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エチオピアとは?

エチオピア連邦民主共和国
የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ
Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblik
(アムハラ語)



(国旗) | (国章)
国の標語:なし
国歌:親愛なる聖エチオピア
公用語 アムハラ語(事実上)
首都 アディスアベバ
最大の都市 アディスアベバ
政府
大統領 サーレワーク・ゼウデ
首相 アビィ・アハメド
面積
総計 1,127,127km(26位)
水面積率 0.7%
人口
総計(2017年) 105,350,020人(13位)
人口密度 93.4人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2013年)】
8,527億ブル
GDP (MER)
【合計(2013年)】
460億ドル(85位)
GDP (PPP)
合計(2013年) 1,267億ドル(73位)
【1人あたり】
1,427ドル
建国
ダモト王国
紀元前980年ごろ
アクスム王国
100年ごろ
エチオピア帝国
1137年 / 1270年
イタリアの併合
1936年5月9日 -
1941年11月28日
【エチオピア革命】
1974年9月12日

通貨 ブル (ETB)
時間帯 UTC (+3)(DST:なし)
ISO 3166-1 ET / ETH
ccTLD .et
国際電話番号 251

エチオピア連邦民主共和国(エチオピアれんぽうみんしゅきょうわこく、アムハラ語: የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ)、通称エチオピアは、東アフリカに位置する連邦共和制国家。首都はアディスアベバ

東をソマリア、南をケニア、西を南スーダン、北西をスーダン、北をエリトリア、北東をジブチに囲まれた内陸国。隣国エリトリアは1991年にエチオピアから分離した国家である。

アフリカ最古の独立国および現存する世界最古の独立国の一つである。人口は約1億200万人(2016年7月推定)で、サハラ以南のアフリカでは、ナイジェリアに次いで二番目に人口の多い国である。

目次

  • 1 国名
  • 2 歴史
    • 2.1 古代・中世
    • 2.2 エチオピア帝国
      • 2.2.1 ザグウェ朝
      • 2.2.2 ソロモン朝
      • 2.2.3 諸公侯時代
    • 2.3 ソロモン朝の中興
    • 2.4 イタリア領東アフリカ
    • 2.5 イギリス軍政とソロモン朝復古独立
    • 2.6 エチオピア・エリトリア連邦
    • 2.7 冷戦期・メンギスツ政権
    • 2.8 エリトリアの独立・メレス政権
      • 2.8.1 オガデンの反乱
      • 2.8.2 エチオピア・エリトリア国境紛争
      • 2.8.3 東アフリカ大旱魃
    • 2.9 ハイレマリアム政権
    • 2.10 アビィ・アハメド政権
  • 3 政治
    • 3.1 政治体制
    • 3.2 行政
    • 3.3 立法
    • 3.4 政党
  • 4 国際関係
    • 4.1 エリトリアとの関係
    • 4.2 ソマリアとの関係
    • 4.3 日本国との関係
    • 4.4 中華人民共和国との関係
  • 5 地方行政区分
    • 5.1 主要都市
  • 6 地理
    • 6.1 気候
  • 7 軍事
    • 7.1 予算
    • 7.2 陸軍
    • 7.3 空軍
    • 7.4 海軍
  • 8 経済
    • 8.1 農業及び畜産業
    • 8.2 鉱工業
    • 8.3 情報通信
    • 8.4 通貨
  • 9 交通
    • 9.1 道路
    • 9.2 鉄道
    • 9.3 航空
  • 10 国民
    • 10.1 民族
    • 10.2 言語
    • 10.3 宗教
    • 10.4 教育
    • 10.5 婚姻
  • 11 文化
    • 11.1 食文化
    • 11.2 音楽
    • 11.3 文学
    • 11.4 世界遺産
    • 11.5 紀年法及び暦法
    • 11.6 祝祭日
    • 11.7 スポーツ
  • 12 エチオピア出身の人物
  • 13 脚注
  • 14 参考文献
  • 15 関連項目
  • 16 外部リンク

国名

正式名称はアムハラ語で、የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ(ラテン文字転写は、Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblik)。通称、የኢትዮጵያ (Ityop'iya 聞く)。

公式の英語表記は、Federal Democratic Republic of Ethiopia。通称、Ethiopia

日本語の表記は、エチオピア連邦民主共和国。通称、エチオピア。他にエティオピアとも表記される。

国名のエチオピアは、ギリシャ語でエチオピア人を意味するアイティオプス(Αἰθίοψ)に由来し、この語は「日に焼けた」(αἴθω 焼く + ὤψ 顔)と意味と解釈され、エチオピア人の肌の色に由来している。ギリシャ神話パエトーンを参照。本来はアフリカ大陸の広範囲に渡る地域を指す。また、別名のアビシニアは、アラビア語のアル・ハバシャ(al-ḥabašah الحبشة)がラテン語化した形である [1]

ヨーロッパ人にはアビシニアと呼ばれていたが、1270年から1974年までの長きにわたりエチオピア帝国と称してきた(1936年からの5年間イタリア領東アフリカに編入された時期を除く)。1974年のクーデターの後、1987年まで社会主義エチオピア1991年までエチオピア人民民主共和国と称し、1995年憲法改正によりエチオピアとなったが、1995年に再度の憲法改正により現在のエチオピア連邦民主共和国となった。

歴史

詳細は「エチオピアの歴史」を参照

古代・中世

ギリシャ語が刻まれたアクスム王国の通貨

エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王サバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国(100年940年)が、紅海沿岸の港町アドゥリス(現在のエリトリアマッサワ近郊)を通じた貿易で繁栄した。全盛期は4世紀でこのころコプト教伝来の影響が見られ(コプト教伝来以前はサバ王国から伝わった月崇拝を宗教としていた)、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。アクスムはヒジュラで預言者ムハンマドと最初の信者達を匿ったため、イスラム帝国が紅海とナイル川の多くの支配権を得て、アクスムが経済的に孤立していってもアクスムとムスリムは友好関係を保ち、アクスムが侵攻されたり、イスラム化されたりすることはなかった。アクスム王国は、10世紀ごろにベタ・イスラエルの女首長グディトに滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のラスタ地方から台頭してきたアガウ族ザグウェ朝(ca.1137,ca.1150 - 1270)に滅ぼされたという説がある。

エチオピア帝国

詳細は「エチオピア帝国」を参照

エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガストと呼ばれ、これは「王(ネグス)の中の王」という意味である。王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていなかったりした時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれた。

ザグウェ朝

ザグウェ朝エチオピア帝国(1137年1270年)は、13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ王のときが全盛期で、首都ロハ(現ラリベラ)には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショアアムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。

ソロモン朝

イクノ・アムラクの建てた王朝はソロモン朝エチオピア帝国(1262年-1974年)と呼ばれる。ソロモン朝は、アムデ・ション1世以降15世紀のゼラ・ヤコブまで全盛を誇り、エジプトマムルーク朝に大きな態度をとることすらあった。

諸公侯時代

しかし、16世紀以降ムダイト朝オーッサ・スルタン国(1734年–現在)が強勢となってソロモン朝の力は衰え、1679年から1855年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。

ソロモン朝の中興

19世紀末のエチオピア
エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世アフリカ統一機構ラスタファリ運動でカリスマ的存在となって世界各地の黒人に大きな希望を与えた。

諸公侯の群雄割拠を抑えて再び統一へ向かわせたのがテオドロス2世であり、ソロモン朝中興の主とされ、近代エチオピアは彼の治世に始まったとされる。メネリク2世の19世紀の末に2度イタリアの侵略を受けたが、1896年アドワの戦いによって、これを退けた(第一次エチオピア戦争)。このことは、アフリカの帝国がヨーロッパ列強のアフリカ分割を乗り切り独立を保ったという画期的な出来事だった。これにより、エチオピアはリベリアと並んでアフリカの黒人国家で独立を守り切った国家となった。

1930年11月2日に皇帝に即位したハイレ・セラシエ1世は、即位後エチオピア初の成文憲法となったエチオピア1931年憲法大日本帝国憲法を範として制定した。1930年11月2日の皇帝ハイレ・セラシエの即位は、カリブ海のイギリス植民地、ジャマイカマーカス・ガーベイの思想的影響を受けていた黒人の間に、ハイレ・セラシエを黒人の現人神たる救世主、「ジャー」であると見なすラスタファリ運動を高揚させ、アメリカ大陸汎アフリカ主義に勢いを与えた。

イタリア領東アフリカ

詳細は「イタリア領東アフリカ」を参照

しかし、新帝ハイレ・セラシエ1世の即位とエチオピア帝国憲法の制定も束の間の平穏であった。ファシストイタリア王国の統領ベニート・ムッソリーニは、1931年の時点で人口4200万人に達していたイタリア国内の過剰人口を入植させるための「東アフリカ帝国」の建設を目論み、1934年の「ワルワル事件」を経た後、「アドワの報復」と「文明の使節」を掲げて1935年10月3日イタリア軍がエチオピア帝国に侵攻、第二次エチオピア戦争が勃発した。イタリア軍は1936年3月のマイチァウの戦い毒ガスを使用して近代武装した帝国親衛隊を含むエチオピア軍を壊滅させた後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はジブチを経てロンドンに亡命、1936年5月5日ピエトロ・バドリオ率いるイタリア軍が首都アディスアベバに入城した。

首都アディスアベバ陥落後、1936年から1941年にかけてエチオピアはイタリアの植民地に編入され(イタリア領東アフリカ)、ファシスト・イタリアはイスラーム教徒のオロモ人を優遇し、キリスト教徒アムハラ人を冷遇する分割統治策を採用したが、その間も「黒い獅子たち」と呼ばれるゲリラが抗イタリアのレジスタンス運動を行った。

イギリス軍政とソロモン朝復古独立

1939年9月1日第二次世界大戦が勃発し1940年6月10日にイタリアが参戦すると、枢軸国イタリアは連合国のイギリスとの戦いを繰り広げ、エチオピアを占領していたイタリア軍とイギリス軍は東アフリカ戦線の激戦の後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はイギリス軍と共に1941年にアディスアベバに凱旋した。イギリス軍軍政を経た後、再びエチオピアは独立を回復した。 独立回復の翌年の1942年にはかつて占領されたイタリアを含む枢軸国に対し宣戦布告し、連合国として第二次世界大戦に参戦した。

エチオピア・エリトリア連邦

詳細は「エチオピア・エリトリア連邦」を参照

1952年エリトリア連邦を組んで、エチオピア・エリトリア連邦が成立した。しかし、国内の封建的な諸制度は温存されたままであり、これが社会不安を引き起こすこととなった。1960年には皇帝側近によるクーデター未遂が勃発した。

冷戦期・メンギスツ政権

1962年にはエリトリアをエリトリア州として併合した。こうした中1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争、および旱魃による10万人餓死という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍が反乱。最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月軍部によって逮捕・廃位させられた(1975年帝政廃止)。

軍部はアマン・アンドム中将議長とする臨時軍事行政評議会(PMAC, Provisional Military Administrarive Council) を設置、12月に社会主義国家建設を宣言し、ソ連の半衛星国となる。1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC議長就任。恐怖独裁政治や粛清により数十万人が殺害されたとされる(エチオピア内戦)。1987年の国民投票で PMAC を廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。エリトリアティグレオガデンの各地方での反政府勢力との戦闘(エリトリア独立戦争オガデン戦争)の結果、メンギスツ大統領は1991年5月にジンバブエへ亡命。

エリトリアの独立・メレス政権

1991年、エチオピアからの独立を目指すエリトリアの勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) は、ティグレ人民解放戦線(TPLF)等と共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こし当時の指導者メンギスツ政権を倒し、同年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心とした反政府勢力連合エチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF)によるエチオピア新体制の確立に伴い、1993年5月24日にエリトリアの独立が承認された。また、エチオピアでもEPRDFにより暫定政権が樹立され、EPRDFのメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領に就任した。1995年8月には新憲法が制定され、ネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは新憲法下で事実上の最高指導者となる首相に就任し、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。

オガデンの反乱

詳細は「オガデンの反乱」を参照

エチオピア・エリトリア国境紛争

1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展(詳細については、エチオピア・エリトリア国境紛争の項を参照)。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構 (OAU) の停戦提案を受け入れた。7月、国連安保理国際連合安全保障理事会決議1312号によりPKOである国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定。

2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。

東アフリカ大旱魃

詳細は「東アフリカ大旱魃 (2011年)」を参照

ハイレマリアム政権

2012年8月20日、メレス首相の死去を受け、ハイレマリアム・デサレンが新首相に就任。

アビィ・アハメド政権

2018年4月2日、ハイレマリアム首相の辞任を受け、後任の首相にアビィ・アハメドが就任。1991年にエチオピア人民革命民主戦線が政権を握って以降、オロモ人の首相就任は初めてとなる。 2019年10月11日、エリトリアとの和平を成し遂げたことが評価され、アビィ・アハメド首相に、ノーベル平和賞が授与された。

政治

第12代首相 アビィ・アハメド
詳細は「エチオピアの政治」を参照

政治体制

政治体制は、連邦共和制。現行憲法エチオピア1995年憲法である。

国家元首たる大統領の権限は、形式的儀礼的なものに限られる。任期は6年で、下院により選出される。現大統領サヘレウォルクは、2018年10月に就任した。

行政

行政府の長である首相は、下院議員の総選挙後に開かれる議会において、下院議員の中から選出される。内閣の閣僚は、首相が選任し、下院が承認する。任期は5年だが、議院内閣制のため、任期途中で失職する場合もある。

立法

議会は、二院制上院(連邦院)は108議席で、議員は各州議会によって選出される。下院(人民代表院)は 548 議席で、議員は小選挙区制選挙で選出される。議員の任期は、上下院とも5年。

政党

連立与党は、エチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) を構成するオロモ人民民主機構 (OPDO)、アムハラ民族民主運動 (ANDM)、南エチオピア人民民主運動 (SEPDM)、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) の4党。その他の主要政党はエチオピア民主連盟全エチオピア統一党統一エチオピア民主党・メディン党虹のエチオピア・民主社会正義運動の4党で構成される統一民主連合 (UDF) など。反政府勢力として、オロモ解放戦線 (OLF) など4組織で構成された統一オロモ解放戦線 (UOLF) やオガデン民族解放戦線 (ONLF) がある。

かつて共産主義政権時代の支配政党であったエチオピア労働者党は勢力を失い、自然消滅している。

国際関係

詳細は「エチオピアの国際関係」を参照

エリトリアとの関係

かつてエチオピアの領土(エリトリア州)であった北の隣国エリトリアとの関係では、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) がティグレ人民解放戦線 (TPLF) とともに反メンギスツ闘争を戦い抜いたこともあり、1991年のエリトリア独立当初の関係は良好であったが、バドメ地区の領土問題や港湾の利用権、エリトリアの独自通貨導入などにより関係が悪化し、1998年に武力衝突に発展した(エチオピア・エリトリア国境紛争)。2000年に国際連合エチオピア・エリトリア派遣団 (UNMEE) が派遣され調停に当たったものの2008年に撤退した。2018年7月9日、エリトリアの首都アスマラにおいて、エチオピアのアビィ・アハメド首相とエリトリアのイサイアス・アフェウェルキ大統領が20年ぶりの首脳会談を行い、長年にわたる戦争状態を終結することで合意。戦争状態の終焉や経済・外交関係の再開、国境に係る決定の履行を内容とする共同宣言に署名した。

ソマリアとの関係

詳細は「エチオピアとソマリアの関係」を参照

東の隣国ソマリアとの関係では、かつて大ソマリ主義を掲げていた関係で問題を抱えている。国内にソマリ人居住地域のオガデンを抱えるエチオピアは、その帰属をめぐって1977年にソマリアとオガデン戦争を起こした。メンギスツ政権は、キューバ軍の直接介入とソ連軍の軍事援助を得たこともあって、1988年に勝利したものの、以後も両国の関係は良好とは言い難かった。

1991年にソマリアのモハメド・シアド・バーレ政権が崩壊しソマリアが無政府状態となった後、2006年イスラム原理主義組織のイスラム法廷会議がソマリア首都モガディシュを制圧し国土統一の動きを見せると、隣国に於けるイスラーム主義過激派の伸張を嫌うエチオピアはソマリア国内への干渉を強化。同年12月24日、エチオピアはソマリア暫定連邦政府を支援してソマリア侵攻を開始した。

軍事力に勝るエチオピア軍は28日にはモガディシュを制圧し、イスラム法廷会議軍をほぼ駆逐したものの、オガデン戦争の余波でソマリアの反エチオピア感情は根強く、ソマリア各地で反エチオピア暴動が勃発。2008年8月19日、エチオピア軍は2009年初頭のソマリアからの撤退に同意した。

日本国との関係

詳細は「エチオピアと日本の関係」を参照

中華人民共和国との関係

詳細は「中華人民共和国とエチオピアの関係」を参照
アフリカ連合本部ビル

1970年に当時のエチオピア帝国と中華人民共和国は国交を樹立し、1971年に訪中した皇帝ハイレ・セラシエ1世は林彪事件後の毛沢東と初めて会談した外国指導者だった。エチオピア帝国は ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/11/21 13:05

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