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イギー・ポップとは?

【基本情報】

【出生名】
James Newell Osterberg, Jr.
【生誕】
(1947-04-21) 1947年4月21日(73歳)
アメリカ合衆国 ミシガン州マスキーゴン
【ジャンル】
ハードロックプロト・パンクパンク・ロックガレージロックグラムロック
【職業】
シンガーソングライター音楽家プロデューサー俳優
【担当楽器】
ボーカルギターキーボードドラム
【活動期間】
1963年 - 現在
【レーベル】
ヴァージンRCAA&Mアリスタエレクトラ
【共同作業者】
ザ・ストゥージズザ・トロールズザ・イグアナズ
【公式サイト】
www.iggypop.com

ジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニア(James Newell Osterberg Jr., 1947年4月21日 - )は、ステージネーム「イギー・ポップ」として知られるアメリカ合衆国出身のロックミュージシャンボーカリスト作曲家音楽プロデューサー俳優。過激なステージパフォーマンスで知られた同国のロックバンドザ・ストゥージズ」のメンバー。ソロミュージシャンとしても知られ、多くの作品を残している。

ザ・ストゥージズ時代の業績により「ゴッドファーザー・オブ・パンク」とも呼ばれ、後世に大きな影響を与えていると同時に、本人も後輩のミュージシャンたちと積極的に交流し、ガレージロックパンク・ロックハードロックアート・ロックニュー・ウェイヴジャズブルースなど、数々のスタイルを取り入れている。

ザ・ストゥージズ時代の「アイ・ワナ・ビー・ユア・ドッグ」「サーチ・アンド・デストロイ」、ソロミュージシャンとしては「ラスト・フォー・ライフ (イギー・ポップの曲)」「ザ・パッセンジャー (イギー・ポップの曲)」などが代表曲として知られており、特にザ・ストゥージズ時代の代表曲は様々なミュージシャンにカバーされている。

2010年、ザ・ストゥージズ名義で『ロックの殿堂』入り。
2017年フランス芸術文化勲章の最高位『コマンドゥール』を受章。
ローリング・ストーン誌選出「歴史上最も偉大な100人のシンガー」第75位。
Q誌選出「歴史上最も偉大な100人のシンガー」第63位。

2020年、第62回グラミー賞 特別功労賞 生涯業績賞を受賞。

生い立ち

ハイスクール時代のイギー、1965年頃

ジェームズ・ニューエル・オスターバグ・ジュニアはミシガン州マスキーゴンで生まれた。母親はノルウェー系とデンマーク系の血を引いたルーエラ(ニー・クリステンセン; 1917-1996)、父親はドイツ系、イギリス系、アイルランド系の血を引いたジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・シニア(1921-2007)。
父親はミシガン州ディアボーンフォードソン・ハイスクールで英語の教師と野球のコーチをしていたが、昇給を求めてミシガン州イプシランティイプシランティ・ハイスクールに転職し、住居も同地のトレーラーパークに定めると息子をそこで育てた。母親はNASAからアポロ計画で使用する月面設置用の計測機器(ALSEP)の納入やLRV (月面車)の開発を請け負っていたベンディクス (アメリカ合衆国の企業)社に勤務していた。

2007年のローリングストーン誌のインタビューで、イギーは彼の両親との関係と彼の音楽への影響について以下のように語った。

中学校はアナーバーにあってそこに通った。フォード・モーター・カンパニーの社長の息子と一緒に学校に通い始めたんだが、こいつは金持ちで差別的な奴だった。だが俺にはそんな連中に負けない財産があったんだ。両親は俺に莫大な投資をしてくれた。俺はいつも彼らに助けてもらっていたよ。両親は俺が興味を持ったものをさらに深く知るための手助けを惜しまなかったんだ。最高レベルの援助はトレーラーの主寝室を俺に明け渡してくれたことだな。

ミュージシャンとして

初期の音楽活動: 1960-1967

ザ・プライム・ムーヴァーズ (後方のドラムスがイギー)

オスターバーグはミシガン州アナーバーの高校在学時にドラマーとして音楽キャリアを開始した。いくつかのバンドでプレイしたが、そのうちのひとつ、ジ・イグアナズではボ・ディドリーの「モナ (ボ・ディドリーの曲)」をカヴァーしたシングルをリリースしている。
1965年ミシガン大学に進学したが翌年には退学し、レコードショップ「Discount Records」に勤務しつつブールスバンド、ザ・プライム・ムーヴァーズに加入して、初めてステージネームを名乗った。
このザ・プライム・ムーヴァーズ在籍中にポール・バターフィールド・ブルース・バンドと偶然出会い、その際に憧れていた元メンバーのサム・レイの連絡先をバターフィールドから教えてもらったため、イギーはシカゴにあるレイの自宅に向かった。
訪問時にレイは不在だったが彼の妻に温かく迎えられ、ジャズやブルースを扱うレコード屋の店長を紹介された。その店長やレイの紹介もあってリトル・ウォルターマジック・サムといった高名なミュージシャンたちと共演する機会に恵まれたが、その結果、白人の自分に本当のブルースを演奏するのは無理と痛感し、8ヶ月程度の滞在でアナーバーに戻った際には「自分のような若者に向けた音楽」をプレイしようと決心していた。

アナーバーに戻ったイギーは高校の1年後輩で友人だったロン・アシュトンを誘ってバンドを結成した。ロンの弟・スコット・アシュトンドラムスとし、ロンは最初はベースだったが途中でギタリストに転向して、代わりのベーシストとしてアシュトン兄弟の友人だったデイヴ・アレクサンダーを加入させた。

結成当初は準備期間ということもあって表立った音楽活動はしていなかったが、あるきっかけからバンド活動に本腰が入る。そのきっかけとしてイギーはニュージャージー州プリンストンのガールズ・ロックバンド、ジ・アンタッチャブルの演奏を聞いたことを挙げている。

俺たちはザ・ダーティ・シェイムズってバンドのコンセプトを持っていた時期があった。まあ、パーティで自慢するためだけのバンドだよ。「俺たちはザ・ダーティ・シェイムズってバンドを組んでるんだぜ。」って他のバンドマンに言って回っていた。まだ演奏なんかしちゃいなくて、ザ・ストゥージズだろうがザ・ダーティ・シェイムズだろうが似たようなもんだった。ちゃんとバンドとして活動しないとな、と決心したきっかけはニューヨークに旅行に行った後だ。そこでティーンエイジャーの女の子たちから「私たちもバンドを組んでる。聞いてみる?」と言われたんでニュージャージーのプリンストンまでクルマを飛ばして行ったんだ。彼女たちの実家の地下室で演奏を聞いたんだが、見事なものでね。俺たちよりもはるかに上手かった。あれは恥ずかしかった。

ザ・ストゥージズ: 1968–1974

詳細は「ザ・ストゥージズ#来歴」を参照

ザ・ストゥージズ: 1968–1971

イギーたちはバンド名をザ・サイケデリック・ストゥージズと決め、改めて活動を本格化させた。最初のギグは、ミシガン州デトロイトにある家のハロウィンパーティーで行われた。この時はまだイギーはリードヴォーカルを担当しておらず、インストゥルメンタルバンドとして演奏を披露した。しかし、フロントマンとしてのイギーは、後に自身を有名にすることになった観客を驚かせるようなパフォーマンスを既に意識的に行なっており、このギグでは奇抜な服装で登場し、居合わせた客たちを困惑させた。そのパーティにはMC5のメンバーも出席していた。
1968年3月、ザ・サイケデリック・ストゥージズは初めてギャラの出るギグに出演した。この時にイギーはステージダイブを披露し、歯を折った。

イギーは、観客を驚かせて困惑させる過激なステージパフォーマンスについて、後年、ジム・モリソンの影響下にあったと語っている。1967年ザ・ドアーズがミシガン大学で行なったギグを見ており、モリソンがステージで披露する悪ふざけや観客に向けた敵意に驚かされ、フロントマンとなった際の参考としたという。

ドアーズは2回見ている。最初に見たのは人気が出始めの頃だったが、大きな、大きな、大きな影響を受けた。ちょうど大ヒット曲ハートに火をつけてを出して出世の階段を駆け上っていくところで、だからこの男、カールした髪をオールバックにして革ジャンを着てドラッグに酔っていたモリソン、にしてみるとステージは狭過ぎたし低かった。全てがふさわしくない感じだった。本当に面白かった。彼のパフォーマンスが大好きだった。俺の一部は「おい、こいつはすごい。奴は本当に客を怒らせている。」と思っていた。「くそったれ、お前ら空っぽ空っぽ空っぽだ。」「マスでもかいてろ。」と罵倒するモリソンに向かって客が押し寄せていた。だが、一方、こうも思った「奴らがレコードをヒットさせたら、こんな騒ぎとはおさらばだろう。だったら、俺らがバンドでこいつをやらない手はない。」それは天啓だったな。「おい、これならできるぜ!」で、実際にそうした。

モリソンが人気バンドのフロントマンでありながら極端な振る舞いを見せていたため、イギーはそれを更に上回ることを意識した。徐々に過激化していったイギーのステージパフォーマンスは、割れたガラスの上を転がりまわったり、群衆を前にして局部を露出するところまでに至ることになる。

バンド活動を続けていく中、デトロイトロックシーンの中心的存在だったMC5と繋がりを持ち、様々なギグで共演を続けていくうちに、エレクトラ・レコードでザ・ドアーズのパブリシティを担当していたダニー・フィールズの目に留まり、1968年10月8日、MC5とともにエレクトラ・レコードとレコードリリース契約を締結することになった。その際、バンド名が長い、ということでザ・ストゥージズに改名している。

ダニー・フィールズがアンディ・ウォーホルとの人脈を持っていたこともあって、デビューアルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ』のプロデューサーにはヴェルヴェット・アンダーグラウンドを脱退したばかりのジョン・ケイルが起用された。レコーディング中にザ・ストゥージズはウォーホルのファクトリー (アンディ・ウォーホル)に出入りできることになり、イギーはニコと知り合うことになった。

1969年8月5日、デビュー・アルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ』がリリースされ、ビルボード総合チャートで最高位106位とローカルバンドとしてはまずまずのチャートアクションを記録したが、イギー及びスコット・アシュトンの薬物依存とデイヴ・アレクサンダーの過度の飲酒癖によって徐々にバンドは混乱状態に陥っていくことになる。

セカンドアルバム『ファン・ハウス』制作にあたり、インパクトのある楽器を追加したいというイギーの考えから、イギーの大学の後輩で、カーナル・キッチンというインストゥルメンタルユニットで活動していたサックス奏者のスティーヴ・マッケイをレコーディングに参加させた。

ドン・ガルッチがプロデューサーを務め、デビュー前に持っていたインストゥルメンタルバンドとしての側面と、デビュー後に見せたロックンロールバンドとしての側面を融合させたこのアルバムは1970年7月7日にリリースされ、著名な音楽評論家レスター・バングスクリーム (アメリカ合衆国の音楽雑誌) 誌上で絶賛されるが、チャートアクションはデビューアルバムを下回ってしまった。

ファン・ハウス』が商業的に失敗に終わった後、ザ・ストゥージズはツインギター体制とし、新たな展開を模索していたが、メンバーは短期間で入れ替わり、リーダーであるイギーが薬物入手のためにエレクトラから得た契約金にメンバーに無断で手をつけ、更にロン・アシュトンを除くメンバー全員も薬物依存だったため、やはり薬物入手のために機材を売り払うなど、コントロールを失っていった。

そんなバンドにエレクトラは見切りをつけ、イギーがメンバー(スコット・アシュトン、ジェームズ・ウィリアムソン)と同居していたマンションに担当者を派遣すると、次回作のために準備していた新曲を確認し、「出来が良くない」と告げて契約を解除した。これにより、ザ・ストゥージズは商業的に行き詰まってしまう。

加えて、イギーが薬物依存症治療のために施設に通い始め、当時の作曲パートナーでもあったジェームズ・ウィリアムソンも肝炎に罹患して療養生活に入るなど、メンバーが継続的に揃うことも難しくなったことから、1971年7月9日にザ・ストゥージズは解散を宣言した。

イギー&ザ・ストゥージズ: 1972–1974

ザ・ストゥージズ解散後の1971年9月、ダニー・フィールズからの紹介でイギーはデヴィッド・ボウイマクシズ・カンサス・シティで会い、彼の所属事務所メインマンに誘われた。イギーは誘いを受けて事務所と契約し、その結果、コロムビアから2枚のアルバムレコーディング契約を手に入れることになった。
1972年3月、イギーはデヴィッド・ボウイのマネージャーでありメインマンの社長だったトニー・デフリーズに連れられてロンドンに向かうと、バックバンドを探すように指示された。イギーはまず、ザ・ストゥージズ末期に作曲パートナーを務めていたジェームズ・ウィリアムソンをロンドンに呼び、2人でバックバンドを探し始めた。事務所は当初、ピンク・フェアリーズとのコラボレートを提案したが2人は断り、オーディションで新しいメンバーを探したものの、意に沿う人材が見つからず難航した。ロンドンに向かった当初のイギーは全く新しいバンドを組むつもりではいたものの、最終的にウィリアムソンの提案でロン・アシュトンがベーシストへ転向することを前提に、アシュトン兄弟を呼び寄せることにした。この提案をロン・アシュトンが受け入れたため、結果的にザ・ストゥージズが再結成することになるが、「イギーをメインに据えたい」という事務所の意向からバンドは「イギー&ザ・ストゥージズ」と名乗ることになり、実際にこのメンバーで製作されたアルバム『ロー・パワー』ではそのバンド名がクレジットされている。

1972年7月15日、再始動したイギー&ザ・ストゥージズはロンドンのキングスクロス地区にあるキングスクロス・シネマでお披露目ギグを行い、これを成功させた。ここで披露した曲はザ・ストゥージズ末期に書かれたものが中心だったが、事務所がこれを気に入らず、新たな曲を書くように要求して他の仕事を入れなかったため、バンドは2ヶ月ほど作曲とリハーサルに明け暮れることになった。 1972年9月10日に『ロー・パワー』のレコーディングが始まったが、予定されていたデヴィッド・ボウイのプロデュースをイギーが断ったことに加え、ボウイ自身も初の大規模なワールドツアーの最中で事務所もその対応に忙殺されており、レコーディングスタジオにはスタジオエンジニアがいた程度で事務所の関係者は同席しておらず、事実上の放置状態で制作が進められることになった。

十分にリハーサルされていたこともあってレコーディングは1ヶ月程度で終了したが、事務所は楽曲が気に入らないことに加えてミックスが稚拙なものだったことを問題視し、ボウイにリミックスを依頼するように指示するとともにメンバー全員をロサンゼルスに移動させた。メンバーはビバリーヒルズ・ホテルに滞在し、そこでボウイと会った。ツアースケジュールを1日だけ空けて出向いたボウイは、24トラック中3トラックしか使用されていない上、その3トラックも楽器ごとに分離録音されていないというマスターに手を焼き、ヴォーカルとギターを目立たせる一方で低音が目立たなくなる形に妥協することで仕上げた。ミックスダウン完了後、事務所はメンバーをビバリーヒルズからハリウッドに移動させた。
このような騒動を経て『ロー・パワー』は1973年2月にリリースされるが、キングスクロスのギグが当時の基準では過激なものだったことから事務所はバンドをツアーに出すことに消極的で、加えてアルバムの内容も気に入らなかったことから、ツアーやプロモーション活動を企画することなくバンドをハリウッドに放置した。
結果的に『ロー・パワー』はプロモーションがほとんど行われないことになり、『ファン・ハウス』に続いて商業的に失敗した。

放置状態に苛立ちを募らせていたイギーだったが、ある日、イギーが滞在していたホテルにデフリーズが訪れ、ミュージカル「ピーターパン」への出演を提案した。見当違いとも言える仕事の提案にイギーは激怒して断り、これがきっかけとなって、それまでも意向を無視した彼らの行動に手を焼いていた事務所は1973年5月頃にザ・ストゥージズを解雇した。

事務所は解雇されたが、コロムビア社長のクライヴ・デイヴィスと副社長のスティーヴ・ハリスは彼らを見捨てておらず、ハリスは新たにマネージャーとなったジェフ・ウォルドに『ロー・パワー』のプロモーションツアーを提案した。ウォルドはこの提案を受け入れ、1973年7月30日に「Iggy at Max's at Midnight」と銘打たれたマクシズ・カンサス・シティの公演を皮切りにプロモーションツアーを開始した。
このツアーでイギーのステージングはこれまでになく自傷的で過激なものとなった。マクシズ・カンサス・シティでは割れたガラスで怪我をするとその傷口から出る血を観客に振りまき、ミシガン州のライブでは観客に食べかけのスイカを投げつけ、ステージ上で嘔吐した。

しかし、新たなマネージャーが計画するツアー日程は著しく非効率なものでバンドを消耗させ、かつ経済的にも十分に満たされないなど体力面、経済面の双方で厳しい状況が続いた。

1973年末、クライブ・デイヴィスがコロムビアの社長を解任され、庇護者がいなくなったザ・ストゥージズは2枚目のアルバムをリリースすることなく1974年初頭に契約を解除された。これにより、ザ・ストゥージズは商業的な先行きが不透明になってしまう。

1974年2月、ミシガン州デトロイト近郊で小規模なギグを行なったザ・ストゥージズはそこでスコーピオンズという暴走族と暴力沙汰を起こし、更に翌日、プロモーションのために出演したラジオ番組で、イギーがデトロイトのミシガン・パレスでギグを行うから来いと暴走族を挑発したところ、スコーピオンズのメンバーを名乗る人物から殺害予告の電話が入った。当日のギグはこの一件でナーバスになったイギーがステージ上から観客を挑発、罵倒し続けたために様々なものがステージに投げつけられるという大変な状況に陥り、結果、それまでのツアーで疲弊していたバンドは、この騒動が引き金となってイギーの提案で解散することになった。

デヴィッド・ボウイとのベルリン時代: 1976-1978

ミネアポリス州立劇場 1977年10月25日

ザ・ストゥージズを解散したイギーはウィリアムソンとともにロサンゼルスに向かい、数回のギグを開催するなど音楽活動の継続を模索した。加えて薬物依存がコントロールできない自身に危機感を抱き、自ら治療施設(UCLA神経精神医学研究所)に入った。そんな中でウィリアムソンがイギーと自身の音楽キャリア継続のため、ザ・ストゥージズ末期に出来上がっていた楽曲を含む新アルバムの制作を構想し、自宅のカセットレコーダーに曲を録音し始めた。これは後にデモテープ制作に発展し、イギーも治療施設から外出許可が下りた際はレコーディングに参加した。制作されたデモテープにはどのレーベルも興味を示さず、この時点ではリリースすることができなかったが、後に『キル・シティ』と名付けられ、1977年に発売される。

この頃、しばらく疎遠になっていたイギーとボウイの親交が復活し、『ステイション・トゥ・ステイション』のレコーディング現場に顔を出すなど、改めて交流が始まった。ボウイは治療施設への訪問やコラボレーションの試行など、ロサンゼルスで散発的にイギーの面倒を見ていたが、やがて自身のツアー(アイソーラー・ツアー)にイギーを同行させることを決めた。イギーは後に、このツアーに同行することでプロフェッショナルなミュージシャンとはどのように周囲と協業していくものなのかを学んだと語っている。

1976年6月、ツアーが終了すると、イギーとボウイはフランスポントワーズにあるエルヴィル城に滞在してボウイプロデュースの下、本格的なコラボレーションを開始する。このスタジオでのレコーディングにはドラムにミシェル・サンタンゲリ、ベースに元マグマローラン・ティボーが参加しているが、ボウイが演奏したバックトラックが多く採用されている。その後、ボウイとイギーは西ベルリンに移ってマンションで共同生活を始め、薬物依存の治療を受けつつ、コラボレーションを継続した。

イギーは当時ボウイが所属していたレコード会社RCAレコードと3枚のレコードリリース契約を結び、1977年3月、コラボレーションの成果として初のソロアルバム『イディオット』をリリースした。このアルバムは商業的に成功し、その後に行なった短期間のソロツアーも成功したことでまとまった収入を得たイギーは、西ベルリンでマンションを借りて恋人のエスター・フリードマンとの同棲を開始し、ボウイとの共同生活を終了した。

1977年8月、再びボウイプロデュースの下で、『キル・シティ』にも参加していたセイルズ兄弟(トニー・セイルズハント・セイルズ)をバックバンドに採用した『ラスト・フォー・ライフ』を発表する。このアルバムはイギリスでは『イディオット』を上回るチャートアクションを見せたが、アメリカでは発売のタイミングがエルヴィス・プレスリーの死去と重なっため、エルヴィスのバックカタログを大量に保有するRCAレコードはほどんどが廃盤になっていた旧譜再発に注力することになり、『ラスト・フォー・ライフ』のプロモーションには労力を割かなくなったため、商業的に失敗した。この扱いに対してRCAレコードに不信感を持ったイギーは、『ラスト・フォー・ライフ』のツアーを終えると契約を消化するためにライブアルバム『TV Eye:1977 ライヴ』を1978年4月にリリースし、そのままRCAレコードを離れ、ボウイの下からも立ち去った。

ソニックス・ランデヴー・バンド: 1978

TV Eye:1977 ライヴ』リリース前の1978年初頭、イギーはスコット・サーストンを除くそれまでのバンドメンバーを解雇した。これはソニックス・ランデヴー・バンドをバックバンドに据えるための措置だった。

1977年の『ラスト・フォー・ライフ』ツアー中、デトロイトに里帰りしたイギーは旧友のスコット・アシュトンが参加していたバンド、ソニックス・ランデヴー・バンドとジャムセッションを行っていた。このセッションに満足したイギーは、デトロイト・ロックシーンの中心的な存在(元MC5のフレッド・“ソニック”・スミス、元レイショナルズスコット・モーガン、元ジ・アップのゲイリー・ラスムッセン)が集まっていたこのバンドで、デヴィッド・ボウイとコラボレーションした2作とは毛色の異なるギターロックを志向した演奏をしたいと考え、彼らへ『TV Eye ライヴ』ツアーへの参加を打診した。バンドメンバーのうち、スコット・モーガンは参加を断ったが、他のメンバーは承諾したため、サウスロンドンのバタシーにあるスタジオでリハーサルを開始した。しかし、最終的にアルバム制作まで考えていたイギーに対し、バンドの中心的メンバーのフレッド・スミスが「メンバー全員が参加して一から作曲をするのでなければ意味がない」と主張して、単なるバックバンドとして扱われるレコーディングには難色を示した。
TV Eye ライヴ』ツアー自体は1978年5月から無事に開始されたが、この溝は最後まで埋まらず、加えてフレッド・スミスがパティ・スミスとの交際を開始したため、長期に渡ってアメリカを離れることに消極的となり、更にバンド初のシングル「シティ・スラング」がアメリカで発売されることもあって、イギーとバンドはスタジオレコーディングをすることなく、1ヶ月程度で袂を分かった。

アリスタ時代: 1979-1981

ソニックス・ランデヴー・バンドとのコラボレーション終了後、イギーはまだ自宅のあった西ベルリンに戻って休養と新曲の製作に充てた。その間、新たにマネージャーとなったピーター・デイヴィスがアリスタと交渉し、3枚のアルバム製作契約をまとめた。A&R部門の統括者ベン・エドモンズがイギーを評価していたために実現した契約だったが、当時のアリスタ社長、クライヴ・デイヴィスはコロムビア時代にストゥージズを庇護したにも関わらず、その期待に応えてもらえなかったことを覚えており、イギーの作品のアメリカにおける商業価値に懐疑的で、アルバムのアメリカ発売を確約しなかった。

ニュー・ヴァリューズ

イギリス・カーディフ・学生会館 1979年5月9日

キル・シティ』は1974年時点ではそのデモテープに全てのレーベルが価値を認めなかったが、『イディオット』と『ラスト・フォー・ライフ』の商業的成功にあやかる形で1977年11月に発売されると、高評価と好調なセールスを記録した。
この評価を見てイギーは新作のプロデューサー兼ギタリストとしてジェームズ・ウィリアムソンを希望した。
ピーター・デイヴィスは元々ウィリアムソンのプロデュース能力に懐疑的で、ベン・エドモンズもデモテープを無視した人物の1人だったが、2人ともイギー同様にこの高評価を見て考えを変え、ウィリアムソンを招くことに同意した。
ソニックス・ランデヴー・バンドをバックバンドにすることに失敗したイギーは、レコーディングの開始までにバンドメンバーを揃える必要があったが、イギーの休養中に短期間アイク&ティナ・ターナーのバックバンドを務めていたスコット・サーストンが、そのバックバンド、アイク&ティナ・ターナー・レヴューからジャッキー・クラークを呼んでくることに成功した。ジャッキー・クラークは本来ギタリストだったがベースも弾けたため、彼をベーシストとした。
ギターはウィリアムソンに担当させる予定だったが、長らくギターを弾いていなかったウィリアムソンは乗り気でなく、サーストンがほぼ全編にわたって担当することになった。ドラマーはイギーと西ベルリンで知り合った元タンジェリン・ドリームのクラウス・クリューガーを起用した。
レコーディング場所は、イギー自身はヨーロッパを希望したが、予算の関係からロサンゼルスのパラマウント・スタジオで行われることになった。マネージャーのピーター・デイヴィスはイギーのためにコカインを用意するような人物だったため、イギーは再度、薬物に依存する生活を送ることになったが、サーストンとウィリアムソンが仕切ったレコーディングは順調に進み、新作『ニュー・ヴァリューズ』は1979年4月にリリースされた。
ニュー・ヴァリューズ』は音楽メディアに高く評価されてラジオのオンエアも好調で、順調な状況のままイギーはヨーロッパツアーを開始する。
このツアーにウィリアムソンは同行せず、サーストンはツアーでは基本的にキーボード専任だったため、イギーはベーシストとしてレコーディングに参加したジャッキー・クラークを本来のポジションであるギタリストに戻し、新たに元セックス・ピストルズのベーシスト、グレン・マトロックに参加を打診した。自身のバンド、リッチ・キッズが活動を停止したばかりのマトロックは要請を受け入れてツアーに参加した。

ソルジャー

評価は高かった『ニュー・ヴァリューズ』だが、チャートアクションは『イディオット』『ラスト・フォー・ライフ』といった前2作を下回ってしまう。
チャートアクションを見たアリスタは、ツアー中のイギーに次作の準備をするように要請すると共にウェールズのロックフィールド・スタジオを確保した。そのため、イギーは1979年6月のツアー終了後、休むことなくレコーディングに取り掛かることになった。
ツアー中、イギーは優れたソングライターでもあったマトロックを新たな作曲パートナーに据えることを構想し、作曲に参加させることにした。この動きを見たそれまでの作曲パートナー兼バンドマスターのスコット・サーストンは自身の解雇を予想していたが、実際に次作のレコーディングには参加させないということをイギーから告げられると、ツアー終了後にジャッキー・クラークを連れてバックバンドから離脱してしまった。
ギタリストとキーボードを一度に失ったイギーは、また新たにバンドメンバーを集める必要があったが、その前にプロデューサーとして再びジェームズ・ウィリアムソンを確保した。前回と異なり、国外に出向かねばならない上に旧友のサーストンもおらず、そのうえメンバーも確定してない、という状況下のレコーディングに乗り気ではなかったウィリアムソンだが、当時、大学に在学中で学費の捻出に迫られていたため、同意する。
レコーディング前のリハーサル時点ではウィリアムソンがギターを担当していたが、「自分の考えるレベルに達していない」とウィリアムソン自身が申し出たため、結局、マトロックがリッチ・キッズの同僚だったスティーヴ・ニューを呼び出して解決した。キーボードは元XTCで、当時は特に音楽活動をしていなかったバリー・アンドリュースを起用した。
しかし、成り行き上バンドマスターを任されたマトロックはバンドマネジメントに慣れていなかったことからバンドを仕切ることに失敗し、昼間からメンバーが飲酒するような状況に陥った。イギー自身は作詞に追われてバンドメンバーの面倒を見る暇がなかったため、ウィリアムソンが現場を仕切ることになったものの、規律の乱れたメンバーに対してオーヴァーダビング用として延々と同じパートのリプレイを求めたうえに、メンバーから出されたレコーディングのアイデアも、まとまっていない段階であれば時間もないことから容赦なく却下するという態度を見せたため、スタジオの雰囲気は悪かった。
雰囲気に加え、予算と完成期日の超過も懸念され始めたため、この状況を見たアリスタのスタッフは、状況打開のためにデヴィッド・ボウイとパティ・スミス・グループのアイヴァン・クラールを呼び出した。
ボウイは「プレイ・イット・セーフ」のコーラス参加という名目で一晩だけの参加に合意したが、雰囲気を改善するために呼ばれたという自身の役割を分かっており、卑猥な冗談とマーガレット王妃に関する不敬な冗談をそれぞれ語って場を盛り上げた。その雰囲気に乗ったイギーはその冗談を応用した歌詞を即興で作

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出典:wikipedia
2020/07/12 17:54

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