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オーストリアとは?

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オーストリア共和国
Republik Österreich



(国旗) | (国章)
国の標語:不明
国歌:Land der Berge, Land am Strome(ドイツ語)
山岳の国、大河の国
公用語
ドイツ語
首都
ウィーン
【最大の都市】
ウィーン
政府
連邦大統領
アレクサンダー・ファン・デア・ベレン
連邦首相
セバスティアン・クルツ
面積
【総計】
83,870km(112位)
【水面積率】
1.7%
人口
【総計(2017年)】
8,794,267
GDP(自国通貨表示)
【合計(2008年)】
2,822億ユーロ (€)
GDP (MER)
【合計(2007年)】
4,153億ドル(22位)
GDP (PPP)
【合計(2008年)】
3,285億ドル(35位)
【1人あたり】
39,634ドル
成立
オーストリア辺境伯国
976年
オーストリア公国
1156年
オーストリア大公国
1453年
オーストリア帝国
1804年
オーストリア=ハンガリー帝国
1867年
第一共和国
1918年
アンシュルス(ドイツによる併合) 1938年
【第二共和国】
1945年以降
オーストリア国家条約(連合軍の軍政より独立) 1955年5月15日調印/同年7月27日発効

通貨
ユーロ (€) (EUR)
時間帯
UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1
AT / AUT
ccTLD
.at
国際電話番号
43
  1. ^ Bevölkerung zu Quartalsbeginn seit 2002 nach Bundesland - Statistik Austria
  2. ^ IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
  3. ^ ハプスブルク帝国の崩壊後、現在の国土領域における共和政体(第一共和国)の建国は1918年11月12日である。
  4. ^ 1999年以前の通貨はオーストリア・シリング
  5. ^ オーストリアのユーロ硬貨も参照。

オーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、ドイツ語: Republik Österreichバイエルン語: Republik Östareich)、通称オーストリアは、ヨーロッパ連邦共和制国家首都は音楽の都といわれたウィーン

ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタインスイスと、南はイタリアスロベニア、東はハンガリースロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧東欧に分類されたこともある。

目次

  • 1 概要
  • 2 国名
    • 2.1 由来と「狭義のオーストリア」
    • 2.2 オーストリア家との関係
    • 2.3 オーストラリアとの混同
    • 2.4 オーストリー表記
  • 3 歴史
    • 3.1 ボヘミアがバーベンベルクを継承
    • 3.2 教会のハプスブルク包囲網
    • 3.3 イタリア政策が結婚政策となるまで
    • 3.4 ヴェストファーレン条約という審判
    • 3.5 マリア・テレジアと二元主義
    • 3.6 ウィーン体制とフランス
    • 3.7 オーストリア・ロイド汽船
    • 3.8 オーストリア資本の凋落と第一次世界大戦
    • 3.9 ファシズムからアンシュルスへ
    • 3.10 永世中立から対外依存へ
  • 4 政治
    • 4.1 国際関係
    • 4.2 軍事
    • 4.3 行政区分
    • 4.4 オーストリアの地方名
    • 4.5 主要都市
  • 5 地理
    • 5.1 気候
  • 6 経済
    • 6.1 金融
  • 7 交通
    • 7.1 鉄道
    • 7.2 航空
  • 8 国民
    • 8.1 民族
    • 8.2 言語
    • 8.3 宗教
    • 8.4 婚姻
  • 9 文化
    • 9.1 食文化
    • 9.2 音楽
      • 9.2.1 クラシック音楽
    • 9.3 文学
    • 9.4 世界遺産
    • 9.5 祝祭日
  • 10 スポーツ
  • 11 著名な出身者
  • 12 脚注
  • 13 参考文献
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

概要

中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリスドイツフランスロシアとならぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていた。1918年、第一次世界大戦の敗戦と革命により1867年より続いたオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、共和制(第一共和国)となった。この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域におおむね版図が絞られた。1938年には同じ民族の国家であるナチス・ドイツに併合されたが、ドイツ敗戦後の1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年の独立回復と永世中立国化により現在につづく体制となった。

音楽を中心に文化大国としての歴史も有する。EU加盟以降は、同言語・同民族の国家同士でありながら複雑な国際関係が続いてきたドイツとの距離が再び縮まりつつあり、国内でも右派政党の伸張などドイツ民族主義の位置づけが問われている。

本項では主に1955年以降のオーストリア共和国に関して記述する。それ以前についてはオーストリアの歴史ハプスブルク君主国オーストリア公国オーストリア大公国オーストリア帝国オーストリア=ハンガリー帝国第一共和国 (オーストリア)アンシュルス連合軍軍政期 (オーストリア) を参照。

国名

正式名称は Republik Österreich (ドイツ語: レプブリーク・エースターライヒ)。

通称 Österreich(エースターライヒ)['ø:stəraiç]Ö は正確には日本語の「エ」ではなく「オ」と「エ」の中間のような音[øː]だが、日本語では「エ(ー)」で表記する慣習があるほか、日本人には「ウ(ー)」のように聴こえることもある。

公式の英語表記は Republic of Austria。通称 Austria、形容詞はAustrian(オーストリアン)。日本語の表記はオーストリア共和国。通称オーストリア漢字表記では墺太利または澳地利(略表記:)と記される。ドイツ語の表記や発音(および下記オーストラリアとの混同回避)を考慮した日本語表記はエースタ()ライヒエスタ()ライヒ、または舞台ドイツ語的表記によるエステ()ライヒであり、専門書や各種サイトなどで使用されている。

由来と「狭義のオーストリア」

国名の Österreich は、ドイツ語で「東の国」という意味である。フランク王国のころにオストマルク(「東方辺境領」)が設置されたことに由来する。OstmarkとはOst-markで「東方の守り」を意味する(デンマーク(Danmark)の「マーク」と同じ)。ドイツ語を含む各言語の呼称はそれが転訛したものである。

狭義のオーストリアはかつてのオーストリア大公領であり、現在のオーストリアの領土のうちザルツブルク司教領ケルンテン地方、シュタイアーマルク地方、チロル地方は含まれない。オーストリア大公を名乗り同大公領を世襲してきたハプスブルク家、ハプスブルク=ロートリンゲン家を「オーストリア家」と呼ぶようになり、時代が下るにつれ、同家が統治する領地を漠然と「オーストリア」と呼ぶようになった。1804年オーストリア帝国の成立に際しても「『オーストリア』の地理的範囲」は具体的に定義されなかった。1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、ウィーンを首都にドイツ人が多数を占める地域で「国民国家オーストリア」が建設されるが、これは一地方の名前(あるいはオーストリア家というかつての王家の通称)を国名に使用したことになる。

現在のオーストリアの行政区画ではかつてのオーストリア大公領は上オーストリア州下オーストリア州に分割継承されている。

ドイツ語のエスターライヒの reich(ライヒ)はしばしば「帝国」と日本語訳されるが、フランスのドイツ語名が現在でも Frankreich(フランクライヒ)であるように、厳密には「帝国」という意味ではない。「reich」には語源的に王国、または政治体制を問わず単に国、(特定の)世界、領域、(動植物の)界という意味が含まれている。

なお隣国のチェコ語では Rakousko / Rakúsko と呼ぶが、これは国境の地域の名前に由来している。

オーストリア家との関係

オーストリアを統治してきたハプスブルク家およびハプスブルク=ロートリンゲン家は「オーストリア家(: Haus Österreich, 西: Casa de Austria, : Maison d'Autriche, : House of Austria)」とも呼ばれ、同家の成員はハプスブルク、ハプスブルク=ロートリンゲンの家名の代わりに「オーストリアの」を表す各国の言語で呼ばれる(e.g. Marie-Antoinette d'Autriche、マリー=アントワネット・ドートリシュ)。「オーストリア家」にはスペイン・ハプスブルク家も含まれることがあり、たとえば、フランスルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ(スペイン語:マリア・テレサ・デ・アウストリア)はフランス語、スペイン語でそれぞれ「オーストリアの」とあって、スペイン・ハプスブルク家の王女である。日本語版Wikipediaでは、ハプスブルク家がドイツ系の家系であることから、記事名にはドイツ語の「フォン・エスターライヒ」(e.g. カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ)を使用している。

オーストラリアとの混同

オーストリア(Austria)はしばしばオーストラリア(Australia)と間違われるが、オーストラリアはラテン語で「南の地」に由来し、オーストリアとは語源的にも無関係である。しかし、綴りや発音が似ているため、多くの国でオーストリアとオーストラリアが混同されることがある。

日本では、オーストリア大使館とオーストラリア大使館を間違える人もおり、東京都港区元麻布のオーストリア大使館には、同じく港区三田の「オーストラリア大使館」への地図が掲げられている。

2005年日本国際博覧会(愛知万博)のオーストリア・パビリオンで配布された冊子では、日本人にオーストラリアとしばしば混同されることを取り上げ、オーストリアを「オースア」、オーストラリアを「オースリア」と覚える様に呼びかけている。

両国名の混同は日本だけではなく英語圏の国にも広く見られ、聞き取りにくい場合は "European" (ヨーロッパのオーストリア)が付け加えられる場合がある。しばしばジョークなどに登場し、オーストリアの土産物屋などでは、黄色い菱形にカンガルーシルエットを黒く描いた「カンガルーに注意」を意味するオーストラリアの道路標識に、「NO KANGAROOS IN AUSTRIA (オーストリアにカンガルーはいない)」と書き加えたデザインのTシャツなどが売られている。

なお、フランス語圏においてはオーストラリアをAustralie(オストラリ)、オーストリアをAutriche(オトリシュ)と表すためこのような問題はない。

オーストリー表記

2006年10月に、駐日オーストリア大使館商務部は、オーストラリアとの混同を防ぐため、国名の日本語表記を「オーストリア」から「オーストリー」に変更すると発表した。オーストリーという表記は、19世紀から1945年まで使われていた「オウストリ」という表記に基づいているとされた。

発表は大使館の一部局である商務部によるものだったが、署名はペーター・モーザー大使(当時)とエルンスト・ラーシャン商務参事官(商務部の長)の連名(肩書きはすでに「駐日オーストリー大使」「駐日オーストリー大使館商務参事官」だった)で、大使館および商務部で現在変更中だとされ、全面的な変更を思わせるものだった。

しかし2006年11月、大使は、国名表記を決定する裁量は日本国にあり、日本国外務省への国名変更要請はしていないため、公式な日本語表記はオーストリアのままであると発表した。ただし、オーストリーという表記が広まることにより、オーストラリアと混同されることが少なくなることを願っているとされた。

その後、大使館商務部以外では、大使館、日本の官公庁マスメディアなどに「オーストリー」を使う動きは見られない。たとえば、2007年5月4日の「朝日新聞」の記事では、同国を「オーストリア」と表記している。

大使館商務部の公式サイトは、しばらくは一貫して「オーストリー」を使っていた。しかし、2007年のサイト移転・リニューアルと前後して(正確な時期は不明)、大使館商務部のサイトでも基本的に「オーストリア」を使うようになった。「オーストリー」については、わが国の日本語名はオーストリア共和国であると断った上で

  • オーストリーの使用はそれぞれの企業の判断にゆだねる
  • マーケティングで生産国が重要な企業にはオーストリーの使用を提案する
  • 「オーストリーワイン」がその成功例である

などと述べるにとどまっている。

日本では雑誌『軍事研究』がオーストリーの表記を一部で用いている。

歴史

詳細は「オーストリアの歴史」を参照

ボヘミアがバーベンベルクを継承

ローマ帝国以前の時代、現在オーストリアのある中央ヨーロッパの地域には様々なケルト人が住んでいた。やがて、ケルト人のノリクム王国はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後、この地域はバヴァリア人スラブ人アヴァールの侵略を受けた。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住し、オーストリアの東部と中部を占めるカランタニア公国(658年 - 828年)を建国した。788年シャルルマーニュがこの地域を征服し、植民を奨励してキリスト教を広めた。東フランク王国の一部だった現在のオーストリア一帯の中心地域は976年バーベンベルク家のリウトポルトに与えられ、オーストリア辺境伯領(marchia Orientalis)となった。オーストリアの名称が初めて現れるのは996年Ostarrîchi(東の国)と記され、バーベンベルク辺境伯領を表した。

10-11世紀に神聖ローマ帝国は帝国教会政策を採ったが、11世紀後半から12世紀にかけて叙任権闘争で皇帝は敗北した。

1156年、"Privilegium Minus"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。1192年、バーベンベルク家はシュタイアーマルク公領を獲得する。1230年フリードリヒ2世(在位:1230年 - 1246年)が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。神聖ローマ帝国フリードリヒ2世とも対立。1241年モンゴル帝国ハンガリー王国に侵入(モヒの戦い)すると、その領土を奪い取った。1246年ライタ川の戦いでフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶 。その結果、ボヘミア王オタカル2世がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン各公領の支配権を獲得した 。彼の支配は1278年マルヒフェルトの戦い神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて終わった。

教会のハプスブルク包囲網

ザルツブルクザルツブルク大司教領(1278年 - 1803年)となり、ザルツブルク大司教フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェンが領主となった。ザルツブルクにはオーストリア最古の修道院聖ペーター僧院教会があり、古来からバイエルンと関係が深い。アギロルフィング家のテオド公がザルツブルクを寄進していたのである。バイエルン公はその後も一貫して教会建設に好意的で、ザルツブルクの教会に莫大な土地を与えた。1290年、アルブレヒト1世がエンス渓谷の所有権と諸権利を巡ってザルツブルク大司教と争い、ルドルフ1世の調停によって自身に有利な条約が結ばれた。翌年7月にルドルフが死んで、アルブレヒト包囲網が編成された。教皇ニコラウス4世の了解を得て、ハンガリー王、ボヘミア王、ニーダーバイエルン公サヴォイア公、ザルツブルク、アクイレイアコンスタンツの聖界諸侯、旧ロンバルディア同盟の諸都市、およびスイス誓約同盟も加わった諸国が大同盟を結成した。選帝侯を味方につけられないアルブレヒトは大同盟から大打撃を受け、フランスを範にとり財政改革をやることになった。裕福なウィーン市民をフープマイスターなる管財人へ任命し、人手に渡っていた所領をたちまちに回収した。しかしアルブレヒトが1308年に暗殺されてオーストリアは弱くなった。レオポルト1世モルガルテンの戦いに敗れてフランスに接近した。

西方では1309年アヴィニョン捕囚でフランスが神聖ローマと国境を接した。

イタリア政策が結婚政策となるまで

フリードリヒ3世の死後一世紀余りの間、ハプスブルク家はローマ王位から遠ざかった。しかし、この間にも政争は絶えなかった。1335年、ゲルツ伯家のハインリヒ6世が没し、唯一の女子マルガレーテ・マウルタッシュが伯位を継承したが(チロル女伯)、領土の相続をめぐってルクセンブルク家ヴィッテルスバッハ家ハプスブルク家が介入した。銀山のあるチロルは位置もイタリア政策の拠点となりうる垂涎の的であった。

1349年フランスがドーフィネを獲得し、ハプスブルクとの緊張を深め後の教会大分裂に発展した。1358年にハプスブルクはオーストリア大公(オーストリア大公国)を称した。1363年、ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世は、マルガレーテを退位させて強引にチロル伯領を継承、以後チロル地方はハプスブルク家の統治下におかれた。「チロル伯領」の首都は、1418年にメラーノに移転し、ついでインスブルックに移った。14世紀から15世紀にかけて、このようにハプスブルクはオーストリア公領周辺領域を獲得してゆく。領土の一円化はコンスタンツ公会議でイタリア政策が頓挫してから急務であった。1438年アルブレヒト2世が義父ジギスムントの後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったが、これ以降、一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。

ハプスブルク家は世襲領をはるかに離れた地域にも領地を獲得し始める。1477年フリードリヒ3世の唯一の子であるマクシミリアン大公は跡取りのいないブルゴーニュ公国マリーと結婚してネーデルラントの大半を獲得した。彼の子のフィリップ美公カスティーリャアラゴンの王女フアナと結婚した。フアナがのちに王位継承者となったためスペインを得て、更にその領土のイタリア、アフリカ、新世界をハプスブルク家のものとした。

ヴェストファーレン条約という審判

皇帝カール5世の治世におけるアントウェルペンは、コスモポリタンとしてポルトガルセビリアと結びつき、二度の活況を享受した。ポルトガルはアフリカの、セビリアはアンティル諸島の貿易窓口となった。

1526年モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死した後、ボヘミア地域とオスマン帝国が占領していないハンガリーの残りの地域がオーストリアの支配下となった。1529年、第一次ウィーン包囲。オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになった(東方問題)。これは二国間紛争のようでいて、教皇庁にとっては旧東ローマ帝国を奪還するのに、フランスとハプスブルクとのいずれが尖兵にふさわしいかという政治問題でもあった。そこでカール5世はカトリックへ接近していった(宗教改革#シュマルカルデン戦争)。1556年、カール5世が退位してスペイン=ハプスブルク家が枝分かれした。このときにアントウェルペンの隣でネーデルラントがスペイン領となった。1565年、スペイン領フロリダユグノー植民を殺す事件が起こった。そしてオランダ独立戦争に発展した。トルコとの長い戦争(Langer Türkenkrieg)は三十年戦争に影響したが、いずれも東ローマの回収を伏線とする点ではオランダ独立戦争と並行・連動するものであった。1648年ヴェストファーレン条約が結ばれて、神聖ローマ帝国は形骸化しフランスが勢力を伸張した。

マリア・テレジアと二元主義

1683年第二次ウィーン包囲オスマン帝国のヨーロッパ侵略を打ち砕いた。
18世紀のウィーン

レオポルト1世 (1657年 - 1705年) の長期の治世では、1683年ウィーン包囲戦の勝利(指揮をしたのはポーランド王ヤン3世) に続く一連の戦役(大トルコ戦争1683年 - 1699年)の結果締結された1699年カルロヴィッツ条約によりオーストリアはオスマン帝国領ハンガリー全土・トランシルヴァニア公国 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/05/24 21:02

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