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カナダ太平洋鉄道とは?

報告記号
CP
【路線範囲】
カナダ・アメリカ( シカゴデトロイトミネアポリスニューヨーク)
【運行】
1881年–
軌間
1,435 mm (4 ft 8 2 in)
【本社】
カナダ アルバータ州カルガリー
【公式サイト】
www.cpr.ca
東行きの貨物列車がロジャーズ峠ストーニー・クリーク橋を渡る、デイビッド・スペンサーによる1988年の写真
アルバータ州バンフ駅

カナダ太平洋鉄道(カナダたいへいようてつどう、英語: Canadian Pacific Railway報告記号はCPR)、あるいはカナディアン・パシフィック鉄道は、1881年に設立されたカナダの歴史的な一級鉄道である。1968年から1996年まではCP鉄道(CP Rail、報告記号はCP)という名前であった。

2001年の企業再編により、カナダ太平洋鉄道社(Canadian Pacific Railway Limited, (TSX: CPNYSE: CP)の傘下で運営されるようになっている。本社はアルバータ州カルガリーに置かれ、およそ14,000マイル(約22,500キロメートル)におよぶ路線網をカナダ中、そしてアメリカ合衆国内に有し、モントリオールからバンクーバーまで、そして北はエドモントンまで達している。アメリカ合衆国内のいくつかの主要な都市にも達しており、ミネアポリスミルウォーキーデトロイトシカゴニューヨークなどに路線が伸びている。

トロント証券取引所ニューヨーク証券取引所に上場しており、ティッカーシンボルとしてCPが使われている。

目次

  • 1 概要
  • 2 歴史
    • 2.1 1881年から1885年にかけての鉄道建設
    • 2.2 1886年から1900年
      • 2.2.1 カナダ太平洋鉄道と西部カナダへの植民
    • 2.3 1901年 - 1928年
    • 2.4 第一次世界大戦
    • 2.5 世界恐慌と第二次世界大戦、1929年 - 1945年
    • 2.6 1946年 – 1978年
    • 2.7 1979年 – 2001年
    • 2.8 2001年から現在
  • 3 貨物列車
  • 4 旅客列車
    • 4.1 寝台車・食堂車・パーラーカー部門
  • 5 宅配事業
  • 6 特別列車
    • 6.1 絹輸送列車
    • 6.2 葬送列車
    • 6.3 ロイヤルトレイン
    • 6.4 農業改良列車
    • 6.5 学校列車
    • 6.6 大陸横断超特急
    • 6.7 ホリデートレイン
    • 6.8 ロイヤル・カナディアン・パシフィック
    • 6.9 蒸気機関車列車
    • 6.10 スピリットトレイン
  • 7 非鉄道事業
    • 7.1 電信
    • 7.2 ラジオ
    • 7.3 汽船
      • 7.3.1 ブリティッシュコロンビア州沿岸航路
      • 7.3.2 ブリティッシュコロンビア州湖沼・河川航路
    • 7.4 ホテル
    • 7.5 航空
  • 8 機関車
    • 8.1 蒸気機関車
    • 8.2 ディーゼル機関車
  • 9 会社組織
    • 9.1 社長
  • 10 主要施設
  • 11 脚注
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

概要

この鉄道はもともと、1871年にブリティッシュコロンビア州自治領カナダに加盟した際の州側の要求に対して、西部太平洋岸のこの州まで鉄道を延伸すると政府が公約したことを実現するために、それ以前からオタワ峡谷ジョージア湾地域に建設されていたいくつかの路線を結びながら、1881年から1885年にかけて東部カナダとブリティッシュコロンビア州の間に建設されたカナダにとって最初の大陸横断鉄道である(現在は東側大西洋に到達していない)。西部カナダの開拓のための物資輸送が主であったとはいえ、周辺地域にとって長い間唯一の実用的な長距離旅客輸送手段でもあった。カナダ太平洋鉄道はカナダで最大かつ最強の国策企業となり、1975年頃までその地位を保持していた。カナダの象徴の1つであり、またよく働く性格が会社の性質を表していると考えられたことから、ビーバーが会社のロゴマークに採用されている。

道路網や航空路線の発展を受けて、1978年からVIA鉄道に旅客輸送の引き継ぎが行われ、1986年に主な旅客輸送は廃止となった。2009年にアメリカ合衆国のダコタ・ミネソタ・アンド・イースタン鉄道アイオワ・シカゴ・アンド・イースタン鉄道の2社を買収した。このうち後者の路線はある時期にはカナダ太平洋鉄道の子会社スー・ライン鉄道およびその前身のミルウォーキー鉄道の路線であったことがあった。これら2社の路線網により、ノースダコタ州サウスダコタ州ミネソタ州ウィスコンシン州ネブラスカ州アイオワ州に路線が伸び、さらに短い路線でミズーリ州カンザスシティおよびイリノイ州シカゴにもつながり、また当局からワイオミング州パウダー川盆地への路線を建設する許可を得ている。

歴史

カナダ太平洋鉄道の創設は、もともといくつかの理由の組み合わせにより、保守党政権のジョン・A・マクドナルド首相によって取り組まれたものであった。ブリティッシュコロンビアは、自治領カナダに加盟する条件として東部と結ぶ交通機関を要求した(当初は馬車の通る道路を求めていた)。しかし政府は、1871年7月20日から起算して10年以内に、太平洋沿岸部と東部諸州を結ぶ鉄道を建設するという提案を行った。マクドナルドは、大陸全体にまたがるカナダを単一の国家として成立させるためには、鉄道の建設が不可欠なものであるとみなしていた。さらにケベック州オンタリオ州の製造業は、カナダ西部の原材料や市場へのアクセスを必要としていた。

ジョン・A・マクドナルド

その建設に対する最初の障害は、政治的なものであった。鉄道を建設する合理的な経路は、アメリカ合衆国中西部、そしてシカゴを通るものであった。これに加えて、カナディアン・ロッキーを横断する鉄道建設の難しさがあり、完全にカナダ領内を通る経路では不毛なカナダ楯状地やオンタリオ北部の湿地など険しい土地を約1,600キロメートルに渡って通過する必要があった。この経路での建設を確実にするために、政府は西部における膨大な土地供与を含め、莫大な褒賞を提示した。

1873年にマクドナルド首相と他の高位の政治家たちは、賄賂を受けて(パシフィック・スキャンダル)、アメリカのノーザン・パシフィック鉄道とつながりがあると見られていたデービッド・マクファーソンのインターオーシャン鉄道会社 (Inter-Ocean Railway Company) ではなく、ヒュー・アランのカナダ・パシフィック鉄道会社(Canada Pacific Railway Company、現在のカナダ太平洋鉄道とは関係がない)に対して政府の契約を与えた。新しく就任した、カナダ自由党アレキサンダー・マッケンジー首相は、サンドフォード・フレミング率いる公共事業省の監督下で、公共事業としてこの鉄道の各区間を建設するように命じた。建設の初期にはこの未踏の大地にいくつもの経路で測量が行われ、続けて決定された経路に沿って電信線が建設された。スペリオル湖からウィニペグまでのサンダーベイ区間は1875年に着工された。1880年までに、主に厄介なカナダ楯状地の区間におよそ700マイル(1,120キロメートル)の線路がほぼ完成していたが、このうち300マイル(480キロメートル)の区間のみ列車が運行されていた。

カナダ太平洋鉄道の機関車と従業員

1878年10月16日にマクドナルドが政権に返り咲くと、さらに積極的な建設方針が採用された。マクドナルドは、ポートムーディが大陸横断鉄道の終点となると確約し、ポートムーディとカムループスの間では、フレーザー川トンプソン川に沿って鉄道を建設すると表明した。1879年に連邦政府はロンドンで債券を発行し、ブリティッシュコロンビア州のイェールからカムループス湖に面したサヴォナズフェリーまでの206キロメートルの区間の鉄道建設を入札にかけた。アンドリュー・オンダードンクがこの契約を勝ち取り、1880年5月15日に着工した。この区間の完成後、オンダードンクはイェールとポートムーディの間、そしてサヴォナズフェリーとイーグル峠までの区間の発注も受けた。

1880年10月21日、ヒュー・アランとは無関係の新しい業者がマクドナルド政権と契約を結び、フレミングは解任された。彼らは、政府からの2500万ドル(現代の6億2500万カナダドルに相当する)の信用供与と2500万エーカー(10万平方キロメートル)の土地供与と引き換えに鉄道を建設することで合意した。政府はこの新しい会社に、政府所有下ですでに建設された鉄道の区間も移管したが、これらの区間にはすでに少なくとも2500万ドルが費やされていた。しかしロッキー山脈の区間の推定建設費だけでも6000万ドルを超えていた。政府は測量費用も負担した上で、会社の資産税支払いを20年間免除した。このモントリオールを本社とする会社は公式には5人の代表者で構成されていた。ジョージ・スティーブンジェームズ・ジェローム・ヒルダンカン・マッキンタイヤリチャード・アンガスジョン・スチュワート・ケネディである。ドナルド・スミスノーマン・キットソンの2人は非公式かつ暗黙の協力者であるが、重要な経済的利害を有していた。1881年2月15日にこの契約を承認する法律が国王勅許を得て、翌日カナダ太平洋鉄道会社が公式に設立された。提案されていた事業に対して政府はあまりに大きな補助を与えたと非難する者もいるが、これは不確実な事業を行うリスクと事業を後戻りさせない保証を内包するためであった。また、鉄道路線を私的事業で行うのであればもっと後に建設するのが最適であるのに、予想される輸送需要が運行費用を回収できないような直近に建設する必要があることを補償するためにも、巨大な補助が必要であった。

1881年から1885年にかけての鉄道建設

フレイザー峡谷に線路を敷設するカナダ太平洋鉄道の従業員、1881年

カナダ太平洋鉄道は西への延長工事を、以前はカランダー・ステーションと呼ばれていた、オンタリオ州ボンフィールドから開始し、ここで設置された枕木に最初の犬釘が打ち込まれた。ボンフィールドは、カナダ太平洋鉄道の最初の犬釘が打たれた地点として、2002年にカナダ鉄道殿堂に認定された。この地点は、カナダ・セントラル鉄道の建設が終わった場所であった。カナダ・セントラル鉄道はダンカン・マッキンタイヤの所有で、この会社をカナダ太平洋鉄道に合併させ、新しく設立されたカナダ太平洋鉄道の経営陣の1人となった。カナダ・セントラル鉄道はブロックビルから建設を開始してペンブロークへ線路を伸ばした。そこからオタワ川に沿って西へ線路を伸ばし、コブデン、ドゥ=リヴィエールといった場所を通り、マタワ川とオタワ川の合流するマタワへ到達した。そこから山野を横断してボンフィールドへと到達した。マッキンタイヤとその契約者であるジェームズ・ワーシントンがカナダ太平洋鉄道の延長を主導した。彼は1年ほどカナダ太平洋鉄道で働いたが、その後会社を離れた。マッキンタイヤは、後にノースベイとなる街を起こしたジョン・ファーガソンのおじであり、ファーガソンは後にこの町でもっとも豊かな住民となり、4期続けて市長を務めることになった。

カナダ太平洋鉄道の測量隊、1872年

カナダ太平洋鉄道は、10年に渡る調査の末にサンドフォード・フレミングが提案した、ノースサスカチュワン川の峡谷の肥沃な一帯を通りロッキー山脈をイエローヘッド峠で越える経路を採ると考えられていた。しかしカナダ太平洋鉄道はこの計画をすぐに破棄し、もっと南の不毛なサスカチュワン州パリサーズ・トライアングルを通り、キッキングホース峠を越えてフィールドヒルロッキー山脈峡谷へと下っていく経路を選んだ。この経路はより直線的でアメリカとの国境に近く、アメリカ側の鉄道がカナダの輸送市場を侵害してくるのを防ぎやすかった。しかし、この経路には欠点もいくつかあった。

この結果、ブリティッシュコロンビア州においてセルカーク山脈を横断する経路を見出さなければならなくなったが、この時点ではそうした経路が本当に存在しているかどうかも知られていなかった。この経路探索の仕事は、アルバート・ロジャーズ大佐として知られる測量士に割り当てられた。カナダ太平洋鉄道は彼に報酬として5,000ドルの小切手と、発見した峠を彼にちなんで名付けることを約束した。彼は自分の名を不滅のものとするべく、経路の発見に強迫観念を感じるようになった。1881年4月に峠を発見し、前言通りカナダ太平洋鉄道はここをロジャーズ峠と命名し、彼に小切手を与えた。しかし彼は当初、小切手の現金化をせず、自分はこの仕事を金のためにしたわけではないと言って、小切手を額に入れて飾っていた。後に記念に名前を彫った腕時計をもらえるという約束を受けて、この小切手を現金化することになった。

もう1つの障害であったのが、提案された経路はアルバータ州において、ファースト・ネーション(先住民)であるブラックフット族の支配する土地を通過しなければならないということである。この問題は、宣教師のアルバート・ラコームがブラックフット族の族長クロウフットを、鉄道の建設は避けられないと説得したことで克服された。鉄道建設に同意した見返りとして、クロウフットは生涯カナダ太平洋鉄道に乗車できるパスを与えられた。この経路を選んださらなる結果としては、フレミングが提案した経路と異なり、鉄道の沿線はあまりに不毛で農業はとても成功しそうにないということが証明されたということであった。カナダ太平洋鉄道は、たまたまとても雨が多い時期にこのプレーリーを横断し、この地方はとても肥沃であると報告した、博物学者のジョン・マカウンをあまりに信頼しすぎていたのかもしれなかった。

この経路の最大の欠点は、アルバータ州とブリティッシュコロンビア州の州境であり、大陸の分水界でもあるキッキングホース峠であった。峠の頂点の標高1,625メートルの地点から西へ最初の6キロメートルで、キッキングホース川は350メートルも標高を下げる。資金の乏しいカナダ太平洋鉄道は1884年に峠に到達すると、この急勾配に際して45パーミルという非常に勾配のきつい線路を7キロメートルに渡って建設しなければならなかった。これは当時の鉄道で推奨されていた最大勾配の4倍もきつい勾配であり、現代の鉄道であっても20パーミルを超えることは滅多にない。しかしこの経路は、イエローヘッド峠経由よりも直線的であり、旅客列車も貨物列車も所要時間を数時間短縮できるものであった。ここがビッグヒルと呼ばれる区間であった。安全のための分岐器が何か所かに設置され、峠を下る列車の速度制限は10 km/hとされ、特別な機関車が使用された。こうした手段を講じたにもかかわらず、工事請負業者が所有していた最初にこの区間を通過した機関車を含め、この勾配を下る列車で何件かの重大な暴走事故が起きた。カナダ太平洋鉄道の当局者は、これは一時的な急場しのぎであるとしていたが、この状態は20世紀初頭にスパイラルトンネルが完成するまで25年にわたって続いた。

ウィリアム・ヴァン・ホーン

1881年の時点では建設の進捗はあまりに遅いペースであり、このため経営陣は1882年に、高い給料とこうした難しい鉄道プロジェクトに取り組む挑戦という誘因を提示して、有名な鉄道経営者のウィリアム・ヴァン・ホーンを雇うことにした。ヴァン・ホーンは、1882年中には本線を800キロメートルに渡って建設するだろうと述べた。洪水のために建設開始が遅れたものの、実際に672キロメートルの本線に加えて、数多くの側線や支線が実際にその年に建設された。フォートウィリアムから西へのサンダーベイ支線が政府の鉄道・運河省により1882年6月に完成し、1883年5月に会社に引き渡され、これによりカナダの歴史上初めてカナダ領内のみの湖と鉄道を乗り継いで東部カナダからウィニペグまで行けるようになった。1883年末には、カナダ太平洋鉄道はロッキー山脈へ到達し、キッキングホース峠の8キロメートル東までたどりついた。1884年と1885年の建設は、ブリティッシュコロンビア州内の山岳地帯とスペリオル湖の北岸に費やされた。

カナダ太平洋鉄道のトレッスル橋

何千人ものナヴィ(土木工事に携わる作業員)たちが鉄道建設で働いた。ブリティッシュコロンビア州では、政府の契約業者が苦力(クーリー)と呼ばれる中国からの労働者を雇った。ナヴィは1日当たり1ドルから2ドル50セント程度の給与を受け取っていたが、食事・衣服・勤務地までの移動費用・通信・医療などの費用は自己負担であった。2か月に及ぶ厳しい労働を経ても、実際には16ドル程度にしかならなかった。ブリティッシュコロンビア州の中国人労働者は1日当たり75セントから1ドル25セント程度しか受け取らず、支出は別途負担しなければならなかったが、残りのものはほとんど郷里に送金するために残していた。彼らは岩盤を通してトンネルを建設するために爆発物を扱うなど、もっとも危険な種類の建設作業に従事していた。建設作業で亡くなった人の遺族には一切の補償がないばかりか、死亡通知すら送られないこともあった。中国人と契約を結んだ業者は自身の責任として中国への帰還を約束していたにもかかわらず、建設作業を生き延びた中には中国に帰るのに必要な金を持っていない者も多かった。多くの者たちは人里をかけ離れた土地で、しばしば貧困のうちに年月を過ごさなければならなかった。中国人たちはとてもよく働き、鉄道の西側の区間を建設するのに重要な役割を果たし、わずか12歳の少年すら給仕として働いていた。2006年にカナダ政府は、中国系カナダ人たちに対して、カナダ太平洋鉄道の建設中および建設後の中国人に対する扱いを公式に謝罪した。

1883年には鉄道の建設は急速に進んでいたが、カナダ太平洋鉄道は資金を使い果たしてしまう危機にあった。これに対して政府は1884年1月31日に鉄道救済法を成立させ、カナダ太平洋鉄道にさらに2250万ドルを融資した。この法律は1884年3月6日に国王裁可を得た。

後にストラスコーナ男爵となるドナルド・スミスが1885年11月7日にクラゲラチーにおいてカナダ太平洋鉄道の最後の犬釘を打ち込んだ。大陸横断鉄道の完成が、ブリティッシュコロンビア州の連邦加盟の条件であった

1885年3月に、ノースウェスト準州のサスカチュワン地区(現在のサスカチュワン州)においてノースウェストの反乱が勃発した。当時オタワにいたヴァン・ホーンは、カナダ太平洋鉄道はサスカチュワン州のカペルまで10日で兵員を輸送できると政府に提案した。線路の一部の区間は未完成であり、あるいはそれ以前に使われたことがなかったが、ウィニペグまでの輸送は9日で完了し、反乱は速やかに鎮圧された。おそらく、政府がこの輸送の恩を受けたためもあって、結果的にカナダ太平洋鉄道の負債を組み直して、さらに500万ドルの融資を行った。この資金はカナダ太平洋鉄道にとってどうしても必要とされているものであった。しかし、この政府の融資はのちに議論を招くことになる。ヴァン・ホーンによるカペルまでの兵員輸送の貢献にもかかわらず、政府はカナダ太平洋鉄道への支援を与えるのをまだ遅らせていた。これはジョン・マクドナルドがジョージ・スティーブンに対して更なる利益を供与するように圧力をかけていたためであった。ステーブン自身は後に、1881年から1886年までの間に政府からの支援を獲得するために100万ドルを使ったことを認めている。この資金はマクドナルド夫人に40,000ポンドのネックレスを贈るためなど、政府高官への多くの贈与のために使われた。

1885年11月7日に、当初の約束を達成して、ブリティッシュコロンビア州クラゲラチーにおいて最後の犬釘が打ち込まれた。それより4日前に、スペリオル湖の区間の最後の犬釘がジャックフィッシュのすぐ西側で打ち込まれた。鉄道は、当初の期限の1881年に4年遅れて完成したが、しかし1881年にマクドナルドが再設定した新しい1891年の期限よりは5年早く完成した。遅延やスキャンダルに見舞われたとはいえ、人口が少なく資本が乏しく険しい地形を抱えた国で、こうした大規模プロジェクトを成功裏に完成させたのは、印象的な技術の業績と政治的な意思によるものであった。この当時としては最大規模の鉄道であった。五大湖地帯の建設だけで12,000人の労働者と5,000頭の馬が使われた。

一方で東部カナダでは、カナダ太平洋鉄道はケベック・シティーからオンタリオ州セントトーマスまで到達する路線網を1885年までに完成させており、またターミナル間を結ぶために五大湖に船を就航させていた。カナダ太平洋鉄道は関連するオンタリオ・アンド・ケベック鉄道を通じていくつかの鉄道を買収または長期借り受けを行った。オンタリオ・アンド・ケベック鉄道はこれらの取得路線と連絡するため、オンタリオ州パースからトロントまでの路線を1884年5月5日に開通させた。カナダ太平洋鉄道は1884年1月4日にオンタリオ・アンド・ケベック鉄道を999年間借り受けた。1895年にはトロント・ハミルトン・アンド・バッファロー鉄道の少数株を買い取り、ニューヨークやアメリカ合衆国北東部へと通じるようになった。

1886年から1900年

カナダ太平洋鉄道の最後の犬釘は、重役の1人であるドナルド・スミスによって1885年11月7日に打ち込まれたが、経費節減のために鉄道建設に際して多くの手っ取り早い手段が採用されたことから、定期的な大陸横断列車の運行を開始するには、線路の改良が完了するまでさらに7か月を待つ必要があった(これは部分的には山岳地帯における積雪があり、スノーシェッドが不足していて路線を開通させられなかったということがある)。しかしこうした手っ取り早い手段を使っていなければ、鉄道が完成しないうちにカナダ太平洋鉄道が経営破綻してしまうということもあり得たことであった。

最初の大陸横断旅客列車は、モントリオールのベリー通りとノートルダム通りにあるダルハウジー駅を1886年6月28日20時に出発し、ポートムーディには1886年7月4日の正午に到着した。この列車は2両の荷物車、1両の郵便車、1両の二等座席車、2両の移民用寝台車、2両の一等座席車、2両の寝台車と1両の食堂車が連結されていた(食堂車は夜間は切り離されており、朝に別の食堂車をまた連結したため、行程を通じて数両の食堂車が使用された)。

最初の大陸横断列車がオンタリオ州ポートアーサーに1886年6月30日に到着した

しかしこの時点までに、カナダ太平洋鉄道は西側の終点をポートムーディからグランヴィルに移転させることを決めており、この年の後半にこのグランヴィルがバンクーバーへと改名された。最初にバンクーバー行として公式に運転された列車は1887年5月23日に到着したが、これ以前に非公式に3か月ほど列車が運転されていた。カナダ太平洋鉄道はすぐに利益を生み出せるようになり、政府からの融資は期限よりも早く償還された。1888年に、カナダ太平洋鉄道が自身の運営する汽船やアメリカの鉄道網と接続するスーセントマリーまで、サドバリーからの支線が開通した。同年、オンタリオ州ロンドンからアメリカとの国境にあるウィンザーまでの路線に着工し、1890年6月12日に開通した。

カナダ太平洋鉄道はまた、1891年から991年間にわたってニューブランズウィック鉄道を借り受け、モントリオールとセントジョンを結ぶインターナショナル・レールウェイ・オブ・メインを1889年に建設した。大西洋に面したセントジョンまで連絡したことで、カナダ太平洋鉄道はカナダで最初に「真の」大陸横断鉄道となり、セントローレンス湾の海氷がモントリオール港を冬期間閉ざしていても、1年を通して両大洋間の貨物や旅客を輸送できるようになった。1896年には、グレート・ノーザン鉄道との間でブリティッシュコロンビア州南部での輸送をめぐって競争になったことから、カナダ太平洋鉄道は当初の路線より南側にブリティッシュコロンビア州を横断する2番目の路線を敷設せざるを得なくなり、当時社長を務めていたヴァン・ホーンは政府の支援を求めた。政府はこれに同意し、西部カナダから出荷される重要な産物の貨物運賃を永続的に引き下げる代わりに、アルバータ州レスブリッジからクロウズネスト峠を通りクートネイ湖の南岸に至る鉄道を建設するために約360万ドルを提供することになった。

この議論を呼ぶ「クロウズネスト峠合意」により、東への穀物の運賃と西へ向かう移民の資産の運賃は、1897年の水準で実質的に固定されることになった。このクロウ・レートと呼ばれる運賃水準は、第一次世界大戦中一時的に中断されたものの、穀物運賃を徐々に引き上げることを認める西部穀物運輸法が1983年に制定されて置き換えられるまで有効であった。クロウズネスト峠を通る路線は、さらに南部ブリティッシュコロンビア州の峡谷や峠をいくつも通り、コキハラ峠カスケード山脈を越えてホープで元の本線に合流する、複雑な経路をたどり、1898年6月18日に開通した。

この南側を通る本線は、ブリティッシュコロンビア州ではケトル・バレー鉄道として一般に知られ、南部ブリティッシュコロンビア州において発展しつつあった鉱業や精錬業の需要に応じて建設され、バンクーバーやその他のカナダからよりも隣接するアメリカ合衆国の諸州からの方が容易に到達できるという地理的な傾向は、国家の安全保障に対する脅威であり、また同程度に州の自らの資源に対する管理に対する脅威であるとみなされていた。地域の旅客営業は新しい南部の路線に経由を変更され、地域に発展しつつあった多くの小さな都市を結んだ。最終的にこの経路に関連してカナダ太平洋鉄道に合併されることになった独立した鉄道あるいは子会社の鉄道としては、シュスワップ・アンド・オカナガン鉄道、カスロ・アンド・スローカン鉄道コロンビア・アンド・クートネイ鉄道コロンビア・アンド・ウェスタン鉄道などがあった。

カナダ太平洋鉄道と西部カナダへの植民

実際のところ、カナダ太平洋鉄道が建設したのは、ほとんど荒野を走る鉄道であった。平原地帯の有用性は、多くの人が疑問に思っていることであった。しかしこの平原や大きな可能性を秘めているという考えが広まった。カナダ太平洋鉄道が鉄道を建設するためにカナダ政府と結んだ当初の契約では、2500万エーカー(約10万平方キロメートル)の土地を供与されていた。カナダ太平洋鉄道が既にとても豊かな会社となっていたことを示すように、カナダへの移民誘致キャンペーンを大々的に開始した。海外の多くの場所で代理店が営業していた。移民にはしばしば、カナダ太平洋鉄道の船での渡航、現地へのカナダ太平洋鉄道の列車での移動、そしてカナダ太平洋鉄道が販売する土地がパッケージとして販売された。土地の値段は1エーカー当たり2.5ドル以上であったが、開墾が必要であった。

1901年 - 1928年

オンタリオ州ブロックビルに展示されているカナダ太平洋鉄道のカブース

まず鉱山会社テックを設立、支配。20世紀最初の10年間、カナダ太平洋鉄道はさらに路線の建設を続けた。1908年にカナダ太平洋鉄道はトロントサドバリーを結ぶ路線を開通させた。それ以前は、オンタリオ州南部から西へ行く列車は、オンタリオ州東部を通る遠回りな経路を通っていた。カナダ太平洋鉄道は1909年には、2つの技術上の大きな偉業を達成した。もっとも重要であったと言えるのが、カナダ太平洋鉄道の本線にとって大きなボトルネックとなっていたビッグ・ヒルをスパイラルトンネルで置き換えたことで、これにより勾配は45パーミルから22パーミルに下がった。このスパイラルトンネルは8月に開通した。1908年4月には、レッドディア川を渡る古いカルガリー-エドモントン鉄道橋の代替工事に着手し、新しい標準的で鋼製の橋が1909年3月に完成した。

レスブリッジ高架橋

1909年11月3日には、アルバータ州レスブリッジオールドマン川の峡谷を横断するレスブリッジ高架橋が開通した。全長1,624メートル(5,328フィート)、最大高さ96メートル(315フィート)で、カナダでも最長の鉄道橋となった。1916年には、雪崩に弱く1910年には62人の死者を出す事故があったロジャーズ峠を通る線路を、マクドナルド山の下を抜ける全長8キロメートルのコンノートトンネルで置き換えた。これは当時西半球でもっとも長い鉄道トンネルであった。

カナダ太平洋鉄道の機関車、2860号

1910年1月21日に、サドバリー近郊のオンタリオ州ナイルンのスパニッシュ川に架かる橋で、旅客列車が脱線する事故があり、少なくとも43人が死亡した。

カナダ太平洋鉄道は、1912年にはいくつかの小さな鉄道会社を長期リース契約により傘下に収めた。1912年1月3日にノバスコシア州西部で運行するドミニオン・アトランティック鉄道を取得した。これにより大西洋に面した重要な港であるハリファックスへの連絡ができるようになった。ドミニオン・アトランティック鉄道は、他のカナダ太平洋鉄道の路線網からは孤立しており、連絡にはカナディアン・ナショナル鉄道を利用することになった。またドミニオン・アトランティック鉄道は、ノバスコシア州ディグビーからカナダ太平洋鉄道のあるニューブランズウィック州 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/11/29 08:30

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