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アンネ・フランクとは?

Anne Frank
アンネ・フランク (1940)

【生誕】
アンネリース・マリー・フランク
Annelies Marie Frank

1929年6月12日
ドイツ国 フランクフルト・アム・マイン
【死没】
1945年3月5日
ドイツ国 ベルゲン・ベルゼン強制収容所
【親】
父:オットー・フランク
母:エーディト・フランク
【署名】


アンネ・フランク(アンネリース・マリー・フランクドイツ語: Annelies Marie Frank 発音1929年6月12日 - 1945年3月上旬)は、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女である。

目次

  • 1 概要
  • 2 生涯
    • 2.1 ドイツ脱出
    • 2.2 オランダでの生活
    • 2.3 ドイツ軍がオランダ侵攻
    • 2.4 ドイツ軍占領下の生活
    • 2.5 隠れ家の準備
    • 2.6 隠れ家生活
      • 2.6.1 隠れ家での人間模様
      • 2.6.2 様々な困難
    • 2.7 逮捕
    • 2.8 ヴェステルボルク収容所
    • 2.9 アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所
    • 2.10 ベルゲン・ベルゼン収容所での死
    • 2.11 没後
  • 3 人物
  • 4 アンネに由来する事物等
  • 5 注釈
  • 6 出典
  • 7 参考文献
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク

概要

ドイツ国フランクフルト・アム・マインに生まれたが、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、一家で故国ドイツを離れてオランダアムステルダムへ亡命した。しかし第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月6日に一家は、父オットー・フランクの職場があったアムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で潜行生活に入ることを余儀なくされた(フランク一家の他にヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーもこの隠れ家に入り、計8人のユダヤ人が隠れ家で暮らした)。ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家でのことを日記に書き続けた。

1944年8月4日ナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員がナチス強制収容所へと移送された。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。1945年3月上旬頃のことと見られている。

隠れ家には、アンネがオランダ語で付けていた日記が残されていた。オットーの会社の社員で隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、戦後まで保存した。8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたオットー・フランクはミープからこの日記を手渡された。オットーは娘アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意した。この日記は60以上の言語に翻訳され、2500万部を超える世界的ベストセラーになった。

生涯

父はユダヤ系ドイツ人のオットー・ハインリヒ・フランク。母は同じくユダヤ系ドイツ人のエーディト・フランク(旧姓ホーレンダー)。父オットーは銀行家だった。母エーディトはアーヘンの有名な資産家の娘であった。アンネは次女であり、3歳年長の姉にマルゴット・フランク(愛称マルゴー)がいた。

ドイツ・フランクフルトのマルバッハヴェーク307番地にある幼少期のアンネのメモリアルプレート。右がアンネ。左がマルゴット(マルゴー)。中央は当時の友達。

生後12日目にエーディトはアンネをフランクフルト郊外のマルバッハヴェーク307番地にあったフランク一家の暮らすアパートに連れ帰った。フランク一家は中産階級のユダヤ人一家だが、ユダヤ教にも他の宗教にもあまり熱心な家庭ではなかった。1931年3月、フランク一家はガングホーファー通り24番地のアパートへ引っ越した。しかしフランク一家の家業である銀行業は世界的な不況から立ち直れずに業績が悪化していた。フランク一家は一般のドイツ国民よりは経済水準は高かったものの、節約のためにもアパートを借りるのは止めることとなった。一家はヴェストエント地区のヨルダン通りにあるベートーベン広場に面したオットーの実家へ戻った。ここは1901年にオットーの父ミヒャエルが購入した高級住宅で、ミヒャエルの死後はオットーの母アリーセが1人で切り盛りしていた。とはいってもフランク一家の私生活はあまり変わらず、一家はよく旅行やショッピングに出かけていた。

しかしこの頃のドイツの政治は、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)が急速に伸長していた。1932年には同党が国会で最大議席を獲得し、その党首アドルフ・ヒトラー首相に任命されるのも目前に迫っていた。フランクフルトでも反ユダヤ主義デモを行う突撃隊隊員の姿がよく見られるようになった。1932年にオットーはエーディトと相談して、ドイツを離れる事を考えたという。しかし亡命先で生活の糧を得られる見込みがなく、断念せざるを得なかった。

ドイツ脱出

1933年3月21日、ドイツ国首相アドルフ・ヒトラー(左)とドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク(右)。

1933年1月30日、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命され、ドイツの政権を掌握した。これに危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人達は次々とドイツ国外へ亡命していき、1933年だけで6万3000人余りのユダヤ系ドイツ人が国外へ亡命している。1933年3月のフランクフルト市議会選挙でもナチ党が圧勝した。市の中心部では勝ち誇ったナチ党員たちが大規模な反ユダヤ主義デモを行った。ユダヤ人商店のボイコット運動も激化し、ユダヤ系企業は次々と潰された。1933年4月7日に制定された職業官吏再建法によって反ユダヤ主義に従わない教師は次々と停職・退職させられ、学校内でもユダヤ人の子供の隔離が進められるようになった。アンネもマルゴーもドイツでまともな教育を受けることは不可能であった。

1929年夏にスイスへ移住していたアンネの叔父エーリヒ・エリーアスは、ジャム製造に使うペクチンをつくる会社「ポモジン工業」の子会社オペクタ商会スイス支社を経営していた。エリーアスは義兄にあたるオットー・フランクにオランダアムステルダムへ亡命してそこでオペクタ商会オランダ支社を経営しないかと勧めた。オットーはドイツに残ることの危険性、オランダに知り合いがいたこと、オランダが難民に比較的寛容であったことなどを考慮してこの申し出をありがたく受けることにした。

まず仕事と住居を安定させるため、1933年6月にオットーが単身でアムステルダムへ移った。その間、アンネは姉マルゴーや母エーディトとともにアーヘンで暮らすエーディトの母ローザ・ホーレンダーの家で暮らした。オットーはヴィクトール・クーフレルミープ・ヒースなど信用のできる人物を雇い、何とか事業を軌道に乗せた。

オットーはその間、一家の住居先も探した。エーディトもアーヘンとアムステルダムを行き来して夫の住居探しを手伝った。オットーたちはアムステルダム・ザウトの新開発地区に一家4人で暮らすのにちょうどいいアパートを見つけ、そこを購入した。1933年12月にまずエーディトとアンネの姉マルゴーが向かい、続いて1934年2月にはアンネもそこへ移住していった。

オランダでの生活

オランダ・アムステルダムのメルウェーデ広場(2010年)当時のままに残されている。アンネの自宅はビルの右側の建物群、ビルから5番目の建物。写真では右端に少しだけ見える。広場中央に見えるのはアンネ・フランク像。

アムステルダム・ザウト地区は当時開発中で、ドイツからナチスの迫害をのがれて移住してきたユダヤ人が多く集まってきていた。フランク一家もそうした家の一つである。フランク一家はアムステルダム・ザウト地区の一郭であるメルウェーデ広場37番地のアパートの三階で暮らしていた。メルウェーデ広場は二等辺三角形をした広場で三角形の頂点には当時としては珍しい12階建てのビルがそびえ立っている(写真参照)。

姉のマルゴーは普通の小学校に入学したが、アンネは、1934年に自宅の近くのニールス通りにあるモンテッソーリ・スクールの付属幼稚園に入学した。さらに1935年9月には幼稚園と同じ建物の中にあるモンテッソーリ・スクールに入学する。モンテッソーリ・スクールは自由な教育を特徴とし、時間割が存在せず、教室での行動を生徒の自主性に任せ、授業中の生徒のおしゃべりさえも推奨していた。アンネにモンテッソーリ・スクールを選んだのは、アンネがおしゃべりで長い間じっと座っていることができない性分であったためという。

父親のオットー・フランクは娘たちについて「アンネは陽気な性格で女の子にも男の子にも人気があった。大人を喜ばせるかと思えば、あわてさせる。あの子が部屋に入ってくるたびに大騒ぎになったものでした。一方姉のマルゴーは聡明で誰からも『いい子だね』と褒められるような子供でした」と後に語っている。

アンネが暮らしていたメルウェーデ広場37番地のアパート。3階部分がフランク家の部屋だった。

当時モンテッソーリ・スクールは革新的な学校と目されており、そのためユダヤ人の入学者が多かった。アンネのクラスも半分がユダヤ人であり、そのほとんどがアンネと同じドイツ系であった。アンネはモンテッソーリ学校で、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人一家の子供ハンネリ・ホースラル(オランダ語愛称リース)やズザンネ・レーデルマン(愛称サンネ)と親しく遊んでいた。いつも仲良しの3人少女は「アンネ、ハンネ、サンネの3人組」などと呼ばれていた。特にハンネのホースラル家とアンネのフランク家は家族ぐるみの親しい付き合いをしていた。1937年秋にアンネにサリー・キンメルという初めてのボーイフレンドができた。これ以降、アンネの友達に男の子が増えてくるようになった。陽気なアンネは学校でもパーティーでも目立つ女の子で男子からも人気があった。映画スターやファッションに興味を持ち始めたのもこの頃だった。しかしアンネは病弱であり、百日咳水ぼうそうはしかリューマチ熱など小児病にはほとんど罹患している。

1938年10月にオットー・フランクはアムステルダムにもう一つの会社「ペクタコン商会」を設立した。ソーセージの製造のための香辛料を扱う会社であった。ヨハンネス・クレイマンをオペクタ商会とペクタコン商会の監査役とし、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人でソーセージのスパイス商人だったヘルマン・ファン・ペルスをペクタコン商会の相談役に迎えている。ファン・ペルス一家は1937年6月にドイツをのがれてアムステルダムへ移住して来ており、フランク家の近くで暮らしていた。ファン・ペルス一家はフランク一家と家族ぐるみの付き合いをして、後に隠れ家でフランク一家と同居することとなる。

1938年末には母エーディトの実家であるドイツ・アーヘンのホーレンダー家が経営する「B・ホーレンダー商事会社」が「アーリア化(ドイツ政府の圧力の下にユダヤ系企業がドイツ系企業に捨て値で買い取られる)を受け、ホーレンダー家が財産を失った。エーディトの兄ユリウスは従兄弟のいるアメリカへ逃れたが、エーディトの母ローザは当時72歳で海を渡っての長旅は無理だった。結局ローザは息子ユリウスに同行せず、1939年3月にアムステルダムのフランク家へ移ってきて、一家は5人暮らしになった。アンネはおばあちゃんっ子であり、よくローザに学校での話や友達とのことなどを話した。

また1940年春ごろにはアメリカ合衆国アイオワ州ダンビルからオランダへ赴任してきていた女教師バーディー・マシューズの計らいで、アンネとマルゴーは彼女の教え子であるダンビルの学校の生徒と文通することになった。アンネとマルゴーの文通相手はダンビルの農家の娘の姉妹ベッティ・アン・ワーグナーとホワニータ・ワーグナーであった。アンネはホワニータと文通した。ちなみにこの文通は英語で行われている。父オットーが娘たちの書いた手紙を英訳したものと思われる。

ドイツ軍がオランダ侵攻

1940年5月、アムステルダム市に入るドイツ軍を歓迎するアムステルダム市民。

1939年9月1日ドイツ軍ポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦にオランダは中立を宣言していた。しかしヒトラーは「オランダはイギリス軍機がドイツ空爆のためにオランダ領空を通過していくことを黙認している。自分から中立の資格を放棄している」と主張し、1940年5月10日早朝にドイツ軍をオランダへ侵攻させた。この日は金曜日で平日だったが、ドイツ軍侵攻を受けて聖霊降臨祭の休みが急遽繰り上げられて、学校は休みになり、アンネは自宅で待機した。一方、父オットーは会社に出勤している。オットー以下オペクタ商会の社員たちは、暗澹たる空気の中でラジオ放送の混乱する情報を聞いていた。放送を聞くオットーの顔色は蒼白だったとミープ・ヒースは著書の中で回顧している。

オランダ国内はパニックに陥った。ポーランドで戦争後、オランダ政府は「たくさん蓄える者は国民に害」をスローガンに食糧配給制へ移行していたが、人々は食糧を蓄えようとして商店に殺到した。街中には空襲警報が連発した。ラジオ放送は混乱に陥り、相矛盾する命令や意味が不明瞭な命令を国民に次々と出した。オランダ国内にいるドイツ人が手当たり次第にオランダ当局に逮捕された。自動車を所有する裕福なユダヤ人の中には、オランダからの脱出を試みようとアイマウデンスヘフェニンゲンなど海の方へ逃げる者もいたが、イギリス行きの船舶はわずかで、ほとんどはオランダ脱出に失敗している。フランク一家は逃亡を試みなかった。フランク一家は自動車を所持していなかったし、オットーやエーディトは、青春期の娘2人や年老いた祖母を連れてあちこち逃げまわりたがらなかった。オットー達は娘たちが心配なく青春を過ごせるよう現下の政治情勢については家庭内でほとんど話さないこととした。

5月13日にはウィルヘルミナ女王ディルク・ヤン・デ・ヘール首相以下政府閣僚がイギリスへ逃亡した。ドイツ空軍によるロッテルダム空襲の後、5月14日夜7時、オランダ軍総司令官ヘンリー・ヴィンケルマン大将はドイツ軍に対して降伏することを発表した。5月15日正午にはオランダ政府はドイツ政府に対して正式に降伏文書に調印した。侵攻から1週間足らずでオランダ全土はドイツ軍占領地となった。

ドイツ軍占領下の生活

占領直後のオランダはドイツ国防軍の軍政下に置かれていたが、1940年5月28日にヒトラーはオランダ駐在国家弁務官親衛隊中将アルトゥール・ザイス=インクヴァルトを任じ、民政へ移行させた。ザイス=インクヴァルトは占領当初「穏健」な態度をとり、オランダ社会に急激な変化をもたらさないよう気にかけた。オランダ政府閣僚はすでに国外逃亡していたが、事務次官以下官僚機構はそのままオランダに残っており、オランダの行政機能はこれまでとほとんど変りなく稼働した。またザイス=インクヴァルトは、反ユダヤ主義についても即時にオランダに持ち込むことはしなかった。そのため占領後もしばらくの間は、アンネの生活に大きな変化はなかった。ハンネやサンネとも今まで通り遊んでいた。アンネはオランダ降伏には怒っていたが、この頃にはまだ将来への強い不安までは感じてはいなかったという。

1940年5月28日にはベルギーがドイツに降伏、さらに6月22日にはフランスもドイツに降伏した。ドイツの情勢が安定してきたことで、ザイス=インクヴァルトは徐々に「穏健」の仮面を脱ぎ捨ててユダヤ人迫害を開始するようになった。まず1940年7月にザイス・インクヴァルトよりオランダ国籍以外のユダヤ人は氏名と住所を登録せよとの命令が下った。さらに8月には「1933年1月1日以降にドイツからオランダへ移住したユダヤ人はその旨を登録せよ」との命令が出された。フランク一家はこれらの命令に従って登録を行っている。10月にはユダヤ人企業に登録が義務付けられた。オットーはこれに従ってオペクタ商会とペクタコン商会を登録する一方、「アーリア化」されることを防ぐためにヴィクトール・クーフレルとヤン・ヒース(ミープの愛人。2人は1941年7月に結婚)を仮の所有者とする偽装会社「ヒース商会」を設立した。

1941年1月9日以降にはオランダ映画館主同盟がユダヤ人の映画館入場を拒否したためユダヤ人は映画館に入れなくなった。アンネはハリウッドの有名なスターの写真を切り抜いては台紙に貼ってコレクションするような映画好きの女の子だったのでこれは大事件だった。結局、フランク一家は自前で映写機、スクリーン、フィルムを用意して自宅で上映会を行うようになった。

1941年5月末にユダヤ人は公園、競馬場、プール、公衆浴場、保養施設、ホテルなど公共施設への立ち入りを禁止された。アンネはプールに行けなくなったことを嘆き、「日焼けしようにも、あまり方法はありません。プールに入れないからです。残念ですけど、どうしようもありません」と1941年6月末にスイスにいる父方の祖母アリーセに宛てた手紙で書いている。

1941年8月29日にはユダヤ人はユダヤ人学校以外に通うことを禁止する法律が公布された。アンネはモンテッソーリ・スクールへ通えなくなり、マルゴーともどもフォールマーリゲ・スタツティンメルタインユダヤ人中学校へ転校することとなった。ユダヤ人中学校でアンネは新たな親友ジャクリーヌ・ファン・マールセン(愛称ジャック)と出合った。アンネとジャックは家が近いにもかかわらず、しょっちゅうお互いの家に泊まり合っていた。アンネはジャックの家に行くのに大した荷物もないのにスーツケースを持っていった。スーツケースがないと旅行気分が出ないからという。

1942年1月29日には同居していた祖母ローザ・ホーレンダーがにより死去している。おばあちゃんっ子のアンネには衝撃だった。アンネは後に書く日記のなかでも祖母の死について触れ、「おばあちゃんのことは、いまでもこの胸に焼き付いています。私が今でもどれだけおばあちゃんを愛しているか、きっと誰も想像がつかないと思います」と書いている。アンネは思春期になるにつれ、母エーディトとの摩擦が増えていた。アンネとエーディトの親子喧嘩の仲裁役になれるのはアンネの祖母でエーディトの母であるローザだけだった。その事もアンネが祖母好きな理由であったという。

オランダのユダヤ人が着用を義務付けられたダビデの星

1942年4月29日にはオランダ、フランス、ベルギーにおいてユダヤ人は黄色いダビデの星を付けることが義務付けられた。これは先にポーランドやドイツで実施されていたものが導入された物であった。オランダのダビデの星には中央に「Jood(ユダヤ人)」の文字が入っていた。1942年6月22日にはオランダの親衛隊及び警察高級指導者ハンス・ラウター親衛隊中将より「ユダヤ人は所有している自転車を48時間以内に当局に提出せよ」との命令が下された。フランク一家はこの命令に従わず、マルゴーの自転車を隠し持つことにした。アンネも専用の自転車を持っていたが、彼女の自転車は復活祭の休み中に何者かに盗まれてしまっていたため、この頃にはすでに所持していなかった。アンネにとって厳しかったのは1942年6月30日のユダヤ人外出制限命令だった。ユダヤ人は夜8時から朝6時までの間の外出を禁止され、また非ユダヤ人を訪問したり、あるいは訪問を受けることを禁止された。ユダヤ人の子供にとって友達と遊ぶのに大きな影響がある命令だった。

アンネは1940年夏にペーテル・スヒフという年上(14歳)の少年と付き合っていた。ペーテルは長身の美男子でアンネは彼にかなり熱を入れていたが、ペーテルが引っ越すとペーテルとアンネは疎遠になってしまった。ペーテルの新しい友人たちが年下の女の子と付き合っているペーテルをからかったため、彼はアンネを故意に無視するようになったらしく、一方のアンネはしばらく失意の状態だったという。1944年1月6日付け、1月7日付けの彼女の日記にはペーテルのことを忘れられないでいる様子がうかがえる。ペーテルほど熱を入れてはいなかったが、1942年6月終わり頃には3歳年長のヘルムート・シルベルベルフ(愛称ヘロー)という男の子と付き合い始めていた。ヘローはこの時のことを後に「アンネは魅力的な女の子でした。いきいきとしていて機転がきいて、人を笑わせたり、楽しませたりするのが大好きでした。はっきりと記憶に残っているのはいつも大きな椅子に座り、あごに両手を添えてじっと私のことを見ているアンネの姿です。(中略)たぶん私はアンネに恋していたのでしょう。ひょっとすると彼女も同じ気持ちだったかもしれません」と語っている。

ベルリンアンネ・フランク・ツェントラムに展示される、アンネが日記に用いたサイン帳。

1942年6月12日の13回目のアンネの誕生日、オットーからのプレゼントでサイン帳を贈られた。表紙全体に赤と白のチェック模様が入っている女の子らしいサイン帳であった。アンネはこのサイン帳を日記帳として使用することにし、その日、最初の日記をつけている。後世に『アンネの日記』として世界的に知られることになる日記の執筆の始まりである。なおアンネは日記帳を「キティー」と名付け、この「キティー」に手紙を書くという設定にしていた。なぜキティーだったかは諸説あってはっきりとしないが、当時オランダの女の子の間で人気があった少女小説の主人公の名前から取られたという説が最も有力である。あるいはアンネの友達の一人ケーテ・エヘイェディ(愛称キティー)から来ている可能性もある。日記の最初はこのように記されている。

あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです。どうか私のために大きな心の支えと慰めになってくださいね — 1942年6月12日

1942年6月末、夏休み前の学期末試験の通知書が配布された。マルゴーは「いつも通りの素晴らしい成績」で、アンネも日記上でしぶしぶ賛辞を呈している。一方アンネは予想よりは良かったが、数学の成績が低く、夏休み後の9月に追試を受けることを申し渡されてしまった。しかしアンネが再び学校に通える日はもう来なかった。

隠れ家の準備

プリンセンフラハト通り263番地にあるオットーの会社の建物。この建物の裏につながって存在する「後ろ家」の3階と4階部分に隠れ家があった。1960年にアンネ・フランク財団が管理する博物館として整備され、アムステルダムの観光名所の一つとなっている。

ドイツの総力戦体制が強まり、ユダヤ人狩りが頻繁に行われはじめると、「ユダヤ人はポーランドへ連行されそこで虐殺される」という不穏な噂が流れるようになった。ドイツ側は、連行しているユダヤ人は失業中で未婚のユダヤ人のみであり、彼らはドイツ国内の労働収容所へ送っており、そこで公正な取り扱いの下に強制労働に従事しているとしていた。しかしイギリスのBBC放送などはユダヤ人はポーランドへ連れて行かれ、そこで虐殺されていると報道していた。いずれにせよ明白であるのは、経済の「アーリア化」によりユダヤ人失業者は増大しており(オットー・フランクも書類上は失業者であった)、ユダヤ人狩りで連れていかれる人数は日増しに増え、その対象はユダヤ人ならば誰でも手当たり次第という具合になっていたことである。

危険が迫ってきていると判断したオットーとヘルマン・ファン・ペルスは、オペクタ商会とペクタコン商会(ヒース商会)が入っている建物の中に隠れ家を設置して身を隠す準備を進めた。その建物はアムステルダム・ヨルダーン地区プリンセンフラハト通り263番地にあった。4階建ての建物で1階が倉庫、2階が事務所、3階と4階(さらにその上に屋根裏部屋もあり)も倉庫として使われていた。この建物の後ろには離れ家がついており、そこの2階にはオットーのオフィスと従業員用のキッチンがあり、3階と4階は放置されていた。こうした離れ家は、運河に面したアムステルダムの建物にはよくある形状で「後ろの家」(アハターハウス)と呼ばれ、定冠詞"Het"を付けた「後ろの家」(ヘット・アハターハウス)は、オランダ語版アンネの日記のタイトルとなった。この離れ家の3階と4階と屋根裏部屋を改築して隠れ家が作られた。

ミープ・ヒースヨハンネス・クレイマンヴィクトール・クーフレルベップ・フォスキュイルら会社の非ユダヤ人社員たちが食料や日用品を隠れ家に運び込む役を引き受けてくれた。オットーは、ドイツ軍に見つからぬよう少しずつ家具などを隠れ家に入れていった。この間、アンネとマルゴーには隠れ家のことは一切知らされていなかった。少しでも娘たちに自由な時間を楽しませたいというオットーとエーディトの配慮からだった。ユダヤ人の子供はすでに自由に遊ぶことはできなくなっていたが、それでもアンネは、ハンネ、サンネ、ジャック達とともにイルセ・バーハネルという子の家に集まって卓球をして遊んだり、卓球の後はユダヤ人でも入れるアイスクリーム屋へ行って男の子達と会って仲良くしたりして楽しんでいた。

1942年7月5日午後3時頃、マルゴーに対して7月6日にユダヤ人移民センターへの出頭を命じるナチス親衛隊(SS)からの召集命令通知がフランク家に届けられた。これはマルゴーに限らずアムステルダムの15歳から16歳のユダヤ人数千人に一斉に出された召集命令であった。召集後はヴェステルボルク通過収容所を経てドイツ国内の強制労働収容所へ送られ、労働に従事させられることとなっていた。通知には持って行ける衣類とシーツ、食器類についてのリストまで付属していた。オットーの帰宅後、すぐにヘルマン・ファン・ペルスやヒース夫妻、クレイマンなどと連絡をとり、対策を話し合った。召集命令に応じるのは危険と判断したオットー達は、すぐに潜伏生活を始めることとした。アンネとマルゴーも荷造りの準備を始めた。

7月6日朝7時半、アムステルダムは雨が降っていた。自転車を持っていたマルゴーはミープに連れられてひと足先に隠れ家へ向かった。続いて7時45分、アンネとオットーとエーディトの3人も家を出ると徒歩で隠れ家へ向かった。アンネたちは1時間ほどかかってプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家に到着した。到着した頃には雨はあがっていた。

アパートを出る際にオットーはその頃フランク家に下宿していた人物に宛てて手紙を置き残した。そこでスイスへ逃れることをほのめかし、アンネが飼っていた猫「モールチェ」(ユダヤ人学校へ転校した頃から両親の許可を得て飼っていた)を託したい旨を書いている。フランク一家の突然の失踪は近所の人たちにも知られたが、召集命令が来たユダヤ人は次々と逃げ出していたのでとりたてて不思議には思われなかったようである。すぐに「フランク一家はスイスへ逃げたらしい」という噂が流れた。アンネの友達のハンネリやジャックもアンネを探しに来たが、家はもぬけのからになっていた。ジャックはアンネと事前にお互い身を隠す時が来たら手紙を置き残そうと約束していたので手紙を探したが見つからなかった。彼女たちはとりあえずアンネとの思い出の品を探し、ジャックはアンネが水泳競技でもらったメダルを見つけて持って帰っている。

隠れ家生活

会社が入っている通りに面した家(左)と隠れ家がある「後ろの家」(右)の模型。
隠れ家への入口を隠した本棚。

「後ろの家」の隠れ家の入口は正面の建物から3階に上がり、本棚の後ろに隠れた秘密の入口を通って入ることができた。秘密の入口を通るとすぐ右手に4階への階段があった。階段のすぐ横のドアはオットーとエーディトの部屋であった。その部屋とつながっている右側の細長い部屋がアンネとマルゴーの部屋だった(フリッツ・プフェファー合流後、プフェファーはアンネの部屋で暮らすことになり、マルゴーはオットーたちの部屋に移っている)。アンネたちの部屋と4階への階段の手前から洗面所に入ることができ、そこに洗面台と水道、そして水洗トイレがあった。4階に通じる階段を上ると大きな部屋があり、そこは隠れ家のリビングルーム、またファン・ペルス一家の部屋だった。またその部屋に通じる部屋にファン・ペルス一家の長男ペーター・ファン・ペルスの部屋があり、この部屋から屋根裏部屋へ上がるはしご段があった。屋根裏部屋のつきあたりのアーチ形の窓からは西教会の時計塔が見え、別の窓からは中庭に立つマロニエの巨木を眺めることができた。隠れ家にはオットー・フランク一家(オットー、妻エーディト、長女マルゴー、次女アンネ)、1942年7月13日からヘルマン・ファン・ペルス一家(ヘルマン、妻アウグステ、長男ペーター)、1942年11月16日から歯科医のフリッツ・プフェファーも合流して合計8人が隠れ家で同居した。

隠れ家での人間模様

隠れ家生活に入ってからアンネと母エーディトは対立することが多くなった。母から自立したいアンネとアンネを心配するエーディトがすれ違っていたせいであった。オットーがよく2人の仲裁に入っていた。日記上でも母親を批判する記述は多い。「とにかくママが我慢なりません。ママの前では、自分を抑えて辛抱しなくちゃなりません。そうしないとママの横っ面をひっぱたいてしまいかねませんから。どうしてこんなにまでママが嫌いになってしまったのか。自分でも分かりません」と書いている。しかしやがてアンネは母を傷つけていることを反省して、徐々に攻撃の手を緩めるようになる。日記の書きなおし作業の中で「アンネ、本当に貴女が書いたの? 『憎らしい』なんて? よくもこんなことが書けたわね」「お母さんが私の気持ちを分かっていないのは事実ですが、私もお母さんの気持ちを分かっていないのですから」などと書いている。

またアンネは、成績優秀で控えめな性格の姉マルゴーをやっかむ事が多かった。母エーディトがマルゴーを高く評価し、アンネはいつもマルゴーと比べられてお姉さんを見習うように言われるせいだった。アンネは「鼻持ちならないとしか言いようがありません。昼も夜も神経に触りっぱなし。私はいつもマルゴーをからかって『よくそんなに猫をかぶってられるわね』と言ってやりますけど、さすがのマルゴーもこれにはむっとしてるようですから、そのうち猫を被るのは止めるかも」、「ママは何かと言うとマルゴーの味方をします。それは誰の目にも明らかです。いつだって2人でかばい合っています。もうそれは慣れっこなので、ママがごちゃごちゃお説教をしても、マルゴーが怒ってきても何とも思いません。もちろん2人のことは愛していますが、それは私のお母さんであり、お姉さんだからにすぎません。一個の人間としては2人ともくたばれと言いたいです」と書いている。しかし後に親への不満を共通の話題にして姉妹仲はよくなった。「特別なことと言えば、マルゴーと私が二人揃って両親が鼻につき始めてることぐらいです。誤解しないでほしいんですけど、私は今でも以前と変わらずお父さんを愛してますし、マルゴーは両親どちらも愛しています。でも私たちぐらいの年になると、誰でもちょっとは物事を自分で決めたくなります。(中略)マルゴーも悟ったようです。両親より同性の友達の方が、自分自身について気楽に話せるってことが」「(マルゴーとは)本当の親友になりかけています。もう私のことを子供扱いして、相手にしてくれないなんてこともありません」と書いている。

家族の中でアンネが一番好きだったのは父オットーだった。アンネは1942年11月7日の日記には「パパだけが私の尊敬できる人です。世界中にパパ以外に愛する人はいません」と書いている。アンネはオットーにエーディトへの不満を漏らすことがあったが、オットーはアンネに拒絶されて苦しんでいるエーディトを知っていたので必ずしもその言い分を認めなかった。「パパは、私が時々ママについて、鬱憤をぶちまける必要があることを分かってくれません。そのことを話題にしたがらないんです。話がママの欠点について触れそうになると、すぐにその話題を避けようとします」とアンネは書いている。この件についてオットーは後年、「このことでは妻の方がアンネより深く悩んでいたと思う。実際に妻はよく出来た母親で子供のためならいかなる苦労も惜しまなかった。アンネの反抗についてよくこぼしていたが、それでもアンネが父親の私を頼っていることに妻は幾らか慰められているようだった。アンネと妻の仲介役になる時は私も気が重かった。妻を苦しませたくはなかったが、アンネが母に対して生意気で意地悪な態度を取った時、アンネをたしなめるのは、しばしば容易なことではなかった」と述べている。

アンネの妥協の無さ、臆することのない舌鋒は、ファン・ペルス夫妻やフリッツ・プフェファーも立腹させることが多かった。彼らは「アンネの躾がなっていない」とよく、フランク夫妻に忠告した。しかしこのような時には母エーディトは常にアンネの味方だった。プフェファーとアンネは机の使用権などをめぐって対立し、プフェファーはアンネにマナーなどの説教をすることがあった。アンネは皮肉をこめてプフェファーを「閣下」などと呼んでいる。また彼女がプフェファーに付けた日記上の変名は「デュッセル」(ドイツ語で間抜けの意)である。またファン・ペルス夫妻とフランク一家にもしばしば摩擦があった。

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出典:wikipedia
2018/06/20 18:50

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