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アントニン・ドヴォルザークとは?

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アントニーン・ドヴォルザーク
Antonín Dvořák



【基本情報】

【出生名】
アントニーン・レオポルト・ドヴォルザーク
Antonín Leopold Dvořák
【生誕】
1841年9月8日
オーストリア帝国 ネラホゼヴェス
【死没】
(1904-05-01) 1904年5月1日(62歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国 プラハ
【ジャンル】
ロマン派国民楽派(ボヘミア楽派)
【職業】
作曲家

アントニーン・レオポルト・ドヴォルザーク(チェコ語:Antonín Leopold Dvořák [ˈantɔɲiːn ˈlɛɔpɔlt ˈdvɔr̝aːk] 発音1841年9月8日 - 1904年5月1日)は後期ロマン派におけるチェコ作曲家。チェコ国民楽派を代表する作曲家である。チェコ語の発音により近い「ドヴォルジャーク」「ドヴォジャーク」という表記も用いられている(表記についてはドヴォジャークを参照)。

ブラームスに才能を見いだされ、『スラヴ舞曲集』で一躍人気作曲家となった。スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれる。その後、アメリカに渡り、音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させている。代表作に、弦楽セレナード管楽セレナードピアノ五重奏曲第2番交響曲第7番交響曲第8番交響曲第9番『新世界より』スラヴ舞曲集、この分野の代表作でもあるチェロ協奏曲、『アメリカ』の愛称で知られる弦楽四重奏曲第12番などがある。

生涯

幼少期

ドヴォルザークの生家

ドヴォルザークは、プラハの北約30kmほど、北ボヘミアロプコヴィッツ家の本拠地のひとつであるネラホゼヴェスに生まれた。生家は肉屋と宿屋を営んでいた。父親はツィターの名手として村では評判で、簡単な舞曲を作曲して演奏することもあった。また、近所の町でやはり肉屋を経営していた伯父もトランペットの名手として知られていた。6歳で小学校に通い始めるが校長のヨゼフ・シュピッツにヴァイオリンの手ほどきを受けると見る間に上達し、父の宿屋や教会で演奏するようになった。8歳で村の教会の聖歌隊員、9歳でアマチュア楽団のヴァイオリン奏者となり、音楽的才能を見せ始める。父親は長男であったアントニンには肉屋を継がせるつもりであったため、小学校を中退させ、故郷から30kmほど離れた母方の伯父が住むズロニツェという町へ肉屋の修業に行かせた。ところが、この町の職業専門学校の校長で、ドイツ語を教えていた(当時、肉屋の技術修得書を得るためにはドイツ語が必修であった)アントニン・リーマンは、教会のオルガニストや小楽団の指揮者を務め、教会音楽の作曲も行った、典型的なカントルというべき人物で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラオルガンの演奏のみならず、和声学をはじめとする音楽理論の基礎も教えた。

学習期

1855年、ドヴォルザークの両親はネラホゼヴェスを引き払い、ズロニツェに移って飲食店を始めた。翌年になるとドヴォルザークはチェスカー・カメニツェという町でフランツ・ハンケという教師にドイツ語と音楽を学ぶことになった。ところが、家庭の経済状況が悪化して音楽の勉強を続けさせることが困難となり、両親は帰郷させて肉屋を手伝わせようとした。これにリーマンと伯父が反対し、両親を強く説得、さらには伯父が経済的負担を負う約束で1857年にドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学した。経済的には苦しい学生生活であったが、3歳年上の裕福な家庭の友人カレル・ベンドルと知り合い、楽譜を貸してもらうなどして苦学を重ね、2年後の1859年に12人中2位の成績で卒業した。この時の評価は、「おおむね実践的な才能に長けている(中略)ただし理論に弱い」というものであった。カレル・ベンドルとの友情は卒業後も変わらず篤いものであり、ベンドルは後にドヴォルザーク作品を初演するなど援助を惜しまなかった。

青年期

プラハ国民劇場

卒業後は、カレル・コムザーク1世の楽団にヴィオラ奏者として入団、ホテルやレストランで演奏を行っていたが、1862年チェコ人による国民劇場建設が具体的に決まり、完成までの間、仮劇場を設けることになっていた。ドヴォルザークは、その仮劇場のオーケストラのヴィオラ奏者となった。1866年、このオーケストラの指揮者としてベドルジハ・スメタナが迎えられ、その教えを直接受ける機会を得た。

一方、1865年からは仕事の合間に金属細工商チェルマーク家の2人の娘の音楽教師となった。女優でもあった姉ヨゼフィーナに恋心を抱くも失恋し、この時の想いが歌曲集『糸杉』をはじめ、様々な作品に昇華されることとなる。

創作活動では、オルガン学校在学中から習作は行っていたようであるが、多くは破棄されてしまった。コンクールの応募作品として最初の交響曲が書かれたのは1865年のことである。しかし、この交響曲は生前演奏されることはなかった(ドヴォルザーク自身その存在を忘れていたと言われる)。1870年には最初のオペラである『アルフレート』を書き上げるが、この作品は、ライトモティーフの手法や切れ目のない朗唱風の歌唱など、ワーグナーの影響が強く表れている。同時期に作曲された弦楽四重奏曲第3番や第4番にもその影響が濃く、当時のドヴォルザークが熱心なワグネリアンであったことがうかがえる。さらに1871年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のプラハ初演に刺激されて、歌劇『王様と炭焼き』(第1作)が作曲されている。スメタナはこの作品を「まさに天才の理念に満ちた」作品と評したが、同時に「これが上演されるとは思わない」とも予言した。その言葉通り、このオペラは4週間のリハーサルの末、放棄されることとなった。

ドヴォルザークは1871年に、作曲に多くの時間を充てるためにオーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにした。こうした状況の中、翌1872年から作曲に取りかかった作品が、彼の最初の出世作となった賛歌『白山の後継者たち』であった。1873年3月9日、『白山の後継者たち』は、学生時代の友人カレル・ベンドルの指揮で初演された。民族主義の高まりもあり、この曲は成功を博し、プラハの音楽界で著名な存在となる契機を得た。この初演の際に、かつて音楽教師を行っていた姉妹のうち妹のアンナ・チェルマーコヴァーと再会し、この年の秋に結婚した。1874年にはプラハの聖ヴォイチェフ教会(聖アダルベルト教会)のオルガニストに就任した。この教会は伝統ある教会であり、社会的地位はかつての楽団員のそれよりも向上し、ささやかではあるが年俸が保証されることで、新婚生活の経済状態を安定させることができた。そしてこの年からかつて放棄された『王様と炭焼き』の台本を再び採り上げ、これに第1作とは全く異なる音楽を作曲し、ナンバーオペラ(各曲が独立してナンバーが振られたオペラで、ワーグナーの手法とは完全に逆行する)として完成させた。1874年11月24日に行われた初演は大成功を収め、音楽雑誌『ダリボル』には「ドヴォルザークは、その名が金字塔として際だつような地位にまで高められることだろう」という批評家プロハースカの予言が踊った。こうしてドヴォルザークはワーグナーの影響下から徐々に離れていった。

ブラームスとの出会い

1874年7月にドヴォルザークは交響曲第3番第4番他数曲を、新たに設けられたオーストリア政府の国家奨学金の審査に提出した。そして、1875年2月この奨学金が与えられることになったが、その金額(400グルデン)は当時の彼の年収(126グルデン)の2倍以上にあたる高額なものであった。この奨学金は年ごとに審査を受けるのであるが、ドヴォルザークは結局、5年間これを受け取っている。1876年ドヴォルザークは、弦楽五重奏曲ト長調 (Op.77, B.49) で芸術家協会芸術家賞を獲得する。1875年から1877年にかけて、プラハの豪商ヤン・ネフの依頼で作曲されたのが全22曲の『モラヴィア二重唱曲集』で、「ベルリン国民新聞」はこれを「美しい乙女たちが露のきらめく良い香りの花を投げ交わしている」と激賞した。ドヴォルザークは1877年に奨学金審査のためにこの作品を提出した。審査員を務めていたブラームスはこの曲に目をとめ、懇意にしていた出版社、ジムロックに紹介した。ブラームスは紹介状に「この二重唱曲がすばらしい作品であることはあなたの目にも明らかでしょう。しかもそれらは優れた作品なのです」と書き送っている。個人的にも、1878年、ドヴォルザークはウィーンにブラームスを訪ね、翌1879年にはブラームスがプラハのドヴォルザークの許を訪ねるという具合に親しい交際が始まった。

このように音楽家としての栄光に踏み出したドヴォルザークだが、その家庭は不幸に襲われた。1877年8月に次女ルジェナが、翌9月に長男オタカルが相次いでこの世を去ったのである。彼らの冥福を祈り作曲されたのが、ドヴォルザークの宗教作品の傑作『スターバト・マーテル』であった。

『モラヴィア二重唱曲集』の出版で成功を得たジムロックは、1878年にドヴォルザークに対して、ブラームスのピアノ連弾のための『ハンガリー舞曲集』に匹敵するような『スラヴ舞曲集』の作曲を依頼した。この依頼に応えて作曲された作品集は、「神々しい、この世ならぬ自然らしさ」(ベルリン国民新聞)との絶賛を受け、ドヴォルザークの名はヨーロッパ中に広く知れわたった。このころのドヴォルザークはリストの『ハンガリー狂詩曲』をモデルにそのチェコ版を目指しており、チェコの舞曲や民族色を前面に押し出した作品を多く作曲する。また、この傾向は、そうした作品を期待する出版者や作曲依頼者の意向に沿ったものでもあった。たとえば、フィレンツェ弦楽四重奏団の第1ヴァイオリニスト、ジャン・ベッカーは「新しいスラヴ的な四重奏曲」を依頼し、ドヴォルザークはこれに応えてチェコの民族舞曲や、ウクライナ民謡ドゥムカ」の形式を採り入れた弦楽四重奏曲第10番(1879年)を作曲している。また、『チェコ組曲』も同年の作品である。

一方、ジムロックはドヴォルザークに、管弦楽曲のピアノ編曲版を要求する。こうした細々とした委嘱作品や編曲に追われながらも、ドヴォルザークは1879年にヴァイオリン協奏曲の第1稿を書き上げてヨーゼフ・ヨアヒムの元に送り、1880年にこれを改訂、さらに1882年に再び筆を加えてこれを完成させている。有名な『我が母の教えたまいし歌』を含む歌曲集『ジプシーの歌』(1880年)が書き上げられたのもこの時期である。そして、1880年に作曲された最も重要な作品は、ドヴォルザークのスラヴ時代の精華とも言うべき交響曲第6番ニ長調である。ハンス・リヒターに献呈された。1883年、古いフス派の聖歌を主題とする劇的序曲『フス教徒』が書かれた。これに対して音楽評論家ホノルカは「敬虔なカトリック教徒のドヴォルザークが異端のフス派を描くとは」とこの作品に注目している。

国際的名声

1878年に作曲され、同年にプラハで初演されて成功を収めたオペラ『いたずら農夫』が1882年にドレスデンで、翌1883年にはハンブルクで上演される。これはドヴォルザークのオペラがチェコ以外で上演された初めての例である。しかし、1885年ウィーン宮廷歌劇場での公演は、政治的な摩擦を引き起こし、リハーサルの段階から不評であった。ワーグナー派のフーゴ・ヴォルフは、ドヴォルザークのオーケストレーションについて「胸が悪くなる、粗野で陳腐なものだ」と批判している。しかし、音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックからはウィーン移住の誘いを受ける。ブラームスもこれを勧めたが、ドヴォルザークは、迷った末に結局これを断り、チェコに留まることにした。

ロイヤル・アルバート・ホール

1884年3月、ドヴォルザークはロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスを訪問した。この時、いくつかのコンサートが催されたが、ロイヤル・アルバート・ホールで自ら指揮を執り『スターバト・マーテル』の演奏を行った時のことを、こう綴っている。

「私が姿を現すと12,000人もの聴衆から熱狂的な歓迎を受けた。(中略)私は心からの感謝を表すために何度も繰り返しお辞儀をしなければならなかった」

こうしてイギリス訪問を大成功に終えると、ドヴォルザークはヴィソカーという小さな村に建てた別荘にこもり、くつろいだ時間を送った。この別荘は、義理の兄にあたるコウニツ伯爵から土地を譲り受け、プラハから60km離れた小さな村に造ったもので、今やチェコを代表する作曲家となったものの、田舎生まれの彼には、ゆったりとした田園生活を送る必要があったのである。しかし、同年8月末にはウスター大聖堂50周年記念祭で演奏を行うために再び渡英、また11月にはベルリンで指揮者デビューを果たすなど、多忙な音楽家生活に変わりはなかった。

1884年の6月にドヴォルザークは、ロンドン・フィルハーモニック協会の名誉会員に推薦されるとともに新作交響曲の依頼を受けた。これに応えて作曲されたのが交響曲第7番である。そして、彼はこの新作交響曲を携えて、1885年4月に3度目の渡英を果たす。ドヴォルザークとイギリスの蜜月はこの後も続き、結局生涯に9回のイギリス訪問を重ねている。

交響曲第7番は、劇的序曲『フス教徒』とも主題上の関連がある愛国的な感情を伺わせる作品である。ドヴォルザークは、出版社ジムロックに対して、この交響曲のスコアの表紙にはドイツ語と並んでチェコ語でタイトルを印刷し、自分の名前もドイツ語の「Anton」ではなく、チェコ語「Antonín」を想起できるよう「Ant.」とするよう要求している。しかし、ドヴォルザークが小品を作曲してくれないことに不満を抱いていた出版社は、この要求を採り上げなかった。こうしたことからドヴォルザークとジムロックとの間は冷えた関係となって行く。1887年には、8月にジムロックに対して「今は新作の構想はない」と言いながら、10月には室内楽曲の傑作ピアノ五重奏曲イ長調(Op.81, B.155)を完成させている。そして秋に交響曲第5番交響的変奏曲、弦楽五重奏曲ト長調、詩篇149番といった作品とともに新作を携えてベルリンのジムロックを訪れ、これらの作品を購入すること、そのスコア表紙の作曲者の名前は「Ant.」とすることを承諾させたのであった。

1890年、ドヴォルザークは交響曲第8番を完成させる。しかしジムロックは「大規模な作品は売れ行きがよくない」ことを理由に買い叩こうとした。このため、両者の溝は決定的なものとなり、ドヴォルザークは、ロンドンの出版社ノヴェロ社にこの新作交響曲を渡してしまった。そのために、この交響曲は「ロンドン」または「イギリス」と呼ばれることがあるが、それは上記の理由にしか拠らないものであり、イギリスをモチーフにした標題的な要素はない。

1888年、プラハを訪れたチャイコフスキーと親交を結び、1890年にはその招きでモスクワサンクトペテルブルクを訪問している。

このころ、ドヴォルザークは様々な栄誉を受けている。1889年オーストリア三等鉄王冠賞、1890年、チェコ科学芸術アカデミーの会員に推挙された。1891年にはプラハ大学名誉博士号、同年ケンブリッジ大学名誉音楽博士号を授与されている。公職としては、1890年秋、プラハ音楽院教授就任を受諾し、翌1891年からこの職に就いている。ドヴォルザークが担当した15人の生徒の中には、ヨセフ・スクオスカル・ネドバルヴィーチェスラフ・ノヴァークといった次代のチェコ音楽を担う逸材が集まっていた。ドヴォルザークはこうした多忙の中、レクイエムピアノ三重奏曲第4番『ドゥムキー』という2つの重要な作品を完成させている。

アメリカ時代

1891年春、ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者・理事長ジャネット・サーバーからドヴォルザークに音楽院院長職への就任依頼が届いた。ドヴォルザークに白羽の矢が立った理由は、彼がアメリカにおいても著名だったことがもちろんあろうが、それ以上にサーバー夫人がアメリカにおける国民楽派的なスタイルの音楽の確立を夢見ていたことから、チェコにおけるそれを確立した一人である(と一般に認識されていた)彼を招聘することで、そのような運動の起爆剤としようとした、との説がある(この流れから、「ドヴォルザークが就任を受諾しなかった場合、サーバー夫人はシベリウスの招聘を行う予定だった」との説が流布されたことがあったが、これは根拠に乏しい)。

ドヴォルザークは、初めこれに対して辞退の意志を伝えたが、サーバー夫人の熱心な説得と高額の年俸提示に逡巡した末、同年末に契約書に署名をした。年俸15,000ドルという提示額は彼がプラハ音楽院から得ていた金額の約25倍であるし、彼はこの時13歳を頭に6人の子の扶養を行っていたのである。

サーバーからは渡米後の1892年10月12日に第4回コロンブスによるアメリカ発見400年祭で演奏する新作の依頼があった。ジュゼフ・ドレイクの『アメリカの旗』という第二次米英戦争を題材にした合唱曲が当初の依頼の内容であったが、テキストの到着が遅れ代わりに作曲されたのが『テ・デウム』であった。1892年ブレーメンから船に乗り、9月27日ニューヨークに到着した。ドヴォルザークは街の印象をこう書いている。

「ほとんどロンドンのような巨大な街だ。(中略)私が流暢な英語を話したのでみんな驚いていた」

アメリカの人々はこの高名な作曲家の渡米を心から歓迎した。当時のアメリカは、音楽については新興国ではあったが、潤沢な資金でメトロポリタン・オペラニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、あるいはアルトゥール・ニキシュが指揮者を務めるボストン交響楽団など高い水準の演奏が行われていた。しかし、自国の音楽家育成については緒に就いたばかりで、音楽院自体がその機能を十全には果たしていない状態であった。ドヴォルザークの音楽院院長就任はこうした状況打破に対する期待を持たせるものであった。1892年10月からドヴォルザークは講義を開始した。

1893年1月に着手した交響曲第9番「新世界より」は5月24日に完成するが、4月14日付けの友人宛の手紙の中でドヴォルザークは「この作品は以前のものとは大きく異なり、わずかにアメリカ風である」と書いている。この作品は、ロングフェローの『ハイアワサの歌』に多くをインスパイアされたと言われている。

1893年6月5日、ドヴォルザークはアイオワ州スピルヴィルという小さな町を訪れた。この街は、ボヘミアからの入植者が住む町で、ドヴォルザークのアシスタント兼秘書を務めるヨゼフ・ヤン・コヴァジークの父親が聖歌隊長を務めていた。この街でのドヴォルザークの様子を「同国人らの中にいるという実感が祖国を思い出させるとともに、故郷にいるような感覚にさえしたようだ」とコヴァジークは回想している。そしてスピルヴィル到着の3日目には新作の弦楽四重奏曲に着手し、6月23日には速くもそれを完成させ、コヴァジーク家とドヴォルザーク家混成の弦楽四重奏団により試演された。これが「アメリカ」四重奏曲である。このような温かい雰囲気に触れたためか、ドヴォルザークはできあがったスコアを、交響曲第9番や弦楽五重奏曲変ホ長調とともに、不仲であったジムロック社に委ねる気になった。ジムロック社はただちにこれを出版すべくブラームスに校訂を依頼し快諾を得た旨を作曲家に伝えた。ブラームスはこれに「作曲するときの楽しい様子を聞いて私がどんなにうれしく思っているか伝えてほしい」との伝言を添えて、ドヴォルザークをいたく感動させたのだった。

ニューヨークに戻ったドヴォルザークには再び激務が待っていた。1894年4月には、ニューヨーク・フィルハーモニーの名誉会員に推されるという栄誉を受けた。一方、グノー、チャイコフスキー、ハンス・フォン・ビューローといった優れた音楽家の訃報に触れ、さらには父親の病気を知り、1894年3月、ドヴォルザークは敬虔な歌曲集『聖書の歌』を作曲している。この年の夏は、秋には戻り契約を2年間延長する約束で、5ヶ月間の休暇を取り、ボヘミアに帰った。チェコに着くと彼はヴィソカーの別荘に直行し、住民たちの心温まる歓迎を受け、心からくつろいだ休暇を送ることができた。同年、10月ニューヨークに戻った彼は、強烈なホームシックに襲われ体調を崩してしまった。その一方で、このころサーバー夫人の夫(ナショナル音楽院最大のパトロンだった)が1893年恐慌のあおりを受け破産寸前に追い込まれていたことから、ドヴォルザークへの報酬も支払遅延が恒常化しつつあった。11月8日からチェロ協奏曲に着手し、翌1895年2月9日にこれを完成させるが、これが限界だった。ドヴォルザークはサーバー夫人に辞意を伝え、周囲の説得にもかかわらず、4月16日にアメリカを去ったのである。

帰国後

帰国後もドヴォルザークはしばらく何も手につかない状態にあった。しかし1895年11月1日、プラハ音楽院で再び教鞭を執り始めた。作曲も再開され、アメリカを発つとき未完成のまま鞄に詰め込まれた弦楽四重奏曲第14番も1895年の年末には完成した。1896年3月彼は、最後となる9回目のイギリス訪問を果たす。この直後、ブラームスからウィーン音楽院教授就任の要請を受けるが、これを断った。アメリカ滞在や最後のイギリス訪問を通じて彼は、ボヘミアこそ自分のいる地だと思い定めたのだった。この後、ドヴォルザークは、標題音楽に心を注ぐようになる。カレル・ヤロミール・エルベンの詩に基づく交響詩の連作(『水の精』、『真昼の魔女』、『金の紡ぎ車』、『野ばと』)を作曲したのも1896年のことである。

帰国後のドヴォルザークには多くの名誉が与えられた。1895年、ウィーン楽友協会はドヴォルザークを名誉会員に推挙すると伝えた。同年ウィーン音楽省はプラハ音楽院への援助を増額する際に、ドヴォルザークの俸給を増額するようにと明記している。1897年7月にオーストリア国家委員会の委員となった。この委員会は、かつてドヴォルザークが得ていた奨学金の審査を行う委員会であり、才能ある貧しい若者を援助できることは彼にとってこの上ない喜びであった。さらに1898年には、それまでブラームスしか得ていなかった芸術科学名誉勲章をフランツ・ヨーゼフ1世の在位50周年式典の席で授けられている。

こうして、さまざまな栄誉を身につけたドヴォルザークであったが、彼にはオペラをヒットさせたことがないという焦燥感があった。そしてチェコの民話に想を得た台本『悪魔とカーチャ』に出会い、オペラ創作に邁進してゆく。1898年から1899年にかけて作曲されたこのオペラは、1899年11月23日に初演されると大成功を収め、ドヴォルザークは、ジムロックからの要請にもかかわらず、他のジャンルには目もくれずに、次の台本を探し求めた。そして出会ったのが、『ルサルカ』であった。1900年4月に着手され、11月27日に完成したこの妖精オペラは1901年3月31日にプラハで初演されて再び大成功を収める。しかし、様々な事情でウィーンで上演される機会を逃し国際的な名声を生前に受けることができなかったことで、ドヴォルザーク自身は決して満足できず、これ以後もオペラの作曲を続けるが、最後の作品であるオペラ『アルミダ』(1902年 - 1903年作曲、1904年3月25日初演)は、初日から不評に終わってしまった。

1901年オーストリア貴族院はドヴォルザークを終身議員に任命し、同年7月にはプラハ音楽院の院長に就任した。しかし多忙のドヴォルザークの院長就任は多分に名目上のものであり、実務や組織はカレル・クニトゥルが執務した。

ドヴォルザークには、尿毒症と進行性動脈硬化症の既往があったのだが、1904年4月にこれが再発。5月1日、昼食の際に気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取った(62歳)。死因は脳出血だった。葬儀はその4日後の5月5日国葬として行われた。棺はまずプラハの聖サルヴァトール教会に安置された後、ヴィシェフラット民族墓地に埋葬された。

エピソード

音楽史上の位置づけ

スタヴォフスケー劇場

ドヴォルザークは西洋音楽史上、後期ロマン派に位置する作曲家である。この時代にはドイツオーストリアイタリア、あるいはフランスといった音楽先進地域の外で国民楽派が勃興し、ドヴォルザークは、1歳年上のピョートル・チャイコフスキー(ロシア)、2歳年下のエドヴァルド・グリーグ(ノルウェー)らとともに、同楽派を代表する存在である。同時に、ベドルジハ・スメタナとともにチェコ国民楽派あるいはボヘミア楽派の創始者の一人として、ドヴォルザークはレオシュ・ヤナーチェクを初めとする以後の作曲家たちに大きな影響を与えた。

ドヴォルザークは、ワーグナー派対ブラームス派の対立が明らかとなった時代に学習期を迎えている。1860年代後半、彼はワーグナーの音楽に心酔し、プラハでワーグナーのオペラを常時上演していたドイツ劇場(スタヴォフスケー劇場)に足繁く通った。1871年に作曲したオペラ『王様と炭焼き』第1作には、ライトモティーフの使用や切れ間なく続く朗唱風の音楽に、ワーグナーの影響が明らかに見て取れる。しかし、この作品は失敗作と見なされ、初演を迎えることはなかった。ドヴォルザークは、この『王様と炭焼き』第1作と全く同じ台本に異なった音楽をつけ、ナンバー・オペラに仕立てた『王様と炭焼き』第2作以降、徐々にワーグナーの影響下を脱していく。こうしたドヴォルザークの才能にいち早く着目したのは、ワーグナーと相対していたブラームスである。ドヴォルザークは、ブラームスや「ブラームス派」の音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックらの推挙によって作曲家としての地位を築いた。彼は、こうした先人たちの残した豊かな遺産を十全に活用し、ワーグナーから学んだドラマ性、ブラームスも着目する構成力を高い次元で兼ね備えた作曲家であった。

とはいえ、ドヴォルザークの音楽をとりわけ魅力的にしているのは、シューベルトと並び賞される、その親しみやすく美しいメロディーである。彼の交響曲第9番の第2楽章は、日本語の歌詞がつけられて唱歌「家路」として親しまれるだけでなく、学校やデパートなどの終業時刻を知らせるメロディーとしても多く利用されている。ピアノ曲『ユーモレスク変ト長調(Op.101-7, B.187-7)はフリッツ・クライスラーによるヴァイオリン独奏をはじめとする様々な編曲で演奏され、耳に馴染んでいるメロディアスな作品である。また、歌曲我が母の教えたまいし歌』は、クラシック音楽の声楽家のみならず、ポピュラー・シンガーによっても愛唱さ

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出典:wikipedia
2020/03/20 05:39

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