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オリックスバファローズとは?

(オリックスバファローズから転送)
オリックス・バファローズ
会社名 オリックス野球クラブ株式会社
創設年度 1936年
ロゴデザイン

所属リーグ

パシフィック・リーグ


歴代チーム名

阪急軍(1936年 - 1946年)
阪急ブレーブス(1947年 - 1988年)
オリックス・ブレーブス(1989年 - 1990年)
オリックス・ブルーウェーブ(1991年 - 2004年)
大阪近鉄バファローズを吸収合併
オリックス・バファローズ(2005年 - 現在)


本拠地
京セラドーム大阪(大阪府大阪市西区)


収容人員 36,627人(京セラドーム大阪)
フランチャイズの遍歴

永久欠番

なし



獲得タイトル
日本一(4回)

リーグ優勝(12回)

セ・パ交流戦優勝・最高勝率(1回)
(2015年以降は最高勝率)


成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(12回)(太字は勝利した年)

クライマックスシリーズ

0勝2敗


プレーオフ(前後期制)(5回)
(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)

2勝3敗




球団組織
オーナー 宮内義彦(代行:西名弘明)
運営母体 オリックス
監督 西村徳文(2019年から)

オリックス・バファローズ(英語: ORIX Buffaloes)は、日本プロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。

大阪府フランチャイズとし、大阪市西区にある京セラドーム大阪本拠地兵庫県神戸市須磨区にあるほっともっとフィールド神戸準本拠地としている。また、二軍ウエスタン・リーグに加盟していて、2017年シーズンから舞洲バファローズスタジアム(大阪市此花区舞洲スポーツアイランド内)を本拠地に定めている。

2004年シーズン終了後に、神戸を本拠地とするオリックス・ブルーウェーブと、大阪を本拠地とする大阪近鉄バファローズの2球団の合併によって誕生した球団である。「バファローズ」の名を用い、大阪を本拠地、神戸を準本拠地としているが、運営母体はオリックスのままであり、運営法人も大阪阪急野球協会の流れを組むオリックス野球クラブ側が存続しているため、オリックス・ブルーウェーブの後継球団扱いであり、球団史において大阪近鉄バファローズの歴史は傍系扱いになる。

目次

  • 1 球団の歴史
    • 1.1 阪急時代
      • 1.1.1 1リーグ時代
      • 1.1.2 2リーグ分立から西本監督就任まで
      • 1.1.3 西本監督時代
      • 1.1.4 上田監督時代(途中の1979年 - 1980年の梶本監督時代を含む)
    • 1.2 オリックス時代・球団合併前(ブレーブス、ブルーウェーブ時代)
      • 1.2.1 上田監督時代(ブレーブス時代)
      • 1.2.2 土井監督時代
      • 1.2.3 第1次仰木監督時代
      • 1.2.4 石毛監督時代
      • 1.2.5 レオン監督時代
      • 1.2.6 伊原監督時代
    • 1.3 オリックス時代・球団合併後(バファローズ時代)
      • 1.3.1 第2次仰木監督時代
      • 1.3.2 中村監督時代
      • 1.3.3 コリンズ監督時代
      • 1.3.4 大石監督時代
      • 1.3.5 岡田監督時代
      • 1.3.6 森脇監督時代
      • 1.3.7 福良監督時代
      • 1.3.8 西村監督時代
  • 2 所属選手・監督・コーチ
  • 3 チーム成績・記録
    • 3.1 その他の記録
  • 4 歴代本拠地
    • 4.1 球団合併後の2球場併用
    • 4.2 二軍の本拠地を大阪へ移転
  • 5 スポンサー
  • 6 歴代監督
  • 7 永久欠番
    • 7.1 準永久欠番
  • 8 主な歴代の球団歌・応援歌
    • 8.1 阪急軍時代
    • 8.2 阪急ブレーブス時代
    • 8.3 オリックス・ブレーブス時代
    • 8.4 オリックス・ブルーウェーブ時代
    • 8.5 オリックス・バファローズ時代
  • 9 チームの特徴
    • 9.1 球団名
    • 9.2 マスコット
    • 9.3 応援スタイル
    • 9.4 営業・ファンサービス
    • 9.5 前身球団へのスタンス
    • 9.6 前身球団からの歴史を伝える京セラドーム大阪内の無料展示施設「Bs SQUARE」
    • 9.7 旧運営者側の扱い
    • 9.8 「バファローズ・スタジアム」の扱い
  • 10 ユニフォームの変遷
    • 10.1 一軍
      • 10.1.1 限定ユニフォーム
        • 10.1.1.1 前身球団の復刻版
        • 10.1.1.2 (大坂)夏の陣
    • 10.2 二軍
  • 11 球団旗の変遷
    • 11.1 一軍
    • 11.2 二軍
  • 12 主なキャンプ地
  • 13 キーワード
    • 13.1 無安打で勝利
    • 13.2 1試合の最多得点・最多得点差勝利
    • 13.3 押し出しで1試合8得点
    • 13.4 合計97歳の先発投手
    • 13.5 敵地での主催ゲーム
    • 13.6 契約金ゼロの新人選手
    • 13.7 最多失点・最多失点差敗北
    • 13.8 ベースボール・モンキー
    • 13.9 大阪・神戸との関係
    • 13.10 東京での主催ゲーム
    • 13.11 10者連続安打
    • 13.12 226事件
  • 14 放送
    • 14.1 テレビ中継
      • 14.1.1 地上波
        • 14.1.1.1 韓国
      • 14.1.2 衛星放送
    • 14.2 ラジオ中継
    • 14.3 応援番組
    • 14.4 過去の放送番組
  • 15 関連書籍
  • 16 脚注
    • 16.1 注釈
    • 16.2 出典
  • 17 関連項目
  • 18 外部リンク

球団の歴史

阪急時代

1リーグ時代

阪神急行電鉄(現阪急電鉄株式会社)は1920年に日本最初のプロ野球球団とされる「日本運動協会」の経営を引き取り「宝塚運動協会」として運営していたが1929年7月に解散。後の阪急ブレーブスとの球団としての繋がりはない。しかし小林一三はいずれプロ野球時代が来ると予見。1935年読売新聞社大日本東京野球倶楽部を結成したのを受けて、小林はアメリカに出張中にワシントンから電報で球団設立を指示し、1936年1月23日に「大阪阪急野球協会」が設立される。ライバル企業である阪神電気鉄道が立ち上げた大阪タイガースに対抗するため、設立を決意したとも言われる。発足当時の球団で球場を自前で新たに建設することを計画したのは阪急だけである。小林一三が慶應義塾大学出身だったこともあり、宮武三郎山下実山下好一ら慶應のスター選手を入団させ、初代監督にも同OBの三宅大輔を招いた。同年2月5日に結成された日本職業野球連盟に参加。球団名にと企業名を入れた日本で最初のプロ野球球団である。

1936年

トーナメント制の夏季の大阪大会で首位になっている。1937年5月1日、本拠地球場となる阪急西宮球場が開場、春季は8球団中4位となったが監督の三宅は妥協を許さぬ厳しい姿勢が選手の反発を招いて解任され、村上実が秋季の指揮をとるがチームは投手陣が弱く、粘りがないとされ、8球団中7位に終わっている。村上の後任には山下実がプレイングマネージャーで就任。

1938年

投手陣の健闘で春、秋共に3位となるが、上位の首位の巨人や2位のタイガースにはどうしても勝てないという状況だった。1939年、この年より1シーズン制通しての成績で優勝、順位を決め、便宜上春夏秋の3季制としたが、春季は投手陣が踏ん張り9連勝もあり首位となっているが、巨人には未勝利のままで、年間を通じても巨人、大阪に次ぐ2位に終わっている。

1940年

井野川利春を4番選手兼任監督に迎える。森弘太郎が28勝を挙げ、山田伝が打率5位になるが3年続けて巨人、大阪に次ぐ3位に終わる。1941年、戦局悪化で各球団共に選手の応召が続き戦力が低下するが、森弘太郎がノーヒットノーランを達成するなど30勝を挙げ、最多勝となり、チームも勝率.631の成績を挙げるが、首位巨人と9ゲーム差の2位に終わっている。1942年以降も応召が続き8球団中4位、1943年、選手兼任監督の井野川が応召され西村正夫が監督になるが8球団中7位。1944年、夏季終了時点で応召による選手不足でリーグ戦続行が不可能となり、途中打ち切りとなり3位に終わっている。

1945年

、西宮球場の倉庫でボールやバットが保管されていたこともあり、11月の戦後プロ野球初試合となる東西対抗戦が神宮球場で開催され、1946年よりリーグ戦が再開される。他球団に比べて、用具がそろっていたことや野口二郎今西錬太郎が加入したことで、阪急の下馬評は高かったが、投手陣が6月に調子を落とし、長打力不足もあって、チームは8球団中4位に終わる。チーム名を「阪急ベアーズ」と改称したものの、翌年4月18日には「阪急ブレーブス」に再改称している。

1947年

総監督に浜崎真二、西村正夫が助監督、これに井野川利春も復員してきて助監督という首脳陣となった。野口二郎が24勝、今西錬太郎が21勝を挙げるが8球団中4位に終わり、オフには青田昇が巨人に移籍。1948年、投手は良いが、青田が抜けて長打力不足となったのが響き本塁打がリーグ最低の25本で、3年連続8球団中4位に終わる。1949年、長打力不足はこの年も続き、投手陣では天保義夫と今西錬太郎の2人で43勝をあげ、対巨人戦では11勝8敗と勝ち越すがそのうち7勝は天保が挙げており、この年は2位となった。この年のオフ2リーグ分立に伴い、阪急はパシフィック・リーグ所属となる。

2リーグ分立から西本監督就任まで

1950年

パ・リーグ参戦初年度の開幕4戦目から球団新記録の11連敗と低迷し、54勝64敗2分で首位の毎日オリオンズと28.5ゲーム差の4位に終わる。

1951年

天保義夫と野口二郎で合わせて13勝止まりで、7球団中5位と低迷。オフにはジミー・ニューベリージョン・ブリットンが入団。

1952年

ニューベリーが11勝、ブリットンが打率3割の活躍を見せるが、2年連続7球団中5位。

1953年

西宮球場にナイター設備が完成し、5月5日よりナイター試合が行われるようになった。阪急はこの年のナイター試合で26戦21勝と「夜の勇者」のあだ名がつくほど強く、新加入のルーファス・ゲインズが14勝、ラリー・レインズが盗塁王になるなど、8月から9月には首位に立つこともあり、9月2日には大映、阪急、南海の3チームがゲーム差無しのそれぞれ1厘差で並んでいたが、ここから南海が12連勝、逆に阪急は5連敗で優勝争いから後退し、最終的に南海と4ゲーム差の2位で終わっている。オフには梶本隆夫が入団。

1954年

新人の梶本隆夫がこの年の開幕戦の対高橋ユニオンズ戦で初登板で初先発し、初勝利を挙げている。梶本はこの年20勝をあげる活躍を見せるが、チームはその他の投手陣が安定せず、後半戦に息切れして 8球団中5位。ラリー・レインズが首位打者となるが、この年限りで退団。

1955年

新加入のロベルト・バルボンが1番打者で163安打、49盗塁を記録し、チームも夏場まで好調だったものの、9月以降投手陣が不調となり、80勝を挙げたものの、99勝の南海から19ゲーム差の4位に終わる。

1956年

米田哲也の入団に関して、阪神との二重契約問題が生じていたが、2月13日にコミッショナー裁定で阪急入りしている。その米田は9勝、梶本隆夫が28勝、種田弘が17勝を挙げるなど、リーグ1の投手陣と、盗塁のシーズン日本プロ野球記録を更新した河野旭輝の活躍で3位。監督は藤本定義が就任。オフには、地元の西宮出身で東京六大学では長嶋茂雄らと競い合って首位打者にもなった慶應の中田昌宏が入団。

1957年

1月25日、球団創設者である小林一三が死去。梶本隆夫が24勝、米田哲也が21勝とヨネカジコンビが共に防御率1点台の成績を残すが4位に終わる。オフには立教大学の「立教三羽烏」の1人、本屋敷錦吾が入団。

1958年

前半戦を2位で折り返し、8月には首位に立つこともあり、南海、西鉄との首位争いとなるが、3位に終わる。チーム73勝のうち、米田と梶本で53勝を占めた。

1959年

米田、梶本が5月まで勝てず、チームは前半戦に8連敗、オールスターを挟んで8月1日に11連敗を記録し、球団史上最低勝率を更新する.369で5位に終わる。藤本定義はシーズン途中で監督を辞任しており、戸倉勝城が指揮を継いだ。

1960年

あまりの打撃の不振から西宮球場にラッキーゾーンが設置され、本塁打は前年より7本増えたが、それでもリーグ最低の数字で、相手チームの本塁打も増える結果となり、梶本隆夫と米田哲也が共に20勝するものの4位に終わる

1961年

中田昌宏が南海の野村克也と共に最多本塁打を獲得するが、得点力不足で、米田、梶本は2年連続ともに20勝だが5位に終わり、この頃には「地味」という意味で「灰色の阪急」というあだ名が定着している。このオフ、コーチに西本幸雄を招いている

1962年

8月半ばまで2位を保つが、最終的には4位に終わっている。11月6日、西本が監督に就任。

西本監督時代

1963年

梶本隆夫がプロ入りして初めて勝利数が二桁に届かない5勝、米田哲也がリーグ最多敗の23敗で、投手陣は石井茂雄が頼りという状況で、8連敗を3度記録するなど、最終的に57勝92敗1分で首位の西鉄から30.5ゲーム差の最下位に終わる。

1964年

ダリル・スペンサーゴーディ・ウインディが加入し、野球の戦術を熟知したスペンサーは阪急に「考える野球」をもたらし、やがて来る黄金時代へと大きく貢献する。チームは前半戦を首位で折り返し、南海との首位争いとなり、8月に対南海戦3連敗で2位に落ち、9月12日に南海との首位攻防戦に勝利し0.5ゲーム差としたが直後に3連敗 、9月19日の東京オリオンズ戦に阪急が負けたことで南海が優勝、最終的に3.5ゲーム差の2位に終わる。

1965年

チームは前半戦だけで首位と27.5ゲーム差と離され、打線はスペンサー頼みで、スペンサーは7月にはサイクル安打を達成し、野村克也と本塁打王争いとなるが、10月に交通事故でシーズンを棒に振る。チームは4位に終わる。この年初めてドラフト会議が行われ、長池徳二住友平が入団。

1966年

梶本隆夫が9月27日に15連敗を記録するなどこの年は2勝止まりで、打線は頼みのスペンサーが20本塁打63打点に終わり、チームも5位に終わる。10月14日、監督の西本幸雄の信任投票事件が起きて、西本は辞意を表明し、球団は青田昇を後任監督に進めるが、それを聞いたオーナーの小林米三が自ら西本を説得し、西本は19日に辞任を撤回している。

1967年

スペンサーが30本塁打、長池徳二が27本塁打するなど攻撃力がアップ、投手陣は足立光宏が20勝、米田哲也が18勝、梶本隆夫が15勝を挙げる。オールスター前には2位に8ゲームをつけ首位、10月1日、対東映フライヤーズ戦(西京極)に勝利し、球団史上初のリーグ優勝を達成する(球団創立から32年目での初優勝は日本プロ野球史上最も遅い記録となっている)。しかし初出場となる日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗退。

1968年

投手陣は米田哲也が29勝、打線ではそれまで9年間で8本塁打の矢野清がこの年27本塁打で「10年目の新人」と呼ばれる活躍を見せる。チームは南海との首位争いとなり、10月11日の共にシーズン最終戦を同率で並び、阪急は対東京戦、2点ビハインドの9回裏に矢野が同点打を放ち、10回裏にサヨナラ本塁打で勝利をおさめている。阪急の試合終了の8分後、同時に試合を行っていた南海が近鉄に敗れたことで、2年連続優勝達成。しかし日本シリーズでも2年連続で巨人に2勝4敗で敗退。ドラフトで後に「花の(昭和)44年組」と呼ばれることになる山田久志福本豊加藤秀司が入団。

1969年

近鉄との優勝争いとなり、10月19日に対近鉄戦(藤井寺)に勝利して3年連続リーグ優勝達成。長池徳二が本塁打と打点の二冠王となる。しかし日本シリーズは3年連続で巨人に2勝4敗で敗退。

1970年

福本豊が一番に定着し初めて盗塁王を獲得し、この後福本は13年連続で同タイトルを獲得することになる。山田久志が10勝を挙げるが、打線が低調で4位に終わる。オフに、前広島コーチの上田利治を打撃コーチとして招聘する。

1971年

オールスター前までに2位に6ゲーム差をつけ、オールスター直後のロッテ戦2連勝で差を広げるが、この直後8連敗した。それでも9月28日のロッテ戦に勝利し、2年ぶり4度目のリーグ優勝達成。長池徳二が31試合連続安打を記録するなどMVPとなり、山田久志が最優秀防御率を獲得。新旧戦力がかみ合った年になった。しかし、日本シリーズは巨人と4度目の対戦で、第3戦で9回2死から山田が王貞治に逆転サヨナラ3ランを打たれて敗れるなど、1勝4敗で敗退。オフには東映の大橋穣種茂雅之らを阪本敏三岡村浩二佐々木誠吾との交換トレードで獲得。

1972年

移籍の大橋穣と種茂雅之が揃ってダイヤモンドグラブを獲得するなど、守備が強化され、福本豊がシーズン盗塁数のメジャーリーグ記録(当時)を上回る106盗塁を挙げるなど、最終的には2位に14ゲーム差をつける強さで、9月26日に南海に勝利して2年連続5度目のリーグ優勝達成。しかし、5度目の巨人との日本シリーズでは、2年連続1勝4敗で敗退。V9時代の巨人とはこれが最後の戦いとなったが、すべての年で3勝以上挙げられずに敗退しており、V9時代の日本シリーズで最も多く巨人に負けた球団となった。

1973年

この年よりパ・リーグは前・後期の2期制によるプレーオフ制度を導入。前期は3位に終わったものの、後期は前期優勝の南海に12勝0敗1分として、他球団を圧倒して10月5日に優勝する。阪急有利とみられた南海とのプレーオフは第5戦までもつれ、0対0で迎えた9回表に2点を取られて、3勝2敗で南海の「死んだ振り」に敗退し、西本幸雄は監督を辞任、西本の後任にはヘッドコーチの上田利治が就任。この年のドラフト会議作新学院高等部江川卓を1位指名したが入団拒否。

上田監督時代(途中の1979年 - 1980年の梶本監督時代を含む)

1974年

前期は最終的にロッテとの優勝争いとなり、5月まで不調だった阪急は対南海3連戦に3連勝したことで調子をあげて6月20日に前期優勝決定。後期はロッテ、南海との優勝争いとなるが3位となり、通年では2位に終わる。ロッテとのプレーオフでは3連敗で敗退。

1975年

前期は関西大学から松下電器を経て入団した新人の山口高志が7勝を挙げるなどあり、優勝。後期は6位だったものの、近鉄とのプレーオフでは山口の2完投もあり3勝1敗で3年ぶり6度目のリーグ優勝達成。投手陣はチーム最多勝が山口と山田久志の12勝だったが、この年の2桁勝利投手は山口、山田らを含めて5人となった。打線では新外国人のボビー・マルカーノバーニー・ウイリアムスの活躍があった。広島東洋カープとの日本シリーズでは4勝0敗2分で6度目の日本シリーズで初めて日本一を達成。

1976年

山田久志が最多勝を獲得し、この年より日本プロ野球史上初の3年連続MVPを獲得。福本豊が盗塁王、加藤秀司が打点王になるなど「花の44年組」がいずれもタイトルを獲得し、「阪急史上最強の年」とまで言われ、前後期とも優勝で2年連続7度目のリーグ優勝達成。4年ぶりに巨人との6度目の日本シリーズとなったが、阪急が3連勝のあと、巨人に3連勝されて迎えた第7戦は足立光宏が完投し、4勝3敗で日本一達成となり、前後期優勝の状態で日本一となったため、球団初の完全制覇を達成した。

1977年

前期は南海、近鉄との在阪3球団による優勝争いとなり、6月3日からの対南海戦を3勝1敗とし、64試合目に優勝決定している。後期は先行するロッテ、それを追う阪急との優勝争いとなり、近鉄との最終3連戦で3連勝すれば逆転の可能性も残っていたが、近鉄に敗れたことで1分2厘の差で2位に終わる。ロッテとのプレーオフでは3勝2敗として、3年連続8度目のリーグ優勝。2年連続巨人との日本シリーズは山田久志の投打にわたる活躍で4勝1敗で3年連続日本一を達成。投手陣では新人の佐藤義則が7勝を挙げて新人王を獲得。打線では代打本塁打の記録をもつ高井保弘が、2年前より導入された指名打者制のおかげでレギュラーに定着し、この年は4番にも入っている。

1978年

前後期ともに優勝し4年連続9度目のリーグ優勝。投手陣ではこれまで6勝の今井雄太郎が完全試合を達成するなど、2年目の佐藤義則と共に13勝を挙げ、打線では簑田浩二がレギュラーに定着、この年より8年連続ダイヤモンドグラブを獲得する活躍を見せる。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは3勝3敗とした第7戦、ヤクルトの大杉勝男のレフトポール際への本塁打の判定を巡って監督の上田が1時間19分の猛抗議をするも判定は覆らず。先発していた足立光宏が試合再開後に降板し、ヤクルトの松岡弘に完封されて3勝4敗でシリーズ敗退。上田は抗議の責任を取る形で、翌日監督を辞任。梶本隆夫が監督に就任する。

1979年

前期は近鉄とは1ゲーム差の2位に終わる。後期は優勝で、近鉄とのプレーオフに3連敗で敗退し、5年ぶりにリーグ優勝を逃す。加藤英司が首位打者と打点王の二冠王。

1980年

山田久志、山口高志の故障もあり、前期4位、後期は5位で10年ぶりのBクラスとなる5位に終わり、梶本は監督を辞任し、後任には上田利治が3年ぶりに監督に復帰。

1981年

エースの山田久志が13勝12敗で貯金を作れず、前期3位、後期2位の通年2位。

1982年

前期は2位で、この年山田が16勝するなど復調したが、後期は主軸打者が不振で5位となり、通年でも4位に終わった。

1983年

広島の水谷実雄が加藤英司とのトレードで入り、水谷は4番で36本塁打、114打点で打点王になり、トリプルスリーを達成した簑田浩二や、ブーマー・ウェルズらと強力なクリーンアップを形成するものの、チームは首位の西武と17ゲーム差の2位に終わる。

1984年

開幕から3連勝し、5月から6月にかけて13連勝で独走態勢に入り、9月23日の対近鉄戦(藤井寺)で6年ぶりにリーグ優勝達成。ブーマー・ウェルズが外国人選手初の三冠王を獲得も、広島との日本シリーズではブーマーが徹底的にマークされ、3勝4敗で敗退。この年が阪急最後の優勝となった。

1985年

勝ち越すものの首位の西武と15.5ゲーム差、3位の近鉄とゲーム差無しの1厘差で4位に終わる。

1986年

6月4日に近鉄と首位が入れ替わると、そのまま後退し、3位に終わる。佐藤義則の故障などで先発陣が不足するなど、監督の上田は「選手層が薄いと実感した」とコメントした1年となった。

1987年

首位の西武と9ゲーム差の2位となるが、かつての先発3本柱の山田久志が7勝、佐藤義則が7勝、今井雄太郎が4勝に終わる。

1988年

開幕10試合で1勝9敗で、シーズン通して3位以上とならないまま、監督の上田として初の負け越しで4位となる。阪急電鉄の創立記念日である10月19日、球団がオリエント・リースに買収されることが発表され、この年が阪急ブレーブス最終年となった。オフには、山田久志と福本豊が現役引退。また、この年同じくダイエーへ球団買収となった南海の門田博光が、ダイエー球団の本拠地の福岡へ行くことを拒み、オリックスに移籍。

オリックス時代・球団合併前(ブレーブス、ブルーウェーブ時代)

上田監督時代(ブレーブス時代)

オリックス野球クラブ株式会社
ORIX Baseball Club
種類
株式会社
【略称】
オリックス球団
【本社所在地】
日本
550-0023
大阪府大阪市 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/12/15 07:17

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