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インディアン居留地とは?

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インディアン居留地の分布

インディアン居留地(インディアンきょりゅうち、保留地、Indian reservation)とは、アメリカ合衆国内務省BIA(インディアン管理局)の管理下にある、インディアン(アメリカ州の先住民族)部族の領有する土地。リザベーションという呼び名が一般的だが、有力な民族のものは自治権が強く1つの国家にも等しい力を持つとされ、ネイション(国家)とも呼ばれる。同様にインディアンエスキモーが先住するカナダにも同種の領域が存在する。

西部開拓時代には「インディアン・テリトリー(インディアン領)」と呼ばれていた。また、現在では「インディアン自治区」と呼ばれることも多い。

目次

  • 1 歴史
    • 1.1 強制移住
    • 1.2 インターコース法の可決
    • 1.3 バッファロー絶滅政策
    • 1.4 ドーズ法の可決
    • 1.5 BIA
  • 2 保留地の現在
  • 3 居留地のリスト
  • 4 関連項目

歴史

リザベーション」は、現在では「居留地」と表されることが多いが、本来の意味としては「保留地」、つまり「インディアンの故国として白人が保障してとっておいた(リザーブした)土地」である。これは、とりもなおさず、いずれ「保留」を解消するという意味合いも含んでいる。白人達がアメリカ大陸を「開拓」する上でどうしてもぶち当たる問題、インディアンとの土地問題を解決すべく、彼らと条約を結び保留地に住まわせるという政策は、合衆国の歴史でもあった。白人政府とインディアン各部族との間に結ばれた、保留地を軸とした条約の数は、実に371に上る。

当初、白人側はインディアンをそこに閉じ込めるといった考えはなかった。狩猟のためにインディアンは保留地から離れることがしばしばあったし、白人がそこの土地を買ったり、勝手に進入したりすることも許されないということを、白人側はインディアン側に条約で約束していた。インディアンは保留地を通る幌馬車カウボーイから、通行料を取ってさえいたのである。

強制移住

だが、増え続ける移民の前に、圧倒的な武力を背景に白人側はインディアン部族に土地の割譲を迫り、インディアン部族はわずかな年金と引き換えに条約を呑まざるを得なくなっていく。トーマス・ジェファーソンは、「インディアン達の意思を無視して白人側が勝手に保留地の土地を買ったりすることは許されない」と述べたが、それは全くの空論だった。土地を巡る白人とインディアンの争いは次第に激化していく(インディアン戦争)

東部の豊かな土地を所有していたインディアン部族の多くが、何のゆかりもない数千km離れた西部の土地へ強制移住させられた。(→涙の旅路)この強制移住は、数百数千に上る部族民の途上死を招いた。また、この部族収容は、スー族ポンカ族や、モードック族クラマス族など、対立していた部族同士に同じ保留地をあてがう無神経なものであったため、部族間で抗争を引き起こす元となり、またこれは保留地を没収し縮小する口実とされた。

インターコース法の可決

1790年から1834年にかけて可決された「インターコース法」は、のちの保留地の形を決定付けるものだった。それは以下のようなものである。

が、実際にはこれらの方針は全く機能せず、放置された。南北戦争と保留地監督官の横領によって、食糧供給は満足に行われず、保留地は常に飢餓状態に陥り、インディアンの反乱の元となった。(→スー族のミネソタ大暴動)1860年代を前後してユリシーズ・グラントウィリアム・シャーマンといった白人指導者たちは、「保留地に入らないインディアン部族は絶滅させる」という絶滅政策を採り、保留地をインディアン部族を隔離・管理するための収容所化していく。

バッファロー絶滅政策

西部のスー族など平原部族の「保留地」への囲い込み交渉は最後までもつれた。このため、連邦政府は平原部族の主要な食糧となっていたバッファロー(バイソン)を、政策として野生界から絶滅させ、食糧を断つ作戦を採った。大陸横断鉄道が敷設されると、政府は官製の狩猟ツアーを募り、窓から無差別にバッファローを撃たせてこれを殺させた。入植者達は条約を無視して勝手に保留地に入り込み、部族の猟場でバッファローを虐殺したが、保留地監督官は部族の抗議を無視した。こうして19世紀初頭に4千万頭を超えていたバッファローは、19世紀末には野生状態ではついに絶滅に近い状態となった。飢餓状態となった平原の部族は保留地に入らざるを得なくなった。

ドーズ法の可決

保留地囲い込みと同時に、議会に対する白人開拓者や農場主たちによる、インディアン達の領土の明け渡しと開拓を可能にする新法の要求は、年々強まっていた。こうしたなかで、1886年に可決されたドーズ法は、インディアン保留地内の土地を個人のものとして細分化し、不動産化していく決定的な法律となった。このドーズ法の下、部族の土地はわずかな年金や品物と交換されて(それもまともに支払われることはほとんど無かった)矮小化されていった。不動産の概念のないインディアン達は、4千平方メートル当たり50セントで売買契約させられた。(反抗的だったシッティング・ブルの部族、ハンクパパ族の「スタンディング・ロック保留地」では、同じ面積で25セントにさせられた。)

1889年までに、西部のインディアン部族の土地は、3年間で16万平方キロメートル売り渡された。1868年ララミー条約で、「不可侵の土地」と約されたスー族の広大な「グレート・スー・ネイション」も、ブラックヒルズが見つかるとたちまち蹂躙され収奪されていった。この16万平方キロメートルの没収された土地のうち、4万1600平方キロメートルは、スー族が命の糧としていた、先祖代々からの猟場だった。

売り渡されなかった土地でも、数ドルの年金で、数十年単位で、市町村クラスの土地を白人農場主が半ば強制的に借り上げるようになっていった。現在でも、保留地では地主であるインディアンが、借地人である白人の農場などで、低賃金の肉体労働に従事していることは珍しいことではない。同時に、インディアンが保留地から白人の許可なしに外へ出ることは全面禁止となった。違反者は死刑になった。(→シャイアン族リトル・ウルフダル・ナイフの逃亡)こうした制限は、19世紀末まで続いた。

「ドーズ法」を立案した、マサチューセッツ州選出の上院議員ヘンリー・ドーズの意図は、インディアン1世帯に対して、65ヘクタールの土地を農地として「与え」、「余った」保留地の土地を白人に売却させることで、その代金の一部をインディアンに還元させる、というものであった。この根本理念は「保留地の解消」であり、ここに「部族の主権」という発想は毛頭ない。しかも、ドーズ本人はこれを「人道主義に基づく、インディアン教化の最上の方法」であるとしていた。

BIA

「保留地」管理のために、連邦政府は1820年代アメリカ内務省直轄のBIA(文献によって「インディアン局」、「インディアン事務局」、「インディアン管理局」などと表される)を設立していた。保留地監督官はここの所属となった。保留地にはBIAの出先機関として「管理事務所」が置かれ、ここへ派遣された白人の管理官が、保留地内のインディアンのすべての行いについて「監督・指導」するようになった。反抗的、不穏な部族や指導者は軍が呼ばれ、虐殺された。(→シッティング・ブルクレイジー・ホースウンデット・ニーの虐殺)

保留地管理事務所には、「レッド・クラウド管理所」だとか「スポッテッド・テイル管理所」など、保留地政策に賛同し、白人に融和的だった部族員の名が冠せられた。また、有力な首長裁判官に任命するなどしてこれを懐柔し、反抗的な首長を牽制させた(一例として、シッティング・ブルゴールなど)。また、儀式のほとんどがキリスト教的でないとして弾圧・禁止され、シャーマンや呪い師は殺害された。狩猟も禁止された。

保留地は、「インディアンが農業を行うための土地」となった。 が、ほとんどの保留地は農業不可能な不毛の原野である。連邦政府が西部の部族に対して行った農業指導の実態は、いきなり農耕文化を持たない狩猟部族に使い方もわからないトラクターを渡し、農耕を命令するという、現実離れしたものであった。

バッファロー狩りの出来なくなった平原の部族には、代わりに「年金」として、保留地事務所より、肉牛などが支給されることになったのであるが、上述のようにそれは半ば戦略的にBIAの保留地監督官によって横領され、常に数が不足していた。農業経験のないインディアン達は飢え、冬をしのぐために種牛にまで手をつけざるを得ず、飢餓は年次倍増していった。

条約が結ばれて保留地に強制移住させられ、しばらくすると、移民の増加で実情が合わなくなり、また新しい条約が強要され、保留地が縮小される。保留地を巡る条約交渉の歴史は、この繰り返しであった。現在も連邦政府は「インディアンの自立」を掲げる。しかし、インディアンはそもそも白人が現れる以前から自立していたのである。保留地の歴史すべてが、条約違反の繰り返しの上に成り立っている。一方で、昔の狩りに頼る生活に戻るのが嫌で(狩りにのみ頼った部族は少数であるが)、白人の文明(アメリカ市民の権利・利点)を利用し、なおかつインディアンとしての権利を求め、しかしながらアメリカ市民としての義務を果たさないことを「自立」とするインディアンもいるとする白人側からの意見もある。

保留地の現在

保留地には、一定の自治権を認めた条約規定に基づき、BIA直轄の「部族評議会」、または「部族議会」が組織されていて、これは一般に「部族政府」と呼ばれる。「イロコイ連邦」が自主独立を保てているのは、「部族議会」を持たず、連邦と貸し借りのない状態を維持しているからであるといわれる。

保留地は「連邦政府」との条約規定によって存在しているが、その土地は「州政府」の管轄内にある。このため、部族政府は「自治政府」、「独立国家」を名乗りながらも、常に連邦と州の双方を相手に交渉ごとを行わなければならない矛盾を負わされている。(この状況は条約に違反している)

ほとんどすべての保留地は産業を持てず、貧困にあえいでいる。また、保留地で生活する限り、そのインディアンにはわずかながら条約規定に基づいた年金が入るため、これに頼って自立できない人々も多い。失業率は半数を超え、アルコール依存症率は高い。保留地には産業や就労先がないため、年金を捨て、保留地外に出て生活する人たち(シティー・インディアン)も多い。

20世紀頃までのアメリカではネバダ州ニュージャージー州以外でカジノが実質禁止だった。対して、保留地内では自治権を認めた条約規定で設立可能であり、それを活用することでインディアン・カジノ(「現代のバッファロー」とも称される)として成功した保留地もある。しかし、州が州法を盾にギャンブル事業の認可をしないために「最後の切り札」のカジノを持てず、身動きできない部族も多い。これも連邦法と州法の双方から縛られるインディアン保留地の矛盾を示す事例のひとつである。

現在の連邦政府の方針としては、1950年代からの流れとして、部族の意向を無視して「保留地」を解消していこうという方向にある(これは条約違反である)。「インディアン」という特別な存在ではなく、「アメリカ市民」として納税させ、国民義務を負わせるというのが、当初からの政府の命題だったからである。これに沿った「インディアン寄宿学校」による強制同化政策によってインディアンの同化が進み、20世紀初頭からすでに、部族独自の純血性、民族性は薄れたとして、様々な部族が絶滅認定され、保留地を没収されていった。ただし、この揺れ戻しとして、近年再び部族の結集を図り、「保留地」の再獲得を果たした例もある。

居留地のリスト

目次 : A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T U V W X Y Z

A
B

2000年の時点で人口38,543人。

C
D
E
F
G
H
I
J
K
L
M
N
O
P
Q
R
S

アリゾナ州ツーソン付近。

T
U
V
W
X
Y
Z

関連項目

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出典:wikipedia
2020/02/22 07:15

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