このキーワード
友達に教える
URLをコピー

ガダルカナル島の戦いとは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年5月)
ガダルカナル島の戦い

ガダルカナル島要図。北岸中央部がヘンダーソン飛行場
戦争:太平洋戦争(大東亜戦争)
年月日:1942年8月7日 - 1943年2月7日
場所:ソロモン諸島ガダルカナル島
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 |  アメリカ合衆国
オーストラリア
ニュージーランド
イギリス
指導者・指揮官
百武晴吉
塚原二四三
一木清直
川口清健 |  アレクサンダー・ヴァンデグリフト
リッチモンド・ターナー
ロバート・L・ゴームレー
ウィリアム・ハルゼー
フランク・J・フレッチャー
メリット・A・エドソン
アレグザンダー・パッチ
戦力
36,200人(地上部隊のみ) | 60,000人以上(地上部隊のみ)
損害
死者19,200人
内戦闘による死者8,500人
捕虜1,000人
軍艦38隻損失
航空機683機
撤退10,652人 | 死者7,100人
負傷者7,789人以上
捕虜4人
軍艦29隻損失
航空機615機
ソロモン諸島の戦い


ガダルカナル島の戦い(ガダルカナルとうのたたかい、Battle of Guadalcanal)は、第二次世界大戦において1942(昭和17)年8月以降日本軍連合軍が西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。ミッドウェー海戦と共に太平洋戦争(大東亜戦争)における攻守の転換点となった。日本側は激しい消耗戦により兵員に多数の餓死者を発生させたうえ、軍艦、航空機、燃料、武器等多くを失った。

背景

1941年12月、ハワイ空襲北部マレー半島上陸比島航空撃滅戦をもって開始された日本軍の南方作戦は、予想以上に順調に進展し、1942年3月9日蘭印軍の降伏によって概成した。予期以上に進展したので、1942年1月には、ビルマアンダマン諸島、ポートモレスビーなどの攻略を発令し、戦略態勢の強化を企図できるようになった。そのため、第二段作戦の計画を速やかに策定しなければならなかった。

1942年4月、日本海軍では第二段作戦が立案されたが、軍令部は米豪遮断を目的とするフィジー方面の攻略を主張し、連合艦隊はアメリカを早急に戦意喪失させるためにミッドウェー作戦とハワイ攻略を主張した。最終的にミッドウェー作戦は認められ連合艦隊も軍令部に歩み寄って、ニューカレドニア、フィジーは攻略確保、遠方のサモアは攻略破壊後に引き上げることを認めた。

このように日本海軍は積極的な侵攻作戦によって、連合国の反攻拠点であるオーストラリアアメリカの分断を考えたが、日本陸軍は、あくまで日中戦争解決を重視しており、東南アジアの占領地・資源地帯は現状維持とし、それ以上の太平洋方面は海軍の作戦担当地域であるという認識に立っていたため、戦線拡大には否定的であった。したがって大兵力を中国支那派遣軍や、満州関東軍から引き抜かなくてはならないオーストラリア攻略作戦に消極的ではあったが、オーストラリアを孤立させることについては海軍と見解が一致した。

この米豪分断作戦は、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニアフィジーサモアの攻略作戦(FS作戦)から成るものであった。ところが日本海軍はミッドウェー海戦において主力航空母艦4隻を失うこととなり、FS作戦の実施は一時中止されることとなった。1942年7月11日、大海令二十号を発令。「大海令第十八号に基く連合艦隊司令長官の「ミッドウェイ」島攻略及大海令第十九号に基く連合艦隊司令長官の「ニューカレドニア」「フィジー」諸島並に「サモア」諸島方面要地攻略の任務を解く。」これによってMI作戦、FS作戦の中止が決定。第二段作戦の計画は破たんしたが、日本は米豪分断の目的を放棄せず、基地航空部隊をラバウル以南に進出させて達成しようとした。

日本はガダルカナル島に飛行場を建設してラバウル以南の前進航空基地を建設し、ソロモン諸島の制空権を拡張しようと考えた。このガダルカナル島基地建設は軍令部作戦課(大本営海軍部)から参謀本部作戦課(大本営陸軍部)に文書で通知されたが、陸軍では作戦課同士でのやり取りにとどまり、陸軍内部に伝達が行われなかったため、戦後になり「基地建設の事を陸軍は知らされていなかった」と主張するものもいる。大本営は連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、ガダルカナル島において戦闘能力のある人員は、設営隊と護衛の海軍陸戦隊(第18警備隊基幹)を合わせても600名足らずであった。アメリカ軍上陸直前の8月5日には滑走路の第1期工事が完了している。なおこれに先立つMO作戦時に、近接するツラギ島には水上機基地が設けられていた。

しかし日本軍の予測は外れ、アメリカ軍は早くも7月2日には対日反攻作戦となるウォッチタワー作戦を発令した。アメリカ陸軍マッカーサー大将は、ウォッチタワー作戦の目標をフィリピンにより近いラバウルとすることを主張したが、アメリカ海軍作戦部長アーネスト・キング大将はアメリカ海軍太平洋艦隊の空母戦力が充実していないことを理由に反対したため、当時飛行場建設が行われていたガダルカナル島を攻略することで双方一応の決着をみた。そして7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化され上陸作戦への準備が進められた。

戦闘の経過

8月

連合軍の上陸

1942年8月7日、ガダルカナルに上陸する海兵隊
ツラギ島方面の戦いについては「フロリダ諸島の戦い」を参照

8月7日午前4時、アメリカ海兵隊第1海兵師団(師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将)を主力とし、オーストラリア軍の支援を受けた10,900名の海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下でガダルカナル島テナル川東岸付近に上陸を開始した。同時にツラギ島方面にも4個大隊1,500名が上陸し壮絶な玉砕戦が行われた。また、これとは別に6,705名が海上に師団予備として残された。ガダルカナル島の日本軍は警備の第13設営隊以外は就寝中で、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。

上陸当初、最も敵に近いルンガ川の飛行場地区に第11設営隊の陣地があり、ルンガ川を挟んで第13設営隊、海軍陸戦隊が駐屯していたが、各隊の陣地は防空壕以外に陣地整備されているものは何も無い状況だった。そのため、敵兵力の把握もままならないままルンガ川東岸の第11設営隊約1,350名は駆逐され、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯は連合軍の手に落ちた。

この上陸戦において、アメリカ軍側公刊戦史は小銃機関銃数挺、70山砲(歩兵砲)及び75粍山砲各2門、弾薬、ガソリン、燃料、使用可能なトラック35台を含む自動車と電波探知機2台、糧秣多数を鹵獲したと伝えている。一方、第13設営隊隊長岡村徳長少佐は指揮下の1,200人の設営隊員を敵上陸地点の反対方向のルンガ川西岸地区に移動させ、ルンガ川橋梁を破壊してルンガ川西岸で連合軍部隊を迎え撃つ姿勢を見せた。同日夕方、どうにか数十名の部下を従えた第11設営隊隊長門前鼎大佐が岡村部隊と合流して善後策を協議し、ルンガより西方約4キロメートルにあるマタニカウ川第一線陣地とし、門前隊、岡村隊、第18警備隊(含む第84警備隊の1部)を合わせて臨時のガダルカナル島守備隊を編成することとなった。8日午前零時、門前大佐が中隊長としてクルツ岬に向けて中隊本部を後退させ、岡村隊と警備隊をマタニカウ川正面に展開を終えたのは8日午前4時30分とされる。この際に同隊がクルツ岬付近のジャングルに設営された海軍本部に収容できた食料は、わずか7日分であった。

第一次ソロモン海戦

第一次ソロモン海戦。低空飛行で弾幕を潜りアメリカ艦隊に雷撃を試みる一式陸上攻撃機の編隊(8月8日)
詳細は「第一次ソロモン海戦」を参照

連合軍の動きを知った日本海軍は現地のラバウル第25航空戦隊(陸攻27、艦爆9、戦闘機17の計53機)と第8艦隊(三川軍一中将、増強を受け重巡洋艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻)に反撃を指示した。また、陸海軍協定に則り、陸軍に協力を求め、在ラバウル陸軍第17軍グアム島の一木支隊、パラオ諸島駐屯の第35旅団(川口支隊)をガダルカナルに投入することとした。アメリカ軍上陸日当日から翌日にかけて行われた25航戦による爆撃は、直前で敵艦上戦闘機及び敵急降下爆撃機の撹乱銃撃を受けてしまい効果が薄かったものの、この地域に米空母部隊が進出しているという貴重な情報を得ることとなる。25航戦は34機喪失の大被害を受け、うち艦爆隊は当初から航続力不足のため不時着覚悟の出撃であり、全機体が失われている。乗員救助のため駆逐艦の緊急派遣などの措置は取られており、収容された乗員から連合軍艦隊の詳細情報を得られた。

三川中将率いる第8艦隊は翌8月8日夜半に戦場海域に到達しそこで連合軍艦隊と遭遇し、第一次ソロモン海戦が発生した。重巡4隻を撃沈し同1隻を大破させたが、戦闘艦艇の撃破には成功したものの本来の目的であった輸送艦隊への攻撃は中止された。このためアメリカ軍は重火器を含む大量の物資の揚陸に成功し、これが結果的にガダルカナル島の戦いの戦略的な帰趨に重大な影響を与えることになる。

ガダルカナル島への鼠輸送のため駆逐艦に乗り込む将兵。

上陸初日からの日本軍による反撃により、テナルのアメリカ軍揚陸地点を危険と判断したフレッチャー中将は揚陸作業を中断して空母群と輸送船団を南方に退避させた。そのため、第1海兵師団も十分な物資を揚陸できず上陸作戦完了後、海兵隊の1日の食事は2食に制限された。また、ガダルカナル島での航空優勢が確立されるまで、同島への物資補給はアメリカ軍も駆逐艦輸送に限定されることとなった。日本はこの手法を「鼠輸送」と称して常用するようになった。

18日、同川西岸の日本軍を危険視したヴァンデグリフトは、これを排除すべく第5海兵連隊の3個中隊を投入した。翌19日、同連隊B中隊は海岸沿いに西進してマタニカウ川東岸に向かい、マタニカウ村に向けて援護射撃を行い、L中隊は同川河口上流を渡河して西岸を北上し、マタニカウ村を攻撃した。日本軍は激しく抗戦し、特に日本側の狙撃兵によってアメリカ軍側の指揮官が次々と倒された。L中隊のある小隊では1日で小隊長2名が戦死している。海兵隊も偵察狙撃班を編成して対抗し、I中隊が日本軍の退路を遮断するためククムから西のコクンボナに上陸を敢行。午後には日本軍が戦闘からの離脱と後退を開始した。だが、海兵隊側には追撃を試みるだけの兵力や物資がなく、第5連隊は元の陣地に帰還している。

イル川渡河戦

一木支隊の行動概要図。
1942年8月ヘンダーソン飛行場周辺のアメリカ軍展開図:一木支隊は東部から飛行場防衛地区へ侵攻した。
詳細は「イル川渡河戦」を参照

一木清直大佐率いる大本営直轄の一木支隊(第7師団歩兵第28連隊を基幹とする)約2,300名は、当初ミッドウェー島攻略部隊に充当されていた部隊であったが、1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍が敗退したことで攻略作戦は中止となり、一時グアム島に休養を兼ねて留め置かれていた。同年8月7日の連合軍ガダルカナル上陸が始まると内地転属が解除され、そのままトラック諸島へと輸送された。トラック諸島からガダルカナルまでは駆逐艦陽炎以下6隻に第1梯団(ていだん)として支隊本部163名、大隊本部23名、歩兵4個中隊420名(軽機関銃36、擲弾筒24)、機関銃隊110名(重機関銃8挺)、大隊砲1個小隊50名(歩兵砲2門)、工兵1個中隊150名が乗船し急派されている。支隊の残りは、海軍の横須賀第5特別陸戦隊主力とともに輸送船で第2梯団として送り込まれることとなったが、同時に出航したにもかかわらず9.5ノットの低速が災いし、イル川渡河戦(アメリカ名:テナルの戦い)には間に合わなかった(イル川は現地名で、日本軍は中川と呼称。テナル川はイル川の東方に位置し日本軍通称は蛇川)。このほか横須賀第5特別陸戦隊の先遣部隊(高橋中隊)が駆逐艦により輸送され、8月16日に上陸成功して設営隊などと合流している。

駆逐艦輸送であったため、一木支隊は実質、1個大隊相当の戦力しかなかったといえる。さらに、一木支隊に届いていた敵情については「連合軍兵力は約2,000名」、「敵上陸目的は飛行場破壊にあり、現在は島からの脱出に腐心している」などといった海軍第11設営隊、や駐ソ武官の情報などがあった。大本営海軍部では当初は本格的な上陸と考えていたが、前記各情報から主力は撤退したと誤認するに至った。そのため、第1梯団は軽装(1人当たり小銃弾250発、食料7日分)で急行し、海軍部隊を保護して、ただちに敵を攻撃する方針を決定する。

8月18日にガダルカナル島タイボ岬に無血上陸した一木支隊は、ひたすら西を目指して前進した。海岸沿いの砂浜を主に夜間行軍により進み、20日夕刻頃までにはテナル川を越えてイル川西岸地域まで到達している。当初の構想では海軍第11設営隊跡(ヘンダーソン飛行場東側の丘状地)に支隊本部を置き、飛行場に所在していると思われる敵残存兵力を攻撃することとしており、一木大佐は飛行場から3キロも離れたイル川東岸に敵防御陣地があることを想定していなかった。

日本軍とは対照的に、アメリカ海兵隊は18日にコーストウォッチャー(Coastwatchers)の通報によりタイボ岬沖からの日本軍上陸を察知していた。19日昼には、倒した日本軍斥候階級章から、タイボ岬に上陸した日本軍が陸軍部隊であることに気づき、20日夕刻までにはルンガ地区イル川東岸の防備を固めていた。

20日18:00にイル川を越えて先行していた将校斥候(渋谷大尉・館中尉ら)34名中31名が、アメリカ海兵隊の攻撃により戦死の憂き目に遭った。2時間後に生還した兵士から報告を受けた一木大佐は激高し、不明将校の捜索を命じるに当たって「行動即索敵即攻撃」を各中隊に命じている。21:00頃には、一木支隊の尖兵中隊がイル川西岸で思いもよらぬ敵からの銃砲撃を受け立ち往生しているところに支隊本部が合流した。22:30から歩兵砲の砲撃を合図にイル川渡河を決定。火力の差は明白で、M3 37ミリ対戦車砲M1A1 75ミリ榴弾砲M2A1 105ミリ榴弾砲などを有する強力な砲兵に援護された機関銃座陣地を前に、100名余の損害を出して一旦攻撃を停止する。敵兵力が10,900人を擁する大軍であることを知らない一木大佐は、なおも1時間後に同様の白兵攻撃を命じて、同様に機銃陣地からの十字砲火を受け今度は200名を越す損害を受けたとされる。また、その間にも敵砲兵陣地からの砲撃、とりわけ迫撃砲による砲火は苛烈を極め、日本軍の反撃は渡河に成功した一握りの兵による軽機関銃手榴弾による攻撃にとどまった。一部の将校は一旦後退することを具申したが、一木大佐は攻撃を続行した。

遺体の画像があります。表示を押すと、表示されます。
1942年8月21日海岸部で包囲殲滅された一木支隊。

翌21日午前5時頃、一木大佐はイル川左岸の海岸部に残兵を集め状況把握に努めたが、夜明けとともに敵機が上空を舞い始め、陸上からは海兵第1連隊がイル川を越えて一木支隊の退路を断つように迂回攻撃を仕掛けてきたため、包囲された一木支隊は苦戦に陥った。同日午後から投入されたスチュアート軽戦車6輌により支隊本部は蹂躙(じゅうりん)され、一木支隊は壊滅した。海岸で波打ち際に追い詰められた兵士は、執拗な包囲射撃によりことごとく殲滅された。海岸での海兵隊による掃討戦は、21日14時には概ね終了し、意識不明の負傷兵15名が捕虜となった。

結局、8月25日までに生きて上陸地点のタイボ岬まで戻れたものは916名中126名(うち戦傷者30名)であり、790名(戦死者行方不明者777名、捕虜15名)の損害を出して戦いは終わった。アメリカ軍の損害は戦死者40名余りとされている。戦死者数は日本側公刊戦史より捕虜はアメリカ側公刊戦史より抜粋しており合計数は一致しない。支隊長一木大佐は21日の戦闘で戦死したと思われるが、その状況は不明である。

ちなみに、戦闘開始時に総員背嚢遺棄が命じられたため、早くも一木支隊の残存兵は、飢餓に悩まされるようになった。一方、アメリカ軍もまたこの戦闘による消費で物資弾薬の枯渇が表面化しつつあったが、戦闘後に輸送船団による物資と増援兵力の輸送が成功して危機は去り、この時点において兵站面での勝敗は決していた。

ヘンダーソン飛行場のF4Fワイルドキャット戦闘機。

8月20日、ヘンダーソン飛行場に海兵隊のワイルドキャット19機とドーントレス12機が到着して航空基地としての機能がスタートした。後に空母エンタープライズサラトガワスプの艦載機とパイロットも母艦が戦闘で損傷し、修理のため使用できない間はヘンダーソン飛行場から出撃した。

9月

第二次ソロモン海戦

9月12日-14日の川口支隊の攻勢。
1942年9月、マタニカウ川を巡回する海兵隊。

一木支隊の壊滅の報を受ける前、8月中旬から川口清健少将率いる川口支隊(第35旅団司令部および歩兵第124連隊基幹)約4,000名の輸送が始まっていた。しかし、連合艦隊司令部では8月20日に「ガダルカナル島付近で敵機動部隊が出現」との報告を受け、川口支隊の船団輸送を一時中止し、ガダルカナル島海域の航空優勢の確立のためトラック島の機動部隊(空母翔鶴、瑞鶴、龍驤基幹)に出撃を命じた。日米両軍機動部隊の間で、8月23日から24日にかけて東部ソロモン海域において第二次ソロモン海戦が戦われることになる。

詳細は「第二次ソロモン海戦」を参照

海戦の結果、日米両軍とも空母戦力に相当のダメージを受けたが、アメリカ軍は護衛空母ロング・アイランドを使ってヘンダーソン飛行場に航空機を送り込むことに成功した。そのためヘンダーソン基地航空部隊の動きが活発化し、一木支隊第2梯団の輸送船団は空からの攻撃で輸送船1隻、駆逐艦1隻を失いショートランド泊地へ退避した。第二次ソロモン海戦後もガダルカナル島海域に一時とどまっていた空母瑞鶴が支援していたが(8月25日)、及ばなかった。これを見て川口支隊の船団輸送も中止となり、輸送は駆逐艦による「鼠輸送」と島づたいの舟艇機動(大発動艇など)による「蟻輸送」に頼ることとなった。

増援の輸送については海軍が鼠輸送を、陸軍が蟻輸送を主張したため一悶着があった。結局両方行われることになり、本体は鼠輸送でガダルカナル島に向かうことになった。

この鼠輸送で駆逐艦朝霧が轟沈するなどの被害が出た。

増援が遅れる間に、ガダルカナル島の海軍部隊は徐々に圧迫され、マタニカウ川の防衛線を放棄して後退しはじめていた。

ニューギニア戦線では日本海軍が8月24日にラビに侵攻したが9月5日に撤退した。

第一次総攻撃

川口支隊は、一木支隊の第2梯団と共に9月7日までにガダルカナルに上陸した。川口支隊の一員として8月末に上陸した兵士は当時の様子を「わたしたちを出迎えたのが、一木先遣隊の生き残りでしたけど、とても兵隊なんてものじゃない。痩せ衰えたヨボヨボの連中が杖にすがって、なにか食うものをと手を出しましてね。米をやると、ナマのままポリポリかじるんです。……(中略)……。『ワシらが来たけん、もう安心バイ』と元気をつけたんです。ええ、十日もたたんうちに、自分たちがおなじ姿になるとも知らんで」。そして10月中旬に上陸した第2師団を「飯盒と水筒だけの、みすぼらしい姿」で出迎えるが、上陸してきた兵士からは「ごくろうさん。ワシらが来たから安心しなさい」となぐさめられたという。最後に上陸した第38師団の兵士もこれと同様の話を語っている。

川口少将の主張により、60隻の小型舟艇に分乗し島づたいにガダルカナルに向かった別働隊(約1,000名)は、空襲や故障で被害を受けたうえ分散状態になり、本隊とは飛行場を挟んで反対側にたどり着いてしまい、総攻撃には間に合わなかった。駆逐艦を使った本隊もアメリカ軍の空襲のため、兵員はともかく、重火器高射砲2門・野砲4門・山砲6門・速射砲14門しか揚陸できなかった。陸上輸送の困難から、このうち実際に戦闘に参加した砲は、さらにわずかとなる。

川口支隊は、一木支隊の戦訓から、正面攻撃を避けるべくヘンダーソン飛行場の背後に迂回してジャングルから飛行場を攻撃することを試みた。しかし、そのために必要な地図の準備はなく、険しい山岳地形の密林に進撃路を切り開くために各大隊の工兵部隊は通常装備を捨てて、つるはしとスコップによる人海戦術で総攻撃の当日まで啓開作業を行った。完成した粗末な啓開路では重火器や砲弾の運搬は不可能であり、その大部分は後方に取り残された。また、作業により兵は疲労困憊していた。

9月12日午後8時を期して「中央隊(左、中、右と3個大隊が別々に行動)」、「左翼隊(岡明之助大佐率いる舟艇機動の第124連隊第2大隊)」、「右翼隊(一木支隊の残存集成部隊)」が同時に米軍陣地に攻撃を行うことになった。しかし、夕方までに攻撃位置につけたのは僅か中央隊の一部だけであった。

12日夜には川口支隊支援のために軽巡洋艦川内、駆逐艦敷波、吹雪、凉風がルンガ泊地に突入し、砲撃を行った。

12日の総攻撃は各部隊バラバラに攻撃を行い、実質的な第一次総攻撃(アメリカ名:「血染めの丘(エドソンの丘)の戦い」Battle of Edson's Ridge)が行われたのは13日の夜半から14日の未明にかけてである。12日から14日に至る間、川口支隊の左翼隊とその後詰の舞鶴大隊は米軍の集中砲火の前に前進を阻まれ戦いに至らず、各隊は鉄条網と火線を越えられずに散発的な戦いのみに終始した。

激戦となった中央隊左翼を担当した田村昌雄少佐率いる青葉大隊の一部が、中央隊右翼国生大隊と合流し米軍陣地の第一線を突破し、さらに3個中隊のうちの1個中隊がムカデ高地の端からヘンダーソン飛行場南端に達し、付近の建設中の倉庫などの拠点を確保した。だが、混戦のすえに日本軍は敗走した。川口支隊と対戦したアメリカ軍は700人だった。

この戦闘による川口支隊の戦死者・行方不明者は約700名で、一木支隊と比べれば損耗率は低かったが、激戦となったのは国生大隊と田村大隊の2個大隊だけであり、国生少佐、水野少佐を含め中隊長クラスの中堅将校が戦死した。また、再起を画してアウステン山からマタニカウ川西岸にかけて負傷者を含めた5,000名余りが駐屯することになり、兵站線の細い日本軍は、以後食料・弾薬の補給不足が深刻化し、以後ガダルカナル島(ガ島)はさながら「餓島」の様相を呈することになる。

9月23日から9月27日の間に、マタニカウ河東岸に駐屯する川口部隊に対しアメリカ軍は9隻の舟艇による逆上陸を含む6度の攻撃を行うが、川口部隊の第二大隊・第三大隊に撃退され、アメリカ軍は多数の損害をだして後退した。

ニューギニア戦線では9月16日に日本軍がポートモレスビーの手前から撤退を開始した。

10月

第二次総攻撃

1942年9月17日、陸軍参謀総長杉山元陸軍大将は、大元帥である昭和天皇にガダルカナル島の戦いについて以下のように上奏している。

しかし、この上奏文をもとに作成された大陸命688号による兵力の転用は当時の日本軍の海上輸送能力を超えたものであった。重火器を大発による「蟻輸送」により送り込む計画が破綻すると、10月1日からの駆逐艦による「鼠輸送」だけでは、兵站線途上のショートランド島から先に充分な重火器と弾薬を供給できなかった。そこで10月中旬に、機動部隊の護衛と戦艦部隊によるヘンダーソン飛行場艦砲射撃の間接支援で、ガダルカナル島タサファロング沖に大挙6隻の高速貨物船での揚陸を企図することになる。10月7日には、先に到着していた増援の歩兵第4連隊が、ヘンダーソン飛行場を射程下におさめるために不可欠なマタニカウ川東岸への進出を図った。しかし連合軍の予想外の反撃に遭い、第2次総攻撃を前に、戦力の3分の2にあたる2個大隊が壊滅的な打撃を受けてマタニカウ川西岸へ撃退されてしまった。

他方アメリカ軍は、10月13日にヌーメアからアメリカル師団の1個連隊をガダルカナル島に送り込むことに成功した。また、9月の危機で脆弱(ぜいじゃく)だったムカデ高地の陣地を補強し、ジャングルに敷設した集音器の数も増やし、ジャングルからの日本軍に管制射撃網を敷く体制を整えた。

10月15日にアメリカ太平洋艦隊司令長官のニミッツは、それまで南太平洋戦域のアメリカ軍を統括指揮していた南太平洋軍司令官のロバート・ゴームレー(Robert L. Ghormley)海軍中将を敗北主義であるとして更迭、代わりにウィリアム・ハルゼー海軍中将を起用している。ハルゼーはすぐに現地の指揮官を集めて会議を開き「撤退しようというのか、それとも確保しようとするのか?」と質問した。ヴァンデグリフトは「私は確保できます。だが、いままでよりもっと積極的な支援をお願いします」と答え、ハルゼーは「よろしい。大いにやってみたまえ。できるだけのことを君に約束する」と確言した。

10月初旬、百武晴吉中将以下の第17軍戦闘司令部がガダルカナル島へ進出し、第2師団(師団長・丸山政男中将)が同島に派遣された。作戦目標は、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸し、飛行場占領することであった。なお、川口支隊の輸送時にネックとなった船団護衛について、海軍はヘンダーソン飛行場基地については戦艦及び巡洋艦の艦砲射撃による破壊を行う事とし、さらに米空母の出撃に備えて第3艦隊(空母翔鶴、瑞鶴)が10月11日以降、トラック島を出撃しガダルカナル島北方海面に進出することとなった。

10月12日未明、ヘンダーソン飛行場の艦砲射撃第一陣として向かった重巡部隊が、サボ島沖海戦で敗北を喫することとなる。

13日の第2陣となった金剛榛名の2戦艦を中心とする艦隊がガダルカナル島に夜間の艦砲射撃を行う(ヘンダーソン基地艦砲射撃)。さらに翌14日朝にはラバウルから飛来した日本海軍航空部隊による空襲、14日夜には重巡洋艦鳥海衣笠による艦砲射撃が追い打ちをかけた。

これを受けて、第2師団を乗せた高速輸送船団6隻が泊地に投錨し揚陸作業を開始した。一連の事前砲爆撃によってアメリカ軍航空部隊は飛行機の半分以上とガソリンのほとんどを焼失する大きな打撃を受けていたが、アメリカ海兵隊は既に

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2020/04/07 12:29

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「ガダルカナル島の戦い」の意味を投稿しよう
「ガダルカナル島の戦い」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

ガダルカナル島の戦いスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ガダルカナル島の戦い」のスレッドを作成する
ガダルカナル島の戦いの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail