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イル川渡河戦とは?

イル川渡河戦(イルがわとかせん、英語: Battle of the Ilu River)は、大東亜戦争中の1942年(昭和17年)8月21日ガダルカナル島において日本軍アメリカ合衆国海兵隊を主力とする連合国軍との間に起きた陸上戦闘テナルの戦い(英語: Battle of the Tenaru)、アリゲーター・クリークの戦い(英語: Battle of Alligator Creek)とも呼ばれ、ガダルカナル島の戦いにおける日本軍最初の大規模反攻でもあった。

アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将を指揮官とする米海兵隊第一海兵師団は、1942年8月7日ガダルカナル島に上陸し、ルンガ岬に日本軍が建設中であったヘンダーソン飛行場を奪取してこの防衛にあたっていた。日本軍のガダルカナル島守備隊は飛行場西側のマタニカウ河に撤退して海軍本部を設置した。 日本軍上層部は第一次ソロモン海戦以降の基地航空部隊の誤認や誤報、ソビエト連邦駐在武官からの情報等によりガダルカナル島奪回を極めて楽観的しており、従来どおりポートモレスビー作戦を重要視していた。

一方、同飛行場の奪還と、ガダルカナル島からの連合軍一掃のため、先発隊として横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令安田義達海軍大佐)と一木清直陸軍大佐率いる一木支隊が投入された。 一木支隊は先遣隊(第1梯団、916名)と後続部隊(第2梯団、約1500名)に分割された、一木大佐直率の先遣隊は陽炎型駆逐艦6隻に分乗して8月16日トラック泊地を出発。 8月19日未明にガダルカナル島タイボ岬(飛行場の東側約35km地点)に上陸した。 このときガダルカナル島全体の連合軍側戦力は約11,000名であったが、日本軍側はこれを2,000名程度と少なく見積もっていた。

一木支隊先遣隊攻撃直前の8月20日、ヘンダーソン飛行場に戦闘機急降下爆撃機、計31機が進出した。 同20日深夜、タイボ岬から西進をつづけていた一木支隊先遣隊はルンガ東部のイル川(米軍呼称:アリゲーター・クリーク)西岸に陣を構えていた米海兵隊に遭遇する。 8月21日未明から戦闘が始まったが、兵数・火力に圧倒的な差があり一木支隊は多大な損害を被った。さらに米海兵隊は夜明けを待って戦車を投入し、残存日本兵を包囲殲滅した。同21日午後、一木支隊先遣隊は壊滅した。この戦いで916名いた一木支隊第1梯団のうち日本側記録777名が戦死、生き残ったのは後方に待機していた約100名を含む128名だけであった。指揮官一木大佐も死亡したが、最後の状況については諸説あり定かではない。

日本軍はガダルカナル島奪回作戦を「少数の陸軍部隊で容易に実現できる」と考えていた。だが8月20日のヘンダーソン飛行場使用開始により、ガ島周辺の制空権を掌握されてしまう。つづく一木支隊先遣隊の大損害により、飛行場奪回の見込みが立たなくなった。日本軍はガダルカナル島の連合軍戦力が当初の想定を超える規模であることを認識し、ヘンダーソン飛行場奪還のため逐次部隊を送り込んでいったものの第二次ソロモン海戦で低速の輸送船団が空襲をうけて撃退され、駆逐艦による鼠輸送(東京急行)に頼らざるを得なくなった。

背景

ガダルカナル島の戦い」も参照

ガダルカナル島

1942年(昭和17年)8月7日、連合国軍はウォッチタワー作戦によりソロモン諸島内のガダルカナル島ツラギ島およびフロリダ諸島に来攻、アメリカ海兵隊が上陸した。これは、これらの島嶼が日本軍の軍事基地となって米豪間の補給ルートを脅かすことを阻止するためであり、他方ニューギニアの戦いを支援して最終的には日本軍のビスマルク諸島ニューブリテン島ラバウル基地をめざすための拠点にする意図もあった。この「フロリダ諸島の戦い」がその後6ヵ月の長きにわたるガダルカナル島の戦いの始まりである。

第1海兵師団ヴァンデグリフト少将

連合軍は奇襲に成功し、第1海兵師団はガダルカナル島に無血上陸した。8月8日の日没までにはガダルカナル島ルンガ岬に日本軍が建設中で完成間近であった飛行場を占拠した。日本軍のガ島守備隊は設営隊員約2570名(第十一設営隊1350名、第十三設営隊1221名)と守備隊247名、ツラギ守備隊は第八根拠地隊の第八十四警備隊約400名、ガブツ島は横浜海軍航空隊342名と設営隊員144名を擁していた。ツラギ守備隊と横浜海軍航空隊は、小数の捕虜をのぞき玉砕した。ガダルカナル島では、生き残った設営隊員や陸戦隊員がジャングルに逃げ込んだ。残存部隊(第十一設営隊〈隊長門前鼎大佐〉、第十三設営隊〈隊長岡村徳長少佐〉、守備隊)は飛行場から撤収して西進、マタニカウ河より西方3~4kmの高地に陣地を構築し、海軍本部とした。残存守備隊はここを拠点にアメリカ海兵隊と交戦することになった。

8日夜、米輸送船からの物資揚陸作業中、輸送船を護衛していた連合軍艦隊が日本海軍・外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将)率いる巡洋艦7隻と駆逐艦1隻と交戦した。 連合軍側は巡洋艦4隻と駆逐艦1隻が沈没、巡洋艦1隻と駆逐艦1隻が大破するなど多大な損害を被った。 日本側も第十一航空艦隊(司令長官塚原二四三海軍中将、8月7日時点ではテニアン島所在)麾下の一式陸上攻撃機(第二十五航空戦隊、司令官山田定義海軍少将。軍隊区分においては第五空襲部隊)が米軍輸送船団に対し空襲を敢行し、大損害を受けた。 さらに海軍陸戦隊519名を乗せガダルカナル奪回に向かっていた津軽艦長指揮下の輸送部隊(敷設艦津軽、測量船宗谷、輸送船明陽丸、第21号掃海艇、第16号駆潜艇)は8日1155に作戦中止命令をうけラバウルに向け反転した。このうち明陽丸がセント・ジョージ岬付近で米潜水艦S-38の雷撃により沈没、行方不明者342名を出した。(日本側呼称第一次ソロモン海戦、連合軍側呼称サボ島海戦。)

アメリカ機動部隊を指揮するフランク・J・フレッチャー中将は存在しない日本軍空母機動部隊に恐怖を感じ、正規空母3隻(エンタープライズサラトガワスプ)、新鋭戦艦ノースカロライナ、重巡6隻、駆逐艦16隻という兵力を擁しながら、上陸支援を打ち切って撤退した。 空母機動部隊による航空支援を失い、上陸船団を護衛する艦隊が夜戦で大打撃を受け、リッチモンド・K・ターナー少将はガダルカナル島からの撤退を開始した。8月9日夕刻までに、残る重機・食糧・兵の揚陸を断念し、物資を半分ほど揚陸しないまま海軍戦力すべてを撤退させた。このとき、32門の75mm榴弾砲105mm榴弾砲からなる砲兵大隊は揚陸済みであったが、食糧は4日もしくは5日分しか揚陸できなかった。サボ島~ガ島ルンガ岬沖にかけての制海権は日本側にあり、日本軍潜水艦や駆逐艦は偵察のたびに艦砲射撃をおこなってアメリカ海兵隊に脅威を与えた。

ガダルカナル島とツラギ島に上陸した海兵隊第1海兵師団約1万6000名(ガ島に1万名、ツラギ諸島に約6000名)は、補給を断たれた状態で孤立することになった。ガダルカナル島では奪取した飛行場のあるルンガ岬周辺に防衛線を構築することに注力し、橋頭堡の中央には75mm榴弾砲と105mm榴弾砲が全周射撃可能なように配置された。また日本軍基地設営隊が遺棄した物資や施設は極めて充実したものだった。海兵隊はロードローラートラック鹵獲・活用して飛行場の完成を急いだ。指揮官ヴァンデグリフト少将は防衛線内に約11,000名を配置し、4日間かけて物資を揚陸地点から防衛線内に分散した集積場へと運び込んだ。飛行場はミッドウェー海戦で戦死した米海兵隊パイロット、ロフトン・ヘンダーソン少佐の名をとってヘンダーソン飛行場と名付けられた。日本軍からの鹵獲分もあり、食糧は14日分にまで増えたが、限られた食糧を節約するため1日の食事回数を2回に制限したという。

ヘンダーソン飛行場周辺に橋頭堡を築いたアメリカ海兵隊だが、ガダルカナル島の日本軍守備隊はまだ降伏していなかった。ルンガ川河口左岸で捕虜にした日本軍准士官からの情報で、日本軍は飢餓状態で無統制となっており、説得次第では投降すると判断した。軍医や日本語の語学将校をふくめた偵察員25名は降伏を勧めるため発動艇2隻に分乗しマタニカウ川左岸に進出したところ、日本軍前進陣地直前に上陸したため猛射をうけ3名を除いて全滅した。救援のため出動した海兵隊一コ中隊はクルツ西方に上陸し、同日午後にはマタニカウ川右岸に戻った。 8月15日、アメリカ軍の高速輸送艦4隻(旧式駆逐艦の改造艦艇)が航空ガソリン・爆弾・軍需品・航空基地隊員を搭載し、ガ島揚陸に成功した。 8月19日早朝、アメリカ海兵隊約300名は日本軍ガ島守備隊陣地西方のコカンボナ(クルツ岬西方約5km)に上陸し、同時にマタニカウ川右岸の海兵隊も砲兵支援下で攻撃を開始した。米海兵隊戦史によれば日本兵65名が戦死して日本軍は後方に避退したと記録し、横五特(高橋中隊)の無線報告には「敵に相当の損害を与え、大発三、機銃一を捕獲。我に被害なし。食糧あと二日分」とある。

日本軍の対応

歩兵第28連隊 一木清直大佐盧溝橋で勇名をはせた。

1942年(昭和17年)8月7日(日出は4時45分)の連合軍フロリダ諸島来攻・ツラギ上陸の速報に対し、ラバウル現地では第八艦隊(司令長官三川軍一海軍中将、参謀長大西新蔵海軍少将、首席参謀神重徳海軍大佐)が百武晴吉陸軍中将を司令官とする第十七軍にソロモン諸島ガダルカナル島およびツラギ島奪回作戦への協力を求めた。第十七軍はポートモレスビー攻略東部ニューギニア要地勘定を任務としていたので、ラバウル所在の南海支隊をガダルカナル奪還に投入する意図はなかった。 第十七軍は、パラオ諸島所在で8月15日頃ラバウル到着予定の川口支隊なら投入可能と返答した。第十七軍参謀松本博中佐によれば「(第八艦隊に対して)川口支隊なら派遣できると述べたのは露骨な拒絶を緩和するための発言にすぎなかった」であった。この時点で、第十七軍は「敵輸送船20隻(第八艦隊の大前敏一参謀の通報によれば輸送船25隻)」という規模から、来襲した敵兵力について二見秋三郎参謀長は約一個師団、松本参謀は約一個聯隊以下と見做した。 大本営海軍部は8月8日時点で「輸送船45隻と含む大艦隊がハワイを出撃し、うち戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦7、輸送船30隻がソロモン方面に来攻した」と分析した。大本営陸海軍部連絡研究に出た陸軍参謀は「要するに本日の状況判断に於ては、敵はソロモンを占領確保すべく、之が奪回は相当手強きものあるべきにより、陸海軍共に所要の兵力を集結したる後、攻勢に出づるを可とする方向に一致せり」と業務日誌に記している。同日夜、大本営陸軍部は第十七軍に対し、従来のモレスビー作戦にくわえてソロモン奪回作戦も第十七軍の担任予定であると通報した。

8月9日、大本営陸海軍部は来攻敵兵力を「一コ師団位」と推定し、モレスビー作戦は既定計画通り遂行すること、ソロモン方面反撃のためラバウルに転進した戦闘機を東部ニューギニアのラエに復帰させブナ飛行場の完成を急ぐこと、南海支隊主力のブナ上陸を強行すること、ソロモン方面に指向する陸軍兵力は一木支隊と歩兵第四十一聯隊として集合地点をトラック泊地にすること…等を申し合わせた。 8月10日、大本営海軍部情報部は「ソロモン来攻兵力は海兵隊一コ師団、人員約1.5万」と断定した。大本営陸軍部は、一木支隊を第十七軍戦闘序列に編入し、第十四軍指揮下にあった青葉支隊・独立戦車第一中隊・野戦重砲兵第二十一大隊一中隊を第十七軍指揮下に復帰させた。同10日午前中、第二十五航空戦隊の陸攻はガダルカナル島周辺に敵艦船を発見できず、日本軍は「我が軍の大勝利である」「敵は敗退した」との希望的判断を下した。

第十七軍は、第一次ソロモン海戦や海軍基地航空隊の戦果報告に一喜一憂していた。8月9日午後1時20分、第十七軍は大本営に対し「敵の占拠せるモレスビー、ラビ、ツラギ〔註、ガダルカナル〕の中でモレスビーこそ重要であり、南海支隊による早期攻略が望ましい」と報告した。 このように日本軍(大本営陸海軍部、第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊)は「ソロモン諸島は確実に占領されたが、有力な部隊ではない」と判断し、ひきつづきポートモレスビー攻略にともなうニューギニアの戦いを重要視した。大本営は来攻兵力を海兵隊一個師団約15,000名と推定していたが、日本軍の上陸作戦能力(揚搭時間)から見て、連合軍はほとんどの部隊の揚陸に失敗して撤退したと判断した。日本軍は上級司令部も現地軍も、ガ島方面の戦況に関して楽観視するようになった。実際のアメリカ海兵隊来攻戦力は約16,000名(ガダルカナル島に約11,000名、フロリダ諸島に約5,000名)であった。

結局、ソロモン南部に投入される陸軍部隊は、パラオ諸島川口支隊(川口清健少将、歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊基幹)、フィリピンの青葉支隊(那須弓雄少将、第2師団歩兵第4連隊主力基幹)、内地転属のためグァム島に待機中であった一木支隊(一木清直大佐、第7師団歩兵第28連隊基幹)となった。 海軍側は、グァム所在の横須賀鎮守府第五特別陸戦隊、東チモール方面所在の横須賀鎮守府第三特別陸戦隊(落下傘部隊約800名)、8月15日編成完了予定の特別陸戦隊三隊を投入することになった。 各隊は直ちにガダルカナル島へ向かった。ミッドウェー作戦後にグァム島に待機していた一木支隊は輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に分乗して8月7日にグァム島出港後、命令により一旦グァム島に引返し、8日にパラオ諸島へ向かうよう内報され、つづいてトラック泊地に移動先を変更され、トラック泊地到着時点で第十七軍の隷下に入ることになった。海軍上級司令部は「一木支隊の兵力2400名では過少」として不満と不安を抱いたが、参謀本部が「この兵力で自信あり」と説明したので、不満足ながら諒承した。大本営陸軍部にも一部で「増援至難の絶海の孤島に一木支隊を送り込むとノモンハン事件の再現になるのでは」と懸念する意見もあったが、大本営陸海軍部の空気全般は非常に楽観的であった。

8月9日、外南洋部隊(第八艦隊)による夜戦と基地航空部隊(第十一航空艦隊)による空襲の戦果報告によれば、輸送船団をふくむ連合軍ガ島来襲部隊の大部分を撃滅という判定であった。 8月10日、ガ島空襲にむかった日本軍攻撃隊と、同島方面に進出した潜水艦部隊は、ともに連合軍水上部隊を発見しなかった。大本営も現地日本軍も、連合軍は部隊の大部分を撤退させたと判定した。たとえば宇垣纏連合艦隊参謀長は陣中日誌『戦藻録』に「(8月10日)さては敵の奴昨夜の攻撃に依り到底居たたまらず、昨日の内に総退却をなせるか。」と記述している。大本営陸軍部(参謀本部)に至っては「100%撤退」と判断していたという。 一方で多数の舟艇を発見しまた対空砲火を受けたことから、ガダルカナル島とツラギ諸島は占領されたと判断した。すなわちガ島の連合軍は敗残兵であり、有力部隊ではないと認識した。後日おこなわれた空襲と航空偵察の結果もその判断を後押ししたので、大本営・連合艦隊・現地陸海軍含めてますます楽観的になった。同日、大本営陸軍部は一木支隊を第十七軍の戦闘序列に編入した。第十一航空艦隊は「ガ島奪回作戦は川口部隊を主力とし、一木支隊と横五特で8月25日に実施予定と電報した。第十七軍は大本営に「一木支隊ト第三十五旅団ノ所要兵力ヲ『ソロモン』ニ指向スレバ作戦可能ナリ」と報告した。

8月12日、大本営陸海軍部は陸海軍中央協定を結ぶ。 ガダルカナル島奪回作戦は「カ」号作戦と命名され、現地陸海軍(第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊)協定による一木支隊輸送作戦は「キ」号作戦と命名された。 同12日夕刻、一木支隊輸送船2隻と護衛の第4駆逐隊がトラック泊地に到着した。一木支隊第1梯団はトラック島にある日本軍海軍基地を経由してガダルカナルへと向かったが、このとき一木大佐は「2,000名から10,000名の米兵が上陸拠点をすでに掌握しており、正面からの攻撃は避けるべきである」との説明を受けた。 同12日、呂号第三十三潜水艦はガダルカナル島ハンター岬見張所との連絡に成功した。呂号第三十四潜水艦はガ島タイボ岬見張所との連絡に成功した。8月13日未明、日本軍の駆逐艦2隻はガダルカナル島に到着したが、同島残留日本兵からの応答はなく連絡に失敗した。2隻はヘンダーソン飛行場に艦砲射撃を敢行し、ラバウルに引き揚げた。同日、伊号第百二十二潜水艦伊号第百二十三潜水艦は効果的な威力偵察を実施し、水陸両用戦車野砲(砲兵陣地)、高射砲や機銃の存在を報告した。伊123は「ルンガ岬附近の敵上陸兵力は相当大」と報告したが、現地中央とも楽観的で、潜水艦の偵察結果は重要視されなかった。

8月13日午前中、第十七軍は一木支隊の先遣投入を決断した。その後、陸海軍中央協定や参謀次長からの電報を受け、あらためて大本営に意図を説明した。この中でソロモン群島の敵兵は5000~6000名、速やかに飛行場の利用を封殺することが必要と述べている。

「キ」号作戦現地陸海軍協定(第十一航空艦隊、第八艦隊、陸軍第十七軍)によれば、一木支隊(歩兵第28聯隊長一木清直大佐)と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令安田義達大佐)を上陸部隊とし、W(上陸予定日、18日予定)-2日上陸部隊(一木支隊先発隊、駆逐艦6隻)トラック出撃、W日上陸、W+3日(後日+4日に変更)第二次上陸(一木支隊主力部隊、輸送船2隻、第二水雷戦隊護衛、間接護衛兵力として第六戦隊)を敢行という計画であった。 敵空母が出現した場合は、輸送およびガ島奪回作戦を延期または取止める可能性があることも盛り込まれていた。

一木支隊の戦闘序列は、歩兵第二十八聯隊、工兵第七聯隊第一中隊および独立速射砲第八中隊、人員約2,000名であった。ミッドウェー作戦においてミッドウェー島攻略を目的に編制された一木支隊は約40隻の折り畳み舟艇を持っており、ガ島では駆逐艦の内火艇と組み合わせて上陸することになった。内火艇や舟艇を使用して短時間のうちに上陸するという制限から、先遣隊の歩兵の携帯弾薬は250発、糧食は7日分であった。上陸後の行軍の都合上からも軽装備であり、対戦車兵器として亀甲状の爆雷を保持していたという。横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令安田義達大佐)616名は6月30日附で第四艦隊に編入され、ナウル・オーシャン方面攻略を予定していた。横五特の一部は7月29日グァム島を出発、8月7日附で第八艦隊に編入され、8月12日ラバウルに到着した。

第十七軍では、一木支隊を先に派遣してヘンダーソン飛行場が活動を開始する前に封殺もしくは使用を妨害するか、歩兵第三十五旅団と一木支隊を合流させ空母機動部隊の護衛下で奪回作戦に乗り出すか、両論があった。13日朝、第十七軍参謀長は第十一航空艦隊参謀長酒巻宗孝海軍少将に意見を求めた。その結果、二見参謀長は「ガダルカナル島の敵を7000~8000と観たのは過大であった」「一木支隊を早期に派遣すべし」と判断を修正した。

陸海軍現地協定にもとづき百武中将は、一木支隊約2,300名から900名を先遣隊として駆逐艦6隻に分乗させ直ちにガダルカナル島に進出、連合軍陣地を攻撃しルンガ岬の飛行場を奪還せよと命じた。 作戦計画時点の日本軍は、ガ島守備隊がマタニカウ川左岸(飛行場の西方)に海軍本部を設置していることを知らず、なんらかの友軍部隊がいると見なされた飛行場東側タイボ岬見張所を上陸点に選んだ。また飛行場西側からの攻撃は地形上の障害が見込まれたことも影響した。 後続の一木支隊第2梯団は第二水雷戦隊護衛下で低速の輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に乗船し、ガ島へ送り込まれることとなった。一木支隊先遣隊は「敵に飛行場を使用させないことが最少限の条件」こと求められており、第十七軍命令「止ムヲ得サレハ『ガダルカナル島』ノ一角ヲ占領シ」とは「飛行場の近くを占拠して夜襲の反覆により飛行場の使用を封じること」を意図したものであった。 なお大本営陸軍部は第十七軍に対し「(参謀次長依命電)「カ」号作戦ノ規模ハ一ニ敵情ニ依リ第十七軍司令官ニ於テ決定セラルヘキモノトシ中央トシテハ要スレハ第三十五旅団及青葉支隊等ヲモ使用シ得ル如ク配船ヲ考慮シアルモ、現状ニ於テハ寧ロ戦機ヲ重視シ成シ得レハ一木支隊ト海軍陸戦隊ノミヲ以テ速ニ奪回スルヲ可トセサルヤト考ヘアリ」との意図を通知しており、戦況を楽観視していたことがうかがえる。 同13日夕刻、大本営では永野修身軍令部総長と杉山元参謀総長が昭和天皇にソロモン方面奪回作戦について上奏する。永野軍令部総長は、連合軍の大部分は引き揚げたと上奏した。

8月14日、第十七軍の松本参謀はトラック泊地に出張して一木支隊長に軍命令を伝達し、その意図を説明した。松本参謀は「最悪の場合一コ師団一万位いるかも知れぬから、迂回と不意急襲を強調した」「反面、敵が退避しつつあるかもしれないとも伝達した」「駐ソ武官からの情報については記憶がない」「飛行場占領が失敗した場合は、飛行場の近くを占拠して一部兵力による夜襲反覆等により敵の飛行場使用を封殺することが必要と伝えた」と回想している。後述のように、ガ島ヘンダーソン飛行場は8月20日の日中より使用を開始した。同14日、南東方面部隊指揮官の命令に従い、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官)は一木支隊のガ島輸送に関する作戦命令を下令した。

8月15日1520、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将が率いる軽巡洋艦神通と駆逐艦陽炎がトラック泊地に到着する。田中少将は第八艦隊および第十七軍参謀から説明を受け、さらに一木支隊との打ち合わせをおこなった。この頃、駐ソ連武官より「米軍のガダルカナル島方面作戦は飛行場基地破壊が目的であって、この目的を達成した米軍はガ島からの脱出に腐心している」との情報が大本営に寄せられた。この情報はガ島へ向かう一木支隊にも伝達され、一木支隊戦闘詳報にも記載されていたという。泊地では、一木支隊先遣隊と駆逐艦が上陸演習を行っていた。 同15日、天皇はソロモン奪回後、ソロモン方面作戦に関して勅語下賜の内意を示した。

一木支隊のトラック泊地出撃

8月16日午前5時、「キ」号作戦増援部隊の挺身隊(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐指揮)陽炎型駆逐艦6隻(旗艦/萩風浦風谷風浜風陽炎)は一木大佐以下先遣隊916名を各艦約150名ほど収容し、トラック泊地を出撃した。一木支隊長は有賀大佐の駆逐艦「」に乗艦した。 なお速射砲部隊をふくむ一木支隊大部分約1500名は輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に分乗し、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦神通)指揮下の軽快艦船(神通、哨戒艇2隻)に護衛され、挺身隊と同時にトラック泊地を出撃した。挺身隊の速力は22ノット、輸送船団は8.5ノットであった。第24駆逐隊(海風、江風、涼風)と横五特(司令安田義達大佐以下616名)を乗せた輸送船金龍丸および哨戒艇2隻(旧島風旧灘風)は18日から19日にかけて第二梯団と合流した。同16日、天皇は侍従武官よりガ島奪回作戦の上陸予定について報告を受けた。

挺身隊(一木支隊先遣隊)がガ島へ向け航行中の8月16日深夜、横五特のガ島派遣隊113名は駆逐艦追風に乗艦してガダルカナル島に到達し、同島タサファロング(ガ島北西部、ルンガ岬より西方17km地点)西方4km地点に上陸した。高橋達之助大尉以下増援陸戦隊はタサファロングより東進し、夕刻までにマタニカウ河西方に本部をおくガ島守備隊(部隊長の掌握していた守備隊員100名、設営隊328名)との連絡に成功した。 ガ島守備隊からの情報により、日本軍守備隊の拠点は飛行場西方マタニカウ河西岸にあること(一木支隊先遣隊の上陸するタイボ岬は飛行場東側)、連合軍ガ島上陸部隊は2000名ほどでツラギ諸島へ脱出しつつあるが高射砲・戦車若干を有することが判明し、一木支隊長にも伝えられた。 8月17日午前10時30分、挺身隊(一木支隊先遣隊)は赤道を通過、このときソ連駐在武官発の「米軍はガ島からの脱出に腐心している」との情報が伝えられた。一木支隊将兵はやや落胆したという。一木支隊長は「大急ぎで行かなければ敵は逃げてしまう」と心配した。一木支隊先遣隊(さらに一木支隊後続部隊や海軍陸戦隊も加われば)による飛行場奪回は容易との判断は、大本営のみならず現地陸海軍の共通認識であった。

8月18日、第十七軍は川口支隊のガ島派遣について現地陸海軍協定を結んだ。この中には「海軍航空部隊ヲ「ガダルカナル」島ニ推進シタル後 成ル可ク速ニ海陸協同シテ「ツラギ」及附近島嶼ヲ奪回ス」「(川口支隊上陸日=V日を8月28日とする)六 航空作戦ニ関スル事項 (イ)V-1日〈27日〉迄ニ戦闘機隊ノ一部ヲ「ガダルカナル」島ニ進出ス/(ロ)「ガダルカナル」島基地造成次第陸攻隊ノ一部ヲ「ガダルカナル」島ニ進出シ「ツラギ」攻略ニ協力ス/(ハ)V-1日ヨリV+1日迄船団前程哨戒ヲ実施ス」とあり、川口支隊上陸計画は一木支隊が飛行場を占領していることが前提になっていた。第十七軍が一木支隊の飛行場奪回について楽観視していたことがうかがえる。 同18日夜、挺身隊はマライタ島を見ながら南下した。2300、挺身隊駆逐艦6隻に乗船した一木支隊先遣隊(第1梯団、916名)は、食料7日分と携帯弾薬各自250発を携行してガダルカナル島ルンガ岬の約35km東にある同島タイボ岬に上陸、集結を完了した。 上陸後、一木大佐は後続部隊の来着を待つことなく、先遣隊のみでの飛行場攻撃を決意した。8月19日0000をもって前進を開始する。約100名の兵を後方の守備に充て、残り約800名を率いていた。移動は夜間機動で、昼間は休憩にあてた。19日の日没前にはルンガ防衛線からおよそ14km東の地点まで到達した。一方ルンガの米海兵隊は、偵察部隊が飛行場西方のマタニカウ河で日本軍ガ島守備隊と交戦状態にあった。この時、コースト・ウォッチャーズ等から「日本軍の駆逐艦が飛行場の東35km地点で兵員を揚陸した」との情報を得た。米海兵隊は、状況をより正確に把握するため更なる情報収集に努めた。

なお第17駆逐隊3隻(浦風、谷風、浜風)はポートモレスビー作戦にともなうラビの戦いに従事するためすぐにラバウルへ向かった。3隻(嵐、萩風、陽炎)は上陸地点の警戒・敵脱出阻止のため同地に留まり、ツラギ泊地やルンガ岬に艦砲射撃を実施した。駆逐艦は一木支隊先遣隊と無線連絡をおこなう手筈だったが、先遣隊からの連絡は全くなかったという。 午前中になるとエスピリトゥサント島から飛来したと思われるB-17爆撃機の空襲により被弾した「萩風」が大破、「嵐」と共にトラック泊地へ撤収、同方面に残る駆逐艦は「陽炎」1隻となった。 「陽炎」のツラギ泊地砲撃後の報告は「本射撃直後敵兵満載ノ大発数隻算ヲ乱シテ遁走セント図リタル為之ヲ砲撃セル所右往左往スル状況及攻撃中何等応戦ノ気配ナキ点其ノ他敵(兵数不明)ノ行動一般ニ活發ナラザル点等ヨリ考察シ、敵ハ相当士気沮喪セルニ非ズヤト認メラル、続イテ「ホーン」岬二粁附近ヲ往復極力見張所ト連絡ヲ試ミタルモ応答ナシ」であった。 同19日1542、一木支隊先遣隊の間接支援をおこなっていた外南洋部隊支援部隊(青葉、衣笠、古鷹、夕凪)はサンタイサベル島北部のレカタに入泊し、臨時の水上基地を設置した。同日夜、外南洋部隊主隊(重巡洋艦鳥海、駆逐艦磯風)はラバウルを出撃、20日1000時点でブカ島北東50浬地点にあった。

戦闘

前哨戦

英領ソロモン諸島沿岸監視員マーティン・クレメンス(中央)と現地警備軍。ガダルカナルの戦いを通じて連合軍の偵察員・案内役として活躍した。

イギリス領ソロモン諸島保護領守備軍(BSIPDF)の士官で沿岸監視員であるマーティン・クレメンスの指揮の下、英領ソロモン諸島保護領警察隊ジェイコブ・C・ヴォウザ元上級曹長らをはじめとするソロモン諸島の沿岸監視員やその他の情報機関からの報告によって、日本軍増援部隊がガダルカナル島に上陸しルンガ岬の東側を行軍中であることが明らかとなっていた。8月19日、海兵隊はルンガ防衛線西側のマタニカウ川で、日本軍ガ島守備隊と引き続き交戦していた。一方、更なる情報収集の為チャールズ・ブラッシュ大尉率いる海兵隊偵察部隊60名と4名の現地人スカウトがルンガ防衛線の東側の調査にあたった。

前述のように一木支隊先遣隊は8月18日23時までにはタイボ岬に上陸を完了し、後続部隊の到着を待たずに前進を開始した。 8月19日午前4時30分、一木支隊先遣隊はテテレ(タイボ岬西方15km)に到着して大休止した。企図秘匿のため夜間に移動し、昼間は休止することにした。 午前8時30分、一木支隊も敵情視察と前線の連絡拠点確立のため、渋谷大尉以下をイル川(中川)付近に、館中尉以下四組の将校斥候を飛行場方面に派遣した。同19日12:00ごろ、コリ岬付近にてブラッシュ大尉の偵察部隊が日本軍斥候兵を視認、海岸線を進んでくる一木支隊偵察部隊に対し待ち伏せ攻撃を仕掛けた。米側記録によれば、将校4名と下士官兵30名の一群は戦闘隊形をとらずに前進していたという。日本軍側は33名死亡(将校全員をふくむ18名戦死、のち1名が捕虜と判明とも)、生き延びた5名はタイボ岬へと退却した。米海兵隊の損害は3名死亡、3名負傷であった。 偵察部隊の士官の遺体から得た書類などから、上陸した日本軍は比較的大きな部隊(陸軍)に所属していることが明らかとなった。だが、その兵力の具体的な規模や日本軍の攻撃がいつ始まるのかといった情報は得られなかった。 これらの情報から、米軍海兵隊はルンガの東方からの攻撃を想定し、防衛線東部の防備を固めていた。なお米軍公式戦史では、ルンガ防衛線の東部防衛地点をテナル川に同定しているが、テナル川は戦闘の発生した場所の更に東側に位置しており、実際にルンガ防衛線の東部を形成していたのはイル川である。イル川は連合軍側ではアリゲーター・クリークと呼ばれていたが、この呼称には二つの過ちがある。まず、ソロモン諸島にはアリゲーターは生息しておらず、クロコダイルしかいないこと、また、クリーク(Creek:入江)と言いながらも実際は海と幅7m - 15m、長さ30mの砂州で分かたれたであったことである。日本側は、イル川を「中川」、テナル川を「蛇川」と呼称している。

第1海兵連隊クリフトン・ケイツ大佐は第1・第2大隊をイル川の西岸に沿って配置した。さらに第1特殊兵器大隊100名にキャニスター弾(対人用散弾)を装備した37mm対戦車砲2門を備え、イル川砂州の守備にあたらせ、イル川東岸と砂州を事前に標的に据えさせ、砲兵隊の観測兵を海兵隊陣地前線に配置した。海兵隊はこの守備固めに20日丸一日を費やし、日没までに可能な限り守備を整えた。

同19日午後2時30分に偵察隊遭遇交戦中の報を受けた一木大佐は救援のため第1個中隊を先遣した後、主力も午後4時にテテレを出発した。19日夜間も行軍を続け、8月20日午前2時30分にコリ岬西側のレンゴに到達して大休止にうつった。午前5時頃、B-17重爆 1機が飛来し、ルンガ岬方面には大発動艇が航行、第十一設営隊の宿営舎跡付近で敵兵が活発に動いているのを認めた。 同20日06時20分、駆逐艦陽炎は敵単発機2機の攻撃を受けて避退した。敵空母機の可能性があったため飛行艇が索敵をおこなった結果、同20日朝になりサン・クリストバル島南方(ガダルカナル島南東方面約250浬/約460km)に航空母艦巡洋艦を含む有力な艦隊と輸送船団を発見した。南東方面部隊指揮官は、ガ島に向け進撃中の一木支隊第二梯団に反転避退を、基地航空部隊と外南洋部隊には敵機動部隊に対する攻撃と残敵撃滅を命じた。ところが南東方面部隊(塚原中将)は一木支隊第二梯団に対し「北方へ避退せよ」と命じ、外南洋部隊(三川中将)は「南西に避退せよ」と命じたので、板挟みになった第二水雷戦隊司令官田中頼三少将は「やむなく、二つの命令の中間をとって北西の針路をとった」と回想している。この後も輸送船団に対し、塚原中将と三川中将から相

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出典:wikipedia
2020/07/09 23:27

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