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ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとは?

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
: Georg Friedrich Händel
: George Frideric Handel


肖像画(1733年)

【基本情報】

【生誕】
1685年2月23日
【出身地】
神聖ローマ帝国
マクデブルク公国、ハレ・アン・デア・ザーレ
【死没】
(1759-04-14) 1759年4月14日(74歳没)
グレートブリテン王国ロンドン
【ジャンル】
バロック音楽
【職業】
作曲家
署名
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
ハレのヘンデル像
テムズ川上のジョージ1世とヘンデル(19世紀の想像図)
ウィリアム・ホガースによるカリカチュア(1724年)。左がヘイマーケット国王劇場でヘンデルのオペラとハイデッガーの仮面舞踏会(ほかにアイザック・フォークスの奇術ショーの看板も見える)、右がリンカーンズ・イン・フィールズ劇場でジョン・リッチ一座のハーレクイン劇『フォースタス博士』に行列ができている。手前ではドライデンシェイクスピアの本が紙屑として売られている。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel [ˈɡeːɔʁk ˈfʁiːdʁɪç ˈhɛndl̩] ( 音声ファイル), 1685年2月23日 - 1759年4月14日)は、ドイツ出身で、主にイギリスで活躍し、イギリスに帰化した作曲家。英語では(George Frideric (Frederick) Handel [ˈhændᵊl])。バロック音楽における最も重要な作曲家のひとりであり、特にイタリア語オペラ・セリア英語オラトリオの作曲によって知られる。

生涯

ハレ・ハンブルク時代

1685年、現ザクセン=アンハルト州(当時はブランデンブルク=プロイセン領)のハレに生まれた。ハレはもとマクデブルク大司教領の中心都市で、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の子のザクセン=ヴァイセンフェルス公爵アウグストによって支配されていたが、1680年のアウグストの没後はブランデンブルク=プロイセンの領土になった。ヘンデルの父のゲオルクははじめアウグストの外科医(床屋を兼ねる)かつ従僕だったが、アウグストの死後はその子のヴァイセンフェルス公爵ヨハン・アドルフ1世に仕えた。父は1697年に没している。

ヘンデルは幼少時から非凡な音楽の才能を示していたが、父は息子を法律家にしようと考えており、息子が音楽の道へ進むことには反対していた。しかし、幸いなことにヴァイセンフェルス公爵がヘンデルのオルガン演奏の才能を気に入り、ヘンデルは公爵の援助のおかげで音楽の勉強を続けることができたという。ヘンデルはハレの聖母マリア教会のオルガニストであったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウに作曲とオルガン、チェンバロ、ヴァイオリンの演奏を学んだが、じきに師をしのぐほどになった。

1702年にハレ大学に入学したが、同年ハレ大聖堂のオルガニストを1年間の契約でつとめる。この頃に始まったテレマンとの交友は終生続いた。翌1703年、ヘンデルはハンブルクへ出た。当時のハンブルク・オペラの中心的な作曲家はラインハルト・カイザーであり、ヘンデルはその影響を受けた。ハンブルク時代にはヘンデルの最初のオペラ『アルミーラ』が1705年1月8日に上演され、成功した。同年2月には次のオペラ『ネロ』(現存せず)が上演されている。翌1706年にも2つのオペラを作曲しているが(1708年上演)、これらも現存しない。ハンブルクではまたヨハン・マッテゾンと親友関係にあったが、マッテゾンのオペラ『クレオパトラ』(1704年)の上演中に2人は喧嘩を始めた挙句、決闘で刺殺されそうになったことがある。しかし後に和解している。

1703年にヘンデルはマッテゾンとともにブクステフーデの後任オルガニストになるためにリューベックに旅行しているが、ブクステフーデの娘との結婚が条件とされていると聞いて逃げ出している。2年後にバッハも同じ経験をしている。

イタリア時代

1706年から1710年までイタリアの各地を巡った。ヘンデルの正確な足取りは明らかでないが、フィレンツェローマヴェネツィアナポリを訪れたらしい。ローマでは当時オペラの上演が禁止されていたため、ここでヘンデルは最初のオラトリオ『時と悟りの勝利』を作曲している。ローマではまたコレッリに会ってその影響を受け、またドメニコ・スカルラッティと鍵盤楽器の競演を行っている。チェンバロの腕前については評価が分かれ、スカルラッティの方が優れているとする者もあったが、オルガン演奏についてはヘンデルが圧倒し、スカルラッティ自身がヘンデルの強い影響を受けたという。再びフィレンツェのココメロ劇場で、ヘンデル最初のイタリア・オペラ『ロドリーゴ』が上演された。1708年にはオラトリオ『復活』が上演されている。1709年にヴェネツィアで上演されたオペラ『アグリッピーナ』は大成功を収め、連続27回も上演された。イタリア・オペラの中心地のひとつであるヴェネツィアで外国人の作品がこれほど成功するのは異例であった。ほかにカンタータなども発表した。

ロンドンへ

1710年、25歳のヘンデルはハノーファー選帝侯宮廷楽長となったが、ハノーファーには落ち着かず、ハレで年老いた母を訪れた後、デュッセルドルフに滞在し、その年の暮には初めてロンドンを訪れた。ここで書かれたオペラ『リナルド』は1711年2月14日に初演され、15回の上演を数える大成功となった。6月にオペラのシーズンが終わるとデュッセルドルフを再び訪れた後にハノーファーに戻った。

翌1712年11月には再びロンドンを訪れ、ハノーファーに帰る約束があったにもかかわらずそのままイギリスに住み着いた。1714年アン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになるが、ヘンデルは2年以上もハノーファーを留守にしていたことを咎められることなく、新国王とは良好な関係を保った。1727年には正式にイギリスに帰化した。

1716年にジョージ1世はハノーファーに戻り、ヘンデルも久しぶりにハノーファーを訪れている。ロンドンに戻った後の1717年には『水上の音楽』が演奏された。ロンドンのオペラはいったん下火になるが、ヘンデルは、後にシャンドス公爵となるジェイムズ・ブリッジズの住み込み作曲家として『シャンドス・アンセム』や仮面劇を作曲した。

1720年には貴族たちによってオペラ運営会社「王室音楽アカデミー」が設立され、ヘンデルはその芸術部門の中心人物となった。ヘンデルはアカデミーのために歌手と契約を結ぶために1719年にドイツを訪れた。バッハがヘンデルに会おうとしたと伝えるのはこの時のことだが、結局会うことはなかった。またアカデミーのための音楽の大部分はヘンデルが作曲し、『ラダミスト』『ジューリオ・チェーザレ』『タメルラーノ』『ロデリンダ』をはじめとするオペラが上演された。アカデミーにおけるヘンデルのライバルはボノンチーニであった。しかしアカデミーの経営はずさんであり、歌手同士の争いもあってロンドンのイタリア・オペラは再び衰退していった。さらに1728年に上演された『乞食オペラ』は、すでに没落していたアカデミーに最後のとどめをさし、1728年6月1日にアカデミーは倒産する。

ジョン・ジェームズ・ハイデッガーとともにヘンデルはアカデミーを建て直し、イタリアを訪れて歌手と契約を結んでドイツ経由でロンドンに戻った。一方1733年にはライバルの貴族オペラが設立される。貴族オペラの作曲家はニコラ・ポルポラであった。さらにハイデッガーも1734年にはヘンデルと決別し、それまでアカデミーのオペラを上演していたヘイマーケット国王劇場を貴族オペラに引き渡してしまう。ヘンデルはコヴェント・ガーデン劇場に移るが、貴族オペラ側はアカデミーから歌手を引き抜いた上、有名なカストラートファリネッリを迎え、アカデミー側は苦戦をしいられた。アカデミーと貴族オペラはともに1737年に倒産する。ヘンデルは同年に病に倒れ、回復後は再びハイデッガーと組んでオペラの公演を続けるが、もはやロンドンでオペラが成功することはなかった。

オラトリオと晩年

右の黒い建物がヘンデルの住んだブルック街25番地の家。左の白い建物にはジミ・ヘンドリックスが住んだ。

ヘンデルは1732年の『エステル』以来、英語のオラトリオをいくつか上演している。1734年から1738年まではオラトリオの新作を発表しなかったが、1739年はじめにオラトリオのシーズンを開き、『サウル』と『エジプトのイスラエル人』を上演した。1741から翌年にかけてダブリンで慈善演奏会を開き、このときに『メサイア』を初演して好評を得た。ロンドンに戻ってからはオペラをやめてオラトリオ一本にしぼり、ロンドンで四旬節の期間に演奏会を開き、オラトリオ作家としての名声を確立していった。一方ヘイマーケット国王劇場ではミドルセックス伯爵(en)が中心になって再びイタリア・オペラが上演されるようになり、ヘンデルの新たなライバルになった。

1749年にはオーストリア継承戦争の終結を祝う祝典のために『王宮の花火の音楽』を作曲する。

1751年に左眼の視力を失い、間もなく右眼の視力も悪化し、1752年に完全に失明したため作曲活動はできなくなったが、その後も演奏活動だけは続けていた。1758年の夏、タンブリッジ・ウェルズで眼科医のジョン・テイラーによる手術を受けたが成功しなかった(ジョン・テイラーはバッハにも同様の手術を施して失敗している)。翌1759年、体調の悪化により死去。74歳であった。ウェストミンスター寺院に埋葬された。

ヘンデルが没した翌年にジョン・マナリングによるヘンデルの伝記が出版された。音楽家の伝記が出版されることは当時としては異例であった。1784年にはヘンデルの生誕百周年を祝って大編成の管弦楽団によるヘンデル記念祭が挙行され、その後も記念祭は続けられた。サミュエル・アーノルドによるヘンデル全集は1787年から1797年までかけて刊行された。

ヘンデルは1724年以来、メイフェアのブルック街25番地に住んでいた。偶然にも1968年以降ジミ・ヘンドリックスが隣の23番地に住んでいた。現在この建物は「ヘンデル・アンド・ヘンドリックス・イン・ロンドン」という博物館になっている。

バッハとの関係

ヘンデル、ヨハン・ゼバスティアン・バッハドメニコ・スカルラッティはともに1685年に生まれた。

バッハは、1719年と1729年の2度にわたりヘンデルに面会を求めたが、最初はすれ違いになり、2度目はヘンデルが何らかの事情で面会を断ったために、同時代に活躍しながらも生涯出会うことはなかった。バッハが「音楽の父」と評されるのに対し、日本ではヘンデルを俗に「音楽の母」と呼ぶこともあるが、これは日本人がヘンデルをバッハと対等の存在として位置付ける意味で考案した呼び名であり、欧米にはこのような呼び名は存在しない。

バッハが主として教会の礼拝で用いる音楽(教会音楽)で活躍したのに対し、ヘンデルはオペラや(劇場用の)オラトリオなど、劇場用の音楽で本領を発揮した。

バッハが音楽家一族として有名なバッハ家の生まれであったのに対し、ヘンデルの家族は音楽とは無関係だった。またヘンデルは生涯独身で子供はいなかったのに対し、バッハは2度の結婚で合計20人もの子供(うち成人した子供は10人)に恵まれた子沢山の父親として知られており、両者は作曲家としての活動だけでなく私生活においても全く対照的な人生を歩んでいたと言われている。

作品について

オラトリオ『メサイア(救世主)』は曲中に有名な「ハレルヤ・コーラス」を含み、今日でも非常に有名である。オラトリオではほかに『エジプトのイスラエル人』が知られ、また『ユダス・マカベウス(マカベウスのユダ)』中の合唱曲「見よ、勇者は帰る」は、大会の優勝者を称える曲・表彰状授与のBGM(得賞歌)として日本でも頻繁に用いられている。

オラトリオにくらべて約50曲あるオペラはヘンデルの没後は大部分が忘れられてしまったが、オペラ『セルセ』(クセルクセス)中の「オンブラ・マイ・フ(懐かしい木陰よ)」は、「ヘンデルのラルゴ」とも呼ばれて親しまれている。そのほか、『ジュリアス・シーザー』、『リナルド』の中のアリア「私を泣かせてください」なども知られている。1920年からドイツでヘンデルのオペラの復活上演が行われるようになったが、その演奏や演出は18世紀のものとは相容れないものだった。イギリスでは第二次世界大戦後になってようやく復活上演されるようになった。1990年代あたりからはオペラの蘇演が非常に盛んとなり、今日では器楽曲よりもバロック・オペラの代表的作曲家として人気が高い。

オペラ、オラトリオや世俗カンタータの他、管弦楽曲としては、管弦楽組曲水上の音楽』『王宮の花火の音楽』が有名。また、合奏協奏曲、室内楽、オルガンやチェンバロのための作品がある。合奏協奏曲では作品6の12曲(1739年)がもっとも優れている。コレッリの影響が強く、ヴィヴァルディの影響は見られない。オルガン協奏曲はオラトリオの幕間にヘンデル本人が演奏するために書かれたもので、オラトリオ以上に人気があったという。教会のオルガンではなく、劇場の中の演奏会のためにペダルのない小型のオルガンを使用した。

イギリスではしばしば重要な行事でヘンデルの音楽が採用される。たとえば1981年のチャールズ王子ダイアナ妃との結婚式では『サムソン』から「輝かしい天使よ」がキリ・テ・カナワによって歌われ、2018年のヘンリー王子メーガン妃の結婚式では『アン女王の誕生日のための頌歌』の第1曲「神々しい光の永遠の源よ」がエリン・マナハン・トーマスによって歌われた。要人の葬式には『サウル』の葬送行進曲が演奏されることが多い。『ソロモン』の「シバの女王の到着」もよく使われる曲で、2012年ロンドンオリンピックの開会式でも使われた。『ジョージ2世の戴冠式アンセム』中の「司祭ザドク」は伝統的に戴冠式で使われる。サッカーUEFAチャンピオンズリーグの入場曲「UEFAチャンピオンズリーグ・アンセム」も「司祭ザドク」を原曲とする。

影響

ヘンデルは生前から高く評価され、没後すぐに神格化された。ヘンデルは名声が没後も衰えなかった最初の作曲家だった。とくにオラトリオはイギリスだけでなく、1772年にはハンブルクで『メサイア』が上演された。1773年にはカール・フィリップ・エマヌエル・バッハが『メサイア』を上演した。オラトリオは当時発達した市民レベルの合唱団に好まれた。エマヌエル・バッハは『メサイア』を何度も指揮し、これに刺激されて自らオラトリオを作曲するようになった。

1780年代にはウィーンのヴァン・スヴィーテン男爵がその私的な日曜コンサートでヘンデル作品を広く紹介し、モーツァルトがこのコンサートのためにいくつかの曲を編曲している。また、ハイドンはロンドン訪問から帰るときにザーロモンからオラトリオ『天地創造』の台本を贈られたが、この台本は本来ヘンデルによる作曲を想定して書かれたものだったという。台本はヴァン・スヴィーテン男爵によってドイツ語に翻訳され、それにつけられた音楽はハイドンの代表作のひとつとなった。

ベートーヴェンはとくにヘンデルを高く評価し、『調子の良い鍛冶屋』にもとづく2声のフーガや、『ユダス・マカベウス』の「見よ勇者は帰る」にもとづくチェロとピアノのための変奏曲を作曲した。1824年、ヨハン・アンドレアス・シュトゥンプフとの筆談において、ヘンデルがもっとも優れた作曲家だとベートーヴェンは答えたが、ヘンデル全集をベートーヴェンが持っていないことを知ったシュトゥンプフは後にアーノルド版全集を贈っている。

主な作品

詳細は「ヘンデルの楽曲一覧」を参照

ヘンデルは、楽曲を演奏するたびに大きく編成を変えることがあり、同じ曲でもさまざまな異稿が存在する。

ヘンデルの生前、楽譜はジョン・ウォルシュ親子(en)によって出版されていた。ヘンデルの全集は、はやく18世紀のうちにサミュエル・アーノルドによるものが刊行されたが(アーノルド版、全180巻)、イタリア・オペラは5曲しか収録されていなかった。19世紀後半にはフリードリヒ・クリュザンダーを中心としてヘンデル協会によるヘンデル全集(en、クリュザンダー版、全105巻)が刊行された。1950年代からはハレ・ヘンデル全集(en、ハレ版、新ヘンデル全集)が刊行されている。ヘンデルの作品カタログとしてはベルント・バーゼルトによるもの(全3巻、1978-1986年)があり、このカタログの番号(ヘンデル作品主題目録番号、HWV)を用いることが一般的になっている。

オペラ

オラトリオ

その他の声楽曲

管弦楽曲

器楽曲

ヘンデルを題材とする作品

1942年のイギリス映画『偉大なるヘンデル氏』(The Great Mr. Handel)は、ヘンデルを題材にしている。ヘンデルをウィルフリッド・ローソン(en)、ヒロインの歌手シバ夫人(enトーマス・アーンの妹のスザンナ)をエリザベス・アランが演じた。

1994年の映画『カストラート』は1730年代のヘンデルと貴族オペラの対立を背景とする。ジェローン・クラッベがヘンデルを演じた。

脚注

  1. ^ Duden Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverlag. (2005). p. 388. ISBN 978-3-411-04066-7
  2. ^ コリンズ英語辞典 "Handel"ハンドルと発音は同じである。"handle"
  3. ^ ヘンデルが生まれた時、母は34歳で、父は63歳の高齢だった。
  4. ^ ホグウッド(1991) p.22
  5. ^ ホグウッド(1991) p.30
  6. ^ ホグウッド(1991) pp.26-28
  7. ^ ホグウッド(1991) pp.28-34
  8. ^ 渡部(1966) p.16
  9. ^ ホグウッド(1991) p.34
  10. ^ 渡部(1966) p.21
  11. ^ ホグウッド(1991) pp.36-37
  12. ^ ホグウッド(1991) p.45
  13. ^ ホグウッド(1991) p.50
  14. ^ 皆川(1972) p.194
  15. ^ ホグウッド(1991) p.47
  16. ^ 渡部(1966) p.29
  17. ^ ホグウッド(1991) pp.38-43
  18. ^ 渡部(1966) pp.25-29
  19. ^ 皆川(1972) p.233
  20. ^ ホグウッド(1991) pp.39-40
  21. ^ 渡部(1966) pp.26-27
  22. ^ 渡部(1966) p.32
  23. ^ ホグウッド(1991) pp.60-62
  24. ^ 渡部(1966) pp.34-36
  25. ^ ホグウッド(1991) p.59
  26. ^ ホグウッド(1991) p.60
  27. ^ 渡部(1966) p.38
  28. ^ ホグウッド(1991) pp.65-68
  29. ^ ホグウッド(1991) pp.68-73
  30. ^ 渡部(1966) p.38
  31. ^ ホグウッド(1991) pp.82-83
  32. ^ 渡部(1966) p.42
  33. ^ 渡部(1966) p.43
  34. ^ ホグウッド(1991) pp.102-107
  35. ^ 渡部(1966) pp.45-47
  36. ^ 渡部(1966) p.48
  37. ^ 渡部(1966) p.53
  38. ^ 渡部(1966) pp.58-60
  39. ^ ホグウッド(1991) pp.123-127
  40. ^ 渡部(1966) pp.61-62
  41. ^ ホグウッド(1991) pp.131-135
  42. ^ 渡部(1966) pp.64-65
  43. ^ ホグウッド(
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    出典:wikipedia
    2020/07/28 07:42

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