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エイブラハム・リンカーンとは?


任期 1861年3月4日1865年4月15日
副大統領 ハンニバル・ハムリン
アンドリュー・ジョンソン

任期 1847年3月4日 – 1849年3月4日

出生 (1809-02-12) 1809年2月12日
アメリカ合衆国 ケンタッキー州 ラルー郡
(当時はハーディン郡)
死去 (1865-04-15) 1865年4月15日(56歳没)
アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
政党 ホイッグ党 (1832-1854)
共和党 (1854-1865)
全国統一党 (1864-1865)
配偶者 メアリー・トッド・リンカーン
子女 ロバート・トッド・リンカーン
エディ・リンカーン
ウィリー・リンカーン
タッド・リンカーン
署名

エイブラハム・リンカーン(: Abraham Lincoln [ˈeɪbrəhæm ˈlɪŋkən] ( 音声ファイル)、1809年2月12日 - 1865年4月15日)は、アメリカ合衆国政治家弁護士である。名前は、アブラハム、姓はリンカンと表記されることもある。 弁護士イリノイ州議員、上院議員を経て、1861年3月4日、第16代アメリカ合衆国大統領に就任した。

愛称は、エイブ (Abe)。また、オネスト・エイブ (Honest Abe)、レール・スプリッター (the Rail Splitter)、「偉大な解放者 (the Great Emancipator)」、「奴隷解放の父」とも呼ばれる。身長6フィート4インチ(約193cm)。

目次

  • 1 人物
  • 2 日本語での表記について
  • 3 生涯
    • 3.1 生い立ち
      • 3.1.1 ケンタッキー州時代
      • 3.1.2 インディアナ州時代
      • 3.1.3 イリノイ州時代
    • 3.2 ニューセイラム時代
      • 3.2.1 ブラック・ホーク戦争従軍
      • 3.2.2 1832年イリノイ州議会議員選挙
      • 3.2.3 1834年イリノイ州議会議員選挙
      • 3.2.4 恋愛
    • 3.3 スプリングフィールド時代
      • 3.3.1 弁護士職 (1. ジョン・トッド・スチュアート)
      • 3.3.2 1836年・1838年イリノイ州議会議員選挙
      • 3.3.3 弁護士職 (2. ステイーブン・T・ローガン)
      • 3.3.4 結婚と家族
    • 3.4 国政への進出
      • 3.4.1 1846年合衆国下院議員選挙
      • 3.4.2 弁護士職 (3. ウィリアム・H・ハーンドン)
    • 3.5 共和党(1854年-1860年)
      • 3.5.1 奴隷制とカンザス・ネブラスカ法
      • 3.5.2 ドレッド・スコット対サンフォード事件と"分かれたる家"演説
      • 3.5.3 リンカーン・ダグラス論争とクーパー・ユニオン演説
      • 3.5.4 1860年共和党全国大会
      • 3.5.5 1860年アメリカ合衆国大統領選挙
    • 3.6 大統領職
      • 3.6.1 アメリカ合衆国からの南部州の離脱
      • 3.6.2 第一次大統領就任演説
      • 3.6.3 南北戦争
      • 3.6.4 北軍の指揮
      • 3.6.5 マクレラン将軍
      • 3.6.6 奴隷解放宣言
      • 3.6.7 黒人部隊の大量徴兵
      • 3.6.8 1862年アメリカ合衆国中間選挙
      • 3.6.9 バーンサイド将軍
      • 3.6.10 フッカー将軍
      • 3.6.11 ミード将軍
      • 3.6.12 ゲティスバーグ演説
      • 3.6.13 グラント将軍
      • 3.6.14 1864年大統領選挙での再選
      • 3.6.15 修正第13条批准とハンプトン・ローズ・カンファレンス
      • 3.6.16 第二次大統領就任演説
      • 3.6.17 アポマトックス方面作戦
      • 3.6.18 レコンストラクション
      • 3.6.19 共和国と共和制の再定義
      • 3.6.20 その他の立法
      • 3.6.21 最高裁判所判事
      • 3.6.22 アメリカ合衆国に加盟した州
    • 3.7 暗殺
  • 4 死後のリンカーンの発掘
  • 5 リンカーンの宗教観と哲学観
  • 6 歴史的な評価
  • 7 栄誉
  • 8 リンカーンとインディアン
  • 9 リンカーンを演じた俳優
  • 10 脚注・出典
  • 11 参考文献
  • 12 関連文献
  • 13 関連項目
  • 14 外部リンク

人物

エイブラハム・リンカーンは、アメリカ合衆国最初の共和党所属の大統領である。そして、アメリカ合衆国大統領を務めた個々の人物の業績をランク付けするために実施された政治学における調査結果「歴代アメリカ合衆国大統領のランキング」において、しばしば、「最も偉大な大統領」の1人に挙げられている。

また、1863年11月9日、ゲティスバーグ国立戦没者墓地の開会式において行われた世界的に有名な演説である「ゲティスバーグ演説」において、戦没者を追悼して、「人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである」という民主主義の基礎を主張したことや、アメリカ合衆国南部における奴隷解放、南北戦争による国家分裂の危機を乗り越えた政治的業績、リーダーシップなどが、歴史的に高く評価されている。

奴隷制の拡張に反対するリンカーンの大統領当選は南部諸州の反発を招き、アメリカ合衆国を二分する南北戦争に結びついたが、北部連邦をよく指揮して、勝利へ導いた。しかし、南部連合総司令官のロバート・E・リー将軍が降伏した6日後の1865年4月15日、アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.にあるフォード劇場において、観劇中にジョン・ウィルクス・ブースの凶弾に倒れた。これにより、リンカーンは、アメリカ史上で初めて暗殺された大統領となった。

一方で、インディアンに対しては強い迫害の姿勢を見せ、民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバホや、ダコタ戦争を始めとする多くのインディアン戦争は、リンカーン政権下において、行われた。

日本語での表記について

リンカーンに日本人として初めて謁見したジョセフ彦こと浜田彦蔵が1864年に発行した「海外新聞」記事の記載例を見ると、「リンコルン」が6例、「レンコロン」が4例、「リンコリン」「レンコレン」が1例づつと、本間清雄や岸田吟香ら記者によって表記が分かれている。

1907年には、翻訳家の山縣悌三郎が次のように言及している。

明治末から昭和45年までの新聞切抜資料集である神戸大学の新聞記事文庫にも複数の訳があり、それぞれの初出は「リンコルン」が1912年、「リンカーン」が1913年、「リンカン」が1917年、「リンコン」が1927年(ただしリンコンは自動車の記事のみで人名には用いられていない)。件数も「リンカーン」126件、「リンコルン」89件、「リンカン」20件と、長音で「リンカーン」とする表記とローマ字読みの「リンコルン」が多数を占めている。

立身伝は明治・大正期の日本で評判となり出版物が相次いで刊行された。それらの表記は、1909年の『内外教訓物語 人之巻』では「リンコルン」、他にも櫻井鴎村の1918年の著作『リンコルン物語』があり、内ヶ崎作三郎の1919年の著作も『リンコルン』である。また、複数の作者により唱歌も作られており、国立音楽大学附属図書館索引で確認できる3曲のタイトルは全て『リンコルン』である。

1926年の高級車リンカーンの広告においては、「リンコン」の表記が確認できる。他にも島崎藤村の晩年の作品に『アブラハム、リンコンの母』がある。

このように、明治から戦後にかけて、日本語でのカナ表記はまったく統一されておらず、のちに「リンカーン」でほぼ統一された経緯も不明である。

1991年に国語審議会が発表した「外来語の表記」において、「Lincoln」を「リンカーン」と表記することが定められた。※ただし、「語例は、それぞれの仮名の用法の一例として示すものであって、その語をいつもそう書かなければならないことを意味するものではない」と留意事項が記されている。

2018年現在、グローバル化が急速に進展している現状を踏まえ、高等学校の世界史教科書では現地読みに近い「リンカン」で統一され、中学校の歴史教科書でも「リンカン」を採用する出版社が増えている。

生涯

生い立ち

詳細は「エイブラハム・リンカーンの前半生」を参照

ケンタッキー州時代

1809年2月12日、エイブラハム・リンカーンは、アメリカ合衆国ケンタッキー州ラルー郡(ラルー郡の当時の名称は、「ハーディン郡」である)にあるシンキング・スプリング農場(ホーゲンヴィルの町の3マイル南、ノーリン・クリーク)に建てられた間仕切りされていない丸太小屋において、トーマス・リンカーンおよびナンシー・ハンクス夫妻の息子として、誕生した。彼の誕生日はチャールズ・ダーウィンと同じ日である。

彼はインディアンに殺害された父方の祖父エイブラハム・リンカーンにちなんで命名された。祖父のエイブラハムは、家族とともにバージニア州からケンタッキー州ジェファーソン郡に移り住み、1786年、そこでインディアンに襲撃され、リンカーンの父トーマスを含む子供達が見ている前で殺された。

トーマスはこの辺境の地で自ら生計を立てて行くしかなかった。リンカーンの母ナンシーはルーシー・ハンクスの娘として現在のウェストバージニア州(当時はバージニア州)ミネラル郡で生れた。ルーシーはナンシーを伴ってケンタッキー州へ引っ越した。

1806年、ナンシーは尊敬される市民となっていたトーマスと結婚した。トーマスはシンキング・スプリング農場を含め幾つかの農場を売り買いした。この一家は、厳格な道徳規範を持ち、飲酒やダンス、奴隷制度に反対するセパレイト・バプテスト教会に通った。。トーマスはケンタッキーでそこそこの地位を占め、陪審員になり、土地を評価し、郡の奴隷警邏隊員を務め、刑務所の看守にもなった。

息子のエイブラハムが生れる頃には、600エーカー (2.4 km) の農場2か所と町の数区画、家畜や馬を所有していた。彼は郡内ではもっとも裕福な者の部類に入っていた。しかし1816年、土地の権利証が偽物だったため、彼は訴訟で土地の全てを失った。

インディアナ州時代

両親は無学な開拓農民であり、リンカーンが7歳の時(1816年)に一家は貧困と奴隷制度のために、自由州(奴隷のいない州)であるインディアナ州スペンサー郡へ転居して新たなスタートを切った。リンカーンは後に、この転居は「奴隷制という理由もあった」が、主として土地獲得の困難さだったと述べていた。父がケンタッキー時代に土地と訴訟で何度も苦しむ様を見ていたリンカーンが成人して測量術を覚え、その後に弁護士になったのもこれらの事情が動機になった可能性がある。

9歳の時(1818年)に、母ナンシーが毒草を食べた牛の乳を誤飲したことでミルク病(en:Milk sickness)になり、34歳で亡くなった。母の死後は2歳年上の姉のサラがリンカーンの面倒を見ていたが、リンカーンが19歳の時に、サラは死産をして21歳で急逝した。

10歳の時(1819年)に、父トーマスが3人の子を持つ未亡人サラ・ブッシュ・ジョンストンと再婚した。エイブラハムと継母との関係は良好で、彼女のことを「お母さん」と呼んでいたという。リンカーンは幼い頃に辺境の生活に伴うきつい労働を好まなかった。家族や近所の者の中には彼が怠け者だと考える者もいた。10代になって長じるに連れて、家事を行ううえで少年に期待されるあらゆる雑用を進んでこなすようになり、レールフェンスを作るときには斧使いの達人になった。

リンカーンは21歳になるまで家の外で稼いできたものを父に渡すという当時の慣習的義務を果たしていたことも認めている。後年は度々父に金を貸すことがあった。リンカーンの父は無学だったこともあって、次第に父からは疎遠になっていった。教育ジャーナリストのアンナ・スプロウルは、トーマス・リンカーンの言葉として「エイブのやつァ、また教育とかに夢中なんじゃろう。わしは止めようとしたんだが、思い込みがはげしくて、どうにもならん」を紹介している。父トーマスの様子を窺うことができる。リンカーンの受けた正式な教育は幾人かの巡回教師からの1年分に相当するほどの基礎教育だけであり、それ以外はほとんど独学であり、読書も熱心だった。

イリノイ州時代

1830年にオハイオ川一帯でのミルク病の蔓延を怖れたリンカーン一家は、父親が選んだサンガモン川沿いのやはり自由州であるイリノイ州メイコン郡(現在のディケーター付近)の公有地に転居した。その年の冬は厳しい寒さだった。1831年父親は再度イリノイ州コールズ郡への転居を決めるが、大望ある22歳のリンカーンがより良い生活を求め一人で生きていくことを決めたのがこの時だった。

ニューセイラム時代

青年時代のリンカーン像、シカゴ市センパーク

独りでサンガモン川カヌーで下り、イリノイ州サンガモン郡(現在のメナード郡)ニューセイラムに移り住んだ。同年春、ごろつき集団「クレアリーズ・グローブ・ボーイズ(Clary’s Grove boys)」の有名な首領ジャック・アームストロングの挑戦を受け、デントン・オファットのゼネラルストア(雑貨屋)でレスリングの賞金試合(創世期のプロレス)を行ない引き分けたという。非常に激しい試合の展開で、その腕力と大胆さで知られるようになった。1831年末に彼はニューセイラムの実業家デントン・オファットに雇われ友人と共に平底船に乗ってニューセイラムからルイジアナ州ニューオーリンズへサンガモン川からミシシッピ川を下り品物を運搬した。ニューオーリンズ滞在中に彼は自身の生涯に大きな影響を与えることとなる黒人奴隷売買を目撃しているかもしれない。1832年4月11日の地方新聞(イリノイ州ビアーズタウン)にレスリングの試合でロレンゾ・ダウ・トンプソンがエイブラハム・リンカーンを2-0で破ったという記事がでた。リンカーンは歩いてニューセイラムに戻った。

リンカーンは若いころにジョシュア・フライ・スピードという友人と共に暮らし、さらには夜に同じベッドで睡眠をとっていた。この生活は4年間続き、スピードのほかに別の友人も同じ部屋で生活した時期もあった。スピードとの特別な友情は彼の死まで続いた。極めて親密ではあるが性的行動は介在しない同性との関係はロマンティックな友情と呼ばれ当時の西欧社会では珍しいことではなかったが、妻のメアリー・トッドとの関係がやや希薄であったとの資料もあり、歴史家の中にはリンカーンがバイセクシュアルであったと考えるものもいる(Sexuality of Abraham Lincolnを参照)。

リンカーン自身は自らについてあまり語らなかった。大統領指名が問題になった頃、選挙関係の文書に使う資料として求められ、早急に起草した自伝風の素描が「自叙伝」と呼ばれるものであり、上述のような半生が語られている。高木八尺がフロンティア精神を発揮したパイオニアの典型に挙げたのは、リンカーンである。丸太小屋に育ち、斧で樹を伐ることにすぐれ、敬虔、素朴、質実、健全という辺境生活が培った美徳を備えた人物として、リンカーン像が描かれており、ユーモアのセンスを豊かに持っていたことを含めて、リンカーンの性格は「すべて辺境において彼の経験した、人としての鍛錬と切り離しては考え難い事柄である」と述べている。

後にリンカーンが大統領になってから、『アンクル・トムの小屋』を書いて有名になっていたハリエット・ビーチャー・ストウホワイトハウスに招いたことがあった。この時、リンカーンはいきなり「ではあなたがこの大きな戦争を起こした本を書いた小さな婦人ですね」と述べた。ハリエットに付き添っていた娘のハティは、兄弟にあてた手紙の中でこの時の様子を述べ、「ホワイトハウスで過ごした時間はとてもおどけていたのよ、本当よ」と書き、「帰ってからはなすけれど、とにかくとてもおかしくて、いつも今にも笑いが爆発しそうだったわ」と会談の雰囲気を描いていた。リンカーンのユーモアを推測させる逸話である。

ブラック・ホーク戦争従軍

1832年、23歳のリンカーンと共同経営者がニューセイラムで小さな雑貨屋を借金で購入した。経済は上り調子だったが、事業は難しく、リンカーンは最終的に持ち分を手放した。この年、イリノイ州とソーク族およびフォックス族インディアン連合との間で、ブラック・ホーク戦争が始まった。ソーク族とフォックス族は、この地に広大な領土を持っていたが、イリノイ州は彼らを一人残らず州外へ追い出そうとした。リンカーンはイリノイ州民兵隊に大尉として参加した。

ニューセイラムでの最初の冬に、リンカーンはニューセイラム討論クラブの集会に出席した。ここで行ったこと、店や製材所、製粉所を切り盛りする効率の良さ、さらには彼自身の自立していく努力もあって、間もなく町の指導者であるジョン・アレン博士、メンター・グラハムおよびジェイムズ・ラトリッジなどから敬意を持って迎えられるようになった。彼らはリンカーンがこの成長する町に利益をもたらすことができると考えて政治の世界に入ることを勧め、1832年3月にリンカーンは、スプリングフィールドの印刷屋「サンガモン・ジャーナル」に持ち込んだ原稿でイリノイ州議会議員候補者になることを宣言することで、政治との関わりを始めた。

1832年イリノイ州議会議員選挙

ブラック・ホーク戦争から戻ると、4月6日の選挙日に向けて運動を始めた。リンカーンはサンガモン川の航行をやりやすく改良することを訴えていた。ニューセイラムでは持って生まれた雄弁家として人気を集め聴衆を引き付けた。リンカーンの身長は6フィート4インチ (193 cm) あり、「対抗馬をおびえさせるほど強かった。」最初に演説をしている時に、群衆の中の支持者が攻撃されているのを見て、攻撃者の「首とズボンの尻の部分を」つかむと放り投げた。しかし教育がなく、強力な友人と金がなかったことがその落選に結びついた可能性がある。選挙結果でリンカーンは立候補者13人のうち8位(上位4位までが当選)だった。得票数300票のうちニューセイラムから277票を受けていた。

リンカーンはニューセイラムの郵便局長を、さらに後には郡測量士を務め、その間も貪欲に読書を続けた。その後弁護士になる決心をし、ウィリアム・ブラックストンの『イギリス法注釈』など書籍を読むことで法律を独学し始めた。その学習方法について「私は誰にも付かずに学んだ」と語っていた。

1834年イリノイ州議会議員選挙

リンカーンが1834年に州議会議員へ2度目の出馬を行う決断をした背景には、彼の言う「国の負債」を支払う必要性と、議員としての給与からくる追加収入に強く影響されるものがあった。この時期までにリンカーンはホイッグ党員となっていたが、その選挙戦略は国家的問題に関する議論を避け、地区内をくまなく歩いて有権者一人一人に挨拶することに集中された。その地区のホイッグ党を指導するのは、リンカーンがブラック・ホーク戦争の時から知っていたスプリングフィールドの弁護士ジョン・トッド・スチュアートだった。地元の民主党員はリンカーンよりもスチュアートの方を怖れており、13人いた党候補者のうち2人を降ろし(1832年と同様に上位4人が当選)、リンカーンへの支持を表明し、スチュアートを破ることに集中できるようにした。スチュアートは自身の勝利を確信しており、リンカーンに民主党の後援を受け入れるよう助言した。この戦略が功を奏し、8月4日の選挙ではリンカーンが第2位の得票数となる1,376票を得て当選し、スチュアートも当選した。リンカーンは、たくさんの聴衆に向かって話すときに、一番端にいる者にも聞こえるように声を鍛えた。ある時、11歳の少年が一番前の席でリンカーンが演説するのを見上げていると、額に霧のようなものが落ちてきて濡れてしまったという。しかし、その少年は大型のハンカチを使ってその場を動かなかったということである。リンカーンの演説にはそれほど人を引きつける力があった。

恋愛

リンカーンの最初のロマンスはニューセイラムに初めて来たときに出会ったアン・ラトリッジだった。1835年には交際を続けていたが、正式に婚約することはなかった。アンはこの年8月25日に死んでおり、腸チフスだったとされている。

スプリングフィールド時代

弁護士職 (1. ジョン・トッド・スチュアート)

1836年には法廷弁護士として認められ、スプリングフィールドに転居して、後に妻となるメアリーのいとこであり、上にも触れたジョン・トッド・スチュアートの下で法律実務を始めた。弁護士としては、反対尋問や最終弁論では手強い相手という評判を取り、有能で成功した弁護士となった。

1836年・1838年イリノイ州議会議員選挙

1835年から1836年、下院議会で白人男性の選挙権を土地の所有に拘わらず拡大する案に賛成の投票を行った。奴隷制と奴隷制廃止論のどちらにも反対する「自由土地派」("free soil")と呼ばれた政治姿勢で知られた。1837年にこのことについて初めて発言し、「奴隷制度は不正と悪政にねざすことを信じるが、しかし奴隷廃止論の公布はその害悪を減ずるよりはむしろ増大させるものと信ずる」と述べている。アメリカ植民地協会を推進していたヘンリー・クレイに密接に従い、解放された奴隷をアフリカリベリアに再入植させることで、奴隷制を事実上廃止できると考えていた。

イリノイ州下院議員の方はサンガモン郡選出のホィッグ党員議員として連続4期(8年間)務めた。

弁護士職 (2. ステイーブン・T・ローガン)

1841年から1844年にはステイーブン・トリッグ・ローガンと共同で法律事務所を運営した。

結婚と家族

1864年に撮影されたリンカーンと末っ子のタッド
メアリー・トッド・リンカーン、この写真は28歳のとき

1830年代前半にはケンタッキーから姉妹の家を訪れていたメアリー・オーウェンズと出会った。1836年後半、リンカーンはメアリーがニューセイラムに戻ってくるなら結婚することに合意した。メアリーは1836年11月に実際に戻ってきて、2人はしばらく交際したが、2人共にその関係を再考することになった。1837年8月16日、リンカーンはメアリーに宛てて、彼女が2人の関係を終わらせたとしても決して責めたりはしないということを示唆する手紙を送った。メアリーはこれに対する返事を出さず、2人の交際は終わった。

1840年、ケンタッキー州レキシントンの裕福な奴隷所有家の出身であるメアリー・トッドと婚約した。2人は1839年12月にイリノイ州スプリングフィールドで出会って、翌年12月には婚約していた。結婚式は1841年1月1日とされていたが、リンカーンからの申し出で婚約が破棄された。しかし、後にあるパーティで再会し、1842年11月4日にスプリングフィールドにあるメアリーの姉妹が嫁いでいた邸宅で結婚した。結婚式の準備をしているときに再度躊躇う気持ちになり、どこへ行こうとしているかを問われた時に、「地獄へだと思う」と答えていた。

1844年、この夫婦はスプリングフィールドにあるリンカーン法律事務所の近くで家を購入した。メアリーはケンタッキーの家であれば家族がこなしていたであろう家事一切を引き受け、勤勉に働いた。彼女は夫が法律実務で挙げる限られた収入を効果的に遣うこともできた。

1843年に長男のロバート・トッド・リンカーン(1843年8月1日 - 1926年7月26日)が生まれた。1846年には次男のエドワード・ベイカー・リンカーン(エディ、1846年3月10日 - 1850年2月1日)が生まれた。リンカーンはかなり子供好きであり、躾には厳しくなかったと考えられている。ロバートは成人まで成長した唯一の子供になった。エディは1850年2月1日に亡くなり、結核と考えられている。1850年12月21日にウィリアム・ウォレス・リンカーン(ウィリー)が生まれ、1862年2月20日に死んだ。四男タッド・リンカーンは1853年4月4日に生まれ、1871年7月16日、18歳で心不全のために死んだ。

息子達に死なれたことは両親に大きな影響を与えた。メアリーは後に夫や息子達をなくしたことに関わるストレスに苦しむようになり、長男のロバートは1875年に彼女を一時的に精神疾患療養所に入れた。リンカーン自身も今日で言う臨床的鬱病に相当する抑鬱状態を味わったことがあった。

リンカーンの義父はケンタッキー州レキシントンを本拠にしていた。彼とその他のトッド家は奴隷所有者であるか奴隷売買業者だった。リンカーンとトッド家の関係は親密であり、家族で度々レキシントンのトッド家を訪れることがあった。リンカーンは留守をすることが多かったが、愛情豊かな夫であり、かつ4人の子供の父親だった。

現在リンカーンの直系子孫は断絶(1985年、曾孫の一人であるロバート・トッド・リンカーン・ベックウィスが81歳で死去し、断絶)しているが、リンカーンの母ナンシーの出身一族ハンクス家の子孫は今日まで続いており、俳優のトム・ハンクスはそのひとりである。このほか6世の孫であるジョン・ディキンソン(1973年-)が1984年(昭和59年)の第8回アメリカ横断ウルトラクイズにおいて日本に紹介された。

国政への進出

リンカーンは1830年代初期から確固たるホイッグ党員であり、1861年には友人達に「古いホイッグ党路線、ヘンリー・クレイの弟子」と表明していた。ホイッグ党はリンカーンを含め、銀行、鉄道の経済近代化、内国改良に賛成し、都市化や保護関税を支持していた。

1846年合衆国下院議員選挙

30代後半のリンカーン、リンカーンの法律に関する教え子が撮影、1846年頃

1846年にリンカーンはホイッグ党員としてアメリカ合衆国下院議員に選出され、1期2年間を務めた。イリノイ州選出ホイッグ党議員はリンカーン1人だったが、投票を行うほとんど全ての機会に参加し、党の路線に沿った演説を行うことで党への忠誠を示した。奴隷制廃止論者のジョシュア・R・ギディングスとの共同提案で、コロンビア特別区における奴隷制を廃止するという法案を起草した。これには奴隷所有者に補償金を支払うこと、逃亡奴隷を捕らえることを強制すること、さらにこの件について住民投票を行うという条件が付いていた。しかしホイッグ党支持者から十分な支持を得られなかったので、この法案を取り下げた。信頼されるべきホイッグ党員として彼はしばしば党首のヘンリー・クレイを賞賛した。下院議員として多くの時間を彼はワシントンD.C.で独りで過ごし、また政治家仲間にめざましい印象を与えた。外交政策や軍事政策では米墨戦争に反対し、その原因がジェームズ・ポーク大統領の「軍事的栄光 - 血の雨の後に出来る魅力的な虹」への野望にあるとして反戦の演説を行った。ウィルモット条項も支持した。これが成立しておれば、アメリカ合衆国がメキシコから獲得した領土で奴隷制が禁じられるはずだった。

1847年、リンカーンは「スポット決議」(連邦議会下院における現地点問題に関する決議案)を起草して提案することでポークに対する反対を強調した。この戦争はメキシコがメキシコとアメリカ合衆国との間で紛争になっている地域でアメリカ兵を殺したことに始まっていた。ポークはメキシコ兵が「我が国の領土」を侵犯し、「我が国の大地」で仲間市民の血を流させたと主張した。リンカーンはポークに血が流された正確な地点を示し、そこがアメリカの大地であることを議会に示すよう要求した。議員たちの多くも、ホイッグ党の議員が民主党を攻撃しているという程度にしか受け止めず。、議会はこの決議案を取り上げず議論すらしなかった。全国紙はこれを無視し、リンカーンの地元のイリノイ州では、民主党系の新聞が予想通りリンカーンを攻撃した。リンカーンはその選挙区での支持を無くす結果になった。あるイリノイ州の新聞が「スポッティ・リンカーン」とあだ名をつけて嘲った。リンカーンは後に、自分の声明の中で特に大統領の戦争遂行能力を攻撃したことを後悔した。高木八尺は、「本質的には、国策決定の根底に事実の歪曲、虚偽の介在を許すべからずとする人間リンカーンの血のにじむような良心の叫びだった」と評している。

1848年のホイッグ党大統領候補指名選挙では、ヘンリー・クレイでは勝ち目がないと理解し、下院で1期のみ務めると誓っていたリンカーンはザカリー・テイラー将軍を支援した。テイラーが当選し、リンカーンは土地利用局のコミッショナーに指名されることを期待していたが、この職は同じイリノイ州出身のライバルであるジャスティン・バターフィールドに行った。バターフィールドは内閣から高度に熟練した弁護士と考えられていたが、リンカーンの見解では「古い化石」に過ぎなかった。下院の任期が終了したとき、来るテイラー政権はリンカーンに論功行賞としてオレゴン準州の州務長官あるいは知事の職を用意した。この遠隔の地は民主党の強い地盤であり、それを受ければイリノイ州での法律と政治の経歴が終わりになると判断したリンカーンはそれを断り、スプリングフィールドに戻って、活動的なホイッグ党員のままではあったがその精力のほとんどを弁護士の活動に向けた。

弁護士職 (3. ウィリアム・H・ハーンドン)

1844年にはリンカーンが「学問好きな若者」と考えたウィリアム・H・ハーンドンとの法律実務を始めた。 リンカーンは、スプリングフィールドで法律実務に戻り、「プレーリーの弁護士の前に来るあらゆる種類の案件」を取り扱った。16年の間に年2回、1回あたり10週間、州の中央にある郡庁所在地で郡裁判所が開かれているときに現れた。国が西方に拡張していく中で、多くの運輸関係訴訟を取り扱った。特に多くの新しい鉄道橋の下を通る川のはしけの運行から持ち上がる紛争があった。リンカーンは川船に乗った経験があり、当初は川船の側に付いていたが、最終的には誰でも彼を雇う者の仕事をした。その評判は上がり、橋に衝突した後に沈んだ運河用船の訴訟では合衆国最高裁判所の法廷にも立った。1849年には喫水の浅い水域で船を動かすために浮上装置の特許を取得した。このアイディアは商業化されなかったが、リンカーンは特許権を得た唯一の大統領となった。

1851年オールトン・アンド・サンガモン鉄道に代わって、その株主ジェームズ・A・バレットを訴えた。バレットはオールトン・アンド・サンガモン鉄道が計画した路線を変更したという理由で株を購入するときに誓約した企業に対する差引勘定の支払いを拒絶した。リンカーンは、法律問題として公益のためであれば企業は契約書に拘束されないと主張した。新しく提案されたオールトン・アンド・サンガモン鉄道の路線は以前の路線に比べ利便性に勝り、変更のための費用もそれほどかからなかった。従ってオールトン・アンド・サンガモン鉄道には逆に支払いの遅延でバレットを訴える権利があった。リンカーンはこの訴訟に勝利し、イリノイ州最高裁判所によるこの判例はアメリカ国内の他の法廷で引用されることとなった。リンカーンはイリノイ州最高裁判所に175の訴訟で出廷し、そのうち51件は単に助言だったが、31件で有利な判決が出た。

ことに西部方面へのインディアン領土への鉄道拡張に関しては、インディアンの土地権利の抹消処理を多数手がけた。リンカーンが「無効(neutralized)」としたインディアン部族の土地に対する書類は現在も数多く残されている。

1853年から1860年、リンカーンのもう一つの重要な顧客はイリノイ・セントラル鉄道だった。もう一件の鉄道弁護士としての成果は州がイリノイ・セントラル鉄道に許可した免税に関する訴訟だった。マクリーン郡は、州にはそのような免除を与える権限がないと主張し、鉄道会社への課税の権利を主張した。1856年1月にイリノイ州最高裁判所は、リンカーンの申し立てを受理して免税が妥当であるとする見解を示した。

弁護士としての彼は非常に精力的で、寝る間を惜しんで働いていたことから周囲から「正直者エイブ」「働き者エイブ」と親しまれていた。しかし実は、妻がヒステリー持ちでしばしばリンカーンに当り散らすため、家にあまりいたくないからオフィスで働いていたといわれる。

リンカーンが扱った最も有名な刑事事件は、1858年にジェイムズ・プレストン・メッツカーの殺人容疑で起訴されたウィリアム・"ダフ"・アームストロングを弁護したときだった。この事件では目撃者の信用性に異議申し立てするために司法判断によって成立した事実を使うという方法で有名になった。目撃者が深夜に犯罪を目撃したという証言に反論した後、農民暦を取り出して、月が低い角度にあったことを示し、視認性が非常に落ちていたはずだと語った。この証拠に基づき、アームストロングは無罪となった。リンカーンは法廷では滅多に声を荒らげることはなかった。しかし1859年の事件では、他人を刺殺した容疑で告発されたいとこのピーチー・ハリソンの弁護に当たり、被告の利益につながる証拠を判決から除外していると、激怒しながら抗議した。その判事は民主党員だったが、予想された

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出典:wikipedia
2018/11/19 11:53

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