
MLB / 2000年9月27日
NPB / 2013年10月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴

  • 群馬ダイヤモンドペガサス (2014)
  • 横浜DeNAベイスターズ (2016 - )

この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


アレックス・ラミレス(Alex Ramírez) こと アレキサンダー・ラモン・ラミレス・キニョーネス(Alexander Ramón Ramírez Quiñónez 1974年10月3日 -) は、ベネズエラ出身の元プロ野球選手(外野手)、横浜DeNAベイスターズ監督(第30代)。

愛称は「ラミちゃん」。

DeNA選手時代の2013年に日本球界通算2000本安打を達成し、外国人枠適用経験選手では史上初の名球会への入会を果たした。王貞治の7年連続を更新し、8年連続100打点超えの記録を持つ。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 プロ入りとインディアンス時代
    • 1.3 パイレーツ時代
    • 1.4 ヤクルト時代
      • 1.4.1 巨人移籍への背景
    • 1.5 巨人時代
    • 1.6 DeNA時代
    • 1.7 BCリーグ・群馬時代
    • 1.8 引退後
      • 1.8.1 群馬シニアディレクター・オリックスアドバイザー時代
      • 1.8.2 DeNA監督時代
  • 2 選手としての特徴
    • 2.1 打撃
    • 2.2 守備・走塁
  • 3 監督・指導者として
  • 4 人物
    • 4.1 パフォーマンス
  • 5 詳細情報
    • 5.1 年度別打撃成績
    • 5.2 年度別守備成績
    • 5.3 タイトル
    • 5.4 表彰
    • 5.5 記録
    • 5.6 独立リーグでの打撃成績
    • 5.7 年度別監督成績
    • 5.8 背番号
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
    • 6.3 参考文献
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

プロ入り前

実家はベネズエラの首都・カラカス近郊の「ピニャンゴ・デ・ジャレ」という小さな町にある。人口は約200人で、そのうち4分の3程がラミレスの一族だという。

5歳で兄の影響を受け野球を始め、8歳で地元リトルリーグの監督にスカウトされチームに所属。15歳になると本格的に野球選手を目指すため学校を退学。当時は主に投手を務めていた。

プロ入りとインディアンス時代

18歳でベネズエラの国内選手権に出場した際に外野手として試合に出ていたところをクリーブランド・インディアンズのスカウトの目に留まりマイナーリーグ契約をする。

1994年2月に結婚し、8月から1995年4月までメジャーリーグ史上最長のストライキが実施された影響で、1995年のメジャーリーグスプリングトレーニングにはオーナー側の命令で代替選手として参加。そのため、スト破りを行った報復措置としてメジャーリーグ選手会への加入を認められなかった。

1998年はAAA級バッファロー・バイソンズで121試合に出場。34本塁打103打点6盗塁、打率.299と結果を残し、9月19日に初のメジャーリーグ昇格を果たした。同日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーデビュー。1打数無安打1三振に終わった。

パイレーツ時代

2000年7月28日にウィル・コルデロとのトレードエンリケ・ウィルソンと共にピッツバーグ・パイレーツへ移籍。しかしパイレーツへの移籍直後は好調だったものの、8月に入るとスランプに陥りスタメンから外されるようになる。ラミレスによれば「打撃コーチ(ロイド・マクレンドン)に打席でのスタンスを変えるよう指示されそれに従ったところスランプに陥ったため、コーチに『スタンスを元に戻したい』と言ったら、次の日からスタメンを外された」という。

ヤクルト時代

2000年11月1日、ヤクルトスワローズに入団。背番号は3。当時、フロリダ州で家と車を購入したばかりでそのローンが残っていたため、当初は「1年だけ日本で金を稼いで、(ローンを)返済したらすぐに戻る」つもりだったという。

2001年から打率.280・29本塁打・88打点の好成績をマーク。当初の契約では「5番・右翼手」での出場を確約されていたが、キャンプ初日に右翼手のレギュラーだった稲葉篤紀の守備を見て「自分は彼(稲葉)には勝てない」と感じ、左翼手に転向した。チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。

2002年も前年同様安定した成績を残した。

2003年読売ジャイアンツへ移籍したロベルト・ペタジーニに替わって4番に座り、打率.333・40本塁打・124打点で打点王・本塁打王・最多安打・ベストナインの各タイトルを獲得。来日3年目で初の3割達成となった。

2004年8月21日の対阪神タイガース戦(明治神宮野球場)では、トレイ・ホッジスからランニング本塁打を放った。この年は故障離脱もあったが打率.305、31本塁打、110打点の成績を残した。終盤には代理人の意向もあって移籍が取り沙汰されたが、本人の希望もあって残留。その際、義理の息子であるアレックス・ラミレス・ジュニアの入団が決め手となった。

2005年は3割は逃したが、引き続きチームの4番打者としてチームに貢献した。

2006年は26本塁打・112打点を記録するものの、636打席で四球はわずか19個と選球眼の悪さが露呈し、出塁率.289は両リーグで最低だった。

2007年10月4日の対横浜ベイスターズ21回戦(明治神宮野球場)において、外国人選手・右打者としては史上初のシーズン200本安打を達成、打率も.343、安打数は最終的に204安打まで達した。また、このシーズンは打率.343、122打点をマークして、100打点、200安打、打率.300以上の「100・200・300」を同時達成しているが、これは日本プロ野球史上唯一の記録で、メジャーリーグに渡った日本人選手でも、2005年の松井秀喜(ニューヨーク・ヤンキース)が114打点、192安打、打率.305を残したのが「最接近記録」で、NPB/MLBを通じて100打点以上の経験がないイチローも到達していない。この記録は確実性と長打力に加えてケガにも強い耐久性を兼ね備えていることの証ともいえるもので、MLBで最も多く記録しているのは2130試合連続出場記録を残したルー・ゲーリッグ(ヤンキース)の8回である。

シーズン終了後に球団側との契約交渉が決裂したことで退団が決まり、11月30日に自由契約公示。12月29日、読売ジャイアンツへの入団が正式に発表された。入団会見は巨人初のビデオレターによるものとなり、会見では「このチーム(巨人)に足りないものを加えに来た」とコメントした。

巨人移籍への背景

シーズン終了後、球団側からラミレス側への残留要請が行われたが、提示された条件は契約年数1年、推定年俸4億円というラミレス側の希望とはかけ離れたものであった。7年在籍した球団に対する彼の希望は、高年俸ではなく契約年数で、ラミレスは球団側が複数年契約を認めればヤクルトに残留する選択も考えていた。実際、ラミレスは後に「現状維持の2年契約の提示があれば残留していた」と記しているが、最終的に球団側は複数年契約を提示しなかったため、ヤクルトを退団することとなった。

自由契約となったラミレスに対し、右の大砲を探していた巨人とオリックス・バファローズが獲得を検討していたが、オリックスはアレックス・カブレラを獲得したため、巨人が獲得した。推定年俸は5億円(契約年数2年、総額10億円)。背番号は、「3」が長嶋茂雄永久欠番となっているため、「5」となった。ラミレスは以前から「巨人では外国人選手が大変な思いをしている」と聞かされていたため、巨人は一番行きたくないチームだったが、巨人がラミレス自身が希望する複数年契約を提示したことに加え、ラミレス自身が原辰徳の指揮に以前から興味を持っていたこともあって巨人入りを決めたという。

巨人時代

2008年は開幕から5番打者としてシーズンを迎えたが、開幕から結果を残したことと、4番候補の李承燁高橋由伸の不振により、主に4番で起用されるようになった。前年の高打率を維持しながら長打力も発揮し、45本塁打、125打点で2年連続3度目の打点王を獲得し、チームのリーグ連覇に貢献した。そして2008年のセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。交流戦はパ・リーグのチームの主催試合が指名打者制のため、この試合では主に指名打者として起用された。チームは中日ドラゴンズとのCS第2ステージでは初戦を落とすも第2戦に球団初のCS勝利、第3戦は引き分け、第4戦では8回に勝ち越しの2ラン本塁打を放って勝利し、6年ぶりの日本シリーズ進出を決めた。埼玉西武ライオンズとの日本シリーズでは第3戦は指名打者で出場し、第4・5戦では阿部慎之助が負傷して指名打者で出場したため左翼手として出場した。同シリーズでは併殺打が多く物足りない成績で第7戦では最後の打者となってしまったが、第1戦の唯一の打点、第2戦のサヨナラホームラン、第3戦でもソロホームランを放ち、第5戦では逆転のきっかけを作る二塁打を放つなど随所で活躍し、同シリーズ敢闘賞を受賞した。この年にフリーエージェント資格を取得したため、2009年から外国人枠を外れて日本人扱いとなった。

2009年は144試合全てで4番に座り、前年に続く活躍。3割30本100打点を達成したほか、打率.322で自身初の首位打者と3度目の最多安打を獲得。チームの3連覇に貢献し、2年連続の最優秀選手に選ばれた。シーズン通しての調子の波も少なく、6月以外の月間打率は全て3割以上だった。巨人の右打者の首位打者獲得は1971年長嶋茂雄以来38年ぶりである。日本シリーズで、観戦に来た小笠原道大の娘にファウルボールを当ててしまうが、翌日「ゴメンナサイ」と書いた自身のサインボールを小笠原に渡した。同シリーズでは第4戦の7点ビハインド場面で金森敬之から3ラン本塁打を打った。これが同シリーズでの自身にとって唯一のホームランだった。チームはこの試合は敗れたが、第5、6戦と勝利し、巨人での日本一を達成した。

2010年4月に孫のD・J・ラミレスが誕生(夫人の連れ子であるアレックス・ラミレス・ジュニアの子)。好不調の波が少なかった過去2年と違ってシーズン当初は低打率に苦しんだが、その中でも得点圏においては勝負強い打撃を見せ、本塁打と打点を量産。夏場に入ると一気に調子を上げて打率も向上させ、最終的に打率.304、49本塁打、129打点で二冠王に輝いた。しかし、首位打者の青木宣親(ヤクルト)、シーズンMVPの和田一浩(中日)、シーズン安打数の日本新記録を挙げたマット・マートン(阪神)の3人に阻まれ、ベストナインには選出されなかった。打撃二冠のタイトルを獲得しながらベストナインに選ばれなかったのは、1960年藤本勝巳に次いで二人目である。年間120打点4度記録これは松中信彦と並んで歴代1位である

2011年5月1日に4番としての連続先発出場記録を416試合として、松井秀喜が持つ415試合を抜き、球団新記録を達成する。しかし7月13日の対阪神戦で受けた死球の影響で7月14日に先発から外れ、長野久義が4番で先発出場し、記録は469試合で途切れた。代打で途中出場したため連続試合出場は続いたが、翌日の試合では途中出場もなかったため、連続試合出場は985試合で止まった。この記録は外国人選手としては歴代最長記録となった。8月5日、3回表に内野安打を放ち、NPB通算1793安打を記録。タフィ・ローズの1792安打を越え、歴代外国人選手の通算最多安打記録を更新した。シーズン成績は、打率(.279)が巨人入団以来初めて3割を切り、打点(73)は連続100打点が8年で止まり、来日以来最低の数字となった。本塁打数(23)も来日以来最低の数字となり、打撃三部門で来日以来最低の記録となった。但し、本塁打数はリーグ2位でチーム内では1位である。これは「飛ばないボール」(統一球)に変わったこともあり、セ・リーグの選手全体の本塁打数も減少したため、本塁打数に関しては決して不振とは言える数字ではなかった(最多は、ウラディミール・バレンティン(ヤクルト)の31本)。指揮官の起用面を配慮し契約最終年であり、10月31日のクライマックスシリーズ・ファーストステージ終了を以て、正式に退団を表明した。この年から導入された統一球によって本塁打が減少したことで大量得点を期待できず、いかに守備で失点を防いでいくかの戦いになったことでラミレスの守備難はネックとなった。お世辞にも上手い守備とは言えず、終盤は打順の降格だけでなく、スタメンを外れる試合もあった。ラミレス自身は打撃でチームに貢献したかったが、チームとしては守備面を重視する方針となっていたため、チームにとって絶対的な存在ではなくなっていた。

DeNA時代

2011年12月8日、横浜DeNAベイスターズが獲得を発表し、入団会見を行った。背番号は、ヤクルト時代と同じ3

2012年はオープン戦での肉離れにより開幕スタメンこそ逃すも、4月4日より新チームの4番として定着。しばらくは調子が上がらない時期が続いたが、徐々に調子を上げ、7月5日、NPB/MLB通算2000本安打を達成(MLBでは86安打・NPBでは1914安打を記録)。同14日、外国人選手最高記録となる12年連続2桁本塁打を達成。7月にはDeNA移籍後初、通算9回目の月間MVPを受賞した。3球団で月間MVPを受賞するのは史上初。

2013年4月6日、明治神宮野球場にて2000本安打を達成

2013年トニ・ブランコの入団により5番に回り、4月6日の対ヤクルト戦で6回表、元チームメイトである石川雅規からレフト方向へ弾丸ライナーで飛び込む本塁打を放ち、外国人選手枠で入団した選手としては史上初となる、NPB通算2000本安打を達成した。だが、巨人退団の要因となった守備難が顕著になってきたことに加え、特に2000本安打を達成してからは打撃面でも精彩を欠いたことから、4月25日の対巨人戦を最後にスタメン落ち。その後は代打や交流戦での指名打者として出場していたが、代打には不慣れなこともあって結果を残せず、6月2日の日本ハム戦で本塁打を放ったのを最後に22打席連続凡退のまま、前半戦終了後の7月18日に来日13年目にして初の二軍降格となった。結局、来日1年目から12年連続で続けてきたシーズン100試合出場・規定打席到達・シーズン100安打・シーズン二桁本塁打の全てが途切れた。9月27日、戦力外通告を受けていたことが判明。10月2日、球団側が14年シーズンは契約しないことを正式に発表した。

BCリーグ・群馬時代

横浜DeNAから戦力外通告を受けた後は、KOYO都市開発の社長に就任する一方で、NPBの他球団で現役生活を続けることを希望。好物の炭酸飲料を断つなど、例年以上に節制と自主トレーニングに努めることで、他球団からのオファーに備えていた。

2014年2月13日にベースボール・チャレンジ・リーグ群馬ダイヤモンドペガサスが、ラミレスを打撃コーチ兼任の外野手として入団させることを発表した。背番号はヤクルト・DeNA時代と同じ3。なお、打撃コーチ料を含めた推定年俸は、巨人時代の最高額(5億円)の100分の1に相当する500万円(選手としての月給にはリーグ規定上限額の40万円を適用)。また、ラミレスにNPB復帰への意向が強いことから、群馬との契約には「シーズン途中にNPBの球団から(ラミレスの)獲得を打診された場合には契約を解除できる」という旨の付帯条項が添えられた(なお、NPBの支配下選手登録の新規獲得可能期間は7月31日までである)。

入団した群馬では、4番・指名打者として5番カラバイヨとの強力クリーンナップを形成。4月にまたも西武が獲得を検討していると報道されたものの、契約は見送られた。6月23日に球団がラミレスの緊急帰国を発表。帰国に至った経緯として、「家族の病気療養に付き添うため」としている。その後、チームに再合流して7月11日の試合より一度復帰するも、同様の理由のため9月4日に球団が2回目の緊急帰国を発表した。2度目の帰国後は、復帰することなく、シーズンを終えた。シーズン通算では、45試合の出場で、打率.305、7本塁打、38打点。10月14日に、球団を通じて現役引退を表明した。

引退後

群馬シニアディレクター・オリックスアドバイザー時代

2014年10月29日から、群馬のシニアディレクターに就任した。就任後の11月9日に第1回トライアウトを視察して、年内限りとDeNAから戦力外通告を受けていた元チームメイトの伊藤拓郎を群馬に入団させるなど、編成面で手腕を発揮していた。

2015年6月22日からオリックス・バファローズと3ヶ月間の契約を結び、同球団の巡回アドバイザーを兼務した。群馬で指導していたフランシスコ・カラバイヨヨヘルミン・チャベスが相次いでオリックスへ移籍したことによる就任で、外国人選手のサポートを中心に、月に数回のペースで一・二軍を指導していた。

オリックスは2015年10月5日に、ラミレスと巡回アドバイザー契約を延長しないことを発表した。球団本部長の瀬戸山隆三は、契約期間の満了を機に別のポストへの就任をラミレスへ打診したところ、就任の辞退と退団の申し出があった、としている。

DeNA監督時代

2015年10月19日にDeNA球団がラミレスの一軍監督就任を発表した。同球団の監督に外国人が就任するのは前身の横浜大洋ホエールズと横浜ベイスターズ時代を含めても初めて。

現役時代に横浜DeNAベイスターズおよび前身球団に在籍していた人物が同球団の監督に就任するのは2004年に退任した山下大輔以来で、DeNA球団のOBとして監督に就任するのは球団史上初となる。

現役時から「日本のプロ野球で監督をやってみたい」と願っており、就任当時12球団で唯一CS出場実績がなかったことから80勝への願いを込めて背番号は80とし、「来季優勝するために必要な数字」と語った。

2016年シーズンは3位で球団初のクライマックスシリーズへ進出し、1stステージで2位の巨人に2勝1敗で勝利してクライマックスシリーズ・ファイナルステージに進出したが、シーズン1位の広島に1勝4敗(広島に1勝のアドバンテージ含む)で敗れて日本シリーズ進出はならなかった。

2017年シーズンも3位でリーグ戦を終え、クライマックスシリーズへ進出。また、球団として16年ぶりの2年連続Aクラスとなった。3位が確定したのは10月1日の広島戦(於横浜スタジアム。13 - 7で勝利)で、この日に1年契約で2018年シーズンの続投が決まった。クライマックスシリーズでは1stステージで2位の阪神に2勝1敗で勝利し、クライマックスシリーズ・ファイナルステージへ進出。シーズン1位の広島に4勝2敗(広島に1勝のアドバンテージ含む)で勝利し球団として19年ぶりの日本シリーズ進出を果たした。これにより、2010年代で、セ・リーグは21世紀になってから日本シリーズに1度も出場したことがない球団がなくなった。日本シリーズではソフトバンクと戦い、2勝4敗に終わった。

選手としての特徴

ラミレスの打撃フォーム
(2012年3月18日、横浜スタジアム)

現役時代は故障が少なく、長期離脱したことがほとんどなかった。2004年8月8日以降、2011年7月15日に欠場するまで全試合に出場。日本の外国人枠選手の連続出場試合記録(985試合連続出場)、日本人選手を含めても歴代8位の記録を保持している。

打撃

首位打者を1度、本塁打王を2度、打点王を4度、さらに最多安打を3度獲得するなど打撃に優れている。早打ちの傾向があり、2007年の初球打ちの打率は5割を超えたが、それゆえに四球が非常に少ない。ヤクルト時代は三振が多く、7年連続100三振以上を記録していた。しかし巨人移籍後は出場試合が多いながらも全てのシーズンで100を下回るようになった。

来日当初は典型的なプルヒッターだったが、近年はボールを手元まで呼び込んで外角球を捌くことができるようになった。追い込まれると右方向に流し打つ柔軟さも兼ね備える。球種的な弱点も少なく、巨人移籍以降2010年までの通算得点圏打率.347とチャンスに強い他、同じく通算対左打率.337と左投手にも強い。落合博満はNPB最高打者としてラミレスを挙げている。

守備・走塁

主に左翼を守る機会が多かったが、守備範囲は非常に狭く、2010年には得点換算で両リーグワーストであった。刺殺数150は規定試合以上の外野手で、守備固めの起用が主だった藤川俊介に次いでリーグワースト2位である。失策も多く、2008年から2010年まで3年連続で両リーグの外野手でワーストの守備率である。試合終盤に守備固めを送られることが多く、パ・リーグ主催の交流戦や日本シリーズは主に指名打者として出場した。守備能力の問題点は本人も自覚しており「守備は全力で頑張るが専門ではない。自分は打撃に尽きる」と発言している。

巨人時代の2009年シーズンオフに監督の原辰徳から一塁への挑戦を打診されたり、DeNAに移籍した直後にも監督の中畑清が「ラミレスに外野を守らせるという固定観念はない。一塁も考えている」と発言するなど、守備の負担が軽減される一塁へコンバートする案もたびたび出たが実現しなかった。来日前のメジャーリーグ時代はファーストで1試合、新人だったルーキーリーグ時代はショートで64試合に出場した。

走塁面は企図も含めて盗塁数が少なく、ベースランニングで手を抜くことが多いが、右打者ながら一塁到達4.2秒台前半を記録するなど走力は劣らない。200安打を達成した2007年は内野安打22本を記録し、200本目は三塁へ内野安打であった。NPBの生涯盗塁数は20で日本プロ野球名球会所属野手の中で最少である。

監督・指導者として

DeNA監督としての就任会見(2015年10月)、及び、DeNA監督としてのインタビュー記事(2016年5月)において、自身の監督観、あるいは自身が目指すチーム作りにおいて、下記のことを述べている。

試合終了後の監督会見、選手に対する日々のミーティング、各種メディアにおけるインタビューにおいて、下記のことを折に触れて述べている。

また、下記のように、中長期的な視点を意識したコメントも、しばしば発信している。

チームの一体感を生み出す「雰囲気作り」を重要視すること、基本的なことを大切にする重要性、前向きなメッセージを常に発信し続けること、を通して「(選手を)やる気にさせてくれた。それがあってこそ、選手全員が自信をもってできたと思う」(筒香嘉智)という効果をもたらし、監督就任1年目の2016年、DeNAを球団史上初めてのクライマックスシリーズ進出に導いた。この年のDeNAは選手の年俸総額が12球団で最下位であった。

采配はデータに基づく緻密な「分析野球」の傾向が強いが、「情に厚い」面もある。DeNAの功労者である三浦大輔は引退試合で先発起用して7回途中まで登板させ、2016年シーズンの山崎康晃梶谷隆幸ホセ・ロペスなど主力と位置付けているが不調に苦しむ選手は、復調を信じて辛抱強く起用し続けて「スランプは誰しもがある。大きなスランプの後には大きな波がくる。自分の現役時代の経験でもそうだった」と述べている。自身の現役時代の経験から「外国人選手のメンタルケアは監督の大きな仕事」と考えており、「ここ日本では、全てやり方が違う。メンタルも全くも違う。野球は野球で同じだけど、全く違うやり方なんだ。僕らは日本の野球に合わせなければならない。そんな中で大事なのは、そういうことをきっちり伝えるコミュニケーションだね。新しく入ってきた選手とは必ず、日本での違いについて話をするようにしている」と述べている。

自身の拘りにとらわれない柔軟性もあり、就任当初は梶谷を2番打者として起用することをチームの基軸の一つとしていたが、チーム状況や梶谷自身の調子に応じて起用法を変化させ、2016年シーズンはレギュラーシーズンで梶谷の2番打者起用は8試合であった。この年の梶谷は、107試合に出場して最多は3番としての47試合で、ポストシーズンは出場7試合中5試合で2番打者として起用された。

若手育成の手腕に優れており、DeNAの2016年シーズンは

と、複数の若手選手が成績を大きく伸ばしたことが、チーム力の向上の大きな原動力になった。この年は石田と今永は完投した試合がゼロで、投球数が100球前後で降板させて「安定した投球をしている理由に、無理をさせずに使い続けたということがある。若い選手はある程度制限することが将来につながってくる」と述べている。今永は「2軍で過ごした経験がなければ、今、こうやって元気に1軍で投げられているとは到底思えない。ラミレス監督には本当に、大事に大事に起用していただいたなと思っています」と感謝している。

人物

ベネズエラ出身で母語はスペイン語だが、マスコミ向けのインタビューには通訳を通して英語で答えている。

日本語はメディアの前で披露することは少ないが、選手とのコミュケーションは可能でT-岡田が「今まで考えていなかったことに気づかせてくれた。日本語も上手だし、わかりやすい」と評している。

ヤクルト時代は「ヒゲ」がトレードマークだった。巨人では原則ヒゲが禁止なため移籍した際に剃り落とした。ヒゲを剃ることが慣れたのか、横浜DeNAに移籍後に再びヒゲを生やすようなことはなかった。

「試合を支配する要素の70%はメンタリティー、残り30%がフィジカル」との考え方を持っている。またメンタリティーの強化のためには「相手を研究し準備する」ことが不可欠であると考えており、そのためシーズン中は試合前に過去の試合のDVDを、試合後にはその日の自分の打席のDVDを観ることを日課にしていた。過去のDVDを観る際は主に「得点圏にランナーがいるときのバッテリーの配球」に主眼を置くとのことで、特に日本に来てからは、捕手が配球の主導権を握る日本野球のスタイルに合わせ「捕手を中心に研究する」ようになったとのことである。そのような自らの意識から「日本の選手はフィジカル面ばかりでなく、もう少しメンタリティーに重きを置いてもいいのではないか」とも感じているという。

2010年代以降は、球団を問わず後輩選手にアドバイスしている。特にウラディミール・バレンティン長野久義石川雄洋らと頻繁に情報交換を行っている。

2013年2月に、東京・西麻布にプエルトリコ料理のレストラン『ラミちゃんカフェ』を開店した。実際の店舗運営は妻に任せるものの、本人も時折店を訪れ来店客に挨拶したりしていたが、店名変更などを経て2014年9月に閉店した。

口癖は「マタ明日ガンバリマス」。2000本安打達成後の記者会見ではジャイアンツ時代からの関根通訳を労うコメントもしている

巨人退団の要因としては守備難だったが、打撃成績は悪くなかった。巨人退団年となる2011年は前述のように3割30本100打点を逃し、主力打者として物足りない数字ではあるものの、特別不振というほどの数字ではなかった。日本の他球団から巨人に移籍してきた選手の中で、年単位の不振はなく、巨人退団年の数字も特別悪い数字を残さなかった数少ない選手であった。

尊敬する人物として、若松勉原辰徳古田敦也を挙げている。また、ベネズエラ時代に自身に野球を教えたトマス・ガルシアが恩師であるという。選手、指導者を通しての野球人生において、「ポジティブに生きる」「リスペクト」を座右の銘としているが、これはガルシアの教えがもとになっているという。

プライベートでは、14歳年上の女性と来日前に結婚し、来日後は巨人時代の2009年にベスト・ファーザー イエローリボン賞(プロ野球部門)の1人に選出されるなど、家族を大切にすることで知られていた。現役引退後の2014年5月から家族と別居して11月に夫人がその事実をFacebookで公表した。双方の協議を経て2015年3月に離婚が成立し、4月23日に7歳年下の日本人女性と再婚している。

2018年1月22日に、日本国籍取得のため帰化申請を手続きしており年内に許可が下りる見込みと報じられ、「これまで日本でいろんな人に支えられて多くのことを学び、今の自分がある。日本のことや人々を愛しており、お返しや貢献をしたいと考えて日本人になることにした」と説明し、帰化後の夢として「監督など指導者として日本代表のユニフォームを着たい」と語った。

2005年から2007年に東京ヤクルトスワローズ、2008年にILリーグ高知ファイティングドッグスに所属したアレックス・ラミレス・ジュニアは義理の息子(前妻の連れ子)。2015年からBCリーグ群馬ダイヤモンドペガサスに所属しているラミレス・ヨンデルは甥(実兄の息子)。

パフォーマンス

現役時代、本塁打を打った際やヒーローインタビューの際に、パフォーマンスを行うことで知られた。芸人の芸を取り入れたパフォーマンスが人気だった。他の選手がHRを打った際は、互いに肘を曲げあいスタンド方向を指さすなど独特のハイタッチで応じる事が多かった。本塁打ではベンチ前でチームメイトとハイタッチを交わした後、ベンチ脇のテレビカメラ前でコミカルなアクションを披露する。特にホームゲームでは、球団マスコット(ヤクルト:つば九郎、巨人:ジャビット)とコンビでアクションを行うほか、本塁打や適時打でチームに貢献した場合、直後に守備に就く際にもファンの声援に応え、パフォーマンスを交えてお辞儀や敬礼で感謝の意を伝えている。

パフォーマンスには毎年モデルチェンジが加えられ、シーズン前にファンからパフォーマンス内容を募集していたこともある。またヒーローインタビューなどの際にパフォーマンスを行う際、開始前に「1、2、3(イチ、ニー、サン)」と日本語によるカウントアップを行うことがある。2011年3月11日に東日本大震災が発生した後のシーズンは、中継のカメラなどを通して「We are One ! ガンバレ!ニッポン!」と手話を交えながらエールを送る姿が報道され好評を博した。

ラミレスによれば、元々はキャンプ中にロッカールームで選手数人が互いに「アイーン」をやって遊んでいたのを目撃した際に、同僚だった ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/07/18 18:41

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