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イラク戦争とは?

【イラク戦争】


フセイン家長男ウダイ・サッダーム・フセイン、次男クサイ・サッダーム・フセインの潜伏する拠点を強襲する第20合同任務部隊デルタフォースと、米第101空挺師団第327歩兵連隊第3大隊(上部)
北部イラクで小火器を構える民兵、民兵によるMANPADS対空攻撃、倒されるサッダーム・フセイン大統領銅像(下段)。
【時】
2003年3月20日 (2003-03-20) – 2011年12月15日 (2011-12-15)
(8年8ヵ月3週4日)
【場所】
イラク
【結果】


【衝突した勢力】

軍事介入時(2003年)

 | 

軍事介入時(2003年)
イラク


占領統治(2003年–2011年)
イラク

イラク領クルド

イラク多国籍軍参加国

 | 
【指揮官】

イヤード・アッラーウィー
イブラーヒーム・アル=ジャアファリー
ヌーリー・マーリキー
リチャード・サンチェス
ジョージ・W・ケイシー・ジュニア
デヴィッド・ペトレイアス
レイモンド・T・オディエルノ
ロイド・オースティン
ジョージ・W・ブッシュ
バラク・オバマ
トニー・ブレア
ゴードン・ブラウン
デーヴィッド・キャメロン
ジョン・ハワード
ケビン・ラッド
アレクサンデル・クファシニェフスキ

レフ・カチンスキ | 

旧政権勢力
サッダーム・フセイン (捕虜)
クサイ・サッダーム・フセイン
ウダイ・サッダーム・フセイン
イッザト・イブラーヒーム

スンニ派民兵組織
ウマル・アル=バグダーディー
ムスアブ・アッ=ザルカーウィー
アイユーブ・アル=マスリー
スレイマン・アル=ナーセル
アブ・ドゥア
イスマーイール・ジュブーリー
アブドゥル・アル=シャフィッイ (捕虜)

シーア派民兵組織
ムクタダー・アル=サドル

アブ・ダルア
【戦力】

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【被害者数】

 | 

民間死亡者数
イラクボディカウントによる調査(2003年から2011年12月14日まで)によれば、イラク市民の紛争による死亡数は10万3160名–11万3728名とされ、これに12,438名を新たに加えている。
ランセット (2003年3月 - 2006年7月): 60万1027名 (95% 信頼区間: 42万6369名–79万3663名)
AP通信 (2003年3月 - 2009年4月): 11万600名
イラク家庭健康調査 (2003年3月 - 2006年7月): 15万1000名 (95% 信頼区間: 10万4000名–22万3000名)

PLOS Medicine掲載論文(2013年10月掲載):約50万名

イラク戦争(いらくせんそう)とは、アメリカ合衆国が主体となり2003年3月20日から、イギリスオーストラリアと、工兵部隊を派遣したポーランド等が加わる有志連合によって、イラク武装解除問題大量破壊兵器保持における進展義務違反を理由とする『イラクの自由作戦』の名の下に、イラクへ侵攻したことで始まった軍事介入である。(第二次湾岸戦争とも)

正規軍同士の戦闘は2003年中に終了し、同年5月にジョージ・W・ブッシュにより「大規模戦闘終結宣言」が出たが、アメリカが指摘した大量破壊兵器の発見に至らず、さらにイラク国内の治安悪化が問題となり、戦闘は続行した。2010年8月31日バラク・オバマにより改めて「戦闘終結宣言」と『イラクの自由作戦』の終了が宣言され、翌日から米軍撤退後のイラク単独での治安維持に向けた『新しい夜明け作戦』が始まった。

そして2011年12月14日、米軍の完全撤収によってバラク・オバマが、イラク戦争の終結を正式に宣言した。

目次

  • 1 戦争の名称
  • 2 前史
  • 3 開戦までの経緯
    • 3.1 2001年
    • 3.2 2002年
    • 3.3 2003年
  • 4 公式発表による開戦理由
    • 4.1 亡命イラク人による情報捏造疑惑
    • 4.2 ブッシュ政権の戦争計画・情報操作疑惑
    • 4.3 ブッシュ大統領の開戦前後の演説
  • 5 政府の公式発表以外の開戦理由の仮説
  • 6 イラク側の思惑
  • 7 開戦反対国や国連のイラクでの利害
  • 8 各国での反応
    • 8.1 日本の債権放棄
    • 8.2 日本の報道対応
  • 9 戦術
    • 9.1 迅速な攻略
    • 9.2 小規模兵力とハイテク兵器の投入
  • 10 大量破壊兵器捜索
  • 11 フセイン政権とアル・カーイダの関係
  • 12 占領政策
    • 12.1 占領政策のつまずき
    • 12.2 占領政策の民営化
    • 12.3 反米武装勢力の攻撃
    • 12.4 大規模戦闘の勃発
    • 12.5 政権発足と兵力縮小
    • 12.6 武装勢力抗争の激化
  • 13 正式政府の発足
    • 13.1 マーリキー政権の誕生
    • 13.2 サッダーム・フセインの死刑執行
    • 13.3 スンナ派イラク住民とアルカーイダの対立
  • 14 増派による治安回復
    • 14.1 ペトレイアス戦略
    • 14.2 2008年
    • 14.3 治安権限委譲
  • 15 再不安定化
    • 15.1 スンニ派とシーア派の対立、シーア派内部の対立
    • 15.2 クルド人自治区の問題
    • 15.3 トルコとの緊張状態
    • 15.4 ISILとの攻防
  • 16 イラクと周辺国への部隊派遣国・参戦国
  • 17 ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者
    • 17.1 多国籍軍の人的損害状況
    • 17.2 自衛官の死亡者
    • 17.3 民間人の犠牲者
  • 18 「テロ支援国」への影響
  • 19 航空自衛隊の関与
  • 20 その他
  • 21 脚注・出典
    • 21.1 注釈
    • 21.2 出典
  • 22 関連項目
  • 23 関連作品
  • 24 外部リンク

戦争の名称

戦争の名称は、戦争の場となった国名・地名を付けることが多く、(バルカン戦争朝鮮戦争ベトナム戦争など)、この慣例から「イラク戦争」の名称が一般的である。ただし、イラク戦争という名称はアメリカ合衆国の立場からイラクを敵対視する一方的な態度であるという意見もあれば、また、戦争に至った経緯を考えて第2次湾岸戦争と称する場合もある。

また、大規模戦闘終結宣言はブッシュ米大統領が2003年5月に一方的に行っているが、改めてオバマ米大統領が2010年8月に終結宣言を出しており、さらには同大統領により2011年のアメリカ軍のイラクからの完全撤退に際してイラク戦争終結宣言が出されており、イラク戦争自体の定義に混乱が生じている。この問題を背景にしてかウィキペディア英語版では、2003年の戦争を2003 invasion of Iraq = 2003イラク侵攻としており、大規模戦闘終結宣言以降の戦闘状況から2011年12月までの米軍のイラクからの完全撤退までも合わせてIraq war = イラク戦争としている。

アラビア語でもさまざまな呼称があるが、アラビア語版ウィキペディアではアメリカのイラク侵攻(الغزو الأمريكي للعراق)、あるいはイラン・イラク戦争を第1次と数えて第3次湾岸戦争(حرب الخليج الثالثة)などとも呼ばれている。

前史

詳細は「イラク武装解除問題」を参照

1991年湾岸戦争の後にイラクが受諾した停戦決議(決議687)において、イラクに大量破壊兵器の不保持が義務づけられていた。この達成を確認する手段として、国連は主に米英人で構成された「UNSCOM」(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)を設置し、イラクの兵器の保有状況、製造設備などを調査した。イラク側もこれを受け入れ、1998年頃までは大きな混乱はなかった。ところがUNSCOMは事前通達を伴う従来の方式から抜き打ち方式に調査方法を変更し、イラクはUNSCOMの査察に協力的ではなくなり受け入れを拒否した。

またアメリカは国際連合安全保障理事会決議688を根拠としてイラク北部に飛行禁止空域を設定し、1992年にはフランスイギリスと協調してイラク南部にも飛行禁止空域を設定した。これに反発したイラクは、地対空ミサイルの配備や軍用機による意図的な空域侵犯を行った。このため制裁措置として米英はイラク軍施設に対して攻撃を繰り返した。

1998年にUNSCOMはイラクにはミサイルと核兵器は無く、化学兵器もほとんどないと考えてよいが生物兵器が疑問であるとする報告を行った。同年12月、空爆やイラク政府の非協力によりUNSCOMの査察活動は停止した。1999年12月にはUNSCOMにかわり「UNMOVIC」(国際連合監視検証査察委員会)を設置するという国際連合安全保障理事会決議1284が採択された。この採択ではロシア、フランス、中国が棄権しており、イラクも受け入れを拒否した。

開戦までの経緯

2001年

2001年に就任したジョージ・W・ブッシュ大統領は、就任直後から査察に対するイラクの非協力姿勢を問題にしていた。この頃からアメリカとイギリス国内でイラクに対する強硬派の主張が高まり始めた。イラクに対する強硬論が高まった背景としては、国連主導の経済制裁に緩みが発生し、密貿易で資金を調達したイラクが軍備の増強を行っているという観測があった。2月には完成しつつあるイラクの防空網を破壊するための米英両軍による空爆が行われた。

6月、アメリカとイギリスは2001年11月に期限が切れる『石油と食糧の交換計画』に代わるイラクに対する経済制裁案である「スマート・サンクション」の導入を提案した。しかし、ロシアの強硬な反対により、従来の制裁が継続されることになった(国際連合安全保障理事会決議1328)。

9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生した。世界でテロに対する非難やアメリカに対する哀悼のコメントが寄せられる中、イラク国営放送のコメンテーターは第一報として対米テロ攻撃を「アメリカのカウボーイがこれまで犯してきた人道への犯罪に対する果実だ」と論評した。この報道は、アメリカ側のイラクに対する心証を悪化させたものの、アメリカ政府はテロ事件発生後一か月間はむしろイラク政府の関与に否定的なコメントをしていた。10月20日になって、サッダーム・フセイン大統領はアメリカ市民に対する弔意をはじめて示した。アメリカがイラクのテロ関与を疑いはじめた翌年の9月19日にはナージ・サブリー国連総会で弔意を改めて示し、イラクとアルカイダを結びつけるアメリカ政府の論調を非難した。

アメリカ政府内ではイラク政権の完全な武力征伐が安定への最善の方法であるという対イラク強硬派のポール・ウォルフォウィッツ国防副長官、リチャード・パール国防省国防政策諮問委員長などの発言力が強まり、イラクに対する政権転覆を狙った軍事行動を取るべきであるという見解が度々持たれた。11月にアメリカはクウェートへ2000人の増派を行った。

2002年

ブッシュ大統領は2002年初頭の一般教書演説において悪の枢軸発言を行い、イラク、イラン北朝鮮は大量破壊兵器を保有するテロ支援国家であると名指しで非難した。特にイラクに対しては、長年要求し続けた軍縮の進展の遅さと、大量破壊兵器の拡散の危険を重視し、2002年に入って政府関連施設などの査察を繰り返し要求した。

一方、かねてよりフセイン政権と対立していたイスラエルは、2002年4月にベンヤミン・ネタニヤフ元首相が訪米して「フセイン大統領は核兵器を開発中である」とその脅威を訴えたのを皮切りに、同年5月にシモン・ペレス外相がCNNの取材に「サッダーム・フセインは(米同時多発テロ事件首謀者とされる)ビン=ラーディンと同じくらい危険」と答えた。アリエル・シャロン首相も、イラクへの早期攻撃を求めた。また、ヘブライ大学シュロモ・アヴィネリ教授は、『ロサンゼルス・タイムズ』にイラク戦争反対派を1930年代ナチス・ドイツへの宥和政策になぞらえて非難する論文を発表。宥和政策の否定は開戦支持派の有力な主張となった。

2002年11月8日、国連では、イラクに武装解除遵守の『最後の機会』を与えるとする国際連合安全保障理事会決議1441が全会一致で採択された。イラクは「悪の集団」による「邪悪な決議」と非難したが、UNMOVICの受け入れを容認し、4年ぶりに全面査察に応じた。また、決議には30日以内に報告するという規定があったが、イラクは「邪悪な決議」であることを理由に期限の延長を申し出たが、受け入れられなかった。12月7日にイラクは膨大な量の申告書を提出した。

2003年

2003年1月9日、UNMOVICのハンス・ブリクス委員長とIAEAモハメド・エルバラダイ事務局長は安全保障理事会に調査結果の中間報告を行った。この中で、大量破壊兵器の決定的な証拠は発見されていないものの、昨年末に行われたイラク側の報告には「非常に多くの疑問点」があり、申告書には「矛盾」があるとした。また、イラク側が国連ヘリコプターによる飛行禁止区域の査察を拒否するなど、査察非協力も明らかになった。1月16日には化学兵器搭載可能なミサイル14基の存在が不明であるとUNMOVICによって説明され、イラクが長距離弾道ミサイルに該当しないとしていたアルサムード2の射程が安保理決議違反であると認定されたほか、炭疽菌タブンソマンなどの生物兵器化学兵器廃棄情報が確認されないなど、イラク側が申告した内容には虚偽の内容があるとされていた。このためアメリカとイギリスは、イラクが安保理決議1441に違反したものとして攻撃の準備を始めた。

2月14日から2月16日にかけてカトリック教徒でもあるイラクのターリク・ミハイル・アズィーズ副首相バチカンイタリアに渡りローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会談するなどして戦争回避姿勢を国際社会にアピールした。

3月7日、UNMOVICは2度目の中間報告を行った。アメリカは査察が不十分であるとして、攻撃に関する決議採択を行おうとしたが、フランスは査察期限の延長を求めた。アメリカ、イギリスに加え、この時点で理事国ではない日本は、態度が不明確な非常任理事6か国に決議賛成の根回しを行ったが、失敗。このため、フランスが拒否権を行使することなく決議否決となる可能性が高まり、アメリカとイギリスは決議無しでの攻撃に踏み切ることにした。

ブッシュ大統領とウォルフォウィッツ国防副長官

2003年3月17日、先制攻撃となる空爆を行った後、ブッシュ大統領はテレビ演説を行い、48時間以内にサッダーム・フセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。一方フセイン大統領は、自国に向けた演説では徹底抗戦を主張していたが、それまでに2通、そして最後通牒後に更に1通、計3通の同一内容の書簡をブッシュ大統領宛てに送った。内容は「米政府が政権交代を求めなければ、あらゆる要求に完全に協力する用意がある」というものだったと言う。アメリカ側はこれら3通の書簡を全て受取り拒否した上で、2日後の3月19日(アメリカ東部標準時)に予告どおり、イギリスなどと共に『イラクの自由作戦』と命名した作戦に則って、侵攻を開始した。

イラク攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬に反対を表明し、国連の武器査察団による査察を継続すべきとする声もあったが、それを押し切った形での開戦となった。これら国々の反対の裏には人道的な反対というより、フセイン政権との関係やイラクの石油利権に絡んでいるとする意見もある。アメリカ国内の世論は武力介入には高い支持を与えたものの、国連の支持なしの攻撃には必ずしも国論は一致していないとされた。

また、アメリカに合わせて武力行使を積極支持したイギリス・ブレア政権では、閣僚が相次いで辞任を表明し、政府の方針に反対した。3月17日ロビン・クック枢密院議長兼下院院内総務、3月18日フィリップ・ハント保健担当、ジョン・デナム内務担当両政務次官が辞任(BBCニュースの記事に更に詳細なリストがある)。結果としてブレア首相は議会の承認を早急に採りつける必要に迫られた。

公式発表による開戦理由

米英が主張した開戦事由は以下の通り。

まとめると、イラク戦争(第二次湾岸戦争)は、国連安保理決議1154、1441に基づき、第一次湾岸戦争の停戦協定(安保理決議687)を破棄し、なおかつ米英の先制的自衛権の行使として(アリ・フライシャー報道官の言明)起こったものである。

フランス、ドイツなどは開戦するなら決議1441以外に新たな安保理決議を付加すべきと主張したが、1441は無条件の査察を求めているのに対してイラク側が条件をつけてきたため、米英及び同盟国は開戦に踏み切った。また、フランスは議論の初期には主戦派で、地中海にいた原子力空母「シャルル・ド・ゴール」のペルシャ湾派遣準備を進めていることがTVニュースなどでも盛んに報じられていたが、後になって態度を翻した。

ブッシュ政権は、開戦の理由はイラクが無条件査察を認めないことであって、イラク国内に大量破壊兵器が存在するという理由ではないと主張しているが、開戦前にブッシュ大統領やチェイニー副大統領が「イラクは大量破壊兵器を保有している」とメディアを通して繰り返し広言していたため、開戦後に大量破壊兵器が発見されなかったことでこの戦争の『大義』が失われたという批判が巻き起こる結果となった。

2004年6月25日、ポーランド軍はイラクの遺棄化学兵器を発見した。

亡命イラク人による情報捏造疑惑

亡命イラク人が、フセイン政権打倒のために、大量破壊兵器を保有しているとの情報を捏造し、アメリカ当局に伝えたとの疑惑が浮上している。イギリスのガーディアン紙によると、既にある亡命イラク人男性が捏造を認めているという。

ブッシュ政権の戦争計画・情報操作疑惑

後に元財務長官ポール・オニールが「政権開始当初からイラク戦争の計画はあった」と「暴露」した。 開戦時のCIA長官だったジョージ・J・テネットは「ブッシュ政権内でイラク開戦前に同国の差し迫った脅威について真剣な協議は行われなかった」と自著で証言している。さらに、ジョゼフ・ウィルソン元駐ガボン大使が2003年7月6日付の『ニューヨーク・タイムズ』紙に寄稿した記事に端を発したプレイム事件によって、ブッシュ政権がイラクの脅威に関して意図的な情報操作(フレームアップ)をしていた疑惑が濃くなっている。

またプレイム事件などの裁判などでも、ブッシュ政権におけるブッシュ大統領やディック・チェイニー副大統領ら複数の政府高官らによる情報操作とその関わりについて 裁判の中で語られている。

ブッシュ大統領の開戦前後の演説

ブッシュ大統領は開戦前後の演説における戦争理由として以下を挙げた。

戦争の経過はイラク戦争の年表を参照。

政府の公式発表以外の開戦理由の仮説

イラクをサウジアラビアの軍事基地の代替地として確保し、サウジアラビアから米軍部隊を移転することでムスリム(イスラム教徒)の反米感情を和らげ、テロの発生を予防する。ビン=ラーディンは湾岸戦争の際、イスラム教の聖地メッカのあるサウジに異教徒の軍隊(米軍)が駐留したことに激しい衝撃を受け、米軍のサウジからの撤退という要求を掲げて反米テロ闘争を開始し、ついには911テロへと至った。しかし米国は、フセインの脅威から同盟国を守るためという名目で、湾岸戦争後も引き続きサウジに部隊を駐留していたため、テロリストの要求に屈服したという印象を与えることなく、サウジから部隊を撤退させるには、どうしてもフセインを排除する必要があった。

イラクを民主国家にし、資本主義経済を根付かせる事で将来起こるであろう石油枯渇による中東経済の混乱を最小限に抑える。

イラクを親米化する事で中東(イラン、シリア、その他反米の諸国)に民主化ドミノ倒しを起こさせる(いわゆるドミノ理論)。これがイラク戦争の最大の目的だと言う見方がある。ブッシュ政権中枢で影響力を持ちイラク戦争を強く支持したネオコングループでは、フセインがアラブ世界で支持されることがイスラエルの危機につながると考えられていた。イスラエルは親パレスチナ、反イスラエル路線のフセイン政権を脅威と見ていたから、国民レベルでも開戦支持が反対を上回った数少ない国の一つだった。イスラエルは、イラクを穏健路線のヨルダン(ハーシム家)に統治させる戦略を打ち出していた。そのため、イスラエル・ロビーが開戦を働き掛けたと指摘されている。

出典:wikipedia
2020/01/10 15:00

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