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クオリアとは?

波長 630-760 nm が際立っている光が強く網膜に入るとき現れる、赤のクオリア

クオリア(: qualia〈複数形〉、quale〈単数形〉)とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。この現象は主観内にのみ現れ、客観的な言語化や計測によるデータ化は行えない。従って、クオリアの説明に科学的方法が通用するかどうかも不明である。

概要

笛から発せられた空気振動(音)が、笛の音のクオリア「ピー」を発生させるまでの流れ(左端:笛、青:音波、赤:鼓膜、黄:蝸牛、緑:有毛細胞、紫:周波数スペクトル、橙:神経細胞の興奮、右端:笛の音のクオリア)。

簡単に言えば、クオリアとは「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、主観的に体験される様々な質のことである。こういった感覚そのものを解明するために、脳信号を計測する科学的方法が行われているが、脳信号は主観内に現れる質感と相関性があっても、クオリアが生じる意味については全く説明できない。

外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕え、それが神経細胞の活動電位として脳に伝達される。すると何らかの質感が経験される。例えば波長700ナノメートルの光(視覚刺激)を目を通じて脳が受け取ったとき、あなたは「赤さ」を感じる。このあなたが感じる「赤さ」がクオリアの一種である。

人が痛みを感じるとき、脳の神経細胞網を走るのは、「痛みの感触そのもの」ではなく電気信号である(活動電位)。脳が特定の状態になると痛みを感じるという対応関係があるだろうものの、痛みは電気信号や脳の状態とは別のものである。クオリアとは、ここで「痛みの感覚それ自体」にあたるものである。

クオリアは身近な概念でありながら、科学的にはうまく扱えるかどうかがはっきりしていない。この問題は説明のギャップ、「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」などと呼ばれている。現在のところ、クオリアとはどういうものなのか、科学的な「物質」とどういう関係にあるのかという基本的な点に関して、研究者らによる定説はない。現在のクオリアに関する議論は、この「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」を何らかの形で解決しよう、または解決できないにしても何らかの合意点ぐらいは見出そう、という方向で行われており、「これは擬似問題にすぎないのではないか」という立場から「クオリアの振る舞いを記述する新しい自然法則が存在するのではないか」という立場まで、様々な考え方が提出されている。

現在こうした議論は、哲学の側では心の哲学(心身問題自由意志の問題などを扱う哲学の一分科)を中心に、古来からの哲学的テーマである心身問題を議論する際に中心的な役割を果たす概念として、展開・議論されている。

また科学の側では、神経科学認知科学といった人間の心を扱う分野を中心にクオリアの問題が議論されている。ただし科学分野では形而上学的な議論を避けるために、意識気づきの研究として扱われている。

歴史

クオリアという言葉は、「質」を意味するラテン語名詞 qualitas (あるいは qualis) に由来する。この言葉自体の歴史は古く、4世紀に執筆されたアウグスティヌスの著作「神の国」にも登場する。しかし現代的な意味でこのクオリアという言葉が使われ出すのは、20世紀に入ってからのことである。

まず1929年、哲学者クラレンス・アーヴィング・ルイスが著作『精神と世界の秩序』において現在の意味とほぼ同じ形でクオリアという言葉を使用した。

与件(the given)の識別可能な質的特徴というものがたしかに存在する。それは異なる諸経験において復現(リピート)し、それゆえ、普遍者の一種である。それを私は「クオリア」と呼ぶ。そうしたクオリアは、この経験においてそしてあの経験において何度も認識されるという意味で普遍者ではあるのだが、しかし物体の性質とは区別する必要がある。 … クオリアは直接に経験され、与えられる。そして、いかなる誤りの可能性ももたない。というのもそれは純粋に主観的だからである。他方、物体の性質は客観的である。すなわち物体に性質を帰属させることは、誤りのある一つの判断である。物体を述定することで主張されるのは、ある単一の経験の中で与えられうるものを超越した事柄なのである。 — ルイス『精神と世界の秩序』(1929年)

その後、1950年代から1960年代にかけて、ルイスの教え子であるアメリカの哲学者ネルソン・グッドマンらによってこの言葉が広められた。

1974年、主観性の問題に関する有名な論文が現れる。アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが提示した「コウモリであるとはどのようなことか」という思考実験において、物理主義は意識的な体験の具体的な表れについて、完全に論じ切れていない、という主張が強く訴えられた。1982年にはオーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンが、マリーの部屋という思考実験を提唱し、普通の科学的知識の中にはクオリアの問題は還元しきれないのではないか、という疑念が提唱された。また1983年にはアメリカの哲学者ジョセフ・レヴァインが、脳についての神経科学的な説明と、私たちの持つ主観的な意識的体験の間には、ギャップがある、という説明のギャップの議論を展開する。こうしたネーゲル、ジャクソンの論文が登場しはじめた1970年代後半あたりから、徐々に科学や物理学との関連の中でクオリアの議論が展開されることが多くなった。

こうした流れの中で最も強い反響を得たのは、オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズの主張である。1995年から1997年にかけてチャーマーズは一連の著作を通じて、現在の物理学とクオリアとの関係について、ハードプロブレム哲学的ゾンビといった言葉を用いて非常に強い立場での議論を展開する。今までの哲学者の議論がどちらかというと控えめな形での物理主義批判であったのに対し、チャーマーズは「クオリアは自然界の基本的な要素の一つであり、クオリアを現在の物理学の中に還元することは不可能である。意識の問題を解決するにはクオリアに関する新しい自然法則の探求が必要である。」という強い立場を前面に押し出す。このチャーマーズの立場は岩石やサーモスタットにさえ意識体験があるとする汎心論を含むほど強い立場であり、古典的なデカルト的実体二元論の復活だ、といった誤解による批判も含めて強い反論があった。こうした強い反応が出た背景には脳科学・神経科学が大きい注目を浴び始めていた時代的タイミングがあった。何にせよ、この議論は大きな反応を呼び、今まで一部の哲学者の間だけで議論されていたクオリアの問題が広い範囲の人々、哲学者のみならず、神経科学者や、エンジニア、理論物理学者などへ知れ渡る一つのきっかけとなる。

その後、ツーソン会議 (1994年-) や意識研究学会 (1994年-) などの国際的な研究会・学会も継続的に開催され、Consciousness and Cognition (1992年-) , Journal of Consciousness Studies (1994年-) , Pysche (1994年-) といった意識を専門的に扱う学術雑誌も号を重ねる。そして意識の問題を扱った数多くの書籍が出版されていく。これらによって意見の一致が見られるようになった、というわけではないが、さまざまな分野でどういう問題が議論されているのか、何が論点なのか、といった問題に関する情報についての相互理解は進むようになった。

哲学的な思索の歴史を振り返ると、類似の意味を持った概念は歴史上、いくども使われている。たとえばジョン・ロックが一次性質と対比させて使った二次性質という概念、カントが物自体という概念と対比して使った表象論理実証主義者たちが使用したセンス・データ(感覚与件)の概念、また現象学における現象、そして仏教における六境西田幾多郎における純粋経験等がある。これらは異なる文脈や意味で使用されてきた言葉だが、主観的な意識的な体験、意識的な現れ、のことを主に指す言葉として、それぞれの時代の議論の中で用いられた。

西洋哲学の歴史の中での扱いの変化を見ると、こうした意識へ表れるもの、というのは、長い間、もっとも確実で疑い得ないものとして扱われてきた。つまり主に認識論(正しい知識とは何か、確実な知識とは何か、ということを扱う哲学の一分野)の議論の中で、一番確実視される基盤的なものとして扱われることが長く続いた。たとえばカントは、世界の本当の所どうなっているかは分からない(物自体は知りえない)、しかし意識への表れ、表象については語りうる、といった認識論を展開した。20世紀前半の論理実証主義者らは、科学の認識論的な基礎付けは、さまざまな命題を最終的には感覚的な言明(赤い色が見える、など)に帰着させることで達成されるだろう、といった考え方をした。しかしこうした20世紀前半まで、西洋哲学の中で、そうした主観的で意識的な感覚というのがそもそも何なのか、という議論はさほど活発ではなく、問われることもそう多くなかった。

20世紀終盤になって出てきたクオリアに関する説明のギャップやハードプロブレムの議論は、認識論の文脈というより、主観的な意識的体験とは何のか、これは脳と同じものか、違う存在か、といった存在論的な議論が大きい比重を占めている。

様々なクオリア

人間の体験するクオリアは実に多彩であり、それぞれが独特の感じをもつ。たとえば視覚、聴覚、嗅覚からはそれぞれ全く違ったクオリアが得られる。どういった状態にクオリアがともない、またどういった状態にはともなわないのか、この点はしばしば議論の的となる。以下に、独特の質感を持つ、つまりクオリアを持つと多くの人が考えるものの例をあげる。

エルンスト・マッハが座椅子に腰かけ、左目だけを開けていたときの視覚体験。中央付近には右手に持った鉛筆、上にはマッハの眉毛、右側にはマッハ自身の鼻が、下にはマッハ自身の口ひげが描かれている。
視覚体験
視覚体験には様々なクオリアがともなう。その単純さから最も頻繁に議論の対象にされるのが色であり、これには例えば、リンゴの赤い感じ、空の青々とした感じ、などがある。他にも形、大きさ、明るさ、暗さ、さらには奥行きがある。片目で世界を眺めるよりも、両目で世界を眺めた方が、世界をより三次元的に感じるのは、奥行きのクオリアが伴うからである。
聴覚体験
聴覚からもたらされるクオリアも非常に豊かである。笛から発せられた空気振動がもたらすピーッというあの感じ、また特定の高さの音を同時に聞いたとき、つまりマイナーコードメジャーコードといった和音を聞いたときに受けるあの感じ、そしてそれらの音が時間的につらなったときに受けるあの感じ、つまり音楽を聞いたときにうける独特の感覚などである。日本人が[l]と[r]を区別できないということは、日本人にはこの二つの音のクオリアが同じであるということだと言えるだろう。ネコの声をあらわす擬音は英語、ドイツ語フランス語中国語では[m]をふくむが,日本語では[n]をふくむ。これは同じネコの声でも違うクオリアとしてとらえているということである。
触覚体験
触覚からもたらされるクオリアとしては、シルクの布を撫でた時に感じられるツルツルした感触、無精ひげの生えたあごを撫でた時に感じられるザラザラした感触、水を触ったときの感じ、他人の唇に触れたときの柔らかい感じなどがある。
この形の分子を吸い込むと、メントールの香り、いわゆるミントの香りがする。
嗅覚体験
嗅覚から得られるクオリアは、もっとも言葉で表現しにくい感覚のひとつである。朝、台所から流れてくる味噌汁の香り、病院に漂う消毒液の匂い、公衆便所の芳香剤の臭いなど。 分子レベルのメカニズムとしては、臭いは鼻腔の奥の嗅細胞において検知される。ここで鍵と鍵穴の仕組みで、レセプターに特定の分子が結合した際に、特定の香りが体験される。しかしながら、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の香りをともなっているのか、まだ分かっていない。また、マツタケのにおいを芳香と感じる民族と悪臭と感じる民族があるように、民族により臭いのクオリアも違う可能性がある。
味覚体験
味覚は甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つの基本味から構成されていると考えられており、これらの組み合わせによって数々の食料・飲料品の味が構成されている。分子レベルのメカニズムは、嗅覚と同様に、舌にある味覚受容体細胞において、鍵と鍵穴の仕組みでレセプターに特定の分子が結合すると、特定の味が体験されることになる。しかしながら、嗅覚の場合と同様、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の味をともなっているのか、まだ分かっていない。
痛覚
痛みの感覚は哲学者たちにとって、主観的な感覚について議論するための代表的な素材の一つとなっている。痛みに関する情報を伝達するC線維(疼痛)のような神経線維の活動電位と、火傷した皮膚のチリチリした痛みや、虫歯がもたらすズキズキとした感覚との間には、どういう関係があるのか。それは同一性の関係か、または別の種類のたとえば付随性といった関係か、といったことが議論される。ちなみに神経科学者のクリストフ・コッホは虫歯になってその痛みに苦しんでいるときに、「歯痛がなぜ「痛い」のか、自分の持つ生理学の知識では理解できない」と思い、そこから意識の研究者となることを志したという。

他にも冷熱体験や、さらには感情もクオリアをともなうと考えられている。

心的表象、意識的な思考、そして自分という感覚は、それが質感を持つかどうかについて議論が分かれる。

このようなクオリアの種類のことを感覚のモダリティーと呼ぶ。感覚のモダリティーは基本的にお互いに異なっているのだが、時には違ったモダリティーが混ざり合うこともあり、そのような現象は共感覚と呼ばれている。

性質

クオリアがどういったものかであると定義するかには様々な考え方があるが、おおよそ次にあげるような性質があるものとして議論される。

言語化不可能
体験される質感そのものを言語化して伝えることは困難であるとされる。例えば生まれつきの色盲の人に「赤い」というのがどういうことか、「青い」というのがどういうことかを伝えようにも、言語化して質感そのものを伝えることには困難をともなう。質感そのものを言語として概念化しがたいことは、質感が言語という情報と直接的な因果関係がないものだからとも言われる。
誤り不可能
クオリアの性質として、それは誤り得ない(訂正を受けない)もの、ともしばしば言われる。人は様々な錯覚を持ったり、また時に幻聴を聞いたり、外界の実在と対応しない様々な感覚を持つ。しかしそうした体験された感覚自体は、誤りえない実際の体験である、といったことが言われる。
私秘的
他者から観測できない個人的なものである、とされる。本人が特権的にアクセスできるという意味で特権的アクセスとも言われる。

クオリアに関する思考実験

逆転クオリア (Inverted qualia) 同じ波長の光を受け取っている異なる人間は同じ「赤さ」を経験しているのか

クオリアの問題を扱った思考実験に以下のようなものがある。

逆転クオリア
同等の物理現象に対して、異質のクオリアがともなっている可能性を考える思考実験。色についての議論が最も分かりやすいため、色彩について論じられることが最も多い。同じ波長の光を受け取っている異なる人間が、異なる「赤さ」または「青さ」を経験するパターンがよく議論される。逆転スペクトルとも呼ばれる。
哲学的ゾンビ
すべての面で普通の人間と何ら変わりないが、クオリアだけは持たない、という仮想の存在。心の哲学において、クオリアという概念を詳細に論じるためによく使われる。
マリーの部屋
生まれたときから白黒の部屋に閉じ込められている仮想の少女マリーについてのお話。マリーは白、黒、灰色だけで構成された部屋の中で、白黒の本だけを読みながら色彩についてのありとあらゆる学問を修める。その後、この部屋から解放されたマリーは色鮮やかな外の世界に出会い、初めて、というものを実際に体験するが、この体験(色のクオリアの体験)は、マリーのまだ知らなかった知識のはずである。このことからクオリアが物理学的・化学的な現象には還元しきれないことを主張する。
コウモリであるとはどのようなことか
コウモリはどのように世界を感じているのか。コウモリは口から超音波を発し、その反響音をもとに周囲の状態を把握している(反響定位)。コウモリは、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違ったふうに感じるのか(ひょっとすると何ひとつ感じていないかも知れない)。こうしてコウモリの感じ方、といったことを問うこと自体は可能だが、結局のところ我々はその答えを知る術は持ってはいない。このコウモリの議論は、クオリアが非常に主観的な現象であることを論じる際によく登場する。


自然科学との関係

たとえばリンゴの色について考えた場合、自然科学の世界では「リンゴの色はリンゴ表面の分子パターンによって決定される」とだけ説明する。つまり、リンゴ表面の分子パターンが、リンゴに入射する光のうち700ナノメートル前後の波長だけをよく反射し、それが眼球内の網膜によって受け取られると、それが赤さの刺激となるのだ、と説明する。そしてこの一連の現象のうち、

という点に関しては神経科学でも物理学でも哲学でも、専門分野の違いに関わりなく、ほぼすべての研究者の間で意見が一致する。

だがこうした物理学的・化学的な知見を積み重ねても最後のステップ、すなわち「この波長の光がなぜあの「赤さ」という特定の感触を与え、この範囲の光はどうしてあの「青さ」という特定の感触を与えるのだろうか」といった問題は解決されない。

この現在の自然科学からは抜け落ちている残されたポイント、すなわち「物理的状態がなぜ、どのようにしてクオリアを生み出すのか」という問題について、哲学者ディビッド・チャーマーズは1994年、ツーソン会議という意識をテーマとした学際的なカンファレンスで「それは本当に難しい問題である」として、その問題に「ハード・プロブレム」という名前を与えた。

向精神薬や大脳皮質への電気刺激の実験などからも分かるように、「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」の間には因果関係があると推測される。しかしながらそれが具体的にどのような関係にあるのかはまだ明らかではない。この「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」がどのような因果関係にあるのか、という問題に対しては、抽象的ではあるが様々な仮説が提唱されている。こうした「クオリアを整然とした自然科学(とりわけ物理学)の体系の中に位置づけていこう」という試みは、クオリアの自然化と呼ばれ、心の哲学における重要な議題のひとつとなっている。

クオリアに関する様々な立場

クオリアに関する議論は様々な論点が知られている。なかでも最も大きな論争となるのは、クオリアは現在の物理学の中でどこに位置づけられるのかという、形而上学的・存在論的な位置づけについての哲学的な議論である。この問題に対する考え方や分類は論者によって様々であり、一概に分類することはできない。しばしば、各人の立場は物理主義から二元論までの段階的なスペクトルのどこかに位置づけられるとも言われる。ここでは簡単に心身問題の伝統的な三つの立場、物理主義的立場(いわゆる唯物論的立場)、そして二元論的立場、そして観念論的立場、の三つに分けて説明する。現在の議論の中心は主に物理主義的な立場と二元論的な立場の間で行われている。哲学的な立場に関するより詳細な分類についてはチャーマーズによるA, B, C, D, E, Fの6分類などがある。

物理主義的立場

詳細は「物理主義」を参照

クオリアは何か非常に真新しく、現在の物理学の中には含まれていないもののように見えるが、そんなことはない、すでに含まれているのだ、という立場。こうした立場は一般に唯物論または物理主義的と呼ばれる。

この立場を取る世界的に有名な論者としてフランシス・クリックダニエル・デネット、チャーチランド夫妻(パトリシア・チャーチランドポール・チャーチランド)が、また日本語圏で有名な論者として信原幸弘金杉武司がいる。この立場ではフロギストンカロリック生気といった科学史上の誤りを例にとって、クオリアもそうした例のひとつに過ぎないと考える。物理主義的立場には、同一説機能主義消去主義表象説高階思考説など様々なバージョンがある。

志向説(表象説)

クオリアに関する物理主義的立場の代表的なものの一つが、志向説(表象説)である。その主要な論者はギルバート・ハーマンマイケル・タイフレッド・ドレツキである。彼らによれば、クオリアは(あるいはクオリアの代わりにあるものは)、ある種の志向的内容(表象内容)である。このようにクオリアと志向性の関わりを積極的に提案する者はしばしば物理主義者であり、かつしばしば機能主義者であるが、必ずしもそうとは限らない。例えばデイビッド・チャーマーズは物理主義者ではないが、クオリアと志向性に密接な関わりがあると考えている。

二元論的立場

詳細は「自然主義的二元論」を参照

クオリアは現在の物理学の範囲内には含まれていない、と考える立場。つまり既知の物理量の組み合わせでクオリアを表現することはできない、という立場。こうした立場は一般に二元論的と呼ばれる。ただし二元論と呼ばれてはいるが、霊魂の存在を仮定するデカルト的な実体二元論を主張しているわけではない。この点を区別するために現代の意識に関する二元論のことを自然主義的二元論とも言う。

この立場は大きく次の二つに分かれる。ひとつは「物理学の拡張によって問題は解決される」という立場である。そしてもう一つは「そもそも私達人間の思考能力、認知能力の範囲内では、この問題は解けない」という立場である。

ジュリオ・トノーニの 意識の情報統合理論によれば、脳内で強く統合されたエレメント(皮質のミニコラム程度の大きさの要素)の特定の集まりが、コンプレックスと呼ばれる情報的な結合体を形成し、そのコンプレックス内での各エレメントの発火が単一のクオリアと非常に近い形で対応する、とする。そして、瞬間瞬間の意識体験は高次元空間(クオリア空間)上の一点で指定されるとする。
ペンローズハメロフが提唱した客観収縮理論によると、波動関数が収縮する際に、意識体験(クオリア)が生まれる、とされる。

物理学拡張派

クオリアは現在の物理学に含まれていないから、クオリアを含んだより拡張された物理学を作ろう、という立場。世界的に有名な論者としてデイビッド・チャーマーズロジャー・ペンローズが、またペンローズの流派に属する日本語圏で有名な論者として茂木健一郎がいる。この立場には二つの違った流れがある。

1. 情報に注目する立場
クオリアと物理現象の間をつなぐ項として、情報に注目している一連の研究の流れがある。ジョン・アーチボルト・ウィーラーの 「it from bit」(すべてはビットからなる)という形而上学に影響を受けて主張されたデイビッド・チャーマーズ情報の二面説(英語: dual-aspect theory of information)や、ジュリオ・トノーニ意識の情報統合理論のような数学的な構成を持った理論がある。トノーニは意識の単位はビットだと主張する。
2. 量子力学に注目する立場
詳細は「量子脳理論」を参照
クオリアと量子力学における観測問題との間に何らかの関係があるのではないか、と考える一連の研究の流れがある。しばしば量子脳理論と一括りで表現されることもあるが、そうした理論の中で最も有名なものとして、ロジャー・ペンローズスチュワート・ハメロフの提唱する波動関数の客観収縮理論(Orch-OR Theory)がある。この理論によれば、脳内でチューブリンというタンパク質波動関数が収縮する際に、意識体験(クオリア)が生まれる、とされる。そしてこの収縮が連続して継起することで意識の流れが生み出される、とされる。ただこれは理論物理学者が思考例として提示した仮説に過ぎないものであり、その内容はまだいたって概念的なものであって、数式や方程式の形で具体的に示されているわけではない。

ニューミステリアン

詳細は「新神秘主義」を参照

クオリアは現在の物理学に含まれておらず、ハードプロブレムは依然として残っているが、私たち人間の能力では、この問題は解くことができないだろう、と考える立場。一般に新神秘主義と呼ばれる。

代表的な論者にトマス・ネーゲルコリン・マッギンスティーブン・ピンカーなどがいる。ネーゲルは意識の主観性の問題を解決するには、宇宙に関する見方を根本的に変えるような概念枠の変化がない限り無理だろう、と考える。マッギンは、人間という種が持つ固有の認知メカニズムはある一定の能力的限界を持っており、そのキャパシティを超えた問題が人間には把握できない、という認知的閉鎖(英語: cognitive closure)の概念を軸に置く。そして意識の問題はそうした私たち人間のキャパシティの範囲を超えた問題、つまり解決できない問題なのだと考える。

観念論的立場

詳細は「観念論」を参照

主観性を思考の出発点に置きつつ物理主義と二元論の間の対立の構図を批判する立場がある。この立場から主張される主な論点として、物理主義も二元論もともに客観的な物理的実在を最初から前提している事についての批判、がある。たとえばマックス・ヴェルマンズ(Max Velmans)は再帰的一元論(英語: reflexive monism)と呼ぶ自身の立場の中で(2008年、Reflexive Monism)、客観的な物質概念は意識体験から得られたものであり、客観的な物質概念を最初から前提している立場は、それが物理主義的立場であれ二元論的立場であれ、そもそもの議論の前提がおかしいと主張する。こうした立場からの分析は現象学的アプローチ(Phenomenological approach)とも呼ばれる。

日本語圏では永井均がこれと似た主張を行う。永井は客観的な物質概念はもとより、現象意識という概念も一種の構成概念であるとし、まずあるのはたった一つの自分の主観性(永井は<私>、「これ」などと書く)だけである点を強調する。加えて永井は主観的な意識の問題は、「現在であること」(現在性、now)、「現実であること」(現実性、actuality)などと同じ、内容的規定性を持たないという点からくる問題だとする(「今」が人によって違っても何も違うと言える所がない、この世界が実在の世界でなくただの可能世界であっても何も違うと言える所がない、この世界から<私>が消え去っても何も違うと言える所がない)。それゆえに、この問題は真性の問題ではあるけれども、にもかかわらず公共的な言語の上では語ることができないもの(ウィトゲンシュタインが言うところの「語り得ないもの」)であり、言語で取り扱えないものだとする。

科学者

NCC 探索の基盤となる枠組み。散歩しているイヌ(一番左)を見ている人(左から二つ目)の脳内で起きている様々な神経細胞の興奮(左から三つ目)の集まりのうち、その一部がNCCとして(図中の丸で囲まれている部分)、心に浮かぶイヌの像(一番右)つまり主観的な意識体験を生み出す役割を担っている、とする。クリストフ・コッホに代表される一部の神経科学者たちは、こうした考え方のもと、NCCを発見・同定することを目指して研究を行っている。

科学の立場からの研究においては、上に述べたようなクオリアに関する存在論的な議論(「この世界に本当にあるのは何か?」という議論)には直接関わらないのが一般的である。神経科学分野の有名な(非常に分厚い)教科書 カンデルPrinciples of Neural Science では意識の主観性の問題に数ページを割いている。そこでは、科学者にはハードプロブレムに直接取り組む前にやるべき事がまだ数多くあるのでそこを研究していけばよい、ということを科学者としての一つの一般的姿勢として示している。フランシス・クリックは「ハードプロブレムに直接取り組むべきでない」こと、またクリストフ・コッホは「意識の神経相関物と意識体験の関係を仮定せず」に研究を行うことを書いている。こうした科学者の主張する内容にはいくつかの点があるが、主に次のようなものがある。

こうした考えを背景に科学者は意識体験に関する実証的な調査・研究を進めている。

意識に相関した脳活動の探索

意識と相関するニューロン(意識に相関した脳活動:NCC: neural correlates of consciousness 特定の意識体験を起こすのに必要な最小のニューロンのメカニズムとプロセス)を同定していく研究。クリストフ・コッホが有名である。

事例・症例の研究

これはNCCの研究と並行するが、盲視半側空間無視共感覚幻肢痛、といった様々な事例・症例の調査・研究をもとに質感の問題にアプローチしていくスタイル。ラマチャンドランが有名。

一般に科学者たちは哲学的な意味での自身の立場ははっきりと主張しないことが多い。科学者ならば全員が物理主義者なのだろう、とも思うかもしれないが、別にそういう分けではなく、各人のクオリアに対する哲学的な立場は様々である。たとえば運動準備電位の研究で有名なベンジャミン・リベットや、また睡眠の研究者であるジュリオ・トノーニのように、自然主義的二元論的な意識についての理論を発表している者もいるし、またヴィラヤヌル・ラマチャンドランのように自分は中立一元論者だとはっきり哲学的なポジションを明言しているような科学者もいる。

論点

クオリアという主題には数多い論点があり、その全体をここで網羅しきることはできない。幾つかの代表的な論点を挙げる。

まず有名な論点として「そもそもクオリアなんてない」という非常に根本的な反論がある。こうした主張を強く行う人物として有名な哲学者としてダニエル・デネットがいる。デネットの立場は消去主義的唯物論(Eliminative materialism)、または消去主義(Eliminativism)と言われる。デネットが行う主張を左側として、デネットがその論敵としている対立側を右側として、両サイドがどういった点で対立し、そしてどういう点では一致しているのか、その状況を以下に簡単に一覧する。

感覚質などない 感覚質はある
脳のすべての過程は物理的・科学的な方法で説明、解明できる。 | 脳のすべての過程は物理的・科学的な方法で説明、解明できる。
それで、もう説明されずに残るものなどない。それで意識の全てが説明される。 | それでも説明されずに残るものがある。それがクオリアである。
脳の過程で説明されないクオリアというのが何のことなのか、分からない。右のような考えは素朴な直感に基づいた、誤った考え、単なる錯覚である。 | 脳の過程より何より、クオリアが在ることほど、確実なことはない。左のような主張はどこかで現象性を密輸入しているか、自己欺瞞であるか、または神経系における何らかの機能的障害であろう。
右のような奇妙な事をこれほど自信満々に言う人たちが、一体なぜいるのか。こ
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出典:wikipedia
2020/04/02 14:13

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