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ケネディ大統領暗殺事件とは?

【場所】
アメリカ合衆国テキサス州ダラス
【座標】
北緯32度46分44.51秒 西経96度48分31.21秒 / 北緯32.7790306度 西経96.8086694度 / 32.7790306; -96.8086694座標: 北緯32度46分44.51秒 西経96度48分31.21秒 / 北緯32.7790306度 西経96.8086694度 / 32.7790306; -96.8086694
【日付】
1963年11月22日
【概要】
暗殺事件
【攻撃手段】
ライフル銃による狙撃
【攻撃側人数】
リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行とされている
【死亡者】
ジョン・F・ケネディアメリカ合衆国大統領
【負傷者】
ジョン・コナリーテキサス州知事
【犯人】
リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行とされている
【動機】
不明
【関与者】
不明
【対処】
逮捕

ケネディ大統領暗殺事件(ケネディだいとうりょうあんさつじけん、Assassination of John F. Kennedy)は、1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディダラス市内をパレード中に銃撃され、死亡した事件である。

1時間後に逮捕され犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、2日後にダラス警察署の中でジャック・ルビーに撃たれて殺され、裁判の場に立つことはなかった。そして翌年に出されたウォーレン委員会の公式調査報告がオズワルドの単独犯行として大統領が後方から撃たれたとする結論に対して、数々の疑惑が出るなど、長年にわたって真相についての議論が続き、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な銃撃による大統領の死、犯人がすぐに殺害される意外な展開、その後に暗殺の動機も背後関係も分からず多くの謎を残したまま捜査が終了したことから数々の陰謀説が出て、半世紀が過ぎた現在でも論議を呼んでいる。

目次

  • 1 事件概要
    • 1.1 テキサス遊説の背景
    • 1.2 ダラス到着
    • 1.3 市内パレード
    • 1.4 狙撃
    • 1.5 大統領の被弾
    • 1.6 夫人の証言
    • 1.7 記録された暗殺(ザプルーダー・フィルム)
    • 1.8 沿道の負傷者
    • 1.9 その他の目撃者
    • 1.10 防弾カバー使用拒否
    • 1.11 ティピット巡査の死とオズワルドの逮捕
    • 1.12 パークランド病院
    • 1.13 ケネディ狙撃の速報と死去報道
    • 1.14 ケネディ兄弟への通報
    • 1.15 ケネディ家の動き
    • 1.16 空港への遺体搬送
    • 1.17 ジョンソン副大統領の昇格とワシントンへの帰途
    • 1.18 司法解剖
  • 2 時系列
  • 3 暗殺事件の反応
    • 3.1 オズワルド殺害とジャック・ルビー
  • 4 国葬
  • 5 政府による公式調査
    • 5.1 ウォーレン報告
    • 5.2 オズワルドの単独犯行
    • 5.3 三発の銃弾
    • 5.4 その後の調査
    • 5.5 ウォーレン報告の評価
  • 6 陰謀論
    • 6.1 マフィア壊滅作戦に反発したサム・ジアンカーナを中心としたマフィア主犯説
    • 6.2 軍産複合体の意を受けた政府主犯説
    • 6.3 ピッグス湾事件の失敗を恨む亡命キューバ人主犯説
    • 6.4 その他
    • 6.5 クレイ・ショー裁判
    • 6.6 陰謀論者が問題視する政府の公式説明
    • 6.7 その他の指摘された問題点
  • 7 未公表のドキュメント
  • 8 ロバート・ケネディ暗殺事件
  • 9 ケネディ大統領暗殺事件の文献資料
  • 10 ケネディ大統領暗殺事件を扱ったドキュメンタリー番組
  • 11 注釈
  • 12 出典
  • 13 ケネディ大統領暗殺事件を扱った作品
    • 13.1 映画
    • 13.2 ドラマ
    • 13.3 アニメ
    • 13.4 ゲーム
  • 14 参考文献(英語版)
  • 15 関連項目
  • 16 外部リンク

事件概要

事件はこの日に遊説のためテキサス州ダラス市に到着したケネディ大統領夫妻がテキサス州のコナリー知事夫妻の案内で、空港からリムジンに同乗して市内をパレードしていた最中に突然3発の銃弾が撃ち込まれたことで起こった。

テキサス遊説の背景

ケネディ大統領が1963年11月下旬のこの時期にテキサス州を遊説することにしたのは以下の3つの理由からであった。

行程は11月21日(木)にホワイトハウスを発ち、大統領専用機でサンアントニオからヒューストンを経てフォートワースに夜到着し、翌11月22日金曜日の朝にフォートワースからダラス、最後はオースチンに行き、そしてオースティン郊外のジョンソン牧場でジョンソン副大統領夫妻と週末を過ごす予定であった。

ダラス到着

ダラス・ラブフィールド空港に到着した大統領夫妻(1963年11月22日11時40分)

1963年11月22日金曜日の朝にフォートワースでの朝食会に出席して、終了後大統領専用機でケネディ大統領夫妻はダラスに向かった。現地時間11時40分にダラス・ラブフィールド空港に到着した。「ダラス・トレードセンター」で昼食会と大統領のスピーチが予定されていたために、自動車パレードはダラス・ラブフィールド空港からダラス市内を通って、ディーリー・プラザを含むダウンタウンを通過してダラス・トレードセンターに向かう計画であった。

11時50分にケネディ大統領夫妻とコナリー知事夫妻はラブフィールド空港から、フェアチャイルドC123輸送機によりワシントンD.C.から運ばれた1961年式のリンカーン・コンチネンタルをオープントップに改造したパレード専用のリムジンに乗車して空港を出発した。

リンカーン・コンチネンタルには最後列右側にケネディ、左側に妻のジャクリーン・ケネディ、その前列の右側にテキサス州知事ジョン・コナリー、左側にその妻アイダネル(通称ネリー)・コナリー、その前の運転席(左側)にホワイトハウスシークレット・サービスのビル・グリアー、その助手席(右側)に同じシークレット・サービスのロイ・ケラーマンが乗車した。

この時、「バブルトップ」と呼ばれる透明な防弾カバーをつけることを事前にダラス市警察本部とシークレット・サービスから提案されたが、ケネディの側近が拒否したために、屋根をつけるかどうかはその日の天気次第とされていた。当日のダラスの天気予報は終日雨の予報であったが到着の1時間前から天候は回復し、空は晴れあがり結局リムジンにバブルトップが付けられることはなかった。このケネディ側近の決定と、当日の天候の急変が、結果的にケネディ暗殺を成功させてしまうことになった。

市内パレード

暗殺事件現場のディーリー・プラザ。パレードの方向は黒の矢印、赤い四角が犯人がいたとされる教科書倉庫ビル、赤いバツ印2か所が狙撃された地点

ラブフィールド空港からのパレードには合計12台 の車が参加して、車列の先頭が先導する白バイで次にシークレット・サービスだけが乗った車で、その次が大統領夫妻が乗ったリンカーン・コンチネンタル、その後ろに再びシークレット・サービスが乗った車、そしてその次にジョンソン副大統領とレディバード夫人が乗った車を中心にパレードの車列は11時50分にラブフィールド空港を出発し、ダラス市内を時速16キロメートル(時速10マイル)前後のスピードを保ったまま、ダラス・トレードセンターに向かってゆっくりと進んだ。

ダラスの至る所、ルートに沿ってケネディに批判的ないくつかの団体がプラカードを掲示しビラを配布した。手製の抗議サインは車列の見物人達によって高く掲げられた。しかし車列は、ケネディが数人の修道女および数人の児童と握手するために2度止まる以外はほとんど何事もなくその全ルートを通過した。大通りに入ったリムジンの前に1人の男性が走り寄ったが、シークレット・サービスによって地面へ押し倒され車列から遠ざけられた。しかし全体としては歓迎ムードで、後にコナリー知事は「心からの温かさ、理解、敬意を示す大変な数の市民が繰り出していた。大統領もジャクリーン夫人も心から喜んでいる様子であった。」と語っている。ネリー夫人は大統領の方を振り返り「これでもうダラスがあなたを歓迎していないって、おっしゃらないでしょうね」と言うと大統領は「もちろん。考えていませんとも」と答えている。

12時30分にケネディのリムジンはメイン通りからディーリー・プラザに入って右折し、ヒューストン通りをテキサス教科書倉庫ビルの正面にゆっくり進んだ。そして次にリムジンはゆっくりと左折して、エルム通りに入り、教科書倉庫ビルからわずか20メートル離れた位置に達した。

狙撃

最初の銃弾が命中し喉を押さえるケネディ大統領。「ザプルーダー・フィルム」から
後方の車からリムジンに飛び移る護衛官のクリント・ヒル

リンカーン・コンチネンタルが教科書倉庫ビルの前を通過した時、およそ6 - 9秒の間にケネディは狙撃された。狙撃の間リムジンの速度は時速14キロメートル(時速9マイル)から時速21キロメートル(時速13マイル)であった。ウォーレン委員会はその後、3発の銃弾の内1発は車列を外れ、1発がケネディに命中貫通してその後コナリーを傷つけ、最後の1発がケネディの頭部に致命傷を与えたと結論を下した。ほぼ全ての者がケネディに少なくとも2発の銃弾が命中し、頭部への銃弾で死亡したことを認めている。

犯人が最初の第1発目の発射後、群衆から様々な反応が起こった。多くの者は後に爆竹かバックファイアが鳴ったと思ったと証言している。リムジンに乗っていた大統領夫妻や知事夫妻は一斉に右方向を向き、大統領は喉を押さえるように両腕を開き胸に当てて頭を下向きにして苦しい顔になり、一瞬何が起こったのか判らず大統領の顔を覗き込むジャクリーン夫人だった。その前列では撃たれたコナリー知事が「ノー、ノー、ノー!大変だ、皆殺しにされるぞ!」と叫び、その声で運転していたビル・グリアーは素早く振り向き、叫んでいる知事と大統領を確認して前方を見た。その時に一瞬彼はブレーキを踏んでおり、再び後方を振り向くとケネディが頭部に致命傷を負う瞬間を実際に目の前で目撃することとなった。

犯人が狙撃したと言われる教科書倉庫のビル。6階右端の窓から撃ったと目撃されている。

大統領に命中した第2発目がケネディの右側頭部を貫通すると、彼はわずかに前傾し、彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになり、その後座席後方のクッションに垂直にぶつかり、すぐに妻のいた左側に崩れ落ちた。ジャクリーン夫人が動転して後方に目を移し、オープンカーの後方のトランクに這い出た(この時、夫人はトランクに飛び散ったケネディの頭部の骨片を手にしており、病院到着後に医師に渡している)。1発目の直後に後続の車を降りて駆け寄った護衛官のクリント・ヒルが、夫人が這い出るのとほぼ同時にリンカーン・コンチネンタルに追いついてトランクに飛び乗って夫人を座席に押し戻し、パークランド・メモリアル病院へ向かうよう指示した。

テキサス教科書倉庫ビルの前は芝生の広場で通称ディーリー・プラザと呼ばれている。この広場の道路をパレード中の大統領が市民の目前で撃たれてすぐにリンカーン・コンチネンタルが猛スピードで走っていくところを多くの市民が見て、エルム通りはパニックに陥り、パレードを見に来ていた市民が一斉にディーリー・プラザをかけ抜けていった。地元ダラス警察の白バイ隊員がバイクを置いてその場で拳銃を取り出して構えたが、何がどうなったのか分からず警察官もパニックになっていた。

大統領の被弾

大統領が最初の弾を受けた時は喉に手を当てようと両腕の肘が上に向かっている。背中の上部から喉仏に貫通したと見られているが、この1発だけの被弾であれば致命傷に至らなかったとも言われている。2発目が大統領の右側頭部を貫き、大統領の頭部はひどく破壊され、これが致命傷になった。狙撃の瞬間をたまたま8mmフィルムで撮影していたエイブラハム・ザプルーダーのいわゆるザプルーダーフィルムの映像(後述)では、被弾した際に大統領の身体が一瞬後方に動いて、その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、オズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。ただし、ザプルーダーフィルムのコマ番号313は血しぶきなどの飛沫は前方に飛び散っている。

夫人の証言

ジャクリーン夫人は後にウォーレン委員会での証言で「銃撃は2発しかなかったと記憶している」「1発目が当たった時、彼がちょっと訝しげな表情を顔に浮かべていて片手が上がっていた」「2発目で吹き飛ばされた彼の頭蓋骨を押さえようと彼の髪をしっかり押さえて、彼の頭を膝に載せて車内で伏せていた」と述べて、後方に這い出したことは「そのことは全く覚えていない」と説明している。

記録された暗殺(ザプルーダー・フィルム)

大統領一行がダラスに到着した時に、地元のラジオおよびテレビ局は空港での到着の模様は中継放送したが、市内パレードの中継はしなかった。そして目的地のダラス・トレードセンターの昼食会の会場にテレビカメラを設置して昼食会を中継する予定であった。後にKBOX-AMはその日のニュースの抜粋で銃撃の音をLPレコードで放送したが、それはオリジナルの録音ではなかった。車列の後方の車に乗車した各メディアの記者やカメラマン を除いて、ほとんどの報道機関はトレードセンターでケネディの到着を待っていた。

しかしながら、ディリー・プラザでの暗殺現場はサイレントの 8mmフィルムに26.6秒間記録されていた。アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーが撮った物である為、後にザプルーダー・フィルムの別名で呼ばれるようになった。

FBIはザプルーダーが使っていた8ミリカメラが毎秒18.3コマで動いていたことから、暗殺時の大統領のリムジンの速度は時速11.2マイル(18キロ)であったと推測した。そしてザプルーダーフィルム全486コマから各コマに番号を確定して、大統領が頭部に致命傷を負った弾を被弾したコマを番号313 と指定した。そして大統領が1発目の銃弾を受けたのが番号210から224の間と確定した。1発目は道路標識に遮られて、被弾した瞬間の大統領の様子は写っていない。大統領の顔が再び写っていたのは番号225で明らかに撃たれている様子であったため、それ以前に撃たれたと見られている。そしてコナリー知事が被弾したのは番号240であることが分かった。

これは事件直後にFBIが3発撃ち込まれて、1発目が大統領へ、2発目が知事へ、3発目が再び大統領へ当たったという報告と矛盾することとなった。オズワルドが撃ったとされるライフル銃 で連射した場合、「好機をとらえた二発の命中弾」の最低限の時間は2.3秒でザプルーダーフィルムで42コマが必要であった。ここに当初考えられた単独の狙撃犯ではなく、別に狙撃犯がいたのではと考えられることとなった。

暗殺を現場で目撃し記録した者は、ザプルーダーだけではなかった。いずれも、ザプルーダーのフィルムに比べて遠くからではあるが、狙撃の瞬間をフィルムに撮影した者は他に3人いることが知られている。その他にも、暗殺時刻あたりで現場やその周辺をフィルム撮影した者は、ディーリー・プラザに多数いたことが知られているほか、暗殺時ケネディの車列が通行していたエルム通りの南側で、身元不明の青い服を着た女性がフィルム撮影を行っていたことが分かっている。写真(静止画)撮影も多くの人々によって行われている。事件発生時、ディーリー・プラザには32人ものプロ、アマの写真家がいた。その中でプロの写真家は、アイク・アルトジェンというダラスのAP通信のジャーナリスト唯一人であった。アルトジェンが撮影した写真は、この暗殺事件を撮影した写真の中でも最も有名なものの一つである。

沿道の負傷者

暗殺を目撃した市民の1人であるジェームズ・ターグ(James Tague)は、ケネディが銃撃された位置から前方およそ80メートルの地点に立っていたが、発射弾の破片によると思われる傷を右の頬に受けた。ただし、これは発射された弾の破片ではなく、弾が近くの橋の支柱に当り、その支柱のコンクリートの破片が飛んできたものであった。彼はすぐに地元警察に報告したが、その後は警察からの尋問はなく、翌年のウォーレン委員会でもほとんど無視されている。

その他の目撃者

メアリー・モーマンが撮影した画像

ディーリープラザでの目撃者で、直接ライフル銃を構えて撃っている姿を見た人として、ハワード・ブレナン がいる。彼はちょうどヒューストン通りからエルム通りに入る角の壁の上に腰掛けていたが、1発目の音はオートバイのものだと思い、2発目の音は花火のような音に聞こえて上を見上げた時に、教科書倉庫ビルの6階窓から「ある種の高性能ライフル」を構え「左の窓の下枠に体をあずけ、銃を右肩にあてて、左手で銃を支えながら、最後の1弾を発射しました」とウォーレン委員会に証言している。彼の場所から教科書倉庫ビル6階までは直線でわずか35メートルの距離であった。彼はその直後に警察官に通報して、警官が教科書倉庫ビルに入ると同時に、ブレナンが見たライフルで撃った男の人相や風体が警察無線で市内のパトカーに伝わった。

またこの教科書倉庫ビルでオズワルドの仕事仲間が5階でパレードを見ていた時に、上の階からライフルのボルト(遊底)が引かれ、また押し込まれる音を聞き、また空薬莢が床に落ちる音も聞いている。翌年ウォーレン委員会が直接現場で実験したところ上の階でのライフル銃の操作の音も薬莢が床にゴツンと落ちる音も驚くほど聞こえることが分かった。

大統領が撃たれた所から前方にある草の生えた丘の上(グラシー・ノール、grassy knoll)から発砲があったとする複数の証言がある。ジーン・ヒル(Jean Hill)はグラシー・ノールから銃声がしたとウォーレン委員会において証言し、後に男が銃撃したと述べている。また狙撃時にパレードの前方にあったトリプル・アンダーパスの陸橋にいたサム・ホランド(Sam Holland)はアーケードの背後(behind the arcade)の木立から煙が上がったと証言し、同じ場所にいたオースティン・ミラー(Austin Miller)も煙かスチームを見たと証言した。この他にダラス市警の制服警官ジョー・スミス(Joe Marshall Smith)はグラシー・ノールでシークレットサービス(当日は配置されていなかった)を名乗る私服の男を見たと証言した。ウォーレン委員会では、この場所で結局物的証拠が全く見つからず、また当時この場所で数人の見物人が立っているので誰にも見つからずにライフル銃を発射できたとは想像できないとして重要視しなかった。

メアリー・モーマン は、頭部に致命傷を受けた直後(約0.17秒後)の大統領と背後のグラシー・ノールをポラロイド写真機 で撮影した。その際、暗殺犯とその発砲の瞬間 が撮影されたとする説がある。研究家ゲーリー・マック(Gary Mack)は「モーマン写真」を拡大すると「フードをかぶり、緑色のグローブを着用した人物と煙かマズルフラッシュ(発射炎)のような像」が確認できることを発見した。この説は1988年にEngland's Central Independent Televisionが製作したTVドキュメンタリー「The Men Who Killed Kennedy」でも紹介されたが、この像は人間ではないとする説もある。またゴードン・アーノルド の証言 やロスコー・ホワイト と結びつける主張もある。いずれにせよこの射撃について分かってることが少なく訓練された兵隊でも難しい射撃であることは間違いないだろう。

防弾カバー使用拒否

透明な防弾カバーをかぶせたリンカーン・コンチネンタルのオープントップ・リムジンに乗るケネディ(1963年6月27日、アイルランド訪問時)

事件後に、ケネディ専用のリンカーン・コンチネンタルのオープントップ・リムジンに、透明な防弾カバー「バブルトップ」をかぶせていなかったことが問題となった。

前述の通り、当初所轄のダラス市警察本部とシークレット・サービス(大統領付き護衛隊)は、狙撃や投石などに対する治安上の見地から、無防備なオープントップでのパレードではなく、透明な防弾カバーをオープントップにかぶせた上でパレードを行うよう主張した(なおこの様な防弾カバーは、これまでに数回利用されていた)。

実際に前月にダラス市を訪れたアドレー・スティーブンソン国連大使が暴漢に殴られたり、11月22日のダラス・モーニング・ニューズ紙上に、反ケネディ派による、ケネディ大統領を「お尋ね者」とする黒枠付きの全面広告が掲載されるなど、反ケネディ派による襲撃が懸念されたにもかかわらず、翌年に再選に向けた選挙を控え、国民に対して「親しみやすいイメージ」と「毅然としたイメージ」をアピールしたいと願っていたケネディ大統領とその側近は、ダラス市警察本部とシークレットサービスによる防弾カバー使用の主張を退け、この日に「バブルトップ」を使用するのは、雨天の場合に限られることとなってしまった。

さらに当日は当初は雨の予想であったが、ケネディの到着とそれに先立つ専用車運搬専用機のフェアチャイルドC-123の到着時には雨が止んでいたので、「バブルトップ」が装着されることはなかった。

国民に対するイメージを重視して、安全を軽視することとなったケネディ大統領とその側近によるオープントップ・リムジンの防弾カバーの使用拒否が、結局ケネディ大統領の運命を決定することとなった。

ティピット巡査の死とオズワルドの逮捕

リー・ハーヴェイ・オズワルド

ダラス市警察とFBIは現場で、付近のビルを直ちに出入口を閉鎖して不審尋問を始めた。銃声がした方角からテキサス州立公立学校教科書倉庫ビルに第一の容疑がかかり、数人の警官がすぐにビル内に捜索に入った。ダラス市警察のマーチン・ベーカー警察官はオートバイで伴走中に狙撃されるとすぐにオートバイを止めてビル内に入り2階の従業員食堂でコーラをラッパ飲みしていた男を見つけて、横にいたビルの支配人 に聞くと「この男はうちの従業員でリー・ハーヴェイ・オズワルドです」と支配人は答えた。

警官はそのまま上の階に上がっていった。警官たちは、まさかテキサス教科書倉庫ビルの従業員が犯人であるとは思わなかった。当然外部から入り込んだ人間の犯行という考えがあった。この時狙撃からほぼ3分が経過していた。そして6階の部屋(段ボール箱が山積みされた倉庫)からライフル銃1丁と弾丸の薬莢3個を発見 して、また、窓の手前に段ボール箱を積んでその上にライフル銃を安定させた跡があった。

すぐに従業員の点検が行われて、1人だけ姿が消えていることが判明した。つい先ほど食堂にいたリー・ハーヴェイ・オズワルドが何故か居なくなっていた。オズワルドのその後の足どりは、12時33分に警官が居たビルの出入口をすり抜けて、歩いて近くのバス停に行き、12時40分にバスに乗ったが大統領暗殺事件の混乱でバスが進まず、12時44分にすぐに降りて12時48分にタクシーに乗り、下宿先の自宅に帰ったのが13時頃で、下宿の管理人ロバーツ夫人 はオズワルドが息を切らして帰ってきたことを見ている。ここからすぐに着替えて再び出て、13時30分頃にテキサス劇場という映画館に入っている。この間の13時20分にダラス市警に男性の声でパトカーの警官が撃たれて死んでいるというパトカーの無線通信を使った緊急連絡が入り、出動した警察官がダラス市警察のJ・D・ティピット巡査(en:J. D. Tippit)の死体を確認している。ほどなく映画館の切符売りの女性から切符も買わずに館内に入った不審な男がいるとの緊急連絡が入り、警官隊が映画館を包囲して中に入り、照明を明るくして座席に座っている客を1人1人調べ始めると、突然殴りかかってきた男がいて格闘の末取り押さえた。こうして13時40分にオズワルドは逮捕された。ケネディ狙撃の70分後に現場近くの劇場での逮捕であった。J・D・ティピット巡査はオズワルドの逃走でダラス市警から緊急に各警察官にオズワルドの手配が行われた時、オズワルドによく似た男を見かけて、パトカーを下りて訊問しようとして撃たれ3発の銃弾を浴びて即死であった。これを直接目撃したのが、ヘレン・マーカス という女性で、その日夜遅くにダラス警察本部でオズワルドと面通しして確認している。この他に6人の目撃者がオズワルドを確認している。

リー・ハーヴェイ・オズワルドの訊問はこの22日深更までほとんど休みなしで続けられ、この日の18時30頃にダラス市警のJ・D・ティピット巡査を殺害した容疑で告発され、その夜遅く23時30分頃に大統領暗殺容疑で告発された。しかしオズワルドはケネディ大統領殺害もティピット巡査殺害もどちらも頑強に否定した。

パークランド病院

ダラス市の北西部にあるパークランド病院は、隣りにテキサス大学医学部があって、病院はその付属病院であり、医師たちは全てテキサス大学の教授ないし助教授であった。また、当時この病院は、1日に300件 の急患を取り扱うことができる、全米でも屈指の設備を擁していた。そこへ瀕死のケネディ大統領らを乗せたリムジンがパトカーや白バイの先導で慌ただしく病院に到着したのは、12時37分頃 で、この時に後ろの車から駆け付けたパワーズ補佐官は、ジャクリーン夫人が大統領の頭を胸の中に隠すようにうずくまる姿を見て「Oh My God(おお神よ)」と呻き、ジャクリーンは「Dave, He is dead(デーブ、彼は死んでいるわ)」と語って、大統領の顔を誰にも見せようとはしなかった。

車のドアに近かったコナリー知事を運び出した後に、大統領を担ぎ出そうとしたが動転したジャクリーンが動かなかったので、クリント・ヒルが自分のスーツを大統領の頭に掛けて他の誰にも見せないようにして、やっと車から大統領の身体を降ろした。そしてケネディ大統領は救急室の第1手術室に運び込まれて、神経外科ウイリアム・クラーク部長、麻酔科M・T・ジェンキンス主任らが見守る中で外科手術担当のジム・カリコ医師 が最初に大統領を診察した。この時12時43分であった。

大統領はすでに昏睡状態で呼吸は非常に微弱、心臓の鼓動は聴診器で当てなければ聞こえない。後頭部は砕かれて、血がどくどくと流れ、手押し車の上を流れて床を濡らしていた。銃弾がどんな損傷を引き起こしたかは想像出来なかった。すぐに2つの外傷を認めた。1つ目は頸部の基底、2つ目は大きくて脳の繊維質の細片が飛び出している状態で頭蓋の前壁に孔を開けたと考えられた。カリコ医師はまず以前に大統領が副腎機能低下症にかかっていると新聞記事で読んだことを思い出してハイドロコーチゾンを注射した。

そしてジョーンズ医師がカテーテルを挿入するために大統領の左腕に入り口を開けて、カーチス医師が左足 にも同じ処置をして、血液銀行から大統領と同じ血液型のRhマイナス型の血液が届き、すぐに輸血が開始された。その時、カリコ医師が大統領の首の傷のところから泡が出ていることを見つけた。これは肺の中に穴が空いていることを意味して、急ぎマルコム・ペリー医師 が気道を確保するために気管切開を行った。

その時にのどの内部を喉頭鏡で調べながら彼は喉頭の下の気管に恐るべき傷を見たが、この破損部にもすぐにチューブが差し込まれた。気管の傷はひどいもので、肺の中に血と空気が圧縮していた。そしてピータース医師とチャールズ・バクスター医師が胸の右上部にチューブを挿入した。これは肺から血液と空気を取り除く処置である。人工呼吸はすぐに行われ、大統領の肺に電気ポンプで空気が注入された。もっと早めるため手でポンプを持った。神経外科のクラーク部長が大統領の両眼を見て「目が膨張して凝固している」と述べた。アキレス腱はほんの少しの反応も示さなかった。この時に心電図は取り付けられていたが微動だにしない状態であった。ペリー医師が心臓マッサージを行ったが、心電図の画面は空しく波がなく横にただ移動するだけであった。クラーク部長は「もう手遅れだ。手の施しようがない」とペリー医師に語り、大統領の死亡を告げた。この時12時50分であった。

パークランド病院第一外傷室の係員は、後に病院に担ぎ込まれた時にすでにケネディが「瀕死」状態だったと語った。ある医師は「我々には彼の命を救う希望が持てなかった」と語った。これは病院に到着したときすでに生存の可能性がなかったことを意味する。大統領が瀕死状態で到着して、死亡宣告、そして司祭が終油の秘蹟を与え終わるまで、わずか23分間の短い時間であった。そして大統領の治療に当たった医師たち が、銃撃による入口と出口の傷の判定や死因の法医学的な評価を十分くだせるような診断も、検査測定も、写真撮影も、病院では行われなかった。

死亡が確認されてジャクリーン夫人の希望で地元ダラスのカトリック教会のヒューバー司祭とトンプソン神父が病院に呼ばれ、枕元でケネディに病者の塗油(終油の秘蹟)を与えた後、医師団の判断で儀式を終えた13時00分を大統領の死亡時刻とすることが決まり、大統領の死亡診断書にはクラーク神経外科部長が署名した。ケネディに終油の秘蹟を行ったヒューバー司祭は、大統領は病院到着時既に死亡していたと後にニューヨーク・タイムズに語った。ところで、治療に当たったペリー医師は、直後の記者会見で「大統領は前方から撃たれたようだ」と語り、後に「銃弾がどこからきたか判断に必要な傷を調べていない」として取り消している。

一方大統領のリムジンに同乗していたコナリー知事 は救急室の第2手術室に運び込まれ、その日の内に2度の手術が行われて、一命を取り止めた。コナリーの負傷はケネディの最初の負傷直後に発生した(同一の弾丸によるものと考えられたが、これには疑問が提示され議論の対象となっている。「魔法の銃弾」参照)。その後医師は、コナリー夫人が彼女の膝の上に知事を引き上げたことで、胸の傷(傷口から直接肺へ空気が流入していた)が閉じられ、結果として知事の生命を救うこととなったと語った。

パークランド病院に大統領が担ぎ込まれた時に、シークレットサービスの2人が急ぎ軽機関銃を持って病院内に入り、手術室まで入って関係者以外の出入りを禁止したが、1人の平服の男が入ってきたので、あわてて胸ぐらを掴んで殴り倒す一幕があった。この殴り倒された男は直後に身分証明書を見せて「FBIだ」と名乗り、病院から急ぎFBIのフーバー長官に電話で報告した。誰もが興奮して殺気だっていた。

ケネディ狙撃の速報と死去報道

ダラス市内でのパレードで大統領が狙撃されてから数分後には、全米のラジオとテレビで「ケネディ大統領が撃たれて重傷を負った」との速報が相次いで出された。

大統領の車がパークランド病院に向かっている時に、パレードの後ろの車に乗っていたUPI通信のスミス記者が「ケネディ撃たれる」の速報を打電し、12時35分には地元ダラスのラジオ局KBOXが放送中に「何か、パレード中に起こったようです」と最初にアナウンスしている。12時36分にはABCがラジオで臨時ニュースで報道し、後に暗殺事件調査委員会委員長となるウォーレン最高裁長官は、12時37分にMBSラジオ でその第一報を聞いた。

12時38分、CBSのニューヨーク本局にいたウォルター・クロンカイトは、UPI通信スミス記者の打電を受けてすぐにテレビで速報を出す決意をしたが、テレビカメラを動かすのに時間がかかるので、ラジオのスタジオに入り、音声だけで「CBS NEWS BULLETIN」(CBSニュース速報)をテレビに流した。この時、ダラス時刻12時40分(東部標準時13時40分)でケネディ大統領がパークランド病院に担ぎ込まれた時であった。それは次のレポートであった。

「Here is a bulletin from CBS News. In Dallas, Texas, three shots were fired at President Kennedy's motorcade in downtown Dallas. The first reports say that President Kennedy has been seriously wounded by this shooting.」

ほぼ同じUPI通信のレポートをNBCテレビは12時45分に最初の速報で放送している。この頃には全米で大きな混乱が巻き起こり、ワシントンD.C.では、12時43分(東部標準時13時43分)から電話網が59分間散発的になった。回線はニューヨークを経由させることとなったが、結局つながらなかった。人々は最新の情報を得るためラジオやテレビに張り付いた。ニューヨークでは車のカーラジオに歩行者が集まって来て、刻々とニュースが流れるのを聞き入っていた。

12時53分(東部標準時13時53分)には、NBCテレビがニューヨークのスタジオからの報道体制に入り、テレビカメラが動かないので、しばらくは固定画面で音声だけのもので、12時57分に画面が3人のアンカーマン を映し出し、3人が揃って各通信社の打電文とダラスからの電話レポート、ラジオが伝える情報を次々と報道した。

CBSテレビとABCテレビも、13時(東部標準時14時)には通常番組を切り替えてスタジオからの報道体制に入った。ABCテレビは夕方のイブニングニュースのアンカーマンであるロン・コーチャンがレストランで食事中に速報を受けて急遽スタジオに入り13時08分から報道していた。

CBSテレビは昼食会場であった「ダラス・トレードマートセンター」にカメラを配置していたのでそこから当時CBSダラス支局長であったダン・ラザーがレポートしていた。そしてダン・ラザーはジャクリーン夫人付きの警護担当者が語ったケネディ大統領死去の第一報を伝えている。この時はまだ公式な情報ではなかった。ニューヨーク本部にいたウォルター・クロンカイトは「ダラス・トレードマートセンター」からのレポート以外は報道室からずっと喋っていた。CBSの報道体制が整った時に、これより前にすでにジャクリーン夫人付きの警護担当者がケネディが死亡した模様だと語ったとUPI通信が打電し、地元ダラスのテレビ局WFAA-TVのジェイ・ワトソン が12時58分に伝えている。

そしてケネディ大統領に終油の秘蹟を行った司祭がパークランド病院を出た直後に、取り囲まれた報道陣の質問に答えて大統領の死亡を伝え、これが直接大統領の死去を確認したものであったので、13時30分過ぎにこの情報はすぐにテレビやラジオを駆け巡った。ABCテレビではこの情報が入った13時33分に大統領死去(ケネディの顔写真と下に1917〜1963と記されていた)と伝えた。ただいずれも非公式な情報で、生存説と死亡説が両方飛び交う状況が続いた。NBCテレビは13時35分に、この司祭からの情報とダラス警察の情報から、ダラスのWBAPテレビのチャールズ・マーフィー記者が「The President kennedy died」と伝えた。

この時とほぼ同時の13時33分、パークランド病院の一室で、今回の大統領一行の随員であったホワイトハウスのマルコム・キルダフ副報道官が報道陣を集めて「ケネディ大統領は本日午後1時に死去しました」と公式発表を行った。キルダフは顔面蒼白で今にも泣きだしそうな表情でわずか3分の短いケネディ政権最後の記者会見であった。

死亡した同じ時刻13時(東部標準時14時)から大統領狙撃の報道特別番組を放送していたCBSのウォルター・クロンカイトは、それまで死亡説の情報が入っても未確認情報として慎重な姿勢で「still alive」「critical condition」と伝えていたのが、13時38分(東部標準時14時38分)に報道室に届いたこの公式発表のAP通信至急電を読み、途中メガネをはずして「ケネディ大統領は中部標準時の午後1時に亡くなりました」と述べたのに続けて、報道室の右上の掛け時計(この時、午後2時38分を指していた)を見ながら、「東部標準時では午後2時ですので38分前の事です」と言って絶句し涙ぐんだ。

「From Dallas, Texas, the flash, apparently official: "President Kennedy died at 1 pm. Central Standard Time." 2 o'clock Eastern Standard Time, some 38 minutes ago.」

「大統領撃たれる」の第一報が入ってからその対応で報道室から1人で喋り続け、寒い11月下旬なのにスーツの上着を着る余裕もなくワイシャツ姿で伝え続けたこの時のテレビ映像は、その後「ケネディ暗殺」の象徴的映像となった。

同じ時刻にNBCテレビでは、パークランド病院の電話回線を使っていたが、電話の相手側の声がどうしてもテレビの音声に入らないのでキャスターのフランク・マギーがNBCロバート・マクニール記者の電話報告を一言一句繰り返し復唱して公式発表を伝え、レポートが終わって受話器を置いた瞬間にショックから涙をこぼした。

ケネディ大統領死去の公式発表に、全米は大きな衝撃と深い悲しみに包まれた。

なおケネディ政権最後の記者会見を行い、大統領死去の発表を行ったマルコム・キルダウ副報道官は、席次でいえば3番目のスポークスマンで、いつもの首席報道官ピエール・サリンジャーは東京での日米貿易経済合同委員会に出席するため、飛行機でラスク国務長官らと日本に向かっている時であり(この暗殺事件で途中で急遽引返した)、次席副報道官アンドルー・ハッチャーは首都ワシントンに留守番として残り、普段はあまり記者会見の場で立つことの無い人であった。また、彼が大統領死去の直後にパークランド病院内で、発表のタイミングを詰めるためジョンソン副大統領のところへ行った時に、「ミスター…ミスタープレジデント(大…大統領閣下)」と声をかけたことは有名な話である。ここですでに新大統領となったジョンソンと打ち合わせて、ジョンソンがパークランド病院を出た直後に記者発表することとなった。

ケネディ兄弟への通報

司法長官であった実弟のロバート・ケネディは自宅で、FBIのフーバー長官 からの電話で、狙撃の第一報を知らされた。フーバー長官のもとへ第一報が入ったのは、病院からの報告より早くFBIダラス支局からのもので、長官はすぐにワシントン郊外のヒッコリーヒルのロバートのもとへ電話した。最初に出たエセル夫人からロバートにフーバーからの電話と知った時、それがFBI長官からの初めての電話であったのですぐに重要な話であることを感じたが、フーバーの口調はかなり事務的な雰囲気でそれほど興奮したものでなかった、と後にロバートは苦々しく回想している。その直後にパークランド病院に電話して、警護官のクリント・ヒルを呼び出している。この時に「クリント、そっちで何があった?」「重傷とはどういうことだ?どれくらい悪いんだ?」と聞いてクリント・ヒルは「最悪です」と答えている。

エドワード・ケネディはこの日、上院本会議の議長席にいて、13時42分(東部標準時・ダラス時刻12時42分)に通信社からの至急電を持った議会スタッフのリチャード・リーデルより伝えられた。すぐに休会が宣言されてマンスフィールド 民主党院内総務の提案で議会付きの牧師を呼んで祈りを捧げ「…彼の命脈が未だ尽きざらんことを」で

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出典:wikipedia
2018/10/20 13:59

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