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ウィンストン・チャーチルとは?

イギリス政治家
ウィンストン・チャーチル
Winston Churchill

チャーチル(1941年ユーサフ・カーシュ撮影)

【生年月日】
1874年11月30日
【出生地】
イギリス ウッドストック
ブレナム宮殿
【没年月日】
(1965-01-24) 1965年1月24日(90歳没)
【死没地】
イギリス ロンドン
【出身校】
ハーロー校
サンドハースト王立陸軍士官学校
【前職】
軍人従軍記者
【所属政党】
保守党(1900年-1904年)
自由党(1904年-1924年)
保守党(1924年-1964年)
【称号】
ガーター勲章士(KG)
メリット勲章(OM)
枢密顧問官(PC)
王立協会フェロー(FRS)
コンパニオンズ・オブ・オーナー勲章(CH)
州副知事(DL)
【配偶者】
クレメンティーン・チャーチル
【親族】
第7代マールバラ公爵ジョン(祖父)
ランドルフ卿(父)
ランドルフ(長男)
【サイン】

首相

【在任期間】
1940年5月10日 - 1945年7月26日
1951年10月26日 - 1955年4月5日
【任命者】
国王ジョージ6世
(1940年5月10日 - 1945年7月26日)
(1951年10月26日 - 1952年2月6日)
女王エリザベス2世
(1952年2月6日 - 1955年4月5日)
海軍大臣

【内閣】
アスキス内閣(自由党)
チェンバレン内閣(保守党)
【在任期間】
1911年10月23日 - 1915年5月26日
1939年9月3日 - 1940年5月10日
大蔵大臣

【内閣】
第2次ボールドウィン内閣(保守党)
【在任期間】
1924年11月6日 - 1929年6月4日
内務大臣

【内閣】
アスキス内閣(自由党)
【在任期間】
1910年2月14日 - 1911年10月
庶民院議員

【選挙区】
オールダム選挙区
マンチェスター・ノース・ウェスト選挙区
ダンディー選挙区
エッピング選挙区
【在任期間】

1900年10月1日 - 1908年4月24日


1908年5月9日 - 1922年11月15日
1924年10月29日 - 1964年10月15日
その他の職歴

保守党党首
(1940年10月9日 - 1955年4月5日)
国防担当閣外大臣
(1940年5月11日 - 1945年7月27日
1951年10月28日 - 1952年3月1日)
植民地大臣
(1921年2月14日 - 1922年10月19日)
戦争大臣
(1919年1月10日 - 1921年2月)
航空大臣
(1919年1月10日 - 1921年2月13日)
軍需大臣
(1917年7月17日 - 1919年1月10日)
ランカスター公領大臣
(1915年5月28日 - 1915年11月11日)
通商大臣
(1908年4月12日 - 1910年2月)
ノーベル賞受賞者
受賞年:1953年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:歴史や伝記の記述の熟達に加え、高揚した人間の価値についての雄弁な庇護者であること

ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(英語: Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリス政治家軍人作家

目次

  • 1 概要
  • 2 生涯
    • 2.1 出生
    • 2.2 学生生活
    • 2.3 軍人として
      • 2.3.1 キューバ反乱鎮圧戦の観戦
      • 2.3.2 英領インド勤務
      • 2.3.3 スーダン侵攻
      • 2.3.4 軍を除隊、選挙に初挑戦
      • 2.3.5 第2次ボーア戦争に従軍
    • 2.4 保守党時代
      • 2.4.1 庶民院議員に当選
      • 2.4.2 造反から自由党への移籍
    • 2.5 自由党の政治家として
      • 2.5.1 植民地省政務次官と英領南アフリカ
      • 2.5.2 アスキス内閣商務大臣
        • 2.5.2.1 補欠選挙と社会主義への敵意
        • 2.5.2.2 結婚
        • 2.5.2.3 社会政策
        • 2.5.2.4 ドイツとの建艦競争
        • 2.5.2.5 「人民予算」をめぐって
      • 2.5.3 アスキス内閣内務大臣
        • 2.5.3.1 議会法
        • 2.5.3.2 暴動鎮圧
      • 2.5.4 アスキス内閣海軍大臣
        • 2.5.4.1 ドイツとの建艦競争
        • 2.5.4.2 アイルランド問題
        • 2.5.4.3 第一次世界大戦
        • 2.5.4.4 罷免
      • 2.5.5 アスキス連立内閣ランカスター公領担当大臣
      • 2.5.6 西部戦線に従軍
      • 2.5.7 再起を狙って
      • 2.5.8 ロイド・ジョージ内閣軍需大臣
      • 2.5.9 ロイド・ジョージ内閣戦争大臣
      • 2.5.10 動員解除
        • 2.5.10.1 反ソ干渉戦争
      • 2.5.11 ロイド・ジョージ内閣植民地大臣
        • 2.5.11.1 中東の委任統治領をめぐる問題
        • 2.5.11.2 アイルランド自由国
        • 2.5.11.3 チャナク事件
        • 2.5.11.4 政権崩壊
      • 2.5.12 議員失職
      • 2.5.13 再落選、自由党離党
    • 2.6 保守党の政治家として
      • 2.6.1 復党と再選まで
      • 2.6.2 第2次ボールドウィン内閣大蔵大臣
        • 2.6.2.1 空白の10年
      • 2.6.3 インド自治に反対
      • 2.6.4 対ヒトラー
      • 2.6.5 エドワード8世の退位
      • 2.6.6 対独融和政策への反対
      • 2.6.7 チェンバレン内閣海軍大臣
        • 2.6.7.1 第二次世界大戦開戦と海相就任
        • 2.6.7.2 北欧での戦い
        • 2.6.7.3 チェンバレンの首相退任をめぐって
    • 2.7 首相・保守党党首として
      • 2.7.1 第1次チャーチル内閣
        • 2.7.1.1 言論弾圧の強化
        • 2.7.1.2 フランス敗北
        • 2.7.1.3 ダンケルクの撤退
        • 2.7.1.4 バトル・オブ・ブリテン
        • 2.7.1.5 北アフリカ戦線
        • 2.7.1.6 独ソ戦勃発
        • 2.7.1.7 大西洋憲章
        • 2.7.1.8 日本との開戦とアメリカの参戦
        • 2.7.1.9 対日戦
        • 2.7.1.10 イタリア半島上陸
        • 2.7.1.11 カイロ会談とテヘラン会談
        • 2.7.1.12 ノルマンディー上陸作戦と共産化阻止
        • 2.7.1.13 ヤルタ会談
        • 2.7.1.14 V-Eデー
        • 2.7.1.15 アジアにおける勝利と大英帝国の没落
        • 2.7.1.16 退陣
      • 2.7.2 野党党首として
        • 2.7.2.1 反共闘争
        • 2.7.2.2 大英帝国の崩壊
        • 2.7.2.3 政権奪還
      • 2.7.3 第2次チャーチル内閣
    • 2.8 退任後
    • 2.9 死去
  • 3 政治思想
    • 3.1 帝国主義
    • 3.2 反共主義
    • 3.3 議会主義
    • 3.4 親ユダヤ主義
    • 3.5 戦争観
    • 3.6 死生観
    • 3.7 人物評
  • 4 日本との関係
    • 4.1 同盟国として
    • 4.2 日英離間・対立の中で
    • 4.3 対日融和工作
    • 4.4 第二次世界大戦後
  • 5 評価
  • 6 人物
    • 6.1 生活習慣
    • 6.2 趣味
      • 6.2.1 愛猫家
  • 7 語録
  • 8 一族
    • 8.1 チャーチル家系譜
      • 8.1.1 母の家系
    • 8.2 家族・親族
  • 9 著作
    • 9.1 チャーチルに関する回想・評伝(参考文献以外)
  • 10 現在
  • 11 脚注
    • 11.1 注釈
    • 11.2 出典
  • 12 参考文献
  • 13 ウィンストン・チャーチルを扱った作品
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

概要

サンドハースト王立陸軍士官学校で軽騎兵連隊に所属し、第二次キューバ独立戦争を観戦し、イギリス領インド帝国パシュトゥーン人反乱鎮圧戦、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍した。1900年のイギリス総選挙にオールダム選挙区から保守党候補として初当選(当時:25歳)。しかしジョゼフ・チェンバレン保護貿易論を主張すると、自由貿易主義者として反発し保守党から自由党へ移籍した。ヘンリー・キャンベル=バナマン自由党政権が発足すると、植民地省政務次官としてイギリスに併合されたボーア人融和政策や中国人奴隷問題の処理など英領南アフリカ問題に取り組んだ。アスキス内閣では通商大臣内務大臣に就任し、ロイド・ジョージとともに急進派として失業保険制度など社会改良政策に尽力、この体験を通じて暴動やストライキ運動に直面し社会主義への敵意を強めた。

ドイツとの建艦競争が激化する中、海軍大臣に就任。第一次世界大戦時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導した。しかしアントワープ防衛やガリポリ上陸作戦で惨敗を喫し、辞任した。しかしロイド・ジョージ内閣で軍需大臣として再入閣。戦後は戦争大臣と航空大臣に就任し、ロシア革命を阻止すべく反共産主義戦争を主導し、赤軍のポーランド侵攻は撃退した。だが、首相は干渉戦争を快く思わず、植民地大臣への転任を命じられ、イギリス委任統治領イラクパレスチナ政策、ユダヤ人パレスチナ移民を推し進めた。初の労働党政権となったマクドナルド内閣に反社会主義の立場から自由党を離党し、野党に下落した保守党へ復党した。スタンリー・ボールドウィン内閣では財務大臣を務め、新興国アメリカ日本の勃興でイギリス貿易が弱体化する中、金本位制復帰を行ったが失敗し、政権交代が起き再びマクドナルドの労働党政権の復帰となった。

1930年代には停滞したが、インド自治政策やドイツナチ党ヒトラー独裁政権への宥和政策に反対した。第二次世界大戦を機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰したが、北欧戦で惨敗。しかしこの惨敗の責任はチェンバレン首相に帰せられ、1940年に後任として首相職に就き、1945年の勝利達成まで戦争を主導した。西方電撃戦ギリシャ・イタリア戦争北アフリカ戦線ドイツ軍に敗北するが、バトル・オブ・ブリテンでは撃退に成功した。独ソ戦開始のためスターリンソ連と協力し、またルーズベルト大統領のアメリカとも同盟関係となった。

しかし1941年12月以降の日本軍参戦後に、東方植民地である香港シンガポールをはじめとするマレー半島一帯のイギリス軍敗退による相次ぐ陥落やインド洋からの放逐などの失態を犯した上に、ドイツ軍によるトブルク陥落でイギリスの威信が傷付き、何とかイギリスの植民地として残っていたインドやエジプトでの反英闘争激化を招いた。

1944年6月にノルマンディー上陸作戦で攻勢に転じたものの、1945年5月にナチス・ドイツが降伏すると労働党が挙国一致内閣を解消し、同年7月の総選挙でアトリー政権が成立し保守党は惨敗した。第二次世界大戦で戦勝国の地位を獲得した中、チャーチルは野党党首に落ちたものの冷戦下で「鉄のカーテン」演説を行うなど独自の反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。イギリスはアメリカソ連に並ぶ戦勝国の地位を得たが、大戦終結後にアトリー労働党政権がインド等の植民地を手放していくことを、帝国主義の立場から批判し植民地独立の阻止に力を注いだが、大英帝国は植民地のほぼ全てを失い消滅することとなり、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落した。

1951年に再び首相を務め、米ソに次ぐ原爆保有を実現し、東南アジア条約機構(SEATO)参加など反共政策も進めた。1953年ノーベル文学賞受賞。1955年アンソニー・イーデンに保守党党首及び首相職を引き継がせ政界から退いた。

生涯

出生

父・ランドルフ卿
母・ジャネット・ジェローム

ランドルフ・チャーチルは、第7代マールバラ公爵ジョン・ウィンストン・スペンサー=チャーチルの三男で、1874年春にマールバラ公爵家の領地であるウッドストック選挙区から出馬して庶民院議員に初当選した保守党の政治家であった。母ジャネット・ジェローム(愛称ジェニー)はアメリカ人投機家レナード・ジェロームの次女だった。1873年8月12日にワイト島カウズに停泊したイギリス商船上のパーティーでジャネットとランドルフ卿は知り合い、3日後に婚約した。ランドルフ卿の父ははじめ身分が違うと反対していたが、ジェローム家が金持ちであることから結局了承し、二人は1874年4月にパリのイギリス大使館で結婚し、ロンドンで暮らした。

チャーチルが生まれた祖父の居城ブレナム宮殿

1874年11月30日午前1時30分頃、父母の長男がオックスフォードシャーウッドストックにあるマールバラ公爵家自邸のブレナム宮殿で誕生する。この日は聖アンドリューの日であり、ブレナム宮殿でマールバラ公爵主催の舞踏会が予定されていた。結婚して7カ月半で長男を儲けたのだった。スペンサー=チャーチル家の伝統で代父(祖父レナード・ジェローム)の名前をミドルネームとしてもらい、ウィンストン・レナードと名付けられた(以下、チャーチルと表記)。

チャーチルは12月27日にブレナム宮殿内の礼拝堂で洗礼を受けた。新年を迎えるとランドルフ卿一家はロンドンの自邸へ帰り、乳母エリザベス・エヴェレストが養育した。ヴィクトリア朝の上流階級では子供の養育は乳母に任せ、親と子供はほとんど関わりを持たず、時々顔を見るだけという関係であることが多かった。チャーチルの両親の場合、政界と社交界での活動が忙しかったので特にその傾向が強かった。

アイルランドでの幼少期
7歳の頃のチャーチル(アイルランド・ダブリン)

1876年にランドルフ卿は兄ブランドフォード侯爵ジョージ王太子エドワード・アルバート(後の英国王エドワード7世)の愛人争いに首を突っ込んで、王太子の不興を買い、王太子から決闘を申し込まれるまでの事態となり、イギリス社交界における立場を失った。仲裁した首相・保守党党首ベンジャミン・ディズレーリからほとぼりが冷めるまでイングランド外にいるよう勧められたランドルフ卿は、アイルランド総督に任命された父マールバラ公の秘書として妻や2歳の息子を伴って1877年1月9日アイルランドに赴任した。

アイルランドにおいては公爵夫妻はダブリンフェニックス・パークの総督官邸、ランドルフ卿一家はその近くのリトル・ラトラで暮らした。チャーチルにとってアイルランドは「記憶している最初の場所」であったと回顧録で書いている。

アイルランドでも引き続き乳母エヴェレストが養育にあたっていた。チャーチルは乳母を「ウーマニ」と呼んで慕い、8歳になるまで彼女の側から離れることはほとんどなかった。チャーチルは後年まで彼女の写真を自室に飾り、「思慮のないところに感情はない(他人に冷淡な者は知能が弱い)」という彼女の言葉を謹言にしたという。またこの頃から家庭教師が付けられるようになったが、チャーチルは幼少期から勉強が嫌いだったという。1879年の大飢饉後、アイルランドの政治情勢は不穏になり、アイルランド独立を目指す秘密結社フェニアンの暴力活動が盛んになっていった。そのため乳母エヴェレストもチャーチルが総督の孫として狙われるのではと常に気を揉んだという。

1880年2月4日、弟ジョン・ストレンジがダブリンで生まれる。ランドルフ卿の子供はチャーチルとこのジョン・ストレンジの二人のみである。チャーチルは基本的にこの弟と仲良く育った。ただチャーチルが幼いころに集めていた1500個のおもちゃの兵隊で弟と遊ぶ時、白人兵士はチャーチルが独占し、弟にはわずかな黒人兵士しか与えなかったという。チャーチルは黒人兵士のおもちゃに小石をぶつけたり、溺れさせたりし、弟の黒人軍隊が蹴散らされて終わるというのがお約束だった。

この直後に1880年イギリス総選挙があり、ランドルフ卿もウッドストック選挙区から再選すべく、一家そろってイングランドに帰国し、再選を果たした。しかし保守党は大敗し、ディズレーリ内閣は総辞職し、マールバラ公もアイルランド総督職を辞した。

学生生活

聖ジョージ・スクール
1884年のチャーチル

1882年、8歳を目前にしたチャーチルは、父の決定でバークシャー州アスコットの聖ジョージ・スクールに入学した。

チャーチルはいわゆる「落ちこぼれ生徒」だった。成績は全教科で最下位、体力もなく、遊びも得意なわけではなく、クラスメイトからも嫌われているという問題児で、校長からもよく鞭打ちに処された。。チャーチル自身もこの学校には良い思い出がなく、悲惨な生活をさせられたと回顧している。

1884年夏、乳母がチャーチルの身体に鞭で打たれた跡を見つけて、母ジャネットの判断で退学した。アメリカ人である母はイギリス上流階級のサディスティックな教育方法に慣れておらず、鞭打ちのような教育方法を嫌悪していたという。

ブライトン寄宿学校

つづいてブライトンにある名もなき寄宿学校に入学した。この学校は聖ジョージ・スクールと比べれば居心地が良かったらしく、「そこには私がこれまでの学校生活で味わったことのない、親切と共感があった。」と回顧している。この頃には父ランドルフ卿が保守党の中でも著名な政治家の一人になっていたので、その七光りでチヤホヤされるようになったことも影響しているとされる。チャーチルは巷で自分の父が「グラッドストン首相のライバル」などと大政治家視されているのを聞いて嬉しくなり、この頃から政治に関心を持つようになった。学校でも「ノンポリはバカなのだろう」などと公言していた。

成績は、品行はクラス最低だが、国語(英語)、古典、図画、フランス語はクラスで7番目から8番目ぐらいだった。乗馬水泳に熱中し、作文にも関心をもった。

父ランドルフ卿は1886年成立のソールズベリー侯爵内閣で大蔵大臣庶民院院内総務に就任し、次期首相の地位を固めた。ところが同年のうちにソールズベリー侯爵に見限られる形で辞職、事実上失脚することとなった。

ハーロー校
弟ジョン・ストレンジ(左)、母ジャネット(中央)、チャーチル(右)、1889年

1888年3月、パブリック・スクールハーロー校の入試を受けた。試験の出来はいまいちで、苦手なラテン語にいたっては氏名記入欄以外、白紙答案で提出していたが、元大蔵大臣ランドルフ卿の息子であるため、校長の判断で合格した。ただしクラスは最も落ちこぼれのクラスに入れられた。スペンサー=チャーチル家は伝統的にイートン校に入学することが多いが、チャーチルは病弱だったため、テムズ川の影響で湿気がひどいイートン校は避けたとされる。

ハーロー校での成績は悪かった。「無くし物が多く、遅刻が多く、突然勉強し始めたかと思うと全くやらなくなる」という気分のムラが激しかったという。ハーロー校でも校長から二回鞭打ちの刑に処された。また当時のハーロー校では下級生は上級生に雑用として仕えなければならなかったが、チャーチルは上級生に反抗的だったため、上級生からもしばしば鞭打ちの刑に処されたという。

しかしチャーチルはこの学校の軍事教練の授業が好きであり、射撃やフェンシング水泳も得意だった。また落ちこぼれクラスに入れられたおかげで難しい古典は免除され、英語だけやればいいことになったので逆に英語力を特化して伸ばすことができた。「ハーローヴィアン」という校内雑誌に投書したり、詩も書くようにもなり、文章の才能を磨いていった。

当時のハーロー校にはサンドハースト王立陸軍士官学校への進学を目指す「軍人コース」があり、劣等生は大抵ここに進んだ。ランドルフ卿も成績の悪い息子チャーチルは軍人コースに入れるしかないと考えていた。チャーチルが子供部屋でおもちゃの兵隊を配置に付かせて遊んでいる時に父が部屋に入って来て「陸軍に入る気はないか」と聞き、それに対してチャーチルがイエスと答えたことで最終的に進路が決まった。

しかしサンドハースト王立陸軍士官学校も入試で多少の数学の知識を要求したため、ハーロー校在学中にチャーチルが二度受けた入試はともに不合格だった。校長の薦めでチャーチルはサンドハースト陸軍学校入試用の予備校に入学した。出題内容や傾向をかなり正確に分析してくれる予備校であり、チャーチルによれば「生まれつきのバカでない限り、ここに入れば誰でもサンドハースト王立陸軍士官学校に合格できる」予備校だった。

サンドハースト王立陸軍士官学校
1895年2月、第4女王所有軽騎兵連隊に入隊したチャーチル

18歳の時の1893年6月、サンドハースト王立陸軍士官学校の入試に三度目の挑戦をして合格した。しかし成績は良くなかったので、父が希望していた歩兵科の士官候補生にはなれず、騎兵科の士官候補生になった。騎兵将校はポロ用の馬などの費用がかかり、そのため騎兵将校は人気がなく成績が悪い者が騎兵に配属されていた。

こうして幼時から軍隊に憧れていたチャーチルはヴィクトリア女王の軍隊の軍人となった。数学や古典に悩まされることはなくなり、地形学、戦略、戦術、地図、戦史、軍法、軍政など興味ある分野の学習に集中することができるようになった。とりわけアメリカ独立戦争普仏戦争に強い興味を持った。

ただしこの頃、父の家計はかなり苦しくなっており、チャーチルに十分な仕送りはできなくなっていた。そのためチャーチルも馬のことで随分苦労し、将来の将校としての給料を担保に借金して馬を賃借りしている。

1894年12月に130人中20位という好成績で士官学校を卒業し、オールダーショット駐留の軽騎兵第4連隊に配属された。

父の死

父ランドルフ卿は梅毒に罹り、健康状態は数年前から悪化し続けていた。ランドルフ卿は1894年6月に最後の思い出作りでジャネットとともにアメリカ日本などの諸外国、また英領香港、英領シンガポール、英領ラングーンなどアジアイギリス植民地を歴訪する世界旅行に出た。この両親不在の間にチャーチルは医者から父の詳しい病状を聞き出し、父が助かる見込みがないことを知らされたという。父は帰国直後の1895年1月24日、45歳で死去し、首相ら大物政治家が列席した。チャーチルは「父と同志になりたいという夢、つまり議会入りして父の傍らで父を助けたいという夢は終わった。私に残された

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出典:wikipedia
2019/09/19 11:16

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