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アンゴラとは?

アンゴラ共和国
República de Angola



(国旗) | (国章)
国の標語:Virtus Unita Fortior
国歌:進めアンゴラ!
公用語 ポルトガル語
首都 ルアンダ
最大の都市 ルアンダ
政府
大統領 ジョアン・ロウレンソ
副大統領 パウロ・カソーマ
面積
総計 1,246,700km(22位)
水面積率 極僅か
人口
総計(2014年) 24,383,301人(51位)
人口密度 15人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2008年)】
6兆2,565億クワンザ
GDP(MER)
【合計(2008年)】
833億ドル(75位)
GDP(PPP)
合計(2003年) 1,064億ドル(103位)
【1人あたり】
6,331ドル

独立
- 日付 ポルトガルより
1975年11月11日
通貨 クワンザ(AOA)
時間帯 UTC +1(DST:なし)
ISO 3166-1 AO / AGO
ccTLD .ao
国際電話番号 244

アンゴラ共和国(アンゴラきょうわこく)、通称アンゴラは、アフリカ南西部に位置する共和制国家。東にザンビア、南にナミビア、北にコンゴ民主共和国と国境を接し、西は大西洋に面している。コンゴ民主共和国を挟んで飛地カビンダが存在し、カビンダは北にコンゴ共和国と国境を接する。首都ルアンダ

ポルトガル植民地であり、1961年からアンゴラ独立戦争を戦い、1975年に独立を達成した。独立後も1975年から2002年まで内戦が続いたが、内戦終結後は石油ダイヤモンドなどの豊富な資源を背景に急激な経済発展を続けている。しかし、1,000万を越える敷設地雷や首都ルアンダの物価が世界一高いなど課題も多い。ポルトガル語諸国共同体ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国であり、アフリカ最大のポルトガル語人口を擁する国である。

国名

正式名称はポルトガル語でRepública de Angola(発音 [ʁɛˈpublikɐ dɨ ɐ̃ˈɡɔlɐ] レプブリカ・デ・アンゴーラ)。通称、Angola。日本語にするとアンゴーラが近い。

公式の英語の名称は、Republic of Angola(発音: [rɪˈpʌblɪk əv ænˈgoʊlə] リパブリック・オブ・アンゴウラ)。通称、Angola(アンゴウラ)。

日本語の表記は、アンゴラ共和国。通称、アンゴラ。国名はかつてこの地を支配していたンドンゴ王国の王号ンゴラ(: Ngola)に由来する。独立時の1975年から1992年までは正式名称はアンゴラ人民共和国だったが、1992年の憲法改正により現在のアンゴラ共和国となった。

歴史

詳細は「アンゴラの歴史」を参照

この地域には、1世紀ごろからおもにバントゥー系のアフリカ人が住んでいた。

コンゴ王国時代

詳細は「コンゴ王国」を参照

14世紀に現アンゴラ北部に居住していたコンゴ人コンゴ王国を建国し、コンゴ王国は現アンゴラ北西部ザイーレ州に、首都ンバンザ・コンゴを建設した。

ポルトガル植民地時代

詳細は「アンゴラ植民地の歴史」、「ポルトガル領アンゴラ」、「ンドンゴ王国」、および「マタンバ王国」を参照
ルアンダポルトガル人総督との和平交渉に臨むンドンゴ王国マタンバ王国ンジンガ女王(1657年)。ンジンガ女王を見下していたポルトガル人は女王のために椅子を用意しなかったため、側近が椅子に代わって対等の立場での交渉を繰り広げた。ンドンゴ王国はポルトガル人に敗れたが、ンジンガ女王は今日も多くのアンゴラ人とアフリカ系ブラジル人の抵抗の象徴となっている。

1482年にポルトガル人ディオゴ・カンコンゴ川河口に到着し、1485年にカンはコンゴ王ンジンガ・ンクウとの間に両国の対等な立場の下でコンゴ王国ポルトガル王国の国交を結んだ。1506年に即位したンジンガ・ムベンバの時代にコンゴ王国は積極的にポルトガルの文化やキリスト教を採り入れ、ンジンガ・ムベンバは首都ンバンザ・コンゴをポルトガル語サン・サルヴァドールと改名した。その後、ポルトガル人はコンゴに代わって南のアンゴラを新たな奴隷と、カンバンベに期待されていたの供給源とみなし、1575年にアンゴラに到達したパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスポルトガル領アンゴラ(1575年 - 1975年)を、翌1576年にルアンダを建設したあと、ポルトガルはルアンダを拠点にさらなる奴隷の供給を求めて徐々にアンゴラ内陸部に進出していった。

以降、アンゴラはブラジルウルグアイアルゼンチンキューバなど南米西インド諸島への黒人奴隷供給地となった。1617年にベンゲラが建設されると奴隷貿易はさらに拡大し、1576年から1836年までの間に、300万人の奴隷が大西洋三角貿易の一環としてアンゴラからラテンアメリカに連行された。ポルトガル支配に対し、ンドンゴ王国マタンバ王国は激しい抵抗を繰り広げた。1622年en:Battle of Mbumbi。特に1623年に権力を握ったンジンガ女王は数十年にわたって反ポルトガル戦争を続け、一時はポルトガルと戦争状態にあったオランダと同盟してポルトガルと戦ったが、最終的にサルヴァドール・コレイア・デ・サ率いるポルトガル領ブラジルから派遣された軍隊が在アンゴラのオランダ軍に勝利したことによって、1648年にアンゴラはポルトガルに征服され、ンジンガ女王は1657年にポルトガルと平和条約を結んだ。ポルトガルはオランダとの間に結ばれた1661年のハーグ講和条約で、400万クルザードの賠償金と引き換えにアンゴラとオランダ領ブラジル(現・ブラジル北東部)領有を国際的に認められた。

一方、アンゴラからブラジルに送られた黒人奴隷は脱走して逃亡奴隷(マルーン)となり、ブラジル各地にアンゴラ・ジャンガ(小アンゴラ)と呼ばれるキロンボ(逃亡奴隷集落)を築いた。1695年パルマーレスの戦いで滅ぼされたブラジル最大の逃亡奴隷国家は、キロンボ・ドス・パルマーレスと呼ばれる。1665年アンブイラの戦いをきっかけにen:Kongo Civil War(1665年 - 1709年)が始まる。

1884年から1885年のベルリン会議でのアフリカ分割の結果、ポルトガルはカビンダ以外のコンゴ川流域を失った。この時期のポルトガルは大西洋岸のアンゴラとインド洋岸のモザンビークを結ぶ「バラ色地図」構想を打ち出し、アフリカ大陸を横断することを植民地政策の目標としたが、この政策はカイロからケープタウンまでアフリカ大陸を縦断しようとしていたイギリスの植民地政策と衝突したため、1890年にポルトガルはイギリスの圧力によって内陸部のザンビアマラウイジンバブエから撤退し、翌1891年の条約によってポルトガル領アンゴラはほぼ現在のアンゴラの形に再編された。20世紀に入ると、事実上の強制労働制度とイギリスベルギーの資本により、植民地開発が進められた。この時期にベルギー・イギリス系のディアマング社によってダイヤモンド鉱山の開発が始まり、インフラにおいては1907年にイギリス系のタンガニーカ・コンセッション社(: Tanganyika Concessions Ltd.)によりベンゲラ鉄道の建設が着工され、1929年に完成した。

アンゴラ独立戦争

詳細は「アンゴラ独立戦争」を参照
アンゴラ独立戦争を戦うポルトガル軍。1961年から10年以上続いた各植民地での独立戦争は、ポルトガルと植民地の双方を大きく疲弊させた。

第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入るとアフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立の波がアンゴラにも押し寄せた。アントニオ・サラザール政権(エスタド・ノヴォ)は1951年にアンゴラ等のアフリカ植民地を「海外州」(: Província Ultramarina de Angola, : Overseas Province of Angola)と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。アンゴラやモザンビークは形式上本国ポルトガルと同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、アンゴラには5,000万ポンドが投資された。アンゴラには多数のポルトガル人の入植が奨励され、ポルトガル人農園主の経営するプランテーションで栽培されたコーヒーはアンゴラ最大の輸出品目となった。

しかし、形式上の本国との対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、アンゴラでは1961年2月4日に、アゴスティーニョ・ネトマリオ・ピント・デ・アンドラーデによって率いられたアンゴラ解放人民運動(MPLA)が政治犯の解放を求めて首都ルアンダの刑務所を襲撃し、アンゴラ独立戦争(ポルトガルの植民地戦争)が始まった。同年3月に北部のコンゴ人を主体とし、反共を掲げたアンゴラ人民同盟(UPA、: União das Populações de Angolaアンゴラ国民解放戦線 - FNLA の前身)も独立運動を始め、両者の主導権争いが続いたあとに、1966年にジョナス・サヴィンビがFNLAからアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)を分離した。1960年代を通じてMPLAによる解放区の拡大は続き、独立派とポルトガル軍(現地採用の黒人兵も多かった)との独立戦争の末に、ポルトガル本国で1974年に勃発したカーネーション革命により、独立三派の紆余曲折を経てMPLAは1975年11月11日にルアンダでアンゴラ人民共和国の独立を宣言した。

アンゴラ内戦

詳細は「アンゴラ内戦」を参照
独立時の国章

しかし、MPLAに主導権を握られるのを嫌ったアンゴラ国民解放戦線(FNLA)・アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)連合がウアンボ(旧ノーヴァ・リズボア)にアンゴラ人民民主共和国の独立を宣言し、独立直後から、キューバ(直接介入)とソ連が支援するアンゴラ解放人民運動[MPLA)と、南アフリカ共和国(直接介入)とアメリカ合衆国が支援するUNITA、ザイール(直接介入)と中華人民共和国フランスが支援するFNLA連合の間で内戦状態に陥った。キューバ軍の支援を受けたMPLAは首都ルアンダの防衛に成功し、政権を掌握したが、1975年の時点で50万人を数えたポルトガル系アンゴラ人の入植者の大規模な引き上げや、戦争によるインフラ、農地の荒廃によってアンゴラの産業は大混乱に陥った。

第二代大統領、ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス
アンゴラ内戦の構図。アンゴラ内の赤はMPLA政府支配地域。アンゴラ内の青と赤の斜線は南アフリカ=UNITA連合軍の最大介入地域。

1979年9月、ネト議長が死去し、第2代大統領ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスが就任。アンゴラ政府はソ連やキューバなど社会主義陣営との結びつきを強め、MPLAによる社会主義建設のために一党制を敷いた。しかし、この間もUNITA/FNLAとの内戦(アンゴラ内戦)が続いたため、多くの人命が失われ、経済は疲弊した。さらに戦闘や地雷で負傷してしまった人々も多く発生した。アンゴラ内戦は、政府・反政府勢力がそれぞれ米ソの後援と、それぞれの勢力の代理人であった南アフリカ共和国(アパルトヘイト時代)とキューバ(カストロ政権)の直接介入を受けていたことから、東西冷戦代理戦争と言われている。

FNLAは1980年代には弱体化し、南アフリカとキューバも1988年に南アフリカがクイト・クアナヴァレの戦いでアンゴラ=キューバ連合軍に侵攻を阻止されたあとに、当時南アフリカ領だったナミビアの独立とキューバ軍のアンゴラ撤退を交換条件に撤退した。外国軍の撤退後、冷戦体制が終結を迎う国際情勢に呼応してMPLA政権は1990年に社会主義路線を放棄し、翌年には複数政党制の導入を決めた。ポルトガル政府の仲介で1991年5月、MPLAとUNITAがリスボンで和平協定(en:Bicesse Accords)に調印。

しかし1992年の大統領選および議会選をめぐる対立から再び武力衝突に突入した。1994年10月31日国連の仲介でen:Lusaka Protocolが締結され和平が成立したが、アンゴラゲートと呼ばれるフランスによるアンゴラ反政府勢力への武器密輸スキャンダルからUNITAの武装解除に失敗した。

アンゴラゲート」、「フツ・パワー」、および「ルワンダ虐殺」も参照

1997年5月、アンゴラ政府軍がザイールに出兵(第一次コンゴ戦争1996年11月 - 1997年5月)。1998年にUNITAの再蜂起により第二次コンゴ戦争が再燃した。ジョナス・サヴィンビ議長の私兵勢力と化したUNITAは、ダイヤモンドの密輸を資金源にアンゴラ政府軍と衝突を続けた(紛争ダイヤモンド)。

2002年2月にUNITAのサヴィンビ議長は民間軍事会社(PMC)の攻撃で戦死し、和平機運が高まったため、3月15日に双方は休戦で合意した。4月19日休戦協定(en:Sun City Agreement)が結ばれ、27年間の内戦に終止符が打たれ、飛地のカビンダ(カビンダ共和国)を除いた全土で1961年以来初めての恒久的な平和がアンゴラに築かれた。内戦終結後、ダイヤモンドや石油の輸出によってアンゴラ経済は急速に拡大しており、周辺国との友好も続いている。しかし、世界一ともいわれる地雷の敷設や政権の腐敗など、課題は多い。2010年8月9日、政府の地雷除去委員会は、2006年から今年半ばまでの地雷での死亡者は166人、負傷者は313人であることを明らかにした。国連の推定によると、アンゴラ全土に残されている地雷は数百万発であるといわれている。

カビンダ紛争

詳細は「カビンダ紛争」を参照

2010年1月には当地で開催されるサッカーの国際大会アフリカネイションズカップ2010出場のために訪れていたトーゴ代表一行が乗ったバスを、カビンダの反政府勢力カビンダ解放戦線(FLEC)=カビンダ軍(FAC)が襲撃し、チーム関係者3名が死亡、選手も含めた数名が負傷する事件が起きた。このため、トーゴ代表は出場を辞退した。

政治

詳細は「アンゴラの政治」を参照

大統領元首とする共和制国家であり、大統領は国会議員による間接選挙によって選出される。任期は5年。現行憲法は2010年憲法である。2010年憲法の施行に伴い、首相職は廃止された。

アンゴラの大統領一覧」も参照

立法府は一院制国民議会(en:National Assembly (Angola))であり、220名の議席数からなる。

主要政党としてはアンゴラ解放人民運動(MPLA)、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)、社会改革党アンゴラ民族解放戦線(FNLA)、新民主選挙連合などが存在する。直近の選挙は2012年8月31日に行われた(2012年アンゴラ議会選挙en:Angolan legislative election, 2012)。

アンゴラの政党」も参照

最高司法機関は最高裁判所である。

1961年から1975年までの独立闘争と、建国後の1975年から2002年まで続いた内戦により、きわめて不安定な時期が長く続いたが、2002年の内戦終結によりようやく安定の兆しが見えている。

軍事

詳細は「アンゴラ共和国軍」を参照

アンゴラ軍は陸海空の三軍と、緊急即応警察軍から構成される。独立直後に始まったアンゴラ内戦のため、アンゴラ政府軍はソ連とキューバの支援を受けて南アフリカや中華人民共和国が支援する反政府ゲリラ(UNITA、FNLA)との戦いを繰り広げた。1988年にキューバ軍が撤退したあとも2002年にUNITAが降伏するまで内戦は続いた。現在もアンゴラ軍の任務はおもに国内のゲリラ組織との戦闘であり、内戦終結後も飛地のカビンダ州の独立を志向するカビンダ飛び地解放戦線(FLEC)との戦い(en:Cabinda Conflict)が続いており、2010年1月にはFLECによるサッカートーゴ代表への襲撃事件(en:Togo national football team attack)が発生した。

対外的な軍事介入においてはコンゴ民主共和国との関わりが大きく、第一次コンゴ戦争では反政府ゲリラを支援していたザイールに出兵し、モブツ体制崩壊を助けた。第二次コンゴ戦争(en:Ituri conflicten:Kivu conflict)においてもローラン・カビラジョゼフ・カビラ父子のコンゴ民主共和国新政府支援のために軍を送っている。

兵器体系は旧東側諸国に準ずる。2006年の軍事支出はGDPの5.7%だった。

国際関係

詳細は「アンゴラの国際関係」および「在アンゴラ外国公館の一覧」を参照
アンゴラが外交使節を派遣している諸国の一覧図

独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるMPLAだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結びつき、反政府ゲリラを支援する南アフリカ共和国アメリカ合衆国、中華人民共和国、ザイールなどとは敵対政策が続いたが、冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。

ポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルブラジルカーボ・ヴェルデモザンビークなどポルトガル語圏の国々(ルゾフォニア)とは深い絆を保っている。

内戦中に現MPLA政府はキューバ軍の援軍と医療援助や教育援助を受けたため、現在もキューバとは友好関係が続いており、キューバの医師団を受け入れている。

党旗を南ベトナム解放民族戦線のものに似せるなど、ベトナムとアンゴラは共に欧米諸国や中国の侵略に立ち向かう同盟国同士であった。ベトナムも少数ながらアンゴラに軍事顧問団を送るなどして支援を行った。そのため、両国は現在でも良好な関係にある。

第二次コンゴ戦争勃発以来隣国コンゴ民主共和国が不安定な情勢であるため、アンゴラもカビラ側での軍事介入を行い、国内にはコンゴ民主共和国人の難民も流入している。

中国との関係

詳細は「アンゴラと中華人民共和国の関係」を参照

内戦中、MPLAと対立したUNITAやFNLAをアメリカやザイールなどと連携して支援していた中華人民共和国はMPLAのネト政権から中越戦争を非難されたように敵対関係にあったが、1983年にMPLAのサントス政権と国交を樹立した。冷戦終結後、中華人民共和国はインフラ整備を行い、キランバ新都市のような巨大なゴーストタウン(鬼城)もできた。2007年までに1兆5,000億円の資金援助をした。アンゴラは原油の4分の1を中国に輸出しており、最大の輸出先となり、アンゴラに利益を還流しない中国の方法にはアンゴラ人からの批判もあり、2004年には反中デモも起きたが、MPLA政権はこれを弾圧した。2014年には内戦で破壊されたベンゲラ鉄道を中国の援助で再建した。

日本との関係

対日関係は1990年代以前は希薄であったが、内戦の終結や豊富な資源等の発見などにより、次第に関係を深めている。2005年には日本大使館が開設された。民間からも難民を助ける会などのNGOが現地で援助活動をしていた。

地方行政区画

詳細は「アンゴラの行政区画」を参照
番号順に振られたアンゴラの州地図
アンゴラの地図

18州(províncias)の下に158の市町村(municípios)に分かれている。

  1. ベンゴ州 (Bengo)
  2. ベンゲラ州 (Benguela)
  3. ビエ州 (Bié)
  4. カビンダ州 (Cabinda) → 飛び地
  5. クアンド・クバンゴ州 (Cuando Cubango)
  6. クアンザ・ノルテ州 (Cuanza Norte)
  7. クアンザ・スル州 (Cuanza Sul)
  8. クネネ州 (Cunene)
  9. ウアンボ州 (Huambo)
  10. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2020/04/09 16:44

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