カナダ(英・仏: Canada、英語発音: /ˈkænədə/ 聞く キャナダ、フランス語発音: /kanada/ カナダ)は、北アメリカ大陸北部に位置し、10の州と3の準州からなる連邦立憲君主制国家。首都はオタワ。
イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国のひとつ。アメリカ合衆国と国境を接する。国土面積はロシアに次いで世界で2番目に広い。
歴史的に先住民族が居住する中、外からやってきた英仏両国の植民地連合体として始まった。1763年からイギリス帝国に包括された。1867年の連邦化をきっかけに独立が進み、1931年ウエストミンスター憲章で承認され、1982年憲法制定をもって政体が安定した。一連の過程においてアメリカ合衆国と政治、経済両面での関係が深まった。連邦制をとり、連邦政府の運営は首相を中心に行われている。
日本政府による公式名は「カナダ」。日本における漢字表記は「加奈陀」であり、「加」と略される。中国語における表記は「加拿大」。国名はセントローレンス川流域イロコイ族の「村落」を意味する語「カナタ(kanata)」に由来する。連邦制を強調するため、「カナダ連邦」「カナダ連邦政府」などの呼称が使われることもある。
1982年憲法が制定される前には複数の名称が存在したが、現在は公用語の英語とフランス語の双方で「Canada」のみが公式名と定められている。建国時には国号はカナダ王国(Kingdom of Canada)とすることも検討されていた。1791年初めて「Canada」の名が使われた。
ファースト・ネーション(先住民)やイヌイットの言い伝えでは、先住民たちは時の始まりからこの地に住んでいたとある。一方、考古学的研究では北部ユーコン準州に26500年前、南部オンタリオ州には9500年前に人類がいたことが示されている。
ヨーロッパ人の到来は西暦1000年にヴァイキングがランス・オ・メドーに居住したのが初めてであるが、この植民地は短期間で放棄されている。
1497年にイタリア人のジョヴァンニ・カボト(ジョン・カボット)がイングランドのために大西洋側を探検し、1534年にはフランスのジャック・カルティエがこれに続いた。
1603年に到着したフランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランは、1605年に初めてのヨーロッパ人定住地をポート・ロワイヤル(現・ノバスコシア州アナポリス・ロイヤル)に築き、1608年にはケベックを建てた。これらはのちに、それぞれアカディアとカナダの首都となった。 ヌーベルフランスの植民地の中ではカナダ人(Canadiens:フランス系カナダ人)はセント・ローレンス川流域に、アカディア人は現在の沿岸諸州に集中的に居住している。フランス人の毛皮商人とカトリック宣教師たちは五大湖、ハドソン湾、ミシシッピー川流域からルイジアナを探検した。イングランドは1610年にニューファンドランド島に漁業基地を設け、南部(現在のアメリカ合衆国領)に13植民地を築いた。
1670年、ハドソン湾会社が設立された。毛皮の倉庫証券は通貨としても使われた。1689年と1763年に一連の北米植民地戦争が起こり、その結果、ユトレヒト条約(1713年)でノバスコシアが英国の支配下となる。七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)のパリ条約で、カナダとヌーベルフランスの大部分がフランスからイギリスへ割譲された。
1763年宣言はケベックをヌーベルフランスから分離し、ケープ・ブレトン島をノバスコシアに加えた。これはまた、フランス系カナダ人の言語と信仰の自由を制限した。1769年にセント・ジョンズ島(現・プリンス・エドワード・アイランド州)が独立した植民地となった。ケベックでの紛争を避けるため、1774年にケベック法が制定され、ケベックの領域が五大湖からオハイオ川まで拡大され、ケベックにおいてはフランス語とカトリック信仰、フランス法が許された。これは13植民地の多くの住民を怒らせることになり、アメリカ独立への動因となった。 1783年のパリ条約によってアメリカの独立は承認され、五大湖南部がアメリカへ割譲された。戦後におよそ5万人の王党派がアメリカからカナダへ逃れている。一部の王党派のために沿岸諸州のニューブランズウィックがノバスコシアから分割された。ケベックの英語話者王党派のために1791年法が制定され、フランス語圏のローワー・カナダと英語圏のアッパー・カナダがそれぞれ独自の議会を持った。この分断策は1837年にローワーとアッパーの両方で反乱が起きて無意味となった。
アッパーおよびローワー・カナダは米英戦争(1812年戦争)の主戦場となった。カナダ防衛は英国系北アメリカ人に一体感をもたらした。穀物法制定(1815年)と人身保護法廃止(1816年)により、英国とアイルランドからの大規模な移民が始まった。
1837年に責任政府を求める反乱が起こった。時のカナダ総督である初代ダラム伯爵ジョン・ラムトンは本国政府に対して、叛乱に対するダラム報告を行った。その報告では責任政府とフランス系カナダ人の英国文化への同化が勧告された。また同時に、「カナダ植民地の統治を行う者たちが国王の名代たる総督ではなく、植民地人の代表たる(カナダ)議会に責任を負う権利を(カナダ責任政府は)持つようにするべきだ」と提言した。同報告はあわせて、「隣国のアメリカ合衆国が州同士の関係性として連邦制を持ち込んだことは理にかなっていた」という先駆的な示唆も行っている。
この報告に基づいて1840年憲法法により、アッパーおよびローワー・カナダはカナダ連合に合併した。議会においては、フランス系および英国系カナダ人はともにフランス系カナダ人の権利の復活のために努力した。1849年、英領北アメリカ植民地全土に責任政府が設置された。
1846年に英国と米国によるオレゴン条約が結ばれ、オレゴン境界紛争が終結した。これによってカナダは北緯49度線に沿って西へ境界を広げ、バンクーバー・アイランド植民地(1849年)とブリティッシュコロンビア植民地(1858年)への道を拓いた。ニューファンドランドには大西洋横断電信ケーブルが敷設され、西方でゴールドラッシュが起きたことなどからカナダの人口が増えていった。一方で、フランス系カナダ人がニューイングランドへ流れ出た。
フェニアン襲撃に対応しながら憲政会議を重ね(写真参照)、1867年7月1日に1867年憲法法が採択された。オンタリオ・ケベック・ノヴァスコシア・ニューブランズウィックが統合され、「カナダの名の下のひとつの自治領」である連邦が作られた 。カナダはルパートランドと北西地域を合わせたノースウエスト準州を統治することが前提とされた。この地では不満を抱いたメティ(フランス系と先住民の混血)によるレッド・リヴァーの反乱が起こり、1870年7月にマニトバ州が作られた。ブリティッシュコロンビア植民地とバンクーバーアイランド植民地(1866年に合併)は1871年に、プリンスエドワードアイランド植民地は1873年に、連邦へそれぞれ加入した。
保守党のジョン・A・マクドナルド首相 は、萌芽期のカナダ産業を守るための関税政策を制定した。西部を開拓するため、政府はカナダ太平洋鉄道を含む3本の大陸横断鉄道を助成した。自治領土地法により開拓者のために大平原が解放され、この地域の治安維持のために北西騎馬警察が設立された。1898年、ノースウェスト準州でのクロンダイク・ゴールドラッシュのあと、政府はユーコン準州を設置した。自由党のウィルフリッド・ローリエ政権下ではヨーロッパ大陸からの移民が大平原に定住し、アルバータとサスカチュワンが1905年に州に昇格している。
1914年、英国の宣戦布告にともないカナダは自動的に第一次世界大戦に参戦、志願兵を西部戦線へ派遣した。彼らはのちにカナダ軍団の一部となり、ヴィミーリッジの戦いやその他の大きな戦いで重要な役割を果たしている。1917年には、保守党のロバート・ボーデン首相がフランス語圏ケベックの住民たちの反対にもかかわらず徴兵制を導入し、徴兵危機が起こっている。
1919年にカナダは英国とは別個に国際連盟へ加盟した。この時期はヴィクター・キャヴェンディッシュが総督であった。
1931年、ウエストミンスター憲章によりカナダの独立が承認された。
1930年代の大恐慌にカナダ国民は大いに苦しめられた。1945年の終戦後にカナダは国際連合の原加盟国となり、再びアメリカへ接近した。
1960年、カナダ権利章典が制定された。これは州の同意が得られなかったため連邦権限の範囲で運用された。1965年に現在のサトウカエデの葉の国旗が採用・掲揚された。1969年には2か国語公用語が実施された。1971年には多文化主義が宣言されている。ケベックでは近代からナショナリスト運動(Quebec nationalism)が続いており、1960年代の経済改革(静かなる革命)につながった 。1970年に運動がエスカレートしケベック解放戦線がオクトーバー・クライシスを引き起こした。このころから1982年のカナダ憲法制定にかけて、首相のピエール・トルドーが連邦の一体化を強力に推進した。
1982年憲法第33条はカナダ憲法最大の特徴をなす。連邦議会・州議会の立法に対して最高裁が違憲判断を下したときでも、立法府が譲らなければ違憲判決の発効を先延ばしできるのである。猶予は最長5年間だが何度も更新できる。
アメリカ合衆国よりもリベラルな国民性を反映し、高福祉・高負担の施策がとられている。
政体は立憲君主制である。公式にはイギリス国王が国家元首(ただしカナダではあくまでカナダ国王の扱い)となる。形式的にはカナダ総督がカナダ国王の代理を務め、また実質的な首長は、総選挙により選出される連邦政府の首相である。
現行のカナダの憲法は「1867年憲法」と「1982年憲法」の二つから構成される。1867年憲法は政治制度などを定める統治規定が中心で、1982年憲法は二言語・多文化主義、ケベック州の特殊性・原住民居留地の特殊性などの人権規定が中心である。
政府は議院内閣制を採用している。カナダは、歴史的に各州の合意により連邦が設立された経緯があることから州に大幅な自治権が認められており、それぞれの州に首相、内閣および議会がある。このためカナダにおける政治とは、州政府対連邦政府の駆け引きそのものということもできる。
立法府たる議会はオタワに所在し、カナダ議会は上院定数105名、下院定数338名の二院制を採用している。
おもな政党には中道右派・保守主義のカナダ保守党、中道左派・リベラリズムのカナダ自由党の二大政党と、中道左派・社会民主主義政党の新民主党、ケベック州の地域政党である左派のブロック・ケベコワ、環境保護主義のカナダ緑の党がある。
1993年の下院総選挙で、与党・カナダ進歩保守党が改選前の169議席のうち167議席を失うという大惨敗を喫したことは、議会制民主主義が発達している先進国の政権与党が壊滅的な敗北を喫した例として、小選挙区制のモデルケースのひとつとなる歴史的選挙であった。
アメリカ合衆国と異なり、刑法が連邦の管轄である。死刑制度は存在しない。
1989年のモントリオール理工科大学虐殺事件をきっかけに銃規制が強化されており、拳銃の携帯については一般には認められておらず、拳銃を携帯できるのは警察、軍、司法関係と現金輸送を行う民間業者など非常に限られている。
農村部を中心に狩猟が非常に盛んであり猟銃の保持率は高いが、銃を使った犯罪発生率はきわめて低い。
カナダは1950年代から1990年代にかけて数多くの国連平和維持活動に参加し、集団安全保障体制を望んでいたが、キューバ危機のあとNATOへ急接近した。2001年にはNATO主導のアフガニスタン紛争にも派兵している。
カナダは英連邦に加盟している。カナダは世界の先進7か国(G7)および主要8か国(G8)のひとつである。
カナダは10の州(プロビンス、province)と3つの準州(テリトリー、territory)に区分されている。人口は2015年7月1日の推計値。