このキーワード
友達に教える
URLをコピー

ウラジーミル・プーチンとは?

ウラジーミル・プーチン
Владимир Владимирович Путин
Vladimir Vladimirovich Putin




任期 2012年5月7日 – (現職)

任期 2000年5月7日2008年5月7日

任期 1999年8月16日2000年5月7日
元首 ボリス・エリツィン大統領

任期 2008年5月8日2012年5月7日
元首 ドミトリー・メドヴェージェフ大統領

任期 2008年5月27日
元首 アレクサンドル・ルカシェンコ議長

出生 (1952-10-07) 1952年10月7日(67歳)
ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国レニングラード
政党 ソビエト連邦共産党(1975年 - 1991年)
無所属 (1991年 - 1995年)
我が家ロシア (1995年 - 1996年)
無所属(1996年 - 2008年)
統一ロシア (2008年 - )
配偶者 リュドミラ・プーチナ (1983 - 2013)
署名

ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン(ロシア語: Владимир Владимирович Путинラテン文字表記例:Vladimir Vladimirovich Putin1952年10月7日 - 、以下プーチン)は、ロシア連邦政治家。第4代ロシア連邦大統領(2012年5月7日 - )。

1999年12月31日ボリス・エリツィンの大統領辞任により大統領代行を務めたのち、2000年ロシア大統領選挙に勝利して第2代大統領(在任2000年 - 2008年)、第5代および第9代政府議長(首相)(1999年 - 2000年、2008年 - 2012年)、統一ロシア党首(2008年 - 2012年)、ベラルーシ・ロシア連合国家(正式名称は「連合国家」)の閣僚会議議長(首相に相当、2008年 - )など政府・政党の要職を歴任。このほか、サンクトペテルブルクの副市長も務めた。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 年譜
    • 1.2 出自
    • 1.3 KGB時代
    • 1.4 政界へ
    • 1.5 首相職(1999年)
    • 1.6 大統領職
      • 1.6.1 1期目(2000年~2004年)
        • 1.6.1.1 財閥との対決
      • 1.6.2 2期目(2004年~2008年)
    • 1.7 首相職(2008年~2012年)
    • 1.8 大統領職再登板(2012年~現在)
  • 2 政治姿勢
    • 2.1 内政
    • 2.2 外交
      • 2.2.1 アメリカ合衆国・ヨーロッパ
      • 2.2.2 旧ソ連諸国
      • 2.2.3 アジア太平洋
    • 2.3 安全保障
  • 3 人物
    • 3.1 人物像
    • 3.2 家族
    • 3.3 私生活
    • 3.4 格闘技
  • 4 名前
  • 5 暗殺未遂事件
  • 6 著書
  • 7 関連文献
  • 8 関連番組
    • 8.1 ロシア
    • 8.2 日本
  • 9 関連項目
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 外部リンク

経歴

年譜

出自

少年時代のプーチン
母マリア・イワーノヴナとの写真(1958年7月)
父ウラジーミル・スピリドノヴィチ
祖父スピリドン

1952年10月7日、サンクトペテルブルグ(当時の市名はレニングラード)にて、父ウラジーミル・スピリドノヴィチ・プーチン(1911年 - 1999年)と母マリア・イワーノヴナ・シェロモーワ(1911年 - 1998年)とのあいだに生まれる。母は工場などで働いていた。父は活動に熱心なソ連共産党党員の無神論者で母は信仰心が深いロシア正教徒だった。父はソ連海軍に徴兵され、1930年代には潜水艦隊に配属となり、第二次世界大戦では内務人民委員部(NKVD)の破壊工作部隊に所属し、独ソ戦(大祖国戦争)で傷痍軍人となった。戦後は機械技師としてレニングラードの鉄道車両工場で働いた。2人の兄は、いずれもプーチンが生まれる前の1930年代に死亡(1人目は幼くして、2人目はレニングラード包囲戦のあいだにジフテリアで死亡)していたため、プーチンは一人っ子として育つ。プーチンの父方の祖父であるスピリドン・イワノヴィチ・プーチン(1879年1965年)はプロの料理人であり、ヨシフ・スターリンダーチャ(別荘)の1つにて給仕しており、それ以前はウラジーミル・レーニンに仕えていた。

プーチンは自伝で少年時代を振り返り、家庭環境はあまり裕福でなく、少年時代はレニングラードの共同アパートで過ごしたと語っている。1960年9月1日に共同アパートと同じ通りにある第193小学校に通い始める。小学生だったプーチンにドイツ語を教えていた教師によると、プーチンは母親似であるが、頑固で勤勉な性格は父親から受け継いでいたという。また、記憶力は抜群で頭の回転も速かったが、問題児で悪ふざけを繰り返していたと証言している。プーチン自身も後に幼少時代は相当な悪童であったと告白している。しかし6年生になると変化し、成績も上がり、ピオネール入団も許可された。この頃にはサンボと柔道も始めている。小学校卒業後、プーチンは化学の中等専門学校に入学した。

KGB時代

KGBの制服を着たプーチン
1985年東ドイツに出発する前に。父ウラジーミル・スピリドノヴィチ、母マリア・イヴァーノヴナと

やがてプーチンは小説や映画、特にフランスが製作したリヒャルト・ゾルゲの映画を見てからスパイに憧れを抱いたとされる。ソ連国家保安委員会(KGB)への就職を考え、14歳の9年生(日本でいう中学3年生)の時に彼はKGB支部を訪問し、応対した職員にどうすればKGBに就職できるのか質問した。職員は少年の質問にきわめて真率に対応し、KGBは自ら志願してきた者を絶対に採用しないため、今後は自分からKGBにコンタクトしてはならないこと、大学の専攻は法学部が有利であること、言動や思想的な問題点があってはならないこと、スポーツの実績は対象者の選考で有利に働くことなどの現実的な助言を与えた。プーチン少年は以後そのアドバイスを忠実に守り、柔道に打ち込み、レニングラード大学では法学部を選択し、在学中も自分からはKGBに接触しなかった。そして大学4年生のときにKGBからのリクルートを受け、プーチンは1975年に同大学を卒業後、KGBへ就職する。KGB職員であるためにはソビエト連邦共産党への入党が条件だったため、プーチンは共産党員になっている。

KGBでは、最初にレニングラード支部事務局、その後訓練を経て対諜報活動局に配属される。それからさらなる研修を受けた後、第1総局(対外諜報部)レニングラード支部に勤務する。そして外国で諜報活動を行うためにKGB赤旗大学で学び、1985年東ドイツドレスデンへと派遣される。東ドイツには1990年まで滞在し、政治関係の情報を集める諜報活動に従事したとプーチン自身は語っている。しかし東西ドイツ統一によりレニングラードに戻り、母校のレニングラード大学に学長補佐官として勤務することになった。このころに、大学生の頃に教わっていたアナトリー・サプチャークと懇意になる。

政界へ

1990年、プーチンはKGBに辞表を提出し、レニングラード市ソビエト議長だったサプチャークの国際関係担当顧問となった。1991年の共産党解体までは共産党を離党せず、本人曰く党員証は今も持っているという。1991年6月にサプチャークがレニングラード(同年11月にサンクトペテルブルクに名称を変更)市長に当選すると、対外関係委員会議長に就任する。その後、1992年にサプチャークによりサンクトペテルブルク市副市長、1994年3月にサンクトペテルブルク市第一副市長に任命された。サンクトペテルブルク市の職員としてプーチンは外国企業誘致を行い外国からの投資の促進に努めた。またサプチャークの下で陰の実力者として活躍したため、「灰色の枢機卿」と呼ばれた(ロシアでは、ゲンナジー・ブルブリスなど陰の実力者に対し、このようなあだ名が付けられることがある)。

1996年にサプチャークがサンクトペテルブルク市長選挙でウラジーミル・ヤコブレフに敗れて退陣すると、プーチンはそれに伴い第一副市長を辞職する。ヤコブレフによる慰留もあったが、結局はそれを拒否した。その後、ロシア大統領府総務局長のパーヴェル・ボロジンによる抜擢で(アナトリー・チュバイス説もある)ロシア大統領府総務局次長としてモスクワに異動した。プーチンはこの職に就任して法務と旧共産党の資産移転と管理を担当した。1997年3月にはロシア大統領府副長官兼監督総局長に就任した。

1997年6月、プーチンはサンクトペテルブルク国立鉱山大学に「市場経済移行期における地域資源の戦略的計画」という論文を提出し、経済科学準博士の学位を得る。この論文の内容は、「豊富な資源を国家管理下におき、ロシアの内外政策に利用する」というものだった(この論文に関しては、2007年アメリカの学者が盗作説を主張するも、その後立ち消えとなる)。

1998年5月にプーチンはロシア大統領府第一副長官に就任した。ここでは地方行政を担当し、地方の知事との連絡役を務めたが、後にプーチンはこの職務を「一番面白い仕事だった」と振り返っている。同年7月にはKGBの後身であるロシア連邦保安庁(FSB)の長官に就任。この時、ボリス・エリツィン大統領(当時)のマネーロンダリング疑惑を捜査していたユーリ・スクラトフ検事総長を女性スキャンダルで失脚させ、首相だったエフゲニー・プリマコフのエリツィン追い落としクーデターを未然に防いだ。この功績によりプーチンはエリツィンの信頼を得るようになる。

首相職(1999年)

1999年、大統領代行就任に伴いボリス・エリツィン(左)からロシア連邦憲法の大統領専用の複写を渡されるプーチン

プーチンはエリツィンによって1999年8月9日に第一副首相に任命された(同日セルゲイ・ステパーシンが首相を解任されたためそのまま首相代行に任命)。この時、エリツィンはプーチンを自身の後継者とすることを表明していた。さらに1週間後の8月16日には正式に首相に任命される。首相に就任するとロシア高層アパート連続爆破事件をきっかけにして勃発した第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕をふるい、「強いリーダー」というイメージを高め国民の支持を獲得した。当時、次期大統領選のプーチンの有力な対抗馬として元首相のプリマコフがいたが、同年12月19日に行われたロシア下院選挙で、プーチンを支持する与党・「統一」の獲得議席数がプリマコフらによって結党された「祖国・全ロシア」の議席数を超えてロシア連邦共産党に次ぐ第二党となったことにより、プーチンは次期大統領の座にさらに近づいた(後にプリマコフは次期大統領選への出馬を断念した)。そして同年12月31日に健康上の理由で引退を宣言したエリツィンによって大統領代行に指名される。

大統領職

1期目(2000年~2004年)

2000年、大統領就任式典で就任宣誓を行うプーチン(左)。右は前大統領のエリツィン

大統領代行となったプーチンが最初に行ったのは、大統領経験者とその一族の生活を保障するという大統領令に署名することだった。これは、エリツィンに不逮捕・不起訴特権を与え、エリツィン一族による汚職やマネーロンダリングの追及をさせず、引退後のエリツィンの安全を確保するものであるとともに、 プーチン自身が大統領職を退いた後の、政敵からの「保身」を見据えたものと思われる。

プーチンは2000年の大統領選挙で過半数の得票を受け決選投票なしで当選した。正式に大統領となったプーチンは「強いロシア」の再建を目標とした。まず、地方政府が中央政府の法体系と矛盾した法律を乱発するなど地方政府への制御が利かなくなっていたため、プーチンは中央政府の権限を強化する政策を打ち出す。2000年5月、ロシア全土85の地域を7つに分けた連邦管区を設置し、各地域の知事を大統領全権代表に監督させた。ほかには知事の上院議員兼務禁止、大統領への知事解任権付与などの政策を実行した。プーチンはこれらの政策により中央集権化を推進し、「垂直統治機構」と呼ばれるシステムを確立した。さらに、同年12月にソビエト連邦の国歌の歌詞を変えて新国歌に制定した。これはロシア国民に「強かった時代のロシア(ソ連)」を呼び起こすためだとする意見がある。このような強い指導力は反対派からは「強硬である」と批判されたが、ロシア国民の支持を受けた。

1998年のロシア金融危機で打撃を受けた経済が回復し成長を続けたことも、多くのロシア国民がプーチンを支持する一因となった。経済成長は原油価格の上昇によるところが大きいが、プーチン政権下でさまざまな経済改革が行われたことも理由として挙げられる。所得税率を3段階による課税から一律13%のフラット・タックス制に改革したり、法人税付加価値税(消費税)を引き下げたりするなどの税制改革は、税負担の軽減により、横行していた脱税を減少させ、国家財政再建に寄与した。また、これらの税制改革や土地売買の自由化など法制度の整備によって外国からの投資を呼び込み、ロシア経済が活性化した。

財閥との対決
2001年、オリガルヒの代表格だったミハイル・ホドルコフスキー(右)と

エリツィン時代はエリツィンと側近および支持基盤の新興財閥「オリガルヒ」の時代であった。エゴール・ガイダル、アナトリー・チュバイスの急進的資本主義化は、混乱を招いていた。このような状況の中で台頭したのは国有財産であった企業を資本主義化の過程において、国有企業経営陣が、タダ同然で私物化して発生したのが、新興財閥オリガルヒである。オリガルヒは、エリツィン政権と癒着して、出身企業以外の国有財産も買収またはタダ同然で払い下げを受けて私物化するようになり、エリツィン政権との癒着と、マスコミ支配によって政治的影響力を強めていった。こうした癒着は腐敗を生み、オリガルヒの納税回避により国家財政は危機に陥りの崩壊や金融危機の原因となった国債乱発を引き起こした。ガイダルの「中央銀行引き受け国債」乱発と急激な価格自由化はハイパーインフレを招き、年金生活者を中心に民衆が大打撃を受けたり、金融危機を招くなどロシア経済の混乱と国民の経済格差拡大を招いた。また、中央が地方政府への補助を打ち切ったことと、ロシア軍の崩壊のために、中央集権の箍が緩んで、ロシアの各共和国は中央政府の威令を軽んじ 独立傾向を強め、ロシアは第二次国家分解寸前の状況になった。

しかしエリツィンに首相として引立てられたKGB出身のプーチンが大統領になると、プーチンは警察・軍出身者のシロヴィキを登用し、財政再建のため新興財閥オリガルヒの脱税を取り締まり始め、財閥と対決した。オリガルヒは所有するメディアでプーチンを攻撃したが、プーチンは脱税・横領などの捜査でウラジーミル・グシンスキーミハイル・ホドルコフスキーといったオリガルヒを逮捕して制圧。恭順を誓った企業と和解し、恭順企業にメディアを支配させた。プーチンは企業の政治介入を排除し、恭順を誓ったオリガルヒに納税させ国家財政と崩壊寸前だったロシア軍を再建した。そして右派連合等オリガルヒ系政党を少数派に追いやり、与党・統一ロシア(前述の「統一」と「祖国・全ロシア」が合併して結成)に支持され権力を確立した。プーチン政権当初に首相を務めたミハイル・カシヤノフなど、プーチン政権内のオリガルヒと密接な関係にあるとされた政治家も遠ざけ、代わってシロヴィキやプーチンと同郷のサンクトペテルブルク出身者(サンクト派)を重用した。しかし、アルカディ・ローテンベルクボリス・ローテンベルクのローテンベルク兄弟に代表されるようなプーチンと個人的に親しいオリガルヒは救済措置(ローテンベルク法)がとられるなど優遇された。

2期目(2004年~2008年)

2005年クレムリンにて首相(当時)のミハイル・フラトコフ(左)、上院議長のセルゲイ・ミロノフ(右)と
2007年、クレムリンにて閣議を行うプーチン
2007年、世界経済フォーラムロシアCEO円卓会議にて主宰のクラウス・シュワブ(右)と
2008年、クレムリンで行われた国家会議にて「2020年までの発展戦略」を発表するプーチン
2008年、大統領選に勝利したドミトリー・メドヴェージェフ(右)とともにロックコンサート会場で支持者の声援を受けるプーチン
2008年、第9回統一ロシア党大会にて拍手の中で立つプーチン

プーチンは2期目となる2004年の大統領選挙に70%以上の圧倒的な得票率で再選した。再選後、同年9月ベスラン学校占拠事件が発生したことから、ロシアの国家統一の必要性を理由として、地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改め、より一層の中央集権化を進め、大統領権限を強化した。

ロシア経済は原油価格の高騰に伴い2期目も実質GDP成長率で年6~8%台の成長(2004年 – 2007年)を続けた。ただしその多くがエネルギー資源に依存していたため、その経済構造を是正し、より一層の経済発展を達成することを目的として、プーチンは2005年7月に製造業とハイテク産業の拠点とするための経済特区を設置する連邦法に署名した。それによって同年12月に6箇所の経済特区が設けられた。8年間のプーチン政権でロシア経済は危機を脱して大きく成長し、ロシア社会から高い支持と評価を受けている。国内総生産(GDP)は6倍に増大(購買力平価説では72%)し、貧困は半分以下に減り、平均月給が80ドルから640ドルに増加し、実質GDPが150%になった。

また、ロシア政府は2005年に国際通貨基金(IMF)からの債務、2006年パリクラブからの債務を完済し、ロシア経済は安定して国際的な信用を取り戻した。この対外債務返済に大きく貢献したのが2004年に創設した政府系ファンドの「安定化基金」である。この基金は原油価格下落のリスクに備えるのを目的とし、原油の輸出関税と採掘税の税収を原油価格の高いときに基金に繰り入れ、資金を積み立てる構造になっていたが、この基金を利用することにより対外債務が返済された。その後2008年に安定化基金は原資となる税収に天然ガスと石油製品の輸出関税と天然ガスの採掘税を追加した上で「準備基金」と「国民福祉基金」に分割された。前者は従来のように原油価格下落時の対応を目的とし、後者は年金支払いの補充など国民福祉向上のために使われることを目的としている。

それでも依然として多くのロシア国民(2009年の時点で6人にひとりとも)が最低生活水準を下回る生活をしていることや、死亡率の高さにより人口が減少傾向にあることを憂慮し、2005年10月に「優先的国家プロジェクト」を大統領令によって立ち上げた。これは保健・教育・住宅建設・農業の4分野で改革を行って社会基盤を整備し、生活水準向上を目指す計画である。具体的には、このプロジェクトに沿って、保健分野では子育て支援や医師と看護師の給料増額など、教育分野では新大学の設立や奨学金制度の確立など、住宅分野では住宅ローンの規模拡大や住宅建設への融資など、農業分野では若い農業専門家に対する住宅の保障などが計画された。このプロジェクトを推進するため、大統領府長官のドミトリー・メドヴェージェフを同年11月に第一副首相に任命した。

しかしプーチン政権の2期目は、経済成長の達成の裏で、その政治手法が強権的・独裁的だとして欧米諸国から強い非難を浴びることになる。オリガルヒが逮捕・投獄された後にオリガルヒが所有していた天然資源会社を政府の強い影響下に置いたことは大きな波紋を呼んだ。前述のように、2003年ユコス社の社長ミハイル・ホドルコフスキーが逮捕された後、ユコス社は脱税による追徴課税が祟って2006年8月1日に破産に追い込まれ、2007年5月3日に資産が競売により国営企業のロスネフチに落札された。だがこのような手法は、オリガルヒに膨大な富が集中したことに対して不満を持っていたロシア国民から支持を受けている。また、経済についてはロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入に反発する米国からの経済制裁により近年経済成長率が低下しつつあり、年金制度改革を巡り国民から強い反発を受けている。

第二次チェチェン紛争での人権侵害などにより、ロシア国外の政府や人権団体からロシアの人権自由について追及されている。また、非民主的(反民主的)で、非合法な(謀略的な)手法で支配力を行使し政治を行っていることも様々な調査で明らかになっている。また統計上は良くなったともされるロシア経済についても、その実態としてはウラジーミル・ヤクーニンのような一部のプーチンと親密な関係にある人物たちによって統制が行われてしまっていることがマスメディアの取材で明らかになっている。こうした統制は、ボリス・ネムツォフらプーチン政権の反対派によって厳しく批判されている。また、プーチン政権を批判していた人物が次々と不審な死を遂げ、ロシア政府による暗殺説が浮上したことも、欧米諸国にマイナスイメージを持たれる一因になった。2006年10月、反プーチンのロシア人女性ジャーナリストアンナ・ポリトコフスカヤが、自宅アパート内にてルスタム・マフムドフによって射殺された。この事件にはロシア政府による何らかの関与があったとする見方がある。一方、プーチンはこの事件を「恐ろしく残酷な犯罪」としたうえで、「犯人が罰せられないことがあってはならない」と述べた。なお、この事件は2008年6月に容疑者4人が起訴され、捜査の終了が発表された。この事件のほか、プーチンを批判してイギリスに亡命し写真が公開されたKGB・FSBの元職員アレクサンドル・リトビネンコが2006年11月に死亡している。死亡原因として、「多量の放射能物質ポロニウムを食事などに混合されて摂取したため」とイギリス警察が発表し、トニー・ブレア首相(当時)がロシア政府に対し協議したいと要望した。FSBによる暗殺だとする説も浮上した。イギリス政府内では、ロシア政府による暗殺との見方が強い。イギリス警察当局は、この事件で主犯とされる旧KGB元職員アンドレイ・ルゴボイ容疑者と実業家のドミトリー・コフトゥン容疑者の身柄引き渡しをロシア政府に求めた。ロシア側はこれに対し身柄引き渡しを拒否した。さらに、2007年6月21日にはイギリスに亡命したオリガルヒであるボリス・ベレゾフスキーへの暗殺計画が発覚し、その容疑者がロシアに強制送還される事件が起こっている。

ロシアの大統領は連続3選が憲法により禁止されているため、大統領退任後の去就が注目されていたが、2007年10月に開かれた与党・統一ロシアの第8回党大会で、大統領退任後は首相に就任して政界にとどまることに意欲を示した。 同年12月2日に行われたロシア下院選挙では統一ロシアの比例代表名簿第1位に記載され、同党の選挙大勝につながった。12月10日には後継として第一副首相のメドヴェージェフを指名し、2008年の大統領選挙で支持することを表明。2008年2月8日には「2020年までの発展戦略」を発表し、大統領退任後も政界にとどまる姿勢を見せた。この中でプーチンはエネルギー資源依存型経済からイノベーション主導型経済への移行と、そのための人的資本蓄積を教育改革と福祉の充実によって達成する必要性を説いている。同年3月、大統領選挙でプーチンが支持したメドヴェージェフが70%以上の得票を集め大勝した。同年4月15日の第9回統一ロシア党大会でプーチンは同党の党首に就任することを受諾した。

首相職(2008年~2012年)

2008年、首相承認に先立ち、連邦議会下院で演説を行うプーチン
2008年、メドヴェージェフ、第2次プーチン内閣の閣僚たちと

2008年5月7日に大統領を退任したが、新しく大統領となったメドヴェージェフによって首相に指名され、翌日連邦議会下院で承認された。承認の前に下院で行った演説では、年金・最低賃金の引き上げや免税、インフレ率の抑制に努め、ロシアが世界

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/11/13 11:40

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「ウラジーミル・プーチン」の意味を投稿しよう
「ウラジーミル・プーチン」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

ウラジーミル・プーチンスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ウラジーミル・プーチン」のスレッドを作成する
ウラジーミル・プーチンの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail