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キューバ危機とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年8月)
最初に発見されたソ連のMRBMサン・クリストバル》(10月14日)
ソ連製MRBM(ミサイル)基地
国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)ケネディ大統領(窓際真ん中)、マクナマラ(大統領の右)、ロバート・ケネディ(写真の一番左)など
ソ連の貨物船の上空を偵察飛行するアメリカ軍のロッキードP-2 ネプチューン
国連安保理でキューバのミサイル基地の航空写真を示すスティーブンソン国連大使

キューバ危機(キューバきき、: Cuban Missile Crisis西: Crisis de los misiles en Cuba: Карибский кризис)は、1962年10月から11月にかけてキューバに核ミサイル基地の建設が明らかになったことからアメリカ合衆国がカリブ海で海上封鎖を実施し、アメリカ合衆国ソビエト連邦とが対立して緊張が高まり、全面核戦争寸前まで達した危機的な状況のこと。

目次

  • 1 概要
  • 2 経過
    • 2.1 キューバ革命
    • 2.2 キューバとソ連の接近
    • 2.3 アメリカとの対立
    • 2.4 アメリカによるキューバへの軍事侵攻
      • 2.4.1 ピッグス湾事件
    • 2.5 ウイーン会談
      • 2.5.1 マングース作戦
    • 2.6 キューバへの核ミサイル配備
      • 2.6.1 アナディル作戦
      • 2.6.2 軍事協力協定
      • 2.6.3 偵察飛行
      • 2.6.4 国内の動き
  • 3 核ミサイル基地の発見
    • 3.1 10月16日(火)
      • 3.1.1 エクスコム
      • 3.1.2 6つの選択肢
    • 3.2 10月17日(水)
      • 3.2.1 事前警告の問題
      • 3.2.2 ジャクリーン夫人の決意
    • 3.3 10月18日(木)
      • 3.3.1 ロバートの5つの試案
      • 3.3.2 グロムイコ外相訪問
    • 3.4 10月19日(金)
      • 3.4.1 統合参謀本部の強行案
      • 3.4.2 封鎖と空爆
    • 3.5 10月20日(土)
      • 3.5.1 海上封鎖決定
    • 3.6 10月21日(日)
      • 3.6.1 問題解決の困難さ
    • 3.7 10月22日(月)
      • 3.7.1 モスクワの事前の動き
      • 3.7.2 ワシントンの動き
      • 3.7.3 テレビ演説
      • 3.7.4 ソ連の対応
      • 3.7.5 アメリカ軍の動き
      • 3.7.6 ペンコフスキー逮捕
  • 4 海上封鎖
    • 4.1 10月23日(火)
      • 4.1.1 封鎖宣言
      • 4.1.2 国連
      • 4.1.3 フルシチョフの書簡
    • 4.2 10月24日(水)
      • 4.2.1 封鎖開始
      • 4.2.2 ウ・タントの仲介提案
    • 4.3 10月25日(木)
      • 4.3.1 フルシチョフの模索
      • 4.3.2 国連安保理での米ソ対決
    • 4.4 10月26日(金)
      • 4.4.1 封鎖線での乗船臨検
      • 4.4.2 ミサイル基地建設の動き
      • 4.4.3 フルシチョフの書簡
      • 4.4.4 準戦時体制発令
    • 4.5 10月27日(土)
      • 4.5.1 暗黒の土曜日
      • 4.5.2 フルシチョフの書簡
      • 4.5.3 米軍機の撃墜
      • 4.5.4 アラスカでの領空侵犯
      • 4.5.5 カリブ海での一触即発
      • 4.5.6 ケネディの書簡作成
      • 4.5.7 ドブルイニン大使との折衝
      • 4.5.8 ホワイトハウスの夜
      • 4.5.9 カストロの書簡
  • 5 ミサイル撤去
    • 5.1 10月28日(日)
      • 5.1.1 モスクワ放送での回答
      • 5.1.2 ワシントンの朝
      • 5.1.3 カストロの怒り
  • 6 その後
    • 6.1 冷戦終結後の情報公開
  • 7 解決までの経緯
  • 8 危機の教訓
  • 9 危機後の米ソ
  • 10 その他
  • 11 主な関係者
  • 12 キューバ危機を扱った作品
    • 12.1 書籍
    • 12.2 ドキュメンタリー番組
    • 12.3 映画その他
  • 13 脚注
  • 14 出典
  • 15 参考文献
  • 16 関連項目
  • 17 外部リンク
    • 17.1 日本語サイト
    • 17.2 英語サイト

概要

1962年夏に極秘にソ連とキューバは軍事協定を結び、ソ連がキューバに密かに核ミサイルや兵員、発射台、ロケット、戦車などを送った。それを偵察飛行で核ミサイル基地の建設を発見したアメリカがキューバを海上封鎖(隔離)して、核ミサイル基地の撤去を迫り、一触即発の危険な状態に陥り、当時のケネディ大統領とフルシチョフ首相とで書簡でやり取りしながら、最終的にソ連が核ミサイルを撤去してこの危機は終わった。 危機の期間について定義があるわけではないが、アメリカが空中査察でミサイル基地を発見した1962年10月14日から或いは大統領にその情報が入った10月16日からフルシチョフがミサイル撤去を伝えた10月28日までとすることが多い。しかしソ連が核ミサイルをキューバから撤去し、アメリカが封鎖解除したのは11月21日である。

この危機は「キューバ・ミサイル危機」とも呼ばれ、またこの1年半前の1961年4月の「ピッグズ湾事件」を「第一次キューバ危機」と呼び、この1962年10月の危機を「第二次キューバ危機」と呼ぶ場合がある。

経過

キューバ革命

1959年のアメリカ訪問時のフィデル・カストロ首相

1959年1月キューバ革命で親米かつ軍事独裁のフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒し首相の座に就いたフィデル・カストロは、さらに革命の1ヶ月後に旧バティスタ派の人々に対する簡易裁判を行い即時に600人を処刑したことから、革命を達成したカストロがアメリカに対してどのような外交姿勢を取るのか懸念されていた。このような懸念に反してカストロは「アメリカ合衆国に対して変わらず友好関係を保つ」と表明し、早くも4月にワシントンD.C.を訪問しアメリカ政府に対して友好的な態度を見せるとともに、革命政権の承認を求めた。

しかし、カストロからの公式会談申し入れを受け入れたドワイト・D・アイゼンハワー大統領は、CIAより、権力掌握後のカストロが国内で旧バチスタ政権の有力者を処刑したり、農地改革(=親米的な地主からの農地の強制接収)を進める政策を推し進めていることを根拠として「カストロは共産主義者である」との報告を受けており、結果「かねてから予定されていたゴルフに行く」との理由で公式会談を欠席した。

さらにアイゼンハワーに代わって会談したリチャード・ニクソン副大統領との会談において、カストロは「アメリカとの友好関係を保つ」と言いながらも、ニクソンから「革命後の共産主義の影響拡大」、「反革命派の処刑」、「自由選挙の未実施」といった点を並べて問い詰められて怒りを抑える始末であった。このようなカストロの言動を受けてニクソンは、アイゼンハワーに「カストロは打倒すべき人物で、キューバ人亡命者部隊を編成してキューバに侵攻すべきである」と進言した。

キューバとソ連の接近

ジャン=ポール・サルトルと妻のシモーヌ・ド・ボーヴォワールと話すゲバラ(1960年)

このような「予想外」の冷遇に反発したカストロ首相は、アメリカとの友好関係の継続と支援を受けることにまだ期待を持ちながらも、帰国後に農地の接収を含む農地改革法の施行を発表した。

当時アメリカ企業であるユナイテッド・フルーツとその関連会社、関係者がキューバの農地の7割以上を所有していたことから、これは事実上アメリカ企業の資産の接収を目的にした法の施行ということになり、アメリカ政府や企業からの大きな反発を受けることとなった。

アメリカとの関係が悪化する中、カストロは全方位外交を掲げることで、第三世界のみならず西側の先進国を含めた世界各国から革命政権の承認を受けることを目論み、革命の同志で国立銀行総裁に就任したエルネスト・チェ・ゲバラ日本インドネシアパキスタンスーダンユーゴスラビアガーナモロッコをはじめとするアジアアフリカ東ヨーロッパ諸国に派遣した。

さらにカストロは、弟のラウル・カストロ国防大臣にソビエト連邦首都モスクワを訪問させ、ニキータ・フルシチョフ首相から歓迎を受け、アナスタス・ミコヤン第一副首相をハバナに公式訪問として正式に招請するなど、冷戦下でアメリカ合衆国と対峙していたソビエト連邦との接近を開始する。

その後もキューバとアメリカの関係は悪化の一途をたどり、1960年1月にはユナイテッド・フルーツの農地の接収を実施したほか、2月にはソ連のアナスタス・ミコヤン第一副首相のハバナ公式訪問を受け入れ、ソ連との砂糖と石油の事実上のバーター取引や有利な条件での借款の受け入れ、さらにソ連からの重火器類を含む武器調達の取引に調印した。アメリカ合衆国本土の隣国であるキューバがソビエト連邦と手を組む事態を受け、アメリカ合衆国は共産主義国家による軍事的脅威を間近で感じることになった。

アメリカとの対立

国連総会に出席したカストロ(ひげの男)(1960年4月)

同年4月には早くもソ連のタンカーがキューバの港に到着し、さらに6月には、キューバ政府によりユナイテッド・フルーツやチェース・マンハッタン銀行、ファースト・ナショナル・シティ銀行をはじめとするアメリカ合衆国の政府や企業、国民が所有する全てのキューバ国内の資産の完全国有化を開始するとともに、穏健的なルフォ・ロペス大蔵大臣の更迭(その後アメリカに亡命)など、キューバとアメリカの対立は決定的なものとなった。

さらに9月にアメリカ政府は、アメリカ国内にあるすべてのキューバ資産を差し押さえるとともに、キューバに経済および軍事援助を行った国に対する制裁を規定する法案を可決した。

同月下旬にカストロは自ら国連本部で開催される国連総会に出席すべくニューヨーク市を訪問したものの、これに対してアメリカ政府はキューバ代表団のマンハッタン島外への外出を禁止し、さらに宿泊予定のシェルボーン・ホテルはキューバ代表団に対して膨大な額の「補償金」の支払いを要求するなど、嫌がらせともいえるような対応を取った。なおその後ハーレムにある安ホテルに移動したカストロは、ホテルを訪問したフルシチョフやガマール・アブドゥル=ナーセルマルコムXなどと会談し、さらに26日には国連総会において4時間29分に渡る長時間の演説を行いキューバ革命の意義を自画自賛するとともにアメリカを非難した。

アイゼンハワー政権は更なる対抗策としてキューバの最大の産業である砂糖の輸入停止措置を取る形で禁輸措置に踏み切り、1961年1月3日にはキューバに対して国交断絶を通告した。この間、大量のキューバからの避難民がフロリダ州マイアミに集まり、その数は10万人に達した。

アメリカによるキューバへの軍事侵攻

ピッグス湾事件

ピッグス湾事件で撃墜されたアメリカのB-26爆撃機の残骸
アイゼンハワー(右)とケネディ

これに先立つ1960年3月に、カストロのソビエト連邦への接近を憂慮したアイゼンハワー大統領とCIAはカストロ政権転覆計画を秘密裏に開始した。キューバ革命で母国を脱出してきた亡命者1,500人を「解放軍」として組織化し、1954年にCIAが主導した「PBSUCCESS作戦」により親米軍事政権が成立していたグアテマラの基地においてゲリラ戦の訓練を行った。アメリカの軍事援助と資金協力の下でキューバ上陸作戦を敢行させるためであった。

アイゼンハワー大統領はすでに退任間近だったためこのキューバ問題から手を引き、その後はリチャード・ニクソン副大統領とCIAのアレン・ダレス長官らによって作戦計画は進められた。

そして、兵員数と物資で圧倒的に劣勢であった反カストロ軍がキューバ政府軍に勝つためには、アメリカ軍の介入が必要と見たCIAは作戦計画にアメリカ軍も組み入れていた。表面的には亡命した反カストロ軍が故国キューバの独裁政権を倒しカストロを追放するという目的はそのままであったが、もともとの計画にはキューバ国内での反政府グループの支援を見込んで、またカストロ体制がまだ盤石ではないと予測していた。

そして1960年11月の大統領選挙で当選し1961年1月20日ジョン・F・ケネディが大統領に就任すると、このカストロ政権転覆計画をCIAと軍部からケネディは説明を受けた。この時に、「あくまでアメリカ軍が直接介入するのではなく、CIAの援助のもとに亡命キューバ人が組織した反カストロ軍が進める作戦」として説明を受けて、ケネディはあくまでCIAの援助の下での作戦として理解し、アメリカ軍の正規軍が直接介入しないことを条件に作戦を許可した。作戦は2つの段階があり、最初の4月15日に、「払い下げ品の」旧型のアメリカ軍の爆撃機を仕立てた亡命キューバ人部隊が、キューバ空軍の飛行場を爆撃し壊滅させて制空権を奪い、4月17日にピッグス湾(コチノス湾)に艦船の援助を受けて上陸作戦を実行する予定であった。

ところが、4月15日にまず最初の空爆作戦が実行されたが失敗し、制空権を確保できないまま、4月17日に1400人の亡命キューバ人部隊がピッグス湾に上陸した時に、上陸を予想したキューバ政府軍の反撃に遭い、さらに空からキューバ空軍の攻撃を受けて沖合に待機した艦船が撃沈されて、弾薬も食糧も欠乏する事態の中で海岸で立ち往生してしまった。

ここで当初「正規部隊は介入しない」と軍とCIAはケネディに説明していたにも拘らず、亡命キューバ人部隊の劣勢を受けて「状況を挽回するために正規軍を介入させたい」と軍が主張するにおいてケネディ大統領は拒否し、そのため亡命キューバ人部隊は壊滅し大混乱の中で作戦は失敗に終わった。1189名が捕虜となり、114名の亡命キューバ人が戦死した。さらに最初の爆撃にアメリカ軍の正規軍が関わっていることが明らかになって、世界からアメリカに非難が集中した。

この「ピッグズ湾事件」の直後の4月28日に、ケネディは「西半球における共産主義者とは交渉の余地がない」としてキューバに対する経済封鎖の実施を発表した。なおアメリカのこれらの軍事侵攻や経済制裁の実施を受けて、キューバ政府は先の革命が社会主義革命であることを宣言しアメリカの挑発に答えた。1962年初めには米州機構(OAS)からキューバは追放された。

ウイーン会談

フルシチョフ(左)とケネディ(1961年)

ピッグズ湾事件から2カ月の6月3~4日にオーストリアの首都ウイーンで、ケネディ大統領とフルシチョフ首相は最初で最後の首脳会談に臨んだ。この会談でケネディが持論であった大国同士の『誤算』が戦争を引き起こすことについて話すと、フルシチョフはキューバ問題について「バチスタを支持したことがキューバ国民の怒りがアメリカに向かっている理由です。キューバ上陸作戦はキューバの革命勢力とカストロの地位を強めただけである。わずか600万人のキューバがアメリカにとって脅威ですか?アメリカは他国の国内問題に介入する先例を作ってしまった。この状況は誤算を引き起こすことになる」と語り、ケネディはキューバの状況に関して判断ミスがありピッグス湾事件は誤りであったことを認め、両者は『誤算を生む可能性を排除すること』に同意した。

この時、ケネディは「私は政策判断をする場合に、ソ連が次に世界でどう動くかに基づいて下さなければならない。これはあなたがアメリカの動きに関して判断しなければならない場合と同様である。故にこの会談をこれらの判断により大きな正確さをもたらすのに役立つものとしたい」とフルシチョフに語り、そしてフルシチョフは「危険はアメリカが革命の原因を誤解した時にのみ起こるものだ」と切り返した。

マングース作戦

ピッグス湾事件の7カ月後の1961年11月、ケネディは軍事作戦とは別に隠密作戦の検討を始め、その特別グループを編成した。そしてカストロ打倒計画を立てる中心人物としてエドワード・ランスデール空軍少将 を作戦立案者に指名し、政権の総力を挙げてカストロ政権打倒を目指す「マングース作戦」(Operation MONGOOSE)を極秘裏に開始した。ただし軍事訓練を施した亡命キューバ人をキューバ本土に派遣して破壊活動を実施させ、再度のキューバ侵攻作戦の計画立案を進めたのではなく、ランズデールが国防総省で検討を加えたのは破壊工作・経済的妨害・心理戦などからなる計画で隠密行動が主であり、その中にはカストロ暗殺計画もあり、1962年10月までにカストロ政権を転覆させるというものであった。

今日、ケネディ政権がどこまで本気でこのマングース作戦を実行するつもりであったかは不明である。アメリカ軍によるキューバ侵攻作戦という大がかりな計画ではなく隠密にカストロを暗殺するものであったという見解と、一方では当時CIAはすでにカストロ体制が予想以上に強く隠密作戦だけで体制を転覆させられると考える者はなく、大規模な軍事行動が必要であるとの考えから軍事作戦の基本計画を練っていたという見解がある。

「マングース作戦」は徐々に速度を上げて進捗し、キューバでミサイル基地が発見された時の1962年10月15日にも作戦が予定されていたが急遽中止となった。それは奇しくもキューバへのミサイル配備計画とほとんど時期を一にするものであった。

キューバへの核ミサイル配備

アナディル作戦

イリューシンIl-28爆撃機
キューバに向かうソ連の貨物船「クラスノグラード」(9月)

そのような状況下で、キューバとソ連の関係は一層親密化し、カストロはアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に最新鋭のジェット戦闘機や地対空ミサイルなどの供与を要求しはじめた。しかしソ連は1962年夏には、最新兵器の提供の代わりに秘密裏に核ミサイルをキューバ国内に配備するアナディル作戦 を可決し、キューバ側のカストロもこれを了承した。

キューバへのミサイル配備をフルシチョフが検討を始めたのは1962年4月の終わり頃で、ミコヤン第一副首相との会話の中でミサイル配備が話題となり、その後マリノフスキー国防相とも協議を始めている。ミコヤンは当初懐疑的であった。後にフルシチョフが書いた回顧録によると彼がキューバにミサイルを配備した動機は何よりもキューバの防衛であった。しかしただ防衛だけであったなら、わざわざ隠密に極秘に核ミサイルを運ばなくても堂々とキューバと協定を結んで通常兵器を供与する方がケネディも反対できなかったし、仮にそれが小規模のものであってもアメリカが攻めて来る場合はソ連兵と直接戦闘となるリスクが生じ、歴史上初めてアメリカとソ連が直接武力で戦う覚悟を必要とし、それ故にアメリカのキューバ侵攻の抑止になると考える方が自然である。そう考えなかったフルシチョフにはミサイル配備のバランスでアメリカと均衡させるためにあえて核ミサイルの配備にこだわったと言える。

アナディル作戦の背景には、当時核ミサイルの攻撃能力で大幅な劣勢に立たされていたソ連がその不均衡を挽回する狙いがあった。アメリカは本土にソ連を攻撃可能な大陸間弾道ミサイルを配備し、加えて西ヨーロッパ、そしてトルコにも最近中距離核ミサイルを配備していた。これに対し、ソ連の大陸間弾道ミサイルはまだ開発段階で、潜水艦と爆撃機による攻撃以外にアメリカ本土を直接攻撃する手段を持たなかったといわれる。

ソ連がアナディル作戦でキューバへの軍事力の展開をするには事前の発覚を避け、それでいて高性能の戦闘機、地対空ミサイル、それを管理する部隊や大量の装備品、そして約5万人の派兵が必要でそれらの人員や装備品を輸送する船舶がおよそ85隻が必要であり、しかもその船舶は何回も往復しなければならなかった。この時に運んだ人員および装備は以下の通りである。

中距離弾道ミサイル(IRBM)24基、準中距離弾道ミサイル(MRBM)36基
4個連隊合せて1万4000名。これらは機甲化されていないが各連隊に戦車、大砲、対戦車ミサイルを装備。そして射程40キロの短距離ロケット36基。
軽爆撃機「イリューシン」(Il-28)42機、戦闘機(MiG21)40機、その他地対空ミサイル72基。
巡航ミサイル(KR-1)80基、巡航ミサイル(S-2)32基、巡視艇12隻。

この他に、海上兵力として潜水艦11隻なども予定していたが、結局キューバには送られなかった。そしてキューバに派遣された人員は4万5234名で、この内海上封鎖が始まった時点で3332名はまだ公海上であった。

軍事協力協定

キューバとソ連はかつてない大胆で広範な軍事協力であったため、7月にラウル・カストロがモスクワを訪問して両国間の権利・義務・責任を確認して「キューバ駐留ソビエト軍に関する協定」を結んだ。この後8月にチェ・ゲバラらが訪ソして再調整し改めて2国間の「軍事協力協定」が結ばれた。その時に公表を求めるキューバに対してフルシチョフは公表する必要はないとして退けている。

フルシチョフは、1962年11月にニューヨークを訪れて国連総会に出席する予定であり、そこでキューバのミサイル基地建設の成功を劇的に公表するつもりであった。そうすれば西側にベルリンからの撤兵を要求するための前奏曲にできると考えていた。遡ること9月にケネディ政権はソ連に対してICBMの数で2対1の割合でアメリカが勝っていることを明らかにしていた。ここでキューバに中距離弾道ミサイル(MRBM)を配備すれば、アメリカ国内の標的を攻撃することができ、米ソ間の核バランスをソ連優位に修正することが出来ると考えていた。

偵察飛行

1962年7月から8月にかけて、ソ連やその同盟国の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするようになったため、これを不審に思ったアメリカ軍は、キューバ近海の公海上を行き来するソ連やその同盟国の船舶やキューバ国内に対する偵察飛行を強化していた。CIAはソ連船の数が急増していることの意味を検討していた。また亡命キューバ人やキューバと交易のある同盟国(デンマークトルコスペインなど)の情報機関からも情報が入ってきた。8月にCIAは4000~6000人のソ連人がキューバへ入国していると結論づけた。ソ連が戦略ミサイルを配備しようとしているかも知れないがソ連はそれほど愚かだと考える者は事実上皆無であった。

そして8月23日にケネディはマコーンCIA長官にキューバに核ミサイルが存在することは容認しないと述べていたが、この時にソ連が核ミサイルの配備を試みていると考えた者はマコーン以外はいなかった。そしてCIA内部でもソ連は核を運んでいると分析することはなく、9月19日にCIAが政府に提出した報告「特別国家情報評価」の中の「キューバの軍事力増強」でも同じ見方であった。それはソ連の過去の行動パターンにも予測する政策にも合致しないことであった。そして9月にキューバ上空に偵察機を飛ばすことを制限した。

国内の動き

バリー・ゴールドウオーター

このような動きに対してケネディ大統領は、確かな証拠がまだ手に入っていないがもし配備されていたら容赦はしないとの警告を出す決意をした。8月31日にニューヨーク州選出上院議員ケネス・キーティング はケネディ政権はキューバ問題に対して意図的な怠慢を続けていると非難して、以降ソ連は1000人以上の部隊をキューバに派遣してミサイル基地を建設していると指摘し、他にバリー・ゴールドウオーター、ジョン・タワーらの有力な共和党上院議員からもキューバへの行動に出るように要求を出していた。

議員のもとに亡命キューバ人からの情報が入っていた。9月4日、ケネディは議会の代表者と会談し、現時点でソ連軍の大規模な展開はあるが、今までの監視から見て防御的な性格であると説明して、同日に声明を発表し「戦闘部隊が組織だって派遣されている証拠はない。軍事基地を提供している証拠もない」と前置きして「これらの証拠があるとなれば、最も憂慮すべき問題が生じ、きわめて深刻な事態が起きることになるだろう」と警告した。

9月6日にソ連のドブルイニン駐米大使から「中間選挙前にソ連が国際情勢を複雑にしたり米ソ関係の緊張を増したりするような措置は取らない。但しアメリカがそのような行動に出ないことが条件である。ソ連はキューバで新しいことは何もしておらず、全て防衛的性質のものでアメリカの安全に脅威を与えるものではない」とのコメントがソレンセン大統領顧問を通じて伝えられた。9月7日にケネディは1万5000人の予備役を招集する権限を議会に要求し、さらに9月11日に「いつ如何なる形であれキューバがソ連に軍事基地を提供した場合は、アメリカは自国および同盟国の安全を守るため行わなければならないことは全て行う」と再び声明を出した。

同じ9月11日にソ連は声明を発表しキューバに対する如何なる軍事行動も核戦争を引き起こすであろうと警告していた。しかしその間にもソ連から、通常の工作機器の輸出に巧妙にカモフラージュされたソ連製核ミサイルや、核兵器が搭載可能でアメリカ東海岸の主要都市に達する航続距離を持ったイリユーシンIl-28爆撃機が秘密裏に貨物船でキューバに運ばれた。さらに核兵器の配備に必要な技術者や軍兵士もキューバに送られ、急速に核ミサイルがキューバ国内に配備されはじめた。

しかし当初アメリカ軍の解析班は、これらの貨物船で運ばれている物の多くがアメリカからの経済制裁の発令に伴って供給が止まり、その代わりにソ連から送られるようになったドラム缶に入ったガソリンや木材であると解析した。さらに中央情報局(CIA)による分析では、貨物船でキューバに運ばれたソ連軍兵士の数も実際は4万3000人程度いたところを、その4分の1以下の約1万人と見積もるなど、ケネディの命令により偵察機による撮影が制限されてしまったアメリカの情報チームは、ソ連によって行われた巧妙なカモフラージュを全く見抜くことができなかった。

ようやく9月下旬に入りケネディはキューバ上空の偵察飛行を再開させたものの、この間にキューバにソ連からSS-4核ミサイルとその弾頭99個、さらに核兵器の搭載が可能なイリユーシンIl-28爆撃機が秘密裏に運ばれ、同時期に貨物船の船底にぎゅうぎゅうに詰め込まれて送られた万単位のソ連将兵とともに、キューバ国内への配備が始まっていることには気が付かないままであった。

核ミサイル基地の発見

サン・クリストバルに配置されたソ連のMRBM(10月14日)

1962年10月9日、米軍の上空偵察委員会はU-2偵察機によるハバナ南方のサンクリストバル一帯の偵察飛行を提言した。キューバからの人的情報で特に怪しいと見た地域である。ケネディはすぐに許可したがこの任務は悪天候のため何日か延期となり、ようやく10月13日午後11時半にカリフォルニア州エドワーズ空軍基地から飛び立った。そして翌10月14日の朝までにはキューバに達し、キューバ上空で偵察飛行を行い、フロリダに帰着した。

このアメリカ空軍ロッキードU-2偵察機が撮影した写真を、翌15日月曜日の午前にワシントンの国家写真解析センター(NPIC)でフィルムの解析が行われ、オレグ・ペンコフスキー大佐がもたらした技術仕様書や、メーデーの際にクレムリン広場をミサイル搭載車がパレードした際の写真と見比べて解析したアメリカ空軍とCIAの解析班は、アメリカ本土を射程内とするソ連製準中距離弾道ミサイル(MRBM)の存在を発見、さらにその後3つの中距離弾道ミサイル(IRBM)を発見した。

10月16日(火)

これらの写真は10月16日朝にCIA高官のリチャード・ヘルムズによってホワイトハウスに届けられた。ケネディ大統領は16日午前9時にマクジョージ・バンディ国家安全保障担当補佐官から報告を受けて11時45分から緊急に国家安全保障会議を招集する決定を下した。しかもこの会議にはいつものメンバーに加えて、それ以外の顔ぶれを集めたので後に国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)と呼ばれることとなった。

エクスコム

エクスコムに参加するケネディ大統領(窓際真ん中)やロバート・ケネディ(写真の一番左で、椅子を机から離している)、マクナマラ(大統領の右)など(1962年10月29日)

このエクスコムの会議には14〜15人が集まり、主な顔ぶれはジョンソン副大統領、ラスク国務長官、ボール国務次官、マクナマラ国防長官、ギルパトリック国防次官、マコーンCIA長官、ロバート・ケネディ司法長官、ディロン財務長官、スティーヴンソン国連大使、テイラー統合参謀本部議長、マクジョージ・バンディ補佐官、オドンネル大統領特別補佐官、ソレンセン大統領顧問、アチソン元国務長官、ラヴェット元国防長官などであった。この席でケネディは直面する危険とこれに対処するあらゆる行動を即時徹底的に調査するように命じた。そして徹底した機密保持も命じた。この10月16日から13日間が歴史に深く刻まれ核戦争の寸前までいったキューバ危機の期間である。

大統領顧問であったソレンセンが1965年に書いた著書「ケネディの道」の中で、この16〜19日までの96時間が午前・午後・夜間を問わず会議の連続であったという。その間に新しい空中写真の分析が進み、近距離用攻撃用ミサイルが配置された地点が6カ所に上り、中距離用ミサイル(IRBM)用の基地にするために掘られた個所が3カ所見つかった。

6つの選択肢

ロバート・マクナマラ国防長官と話すケネディ(6月)

ここでメンバーがこれから行動に移す可能なコースとして、

  1. ソ連に対して外交的圧力と警告および頂上会談(外交交渉のみ)
  2. カストロへの秘密裡のアプローチ
  3. 海上封鎖
  4. 空爆
  5. 軍事侵攻
  6. 何もしない

の6つの選択肢を挙げた。そして 1.の外交交渉のみと 6.の何もしないは最初から真剣に討議された。18日夜の段階でも外交交渉のみの案を支持するメンバー(主に国務省関係者)もいたが、ケネディは、1.と 6.のどちらも却下した。2.のカストロへのアプローチも相手は、キューバではなくソ連が相手であることで却下となった。そして 5.の軍事侵攻も1人 を除いて積極的な意見は出てこなかった。

ケネディの「侵攻は最後の手であって最初の手ではない」との意見が、ほぼ全体のコンセンサスとなった。残るは 3.の海上封鎖か 4.の空爆で、最初は空爆が有力であった。ソレンセンは少なくとも17日の段階までケネディも空爆に傾いていたと述べている。

マクナマラは、16日夕方の会議で海上封鎖をしてキューバの動きを見守り、その反応によってはソ連と戦うと述べた。ロバート・ケネディは、事前警告無しの空爆は「真珠湾攻撃の裏返し」であり歴史に汚名を残すと述べ、この事前警告をした場合は逆にソ連に反撃のチャンスを与え、かつフルシチョフが反撃に乗り出さざるを得ない状況に追い込んで、却って危険な状況となることが予想された。

テイラー統合参謀本部長は夕方までの間に他の参謀たちと協議して、1回の外科手術的空爆では不十分で、キューバの軍事的な目標全体を対象とした大規模な空爆が必要と認識していた。

10月17日(水)

事前警告の問題

17日の会議でアドレー・スティーブンソン国連大使は「平和的解決手段がすべて無駄に終わるまで空爆などはしてはなりません」と大統領に強く主張した。ここで空爆の前に事前警告の必要が議論の焦点となった。統合参謀本部のメンバーはキューバへの空爆を支持していたが、マクナマラやロバート・ケネディは海上封鎖を主張した。ジョン・マコーンCIA長官は事前通告無しの空爆には反対であった。彼はフルシチョフに24時間の猶予を与えるべきでこの手順を踏んでしかし最後通牒に応じない場合に攻撃を行うと主張した。ディーン・アチソン元国務長官はより強気で発見されたミサイルを早急に破壊するための外科手術的空爆に賛成した。ここでアインゼンハワーに電話でケネディは意見を聞いているが、前大統領はキューバにある軍事目標全体への空爆を支持した。一方スティーブンソン国連大使は、トルコにあるジュピター・ミサイルとキューバにある核ミサイルとを取り引きすることを検討するよう求めた。

ジャクリーン夫人の決意

この日までにケネディ大統領はジャクリーン夫人に事態が容易ならざる方向に進んでいることを伝えていた。

ホワイトハウス警護官で大統領夫人担当のクリント・ヒル は緊急事態に備えて大統領夫妻と打ち合わせする必要を感じていた。そしてこの10月17日にジャクリーン夫人と不測の事態が起こった場合の対応について率直に話し合うことにした。それまでにシークレットサービスは大統領の家族および政府の要人を避難させる計画を既に持っていた。そして事態が発生した直後は取り敢えずホワイトハウスの地下の核シェルターに入ることとなっていた。

このことをジャクリーン夫人に伝えようとした時に、逆に大統領夫人は『核シェルターに入らなければならない時、私がどうするか、知らせておくわ』として『もし事態が変化したら、私はキャロラインとジョンJRの手をつなぎ、ホワイトハウスの南庭に行きます。そして勇敢な兵士のようにそこに立ち、全てのアメリカ人と同じく運命に立ち向かいます。』と語った。クリント・ヒルは『そうならないように神に祈りましょう。』と答えるだけであった。

10月18日(木)

ロバートの5つの試案

18日の会議でロバート・ケネディは、

  1. 1週間の準備と西欧諸国とラテンアメリカ諸国への通告の後に24日にMRBMの施設を爆撃する
  2. フルシチョフへの警告の後にMRBMの施設を爆撃する
  3. ミサイルの存在・今後阻止する決意・戦争の決意・キューバ侵攻の決意をソ連に通告する
  4. 政治的予備会談を実施し失敗の場合に空爆と侵攻を行う
  5. 政治的予備折衝無しに空爆と侵攻を行う

の5つの選択肢を提示した。ラスクは 1.に反

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出典:wikipedia
2018/11/29 12:18

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