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エルヴィン・ロンメルとは?

【渾名】
砂漠の狐
(:Wüstenfuchs, :Desert Fox)
【生誕】
(1891-11-15) 1891年11月15日
ヴュルテンベルク王国
ハイデンハイム
【死没】
(1944-10-14) 1944年10月14日(52歳没)
ドイツ国南部、ヘルリンゲン
【所属組織】
ヴュルテンベルク軍(de)
(Württembergische Armee)
ヴァイマル共和国軍陸軍
(Reichsheer)
ナチス・ドイツ国防軍陸軍
(heer)
【軍歴】
1911 - 1944
【最終階級】
元帥(Generalfeldmarschall)
【署名】

エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(Erwin Johannes Eugen Rommel 発音1891年11月15日 - 1944年10月14日)は、ドイツ陸軍軍人である。最終階級は陸軍元帥

第二次世界大戦フランス北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、傑出した指揮官として知られる。広大な砂漠に展開されたアフリカ戦線において、巧みな戦略戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、敵対する側の英首相チャーチルをして「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめた。アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から「砂漠の狐」の異名で世界的に知られた。

貴族(ユンカー)出身では無い、中産階級出身者初の陸軍元帥でもある。数々の戦功だけでなく、騎士道精神に溢れた行動と多才な人柄で悲劇的な最期をとげたがSS(親衛隊)ではなく国防軍の所属であった。

1970年代まで欧米では「名将ロンメル」論がほぼ定着しており、日本でもほぼ同様の評価が行われてきた。しかし、1970年代以降、欧米の軍事史家などによって軍人としての資質や能力について再度検証されるようになった。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 誕生
    • 1.2 幼少・少年期
    • 1.3 軍人に
    • 1.4 第一次世界大戦
      • 1.4.1 初めての実戦、ブレド村での戦闘
      • 1.4.2 フランス領での激戦と負傷
      • 1.4.3 フランスで塹壕戦
      • 1.4.4 山岳兵大隊
        • 1.4.4.1 ルーマニア戦線
        • 1.4.4.2 イタリア戦線
      • 1.4.5 一次大戦末期
    • 1.5 ヴァイマル共和政期
    • 1.6 ナチ党政権下
    • 1.7 第二次世界大戦
      • 1.7.1 ポーランド戦中の総統警護
      • 1.7.2 ポーランド戦後、装甲師団長に
      • 1.7.3 西方電撃戦
        • 1.7.3.1 アルデンヌの森通過
        • 1.7.3.2 ムーズ川渡河
        • 1.7.3.3 オナイユで負傷
        • 1.7.3.4 停止命令を無視して進軍
        • 1.7.3.5 マジノ線延長部分突破
        • 1.7.3.6 進軍の一時停止
        • 1.7.3.7 アラスの戦い
        • 1.7.3.8 ダンケルク包囲
        • 1.7.3.9 ヒトラーと対面
        • 1.7.3.10 セーヌ川まで南進
        • 1.7.3.11 英仏海峡沿岸での戦い
        • 1.7.3.12 シェルブールへ進撃
        • 1.7.3.13 フランス降伏
      • 1.7.4 ロンメルの師団の戦果と損害、またその評価
      • 1.7.5 フランス戦後、しばしの平穏
      • 1.7.6 北アフリカ戦線
        • 1.7.6.1 イタリアが北アフリカに戦線を開いて惨敗
        • 1.7.6.2 ドイツ・アフリカ軍団長に就任
        • 1.7.6.3 北アフリカ到着
        • 1.7.6.4 進軍を禁じられる
        • 1.7.6.5 命令無視の進軍でキレナイカ地方奪還
        • 1.7.6.6 トブルク包囲戦
        • 1.7.6.7 エジプトのハルファヤ峠占領と防衛
        • 1.7.6.8 「バトルアクス作戦」を撃退
        • 1.7.6.9 ロンメルの評価高まる
        • 1.7.6.10 「クルセーダー作戦」で追い込まれる
        • 1.7.6.11 キレナイカ地方東部を再奪還
        • 1.7.6.12 ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還
        • 1.7.6.13 世界的な英雄に
        • 1.7.6.14 エジプト進攻(第一次エル・アラメインの戦い)
        • 1.7.6.15 逆転の兆候
        • 1.7.6.16 アラム・ハルファの戦いで敗れる
        • 1.7.6.17 ドイツに一時帰国
        • 1.7.6.18 第二次エル・アラメインの戦いで惨敗
        • 1.7.6.19 米英軍西海岸上陸/チュニジアまで大撤退
        • 1.7.6.20 上陸してきた米英軍に敗北
        • 1.7.6.21 北アフリカから撤退
    • 1.8 連合軍上陸をめぐって
    • 1.9 ヒトラー暗殺未遂事件と死
  • 2 評価
    • 2.1 人物評
    • 2.2 名将論
    • 2.3 軍事史における再検証
  • 3 人物像
    • 3.1 英雄として
    • 3.2 軍人として
    • 3.3 身長
  • 4 大衆文化への影響
    • 4.1 音楽
    • 4.2 映画
  • 5 逸話
  • 6 語録
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 参考文献
  • 9 関連文献
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

生涯

誕生

エルヴィン・ロンメルは、1891年11月15日日曜日の正午、ドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国ハイデンハイム・アン・デア・ブレンツ(de)において生まれた。この町はウルム郊外の町である。

父エルヴィンは、ハイデンハイムの実科ギムナジウム(Realgymnasium)の数学教師であり(ロンメルは父の名前をそのまま与えられた)。また、祖父も教師だった。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり、地元ハイデンハイムでは、かなり尊敬されていた人物であった。

母ヘレーネは、ヴュルテンベルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である。

父母ともにプロテスタントだった。

兄にマンフレート、姉にヘレーネ、弟にカールとゲルハルトがいた。兄のマンフレートは幼いころに死去した。

父が若いころに砲兵隊にいたことを除いて、ロンメル家は軍隊とほとんど関係しておらず、軍部への有力な縁故もなかった。また、教養市民階級出身という彼の出自は、貴族主義的なドイツ陸軍において、決して有利であったとはいえない。

幼少・少年期

子供の頃のロンメルは、病気がちで大人しい少年だったという。姉ヘレーネによると、ロンメルは、色白で髪の色も薄かったので、家族から「白熊ちゃん」とあだ名されていた。しかし、ロンメル本人は、人事記録の中に挟んだ覚書の中で、「幼い頃、自分の庭や大きな庭園で走り回って遊ぶことができたので、とても幸せだった」と述懐している。

1898年、父がアーレンの実科ギムナジウムの校長となったことで、一家はアーレンに引っ越したが、アーレンには小学校(Volksschule)がなかったため、ギムナジウムに入学するまでの間、ロンメルは家庭教師から授業を受けていた。そして、1900年には、父親が校長を務める実科ギムナジウムに入学した。当初、ギムナジウムでは劣等生であり、怠け者で注意散漫だったという。あるとき、勉学に不熱心だったロンメルに勉強させるため、教師が「書き取りテストで間違いしなければ、楽隊と一緒に遠足に出かけよう」と彼に言うと、ロンメルは、これを真に受けて必死に書き取りの勉強をして、テストで間違いをしなかったが、約束の遠足につれて行ってもらえなかったので、また勉強をしない生徒に戻ってしまったという。読書にも運動にも興味がない子供だったが、10代になると突然活発になった。数学の成績が良くなり、スポーツにも関心を持つようになった。また、飛行機の研究に夢中になり、14歳の頃には親友と二人で実物大のグライダーを作成した。結局、まともには飛ぶことはなかったが、ヨーロッパでは1906年に初めて動力を備えた飛行機が飛行したばかりであった。

ロンメルは、航空機関連のエンジニアになることを希望していたが、父親がそれに反対したため、ヴュルテンベルク王国軍に入隊することになった。軍に入ることについて、本人はあまり乗り気でなかったらしい。

軍人に

1910年7月19日ヴァインガルテン(de)に駐留するヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊「ケーニヒ(国王)・ヴィルヘルム1世」(ドイツ帝国陸軍第124歩兵連隊)(de)に下級士官候補生(Fahnenjunker)として入隊した。下士官として半年の部隊勤務を経た後、1911年3月にプロイセン王国ダンツィヒの王立士官学校に進んだ。士官学校在学中には、当時ダンツィヒに語学の勉強に来ていたルーツィエ・マリア・モーリン(Lucia Maria Mollin)と出会った。士官学校卒業後もルーツィエと手紙で連絡を取り合い、二人は1916年に結婚した。

1912年1月27日少尉に任官し、第124歩兵連隊に戻った。ロンメルは、新兵の訓練を担当した。この頃から、ロンメルは自分のカリスマ性を存分に発揮している。

1913年12月8日、ヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との間に私生児の娘ゲルトルートをもうけ、生活費を送る代わりに表沙汰にしないことで合意した。しかし、シュテマーは、1928年に肺炎もしくは自殺で死去した。ロンメルは、後に妻のルーツィエにゲルトルートの存在を打ち明け、彼女はロンメルの「親類」として戦中から戦後まで一家と親しく付き合った。事情を教えられていなかった息子のマンフレート・ロンメルは、ゲルトルートを「従姉妹」と呼んでいた。

1914年3月に第124歩兵連隊と同じく第27歩兵師団の指揮下であるウルム駐留のヴュルテンベルク王国陸軍第3野戦砲兵連隊(ドイツ帝国陸軍第49野戦砲兵連隊)に転属となった。しかし、第一次世界大戦の開戦により第124歩兵連隊に復帰し、同歩兵連隊隷下の第2大隊第7中隊に所属する小隊の小隊長に就任した。

第一次世界大戦

初めての実戦、ブレド村での戦闘

1914年7月末から8月初めにかけて、第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は、1914年8月3日に開戦した。ロンメル少尉の所属する第124歩兵連隊は、第5軍(司令官ヴィルヘルム皇太子)隷下の第13軍団隷下の第27歩兵師団隷下として、対フランス戦に動員された。

ロンメルがはじめて実戦に参加したのは、8月22日午前5時頃、ベルギー南部のフランス国境付近の村ブレド(fr)だった。この時のロンメルは、前日に一日中偵察をさせられるなど疲労困憊であり、また胃痛も発症していた。しかし、実戦を前に逃げ出そうとしている卑怯者と思われるのが嫌で、上官にはそのことを黙っていた。

銃弾が飛び交う霧の中、ロンメル率いる小隊は、ブレド村に近づき、少数で村の中に偵察に入ってフランス軍に攻撃を仕掛けるも失敗し、村の外で待機していた小隊主力と合流した。ロンメルは、自分の小隊を二つに分けてすぐに再攻撃を行った。一隊がフランス兵が隠れた建物の正面から攻撃を仕掛け、もう一隊は建物側面から攻撃をかけて最初の建物を制圧した。続いて他の建物にも次々と火を放っていった。しかし、フランス軍の抵抗も強く、ロンメルの小隊から負傷者が多数出た。また、ロンメルが作戦中に疲労と胃痛でしばしば意識を失ったので、副官の軍曹が代わりに小隊の指揮を執ることがあった。その後、同じ第2大隊に所属する別の小隊が応援に到着し、加えてブレド村北東325高地がドイツ軍によって占領されたことで、ブレド村のフランス軍は投降した。

戦闘が終わった後のブレド村は、兵士たちや巻き込まれた民間人、牛馬の死体があちこちに転がり、悲惨な状態になった。ロンメルの戦友も数人戦死し、彼はずいぶん落胆したという。

フランス領での激戦と負傷

第124歩兵連隊は国境を超えてフランス領へ侵攻し、ムーズ川ほとりの町デュン(fr)に到着(ヴェルダンから北28キロほど)。ムーズ川渓谷での激戦に参加した。ムーズ川は天然の要塞であり、フランス軍砲兵部隊の激しい砲火が降り注ぐため、突破するのは極めて困難だった。ロンメルの小隊が属する第7中隊中隊長も負傷し、一時的にロンメルが中隊長代理に就任して指揮権を引き継いでいる。ロンメルは中隊を率いてフランス軍砲兵陣地へ攻撃をかけるも失敗し、第2大隊主力を発見して合流した。新しい第7中隊長が決まると、ロンメルは小隊長に戻った。

この頃、第124歩兵連隊への補給が途絶え、道端の草を食って飢えを凌いでいた兵士たちの中に腹痛を起こす者が続出し、連隊の戦力は大きく低下した。続いて9月12日のヴェルダンの敵拠点への攻撃に失敗したことで、連隊は大きな損害を出した。同日に連隊は回復のため後方に下げられた。その日の午後、ロンメルは疲れ切って第2大隊司令部で大隊長副官として勤務中に居眠りしてしまい、同僚や上官が起こそうとしても起きずに眠り続けたので、翌13日に目を覚ました時には、上官にこっぴどく叱られたという。

9月22日から第124歩兵連隊は、モンブランヴィル(fr)での戦闘に参加した。9月22日の戦闘では、大隊長副官ロンメルの補佐により第2大隊は大きな戦果をあげた。しかし、9月24日のヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ付近の戦闘で、銃剣術に覚えのあったロンメルは、フランス兵3名に弾の入っていない銃剣で立ち向かおうとし、片足の上腿部を撃ち抜かれて負傷した。木の後ろに隠れたロンメルは、部下たちに救助されて簡易な野戦病院へと運ばれた。さらに、翌朝にはストゥネ(fr)の将校野戦病院へ移送された。入院中の9月30日に二級鉄十字章の受章を受けた。

フランスで塹壕戦

1915年9月、アルゴンヌの森。フランス軍塹壕へ突撃を仕掛けようと身を低くして進むドイツ軍歩兵。

1915年1月13日に第124歩兵連隊に復帰した。この頃から、ドイツ軍もフランス軍も、自分から攻撃するより相手が攻撃してきたところを返り討ちにする方が打撃を与えやすいと判断して、大規模な攻撃には出なくなった。そのため、西部戦線は、塹壕戦による消耗戦の様相を呈していた。第124歩兵連隊もアルゴンヌの森(fr)の西部で塹壕戦を展開していた。ロンメルは、第2大隊隷下の第9中隊長に任じられた。

ロンメルは、中隊を率いて匍匐前進しながらフランス軍の築いた有刺鉄線鉄条網を隙間を通り抜けて進み、フランス軍主陣地に突入し、掩蔽部4か所を占領した。取り戻そうと襲撃してきたフランス軍の反撃を一度は退けたが、結局、新しい攻撃を受けるのを避けるため、自軍の陣地に後退するのを余儀なくされた。しかし、ロンメルは、その後退を12人足らずの損害で達成した。ロンメルは、この際の勇戦ぶりを評価されて、1915年3月22日に一級鉄十字章を授与された。第124歩兵連隊の中尉・少尉階級の者の中では、初めての受章だった。

第124歩兵連隊は、その後もアルゴンヌに留まったままフランス軍と消耗戦を続けた。7月にロンメルは向こう脛に砲弾の破片を受け、二度目の負傷をした。

山岳兵大隊

1915年9月に中尉に昇進するとともに、新たに編成される「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」(Württembergischen Gebirgsbataillon)への転属を命じられた。10月4日付けで正式に「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」へ転属。同大隊の中隊長となった。これまでドイツ帝国のいずれの領邦も本格的な山岳部隊は持っておらず、急遽ドイツ帝国南部に位置するバイエルン王国ヴュルテンベルク王国が山岳兵部隊を編成することになったのであった。ヴュルテンベルク山岳兵大隊は、同盟国のオーストリア=ハンガリー帝国アルプス山脈スキー訓練など受けた後、1915年12月31日にヴォージュ山脈ヒルツェン丘陵でフランス軍と戦ったが、ここでの戦闘は緩やかで、比較的のんびりと1年ほど戦った。

ルーマニア戦線

1916年10月末、山岳兵大隊はルーマニア戦線に転戦した。同大隊は11月11日にレスルイ山の戦闘でルーマニア軍の守備隊を撃破した。この後、ロンメルは一時休暇をもらって大隊を離れ、1916年11月27日にダンツィヒにおいてルーツィエと簡易な結婚式をあげた。ハネムーンなどはせず、すぐにルーマニア戦線に復帰した。1917年1月7日にロンメルが率いる中隊はガジェシュチ村(ro)で大戦果をあげ、360人ものルーマニア兵を捕虜にした。

1917年1月中旬に山岳兵大隊は、ルーマニア戦線からヒルツェン丘陵へ戻り、フランス軍と戦った。しかし、7月末には再びルーマニア戦線に送られた。コスナ山に強固な要塞を作っていたルーマニア軍と激闘になった。8月10日には弾丸が左腕を貫通するという三度目の負傷をしたが、彼は構わず戦闘に参加し続けた。傷口を放置したせいで高熱にうかされたが、ロンメルはベッドの中から命令を発し続けたという。ロンメルを初めとして、山岳兵大隊は奮戦したが、結局コスナ山を占領することはできず、8月25日に山岳兵大隊は第11予備歩兵連隊と交替することとなり、後方に下げられた。

負傷した腕の治療のため一月ほど休養に入り、その間は妻ルーツィエと一緒に過ごした。

イタリア戦線
1917年、イタリア戦線でのロンメル
プール・ル・メリット勲章

ヴュルテンベルク山岳兵大隊は1917年9月26日に北部イタリア戦線に動員された。ロンメルは1917年10月上旬にイタリアで戦う山岳兵大隊に復帰し、山岳三個中隊と機関銃一個中隊からなる任務部隊司令官に任じられた。

カポレットの戦いにおいてドイツ第14軍司令官オットー・フォン・ベロウは戦略的要衝であるマタイユール山(it)やコロヴラト山脈(it)の1114高地を最初に占領した部隊の指揮官にはプール・ル・メリット勲章を与えると布告した。これは1667年制定の由緒ある戦功勲章でドイツ帝国一般軍人の事実上の最高武勲であった。これにより各部隊の指揮官の競争が凄まじいことになった。ロンメルは自分の名誉欲で部下を犠牲にするような男ではなかったが、名誉に関心がないわけでもなく、ロンメルの部隊もこれらの要衝の占領を目指すことにした。

ロンメルの部隊は、コロヴラト山脈の陣地の占領にあたって大きな功績を果たした。夜間に敵陣地に偵察を行い、配備の隙間を発見してそこを通過してモンテ・クク山を強襲した。突然ロンメルの部隊が背後に現れたことにイタリア軍はパニックとなり、総崩れ状態となった。部下に無茶な進軍をさせて前進を阻まれていたフェルディナント・シェルナー少尉率いるバイエルン軍部隊がその隙に1114高地を占領し、シェルナーがプール・ル・メリット勲章を受章した。ロンメルはこれについて論功行賞のあり方が公正ではないと憤慨していた。

ロンメルは続いてマタイユール山の攻略を狙い、上官からバイエルン連隊に付随せずに右翼から単独で攻撃をかける許可をもらい、50時間にも及ぶ行軍と戦闘の末に10月26日朝にマタイユール山を攻略した。イタリア兵が異常に無気力だったこともあって、500人のロンメルの部隊は、5人の戦死者と20人の負傷者を出しただけで9,000人のイタリア兵を捕虜としていた。ところがマタイユール山と間違えて別の山を占領したヴァルター・シュニーバー中尉が「マタイユール山を占領した」と第14軍司令部に報告していたため、ベロウ将軍はカイザーヴィルヘルム2世にシュニーバー中尉を推挙し、結果彼がマタイユール山占領の功績でプール・ル・メリット勲章を受章することになった。ロンメルはこれに激怒して正式に上官に抗議したが、決定は覆せないと認められなかったという。

しかしまだイタリアとの戦争は続いており、チャンスはあった。ロンメルは退却するイタリア軍の追撃戦で活躍し、ロンガローネのイタリア軍基地への攻撃において勇戦し、やはり無気力なイタリア兵を8000名も捕虜にした。この結果、1917年12月13日にヴィルヘルム2世はついにロンメルにたいしてプール・ル・メリット勲章の受章を認めた。受章理由にはマタイユール山奪取とロンガローネの戦いの勇戦、どちらもあげられていた。しかしロンメルはマタイユール山奪取の功績でプール・ル・メリット勲章を手に入れたと主張していた。

一次大戦末期

その後1918年2月に西部戦線へ転戦したが、まもなく幹部候補の一人として第64軍団司令部に参謀として配属されることとなった。以降一次大戦中は敗戦まで前線に戻る事はなかった。1918年10月18日に大尉に昇進した。

1918年11月初めにキールの水兵の反乱を機にドイツ全土に反乱が広がり(ドイツ革命)、カイザー・ヴィルヘルム2世は11月10日にオランダへ亡命、翌11日にはドイツ社会民主党の主導する新ドイツ共和国政府がパリコンピエーニュの森で連合国と休戦協定の調印を行った。第一次世界大戦はここに終結した。

ヴァイマル共和政期

ロンメルは、1918年12月21日に古巣の第124歩兵連隊に再配属された。1919年3月にはフリードリヒスハーフェンの第32国内保安中隊の指揮官に就任。この部隊には革命派の兵士が多く、彼らは上官ロンメルの命令を平気で無視し、プール・ル・メリット勲章にもまるで敬意を払おうとしなかったというが、ロンメルの人格によってまとめ上げられ、部隊は規律を回復したという。

敗戦国ドイツへの責任追及は過酷を極めた。1919年6月28日にドイツと連合国の間に締結されたヴェルサイユ条約によって天文学的賠償金が課せられた。また国境付近のドイツ領土は次々と周辺国に奪われ、ドイツ領土は大きく縮小した。軍については陸軍兵力を小国並みの10万人(将校4000人)に限定され、戦車、潜水艦、軍用航空機など近代兵器の保有を全て禁止された。1919年7月31日にはヴァイマルで開かれた国会ヴァイマル憲法が採択され、ドイツは民主国家となった。所謂「ヴァイマル共和国」の時代が始まった。

ちなみに将校4000人という制限は、軍に残る事を希望するドイツ帝国将校6人のうち1人だけがヴァイマル共和国陸軍に残れるという倍率をもたらした。そしてロンメルはヴァイマル共和国陸軍将校に選び残された者の1人であった。

この後、ロンメルは9年ほどシュトゥットガルトの第13歩兵連隊に所属し、1924年からは同連隊の機関銃中隊長となった。この間、特筆すべきことはほとんどないが、1928年12月に長男のマンフレートが生まれている。彼は戦後シュトゥットガルトの市長を長年務めている。

1929年10月1日にドレスデン歩兵学校の教官に任じられた。多くの実戦経験を持つロンメルの講義は生徒たちに人気があったという。

ナチ党政権下

1934年9月30日、収穫祭でゴスラーを訪れたヒトラーがロンメル少佐の大隊を閲兵する。中央左がロンメル。2人はこの時に初めて出会った。

1933年1月30日国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された。ロンメルはこれまで政治にはほとんど関わらなかったが、他の多くのドイツ軍人達と同様にヒトラーの登場には熱狂し、彼の反共主義軍拡イデオロギーを歓迎した。

1933年10月10日少佐に昇進するとともにゴスラーに駐屯する第17歩兵連隊の第3大隊長に任じられた。1934年9月30日に収穫祭のためにヒトラーがゴスラーを訪問した。この時にロンメルの大隊はヒトラーを出迎える儀仗兵の任につき、ロンメルとヒトラーが初めて対面することとなった。もっともこの時にロンメルが公的な関係以上に何か特別に扱われたという形跡はない。またロンメルがヒトラーについてどう感じたかを示す証拠もない。ただこの閲兵式の直前にロンメルは、警護問題をめぐってSSと言い争ったという。「閲兵式においても警護のためSS部隊が最前列になるべきである」と主張したSS隊員にロンメルは激怒して、「ならば私の大隊は閲兵式には出席しない」と言い返して騒ぎになり、ヒトラーに随伴していた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから直接に「部下の非礼を詫びたい」と謝罪を受けたという。

1935年3月1日に中佐に昇進した。1935年10月15日に新設されたポツダム歩兵学校の教官に任じられた。この学校でもロンメルは非常に好感をもたれる教官であったという。

1936年9月のニュルンベルク党大会総統護衛大隊(Führer-Begleit-BataillonFHQ)の指揮官に任じられた。この時にロンメルは「私の後ろについてくる車は6台に限定せよ」という総統命令を厳守し、ヒトラーに随伴しようと押し寄せてくる党幹部の車を押し止めた。この件でヒトラーはロンメルに注目するようになったという。

しかしヒトラーがロンメルを決定的に評価するようになったのは、1937年初期にロンメルがフォッゲンライター出版社から『歩兵攻撃(Infanterie greift an)ISBN 978-1-85367-707-6』を出版したことだった。これはロンメルが教官として行った講義をまとめた物であり、ロンメルの一次大戦での経験が分かりやすい文章と挿絵付きで書かれていた。この本は50万部を売り切るベストセラーとなり、各方面からの高評価を受け、一次大戦で歩兵だったヒトラーも自分の経験に照らし合わせてこの本を激賞した。なおロンメルはこの本の印税に関してフォッゲンライター出版社と結託して脱税をした。ロンメルは『歩兵攻撃』によって巨額の印税を得ていたが、この際にロンメルはフォッゲンライター出版社と結託して、1年間の生活に必要な1万5000ライヒスマルクだけを自分に支払わせ、残りは銀行預金にして寝かせ、税務署への所得申告において軍から支給されている給料以外の所得を1万5000ライヒスマルクと偽って申告した。

1937年2月にロンメルはナチ党のヒトラー・ユーゲントに国防省連絡将校として派遣された。ロンメルは国防軍の下級将校の指導による軍事教練をユーゲント団員に施すことを企図し、全国青少年指導者バルドゥール・フォン・シーラッハとの折衝にあたったが、ユーゲントの指導権を軍に奪われることを恐れるシーラッハはこれに反対し続けた。ロンメルとシーラッハの関係は悪くなる一方で二人は劇場での席次など些細なことでも争う様になった。この任にあった頃の1937年8月1日に大佐に昇進した。

シーラッハとの衝突にも関わらず、ヒトラーのロンメルへの信任は失せなかった。1938年9月にズデーテン併合にあたってヒトラーはロンメルを再び総統護衛大隊隊長に任じ、自らの護衛を任せた。この頃にはロンメルは完全なヒトラー支持者になっており、次第にヒトラー讃美がエスカレートしていった。妻への手紙には「(ヒトラーは)ドイツ国民を太陽の下へ導きあげるべく、神、あるいは天の摂理によって定められている」と書き、友人への個人的な手紙には文末に「ハイル・ヒトラー、敬具、E・ロンメル」と記す程になっていた。ヒトラーにとってもロンメルはお気に入りの将校だった。ロンメルは貴族階級出身の将校ではなく、そうした貴族将校たち特有の平民出のヒトラーを見下したような態度がなかったこともヒトラーの好感につながったと思われる。

1938年11月10日にはウィーン郊外のヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長に任じられた。ロンメルはこの学校をドイツ、そしてヨーロッパでもっとも近代化されている士官学校にしようと張り切っていたが、ヒトラーの警護隊長にしばしば任じられたため、彼はあまりこの学校にいなかった。

1939年3月15日にチェコスロバキア併合があると、ヒトラーは再びロンメルを総統護衛大隊の指揮官に任じて、自分の警護にあたらせた。チェコはオーストリアやズデーテンと違い、ドイツ系が少ないため、ヒトラーが出向いても歓迎されるとは思えなかった。暗殺の危険も大きかった。ヒトラーがロンメルに「大佐、貴官が私の立場なら、どうするかね?」と聞くと、ロンメルは「オープンカーに搭乗し、重武装の護衛無しでプラハ城まで乗り込み、ドイツのチェコスロバキア統治が始まったことを内外に向けて示します」と答えた。ヒトラーは、他の者たちの反対を押し切って、ロンメルの意見を容れ、ロンメルたちを護衛に付けたのみで無事にプラハ城に乗り込んでいる。続く3月23日のメーメル返還でヒトラーがメーメルへ向かった時にもロンメルは総統護衛大隊の隊長を務めた。

1939年8月1日に少将に昇進した。6月1日に遡及しての昇進である事を認められた。これはロンメルを寵愛するヒトラーの特別な決定によるものである。ロンメルは妻への手紙で「私が聞き知ったところによると先の昇進はひとえに総統のおかげだ。私がどれほど喜んでいるか、お前にも分かるだろう。私の行動とふるまいを総統に承認していただく事が私の最高の望みなのだ。」と書いている。

ヒトラーの寵愛は続いた。1939年8月22日を以ってヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長職を辞し、8月25日に「総統大本営管理部長」に任じられた。これまでのような期間限定の警護隊長ではなく、常時ヒトラーの警護を行うこととなった。

第二次世界大戦

ポーランド戦中の総統警護

1939年9月、対ポーランド戦中のヒトラーの前線視察。ヒトラーに警護責任者として同伴するロンメル少将(ヒトラーの右)。

1939年9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻、続く英仏のドイツへの宣戦布告をもって第二次世界大戦が開戦した。ロンメルは熱狂をもって戦争を迎えた。妻に「君は9月1日のこと、つまりヒトラーの(ポーランドとの開戦を発表する国会での)演説をどう思うかな?我々がこのような人物を持っている事は実にすばらしいではないか。」と書き送っている。彼は一次大戦の敗戦でポーランドに奪われたポーランド回廊国連の管理下に置かれたダンツィヒをドイツの手に取り戻す必要性を感じていた。

総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、総統専用列車「アメリカ」に乗って前線視察に出たヒトラーに同伴してポーランドへ向かった。ヒトラーはポーランド戦中、3週間も前線視察に出ていた。なおヒトラーがポーランドの港町グディニャを訪れた際にロンメルはマルティン・ボルマンと揉めたという。総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、ヒトラーのグディニャ視察の際に急な下りで幅が狭い街路に通りかかると「総統の車と警護の車一車両のみが下るものとする!他はここで待て!」と指示した。しかし総統の側近であるマルティン・ボルマンはヒトラーと切り離されることに激怒し、ロンメルに抗議を行ったが、ロンメルは「私は総統大本営管理部長だ。これは遠足じゃない。貴方も私の指示に従っていただく!」と言い返してボルマンの車を通過させる事を拒否したという。ボルマンはこの事を執念深く覚えており、5年後にロンメルに復讐することになる。

1939年10月5日にワルシャワでヒトラー出席のドイツ軍の戦勝祝賀式典が行われることになり、ロンメルは10月2日にワルシャワに入り、会場とその周辺に警備上の問題がないかの視察を行った。10月5日の戦勝祝賀式典ではヒトラーの隣に立つロンメルの姿が映像に残っている。

ポーランド戦後、装甲師団長に

ロンメルの第7機甲師団の多数を占めた38(t)戦車
1940年春、ドイツモーゼル川で川の流れを事前調査。右側で腕を組んでいる人物が第7装甲師団長ロンメル少将。

ヒトラーもロンメルもポーランドを落とせば英仏は講和を申し出てくると思っていた(実際に英仏は宣戦布告してきただけでポーランド戦中、ドイツに攻撃を行ってくる様子は

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出典:wikipedia
2020/02/07 14:08

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