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イタリアとは?

イタリア共和国
Repubblica Italiana



(国旗) | (国章)
国の標語:なし
国歌:
マメーリの賛歌
公用語
イタリア語
首都
ローマ
【最大の都市】
ローマ
政府
共和国大統領
セルジョ・マッタレッラ
閣僚評議会議長(首相) ジュゼッペ・コンテ
面積
【総計】
301,230km(69位)
【水面積率】
2.4%
人口
【総計(2008年)】
59,870,000人(23位)
人口密度
xxx人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2008年)】
1兆5,722億ユーロ (€)
GDP (MER)
【合計(2008年)】
2兆3,138億ドル(7位)
GDP (PPP)
【合計(2008年)】
1兆8,145億ドル(10位)
【1人あたり】
30,580ドル
成立
イタリア統一運動
1861年3月14日
ローマ遷都 1871年7月2日
ファシスト政権成立 1922年10月22日
共和制移行
1946年6月2日

通貨
ユーロ (€) (EUR)
時間帯
UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1
IT / ITA
ccTLD
.it
国際電話番号
39
  1. ^ 南ティロルではドイツ語ラディン語フリウリ=ヴェネツィア・ジュリアではスロヴェニア語ヴァッレ・ダオスタではフランス語
  2. ^ IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧 ([1])
  3. ^ 1999年以前の通貨はイタリア・リラ
  4. ^ イタリアのユーロ硬貨も参照。

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA: [iˈtaːlja] ( 音声ファイル), イタリア語: Repubblica Italiana)、通称イタリア南ヨーロッパにおける単一国家議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。人口は約63,000,000人でヨーロッパ第5位である。

目次

  • 1 概要
    • 1.1 中世のイタリア
    • 1.2 近現代史
  • 2 国名
  • 3 歴史
    • 3.1 南部問題の起源
    • 3.2 ローマの高楊枝
    • 3.3 資本主義の故郷
    • 3.4 西方問題
    • 3.5 イタリア再分割
    • 3.6 トリコロールを掲げて
    • 3.7 普仏戦争という転機
    • 3.8 金融スキャンダル先進国
      • 3.8.1 敗戦まで
      • 3.8.2 民主化の限界
      • 3.8.3 すべての道は
  • 4 政治
    • 4.1 行政
    • 4.2 立法
      • 4.2.1 憲法改革案を否決
      • 4.2.2 緊急財政法案可決
    • 4.3 司法
  • 5 警察
  • 6 情報機関
  • 7 軍事
    • 7.1 陸軍
    • 7.2 海軍
    • 7.3 空軍
    • 7.4 カラビニエリ
  • 8 地方行政区分
    • 8.1 主要都市
  • 9 地理
  • 10 経済
    • 10.1 戦後の経済史
    • 10.2 貿易とエネルギー
    • 10.3 南北格差
    • 10.4 花形産業
    • 10.5 マフィア
  • 11 交通
    • 11.1 道路
    • 11.2 鉄道
    • 11.3 海運
    • 11.4 空運
  • 12 国民
    • 12.1 主要民族
      • 12.1.1 少数民族・難民
    • 12.2 言語
      • 12.2.1 方言・地方言語
      • 12.2.2 外国語
    • 12.3 宗教
    • 12.4 保健
  • 13 文化
    • 13.1 食文化
    • 13.2 文学
    • 13.3 哲学
    • 13.4 音楽
    • 13.5 美術
    • 13.6 映画
    • 13.7 イタリアに関する芸術作品
    • 13.8 世界遺産
    • 13.9 結婚
    • 13.10 祝祭日
  • 14 スポーツ
    • 14.1 サッカー
    • 14.2 バスケットボール
    • 14.3 モータースポーツ
    • 14.4 登山
    • 14.5 野球
    • 14.6 競馬
  • 15 脚注
    • 15.1 脚注
    • 15.2 出典
  • 16 参考文献
  • 17 関連項目
  • 18 外部リンク

概要

イタリアは文化・経済ともに先進国であり、ユーロ圏では第3位、世界では第8位の経済大国である。 西に港へ適したリグリア海、東には大陸棚が海の幸をもたらすアドリア海がある。南にはティレニア海がある。以下の二小節はイタリア史の一部であり、要約ではない。古代と近世、19世紀前半、戦間期の財政、および第二次世界大戦後は後述(#歴史)。

中世のイタリア

ギリシア時代から都市国家が成立。なお、伝説では紀元前753年にローマ建国 エトルリア人も12の都市国家による都市連合の王政を築いていた。伝承によれば、紀元前509年にローマ人パトリキ(貴族)がエトルリア人の王を追放し共和制を開始した。サムニウム戦争(紀元前343年 - 紀元前290年)などにより紀元前272年にイタリア半島を制圧。フェニキア人の植民国家カルタゴとの戦争(ポエニ戦争)(紀元前264年 - 紀元前146年)によりシチリア島を獲得。地中海の覇権を握る。その後もイタリアはローマ帝国の中心地域として栄えたが、286年ディオクレティアヌスが帝国の統治機構及び皇帝位を東西に分割すると、イタリアは西の皇帝権(西方正帝)の管轄となった。5世紀末に西方正帝が廃止されるとローマ皇帝ゼノンによってオドアケルがローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任命され、これが国号としてのイタリアの走りとなった。

オドアケルが493年東ローマ帝国に滅ぼされた後はローマ皇帝アナスタシウス1世によりテオドリックイタリア王位が授けられて東ゴート王国が設立されたが、その東ゴート王国も東ローマ帝国によって滅ぼされ、553年にイタリアは80年ぶりのローマ皇帝領となった。しかし、帝国にとってもはやイタリアは1属州に過ぎず、さらにランゴバルド人の侵入により、ローマのイタリアに対する支配力は大きく低下した。なお、イタリアに常駐した最後のローマ皇帝は7世紀のコンスタンス2世である。彼は南イタリアとアフリカを中心に帝国を再編成しようと意図したが、失敗に終わった。8世紀には、東ローマ帝国の勢力はイタリア半島の南端部にまで後退した。その後は南端部の東ローマ帝国、シチリア島のイスラム教徒、ローマを中心としたローマ教皇領、北部には神聖ローマ皇帝といった勢力が割拠した。この他多数の都市国家が発展、11世紀になると東ローマに代わりノルマン人が侵入した。これらの中にはイタリアの統一を試みる者もいたが、ローマ教皇庁の思惑もあって分裂状態が続く。

近現代史

18世紀末にイタリアに侵攻したフランスのナポレオン・ボナパルトは全イタリアを手中に納めたが、1815年に、ナポレオンが失脚するとヴェネツィアジェノヴァの共和国を除きほぼ元の分裂状態に戻った。

1861年2月に、ジュゼッペ・ガリバルディらの戦果を継承したサルデーニャヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が統一し、1861年3月17日イタリア王国を樹立した。王名が新生イタリアで1世に戻らないのは、ガリバルディらがナショナリズムを掲げたにもかかわらず、統一イタリアはサルデーニャ王国の版図そのものということにされたからである。1866年8月25日、不平等条約である日伊修好通商条約を締結し日本と国交を樹立した。1873年には岩倉使節団がイタリアのフィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアを歴訪しており、当時の様子が「米欧回覧実記」に一部イラスト付きで詳しく記されている。

1922年には、ファシスト党ベニート・ムッソリーニ首相となる。その後ムッソリーニは権力の集中を進め、1929年にはローマ教皇庁との間にラテラノ条約を結び、関係を修復する。ムッソリーニ首相とヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王の指導の下、政治経済の回復に成功し各国からの称賛を得たものの、その後1935年にはエチオピアを再度植民地化すべく第二次エチオピア戦争によりエチオピアへ侵攻するなど拡張政策を取る。さらに1937年には日本ドイツと共に日独伊防共協定を結び、1939年9月に勃発した第二次世界大戦には、1940年6月に参戦し同年9月には日独伊三国同盟を締結、1941年12月にはドイツと共に対米宣戦布告を行った。1943年後半には敗色が濃い中ムッソリーニが失脚し連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権であるサロ政権が北イタリアを支配する状況になる。しかし、1945年5月8日にドイツが敗北したことにより同政権は崩壊した。王位惜しさにムッソリーニの独裁を後押ししたかたちのサヴォイア王家は国民の信頼を失いつつあった。伝統的に王国時代が長い南イタリアでは王室への強固な支持があったものの、都市国家の伝統ある北部は王家を信任せず、また王室の強い支持基盤であったカトリック教会が国民投票で中立を宣言したこともあり、大戦終結後の1946年6月2日に行なわれた共和制への移行を問う国民投票では賛成54%の僅差で王政廃止が決定されウンベルト2世は廃位、サヴォイア家による君主制は廃止され、現在のイタリア共和国が成立した。1948年に、初代大統領エンリコ・デ・ニコラが就任。その後の冷戦では、社会主義勢力の影響を受けながらも、アメリカ合衆国西ドイツなどとともに西側諸国の1国として東側諸国と対峙した。主要国首脳会議の参加国であり、現在も政治や経済だけでなく、文化的な側面においても世界的に重要な位置を占める。

国名

正式名称は、Repubblica Italiana (イタリア語: レプッブリカ・イタリアーナ)。通称は、Italia [iˈt̪aː.l̺i̯a] ( 音声ファイル)(イターリア)。

公式の英語表記は、Italian Republic(イタリャン・リパブリク)。通称は、Italy [ˈɪtəli] ( 音声ファイル)(イタリ)。

日本語の表記は、イタリア共和国。通称はイタリアであるが、イタリヤと表記されることもある。古くはイタリーとも表記された(発音は英語のItaly、フランス語のItalieに近い)。また、漢字による当て字で、伊太利亜、伊太利、以太利などと表記することもあり、伊と略されることもある。

イタリアという単語は元々、半島の南端部の狭い地域の名だったということである。由来についての有力な説は、古ラテン語vitulus (ウィトゥルス、雄の子牛)から転じたという説である。また、古代ローマの歴史家・ハリカルナッソスのディオニュシオスによれば、ギリシャ人が現在のカラブリアに上陸した時、初めて接触した民族がイタロス人(Ἰταλός)だったため、その地域が「イタリア」と呼ばれるようになったという。この伝説についてはアリストテレストゥキディデスも言及している。

歴史

詳細は「イタリアの歴史」を参照

南部問題の起源

古典古代から、現在のイタリアに相当する地域には、エトルリア人マグナ・グラエキア人及びその他文化が栄えた。それらは最終的に古代ローマが併合した。紀元前4-2世紀にローマはケルト人フェニキア人ギリシア人と争い、地中海の覇権を手にした。これによって栄えたラティフンディウムは皇帝などに所有され、イタリアで自由民を使うウィラと混ざってイギリス的な囲い込みが進み、やがてラティフォンドと少し名を変えた。それは近代に論じられた「南部問題」の一つとなり、戦後憲法で貴族を追放する根拠の一つとなった。ユリウス・カエサルが、エジプト内乱へ介入してから帰還すると、無産貧民や退役兵をカンパニアへ大量植民した。イタリア南部はコリントスに等しい植民地だったのである。ヘレニズムの流れを持ったアンティゴノス朝セレウコス朝を滅ぼしたローマであったが、植民しなければ立ち行かないほど疲弊したイタリアに社会政策を打ち出した。その一つとしてアウグストゥスが属州産小麦を毎年イタリアに供給する官職を設けたが、そういう生産調整まで担える制度が「南部問題」の一つである製粉税のルーツとなってしまう。フラウィウス朝の現金なリストラにより富裕な属州人が元老院議員となった。パンとサーカスの時代にトラヤヌス帝が古いフォルムの外に図書館や記念碑、弓形の国際市場を建設した。そしてイタリアのラティフンディウムを担保にとって育英制度の融資を営んだ。元老院議員資格としてイタリアに土地を保有することを定め、トラヤヌスは顧客をしっかり確保した。彼のころイタリアは地中海物流の結節点、あるいは巨大な税関となった。オリーブとワインがスペインと競争するようになり、アナトリアからレバント由来の羊毛オークキリスト教が輸入された。

ローマの高楊枝

消費地でしかない性格をみかねたセプティミウス・セウェルスが、政策でイタリアを属州同然にあつかい400年近く続いていたイタリア住民所有地の免税特権を剥奪した。セウェルス朝は強権体制に拘って金繰りの厳しさを味わった。民族移動時代にローマは外敵と内紛と戦後処理に苦しんだ(3世紀の危機)。イタリアに関しては荒廃をさほど強調できないとする説が近年有力である。軍人皇帝の頻繁な交代をよそに、ヘレニズム的な法制・徴税・通貨発行は機能を損なうことがなかった。ヘレニズム的な皇帝権の分散が終わると、税負担が貴族と教会を除いて重くなりつづけた。そのため都市参事会層は転落するか、または皇帝権力に庇護されて高官となった。ユスティニアヌス1世東ゴート王国と争った535年から552年の間、イタリアは荒廃しローマが廃墟となることもあった。そして568年、イタリアはランゴバルド王国が支配するところとなった。ランゴバルドはローマ=ラヴェンナ枢軸地帯へ侵入した。この危機を脱するためローマ教皇は、756年ピピンの寄進を受けた。こうして枢軸地帯を寄進された教皇庁と南イタリアを領有する東ローマ帝国が鋭く対立することになった。

一方で843年ヴェルダン条約が、870年メルセン条約が結ばれ、北イタリアは旧中フランクとして近代にわたり東西から侵略されることが運命づけられた。そして962年、イタリア政策の犠牲となった。

資本主義の故郷

西暦1000年のイタリアは次の各国に支配された。元中フランク王国であったイタリア王国コルシカ島をふくむ北半分のほぼ全域を統べたが、ヴェネツィア共和国は自治を守った。ラツィオ州辺りに教皇領が残った。教皇領とイタリア王国の南で、ナポリイタリアの都市国家を囲むように、カプア公国・ベネヴェント公国・サレルノ公国が割拠した。イタリア半島の「くるぶし」から下が東ローマ帝国領で、アッバース朝シチリア島を占拠した。1004年、イヴレーア辺境伯アルドゥイーノ・ディヴレーアに敵対するイタリア諸侯の要請で、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世が遠征してきて、イタリア王に即位したが住民の反乱に遭って帰国した。1014年ローマで戴冠し、アルドゥイーノ派諸侯に反抗された。1022年カプア公国とサレルノ公国を占領した。ノルマン人による南イタリア征服の間、ノルマンディー公国の住民が南部へ入植していった。ノルマン人は東西教会の分裂において教皇と連携した。1093年、教皇ウルバヌス2世はノルマン人の支援を受け対立教皇を追放した。

現代の資本主義は中世イタリアを起源とする。イタリア商人はイタリアでロンバルディア同盟を組み、1176年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世を大敗させた。ロンバルディアは、後にサルデーニャ王国にとり垂涎の土地となる。皇帝は1161年からシチリア王国の反乱軍を支援していたが、大敗が1186年イタリア政策を転換し、息子のハインリヒ6世コスタンツァを結婚させた。イタリア商人はシャンパーニュの大市を例とする国際市場でも活躍した。すると教皇の要請もあってシチリア王国へフランス勢力の逆輸入がおこった。ここでバルセロナ商人がペドロ3世のシチリア王位獲得計画を支援し、また東ローマのアンドロニコス2世パレオロゴスがペドロと同盟した。ペデロ側についたジェノヴァ共和国クリミア半島南部までも領土に獲得していた。1282年シチリア晩祷戦争がおこり、断続的に90年間も続いてシチリア王国の版図を分断した。この戦争ではクロスボウが威力を示し、欧州の軍政を変革させるきっかけとなった。なお、ジェノヴァに圧迫されたヴェネツィアからマルコ・ポーロが新天地を求め東方見聞に出かけた。

西方問題

14世紀、連続するアヴィニョン捕囚教会大分裂がイタリア政策を国際化した。いうなれば西方問題となった。

イタリアはルネサンス期に多くの学者・芸術家・博学者を生み出し、文化を繁栄させた。15世紀に本格化し、レオナルド・ダ・ヴィンチガリレオミケランジェロマキャヴェッリが世に出た。コロンブスヴェスプッチヴェラッツァーノのような探検家は、極東及び新世界への新航路を発見し、ヨーロッパの大航海時代における先導に一役買った。

旧イタリア王国(北イタリア)は15世紀中葉の時点で多くの国家に分裂していた。既にふれたジェノヴァとヴェネツィアだけでなく、比較的大きなサヴォイア公国ミラノ公国フィレンツェ共和国シエーナ共和国や、ウルビーノを例とする幾つかの公領とモンフェッラートを例とする幾つかの侯国ができていた。1454年ローディの和がイタリアの大同団結を実現させ、またカピチュレーションの草分けとなった。しかしメディチ家独裁体制が崩壊すると、スペイン帝国が興隆したところへイタリア戦争が起こり、ジェノヴァがついにクリミア半島から撤退した。1494年から翌年にかけて、ボルジア家の教皇アレクサンデル6世がフランスのシャルル8世にさまざまな譲歩を強いられた。1505年フランチェスコ・デ・タシス1世郵便事業を開拓した。

1527年、神聖ローマ皇帝カール5世がローマを略奪、メディチ家をフィレンツェから追放したうえ、教皇クレメンス7世を監禁した。1529年、カールは第一次ウィーン包囲を目前に教皇と和し、ナポリ王国をわがものとする代わりにメディチ家の復帰を約束した。翌年にかけてカールはボローニャへイタリア諸国の代表者を集めて領土問題に決定をくだしてゆき、最終的に1559年カトー・カンブレジ条約でイタリアに対する自己の覇権を認めさせた。その4年前、カールは息子のフェリペ2世にミラノ公国を譲っていた。イタリア政策の要衝であったミラノがスペイン王に帰属したのは宗教改革への対抗であった。北側ミラノ・ヴェネツィアと南側フィレンツェ(トスカーナ大公国)の間に、パルマ公国モデナ公国マントヴァ公国フェラーラ公国サンマリノ共和国ができていた。ミラノは北でスイスに接した。ジェノヴァとフィレンツェはスペイン国債を大量に引受けた。

イタリア再分割

ユグノー戦争をきっかけにユグノー資本と競争となり、17世紀の経済面でイタリアはスペインと凋落をともにした。三十年戦争の1620年、ミラノはスイスグラウビュンデン州を支援しプロテスタントを虐殺した。ヴェネツィアとサヴォイアが新教徒側へついた。1625年、彼らはスペインの軍事輸送を中継するジェノヴァを攻撃した。1627年、スペインがデフォルトし、ミラノがサヴォイアと協定した。以後、ジェノヴァは債権者の地位をコンベルソにゆずった。1635年、フランスピネローロを足場に、サヴォイア・マントヴァ・パルマと結んでミラノ包囲網を組んだ。1647年、ナポリでマサニエッロの叛乱が起こり、翌年スペインが鎮圧した。教皇領は1598年フェラーラを吸収していたが、1631年ウルバヌス8世ウルビーノ公国を編入したので、アドリア海へのアクセスを拡充した一円地となった。1641年からトスカーナとの国境にある穀物山地の公国を占領、8年後に再出兵し併合した(Wars of Castro)。仏蘭戦争をきっかけにフランスがユグノー排斥を再開し、これにともなう財政逼迫により現在の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/06/18 17:07

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