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コロンビアとは?

コロンビア共和国
República de Colombia



(国旗) | (国章)
国の標語:Libertad y Orden
(スペイン語: 自由と秩序)
国歌:コロンビアの国歌(ああ、不滅の栄光よ!)
公用語 スペイン語
首都 ボゴタ
最大の都市 ボゴタ
政府
大統領 イバン・ドゥケ
首相 なし
面積
総計 1,139,000(25位)
水面積率 8.8%
人口
総計(2016年) 48,747,835人(28位)
人口密度 42.8人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2005年)】
479兆2,642億コロンビア・ペソ (COL$)
GDP (MER)
【合計(2017年)】
2,406億ドル(42位)
GDP (PPP)
合計(2017年) 3,118億ドル(30位)
【1人あたり】
8,215ドル

独立
- 宣言
- 認可 スペインから
1810年7月20日
1819年8月7日
通貨 コロンビア・ペソ (COL$) (COP)
時間帯 UTC -5(DST:なし)
ISO 3166-1 CO / COL
ccTLD .co
国際電話番号 57

コロンビア共和国(コロンビアきょうわこく、スペイン語: República de Colombia)、通称コロンビアは、南アメリカ北西部に位置する共和制国家。東にベネズエラ、南東にブラジル、南にペルー、南西にエクアドル、北西にパナマと国境を接しており、北はカリブ海、西は太平洋に面している。首都はボゴタ

コロンビアの人口は、ブラジル、メキシコに続きラテンアメリカで第3位である。コーヒーエメラルドバラの産地である。

目次

  • 1 国名
  • 2 歴史
    • 2.1 先コロンブス期
    • 2.2 スペイン植民地時代
    • 2.3 独立戦争とグラン・コロンビアの崩壊
    • 2.4 ヌエバ・グラナダの独立からコロンビア共和国の成立まで
    • 2.5 党派対立の時代
    • 2.6 「暴力」の時代
    • 2.7 「国民戦線」体制
    • 2.8 コロンビア内戦
    • 2.9 政治腐敗
    • 2.10 左翼ゲリラ(FARC)との和平交渉
  • 3 政治
  • 4 国際関係
    • 4.1 日本との関係
  • 5 地理
    • 5.1 山
    • 5.2 川
    • 5.3 気候
  • 6 地方行政区分
    • 6.1 主要都市
  • 7 軍事
    • 7.1 国家安全保障
  • 8 経済
    • 8.1 農業
    • 8.2 鉱業
    • 8.3 観光
  • 9 国民
    • 9.1 人口
    • 9.2 宗教
    • 9.3 婚姻
    • 9.4 言語
    • 9.5 教育
    • 9.6 治安
  • 10 文化
    • 10.1 食文化
    • 10.2 文学
    • 10.3 音楽
    • 10.4 世界遺産
    • 10.5 祝祭日
    • 10.6 スポーツ
  • 11 著名な出身者
  • 12 脚註
    • 12.1 注釈
    • 12.2 出典
  • 13 参考文献
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

国名

正式名称は、República de Colombia [reˈpuβlika ðe koˈlombja]. 通称Colombia

公式の英語表記は、Republic of Colombia [rɪˈpʌblɪk əv kəˈlʌmbiə, kəˈlɒmbiə]. 通称Colombia

日本語の表記は、コロンビア共和国。通称コロンビア漢字による当て字は、哥倫比亜、もしくは古倫比亜である。

国名は直接的にはアメリカ大陸の発見クリストーバル・コロン(コロンブス)に由来し、アメリカが「アメリゴの土地」を意味するように、コロンビアは「コロンの土地」を意味する。植民地時代はスペイングラナダに由来したヌエバ・グラナダ(新グラナダ)と呼ばれ、独立後も1858年までこの名称を使用していた。コロンビアの名称を最初に使用したのはベネズエラの独立指導者フランシスコ・デ・ミランダであり、ミランダが新大陸を示す名称としてコロンビアを用いた。1819年に解放者シモン・ボリバルは南米統一国家の国名にこの名称を用い、ベネズエラとヌエバ・グラナダの連合国家の名称としてグラン・コロンビアが採用された。1831年にヌエババハマ・グラナダ共和国として独立した後、1858年にはグラナダ連合、1863年にはコロンビア合衆国と国名を変え、1886年に現行のコロンビア共和国の名称が最終的に定まった。

歴史

詳細は「コロンビアの歴史」を参照

先コロンブス期

エル・ドラード伝説を生み出したムイスカ人の黄金の筏
先コロンブス期」も参照

紀元前1450年頃に、ボゴタ近郊のエル・アブラ遺跡で先史文化の萌芽が見られる。中央アメリカから渡ってきた諸族の影響が大きくトウモロコシも彼らによって持ち込まれた。サン・アグスティンの遺跡も恐らく彼らによるものだと思われている。紀元前1000年インディオのグループは南アメリカインカ帝国に次いで最も優れていたといわれる行政システムであったカシケ(CaciqueCacicazgos)と呼ばれる首長による一種の首長制国家群を発展させた。その好例をチブチャ系 (Chibcha) のムイスカタイロナカリマキンバヤシヌーなどの部族とその文化に見ることができる。紀元前300年ごろ、現在のニカラグアに相当する地域からチブチャ系の人々が渡って来てからは、以降彼らを中心に独自の文化が育まれた。特にボゴタ盆地に居住していたムイスカ人はトウモロコシとジャガイモを栽培し、カピバラの一種を家畜化して、生産物を低地民のコカ木綿と交換することにより生計を立てていた。

スペイン植民地時代

スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「スペインによるコロンビアの征服」も参照
クリストーバル・コロンアメリカ大陸上陸

西暦1500年に、ロドリーゴ・デ・バスティーダスに率いられたスペイン人探検家カリブ海沿岸を訪れるとそれに続いて1502年クリストーバル・コロンはカリブ海とチョコ (Choco) の西岸を航行する。1508年、それまでにパナマ地峡を征服していたバスコ・バルボアはウラバを征服し始める。1510年11月にサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン(Santa María la Antigua del Darién) が今のチョコ県に建設され、南アメリカ初のヨーロッパ人による恒久的な入植地となった。その地域の先住民族は、チブチャ系 (Chibcha) とカリブ系(Karib)が多数を占めていた。バカタを首都とするムイスカ連邦(1450年 - 1537年Bogotá Kingdom - バカタ王国とも)はムイスカ人の最大の王国だったが、征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダにより征服された結果、病気、搾取などによりの著しい人口減少が起こった。ムイスカ人の首都バカタはサンタフェ・デ・ボゴタと改名され、以降スペイン人の拠点となった。

スペイン人は16世紀になると アフリカから奴隷を送り込み始める。その後カルタヘナ・デ・インディアスはペルーからの黄金の積出し港となり、富を狙ってのジャマイカを拠点にしたイギリスからの攻撃が激しくなった。スペインはイギリスからの防衛のために1717年にアンデス北部を ヌエバ・グラナダ副王領として、ペルー副王領から独立して組織した。この副王領は資金不足により一旦廃止されるが、1739年に再び北部南米をベネスエラなどと共にヌエバ・グラナダ副王領が再編され、サンタフェ・デ・ボゴタに首都を定めた。しかし、その後も カルタヘナなどの都市に対してイギリス海軍海賊の攻撃は続き、現在も城壁が残っている。

1781年ソコーロで増税に反対したクリオージョ達がコムネーロスの反乱を起こした。これはメスティーソやインディヘナをも含めた人民蜂起であり、革命委員会(コムン)が結成されたためにコムネーロスと呼ばれたが、最終的には増税の実施が見送られたことによりこの反乱は終結した。

独立戦争とグラン・コロンビアの崩壊

近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照
アントニオ・ナリーニョ
ククタ議会でのフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルシモン・ボリバルをはじめとするコロンビア独立の志士たち。

19世紀はじめにこの地でも独立戦争が始まり、スペイン軍と独立派の死闘が繰り広げられた。独立運動は10年以上に及んだ。当時のコロンビアの総人口は約130万人と推定されており、うち1割強に当たる約10万~15万人(成人男性の2人に1人が戦死)が死亡する激烈な戦闘が行なわれた。

1806年からフランシスコ・デ・ミランダに率いられた解放軍により、隣のベネズエラ総督領から解放戦争が始まったことを受けて、ヌエバ・グラナダでも独立戦争が始まった。1810年7月、アントニオ・ナリーニョが副王を追放してボゴタ県(サンタフェ・デ・ボゴタを中心)にクンディナマルカ共和国(1810年 - 1815年)の独立を宣言した。翌年にカルタヘナ県(カルタヘナ・デ・インディアスを中心)がカルタヘナ共和国(1811年 - 1815年)の独立を宣言し、すぐにボゴタの議会で地方諸州とボゴタはヌエバ・グラナダ連合州(1810年 - 1816年)として合流し、軍隊の指揮権と全体の指導権をボゴタが持つことを認められた。

ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは、1812年に崩壊したベネズエラ第一共和国(1810年 - 1812年)を代表として抵抗を続けていた、シモン・ボリバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリバルも1813年にはベネスエラ第二共和国(1813年 - 1814年)を再び解放するが、本国でのフェルナンド7世の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増し、連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)の不一致を突かれる形で1814年2月にはボゴタが陥落した。ボリバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したものの(カラボボの戦い (1814年))、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領ジャマイカに逃れた。1816年5月、スペイン軍の攻撃によりボゴタは陥落した。

大コロンビア

再びベネズエラに上陸したボリバルは1818年にジャネーロ(Llanero)の頭目だったホセ・アントニオ・パエスの力を借り、1819年にはアンゴストゥーラを臨時首都としてのベネスエラ第三共和国(1817年 - 1819年)が再建され、グラン・コロンビア(Gran Colombia1819年 - 1831年)が創設された。1819年8月のボヤカの戦いに勝利するとボゴタが解放され、ヌエバ・グラナダも最終的に解放されて、ボリバルはグラン・コロンビアの建国を正式に宣言し、コロンビアの首都も改名されたボゴタに定められた。

1821年にカラボボの戦い (1821年)での勝利によりカラカスが解放されると、ベネズエラも最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国(República de Colombia)を形成した。1820年には解放されたグアヤキルが、1822年にはキトが併合され、このコロンビア共和国は現在のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全て及びペルーガイアナブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家となった。1821年9月、ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダを代表してボリバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の副大統領となって不在の大統領に代わりヌエバ・グラナダを治め、ボリバルはその後エクアドル、ペルー、アルト・ペルー方面の解放に出征した。1824年にスクレ軍がアヤクーチョの戦いで勝利し、全インディアス植民地の独立を勝ち取った。

ボリバルは新たに独立したボリビア共和国の初代大統領となり、1827年にボリビアから帰還した。コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する ホセ・アントニオ・パエスの不満が高まった。サンタンデル派は1828年にはボリーバルの暗殺を謀り亡命した。キトを巡ってのコロンビアとペルーの戦争も起きた(グラン・コロンビア=ペルー戦争)。その後ベネズエラが独立を要求した。1830年エクアドル(キトグアヤキルクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)は独立し、ベネズエラもパエスの指導下で完全独立を果たしたため、ボリバルは終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近で失意の内に病死した。翌1831年ラファエル・ウルダネータ政権が崩壊すると同時にコロンビア共和国も崩壊し、残存部がヌエバ・グラナダ共和国として独立した。

ヌエバ・グラナダの独立からコロンビア共和国の成立まで

首都ボゴタのカテドラル

1832年に亡命先からサンタンデルが帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国の大統領に就任した。保護貿易により産業が発展し、奴隷貿易が廃止され、公教育が拡充するなど連邦的な政治が進んだ。1840年代にはコーヒーが栽培され始めた。この時代にコロンビア時代から続く中央集権派と連邦派が、保守党と自由党に組織し直された。1849年には商人や職人、新興ブルジョワジー、小農などの連邦派が自由党を結成し、これに対抗して貴族や大地主、教会などを支持基盤に保守党が結成された。これにより、コロンビアは現在まで続く二大政党制が確立されたが寡頭支配体制の維持という点で両党は共通していた。

1849年から1853年まで大統領を務めたホセ・イラリオ・ロペスはイエズス会の追放、教会財産の没収、黒人奴隷の廃止などの反教会、自由主義政策を採り、1880年までコロンビアでは自由主義政権が続いた。1855年に「手工業共和国」と呼ばれたホセ・マリア・メロ将軍の政権が打倒されると、保護貿易は廃されて自由貿易が導入され、育っていた工業の基盤が壊滅した。自由貿易の導入によりイギリス資本による経済支配が進んだ。

1857年には自由主義者マリアーノ・オスピナ・ロドリゲスが大統領になり、1858年にはロドリゲスの手によりグラナダ連合(1858年 - 1863年)が発足した。ロドリゲスはイエズス会の帰国を認めて教会特権を復活させ、中央集権化を図るなど保守化したため、1861年に自由主義者だったカウカ州知事のトマス・シプリアーノ・ド・モスケラが蜂起し、7月にはボゴタに入ってロドリゲスを追放した。

モスケラが政権を握ると、1863年に成立したリオ・ネグロ憲法では自由主義的な内容が採択され、グラナダ連合は各州が外交権を持つ8州からなる連邦制国家、コロンビア合衆国(1863年 - 1886年)が成立した。この時代にボゴタでは科学や文芸が発展を見せ、ボゴタは「南米のアテネ」と呼ばれた。1880年に保守派のラファエル・ヌニェスが自由党右派と保守党に推されて大統領になると、ヌニェスはスペインに独立を承認させ、国立銀行を建設して経済の安定を図った。ククタ周辺でのコーヒー栽培の拡大により、コロンビアの主産業となり、鉄道網も拡大していった。

1884年に再選されたヌニェスは連邦制を廃止しようとし、政治と教育にカトリック教会が参加することを認めたため、1885年に自由主義者が反乱を起こした。ヌニェスがこの内戦に勝利すると、1886年にリオ・ネグロ憲法は放棄されて、カトリック教会と国家の同盟、中央政府の権限拡大、大統領の任期を6年に延長、中央集権主義などを盛りこんで教権の強い中央集権的な憲法改正がなされ、コロンビア共和国が成立した。

党派対立の時代

レティシアを巡ってのペルーとの戦争に備えるコロンビア軍(1932年)
棍棒外交」、「第一次世界大戦」、および「バナナ戦争」も参照

1894年にヌニェスが死ぬと再び緊張が高まった。ラファエル・ウリベ・ウリベ将軍の指導する自由党急進派が蜂起した「千日戦争」(1899年 - 1902年)が勃発した。この内戦ではおよそ10万人の犠牲者が出た。内戦中にかねてからパナマを欲していたアメリカ合衆国パナマ運河地帯永久租借案をコロンビア上院が拒否すると、アメリカはパナマ地峡の独立派を援助し、1903年に地峡地帯がパナマ共和国として独立した。

内戦終結後、保守党のラファエル・レイェスが大統領に就任した。この時期に独裁が強化され、保護貿易に基づいて国内工業の育成が図られ、保守党政権によってこの路線は続けられた。1921年にパナマ問題が解決するとアメリカ合衆国から膨大な投資が流れ込み、それまでのイギリス資本からアメリカ合衆国資本による経済支配が進んだ。1910年代からアンティオキア地方の開発と発展が進み、コーヒーの最大産地となったアンティオキアの中心地のメデジンは、ボゴタを抜いてコロンビアの成長の原動力となった。

1930年エンリケ・エラヤ・エレーラが労働者の支持を得て選挙に勝利し、自由党政権が復活すると、エレーラは1932年9月のコロンビア・ペルー戦争に勝利し、南部アマゾン国境のレティシアの領有権を確保した。これ以後1946年まで自由党政権が続いた。

1934年、自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホが大統領に就任し、部分的な土地改革などが行われた。プマレホは1942年に再選されるが、政策に失敗して1945年辞任した。プマレホの政治は農民や労働者の利益に適ったものだったが、それでも寡頭支配体制が崩れることはなかった。自由党員だったホルヘ・エリエセル・ガイタンは1928年にユナイテッド・フルーツ社によるバナナ労働者虐殺事件を批判したことからカリスマ的な魅力を発揮し、ガイタン主義を掲げてそれまで寡頭支配体制の枠外に置かれていた農民、労働者、学生から圧倒的な支持を受けた。

「暴力」の時代

コロンビアの首都ボゴタ。標高2600メートルに800万人が住む。

1946年以降の十年間はラ・ビオレンシア(「暴力」の時代、1948年 - 1958年)と言われ、争いが頂点に達した。1946年に保守党政権が誕生すると、保守党政権は徐々に自由党派に対するテロを繰り広げ、1948年にボゴタでのOAS会議中に、自由党党首のガイタンが当選確実といわれた選挙直前に暗殺された。ガイタン暗殺をきっかけに激昂した自由党派の市民と保守党派の市民が衝突し、ボゴタ暴動(ボゴタソ)が発生した。この一連の暴動により、再びコロンビアは暴力の時代を迎え、1946年から1950年代末までの「暴力」の時代の死者は、全て併せると20万人にも及ぶと推測される。

1950年に保守党の超保守派ラウレアーノ・ゴメス大統領は事態を収拾するためと称して教会の政治的権利の復活などを骨子とした独裁を激しくしていき、それに伴い暴力も拡大して行った。しかし、この内戦の中でも工業生産は増加した。ゴメスは反共を掲げ共産党系と自由党系のゲリラを弾圧し、反共政策の下でラテンアメリカ諸国で唯一朝鮮戦争に際して国連軍に軍隊を派遣した。

地方での暴力が拡大し、ゴメスの独裁が保守党や支配層からも受け入れがたいものになっていくと、事態を収拾するために両党が軍部に介入を要請し、1953年6月14日、軍事クーデターにより朝鮮戦争派遣コロンビア軍の司令官だったグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が政権を握り、コロンビア史上三度目の軍事政権が発足した。ロハスはポプリスモ的な政策で民兵の武装解除を行い、部分的に「暴力」を収めることに成功したが、 1955年ロハスが人民弾圧をおこなった地主達に恩赦をかけたために農民が蜂起し(ビジャリカ戦争)、1956年ロハスに敬意を示さなかったという理由で多数の市民が虐殺される「牛の首輪事件」(Incidentes en la plaza de toros)の発生などにより、次第に民衆の間でも反ロハス感情が強まった。また、ロハスは労働者保護に努める中で、次第に自由党、保守党から離れてアルゼンチンフアン・ペロンのような独自の支持基盤を労働者に持とうとしたため、支配階級も反ロハス感情を抱いた。反ロハス勢力が結集し、1957年にロハスは辞任に追いやられた。コロンビア軍事政権(1957年 - 1958年)。

「国民戦線」体制

1958年支配層はロハス政権の教訓として、自由党と保守党の特権を侵しかねない政権の発生を恐れ、両党による「国民戦線」体制(1958年 - 1974年)が成立した。これは両党間で4年毎に政権を交替するという「たらいまわし」連立政策であり、これに反対する自由党系農民の蜂起が相次いだ。キューバ革命(1953年 - 1959年)の影響を受けて、1961年にアメリカ合衆国のケネディ大統領主導によって進歩のための同盟が発足、コロンビアは同盟のモデル国家となったが、社会問題の根本的解決には至らなかった。同年、国家人民同盟(ANAPO)が発足。

コロンビア内戦

1964年からゲリラ活動は活発化し(コロンビア内戦)、1966年にはコロンビア革命軍 (FARC) が発足した。1968年にメデジン公会議で解放の神学が誕生した。1970年の選挙でANAPO党から出馬した、ロハスが不正選挙で負けると、学生を中心とした左翼ゲリラ4月19日運動 (m - 19) が生まれた。

首都ボゴタは南米有数の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/11/26 16:10

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