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オハイオ州とは?

座標: 北緯40度30分 西経82度30分 / 北緯40.5度 西経82.5度 / 40.5; -82.5

オハイオ州
State of Ohio



(州旗) | (州章)
州の愛称: トチノキの州
The Buckeye State
州のモットー: 神の御側にあれば為せざることなし
With God, all things are possible
州都
コロンバス
【最大の都市】
コロンバス
【州知事】
ジョン・ケーシック
(共和党)
公用語
法的指定なし
面積
- 総計
- 陸地
- 水域 全米第34位
116,096 km²
106,156 km²
10,040 km² (8.7%)
人口(2010年)
- 総計
- 人口密度 全米第7位
11,536,504
109人/km²
【合衆国加入
- 順番
- 加入年月日】

17番目
1803年3月1日
時間帯
UTC -5
DST -4
緯度
北緯38°24' - 41°59'
経度
西経80°31' - 84°49'
【東西の幅】
355 km
【南北の長さ】
355 km
標高
-最高標高
-平均標高
-最低標高
472 m
260 m
139 m
【略称 (ISO 3166-2:US)】
US-OH
【ウェブサイト】
オハイオ州政府
【上院議員】
シェロッド・ブラウン
ロブ・ポートマン

オハイオ州(オハイオしゅう、: State of Ohio略号: OH., O.)は、アメリカ合衆国中西部の北東にあるである。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第34位、人口では第7位である。州の北はミシガン州エリー湖、東はペンシルベニア州、南はケンタッキー州ウェストバージニア州、西はインディアナ州に接している。州都および2010年度の国勢調査での人口最大都市コロンバス市である。州旗は全米の中で唯一、長方形でないものを採用している。

オハイオ州は1803年3月1日に、北西部領土から分かれて合衆国17番目の州に昇格した。独立宣言に加わった13植民地ではないが、北東部はコネチカット州西部保留地だった。

【家庭で話される言語(オハイオ州) 2010】

 |  |  |  | 
英語 | 
 | 93.3%
スペイン語 | 
 | 2.2%
【人種構成(オハイオ州) 2010】

 |  |  |  | 
白人 | 
 | 81.1%
黒人 | 
 | 12.2%
ヒスパニック | 
 | 3.1%
アジア系 | 
 | 1.7%
インディアン | 
 | 0.2%
混血 | 
 | 2.1%

目次

  • 1 州名の由来
  • 2 歴史
    • 2.1 インディアンの時代
    • 2.2 植民地と独立戦争の時代
    • 2.3 北西部領土
    • 2.4 州昇格以降
  • 3 地理
    • 3.1 国立公園
    • 3.2 気候
      • 3.2.1 過去の記録
    • 3.3 地震
  • 4 人口動勢
    • 4.1 人種及び祖先
    • 4.2 宗教
  • 5 インディアン部族
    • 5.1 インディアン・カジノ
  • 6 主要な都市と町
  • 7 政府と政治
    • 7.1 行政府
      • 7.1.1 近年の州知事
    • 7.2 立法府
    • 7.3 司法府
      • 7.3.1 州最高裁判所
      • 7.3.2 その他の州裁判所
    • 7.4 連邦裁判所
      • 7.4.1 連邦控訴裁判所
      • 7.4.2 連邦地方裁判所
    • 7.5 政治
      • 7.5.1 連邦議会への議員選出
      • 7.5.2 大統領選挙の選挙人
  • 8 経済
    • 8.1 主な会社など
      • 8.1.1 オハイオ州と関係が深い日本企業
    • 8.2 主な産業など
  • 9 交通
    • 9.1 道路
    • 9.2 航空
  • 10 教育
    • 10.1 単科及び総合大学
    • 10.2 図書館
  • 11 文化・音楽・芸術
    • 11.1 美術館・博物館・史跡
    • 11.2 音楽
    • 11.3 オーケストラなど
  • 12 スポーツ
    • 12.1 スポーツチーム
  • 13 その他
    • 13.1 同州出身の有名人
    • 13.2 州の象徴など
    • 13.3 姉妹州
    • 13.4 日本の姉妹都市
  • 14 脚注
  • 15 参考文献
  • 16 関連項目
  • 17 外部リンク

州名の由来

オハイオとは、インディアンイロコイ族の言葉で、「美しい川」ないし「偉大な川」という意味である ohi-yo’ から派生した。 州名の由来については他にも異論があるが、昔から州内に自生するトチノキに因んで "Buckeye State" と呼ばれており、州民も「バッカイ」と呼ばれている。

歴史

主要記事:オハイオ州の歴史

インディアンの時代

オハイオ・バレーの考古学調査によって、この地域には紀元前13,000年には既に回遊性民族が住んでいたことが示されている。この初期回遊性民族は紀元前1000年までにオハイオから消えたが、その物質文化は次代の人々の文化の基盤となった。紀元前1000年から800年、定住性のアデナ文化が現れた。オハイオ州の歴史家ジョージ・W・クネッパーが主張しているように、この洗練された文化は「1902年、チリコシー市に近いトーマス・ワージントンの敷地であるアデナの地で、この文化の遺物が発掘されたので、アデナ文化と名付けられた」とされている。アデナ文化の人々は、カボチャ、ヒマワリ、およびおそらくはトウモロコシなどの植物を栽培したので、「半恒久的」な集落を築くことができた。これらの栽培に加えて狩猟採集によって、より固定され複雑な集落が可能になった。アデナ文化の遺跡の中でも最も壮大なものがオハイオ州アダムズ郡にあるグレート・サーペント・マウンドである。

イロコイ族が17世紀半ばのビーバー戦争で征服した地域、オハイオ川流域の上中流ではほとんど人が住まなくなった。赤色はイロコイ族の元々の領土

紀元前100年頃、オハイオではアデナ文化にホープウェル文化が加わった。その特徴ある文化の遺物が発見されたM・C・ホープウェル大尉が所有する農園に因んでこの名が付けられた。ホープウェル文化の人々はアデナ文化の場合と同様にマウンドを造った。その複雑で大きく、技術的に洗練された土盛り工作物を現在のマリエッタ、ニューアーク、サークルビルで見ることができる。しかし、ホープウェル文化は西暦600年頃にオハイオ・バレーから消えた。その人々に代わった民族についてはほとんど知られていない。研究によってフォート・エンシェント人とウィットルジーフォーカス人という2つの特徴ある前史文化が示されてきた。どちらもおそらく、ヨーロッパ人との接触で広まった伝染病によって人口が激減し、17世紀には消失したと考えられている。インディアンはヨーロッパ由来の病気に免疫が無かった。フォートエンシェント人は「ショーニー族の先祖であるか、少なくともショーニー族がフォートエンシェント人で残っていた者達を吸収した」と考える学者もいる。

オハイオ・バレーにいたインディアンは、現在のニューヨーク州中部と西部を地盤にしていたイロコイ族の攻撃的戦術に大きく影響された。17世紀半ばのビーバー戦争の後、イロコイ族はオハイオ地域の大半を狩猟場、さらに重要なことにビーバーの罠猟を行う場と宣言した。17世紀半ばに起きた伝染病の蔓延と戦争によって、17世紀後半までオハイオ地域にはほとんど人が住まなくなった。その後主にアルゴンキン語を話す古代人の子孫が戻ってくるようになった。彼等はアデナ文化、ホープウェル文化さらにミシシッピ文化の人々の子孫である。オハイオ地域の住民は伝染病、戦争、さらにそれに続いた社会的不安定さによってもたらされた破壊のために、多民族、多言語の社会となった。彼等はトウモロコシ、ヒマワリ、豆類などの栽培で生活し、季節による狩猟で補っていた。18世紀までにヨーロッパ人が毛皮交易に入ってくることで、より大きな地球規模経済に入っていくことになった。

有史時代になってオハイオ地域に住んだインディアン部族としては、マイアミ族、ワイアンドット族、デラウェア族ショーニー族、オタワ族、ミンゴ族、エリー族などがいた。オハイオ地域はインディアン虐殺の舞台にもなった。例えばイエロークリーク虐殺、グナーデンヒュッテン虐殺、ポンティアックの反乱の時の学校虐殺があった。

植民地と独立戦争の時代

18世紀、フランスが地域の毛皮交易を支配するために交易拠点の体系を作り上げた。1753年、フレンチ・インディアン戦争ヨーロッパでは七年戦争と呼ばれた戦争でフランスとイギリスが戦った、1763年に結ばれたパリ条約によって、フランスはオハイオを初め、北西部地域の全体をイギリスに割譲した。

しかし1760年代のポンティアックの反乱で、イギリスの軍事支配に警鐘が発せられた。それはアメリカ独立戦争における植民地側の勝利によって終わりを迎えた。1783年のパリ条約により、イギリスはオハイオ領土全ての領有権を新生アメリカ合衆国に譲った。

北西部領土

ローワー・マンハッタンフェデラル・ホール外にある北西部条例の銘板

アメリカ合衆国は1787年の北西部条例北西部領土を創設した。この新領土のなかでは奴隷制度が禁じられた。オハイオ共同会社による開拓地マリエッタの設立で、開拓が始まった。この会社はアメリカ独立戦争退役兵の集団が設立したものだった。オハイオ会社の後に、マイアミ会社(シムズ・パーチェイスとも呼ばれる)が南西部を領有し、コネチカット土地会社が現在のオハイオ州北東部にあったコネチカット西部保留地の測量を行い入植させた。

古い北西部領土は当初、それ以前にオハイオ領土イリノイ領土と呼ばれた地域を含んでいた。オハイオが州昇格の準備を始めると、インディアナ準州が創設され、北西部領土は現在のオハイオ州領域と、ミシガンのロウアー半島東半分、およびアッパー半島東端を含むものになった。

北西部条例の下では、ある領域の人口が6万人に達すると州として昇格が認められると決められていた。1801年12月時点でオハイオの人口はまだ45,000人だったが、アメリカ合衆国議会は、オハイオの人口が急増しており、州昇格への道を歩み始めたと判断した。州昇格の時までに人口は6万人を超えるものと仮定された。さらにレニ・レナペ族インディアンが地域に住んでおり、これに関して現在のオハイオ州にあるマスキンガム川沿い1万エーカー (40 km) の土地を「モラヴィア兄弟団の資産として取っておきこれに与える。...前述兄弟団はインディアンを文明化しキリスト教徒に変える」と判断した。

州昇格以降

ジェームズ・ガーフィールド、オハイオ州出身のアメリカ合衆国大統領

1803年2月19日、当時の大統領トーマス・ジェファーソンは、オハイオの境界と憲法を承認する法案に署名し、オハイオは17番目のアメリカ合衆国に昇格した。当時は、オハイオの正式な州昇格の宣言がなされなかったことから、150年が経過した1953年8月7日に、時の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが署名することによって、改めてオハイオの連邦加盟が1803年3月1日であることが宣言された(現在続いている州昇格宣言という習慣は1812年、18番目のルイジアナ州が最初だった)。チリコシーにある旧州議会議事堂では州議会特別会期が開催され、州昇格の請願書を馬でワシントンD.C.まで運ぶ議案を承認した。

アメリカ人の進出を避けるために多くのインディアンが西方に移住したが、州内に留まった者もおり、一部は同化した。1830年アンドリュー・ジャクソン大統領の下でアメリカ合衆国政府はインディアン移住を強制し、ミシシッピ川の西にあるインディアン準州に移した。

1835年、オハイオ州はトレド・ストリップを巡って無血の境界戦争であるトレド戦争ミシガン準州との間に演じた。アメリカ合衆国議会が介入し、ミシガンの州昇格を条件に紛争を終わらせた。ミシガンはトレド・ストリップの領有を諦める代わりに、アッパー半島西側3分の2を与えられた。

オハイオ州の歓迎看板、1990年代のスタイル

オハイオ州の地理的な位置づけとその人口で南北戦争のときは重要な役割を演じた。オハイオ川は軍隊と物資の輸送で重要な交通路となり、また州内の鉄道も同様だった。北軍に就いた州で、オハイオ州は人口当たりの兵士派遣数では最大だった。1862年、オハイオ州の部隊が2,000名の犠牲を出すという損失の多かったシャイローの戦いで勝利した後、州内の士気が酷く動揺した。同年後半、ストーンウォール・ジャクソン将軍の指揮する南軍が首都ワシントンD.C.を脅かし、オハイオ州知事デイビッド・トッドは3か月徴兵の条件で5,000人の志願兵を集めた。オハイオ州の歴史家アンドリュー・R・L・ケイトンは、この戦争でほぼ35,000人の州民が死に、「3万人ほどの者が残りの人生も戦争の傷跡を持って過ごした」と記した。南北戦争の終戦までに北軍のユリシーズ・グラントウィリアム・シャーマンフィリップ・シェリダンという功績の高い3将軍がオハイオ州出身の将軍となった。

1912年、チャールズ・B・ガルブレースを議長として憲法制定会議が開催された。その結果は進歩主義時代の関心事を反映したものになった。新憲法は住民発議権と住民投票を導入した。さらに議会発案の州法や憲法修正案について議会が住民に批准を求めることができるようになった。法は一世代で1回見直されるべきだというのがジェファーソン流の原則であり、新憲法では20年毎に住民投票で問題を問うことになった。その問題とは新憲法が必要かどうかということである。この問いは1932年、1952年、1972年、1992年に発せられたが、新憲法が必要とされることは無かった。その代わりに議会に対して数多い憲法修正提案がなされ、その大半は採択された。

オハイオ州から8人のアメリカ合衆国大統領が選ばれており、「大統領の母」というニックネームはバージニア州と分け合うものである。「大統領の近代の母」とも言われる。これはバージニア州出身の大統領が合衆国の歴史の初期に偏っているためである。7人の大統領がオハイオ州生まれであり、バージニア州の8人に次いでいる。バージニア州生まれのウィリアム・ハリソンはその人生の大半をオハイオ州で過ごしており、また埋葬されている。ハリソンはオハイオ州ノースベンドにあった義父ジョン・クリーブス・シムズが設立した家族の家で暮らしている間に政歴を積んだ。その他、ユリシーズ・グラントラザフォード・ヘイズジェームズ・ガーフィールドベンジャミン・ハリソン(ウィリアム・ハリソンの孫)、ウィリアム・マッキンリーウィリアム・タフトウォレン・ハーディングがオハイオ州生まれである。

地理

参照:オハイオ州の郡一覧オハイオ州の都市一覧オハイオ州の村一覧オハイオ州のタウンシップ一覧オハイオ州の保護地域

アメリカ合衆国中西部地域の北東角に位置しているオハイオ州は、エリー湖に面していて、接している各州とは主要高速道路によって接続されている。オハイオ州の南部境界はオハイオ川によって区切られ、北部境界の大部分はエリー湖によって画されている。東にはペンシルベニア州、トレド市近くの北西方面でミシガン州、北部はエリー湖の対岸にカナダオンタリオ州、西部でインディアナ州、南部でケンタッキー州、南東部でウェストバージニア州と接している。

オハイオ州の地理的位置づけは経済的な成長と拡張のために重要な資産となってきた。オハイオ州はアメリカ合衆国の中で北東部と中西部を繋いでおり、良く発達した高規格道路を使い大量の貨物が領域内を通って流通されている。国内50州の中で高規格道路のネットワークでは第10位であり、車で1日の範囲内に北アメリカ人口の50%、製造能力の70%が入っている。州の北側がエリー湖の総延長312マイル (502 km) の湖岸線となり、多くの港ができている。

オハイオ州の境界は1802年授権法における境界条項により次のように定義されていた。

東はペンシルベニア州との州境、南はオハイオ川のグレートマイアミ川合流点まで、西は前述グレートマイアミ川合流点からまっすぐ北に引いた線とし、北はミシガン湖最南端を通って東西に引かれた線が前述グレートマイアミ川合流点からまっすぐ北に引いた線と交わる点から、エリー湖とすなわち領土境界と交わる所まで、さらにそこから前述ペンシルベニア州州境までと定義する
エリー湖のオハイオ州湖岸

オハイオ州はオハイオ川を州境とするが、川そのものはケンタッキー州とウェストバージニア州に属している。1980年、アメリカ合衆国最高裁判所は、1792年のバージニア州による領土譲渡に関する用語に基づき(当時のバージニア州には現在のケンタッキー州とウェストバージニア州が含まれていた)、オハイオ州とケンタッキー州との州境を川の北側低水位標識とするということを確認した。オハイオ州は1792年の低水位標識と現在の高水位標識の間のみが領土となっている。

ミシガン州との境界も変更された。トレド戦争の結果、モーミー川河口の北岸までやや北東に修正された。

オハイオ州の土地の大半は氷河作用を受けた平原であり、北西部のみがグレート・ブラック・スワンプと呼ばれる平坦な地域になっている。北西部と中央部の氷河作用を受けた地域の境界は、まず東と南東に氷河作用アルゲイニー台地と呼ばれるベルト地帯で仕切られ、さらに非氷河作用アルゲイニー台地と呼ばれるもう1つのベルト地帯で仕切られている。大半は起伏が少ないが、非氷河作用アルゲイニー台地だけは岩がちの丘陵と森林になっている。

オハイオ州の地勢図

岩の多い南東部4分の1は、ウェストバージニア州のパンハンドル部からシンシナティの郊外部までオハイオ川に沿った外向きの弧を描いており、特徴ある社会経済学的地域となっている。地質的にはウェストバージニア州やペンシルベニア州南西部に類似し、石炭採掘を行った歴史があり、昔は小さな工業地帯となり、特徴ある地域方言は州の他の部分と違っている。1965年、アメリカ合衆国議会はアパラチア地域開発法を成立させ、「アパラチア地域の続く貧困と経済不況の拡大に対処する」こととした。この法では州内29郡をアパラチア地域と定義した。オハイオ州領土の3分の1は連邦政府が規定するアパラチア地域であり、そこには人口の12.8%(147万6千人)しか住んでいない。

オハイオ州図

州内の重要河川としては、カヤホガ川、グレートマイアミ川、モーミー川、マスキンガム川、サイオト川がある。北側の川の水はエリー湖とセントローレンス川を介して北大西洋に排水され、南部の川水はオハイオ川とミシシッピ川を介してメキシコ湾に流れ込んでいる。

オハイオ州の歴史で最悪の自然災害は1913年にグレートマイアミ川で起きた。これはグレート・デイトン洪水と呼ばれ、グレートマイアミ川流域の全体が溢れ、デイトン市の中心事業地区も水に浸かった。その結果、州内さらには国内初の洪水制御土木計画としてマイアミ自然保護地区が創設された。

中西部のグランド湖セントメアリーズは、1820年から1850年の運河建設時代に運河に水を供給するために造られた。この湖は広さが20平方マイル (52 km) 以上を長年保ち、世界の人工湖として最大だった。オハイオ州の運河建設計画は他州ほど経済的な失敗にはならなかった。デイトンなど幾つかの都市は運河の場所によってその経済成長度が変わっており、1910年まで内陸運河が州内の多くの貨物を運んでいた。

国立公園

気候

オハイオ州の気候は湿潤大陸性気候(ケッペンの気候区分Dfa)にあり、最南部にあるブルーグラス地域のみが温暖湿潤気候の北端にあたる。またアップランドサウスにも入っている。通常の夏は暑く湿度が高い。冬は概して冷涼から寒冷である。降水量は年間を通じてほとほどである。悪天候は希ではないが、竜巻道と呼ばれる地域にある他州に比べれば竜巻発生個数は少ない。エリー湖南東岸では激しい湖水効果雪が降るのも希ではない、そこはスノーベルトに指定されている。

州内の大半は温帯気候に入っていないが、暖かい地域の植物や動物が州内に入ってきている。例えば、南部に多いブラックジャック・オーク(Quercus marilandica)のような木がオハイオ川の直ぐ北、州内最北部でも見られる。他にもタイサンボク(Magnolia grandiflora)、ネムノキ(Albizia julibrissin)、サルスベリ、さらには時としてニードルパームのような植物がブルーグラス地域の街路、庭、庭園に使われている。これらは温帯から大陸性気候への気候遷移の証拠でもある。しかし州内他地域では同じ植物が繁茂してはいない。この変化は州内を州間高速道路75号線でシンシナティからトレドまで移動したときに分かる。シンシナティで見られるコモンウォール・トカゲは、オハイオ州における温帯性動物の一例である。

過去の記録

過去最高気温は1934年7月21日にガリポリス近くで記録された113°F (45 ℃) だった。 過去最低気温は1899年2月10日にミリガンで記録された-39°F (-39 ℃) だった。

地震

平均的な住民が感知するような地震は数少ないが、2002年から2007年の間にオハイオ州では30回以上の地震が起こり、1776年以降ではマグニチュード2.0以上の地震が200回以上発生してきた。

オハイオ州の歴史の中で最も強かった地震はシェルビー郡のアンナで起きた地震であり、1937年3月9日のことだった。州西部を震源としマグニチュードは5.4、メルカリ震度階級VIIIだった。

その他の大きな地震としては、1884年9月19日にライマ近くでおきたマグニチュード4.8、1901年5月17日にポーツマス近くで起きたマグニチュード4.2、1986年1月31日にレイク郡レロイ郡区で起きたマグニチュード5.0 があった。最後のものはその後2か月間にマグニチュード 0.5 から 2.4 の余震が13回あった。

最近起きた地震では、2011年12月31日午後東部標準時3時5分に起きたものがあった。マグニチュード4.0、震源はヤングスタウンの北西約 4 km(北緯41度7分19.1994秒 西経80度41分2.3994秒 / 北緯41.121999833度 西経80.683999833度 / 41.121999833; -80.683999833)、トランブル郡マホニング郡の郡境近くだった。

州内の幾つかのカレッジ、大学などの機関にある地震観測所、およびオハイオ州自然資源省地質研究部による調整でできた組織であるオハイオ州地震学ネットワークが、1776年から現在までの地震記録をまとめ、州内で感知された地震の位置などを整理している。

人口動勢

人口推移
【国勢調査
年】
【人口】

順位

1800年 | 45,365人 | 18
1810年 | 230,760人 | 13
1820年 | 581,434人 | 5
1830年 | 937,903人 | 4
1840年 | 1,519,467人 | 3
1850年 | 1,980,329人 | 3
1860年 | 2,339,511人 | 3
1870年 | 2,665,260人 | 3
1880年 | 3,198,062人 | 3
1890年 | 3,672,329人 | 4
1900年 | 4,157,545人 | 4
1910年 | 4,767,121人 | 4
1920年 | 5,759,394人 | 4
1930年 | 6,646,697人 | 4
1940年 | 6,907,612人 | 4
1950年 | 7,946,627人 | 5
1960年 | 9,706,397人 | 5
1970年 | 10,652,017人 | 6
1980年 | 10,797,630人 | 6
1990年 | 10,847,115人 | 7
2000年 | 11,353,140人 | 7
2010年 | 11,536,504人 | 7
オハイオ州の人口推移
人口密度図

オハイオ州の人口は1800年の45,000人を超えたところから、1970年に1,065万人を記録したときまで、10年毎に10%以上の増加を遂げてきた。その後の40年間は成長が鈍化している。アメリカ合衆国国勢調査局による2011年7月1日時点での推計では、州人口は11,544,951人、2010年国勢調査時点(11,536,504人)より0.07%の増加となった。オハイオ州の人口増加率の鈍化はアメリカ合衆国全体と歩みを同じくしている。

2000年時点で、オハイオ州の人口重心はモロー郡郡庁所在地マウントギリアドにあった。1990年の人口重心と比較して約6,346フィート (1,934 m) 南と西にずれた。

2011年時点で州内1歳未満の子供のうち27.6%は少数民族に属している。オハイオ州の人口の6.2%は5歳以下、23.7%は18歳以下、14.1%は65歳以上である。女性は人口の約51.2%である。

2010年時点で、州人口の4.1%(469,748人)は外国で生まれたと推計されている。このうちアジア生まれが37.7%、ヨーロッパ生まれが26.4%、ラテンアメリカ生まれが21.4%である。

人種及び祖先

2010年に州内で申告された祖先による構成比は以下の通りだった

特に北西部の郡の多くではドイツ人を祖先とする住民が最も多いと報告された。

2010年の国勢調査によると、この州の人種的な構成は次の通りだった。

白人比率は全国平均よりも高い。

通学途中のアーミッシュの子供達

宗教

オハイオ州民の多くはプロテスタントである。バプテストメソジストルーテル教会長老派教会、及びペンテコステ運動が大多数である。他の著名なプロテスタント宗派に、合衆国内最大のアーミッシュの共同体、及びクリーブランド内にあるキリスト連合教会の本部が含まれる。

オハイオ州の宗教別人口構成は:

出典:wikipedia
2018/11/17 21:54

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