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サイパンの戦いとは?

サイパンの戦い

日本軍の激しい攻撃の中でサイパン島に上陸するアメリカ海兵隊
戦争:太平洋戦争
年月日:1944年6月15日から7月9日
場所:マリアナ諸島サイパン
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
大日本帝国 |  アメリカ合衆国
指導者・指揮官
斎藤義次
南雲忠一
高木武雄  |  レイモンド・スプルーアンス
リッチモンド・ターナー
ホランド・スミス
ラルフ・スミス
戦力
31,629 | 66,779
損害
戦死 約30,000
捕虜 921
民間人死者8,000〜10,000 | 戦死 3,441
戦傷 11,685
マリアナ・パラオ諸島の戦い


サイパンの戦い(サイパンのたたかい)は、太平洋戦争中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍日本軍マリアナ諸島サイパン島における戦闘斎藤義次中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団第4海兵師団第27歩兵師団が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖海戦(6月19日〜20日)が発生した。

背景

日本軍の事情

南雲中将以下海軍守備隊幹部

1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)前半にかけて連合国軍はソロモン諸島ギルバート諸島マーシャル諸島に侵攻し、ニューギニア島北岸を東から西へと飛び石作戦で攻略しつつ、カロリン諸島パラオ諸島マリアナ諸島へ迫った。

マリアナ諸島は、アメリカ軍の新型爆撃機B-29が展開すれば東京など日本本土の大部分を攻撃圏内に収めることができる位置にあるため、戦略的に重要であった。アメリカ軍は中国の成都市にもB-29を進出させており、1944年6月16日の八幡空襲を皮切りに日本本土空襲を開始する直前の状態であったが、成都からでは九州など西日本の一部しか攻撃できなかった。もし、マリアナからの本土空襲が始まれば日本は関東の工業地帯を破壊され、さらには民間人に大量の死者を出すことや国民の士気が低下して戦争継続が困難となることが予想された。

日本軍もマリアナ諸島の重要性は認識しており、1943年9月末に大本営絶対国防圏を定め、サイパン島をその中核拠点とした。日本海軍は絶対国防圏よりも遠方での艦隊決戦を重視したため、マリアナ諸島の防備強化はなかなか進まなかったが、アメリカ軍の侵攻が差し迫った1944年初頭になって慌てて防備強化が図られた。サイパン島にも南部にアスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)、西岸タナパグ水上機基地、最高峰タッポーチョ山(標高473m)に電探を置くなど、軍事施設を整備していった。

一方、海軍の担当地域であり、また補給上の観点からも、それまでは太平洋正面への大規模な兵力派遣を嫌がっていた日本陸軍も、中部太平洋の島嶼に大陸、日本本土から旅団師団規模の部隊の展開を本格的に開始する。マリアナ諸島には関東軍から第29師団 (師団長:高品彪中将)が送られたが、この時期になるとマリアナ諸島の防衛は1個師団で事足りるとは考えられなくなっており、松輸送の名の下に本土から第43師団(師団長:斎藤義次中将)などがサイパンに派遣された。松輸送は期待以上の成功を収め、戦車連隊や第43師団の第一陣は無事到着した。しかし敵潜水艦の雷撃によって第43師団の第二陣を輸送中の第3530船団は大損害を受け、サイパンに到着できたのは歩兵第18連隊で半分にも満たず、歩兵第118連隊は丸腰の将兵が1/3だけなど、戦場に辿り着く前に約1万名が大量の物資と共に海の藻屑と消えた。 現地で増援部隊の一部は再編成され、独立混成第47旅団(旅団長:岡芳郎大佐)が編成されている。海軍の陸上部隊としては、第5根拠地隊の下に第55警備隊(司令:高島三治大佐)などが置かれている。

日本陸軍は1944年2月25日に第31軍(司令官:小畑英良中将、参謀長:井桁敬治少将)を編成、マリアナ諸島やカロリン諸島西部の指揮を担当させることにした。第31軍は司令部をサイパン島に置いて、テニアン以北を担当する北部マリアナ地区集団(指揮官:斎藤義次第43師団長)と、ロタ以南を担当する南部マリアナ地区集団(指揮官:高品彪第29師団長)を持ち、マリアナ方面の防備を担当する海軍の連合艦隊司令長官の指揮下に入って、中部太平洋方面艦隊(司令長官:南雲忠一中将)の指揮を受ける形式になったが、実際には陸海軍部隊の指揮はそれぞれの司令部により行われた。第43師団は北部マリアナ地区集団に組み込まれてサイパン守備を受け持ち、第29師団は南部マリアナ地区集団の主力としてグアムに配置された。 このほかサイパン島には海軍部隊の司令部が多く置かれており、第六艦隊司令長官の高木武雄中将、第1連合通信隊司令官の伊藤安之進少将、第3水雷戦隊司令官の中川浩少将、南東方面航空廠長の佐藤源蔵中将ら高級指揮官が集中していた。

こうしてマリアナ諸島には大本営が満足すべき兵力が展開できつつあった。 日本軍の守備計画は、水際作戦による上陸部隊撃破に主眼が置かれていた。山がちなサイパンは断崖続きで周囲をリーフに覆われており、大部隊の上陸に適している平坦な海浜は南部西岸に位置するガラパンからチャラン・カノアまでの約40kmに渡る海岸線しかない。そのため、この海岸地帯への防衛線構築が優先され、戦車などを投入した大規模な反撃も計画していた。サイパン島の兵力密度は1平方キロメートル当たり約236名、上陸可能な海岸に対する火力密度は1キロ当り6.5門となり、大本営陸軍部(参謀本部)作戦課長の服部卓四郎大佐は「たとえ海軍航空がゼロになっても敵を叩き出せる」と称した。

確かに絶対国防圏が設定されてからサイパンには地上部隊が五月雨式に送り込まれていたのだが、実際はアメリカ軍潜水艦のウルフパックにより輸送中の部隊や物資が海没したり、到着した部隊もパラオやテニアン、グアムなどに転用されることが度々であった。 さらに日本海軍は築城よりも飛行場の建設、整備を重視したため、早期に到着した部隊もアスリート飛行場の拡張や北部のパナデル飛行場の建設に駆り出されることが多く、潜水艦攻撃で補給が滞ってただでさえ少ないセメントや鋼材などの資材も飛行場に優先されて、陣地造営へ充てる人的、物的余裕はなかった。

中部太平洋のアメリカ軍侵攻ルートを地図上にたどれば、タラワマーシャルトラックとほぼ一直線に並んでおり、その先にはパラオがあった。日本海軍は、アメリカ機動部隊が1944年5月末から6月中旬頃に西カロリン、そしてパラオへと侵攻し、それからパラオを経由して次にフィリピンに向かうものと判断し、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化して、敵艦隊に決戦を挑み撃破して戦局の転換を図るとした「あ号作戦」を5月20日に発令、新設の第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)と基地航空隊の第一航空艦隊(約650機)を軸に決戦の必勝を期し、マリアナ諸島にも零式艦上戦闘機(サイパンに第261海軍航空隊第265海軍航空隊、テニアンに第343海軍航空隊、グアムに第202海軍航空隊第263海軍航空隊)、月光(テニアンに第321海軍航空隊)、彗星(テニアンに第121海軍航空隊第523海軍航空隊)、天山(グアムに第551海軍航空隊)、一式陸上攻撃機(テニアンに第761海軍航空隊、グアムに第755海軍航空隊)、銀河 (グアムに第521海軍航空隊)が分遣された。 日本側の予想に沿うように5月27日、西部ニューギニア沖合のビアク島にアメリカ軍(ダグラス・マッカーサー大将率いる連合国南西太平洋軍)が上陸したので、日本軍は渾作戦を発動し海軍第一航空艦隊の大部分をビアク島周辺へ移動、合わせて大和武蔵戦艦部隊を送ってアメリカ上陸支援艦隊を撃退しようとした。

これらは、日本陸海軍上層部の多くが「アメリカ軍はいずれマリアナに来るが、それはパラオに来寇した後で、時期としては1944年末」と見ていたことに起因する。海軍乙事件が発生する前の古賀峯一連合艦隊司令長官新Z号作戦を策定しており、マリアナ諸島〜西カロリン〜西部ニューギニアに邀撃帯を設けて、ダグラス・マッカーサー軍とチェスター・ニミッツ軍の二方面で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうとしていたが、海軍乙事件の連合艦隊司令部壊滅により、二方向の予想アメリカ軍進攻ルートは合流してフィリピンに向かうものという一方的な想定と、帯よりも三角地帯で迎撃する方が艦隊決戦を行うには都合が良いという主観的判断で、作戦構想が見直されて軍令部が中心となって「あ号作戦」として決戦構想がつくられた。 これら大本営の間違った情勢判断から、主力の第43師団がサイパンに到着して配置が決まったのがアメリカ軍上陸の僅か20日前であり、簡単な塹壕を築く程度の時間的余裕しかなかった。

日本の委任統治領だった関係でサイパン島には日本の民間人多数が戦前から居住しており、情勢の悪化に伴い5000人が本土へ疎開したものの、約2万人がアメリカ軍上陸時にも在島していた(詳細は#島民及び日本人入植者で後述)

アメリカ軍の事情

1943年、アメリカはアリューシャン方面の戦いソロモン諸島の戦いで日本に対して反攻を開始、8月のケベック会談において中部太平洋を西方に侵攻していく作戦案をイギリスのウィンストン・チャーチル首相に発表、11月ガルヴァニック作戦としてアメリカ海兵隊などが日本の占領するギルバート諸島へ上陸した。 それまで日本に対する反攻ルートとして、アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー大将率いる連合国南西太平洋軍がソロモン諸島 - ニューギニア島 - ミンダナオアメリカ海軍チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍がハワイ - トラック諸島 - パラオ - ルソンと、2方面での進攻を企図していたが、ガルヴァニック作戦が実施された頃からアメリカはマリアナ進攻を検討し始める。 それは「マリアナを経由して台湾を目指し、中国大陸沿岸部に到達すれば、日本本土と南方の間のシーレーンを遮断できる。日本は中部太平洋への航空機、船舶の中継、補給拠点としてマリアナを活用しており、ここを押さえればカロリン諸島、パラオ、フィリピン、ニューギニアへの補給を絶てる。」とのアーネスト・キング海軍作戦部長の主張によるものであった。

アメリカ統合参謀本部で、陸軍、陸軍航空軍、海軍の参謀たちが会議を繰り広げた末、1944年3月にフォレイジャー作戦としてマリアナ侵攻が決定した。なおフォレイジャー作戦が練られ始めた当初は、マリアナ諸島を日本本土への爆撃拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、これはキングが自説を軍事作戦化させるのに陸軍航空軍を味方にするため、作戦実現のメリットに日本本土への爆撃機基地を得ることを付け加え、それが反映されて立案されたものである。

チェスター・ニミッツ大将の連合国太平洋軍司令部は翌4月から作戦準備に入り、航空機からの空撮、潜水艦で沖合からの海岸撮影など偵察を繰り返し、日本側の暗号電報や海軍乙事件で入手した機密書類で得た情報を総合的に分析していく。 サイパンの日本人は3万人で内戦闘員は1万前後だが、上陸実行時には守備隊は1万5千〜1万8千に増強されていると推定(実際は陸軍が約2万8千、海軍が陸戦隊と兵站部隊で約1万5千とアメリカの推定よりもかなり多かった)、対するアメリカ軍上陸部隊は第2海兵師団第4海兵師団で約7万1千、他に陸軍第27歩兵師団など2.5個師団分を予備兵力として準備しており、また艦砲射撃、戦車、バズーカ、航空機の地上支援など火力と物量で圧倒し、日本軍兵数に関する推定と実際の誤差など問題にならないほど大兵力を集中させていた。

主要戦闘経過

前哨戦

チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍のサイパン攻略艦隊は、マジュロ環礁に集結した。5月30日、千早猛彦海軍大尉の操縦でナウル基地を飛び立った日本海軍の偵察機彩雲が、これを確認した。6月5日、彩雲で再びマジュロ環礁を偵察し、アメリカ軍が出撃準備を急いでいることを確認した。しかし、大本営はアメリカ軍の攻略目標をマリアナとは予想しておらず、パラオ方面の防衛力を増強した。これは、直前の5月27日から始まったビアク島の戦いが続いていたため、ビアク島から遠いマリアナ諸島最北端のサイパンに上陸する可能性は小さいと思われたからである。第31軍司令官の小畑中将も、5月28日からパラオへ作戦指導のため出張している。6月9日、彩雲による3度目のマジュロ環礁の偵察をしたが、既にアメリカ軍は6日にサイパンに向け出撃しており、その姿はマジュロ環礁から消えていた。

6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、同月13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。これにより水際にあった日本軍の陣地は半壊し、サイパン基地の航空機は20機を残し撃破された。(その20機は後日、飛行場を占領したアメリカ軍にそのまま鹵獲される)在泊中の日本艦船は脱出を図ったが、そのうち最大の第4611船団はほぼ全滅した。

このサイパン島への侵攻は、パラオ方面への侵攻を予想していた日本軍を驚かせた。小畑軍司令官は急いでサイパンの軍司令部へ帰還しようとしたが、既にサイパン島周辺はアメリカ軍の制空権下となっていたため不可能で、小畑軍司令官はグアム島から指揮を執ることになった。軍司令官不在の第31軍司令部は、井桁参謀長が責任者となって作戦指導を行ったが、少将である井桁参謀長が中将である斎藤第43師団長を指揮するという変則的な形となった。

6月15日早朝にアメリカ軍サイパン上陸の報に接した大本営並びに連合艦隊は、直ちに指揮下全部隊に対し「あ号作戦決戦発動」を下令した。基地航空隊と機動部隊で来寇アメリカ機動部隊を撃滅し、次いでサイパン攻略部隊も全滅させようという計画であった。 豊田副武連合艦隊司令長官は全軍に対し『皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ、各員一層奮励努力セヨ』と宣し、士気を鼓舞した。第一機動艦隊もフィリピンのギマラスよりマリアナに向けて出撃し、6月18日〜19日の艦隊決戦を予想していた。

海軍はマリアナ、西カロリン、パラオ、フィリピン南部に基地航空隊の第一航空艦隊約650機を展開していたが、ビアク島にアメリカ軍が上陸するとそのほとんどを西部ニューギニア方面に進出させて、ビアク島周辺の作戦で430機まで消耗していた。またパイロットの多くもマラリアやデング熱に罹っていて、アメリカ軍のサイパン上陸に対してマリアナへ急行、迎撃できたのは100機そこそこだった。

水際撃滅

アメリカ軍の上陸地点、海兵2個師団の4個連隊が初日に上陸している

大本営はマリアナに来寇してきたアメリカ軍は、空母9隻、戦艦9隻を基幹とするもので、上陸兵力は1〜2個師団と判断し、『この堅固なる正面に猪突し来れるは敵の過失』として、守備隊の勇戦敢闘で撃退できると確信し、東条英機参謀総長(内閣総理大臣陸軍大臣の三職兼務)も昭和天皇に対して「サイパン、テニアン、グアムは確保できる」と、絶対の自信を披瀝するほどであったが、日本側の来襲したアメリカ軍に対する戦力判断は過小評価であった。

6月15日7時15分にアメリカ軍は、第一波の大型上陸用舟艇70隻、小型100隻、LVT68両が、戦艦テネシーカリフォルニアと巡洋艦バーミングハム・インディアナポリスからなる上陸支援艦24隻の支援射撃の下にチャラン・カノア南北の海岸に殺到した。同海岸を守っていた日本軍歩兵2個大隊は連日の砲爆撃で大損害は被っていたが、上陸部隊に対し激しい集中砲火を加えた。特に九六式十五糎榴弾砲大隊(大隊長 黒木少佐)は砲爆撃による損失は一門もなく、絶大な威力を発揮した。日本軍の激しい砲撃でLVT68両の内50両近くが撃破されている。

6月11日から続いた上陸までの激しい艦砲射撃で地上に暴露していた陣地施設等は殆ど破壊されてしまっていたが、しかし掩蓋をかけたり地形を巧みに利用した陣地の多くは健在であった。また多数設置していた偽陣地に砲撃が分散したのも艦砲による被害を減少させる要因となった。 健在であった海岸砲は艦砲射撃をしている艦船に応射を行い、戦艦テネシーの5インチ砲を1門撃破し死傷者35名、戦艦カリフォルニアを損傷させ死傷9名、駆逐艦ブレイン損傷させ戦死3名、負傷者多数の損害を与えている。

アメリカ軍は138,891発8,500トンの艦砲射撃を行い、海岸陣地をもっと弱体化できたと考えており日本軍の猛烈な反撃は全くの予想外だった。 アメリカ軍による自らの艦砲射撃についての評価は、かなりの成果を挙げてアメリカ軍の勝因の最有力なものの一つとなったとの前向きな評価をしつつも、上陸当日、海岸線で日本軍の猛烈な反撃を被る事となった為、サイパン戦での艦砲射撃の効果は「不十分」であったとも分析し、

との反省点を挙げている。

連合国太平洋軍最高指揮官チェスター・ニミッツも「上陸地点に向けられた不十分な砲火だけではあまりにも不徹底であり、海岸の背後や両翼陣地には、丘陵地帯にガッチリ据えつけられた多数の火砲や機銃が無傷で残っていた。」と回想している。

一方で、日本軍側より見た艦砲射撃の効果は、アメリカ軍の捕虜となった兵士の尋問により「艦砲射撃による戦死者のあまりの多さにぞっとした」「艦砲射撃が最も恐ろしかった」「アメリカの最大の勝因は艦砲射撃」との証言あり、かなりの脅威となっていた事が窺がえる。

その後もアメリカ軍は第四派までを次々に海岸に向けて送り込み、その合計はLVTと上陸用舟艇で700両、兵員は8,000名に達していたが、上陸開始からわずか1時間でアメリカ軍の死傷者は4名の大隊長も含めて1,000名を超えていた。

第43師団斎藤義次師団長はアメリカ軍の上陸を受けて、戦闘指揮所を前線により近いヒナシス山付近に前進させ、自ら第一線の戦闘を指揮した。また水際逆襲の為に戦車第9連隊第5中隊(吉村中隊長)などの戦力を第二線に集結させた。

激しい日本軍の射撃に死傷者続出のアメリカ海兵隊

11時までには上陸したアメリカ第2海兵師団は多数の死傷者を出しながら、前線を400フィート(365m)進めたが、リーフ上では後続部隊が日本軍の攻撃で混乱状態に陥っていた。 12時ごろにオレアイ付近のアメリカ第2海兵師団に対して、歩兵第40連隊第3大隊(河村大隊長)を主軸とする1,000名の歩兵と吉村戦車中隊約15両が反撃を行った。戦車の揚陸が未だであった海兵第二師団は日本軍の戦車の攻撃にM3 37mm砲バズーカで対抗したが、日本軍の猛攻に水際まで一旦押し切られそうになった。日本軍戦車はアメリカ軍の水陸両用戦車LVTアリゲーターなどを戦車戦で撃破しながら進攻したが、アメリカ軍は艦砲射撃の支援でかろうじて戦線を支え日本軍を押し戻した。しかし、第6海兵連隊は死傷率は35%を超える大損害を被った。一方日本軍は河村大隊は壊滅し、河村戦車中隊も2両を残し撃破された。アメリカ海兵第2師団だけで、上陸当日の戦死者・行方不明者は553名負傷者は1,022名に上った。また第4海兵師団を含めれば死傷者は2,000名以上となり上陸したアメリカ軍の10%にも達している。

日本軍の反撃は撃破されたが、防衛線は各所で頑強な抵抗を行いアメリカ軍の占領地域は容易には拡大できなかった。夜までにアメリカ軍が確保したのは、海岸線のチャラン・カノアを含む南北1キロ縦深数百メートルと細長い地域に過ぎずこれはアメリカ軍の計画の半分にも満たなかった。特にアギガン岬とススペ崎の日本軍陣地はアメリカ軍の攻撃を何度も撃退し、陣地を確保していた。アメリカ軍はこの狭い地域に2個師団20,000名がひしめく事となった為、混雑と混乱が大きな問題となっていた。

日本軍は6月15日夜半に軍の総力をもっての総攻撃を企画したが、通信線が寸断されており部隊の掌握ができなかった。その為夜襲は連絡が取れた一部の部隊のみで行われたが、小規模な夜襲となってしまった。アメリカ軍は日本軍の夜襲を警戒し、沖合の戦艦や駆逐艦が照明弾を打ち上げていたが、日本軍の夜襲を確認すると艦砲により支援射撃を行ってきた。それでも夜襲部隊はオレアイ三叉路付近のアメリカ軍連隊指揮所まで達したが、艦砲を含むアメリカ軍の激しい砲撃に700名の遺棄遺体を残し撤退した。

戦車第9連隊の五島正大佐はアメリカ軍が狭い橋頭堡にひしめき合い、戦車も十分に揚陸できてない今の状況で戦車で攻撃すれば効果は絶大と判断し、鈴木参謀長に6月16日早朝に戦車第9連隊単独での挺身攻撃を提案したが、参謀長よりは歩兵との連携攻撃を指示され戦車第9連隊は歩兵が集結するまで待機させられる事となった。戦車第9連隊は満州で戦車独自で機動攻撃する猛訓練を積んでおり、戦中に急造された第43師団とでは練度的に連携攻撃は困難と評価していた上に、歩兵が集結するのを待てばアメリカ軍が戦車などの重火器を揚陸し反撃が困難になると主張したが、五島大佐の上申が取り上げられる事はなかった。戦車第9連隊の生存者下田四郎氏は6月15日夜〜16日朝までにアメリカ軍に臼砲を撃ちこみ、戦車突撃できていればアメリカ軍上陸部隊を撃破することも可能だったと悔やんでいる。

大本営では必勝の確信が強かっただけに、アメリカ軍の上陸成功に対しての失望は大きく、上陸当日の陸軍省、参謀本部では、いたるところで「31軍は腰抜け」「井桁のぼやすけが」と敵上陸を許した井桁参謀長に対する非難と罵声があふれていたという。また井桁参謀長を解任し、長勇少将と交代させるべきだとの声も起こった。

日本軍総攻撃

翌6月16日、アメリカ軍は輸送船35隻、LST40隻、上陸用舟艇多数で膨大な量の物資を揚陸し、戦力の充実を図り激しい攻撃を加えてきた。6月15日はアメリカ軍の攻撃を何回も撃退してきたススべ崎の陣地も攻略され、アギガン岬を死守してきた独立歩兵第316大隊(江藤大隊長)は機銃から高射砲まで駆使して激しく抵抗したが、包囲されて壊滅しアギガン岬も占領された。これにより、第2海兵師団と第4海兵師団の占領地が連結され、連携しての進撃が可能となった。

アメリカ軍は徐々に前進していき、チャラン・カノア 東側を防衛していた高射砲第6中隊は高射砲により戦車6両を撃破したが反撃で壊滅、またヒナシス付近の同第2中隊もアメリカ軍の攻撃で壊滅し生存者50名はタポチョ山に撤退した。

若獅子神社に安置されている97式中戦車、当車両はサイパンで全滅した戦車第9連隊のもの。

また本日に、第一機動艦隊の出撃知ったレイモンド・スプルーアンス提督が、日本艦隊迎撃の為に6月18日のグアム島上陸予定を一旦延期した。その際に予備兵力であったアメリカ陸軍の第27歩兵師団の内1個連隊を上陸させ、輸送艦隊を沖合に退避させた。この為サイパンのアメリカ軍陸上部隊は強化される事となった。 第27歩兵師団はアスリート飛行場に向け進撃した。飛行場までの間に広がるサトウキビ畑中に日本兵が潜んでおり、そこから奇襲攻撃が加えられた。そのため上陸アメリカ軍は、火炎放射器で畑を焼き払い、日本兵が出てきた所を攻撃する作戦に出た。アメリカ第27歩兵師団は夜半までに飛行場に到達した。

6月16日夜に、前日より続けてきた戦力集結の目途がついた為、第43師団長より守備隊の総力を挙げての逆襲が下令された。また戦車第9連隊は戦車単独攻撃を主張したが、結局は歩兵との連携攻撃となった。 攻撃目標は海岸ではなくオレアイのサイパン無線局とし、戦力は歩兵第306連隊、歩兵第40連隊第三大隊、歩兵第18連隊第1大隊、戦車第9連隊と砲兵隊、海岸で壊滅した部隊の残存兵であった。攻撃開始時刻はアメリカ軍が夜襲対策として防御を固める夜半ではなく、夕方の17時としたが、結局準備に手間取り、攻撃開始は深夜の6月17日2時30分が攻撃開始時間となった。日本軍の戦車の運用法は薄暮か黎明攻撃を中心とし、その猛訓練を積んできており、歩兵のように夜襲で寝込みを襲うといった斬り込み思想での訓練は殆どやっておらず、連係攻撃に未熟な第43師団の歩兵を連れての夜襲攻撃は戦車第9連隊に手枷足枷をつけているようなものであった。

戦車第9連隊の30両の戦車にはそれぞれ歩兵数名が乗り込んでおり、いわゆるタンクデサントによる突撃となった。本来であれば戦車部隊は横隊で突撃するのが理想的であるが、地形的に2列縦隊での突撃を余儀なくされ、水平に砲撃すれば前の車輌に当たってしまうため、仕方なく空に向かって砲撃せざるを得なかった。一方アメリカ軍はM4中戦車を多数揚陸済みであり、他にも大量のM3 37mm砲と新兵器バズーカと対戦車砲を搭載したM3 75mm対戦車自走砲も待ち構えていた。アメリカ軍海兵隊にとっては、開戦以来、初めて受ける大規模な敵戦車からの攻撃で大きな混乱がおこってもおかしくなかったが、夜間で日本軍戦車隊の全体像が判らなかったので、かえって視界内の限られた戦車への対策に集中できて、海兵隊兵士に大きな混乱は生じなかった。一方で、攻撃側の戦車第9連隊は不慣れな縦隊突撃を行ったので、たちまち指揮系統が混乱してしまい、まとまった作戦行動はとれず、4~5輛の戦車が一団としてまとまって突進し、なかには沼地にはまって動けなくなる戦車もあった。

それでも、戦車第9連隊の戦車はアメリカ軍が築いていた陣地に突入したが、そこで待ち受けていたのが海兵隊員が装備していた新兵器のバズーカであった。装甲の薄い日本軍戦車にバズーカが命中すると、ほぼ同時に装甲を貫通して内部で炸裂し擱座する戦車が続出した。M3 37mm砲も威力を発揮して次々と日本軍戦車は撃破されていった。空には無数の照明弾が打ち上げられ白昼のような明るさの中で、M4中戦車も戦場に到着して、97式中戦車との戦車戦が行われたが、砲撃の練度は日本軍が勝り次々と命中弾を与えるが、全てM4中戦車の厚い装甲にはね返されるのに対し、M4中戦車の砲弾は易々と97式中戦車や95式軽戦車を撃破していった。戦車の上に乗っていた歩兵も激しい射撃で死傷者が続出して殆どが振り落された。あらゆる火器を浴びせられる中で日本軍戦車は絶望的な戦いを続けており、下田四郎が搭乗していた95式軽戦車は、第3中隊長の西館法夫中尉が搭乗する97式中戦車改と併走していたが、中隊長車にはバズーカが命中し爆発炎上した。中隊長車からは西館以下誰も脱出できず、全員が戦死したものと思われたが、脇目もふらずにさらに突進したところ、キャタピラにバズーカが命中し、走行不能となってしまった。戦車長の中尾曹長の指示で3名の戦車兵は戦車から脱出、車載機銃を取り外して近くの窪地に潜むこととした。目の前では激しい戦闘が続いており、数十m先ではバズ-カが命中して撃破された97式中戦車の中から一人の戦車兵が飛び出すと、軍刀を振りかざしながら敵陣に突撃していった。そのような光景を見ていたたまれなくなった下田は、自分も機銃を抱いて突撃しようと身構えたが、戦車長の中尾が「死に急ぐな、戦闘はこれからだぞ。この場は俺にまかせろ」といって強く制止した。

なおも突進し、あと一歩でアメリカ軍に砲兵陣地まで達するところまで達した日本軍戦車を足止めしたのは、M101 105mm榴弾砲の砲撃と艦砲射撃であった。最後の日本軍戦車は朝7:00に海岸近くまで達して、海上の海軍艦艇から目視することができたので、20発の艦砲射撃が浴びせられた。榴弾砲や75mm対戦車砲が、日本軍戦車撃破にあまり活躍できなかったのは、総攻撃に伴って行われた日本軍の支援砲撃が非常に効果的であったためで、日本軍の観測兵はアメリカ軍の砲兵陣地を24時間に渡って詳細に観察し、その位置関係を図面にしていたので、極めて正確な砲撃ができた。日本軍の砲撃によりM101 105mm榴弾砲5門と75mm対戦車砲3門が撃破されて、海兵隊の砲兵に多数の死傷者が生じて砲撃能力が低下していた。夜が明けて戦場でくすぶる日本軍戦車の中には、まだ戦車兵が生存しているのか砲塔を回転させている戦車もあったが、M3 75mm対戦車自走砲の砲撃によりトドメが刺された。この戦車第9連隊の突撃でアメリカ軍は97名の海兵隊員が死傷した。

戦闘が開始されて2時間経過した朝7:00には、連隊長車で砲塔に白い点線で鉢巻きの塗装がしてある97式中戦車改「あそ号」も、かえってその白い点線が目印となりアメリカ軍に集中攻撃された。勇敢な海兵隊員が戦車砲下部の操行器に手榴弾を投擲し、転輪が吹き飛び走行不能となって撃破されている。「あそ号」を含めた29輛の戦車第9連隊の戦車が戦場の至る所で燻っており、唯一、仁科信綱軍曹が車長の1輛のみが生還した。戦場をあとにし、中隊本部に後退する下田らは仁科の戦車と合流したが、その際に仁科より「友軍は全滅したぞ、連隊長殿の戦車も擱座した。おそらく戦死されただろう」と連隊長の五島の戦死を聞かされている。撃破された戦車からからくも脱出した下田ら戦車兵は、どうにか2日かけてタポーチョ山東側の連隊本部にたどり着いたが、撃破された29輛の110名の戦車兵のうち、生還できたのはわずか30名ほどで、連隊長以下3/4が戦死していた。一方で、日本軍最大の戦車攻撃を撃退したアメリカ軍海兵隊の兵士らは、明るくなって戦場に多数残されていた日本軍戦車の残骸を見て非常に志気が高まり、戦車の近くで動けなくなった日本兵の負傷者を探しては殺害して回っている。

戦車第9連隊に呼応して夜襲をかけた歩兵も、昨日より格段に強化されたアメリカ軍陣地の前に死傷者続出で第36連隊は一個大隊程度の兵力にまで落ち込んで退却、歩兵第18連連隊第一大隊は久保大隊長以下殆どが戦死した。

この総攻撃は失敗に終わり日本軍は主力が潰えたが、アメリカ軍も上陸3日間で5,000名以上の予想外の戦死傷者を出して、予備の第27歩兵師団の全部隊をサイパンへの投入を余儀なくさせられている。

サイパン島孤立化

出典:wikipedia
2020/05/29 20:38

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