このキーワード
友達に教える
URLをコピー

サッカー日本代表とは?

移動先: 案内検索
 | サッカー日本代表 | 

【国または地域】
日本
【協会】
日本サッカー協会
FIFAコード
JPN
【愛称】
SAMURAI BLUE(サムライ・ブルー)
【監督】
ヴァヒド・ハリルホジッチ
【最多出場選手】
遠藤保仁(152試合)
【最多得点選手】
釜本邦茂(75得点)

ホームカラー
 | 
アウェイカラー


【初の国際試合】

日本 0-5 中国
(東京市, 1917年5月9日)
【最大差勝利試合】

日本 15-0 フィリピン
(東京, 1967年9月27日)
【最大差敗戦試合】

日本 2-15 フィリピン
(東京, 1917年5月10日)
FIFAワールドカップ

【出場回数】
6回(初出場は1998)
【最高成績】
ベスト16(2002, 2010)
AFCアジアカップ

【出場回数】
7回
【最高成績】
優勝(1992, 2000, 2004, 2011)
FIFAコンフェデレーションズカップ

【出場回数】
5回
【最高成績】
準優勝(2001)
獲得メダル
男子 サッカー

 | 1968 メキシコシティ | 



サッカー日本代表(サッカーにっぽんだいひょう、サッカーにほんだいひょう)は、公益財団法人日本サッカー協会 (JFA) によって編成される日本サッカーのナショナルチーム。

FIFAワールドカップには6度出場しており、最高成績は2002年大会2010年大会のベスト16。AFCアジアカップでは最多となる4度の優勝を記録している。

目次

  • 1 概要と特徴
    • 1.1 チームカラー
    • 1.2 歴代ユニフォーム
      • 1.2.1 ホーム
      • 1.2.2 アウェー
    • 1.3 愛称
    • 1.4 マスコット
    • 1.5 日本代表グッズ
  • 2 プレースタイル
  • 3 待遇
  • 4 歴史
    • 4.1 太平洋戦争以前
    • 4.2 戦後から1990年代まで
    • 4.3 FIFAワールドカップ
    • 4.4 FIFAコンフェデレーションズカップ
    • 4.5 アジアカップ
    • 4.6 コパ・アメリカ
    • 4.7 特筆すべき試合
  • 5 成績
    • 5.1 FIFAワールドカップの成績
      • 5.1.1 FIFAワールドカップでの全試合結果
    • 5.2 FIFAコンフェデレーションズカップの成績
    • 5.3 AFCアジアカップの成績
    • 5.4 コパ・アメリカの成績
    • 5.5 ダイナスティカップの成績
    • 5.6 EAFF E-1フットボールチャンピオンシップの成績
    • 5.7 オリンピックの成績
    • 5.8 アジア競技大会の成績
    • 5.9 AFCソリダリティーカップ
  • 6 主な成績
  • 7 選手
    • 7.1 定義
  • 8 記録
    • 8.1 出場数
    • 8.2 得点
    • 8.3 主な公式記録
    • 8.4 背番号
  • 9 歴代監督の一覧
  • 10 年代別日本代表
  • 11 スポンサー
    • 11.1 現在契約中
    • 11.2 過去
  • 12 脚注
  • 13 関連項目
  • 14 外部リンク

概要と特徴

チームカラー

現在は基本色として青、サブカラーに白を使用している。青は「日本の国土を象徴する海と空の青」を表すとされているが、これは後付の説明であり、採用時の正確な理由は日本サッカー協会に資料が現存せず不明である(日本サッカー協会公式見解)。

日本代表にとって初の国際試合となった1917年極東選手権では、東京高等師範学校(現:筑波大学)が日本代表として出場したため、東京高等師範学校ユニホームである海老茶色のシャツ(黒のパンツ、白の鉢巻)をそのまま使用した。1930年の極東選手権の日本代表に大半の選手を送り込んだ東京帝国大学は淡青(ライトブルー)のシャツであった。1936年ベルリン五輪に出場した早稲田大学主体の選抜チームの日本代表は1930の極東選手権の代表チームと同じ淡青のシャツを採用し、それ以降もチームカラーとして青が定着することになった。

1964年東京オリンピックでは上下共に白、1968年メキシコオリンピックでは白のシャツに紺のパンツとなり、1970年代以降は白と青が交互に基調とされるようになった。1988年に日本代表監督に就任した横山謙三の意向により日本代表のユニフォームは国旗の色である赤に同年変更され、胸には従来あった日の丸(1980年代半ばからは右下に青字の「J.F.A.」の文字が入る)ではなく三本足の八咫烏が付けられるようになった(ユニフォームの胸の八咫烏のエンブレムは現在も続けて採用されている)。横山が監督を更迭され、1992年に青を基調としたユニフォームに戻され、現在も続いている。

歴代ユニフォーム

ホーム

1930
 | 
1950-75
 | 
1979-80
 | 
1980-83
 | 
1984-85
 | 
1985
 | 
1983-86

1986-87
 | 
1988-92
 | 
1992
 | 
1992-95
 | 
1996–98
 | 
1998–99
 | 
1999-2000

2001
 | 
2002-03
 | 
2004-05
 | 
2005-07
 | 
2008-09
 | 
2009-11
 | 
2012-13

2013-15
 | 
2015-2017
 | 
2017.06.07
 | 
2017-

アウェー

1998–99
 | 
1999-2000
 | 
2001
 | 
2002-03
 | 
2004-05
 | 
2006-07
 | 
2008-09

2010-11
 | 
2012-13
 | 
2014-15
 | 
2015-

愛称

2005年10月、日本サッカー協会は5つの候補の中から一般投票を行い、2006年1月27日に他の候補に2倍以上の得票数を獲得した「SAMURAI BLUE 2006」を2006年ワールドカップに向けた愛称にすることが発表された。2009年10月19日には「SAMURAI BLUE(サムライ・ブルー)」を公式のペットネームとすると定められた。

マスメディアでは横山謙三が代表監督となった際に「横山ジャパン」という呼称が使われるようになり、以降「監督名+ジャパン」という呼称が用いられている。フィリップ・トルシエの代表監督時代は「トルシエ・ニッポン」という呼称も使用されていた。

海外メディアでは「ライジング・サン」や「ブルー・サムライ」、「ブルーズ」という愛称もある。

マスコット

三本足のカラスである八咫烏をモチーフにした「カラッペ」と「カララ」がマスコットキャラクターである。デザインは松下進がおこなった。チームユニホームのデザインが変更される度に、2匹のユニホームもそれに合わせて手直しされている。

日本代表グッズ

大日本蹴球協會(現:日本サッカー協会)は、1936年ベルリンオリンピック(「ベルリンの奇跡」の大会)への日本代表派遣費用の内、大日本體育協會(現:日本体育協会)から支給される旅費以外の経費3万円(2011年で計算すると現在の5275万5千円に当たる)を調達する為に、積極的に募金活動を行った。また、浴衣地(ゆかたじ)や手ぬぐいを販売した。これが「日本代表グッズ」の始まりであり、現在ではレプリカユニフォームやタオルマフラー等のグッズが販売されている。

プレースタイル

最初期の日本のプレースタイルであったショートパス戦法は、1920(大正9)年頃から日本国内で指導し、1923(大正12)年8月には『How to play association football』という日本語版の指導書を出版したチョウ・ディンによりもたらされた。後にテクニカルなブラジルスタイルを模倣するようになった。

1960年代から1970年代の代表チームのFWであった釜本邦茂以降はシュート・得点能力に優れるFWの選手が存在せず、ゴール前での絶好のシュートチャンスを決めきれないという特徴がある。この特徴はしばしば「決定力不足」と形容される。

悪質なファウルなどが他のナショナルチームと比べて少なく、世代別代表も含め国際大会ではフェアプレー賞を多く受賞している。

待遇

 | この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年8月)

現在の日本代表選手に対しては様々な給料や手当を、日本サッカー協会(JFA)がその予算の中から支払っている。なお、現在のJFAは独立採算制であり、国の税金は一切入っていない。現在、スポーツ振興くじから3億円以下程度の助成金が入るようになったが、これはJFA全収入の3%以下である(2010年度)。

プロ化される以前の日本代表選手は、JFAが日本代表海外遠征費を捻出できず、旅行代理店に手形で支払うこともあったほど長らく財政難だったこともあり、JFAから給料や手当を長期に渡って受け取っていなかった。1970 FIFAワールドカップ・予選終了後、日本代表選手たちがJFAから何の手当ても受け取っていない事実を知ったコーチ(当時)のデットマール・クラマーが、「私は君たちに厳しい要求をし過ぎたようだ」と謝罪したエピソードがある。

1972年5月、ペレが所属するブラジルサントスFCが来日し、日本代表と対戦した。前売り券は4日で売り切れ、国立競技場はほぼ満員(有料入場者数53,516人)となった。この為、当時日本代表だったジョージ小林が、日本代表合宿中に長沼健監督に入場料収入の一部をボーナスとして受け取れないかと要求したが、当時のJFAは依然として財政難だった為、断られた。その後、JFAの財政基盤確立への様々な取り組みの結果、1976年ペレの引退試合以降、JFAの財政は好転し一度も赤字にならずに済むようになった。森孝慈が日本代表監督に就任すると、JFAと日本代表選手の手当てなどについて交渉して、1982年から1日3千円の手当てがつくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつくようになった。同時に宿泊施設についても改善された。1993年のJリーグ創設以後は日当と勝利給が支給されるようになったが、出場給は存在しなかった。

日本代表の報酬総額は年々アップしている。1994 FIFAワールドカップ・予選の際には、JFAは2億円を用意していた。1998 FIFAワールドカップ・アジア予選の時には2倍の4億円(出場時間に応じて配分された。1人最高1000万円)を計上し、見事に初出場を果たした。開催国だったため、アジア予選に出場しなかった2002 FIFAワールドカップでは、本大会のボーナスとして総額6億9000万円の予算を組んだ。

2005年時点では、試合だけでなく合宿なども含めた日本代表全活動期間の日当が1万円、勝利した場合は勝利給(勝利ボーナス)が全額支給され、引き分けだと半額、負ければ勝利給ゼロで日当のみが支払われた。勝利給は試合の重要性によって異なり、キリンカップのような親善試合では10万円、アジアカップなどの公式戦で30万円、FIFAワールドカップ(W杯)アジア予選では50万円だった。成績が良ければプレミア給も追加して支給され、2006 FIFAワールドカップ・アジア予選を突破した際には、日本代表選手1人当たり約1000万円が支給された。AFCアジアカップ2004で日本代表が優勝した際には、当時主将のCB宮本恒靖が「ベンチの選手にもボーナスを」と訴え、ベンチ入りしたものの出場機会はなかった選手も含め全員に一律で優勝ボーナス300万円が支払われた(2004年までは出場実績に基づき勝利給の支給額を変動)。海外クラブに所属している日本代表選手には、ビジネスクラス相当の移動費が支給され、上位のファーストクラスを利用する場合は、その差額は選手の自己負担となる。これらの日本代表選手が受け取る給料はJFAが選手の銀行口座に振り込む。また選手の負傷に備えて、保険がかけられている。日本代表選手が所属するクラブに対してJFAは選手1人につき、1日1万5千円の「クラブペイメント」を支払っていた。

2010年度は「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、代表選手への日当やボーナスが支払われた。日当(1日1万円)と勝利給の扱いは2005年時と同様。勝利給はW杯本大会が200万円、W杯アジア予選アジアカップ本大会コンフェデ杯が30万円、東アジアカップ(旧東アジア選手権)アジアカップ予選キリンカップFIFAランク10位までのチームとの親善試合が20万円、FIFAランク11-20位までのチームとの親善試合が15万円、FIFAランク21位以下のチームとの親善試合が10万円となった。また、大会ボーナスも、W杯本大会であれば、優勝5000万円が最高額で、ベスト16(=ノックアウトステージ進出)で600万円等各大会ごとの各成績別に細かく規定されている。以上を出場実績に関係なく該当試合及び大会に選出された日本代表選手全員に一律に支給する。他、W杯アジア最終予選出場選手のみが対象のW杯本大会出場権獲得ボーナスがあり、出場実績で変動し最高1000万円まで支払われ、更に貢献度が高い選手には特別報酬100万円または200万円が追加して支払われる。日本代表選手が所属する日本国内のクラブに対してJFAは選手1人につき、派遣費1日5万円、傷害等による出場不能期間の補償1日3万円の「クラブペイメント」を支払っている。

日本代表選手の給料の支給方法についてはJFA技術委員会で決めているが、その時の日本代表監督の意向が反映される。2010 FIFAワールドカップ・アジア予選では出場給の「実績変動制」が導入された。1試合につき、出場した選手に80万円、ベンチに入った選手に60万円、ベンチ外の選手に40万円(金額はいずれも推定)が支払われた。しかし、W杯出場権獲得ボーナスはなかった。これについて、犬飼基昭JFA会長(当時)は「南アフリカW杯本大会ベスト4が目標である以上、アジア予選通過はその対象にならない」と述べている。2010 FIFAワールドカップでは「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、総額約2億5000万円が日本代表選手に支払われた。

2010年12月17日、日本プロサッカー選手会(JPFA。当時は藤田俊哉会長)が日本代表の親善試合での勝利給は20万円程度で、J1各クラブの勝利給の半分以下であり、これはハードな日程の中、招集に応じ、重圧とも戦いながら得る報酬としては極めて低い額であること、肖像権料も90%がJ各クラブへ分配されているが、選手への分配は認められていないことなどの待遇改善をJFAに要求した。以後、両者間で協議が続き、2012年11月16日、勝利給等の昇給が決まった。W杯アジア予選等が30万円から50万円にアップするなど、Aマッチの勝利給を全体的に引き上げた。また、親善試合の勝利給は対戦国のFIFAランクにより増減していたが、一律の勝利給に統一された。正式には理事会の承認を経て、2013年3月26日の2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選のB組第7節ヨルダン戦から実施された。

2012年時点では、日本代表の放映権料は1試合当たり1億5000万円。日本代表の約1週間の海外遠征には約5000万円程度の経費が必要である。

歴史

太平洋戦争以前

大日本蹴球協會(現:日本サッカー協会、JFA)は、1921年に設立され、1929年国際サッカー連盟 (FIFA) 総会でFIFA加盟が承認された。

最初の国際試合は、1917年東京で開催された第3回極東選手権競技大会中華民国戦(5月9日)であり、東京高等師範学校の単独チームによる日本代表は0-5で敗れた。2試合目のフィリピン戦(5月10日)は、FW藤井春吉が日本代表初得点を含む前半・後半各1点を決めたが、パウリノ・アルカンタラに先制点を許すなど前半に5点、後半に10点をフィリピンに奪われ、2-15と大敗した。これは現在も対ナショナルチーム間の対戦における最大差敗戦試合である。

1927年の第8回極東選手権競技大会には早稲田WMWが日本代表として出場し、フィリピンを2-1で破って国際試合初勝利を挙げた。1930年第9回極東選手権競技大会には単独チームではなく東京帝国大学主体ではあったが、初めて全日本選抜が編成された。日本は中華民国と同位優勝し、国際大会における初タイトルを獲得した。

1930年の第1回ワールドカップ開催にあたり、FIFAは加盟国に招待状を送ったものの、JFAは参加を見送った。その理由は、当時の日本国内が1927年昭和金融恐慌以来慢性的な不況であったため、同年の昭和恐慌発生でさらに経済状態が悪化していたため、そして、JFA自身も財政難であったためである。

1936年ベルリンオリンピックでは、早稲田大学ア式蹴球部主体の選抜チームの全日本が1回戦でスウェーデンを破った(ベルリンの奇跡)。五輪後の8月19日に行われたグラスホッパー・クラブ・チューリッヒとの親善試合では、1-16で大敗した記録が残っている。これは、日本代表の全ての試合における最多失点試合及び最大差敗戦試合である。

1938 FIFAワールドカップ・予選にエントリーし、オランダ領東インドに勝てば本大会出場が決まる筈だったが、折からの情勢不安により参加を辞退した。

戦後から1990年代まで

第二次世界大戦後の1945年11月13日に会費が払えずFIFAから資格停止処分にされた。

1947年4月1日日本蹴球協会へと名称を変更し、1950年9月23日にFIFAに再加盟した。

1954 FIFAワールドカップ・予選でW杯予選に初めての参加となった。なお、韓国代表との試合は、本来ホーム&アウェイ方式で行われるはずが、大韓民国大統領李承晩の意向(李承晩ライン)で自国開催を拒否したことにより、2試合とも東京で開催された。日本はホーム開催であったが2戦2敗となり出場を逃した。

1950年代から60年代の日本はアマチュアリズム全盛の時代であった。当時の全日本選抜選手であった長沼健によれば1954年のW杯予選に出場した頃は、そもそもW杯がどんな大会か分からずに戦っていたという。また、東京オリンピックを目指して強化していた時期も重なり、W杯よりもオリンピック(以下五輪と略すことあり)に重点が置かれ、1968年メキシコシティ五輪で銅メダルを獲得した。

1974年8月31日、協会は財団法人となり、協会誕生より53年間の任意団体から脱却し、同時に日本蹴球協会から日本サッカー協会に名称を変更した。2012年4月1日付で公益財団法人となり、それまで監督官庁だった文部科学省から完全な独立を果たした(2012年3月31日までは、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)。

1986 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選の韓国戦で2戦2敗に終わり、本大会出場を逃したが、この敗戦によりアマチュアリズムの限界を悟ったJFAは、翌1986年スペシャル・ライセンス・プレーヤーの導入を決定した。

また、JFAの最大の目標だったオリンピックサッカー競技が、1992年のバルセロナ五輪から23歳以下の選手の大会へ規定が変更されていた為、日本A代表の目標がW杯へ変わることになった。

1992年3月、ハンス・オフトが日本代表初の外国人監督として就任。1994 FIFAワールドカップ・アジア予選では最終予選に進出したが、最終戦のイラク戦で後半のアディショナルタイムに同点ゴールを決められて引き分けとなり、W杯への出場を逃した(ドーハの悲劇)。

1998 FIFAワールドカップ・アジア予選はプレーオフでイランを破り初めてのW杯出場権を獲得した(ジョホールバルの歓喜)。

FIFAワールドカップ

詳細は各大会の記事を参照

1998年、対アルゼンチン戦のスタンドの様子(トゥールーズ)
1998年大会
初出場となったこの大会は、グループリーグでアルゼンチンクロアチアジャマイカに3戦全敗し、グループリーグ最下位で終えた。なお、ジャマイカ戦で中山雅史がW杯初得点を決めた。
2002年大会
開催国のため予選免除での出場。グループリーグ第2戦のロシア戦でW杯初勝利。また、グループリーグを首位で通過して初の決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦でトルコに敗れたがベスト16の成績を残した。
2006年大会
2大会ぶりに予選に参加し、アジア予選では1次予選で6戦全勝、最終予選で5勝1敗の成績で1位通過し、3大会連続の本大会出場を果たすとともに、時差の関係でワールドカップ地区予選突破第1号となった。前回大会で活躍した中田英寿黄金世代の選手達が20代後半〜30代前半と円熟期を迎え、更に、前回大会には出場の叶わなかった中村俊輔高原直泰が加わったチームは「史上最強」と謳われ、最終予選では視聴率が40%を超える試合が続出する等、日本サッカーファンの期待はかつて無い程大きく高まっていた。サッカーダイジェストによると、監督のジーコが守備の約束事を示さなかった事で、大会直前に選手間で話し合った所、プレスの掛け所を巡って意見が割れた事でチームワークに亀裂が入ったまま本大会に入ったとされる。初戦のオーストラリアには中村が代表の大会初得点で勢いに乗るも、後半長身選手を入れたオーストラリアに押し込まれチームはティム・ケーヒルに同点弾、逆転弾を浴び北朝鮮戦で劇的ゴールを挙げた大黒を投入するも前掛かりになった所を突かれ1-3と逆転負け。続くクロアチア戦は2試合連続酷暑の中後半6分に加地のオーバーラップから決定機を作ったが、押
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/02/24 01:36

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「サッカー日本代表」の意味を投稿しよう
「サッカー日本代表」のコンテンツはまだ投稿されていません。

サッカー日本代表スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「サッカー日本代表」のスレッドを作成する
サッカー日本代表の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
無料コミックを探す
占い・診断
着メロを探す
GAMEを探す
デコメを探す
きせかえツールを探す
FLASH待ち受けを探す
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail