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グレート・ムタとは?

(グレート・ムタから転送)
この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。(2010年12月)
武藤 敬司
Keiji Muto

【プロフィール】

【リングネーム】
武藤 敬司
グレート・ムタ
黒師無双
THE APEMAN PLATINUM
スーパー・ブラック・ニンジャ
ホワイト・ニンジャ
ザ・ニンジャ

【本名】
武藤 敬司
【ニックネーム】
プロレスリング・マスター
ナチュラル・ボーン・マスター
スペース・ローン・ウルフ
クロス・ウィザード
天才
ときめきのバージンレッド
セクシー・ターザン

【身長】
188cm
【体重】
110kg
【誕生日】
(1962-12-23) 1962年12月23日(56歳)
【出身地】
山梨県富士吉田市
【所属】
WRESTLE-1
【スポーツ歴】
柔道
野球
【トレーナー】
アントニオ猪木
ヒロ・マツダ
山本小鉄
【デビュー】
1984年10月5日

武藤 敬司(むとう けいじ、1962年12月23日 - )は、日本男性プロレスラーWRESTLE-1を運営するGENスポーツエンターテインメント代表取締役会長。山梨県富士吉田市出身。山梨県観光大使。武藤塾塾長。娘はタレントの武藤愛莉

1990年代から2000年代にかけてプロレス界を牽引した闘魂三銃士の1人で、「日本マット界の至宝」と言われる。プロレスに必要なパワー、スピード、テクニック、センスを極めて高い次元で併せ持った選手として、その素質故に「天才(GENIUS)」、「平成のミスタープロレス」、「レジェンド」、「天才を超えた魔術師」、などの賞賛をほしいままにして来た。アメリカでの実績から現在活躍している外国人レスラーの中にもファンは多く、彼らからは敬意を込めて「マスター」などとも呼ばれている。このことから、近年は「プロレスリング・マスター」、という愛称が定着しつつある。

目次

  • 1 来歴
    • 1.1 少年時代 - 新日本プロレス入門
    • 1.2 新日本プロレス入門 - 若手時代
    • 1.3 海外修行 - ブレイク
    • 1.4 nWo JAPAN
    • 1.5 全日本プロレス参戦、史上初の六冠王者
    • 1.6 全日本プロレス移籍、社長就任
    • 1.7 古巣、新日本プロレス参戦、旧全日本四天王と交流
    • 1.8 長期欠場からの復帰
    • 1.9 全日本プロレス退団、WRESTLE-1旗揚げ
  • 2 グレート・ムタ
    • 2.1 グレート・ムタの偽者、真似たキャラクター
    • 2.2 グレート・ムタに関するエピソード
  • 3 黒師無双
  • 4 タイトル歴
  • 5 得意技
    • 5.1 必殺技(フィニッシュ・ムーブ)
    • 5.2 関節技
    • 5.3 打撃技
    • 5.4 組み技
    • 5.5 その他
  • 6 マネージャー
  • 7 入場テーマ曲
  • 8 人物
    • 8.1 プロレスLOVE
    • 8.2 総合格闘技への態度
    • 8.3 膝の故障
    • 8.4 俳優、タレント業、飲食店オーナー
  • 9 出演
    • 9.1 映画
    • 9.2 ドラマ
    • 9.3 Vシネマ
    • 9.4 その他番組
    • 9.5 ゲーム
    • 9.6 CM
  • 10 試合以外でのエピソード
  • 11 マスコットキャラクター
  • 12 プロデュース商品
  • 13 参加作品
    • 13.1 写真集
    • 13.2 音楽
  • 14 著書
  • 15 脚注
    • 15.1 注釈
    • 15.2 出典
  • 16 関連項目
  • 17 外部リンク

来歴

少年時代 - 新日本プロレス入門

出生時は4000gの体重があった。富士吉田市立下吉田第一小学校2年生のときに、ドラマ「柔道一直線」を見て柔道を習い始める。学年で一番背が高かったにもかかわらず、バク転バク宙、鉄棒の大車輪を器用にこなす運動神経の持ち主であった。小学校5年生のときには、柔道と並行して少年野球チームにも入り、エースで4番を任されている。

富士吉田市立下吉田中学校に入ると一度は野球部に入部するも、その後すぐに柔道部に転部。中学校3年生で初段黒帯山梨県立富士河口湖高等学校では、国体出場。高校卒業後は、東北柔道専門学校(現・学校法人東北柔専 仙台接骨医療専門学校)に進学。全日本ジュニア柔道体重別選手権大会95kg以下級3位。全日本強化指定選手にも選ばれる。学校では柔道整復師の免許も取得。

新日本プロレス入門 - 若手時代

1984年新日本プロレスの選手が利用していた接骨院に勤務していた東北柔道専門学校の先輩から新日本プロレスを紹介され21歳で入門。後に闘魂三銃士となる蝶野正洋橋本真也は同日入門であり、船木誠勝野上彰も同期生。入門三日ほどであまりの練習の厳しさに当時コーチであった山本小鉄に辞めたいと言ったことがあるが、他の練習生であれば引き留めるはずもないところ小鉄は「あと1週間だけ辛抱してみろ、それでも嫌なら辞めても構わない」と励まし、武藤は自分への期待に自信をつけ、残る決意を固めた。共に練習していた蝶野は、「武藤が『あの逸材だから』相手がどう反応するか判っていて駆け引きをしていたようだ」と語っている。その厳しいトレーニングも、前田日明藤原喜明高田延彦らが第一次UWFへ移籍し、半年後には長州軍13人が全日本プロレスへ移籍してしまったため、怖い先輩がいなくなったことで随分楽になったという。同年10月4日にデビュー。相手は同じくデビュー戦の蝶野であった。

新弟子時代、週に1回のちゃんこ番の際はそれまで料理などしたことが無かったため、武藤の場合はポン酢を作って材料を鍋に放り込むだけでできる簡便な「豚ちり」を作るのが定番であったが、これがレスラーから不評であった。武藤の新弟子時代は新日本も羽振りが良く、ちゃんこ番は朝晩の食費である3万円を1日に使い切ることが使命であったが、当時は上質な肉や米であろうと残った食糧は全部その日の内に捨てるほどの飽食ぶりであった。そんな武藤とは対照的に橋本は料理が上手かったと2018年のインタビューで振り返っている。

柔道の猛者であったため入門当初からアントニオ猪木坂口征二、藤原喜明らと互角にスパーリングをする実力と天性運動神経ルックスから、早くから将来のエース候補と目され、ヤングライオン杯優勝を経ることなく、1985年11月に初の海外遠征(米フロリダ地区)に出発。ホワイト・ニンジャというリングネームで活動し、当初はベビーフェイスだったが、タッグマッチでパートナーのワフー・マクダニエルを裏切りヒールに転向した。

NWAフロリダ地区では、1986年5月21日にケンドール・ウインダムからフロリダ・ヘビー級王座を奪取、タイトル初戴冠を果たした。しかし、6月にビデオで反則していたことが判明し、王座を返還させられる。尚、フロリダ時代の彼女の名前がハッピネスちゃんでありレストラン等で名前を呼ばれると注目されたと自叙伝で告白している。その後はアラバマコンチネンタル・チャンピオンシップ・レスリングで活動し、同年9月1日、NWA USジュニアヘビー級王座を獲得した。

タンパ在住中、当時ホテル住まいであった武藤はキッチンも無い中100%外食で食事を済ます必要があったが、幼少期にあれだけジャンクフードに憧れていた(エピソード説を参照)武藤と言えど、ハンバーガーピザなどが中心の食生活には「胃もたれがする」と嫌気が差し、程無くして中華料理で腹を満たすことにした。当時のタンパには日本食レストランも2件しかなく、インチキな日本食もあったため、止む無く中華料理を食していた。ただ、フロリダにはスペイン系アメリカ人が多い影響からターメリックライスが食文化として定着しており、チキンと一緒にターメリックライスを食べたのが食事に関するアメリカ遠征時代の思い出であった。

帰国後、「スペース・ローンウルフ」なるギミックで売り出される。当時はリング登場時のコスチュームに宇宙飛行士ヘルメット(そのスタイルの初期のみ着用、というより頭に被らずに手に携えてリングインするという感じであった)をかぶり、ブルゾンタイプのガウンに胸元に“610”(「ムトウ」の意)と書かれたものを着用していた。本人曰く、ヘルメットをかぶったのは猪木より「ヘルメットのスポンサーが付くかもしれないからかぶれ」と言われたとのことだがヘルメットのスポンサーは付かなかったという。所々ラメの入った青いロングタイツに白いリングシューズで真っ直ぐのふさふさした頭髪は『ジャニーズ系レスラー』であると、プロレス雑誌に書かれた。ちなみにテーマ音楽は「ファイナル・カウントダウン」で、リングに入場する際はロープ間を跨ぐようなことはせず、鉄棒の前転をするような形でトップロープ上を宙返りしリングインする派手なパフォーマンスをしていた。ところが、当時新日本はUWFの抗争真っ最中であり、おおらかなアメリカンプロレスを身に付けた武藤はファンの支持を得られず失敗。とはいえ、早い時期から藤波辰巳とのシングルマッチを実現するなど特別な扱いを受けていた。またナウリーダーとニューリーダーとの世代闘争にも参加しており何故かナウリーダー側として5対5のイリミネーション・マッチ等に参戦していた。

海外修行 - ブレイク

1988年1月から、二度目の海外遠征に出発。カルロス・コロンが主宰するプエルトリコWWCではベビーフェイスのスーパー・ブラック・ニンジャとして活動し、1988年2月6日にインベーダー1号からTV王座を、同年5月14日にミゲル・ペレス・ジュニアからプエルトリコ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取した。

そんな中7月16日ブルーザー・ブロディ刺殺事件が起こり、WWCを離れフリッツ・フォン・エリックが主宰するダラスのWCCWに活動拠点を移す。そこでの活躍で、NWAジム・クロケット・プロモーションズ(後のWCW)へスカウトされ、ギミック上はザ・グレート・カブキの息子という設定のグレート・ムタとして、ヒールのポジションで登場。当時のアメリカでの悪役人気は絶大で、スティングリック・フレアーとの対決で活躍した。帰国後も、武藤は様々なコスチューム(後述)で「グレート・ムタ」を登場させた。

1990年4月に凱旋帰国。同時に赤(時折オレンジ色)のショートタイツにコスチュームを変え、やがて人気・実力ともに絶頂期を迎える(当時の実況担当の辻義就からは「セクシーターザン」「ときめきバージンレッドの熱い風」などと形容された)。

1995年2月にスコット・ノートンに敗れてスランプ状態に陥ったものの、5月3日、福岡ドームで当時最多防衛記録を樹立していた橋本真也を破って第17代IWGPヘビー級王者となった。8月15日、同じく橋本真也を破り、IWGP王者としては初となるG1 CLIMAX優勝者となった。さらに、10月9日東京ドームでの「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」のメインイベントでの高田延彦戦は、敢えてこの決戦用にドラゴンスクリューからの足4の字固めという古典的な技を復活させて勝利を収めた。これらの活躍が評価されて、同年のプロレス大賞MVP。なお、G1で優勝した際の副賞としてガウンを贈呈されたのをきっかけに、以後のビッグマッチにおいてガウンを着用するようになる(普段はTシャツ姿で入場)。

nWo JAPAN

1997年2月、蝶野正洋率いるnWo JAPANからTシャツを渡されたり、背中に「nWo」とスプレーで書かれたりという演出などにより勧誘を受ける。4月12日の東京ドーム大会でグレート・ムタとして蝶野に勝利するが、試合後二人は共鳴し、WCWでのアメリカ遠征で正式にムタとしてnWoに加入。6月に正規軍の武藤として、当時王者だった橋本に挑むが敗戦。試合後、nWoジャパンの控え室に戻ったことから、本格的に正規軍を離脱する。その後のシリーズからnWo JAPANのムタとしてG1にも参戦するなど活躍したが、膝の故障や度重なるタッグマッチでの亀裂、試合前のペイントする時間が多忙などが重なったことから、ムタをやり切ることに限界を感じて、9月23日にはムタから武藤に変身し、武藤としてnWoに加入。赤から黒のショートタイツに変わり、その後イラストや英語の文字が記入された黒のロングタイツを着用し、髭を伸ばして、黒バットなどの凶器を使って、黒スプレーで小原道由の背中に「犬」と書いた上でリング外へ絞首刑にするなど(犬事件)ヒールに徹した。

1998年7月、膝の手術から復帰した後、ムタとして渡米することになって髭を剃り、“ナチュラル・ボーン・マスター”(生まれながらの天才)と呼ばれるようになる。この直後、nWo JAPANの総帥であった蝶野正洋が負傷して長期離脱。武藤が軍団の舵を取り「I AM BOSS」と連呼するようになり、欠場明けの小島聡をnWo JAPANに勧誘、年末に行われたG1タッグも小島聡とのタッグで優勝し、そのインタビューでは、「これは俺が作り上げたnWoだ! 蝶野の名前は出さないでくれ!」と発言。1999年、第24代IWGPヘビー級王者となると、蝶野と武藤との関係はこじれた。蝶野は復帰後、nWo JAPANを脱退して独自のユニット「TEAM 2000」を結成した。以後、「nWoジャパン VS TEAM 2000」の抗争が勃発し、最終的に2000年、1月4日の東京ドームで武藤が蝶野に敗れてnWo JAPANは消滅する(しかし真相は本家nWoの権利を持つWCWとの契約が満了したためだといわれている)。なお、1999年は1年間王者に君臨した評価が認められ、プロレス大賞MVPに選ばれている。

全日本プロレス参戦、史上初の六冠王者

その後、武藤は新日本とは距離をおきWCWを中心に活動するつもりで渡米し、グレート・ムタとして再びWCWのリングに上がる。空港に着くなり、多数の報道関係者に取り囲まれ、「あのプロレス史上最凶のヒールが帰ってきました」の賛辞で迎えられる等、アメリカ国内での人気はいまだに衰えを知らなかった。復帰したWCWではバンピーロとのコンビでWCW世界タッグチーム王座を獲得し、スティングと抗争を行う。だが、そのような活躍とは裏腹にWWF(当時)より移ってきたビンス・ルッソーらからは評価されず、試合の機会を満足に与えられず帰国。WCWへの復帰はエリック・ビショフを通して了解を得ていたが、渡米した時には興行成績の不振からビショフは解雇されており、ルッソーらからは「何しに来たんだ?」と屈辱的な事を言われ、露骨に嫌そうな扱いを受けたという。ちなみに武藤の帰国直後にWCWは消滅している。

2000年12月31日の大阪ドームで開催されたINOKI BOM-BA-YE 2000で国内復帰(この間、武藤が猪木との対談DVDを出すなどしていたことから、蝶野が一時期、武藤までも猪木にとりこまれたか?と警戒感を示したこともあった)。高田延彦と一夜限りのタッグを組み、ドン・フライケン・シャムロック組と対戦。この試合は高田のバックドロップでシャムロックより勝利。ちなみに武藤がスキンヘッドになったのはこの試合からである(後述)。

2001年より新日本プロレスに復帰。1月28日、全日本プロレス・東京ドーム大会に参戦して太陽ケアに勝利。以後、定期的に全日本に参戦することになる。団体の垣根を超えた超党派ユニット「BATT(BAD ASS TRANSLATE TRADING)」を結成する。武藤は新必殺技シャイニング・ウィザードを引っ提げ、史上初の六冠王者(三冠ヘビー級王座IWGPタッグ王座世界タッグ王座(当時のプロレス誌のグラビアに、横たわった武藤の胴体や顔にまで6本のベルトが巻かれた写真があった)。ただし三冠ヘビー級王座と世界タッグ王座は事実上それぞれ一つのタイトルであるので実際は三冠王者)となった。さらに全日本プロレスの年末恒例の大場所である世界最強タッグ決定リーグ戦も制して、同年のプロレス大賞MVPに選ばれる。10月には全日本のリングで新日本プロレス所属同士で蝶野正洋と三冠戦が行われた。新日本プロレス、全日本プロレスの主力ベルトで、その時点で保持していないのは過去に自らも保持していたIWGPヘビー級王座のみとなり、武藤自身も次の標的は「猪木イズムの継承者」藤田和之と示唆していたものの、既に格闘技路線への疑問を公言していたこともあり、遂に実現しなかった。

全日本プロレス移籍、社長就任

2002年1月、藤田和之を中心とした格闘技路線に重心を移した新日本プロレスでは自身のアメリカでの実績なども潰されることになると考え、弟分の小島聡、ケンドー・カシンおよび新日本プロレスのフロントスタッフの5名と共に新日本プロレスを突如退団。2月26日に全日本プロレスに入団する。この時武藤は「全日本プロレスに骨の髄までしゃぶっていただきたいと思います。」という名言を残した。なお、この時本当は「骨を埋める覚悟で……」と言うつもりであったが、あがっていたせいで「骨の髄までしゃぶっていただきたいと思います」と言ってしまったのだという。その他に馳浩からの勧誘もあったとされる。

移籍直後のチャンピオン・カーニバルでは初出場にして優勝を果たした。G1クライマックスとチャンピオン・カーニバルの両方を制覇したレスラーは武藤が初めてである(2005年には佐々木健介、2010年には小島聡、2011年には永田裕志も達成)。 7月20日の日本武道館大会では、黒師無双⇒武藤敬司⇒グレート・ムタと1日3変化で3試合をこなして、すべて勝利している。8月30日の日本武道館大会では、自らプロデュース興行を行った。10月には馬場元子社長から全日本プロレスの株式を譲り受け、オーナー兼社長となった。同年中には、K-1石井和義と組み、エンターテイメントの要素を強く取り入れたプロレス「ファンタジーファイトWRESTLE-1(-レッスル・ワン)」という興行も行っている。

2003年には盟友、橋本真也率いるZERO-ONEに全日本プロレスの選手を率いて乱入。「全面戦争、やるのかやらないのかはっきりしろよ!」という言葉で宣戦布告する。この後、全日本プロレスとZERO-ONEは激しい抗争を繰り広げることになる。 また、4月29日に行われた「BAPE STA!! PROWRESTLING ZEPP TOUR」のZEPP FUKUOKA大会では覆面レスラーTHE APEMAN PLATINUMに変身した。

古巣、新日本プロレス参戦、旧全日本四天王と交流

全日本プロレスの武藤敬司(2008年)

2004年から他団体のリングに積極的に進出するようになる。2年ぶりに新日本のリングに上がり、1月4日にはボブ・サップとタッグを組み、蝶野&天山広吉に勝利。その後、10月9日には、付き人を務めた西村修と組み、棚橋弘至&中邑真輔と対戦したが敗れている。ZERO-ONEのリングでは、2月29日に大森隆男と対戦して勝利。4月25日には、橋本とタッグを結成して勝利を収めたが、奇しくもこれが最後となった。 武藤と並ぶ天才としてプロレスファンから対戦を熱望されていた三沢光晴との対戦アングルが開始された。(試合ではないがこれ以前に2001年PlayStation 2用ソフト『オールスター・プロレスリング2』のCMとデモムービーの撮影で2人は共演している。また2人の対談は『リングの魂』(テレビ朝日)において実現している)。2004年7月10日に行われたNOAH東京ドーム大会で初対戦(三沢・小川良成組 vs 武藤・太陽ケア組)。この試合では敗れたが、「夢の続き、見ませんか?」と三沢にメッセージを送った。これがきっかけに加えて、小島の対戦直訴により、三沢は古巣である全日本プロレスへの参戦を果たした。10月31日、両国国技館での武藤敬司デビュー20周年記念興行において武藤は三沢とドリームタッグを結成。馳浩・佐々木健介組と対戦して勝利を収めた。

2005年5月14日、新日本・東京ドーム大会でロン・ウォーターマンに勝利。3年ぶりに三冠戦に挑戦したものの、小島に敗北。その後、大相撲横綱であったを呼び、プロレスラーとして育てた。その年の、最強タッグ準優勝に、プロレス大賞では最優秀タッグチーム賞にも輝いた。

2006年、年末の最強タッグリーグ戦には、闘魂三銃士とプロレス四天王のタッグとして川田利明と組み話題性があったものの、小島&天山の「テンコジ」にリベンジされて敗退。優勝を明け渡したが、2007年1月4日の新日本・東京ドーム大会で8年ぶりに蝶野とタッグを組み、テンコジに勝利した。3月には3度目のチャンピオン・カーニバル優勝を果たし、7月の三冠戦(鈴木みのる)には敗れたが、年末の最強タッグリーグ戦では、ジョー・ドーリングと組んで、6年ぶりに優勝。

2008年1月3日、タッグリーグ戦に優勝した勢いで世界タッグ王座を獲得した。4月27日、新日本・大阪大会で中邑を破り、1999年以来となるIWGPヘビー級王者になった。8月31日には、全日本のリングで初めてIWGPヘビー級選手権試合が行われて、G1 CLIMAX2008優勝者の後藤洋央紀を破って防衛に成功。その後、準優勝者の真壁刀義、リベンジに挑んだ中邑に勝利して、4度の防衛に成功。三冠王者になったムタの活躍も併せて評価されて、7年ぶりにプロレス大賞を受賞した。

2009年1月4日、レッスルキングダムIIIで棚橋に敗れてIWGPヘビー級王座5度目の防衛に失敗。3月14日、ムタとして高山善廣に敗れて三冠王座も失った。その後、FIGHTING TV サムライの企画で蝶野と対談。お互いにデビュー25周年興行を行い協力することになり、8月30日にデビュー25周年興行を開催。24年ぶりに同期生の船木誠勝とタッグを結成して、蝶野&鈴木みのる組に勝利した。

また、6月13日に三沢が急逝したため、ライセンス、コミッショナー問題を含めて、再びノアと交流。9月27日に5年ぶりにノアへ参戦。田上明と社長タッグを結成して、小橋建太と初対戦したが敗れた。10月12日に、蝶野のデビュー25周年記念試合で新日本、全日本、ノアによる6人タッグマッチが実現。武藤、蝶野、小橋がトリオを結成して勝利。これで旧全日本の「プロレス四天王」とすべてタッグを結成。

長期欠場からの復帰

2010年3月9日、変形性膝関節症による右膝関節内遊離体除去の手術を行うことを発表し、4月5日に手術を行い成功。全日本に移籍してからは初めてとなる長期に渡り試合を欠場したが、9月10日、船木誠勝とのシングルマッチで復帰。試合は引き分けになるものの、欠場以前と変わらぬムーブを見せた。また、9月20日後楽園ホールではKAIとのシングルマッチに勝利。その日の世界ジュニアヘビー級王座戦の試合後にリングに上がり、最多の連続防衛を記録した王者のカズ・ハヤシに挑戦表明し物議を醸したが、翌日の会見で、「気分は(あしたのジョーの)力石。そこにカズ・ハヤシがいるから(挑戦する)」と、世界ジュニア王座への挑戦を正式に発表した。また、それに合わせて体重の減量も行われ、1か月で約10kgの減量に成功して挑んだが敗れた。

2011年の新春シャイニングシリーズでは、船木誠勝の仲介もあり、敵対関係にあった鈴木みのるとタッグを結成、1月2日、3日と立て続けに鈴木に誤爆してしまうが、鈴木のほうから歩み寄りを見せ、3日の試合後に握手、タッグチームとしてタイトルも狙っていくことを発表した。また、全日本プロレス恒例のバトルロイヤルにも参加し、史上初の同年でのヘビー級、ジュニアヘビー級優勝を果たした。

2011年6月7日、平井伸和が試合後に急性硬膜下血腫で倒れた事件の責任を取り、全日本プロレスの代表取締役社長を辞任した。選手としては引き続き所属する。

同年8月27日、ALL TOGETHERに参加。小橋健太とタッグを組んで飯塚高史矢野通組と対戦、小橋と共にムーンサルトプレスを披露した。その後、この試合は年間プロレス大賞年間最高試合(ベストバウト)賞に認定される。

2012年3月20日両国大会、秋山準が保持する三冠ヘビー級王座に挑戦したがスターネスダストで敗れた。

全日本プロレス退団、WRESTLE-1旗揚げ

2013年5月31日、全日本プロレスの取締役会長を辞職、ならびに選手契約を解除。翌日に全日本は新たに役員体制を発表した。

2013年7月10日、新団体WRESTLE-1の旗揚げを発表した。また、WRESTLE-1の運営会社であるGENスポーツエンターテインメントの代表取締役社長の就任を発表した。

2017年4月1日、GENスポーツエンターテインメントの代表取締役会長に就任。

グレート・ムタ

【グレート・ムタ
The Great Muta】


【プロフィール】

【ニックネーム】
悪の化身
妖忍者
東洋の神秘
スパイダー・NINJA

【身長】
188cm
【体重】
110kg
【誕生日】
不明
【出身地】
アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオリンズルイジアナ・スーパードーム
【デビュー】
1989年4月2日

グレート・ムタ(Great Muta)は、武藤敬司扮する忍者をモチーフにした日本ペイントレスラー。漢字表記は愚零闘武多。マネージャー兼ブッカーのプレイボーイ・ゲーリー・ハートによってプロデュースされた。ギミック上は武藤の第二の人格とされ、魔界の住人という設定である。武藤自身は代理人として記者会見などでムタの代わりにコメントをすることもある。正式なプロフィールによると、1989年4月2日アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズ出身である。また、同じくゲーリー・ハートがマネージャーとなったザ・グレート・カブキの息子という設定もあり、カブキとはそれぞれの主戦場だったWARと新日本プロレスで二度に渡って「親子」対決を繰り広げ、1998年にはカブキの引退に際し、「親子」タッグを結成したこともある。ちなみに「ムタ」の由来は、「グレート・ムトウ」と外国人が「ムトウ」とうまく発音できないために、武藤自身が呼びやすい名前にした(ただし、現地のWCWのテレビ放送において、「Great Mutou」とテロップを出すところを誤って「Great Muta」と表示されてしまったことから始まるという説もある)。そのため日本での意味は「グレート・ムトウ」ということになる。さらに英語しか喋れないという設定だが、試合に負けるなどして武藤が激高し、設定を忘れて日本語を喋ってしまうことがあった。また、実況の辻よしなりマサ斎藤がムタの事を「武藤」と呼んでしまうことが度々あった。特にマサ斎藤が実況席にいる際のムタ戦では「この武藤、いま戦っているのはムタなんですがね」等々の発言が必ずあるため、ファンの間ではマサ斎藤の人柄を表す語り草になっている。

ムタの誕生は1987年プエルトリコWWCでの海外武者修行時代に遡る。修行先ではスーパー・ブラック・ニンジャのリングネームを名乗って活動していた。スーパー・ブラック・ニンジャは黒装束をまとった忍者ギミックベビーフェイスであり、まだペイントも施していなかったが、これがNWAのプロモーターの目にとまり、ゲーリー・ハートのアドバイスにより、顔にペイントを施したザ・グレート・カブキの息子であるザ・グレート・ムタが誕生。1989年4月2日、WCWの対スティーブ・ケーシー戦で初登場(初登場時は忍者キャラで入場コスチュームには「伊賀流」の刺繍が入っていた)。ムーンサルトプレスを必殺技に、スティングリック・フレアーとの抗争を経てヒールの人気レスラーとなった。日本初登場は1990年9月7日、大阪府立体育会館でのサムライ・シロー戦である。これ以後、年に何度か登場し、対戦相手を流血と毒霧地獄に追い込む凄惨な試合を展開している。

1990年代から2000年初頭にかけては、顔に毒々しくペイントをしていた(色は試合ごとに変えていた)。1992年に長州力からIWGPヘビー級&グレーテスト18クラブ王座を獲得した試合では、赤い顔のペイントに、初めて目の周りを黒く隈取をして登場し「悪の化身」ぶりがより強調されるようになった。ムタのファイトスタイルは、対戦相手を流血に追い込むほどのラフ攻撃や凶器攻撃、毒霧攻撃などが主体だが、初期の頃は素顔の武藤敬司が使用する技は極力使用せず、試合運びの面においても武藤のものと差別化を図っていた(後述のように例外もある)。しかし、素顔の武藤のファイトスタイルや身体のコンディションの変遷とともに、武藤とムタのファイトスタイルに差異はなくなってきている。

2000年代に入り、武藤がスキンヘッドになるとムタを一時封印して、後述の黒使(師)無双が武藤の化身として登場していたが、2002年に毒蜘蛛をモチーフとするSFX用ラバーマスクとペイントを組み合わせた新しいスタイルで復活させた(マスク制作は特殊メイクアーティスト、JIROによる)。その後、ジェイソン、デビル、ダース・ベイダー、海外遠征によるメキシコでの世界遺産、イギリスでの騎士、プエルトリコでのパイレーツ、中国をイメージしたコスチュームで登場するなど、毎試合入場時に工夫をこらしている。

WWEに出場したことはないものの、WCWでの活躍から未だもってアメリカでのネームバリューは高く、人気・知名度ともに日本人レスラーの中ではトップクラスである。WCWでは1989年から1990年にかけてテリー・ファンクとのJ・テックス(J-Tex)で活躍し、1989年10月28日のPPV "Halloween Havoc" では ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/12/11 03:50

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