キリスト教(キリストきょう、基督教、ギリシア語: Χριστιανισμός、ラテン語: Religio Christiana、英語: Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(カトリック教会・聖公会・プロテスタント・正教会・東方諸教会など)は「父なる神」と「その子キリスト」と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。
世界における信者数は23億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。
キリスト教は、イエス・キリスト[『イエス』はヤハウェ(ヤフア)が救うという意味で、『キリスト』は油注がれたという意味]を旧約聖書で預言された罪のない人間であると受け入れる宗教であり、自らをキリスト教徒と呼ぶすべての人々を包含するものである。キリスト教には、その歴史的経緯から様々な教派、教団、組織、信条が存在している。キリスト教は普遍的な宗教(世界宗教)であり、特定の民族や人種あるいは限定された身分や社会階層のためのものではなく、すべての人に向けられたものである。実際、キリスト教は、異なる文化・多くの民族の様々な人々に広く受け入れられて、政治構造や社会状況および科学知識や哲学思想、世界観の歴史的な変化、移り変わりがあった地域で何世紀にもわたって教団や組織を維持してきた。
日本でも多く使われる西暦が、救世主とされるナザレのイエスの生まれたとされた年を元年(紀元)としているように、キリスト教は中世ー近代から推移してきた現代文明の根幹の形成に関与している。
中世における国教化されたキリスト教は宗教の自由を認めなかったため、異教との戦いによって支配域を拡大し、土着の宗教に変えてキリストの福音を説いた。異教・異端であるかどうかの判別の基準としては、三位一体の教義が確立していること、イエスの復活信仰が確立していること、ナザレのイエスの死を通しての贖罪信仰が確立していること、主イエスが旧約のキリストであるとの信仰が確立していること等が規定されている。そうしたキリスト信仰に加え、聖書全体を神よりの霊感を受けて書かれた神の言葉として絶対的に受け止めることもある。 また、異教との対話時にもキリスト者本人に、聖霊による神の言葉が具体的に顕現することが言われている福音書もある。福音書が作られた当時、聖霊は世の終わりに神から与えられると信じられていた救いの霊とされている聖霊現象と深いかかわりのあるイエス派運動成立の上で、黙示思想はその重要な背景として存在した。
キリスト教は、「旧約聖書」を聖典としていることから、ヤハウェ (ヤフア)による天地創造から始まり、原罪とその救済が教義の中心にある。「旧約聖書」という呼び方はキリスト教において「新約聖書」と対応して名づけたもので、ユダヤ教の聖典の名称を旧(ふる)い約束の意味に変えて用いているものである。
キリスト教はユダヤ教の預言と律法を引き継ぐ。イエスの死後、弟子たちはイエスの教えを当時のローマ世界へと広めていった。
このように国教となったキリスト教は、キリスト教以外の宗教、およびキリスト教の異端教派の異端説を切り捨てることにより、キリスト教における一神教的世界観での正統派信仰を確立した。ここより、キリスト教の信者は正統派信仰を始めることとなる。
正統派とされるキリスト教では、多神教世界に布教する際、他の宗教の神殿の場所に教会を建立することを奨励した。この結果、多く女神の神殿が聖母マリアに捧げられる教会に変えられた。そのような女神の例としてミネルウァ・イシスなどがある。時には異教の神像をそのまま流用することもあった。その例として、イシスとオシリスの像をマリアとイエスの聖母子像へ転用したことなどが指摘される。
キリスト教のメッセージは、イエス・キリストが旧約聖書に預言された救いであると教えている。新約聖書ではパウロは次のように述べる:「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法のもとに生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を購い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤ4,4-5)。イエスは神がいかなる方であるかをまったく新し方法で、それまでのイスラエル人の理解をより深く掘り下げて示したのであり、イエスは神ヤハウェ (ヤフア)を自分の父として示した、という。
キリスト教の中心メッセージは「神の国」の教えである(マルコ1,15)。イエスはこの象徴的な表現を豊かな内容で満たした。「神の国」は、人間の歴史の中に、そして歴史の終りにおいても神が現存なさることを教えている。また、「神の国」は、神が人間と一つになってくれたことも教えている。
プロテスタントにおける教義が全宗派にだいたい共通している。
指導者が聖霊に満たされて語る言葉は、神の言葉とされているので、聖霊に満たされて書かれた聖書は、神の言葉である。
キリスト教における教えの源泉は、教派によって共通するものと異なるものとがある。全教派(カトリック教会・聖公会・プロテスタント・正教会・非カルケドン派・アナバプテスト)に共通する教えは聖書(旧約聖書・新約聖書)である。しかしながら、聖書以外に教えの源泉を認めるかどうかについては教派ごとに違いがある。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会は聖伝(「聖伝」とは言わず「伝統」とのみ言う場合もある)を認める。カトリック教会では、聖書と聖伝が教えの共通の源泉であるとされ、聖伝は「(聖書と)同じ謙遜と敬意をもって尊敬されるべきもの」とされる。正教会でも「聖書と聖伝」と述べられることはあるが、むしろ「聖伝がただ一つの源泉であり、聖伝の中に聖書が含まれるのであり、分離や対比は両者の価値を減じる」とし、「聖伝の中に聖書」という捉え方もされる。
聖伝を認める教会の場合、教会の中にある全てのものが聖伝とされるのではない。カトリック教会では使徒たちに由来する聖伝と、神学・おきて・典礼・信心上の「諸伝承」が区別される。諸伝承の中から異なる場所、異なる時代にも適応した表現を大伝承(聖伝)が受け取り、その大伝承に照合され、教会の教導権の指導のもとで、諸伝承は維持・修正・放棄される。正教会では、「天上の永遠なる神の国に属する真の『聖伝』と、地上の人間的な暫定的な単なる伝統」が区別される。
一方、プロテスタントには、聖伝(伝統・伝承)を認める者と認めない者とがいる(「プロテスタント」は様々な教派の総称であり、内実は様々である)。後者を表す宗教改革の原則の一つに「聖書のみ」がある。ただし、聖書に優越する、あるいは並び立つ、ないし聖書を包含するといった意味での聖伝(伝統)を認めないプロテスタントであっても、「宗教改革の伝統」「改革派教会の伝統」といった用語がプロテスタントで使われる場合はある。
教えの源泉の、教派別対照表ニカイア・コンスタンティノポリス信条は、381年に、第1コンスタンティノポリス公会議で定められたキリスト教の信条(教えを要約した定型文)である。東方教会と西方教会のいずれでも、最も広く普遍的に、共通して使われる信条である。「ニカイア信条」「ニケヤ信経」「ニケア信条」「信経」とも呼ばれる。一方、西方教会では広く使われている使徒信条は、東方教会はその内容は否定しないものの、信条としては使っていない。このため、東西教会の両方に言及する本記事では、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を骨格としつつも、必要な箇所では使徒信条の内容も必要に応じて補足して、信仰内容を詳述する。
なお、西方教会の一角を占めるプロテスタント諸教派の間では信条の使用に差異があり、ルーテル教会・改革派教会・メソジストはニカイア・コンスタンティノポリス信条を使用するが、バプテスト教会では信条の使用自体に議論が発生する。しかしバプテスト教会内にも、信条の強制は否定するものの、その使用の意義は認める見解も存在する。
わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。 主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、 まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。 すべては主によって造られました。主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。アーメン。
| わたしたちは、唯一の神、全能の父、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます。また、世々の先に父から生まれた独り子、主イエス・キリストを信じます。主は神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と一体です。すべてのものは主によって造られました。主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。また、生きている人と死んだ人とを審(さば)くため、光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です。また、使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます。罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます。アーメン。 |わたしたちは、唯一の神、全能の父、天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主を信じます。わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。主は、わたしたち人間のため、またわたしたちの救いのために、天より降り、聖霊によって、おとめマリアより肉体を取って、人となり、わたしたちのためにポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って、三日目によみがえり、天に昇られました。そして父の右に座し、生きている者と死んだ者とをさばくために、栄光をもって再び来られます。その御国は終わることがありません。わたしたちは、主であり、命を与える聖霊を信じます。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられ、預言者を通して語ってこられました。わたしたちは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じます。わたしたちは、罪のゆるしのための唯一の洗礼を、信じ告白します。わたしたちは、死人のよみがえりと来るべき世の命を待ち望みます。アーメン
| 我信ず一の神父・全能者・天と地・見ゆると見えざる萬物を造りし主を。又信ず一の主イイススハリストス・神の獨生の子・萬世の前に父より生まれ・光よりの光・眞の神よりの眞の神・生れし者にて造られしに非ず、父と一躰にして萬物彼に造られ我ら人々の爲め又我等の救ひの爲に天より降り、聖神及び童貞女マリヤより身を取り人と爲り我等の爲にポンティイピラトの時十字架に釘うたれ苦を受け葬られ第三日に聖書に應ふて復活し天に升り父の右に坐し光榮を顕はして生ける者と死せし者を審判する爲に還た來り其國終りなからんを。又信ず聖神・主・生を施す者、父より出で父及び子と共に拝まれ讚められ預言者を以て嘗て言ひしを。又信ず一の聖なる公なる使徒の敎會を。我認む一の洗禮以て罪の赦を得るを。我望む死者の復活並に來世の生命を。「アミン」。
ニカイア・コンスタンティノポリス信条は(そして使徒信条も)、父、子、聖霊の順に、三位一体について言及している。
キリスト教において、神は一つであり、かつ父・子・聖霊(聖神)と呼ばれる三つの位格があるとされる。このことから、キリスト教において神は三位一体(正教会では至聖三者)と呼ばれる(あるいはこうした理解をする教理を三位一体と呼ぶ)。
「父・子・聖霊」のうち、「子」が受肉(藉身)して、まことの神・まことの人(神人)となったのが、イエス・キリストであるとされる。
三位一体論が難解であることはキリスト教会においても前提となっている。例えばカトリック教会においては、神は自身が三位一体である事を啓示・暗示してきたが、神自身が三位一体であることは理性のみでは知り得ないだけでなく、神の御子の受肉と聖霊の派遣以前には、イスラエルの民の信仰でも知り得なかった神秘であるとされる。正教会においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される。
難解な三位一体論を説明するにあたり、「(いわゆる正統派における)三位一体論ではないもの」を説明する、いわば消去法のような形で、(いわゆる正統派における)三位一体論に接近する手法がある。