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ウイグル人とは?

(ウイグル人から転送)
ウイグル
ئۇيغۇر / Uyghur / 維吾爾 / Уйғур
【総人口】

11,842,000
【居住地域】

中国
11,478,000
カザフスタン
232,000
ウズベキスタン
54,000
キルギス
51,000
サウジアラビア
7,800
イラン
5,900
アフガニスタン
4,100
ロシア
3,700
トルクメニスタン
2,100
アメリカ
1,000
タジキスタン
900
トルコ
800
オーストラリア
400
モンゴル
300
中華民国
200
ウクライナ
200
【言語】

ウイグル語中国語
【宗教】

イスラム教スンナ派
【関連する民族】

テュルク

ウイグルは、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族とその国家、及びその後裔と称する民族(あるいは現今の政治的必要性から自ら「ウイグル」と名乗る民族)を指す。現在は中国新疆ウイグル自治区カザフスタンウズベキスタンキルギスなど中央アジアに居住しており、人口は約1千万人、テュルク諸語ウイグル語を話すムスリムである。

目次

  • 1 呼称
    • 1.1 古代中国での呼称
    • 1.2 突厥碑文による表記
    • 1.3 イルハン朝における表記
    • 1.4 「新疆」
    • 1.5 ウイグル(維吾爾)
  • 2 民族・定義
  • 3 創生伝承
  • 4 歴史
    • 4.1 古代
      • 4.1.1 高車(袁紇部)
      • 4.1.2 柔然・北魏時代
      • 4.1.3 突厥時代
    • 4.2 中世
      • 4.2.1 鉄勒の回紇部の台頭
      • 4.2.2 ウイグル可汗国
      • 4.2.3 安史の乱
      • 4.2.4 ウイグル・唐・吐蕃
      • 4.2.5 遊牧ウイグル国家の崩壊とその後の分散
      • 4.2.6 甘州ウイグル王国
      • 4.2.7 天山ウイグル
      • 4.2.8 12世紀:西遼への服属
      • 4.2.9 モンゴル帝国時代のウイグル駙馬王家
    • 4.3 近世
      • 4.3.1 ジュンガル
      • 4.3.2 ジュンガルと清の戦争
      • 4.3.3 清による占領
      • 4.3.4 コーカンド・ハン国
        • 4.3.4.1 ジャハーンギールとホージャ復古運動
      • 4.3.5 回民蜂起
      • 4.3.6 イリ陥落
      • 4.3.7 ヤクブ・ベク政権
      • 4.3.8 清朝の新疆討伐
      • 4.3.9 清朝の戦後処理とロシアとの交渉
      • 4.3.10 新疆省設置
  • 5 近現代
    • 5.1 ソ連
    • 5.2 ウイグルの呼称の復活
    • 5.3 アルマ・アタ会議
    • 5.4 中華民国時代
      • 5.4.1 盛世才による改名
    • 5.5 ハミ郡王家の反乱
    • 5.6 トルファンの反乱
    • 5.7 東トルキスタン・イスラーム共和国
    • 5.8 中華人民共和国政府による新疆接収
    • 5.9 人民解放軍によるウイグル接収
      • 5.9.1 新疆ウイグル自治区の設置
    • 5.10 1990年代
    • 5.11 2000年代
      • 5.11.1 上海協力機構
      • 5.11.2 公教育における漢語使用の義務化
    • 5.12 2009年ウイグル騒乱前後
  • 6 政治体制
    • 6.1 君主号
    • 6.2 官職
    • 6.3 歴代指導者の一覧
  • 7 言語
    • 7.1 古代ウイグル語と新ウイグル語
    • 7.2 文字
  • 8 人種・遺伝子
  • 9 文化
    • 9.1 文学
    • 9.2 音楽
    • 9.3 料理
  • 10 宗教
    • 10.1 仏教
      • 10.1.1 「ウイグル=コネクション」
      • 10.1.2 チベット仏教
    • 10.2 スンナ派イスラム教
  • 11 地理
    • 11.1 テンリ・タグ山脈
    • 11.2 主な都市
  • 12 資源
  • 13 日本との関係
  • 14 映画
  • 15 画像
  • 16 脚注
    • 16.1 注釈
    • 16.2 出典
  • 17 参考文献
  • 18 関連項目
  • 19 外部リンク

呼称

古代中国での呼称

中国史書では、袁紇,烏護,烏紇,韋紇,迴紇,回紇,迴鶻,回鶻などと表記されてきた。

突厥碑文による表記

やがてテュルク系遊牧民自身でも文字(突厥文字)を使って物事を記すようになると、(Uyγur)と表記した。

イルハン朝における表記

イルハン朝の政治家ラシードゥッディーンはその著書『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ(集史)』の「ウイグル部族志」において、「ウイグル」とはテュルク語で「同盟」・「協力」の意であると記している。

「新疆」

現代ウイグル人の祖先と仮託されているウイグル人は自らの民族をテュルクと呼び中核集団をウイグルと呼んだが、マーワラーアンナフルタリム盆地オアシス都市の住民は、都市国家単位での緩い民族名称しかもたず、異教徒に対してはムスリム、他所者に対してイェルリク(土地の者)と呼ぶ程度であった。

モンゴル帝国、ジュンガルへの服属を経て、18世紀半ばにジュンガルを清朝が滅ぼすと、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」また「失った土地を取り戻す」を意味する「新疆」と呼ばれた。その後ロシアが中央アジアに進出し、1881年トルキスタンを併合すると、清朝は1884年にタリム盆地・ジュンガル盆地を纏めて新疆省を設置した(1884-1955年)。

ウイグル(維吾爾)

1921年、ソ連トルキスタン地方のタリム盆地出身者が「ウイグル」という呼称を用い始めたことをうけて、親ソ派でタリム盆地・ジュンガル盆地・東トルキスタン(イリ地方)一帯に独立的な軍閥を形成した盛世才政権が、1934年に「ウイグル」という呼称と「維吾爾」の漢字表記を定めた。この呼称は中華人民共和国にも引き継がれている(維吾爾族、维吾尔族)。

民族・定義

テュルク系民族」も参照
テュルク系民族の分布。

ウイグル語テュルク諸語であるため、ウイグル人はテュルク系民族に属する。なお、テュルク系民族(トルコ民族)とは、「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥鉄勒、ウイグル、カルルクバスミル沙陀族などを一括りにした呼称」と定義される。

森安孝夫(歴史学者)は、古代のテュルク民族は唐代まではそのほとんどが黒髪、直毛、黒目のモンゴロイドであったとしている。唐代末期にモンゴリアアルタイ地域を本拠としていた回鶻(ウイグル・カガン国)が崩壊し、遺民の一部が甘州や天山山脈一帯からタリム盆地へ移動する。それによって、タリム盆地に先住していたトカラ語や西南部の東イラン語の話者がテュルク語化した。なお、テュルク民族が先住の非古テュルク語話者の住民を虐殺したのではなく、共存していたといわれ、形質的特徴も多様である。

こうした言語からの民族の定義ではなく、近代的民族概念の観点からすれば、当時の住民は同じ民族意識をもっていたわけではない。たとえば、「民族集団」としてはモンゴル時代に被支配集団となったウイグルの残部でイスラム化したタリム盆地周辺のトルコ(テュルク)人や、カラハン朝下でイスラム化したトルキスタンのトルコ人は、それぞれの居住地であるオアシス都市ごとに自己認識していた(「トルファン人」、「クチャ人」、「カシュガル人」、「サマルカンド人」、「ブハラ人」など)。このようにタリム盆地周辺のオアシス定住民は固有の民族名称を持たず、異教徒に対しては「ムスリム」、異邦人に対しては「イェルリク(土地の者)」と自己を呼称していた。

20世紀に入って、ロシア革命により成立したソビエト政権は、民族政策として「民族別の自治」を掲げた。トルキスタンでも遊牧諸集団やオアシス都市の定住民の間に「民族的境界区分」が引かれ、諸民族が「設定」されていった。当時、トルキスタンには、1881年イリ条約の締結の際にロシア領に移住したイリ地方の東トルキスタン出身者が多数いたが、彼らは東トルキスタンの政治的統一を志向する際に、古代の「ウイグル」という民族呼称を再び見出し、1921年のアルマ・マタ会議で民族呼称として決定される(後述)。森安孝夫によれば、このとき「本来ウイグルではない旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までもウイグルと呼ぶようになった」として「新ウイグル」は「古ウイグル」は異なるとしている。

この呼称は中華民国統治下の新疆省にも知られるようになり、1934年盛世才政権は従来当局が用いていた「纆回(ぼくかい)」からウイグルの音写である「維吾爾」への改称を決め、省府議会で正式にこの民族呼称を採用させた。「維吾爾」という漢字表記も正式に確定し現在に至っている。

創生伝承

ウイグルの創生については、モンゴル帝国時代のペルシア語文献においていくつかの物語が記されている。アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー世界征服者の歴史』(1260年編纂)とラシードゥッディーン集史』(1314年編纂完成)がある。

特に後者の『集史』ではテュルク・モンゴル系の諸部族をイスラーム的世界観の枠内で分類しており、これらを大洪水後に現在の人類の遠祖となったノア(ヌーフ)の3人の息子セムハムヤフェトのうちヤフェト(ヤーフィス)の子孫としている。テュルク系種族をヤフェトの子孫とするのは『集史』以外にも見られるが、『集史』はこれにオグズ・カガン伝説も絡めて述べているのが特徴であり、後世にもこの傾向は受け継がれた。

ラシードゥッディーン集史』ウイグル部族誌(1314)
アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー世界征服者の歴史』(1260)

歴史

古代

東アジア」、「中央アジア」、「中央ユーラシア」、および「遊牧民」も参照

歴史上、ウイグルを含むモンゴル高原中央アジア遊牧民族はユーラシア大陸内陸部を拠点として遊牧国家を形成しつつ征服先にオアシス都市国家なども形成した。その活動領域は北アジアモンゴル高原から中央アジア,イラン高原,アゼルバイジャン,カフカス,キプチャク草原,アナトリアを経て東ヨーロッパバルカン半島にまで及んだ。匈奴,サカ,スキタイの時代から、パルティア,鮮卑,柔然,突厥,回鶻,セルジューク朝,モンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、騎兵に裏打ちされた軍事力と交易で歴史を動かしてきた。

中国史料では(古音ティク。または翟)と記される民族がテュルク系民族または遊牧民に関する最古の記録とされ、狄は赤狄,白狄などに分かれていた。代に中国の北方(山西省河北省)に割拠していたが、度々農耕民との間で戦争を交えた。春秋時代にはなどと折衝した。戦国時代中山国を建てるが紀元前296年によって滅亡する。その後この遊牧民族は中原からは姿を消し、紀元前4世紀頃には北方の南モンゴルにいた匈奴が中国文献に登場する。

他方、古代のタリム盆地地域には古インド・ヨーロッパ語族トハラ人が居住し疏勒,亀茲,焉耆,高昌,楼蘭などの都市国家交易により栄えたが、しばしば遊牧国家月氏匈奴などの支配下に入った。1世紀になると匈奴は分裂し、南匈奴は後漢に服属、北匈奴は後漢,烏桓,鮮卑によって滅ぼされた。

高車(袁紇部)

五胡十六国時代の高車の位置

丁零人は南北朝時代北魏から高車と呼ばれるようになる。「高車」とは4~6世紀の中国北朝におけるテュルク系遊牧民の総称で、彼らが高大な車輪のついた轀車(おんしゃ:荷車)を用いたことに由来する。

柔然・北魏時代

袁紇部は、モンゴル高原をめぐって拓跋部代国北魏と争っていたが、後に台頭してきた柔然に4世紀末から5世紀初頭に柔然可汗国に従属した。また北魏と数度戦い、390年、道武帝の北伐で大敗を喫し、429年に北魏が漠北へ遠征して柔然を打ち破ると、高車諸部族は北魏に服属し漠南へ移住させられた。一時期、高車諸部は孝文帝の南征に従軍することに反対し、袁紇樹者を主に推戴して北魏に対して反旗を翻したが、のちにまた北魏に降った。

487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。

突厥時代

詳細は「突厥」を参照

東ローマ帝国の史料であるテオフィラクト・シモカッタ (Theophylact Simocatta) の『歴史』にも「テュルク」として記されている。突厥は自らの言語(古テュルク語)を自らの文字(突厥文字)で記し、各地に突厥碑文を残した。

582年に突厥は東突厥西突厥に分裂し、8世紀になるとウイグルがカルルクと共に突厥を滅した。

7世紀の東西突厥(Gokturk Khaganate)。吐谷渾(Tuyuhun)、サーサーン朝ペルシア。

中世

鉄勒の回紇部の台頭

6世紀~7世紀の鉄勒時代には烏護,烏紇,韋紇などと記され、やがて迴紇,回紇と表記されるようになる。当時、鉄勒諸部は突厥可汗国に対し、趨勢に応じて叛服を繰り返していた。

代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88000、以東に11部・勝兵20000)は、代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200000)、その中でも回紇部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀部と争った。

648年に部族長の吐迷度が、姪である突厥の車鼻可汗と血縁にあった親突厥の烏紇と倶羅勃に謀殺される動乱を唐の介入によって平定したため、唐の羈縻政策下に入り部族長は大イルテベル(大俟利発)・瀚海都督・左驍衛大将軍を名乗った。

7世紀後半に東突厥が再興すると再び屈従を余儀なくされたものの、734年毘伽可汗(ビルゲ・カガン)が貴族に毒殺されると、内戦に陥った東突厥第二可汗国へ度々攻撃を仕掛け、741年骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が唐との挟撃により最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して突厥可汗国を滅ぼした。

ウイグル可汗国

820年時点の版図
詳細は「回鶻」を参照

744年、クトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅)は回鶻可汗国(ウイグル可汗国、ウイグル帝国)を建国する(- 840年)。回鶻可汗国は東突厥の旧領を支配し、新たなモンゴル高原の支配者となった。

以後、彼ら回紇の筆頭氏族である薬羅葛(ヤグラカル)氏によって可汗位が継承された。唐との絹馬貿易東ローマ帝国とのシルクロード交易によって莫大な利益を上げた。また唐が安史の乱の勃発により西域の経営から手を引くと、ウイグルは西域を巡って吐蕃と数十年に渡る戦いを繰り広げた。

安史の乱

755年突厥出身の唐の軍人安禄山が反乱を起こし(安史の乱)、首都長安を占領する。粛宗 (唐)から回鶻に援軍が要請され、756年に葛勒可汗葉護太子率いるウイグル軍と唐軍の連合軍は反撃を開始、757年11月に長安を奪回する。762年、唐の代宗が安禄山の残党史朝義を討伐するため、ブグ・カガン(牟羽可汗)に対して再度援軍を要請してきたが、史朝義の唐侵攻の誘いに応じたブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠を南下。ウイグル軍に遭遇した唐の使節劉清潭から、唐への侵攻を踏みと止まるよう説得されたが拒絶した。唐朝廷は震撼するが、僕固懐恩の娘のカトゥン(可敦)がブグの皇后であったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグを説得し、ウイグルは唐との連合を決定する。ウイグル・唐連合軍は洛陽を奪回し、史朝義は763年正月に追撃を受け自殺、8年に及ぶ安史の乱を終結させた。

ウイグル・唐・吐蕃

789年吐蕃軍がウイグルに服属していた白服突厥カルルクを引き込んで北庭大都護府を襲撃、現地のウイグル・唐軍は敗北した。ウイグル軍はモンゴリアまで撤退し、ウイグル側にいた沙陀部も吐蕃に降った。この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的にウイグル軍は北庭を奪還し吐蕃に勝利した。トルファン盆地とタリム盆地北部がウイグルの領国となった。なお懐信可汗(在位:795年 - 805年)の代にマニ教国教化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生した。

その後も吐蕃との戦争は続くが、821年にウイグル、吐蕃、唐の間に三国会盟が締結された。この長慶会盟は従来、吐蕃と唐との停戦協定とされていたが、近年、森安孝夫敦煌文書の断片ペリオ3829番に「盟誓得使三国和好」という文言を発見した他、中国の李正宇サンクトペテルブルク敦煌文書断片Dx.1462に同内容の文言を発見したため、ウイグル・、吐蕃・唐の三国間協定であったとされる。当時のウイグル・唐・吐蕃の国境は、清水県秦州天水と、固原(原州)をむすぶ南北の線が、唐と吐蕃の国境線で、東西に走るゴビ砂漠が、ウイグルと吐蕃の国境であった。なお、ゴビ=アルタイ東南部のセブレイにあるセブレイ碑文が現存しているが、この碑はウイグル側が三国会盟を記念して建立したとされる。

遊牧ウイグル国家の崩壊とその後の分散

840年、ウイグルは内乱とキルギス族の攻撃を受けて、遊牧ウイグル国家は崩壊した。このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代のオングートとなる。 一部は吐蕃,安西へ逃れ、西の天山方面のカルルク(葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝を建国した。甘粛に移った一派はのちの960年、甘粛ウイグルをたてる。他の主力となる一派は、東部天山のビシュバリク(北庭)、カラシャール(焉耆)、トゥルファン(高昌)を制圧し、タリム盆地周辺をかかえて、西ウイグル王国(天山ウイグル王国)を建国する。

甘州ウイグル王国

詳細は「甘州ウイグル王国」を参照

滅亡したウイグル遺民の一部は河西(現在の甘粛省)に逃れて割拠し、甘州(張掖)を中心に甘州ウイグル王国(甘州回鶻)を形成、1028年タングートによる甘州陥落まで勢力を保った。

天山ウイグル

ソグド語によるマニ教典断簡(トルファン高昌故城出土)
詳細は「天山ウイグル王国」を参照

安西に割拠した集団が天山ウイグル汗国を建国すると、定住化して「ウイグル(Uyghur)」とか「トゥグズグズ(Tughuzghuz)」などと呼ばれた。彼らは遊牧していた時代からソグド人の影響を受けマニ教を尊崇していた。天山ウイグル王国では、仏教ネストリウス派キリスト教なども信仰され、高昌漢文化などを形成した。タリム盆地に先住していた住民はこうしてウイグル化トルコ化された。

10世紀以降は、西からイスラーム教が普及してきたが、タリム盆地周辺東部では仏教が根強く、イスラム教国であるカラ・キタイ(西遼)やモンゴル帝国に服属している間や地域のイスラム化が進行した14-16世紀のチャガタイ・ハン国の時代にも一般に仏教徒がいた。

12世紀:西遼への服属

12世紀に入って、東から滅亡したの遺民である耶律大石が来るとウイグルは兵を提供して服属を誓い、西遼(カラ・キタイ)の建国を援けた。

モンゴル帝国時代のウイグル駙馬王家

13世紀モンゴル高原チンギス・ハーンが勃興すると、1211年にウイグル王(イディクト)バルチュク・アルト・テギンは帰順した。

チンギスは彼の帰順を歓迎して息女の一人アル・アルトン(『集史』ではイル・アルタイ Īl-Altaī)を娶らせ駙馬(キュレゲン)とした。またバルチュク国王はジョチなどチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された。

以後のモンゴル帝国でウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る。

モンゴル帝国および元朝では、ウイグル人官僚はモンゴル宮廷で重用され、帝国の経済を担当する大臣も輩出した。この時代、ウイグル王国地域を指して「ウイグリスタン(Ūyghristān)」と呼ばれた。

近世

ジュンガル

詳細は「ジュンガル」を参照
ジュンガルの創世神話とウイグル創世神話

ジュンガルの創世神話は樹木モチーフにおいてウイグル創世説話に類似しており、そのためジュンガルはウイグルの後裔ともされる。ジュンガルの首都はグルジャであった。

タランチ移民

ジュンガルはタリム盆地周辺のオアシス住民をイリに移住させ、農耕に従事させた。これがのちにタランチ(Taranchi)という集団となる。タランチ集団はのちに1864年に清朝へ反乱を起し、さらにロシアがイリを占領後、1881年に清朝へ同地域が返還される際、報復をおそれロシア領へ移住している。

ジュンガルと清の戦争

1688年、ジュンガルは東モンゴリア(外モンゴル)のハルハ部に侵攻する。敗れたハルハ部のトシェート・ハーンは康熙帝に保護を求めた。1690年にはガルダンの甥のツェワンラブタンが反乱を起こし、イリ地方とタリム盆地を制圧して清

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出典:wikipedia
2019/12/09 08:35

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