オランダ(オランダ語: Nederland [ˈneːdə(r)lɑnt]、[ˈneɪ̯də(r)lɑnt] ( 音声ファイル); 西フリジア語: Nederlân; パピアメント語: Hulanda)は、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。東はドイツ、南はベルギーと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。憲法上の首都はアムステルダム(事実上の首都はデン・ハーグ)。
カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にオランダ王国を構成している。他、カリブ海に海外特別自治領としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島(BES諸島)がある。
オランダは世界において、報道の自由、経済的自由、人間開発指数、クオリティ・オブ・ライフの最上位国のひとつである。2019年では、世界幸福度報告では世界第5位、一人あたりGDPでは世界第7位、人間開発指数で10位であった。
国名および通称はオランダ語でNederland(ネーデルラント)。これは「低地の国」「低地地方」を意味する普通名詞に由来するため、基本的に定冠詞をつける必要がある。通称の "Nederland" は、オランダ王国の欧州における国土を意味するため単数形で、正式名称に使われている「de Nederlanden」は、海外領土を含めた概念のため複数形である。ゲルマン系言語ではドイツ語でdie Niederlande、ラテン系言語ではフランス語でles Pays-Bas、スペイン語でlos Países Bajos、イタリア語でi Paesi Bassi(いずれも語義は同じ)。いずれも複数形であるのは、伝統的に現在のベネルクス三国のある低地地域一帯の領邦群の歴史的総称を受け継いでいるからである(「ネーデルラント」の項も参照)。なお、複数形ではあるものの、英語やスペイン語など言語によっては、しばしば集合名詞あるいは「王国」を略したものとして単数扱いされる。
俗称の「Holland(ホラント)」もよく使われるが、これはスペインの支配に対して起こした八十年戦争で重要な役割を果たしたホラント州(現在は南北2州に分かれる)の名に由来し、固有名詞であるため冠詞が付かない。
公式の英語表記は、the Netherlands(ザ・ネザーランズ)。形容詞および名詞形のDutch(ダッチ)は、元来ドイツ(Duitsch)を指し、同国の支配から脱した17世紀以降オランダ(人、語)を意味するものに変わっていった。ただし、歴史的に英蘭間で貿易や海外進出を巡って激しい競争と対立が発生したことから、軽蔑のニュアンスが強く、「Netherlander」や「Hollander」が用いられることもある。
日本語の表記はオランダ。漢字表記は、和蘭、和蘭陀、阿蘭陀、荷蘭陀、荷蘭、尼徳蘭(ネーデルラントの音訳)と表記され、蘭と略される。由来はポルトガル語における「ホラント」の表記「Holanda [ɔˈlɐ̃dɐ]」が、戦国時代に来航したポルトガル人宣教師によってもたらされたことによる。
オランダ政府は、2020年1月1日をもって、国名としての「ホラント」の使用を廃止し、外務省も諸外国にこの通称から変更するよう呼びかけている。なお、日本のオランダという呼称については、日本語の言葉として定着していることから変更は求めないとしている。
元来、現在のベネルクス地方は神聖ローマ帝国の領域の一部で、毛織物産業や海上貿易により栄えていた。15世紀末からスペインを本拠とするハプスブルク家の領土(家領)となった。宗主国スペインによる重税政策に対する反発とともに、主に現在のオランダ地域を中心とするネーデルランド北部地方の宗教は利潤追求を求めるカルヴァン派が多数を占めていたため、カトリックを強制する宗主国スペインとの間で1568年にオランダ独立戦争が勃発した。しかし、戦争の長期化により、カトリック教徒の多かった南部10州(現在のベルギーとルクセンブルク)は、独立戦争から脱落した。この八十年戦争の結果、1648年のヴェストファーレン条約で独立を承認された。
17世紀初頭以来、ネーデルラント連邦共和国は東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪い、オランダ海上帝国を築いて黄金時代を迎えた。英蘭戦争に重なってオランダ侵略戦争がおこり、本土へ災禍をもたらした。しかしウィレム3世総督時代に、ルイ14世の出したフォンテーヌブローの勅令が中産ユグノーを共和国へ大挙亡命させた。彼らの力により、独立戦争からすでに卓越していた繊維・染料産業がさらに進歩した。くわえデルフトの陶器とアムステルダムのダイヤモンド加工も世界に知られた。ウィレム3世は名誉革命でイギリスへ渡った。
フランス革命が勃発すると、革命軍が侵入しバタヴィア共和国が成立した。バタヴィアは1806年、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント(オランダ)王国に変えられた。さらに1810年フランスの直轄領として併合された。
ナポレオン戦争後のウィーン会議ではこれまでオーストリア領であった南ネーデルラント(現在のベルギー・ルクセンブルク)を含むネーデルラント王国が成立し、オラニエ=ナッサウ家が王位に就いた。
オランダ全土の労働者人口と南ネーデルラント農民の大部分はカトリック信者であった。南ネーデルラントを統合しようとするとき、王に対しカトリックの聖職者はウィレム1世と憲法に反対した。オランダは残された東インド植民地(オランダ領東インド、今日のインドネシア)で過酷な搾取を行った。
1830年、カトリックと自由主義者による独立戦争が起きて、1839年オランダはベルギーの独立を承認した。
1873年(明治6年)には岩倉使節団がオランダを訪問しており、当時のロッテルダム・ハーグ・アムステルダムなどの様子が『米欧回覧実記』に、一部イラスト付きで詳しく記されている。
19世紀後半から20世紀初頭のオランダ社会は、政治的にはカトリック・プロテスタント・社会主義・自由主義という4つの柱で組み立てられていった。オランダは第一次世界大戦で中立を維持したが、そのときから1960年代まで存在していたオランダの社会システムは「柱状化verzuiling」社会と呼ばれた。政党を中心として、企業・労組・農民・大学・銀行・マスメディアその他にわたり、徹底的に4つの柱で住み分けと縦割りがなされた。
1921年、ハーグに国際司法裁判所が設置された。相対的安定期、オランダのゾイデル海開発が進められた。
第二次世界大戦では中立を宣言するも1940年5月ドイツに奇襲され、1週間余りの戦いで敗北し王族はイギリスに亡命した。その後1941年に中立を破棄し日本に宣戦布告するが、東インド植民地はまもなく日本軍に占領されている。オランダ本国はドイツによる軍政が敷かれた。
この時期に、「アンネの日記」で有名となるフランク一家など多くのユダヤ人がホロコーストに遭い、強制収容所へ送られている。オランダ本土については、1944年9月に連合軍がマーケット・ガーデン作戦を実施してアイントホーフェンおよびその周辺地域を解放するが、アムステルダムを含めた多くの地域の解放は、1945年春にドイツが降伏してからである。東インド植民地は夏に日本軍が撤退し、その後は再びインドネシアに侵攻してインドネシア独立戦争を戦った。
戦後国力が低下していた上に、これまでの過酷な植民地支配に憤慨したインドネシア独立勢力を抑えることは出来なかった。国際世論の支持も得られず、アメリカや国際連合の圧力もあって独立を承認せざるを得なくなり、結果として国際的地位の低下を招いた。戦争の終盤、ウィレム・ドレースが首相を務めていた。
1960年から水路問題が段階的に解決された。
1964年、王女イレーネがカルロス・ウゴ・デ・ボルボン=パルマと結婚し、王位継承権を放棄した。2年後、ベアトリクス王女がクラウス・フォン・アムスベルクと結婚し、国民から怒りを買った。1967年、アントウェルペンが運河でライン川と結ばれた。
1973年からの労働党連立政権において新旧両宗派が支持を失い、1980年に大合同してキリスト教民主アピールとなった。
1992年、ベネルクス3国として欧州共同体の創設メンバーとなり、欧州連合に発展させた。
オランダは早くから世界進出し、アジアとも関わりが深い。オランダによるジャワ島を中心とするオランダ領東インド支配においては、1825-30年におきた民衆反乱を弾圧したのち、「強制栽培制度」を1830年に実施した。これは、ジャワ農民に対し、土地の一定割合で稲作など食用の栽培を禁止し、コーヒーやサトウキビといったヨーロッパ輸出用の高級作物の栽培を強制する制度で、ナポレオン戦争後のオランダ本国がおかれた経済的苦境を、打破するためのものであった。この制度により、ジャワから強制栽培品を安く買い上げ転売したオランダは経済が好転、鉄道建設をはじめ、産業革命と近代化のための資本蓄積に成功した。
厳罰によって実施されたこの制度で、ジャワ農民は稲や麦という自給食料を失い、1843-48年には飢饉に苦しみ多数の餓死者を出したと言われている。強制栽培制度は中断を伴い形を変えて20世紀まで続けられ、第二次世界大戦中の日本軍のオランダ領ジャワへの侵攻とその撤退後も解決されず、インドネシアとオランダとの独立戦争の終戦まで続いた。
政体は立憲君主制で、国家元首は2013年4月30日に即位したウィレム=アレクサンダー。
議会であるスターテン・ヘネラールは二院制で、第二院150名、第一院75名から構成され、議院内閣制を採る。
2010年2月20日、キリスト教民主アピール、労働党とキリスト教同盟の3党連立から労働党が離脱したことで第4次バルケネンデ政権が崩壊した。これを受けて同年6月9日に第二院の総選挙が実施され、マルク・ルッテ率いる自由民主国民党が31議席を得て第1党となった。しかしながら複数の政党との間で協議が難航し、連立の枠組みがなかなか定まらなかった。最終的には21議席を得たキリスト教民主アピールと組み、同年10月14日にルッテを首班として、少数与党による中道右派連立政権を発足させることとなった。この連立政権は24議席を持つ極右政党の自由党の閣外協力を受けた。その後、2012年に再度総選挙が行われ、第1党を維持した自由民主国民党と第2党となった労働党との連立による第2次ルッテ内閣が成立した。
第二次世界大戦後、オランダは寛容な福祉国家を築きあげたが、1970年代のオイルショックの後はオランダ病と呼ばれた不況と財政の悪化に苦しんだ。その対策として1982年にワッセナー合意が結ばれ、雇用の確保に努めながら企業の国際競争力の向上を図ったことで、1990年代には経済成長と失業率の低下が実現し、「オランダ・モデル」として注目を集めた。しかし、リーマン・ショックに端を発した経済危機を受けて、さらなる財政の緊縮が求められている。
オランダ軍は陸海空三軍および国家憲兵隊(オランダ王立保安隊)の4軍種からなる。人員は約61,000名。冷戦期は徴兵制を取っていたが、1996年に廃止された。現在は完全志願制の軍隊になっている。北大西洋条約機構に加盟しており、近年は欧州連合による地域紛争解決のための欧州連合部隊にも加わるなど、集団安全保障体制を構築している。また、アメリカとニュークリア・シェアリングをしており、独自の核戦力は保持していないが核抑止力をもっている。
オランダは、江戸時代の鎖国下で欧州諸国で唯一外交関係を維持した国である。当時オランダを通じてもたらされた学問・技術は蘭学と呼ばれた。
1844年7月29日(天保15年)、オランダは、オランダ国王の親書を軍艦で江戸幕府に届ける旨を予め商船船長のヒイトル・アオヘルト・ヒツキから江戸幕府に通知させたうえ、8月15日、軍艦の船長ハーエス・コープスからそれを届けさせた。親書は江戸幕府が鎖国を解くよう、またオランダ船やその船員、日本人に対する待遇を改善するよう求めたもので、美術品や地図、植物図鑑、天文学書などが付されていた。
また、1852年9月11日にはバタヴィア(ジャカルタ)の裁判官でオランダ貿易協会(オランダ東インド会社の後身)の出島オランダ商館の館長トンクル・キュルシュスが、老中阿部正弘の許可を得た長崎奉行に、国王の命によるバタヴィア提督からの親書を届けた。親書はアメリカ合衆国が蒸気船軍艦で訪日し日本に通商を求めるらしいという風説を伝えたうえ、戦争を避けるように希望するもので、開国・明治維新に向けての下地が準備、形成されることになった。
1873年(明治6年)には上述のとおり、岩倉使節団がオランダを訪問した。
第二次世界大戦時、日本はオランダの植民地であった蘭印(現在のインドネシア)を攻略し占領した。このことが、第二次世界大戦後、インドネシア独立の大きな要因となって、オランダは重要な植民地を失い、また戦中の白馬事件などの影響もあって、戦後は反日感情が強かった。戦後オランダ法廷は日本軍BC級戦犯に対し、アメリカ法廷・中国法廷を上回る236人に死刑判決を下した。これは連合国による対日裁判で最多の数となった。オランダはサンフランシスコ平和条約を締結し、その際に賠償請求権も放棄したが、のち賠償請求を続け、1956年には「オランダとの私的請求権解決に関する議定書(日蘭議定書)」において、ジャワで拘留された元捕虜や同国民間人に与えた損害(民間人の私的請求権)について日本から補償(見舞金36億円)を受けた。
その後も反日感情は残存し、1971年の昭和天皇オランダ歴訪の際には、在位中の昭和天皇はオランダ人にとって戦争犯罪人と見なされていたため市民から卵や魔法瓶を投げつけられるなどした。またベアトリクス女王が1986年に日本訪問の計画をした際には、議会と世論の反発で中止した。
昭和天皇崩御後の1991年10月、ベアトリクス女王は歴代オランダ元首として初めて日本を公式訪問。天皇が主催した晩餐会のスピーチでは第二次世界大戦時のインドネシアにおける自国民の犠牲について言及する一方、翌年3月に開業を控えていた長崎県のテーマパーク「ハウステンボス」にも言及し、蘭日関係の親善を強調した(女王は自らの居所であるハウステンボス宮殿の忠実な再現及び同名の使用を許可)。1990年代より従軍慰安婦問題が世界レベルで議論された際には、オランダも再度請求を開始、日本政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉