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サッダーム・フセインとは?


任期 1979年7月16日2005年4月7日

任期 1994年5月29日2003年4月9日

任期 1979年7月16日1991年3月23日

出生 (1937-04-28) 1937年4月28日
イラクティクリート
アル=アウジャ村
死去 (2006-12-30) 2006年12月30日(69歳没)
イラクバグダード
政党 バアス党
配偶者 下記参照
署名

サッダーム・フセイン(アラビア語:صدام حسين 1937年4月28日 - 2006年12月30日)は、イラク共和国政治家スンナ派アラブ人であり、イラク共和国の大統領、首相、革命指導評議会議長、バアス党地域指導部書記長、イラク軍最高司令官を務めた。軍階級は元帥日本語の慣例では、彼の名をサダム・フセイン、または単にフセインと表記することが多いが、本項ではサッダームと表記する(詳細はフルネームの節を参照)。

目次

  • 1 生い立ち
    • 1.1 出生
    • 1.2 バアス党
  • 2 政治活動
    • 2.1 亡命
    • 2.2 クーデター
    • 2.3 政権ナンバー2に
  • 3 大統領就任
  • 4 イラン・イラク戦争
  • 5 湾岸戦争
  • 6 国連制裁下の政権
  • 7 政権崩壊
    • 7.1 イラク戦争
      • 7.1.1 サッダーム逮捕
    • 7.2 獄中生活
    • 7.3 裁判
    • 7.4 死刑執行
    • 7.5 死後
  • 8 サッダーム政権
    • 8.1 政治スタイル
    • 8.2 警察国家
    • 8.3 個人崇拝
    • 8.4 イラク近代化
    • 8.5 サッダーム政権崩壊後のイラク
  • 9 家族・親族
  • 10 小説
  • 11 年譜
  • 12 フルネーム
  • 13 参考・関連書籍
  • 14 映像作品
  • 15 脚注
  • 16 外部リンク

生い立ち

出生

イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で農家の子として生まれ、「直進する者」を意味するサッダームの名を受けた。アルブ・ナースィル一族であり、のちの大統領アフマド・ハサン・アル=バクルとは従兄弟であった。父フセイン・アブドゥル=マジード(フセイン・アル=マジードとも)はサッダームが生まれた時には既に死んでおり、母スブハ・タルファーフは羊飼いのイブラーヒーム・ハサンと再婚して、サッダームの3人の異父弟を生んだ。

10歳の時から、母方の叔父ハイラッラー・タルファーフのもとで暮らした。8歳の時に、ハイラッラーの娘で従姉妹にあたるサージダ・ハイラッラーと婚約している。サッダームの敵に屈しない性格とイランを敵視するアラブ民族主義は、叔父ハイラッラーの影響から生まれたと言われている。小学生の時から銃を持ち歩き(当時、銃を持つのはティクリート一帯で普通のことであった)、素行の悪さから学校を退学させようとした校長を脅迫して、退学処分を取り消させている。1947年に叔父とその息子アドナーン・ハイラッラーと共にティクリートへ出て叔父が教師を務める同地の中学を卒業した。

バアス党

1955年に当時、中央政府の教育庁長官になっていたハイラッラーの後を追ってバグダードに移り住む。1957年バアス党に入党する。このころのサッダームは、バグダードのストリートギャングを率いていたといわれる。ハーシム王政崩壊後の1959年には叔父が教育庁長官の職を追放されるきっかけを作った(当時のイラクは親英派の王制であった)ティクリート出身の男性をハイラッラーの命により銃で殺害した。ハイラッラーとサッダームは殺人容疑で逮捕されたが、証拠不十分で釈放となった。

1950年代は、エジプトで革命が起こり、親英の王制が倒されてガマール・アブドゥル=ナーセル政権が樹立に向かっている時期にあたり、アラブ諸国ではアラブ民族主義が高まりを見せており、サッダームもナーセルの影響を受けた。1958年には、イラクでも軍部によるクーデター(7月14日革命)により親英王制が打倒されている。

政治活動

亡命

バアス党は親英王制を打倒させ政権についていたアブドゥル=カリーム・カースィムがアラブ統一よりもイラクの国益を優先する政策をとりアラブ連合共和国への参加に懐疑的だったため、1959年にカースィム首相暗殺未遂事件を起こした。この事件に暗殺の実行犯として関与したサッダームは、カースィムの護衛から銃弾を受けて足を負傷するが、剃刀を使って自力で弾を取り除き、逮捕を逃れるためベドウィンに変装し、ティグリス川を泳ぎ継いで、シリア亡命、ついでエジプトに逃れた。シリア滞在中にはバアス党の創始者ミシェル・アフラクの寵愛を受けた。亡命中の欠席裁判により、サッダームは死刑宣告を受けた。

サッダームは、エジプトで亡命生活を送りながら高等教育を受け、カイロ大学法学部に学んだ。帰国後の1968年には、法学で学位を取得したとされるが、カイロ大学にはサッダームの在籍記録が存在していない(=卒業の確認が取れない)。カイロでのサッダームは、何かと周囲に喧嘩を吹っかけるなど、トラブルメーカーであったと、当時サッダームが出入りしていたカフェのオーナーが証言している。

クーデター

1963年アブドッサラーム・アーリフ将軍が率いたクーデター(ラマダーン革命)によりカースィム政権が崩壊してバアス党政権が発足すると、サッダームは帰国してバアス党の農民局長のポストに就いた。また、このころ党情報委員会のメンバーとして、イラク共産党に対する逮捕、投獄、拷問などを行なったと言われているが真偽は不明。1963年には党地域指導部(RC)メンバーに選出され、バアス党の民兵組織「国民防衛隊」の構築にも関与した。この年サージダと正式に結婚する。

しかし、この第一次バアス党政権は党内左右両派の権力争いにより政権を追われる(1963年11月イラククーデター)。1964年、サッダームはアーリフ大統領の暗殺を企てたものの、事前に発覚し、逮捕投獄された。1965年に獄中でRC副書記長に選出された。1966年看守を騙して脱獄し、地下活動を行なう。

1968年7月17日アフマド・ハサン・アル=バクル将軍の率いるバアス党主導の無血クーデター(7月17日革命)により党は再び政権を握った。このクーデターでサッダームは、戦車で大統領宮殿に乗り付けて制圧するなど主要な役割を果たしている。

政権ナンバー2に

バクル政権では副大統領になり、治安機関の再編成をまかされ、クーデターに協力したアブドゥッ=ラッザーク・ナーイフ首相の国外追放、イブラーヒーム・ダーウード国防相の逮捕など、バクル大統領の権力強化に協力し、その結果、1969年、革命指導評議会(RCC)副議長に任命された。また、この時期にサッダームはイラク・バアス党をシリア・バアス党の影響力から引き離す工作を始め、「イラク人民とは文明発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」とする「イラク・ナショナリズム」(ワタニーヤ)をアラブ民族主義(カウミーヤ)と融合させてイラクの新たなイデオロギーに据えた。

このころ、サッダームは治安・情報機関を再編成し、その長に側近や親族を充てて、国の治安機関を自らの支配下におき、イラクを警察国家に変貌させ、秘密警察による国民の監視が強化された。政府省庁やイラク軍内部にも通称「コミッサール」と呼ばれたバアス党員の密告者を送りこみ、逐一動向を報告させている。

また、政府の高位職に同郷であるティクリートやその周辺地域の出身者を多く登用している。そのため、恩恵に与れない他地域の人間の間には不満が募っていった。

そんな中、1973年6月、シーア派ナジーム・カッザール国家内務治安長官が、バクルとサッダームの暗殺を企てるが、事前に露見し、サッダームの素早い決断によりクーデター計画を阻止している。カッザールとその一派は特別法廷により死刑を宣告され、処刑されたが、この際に事件と関わりの無い人物、主に、清廉な人物としてイラク国民からの人望も厚く、次期大統領との呼び声も高かったアブドゥル=ハーリク・アッ=サーマッラーイーのような、バアス党内におけるサッダームのライバル達も陰謀に加担した容疑で粛清された。

大統領就任

1979年7月17日、バクルが病気を理由に辞任すると発表した為、イラク共和国第5代大統領(兼首相)に就任した。

バアス党内には、バクルの突然の辞任に疑問を呈する者もおり、これはバクルが1978年10月に当時対立していたシリアハーフィズ・アル=アサドと統合憲章を結んだためとされた。1979年7月22日、アル=フルド・ホールで開かれた党臨時会議により、党内部でシリアと共謀した背信行為が発覚したとして、サッダーム自ら一人ずつ「裏切り者」の名前を挙げていき、66人の人物が、会場に待機していた総合情報庁の人間によって外へと連れ出され、その日のうちに革命指導評議会メンバーで構成される特別法廷により、55人の人間が有罪を宣告され、22人は「民主的処刑」と呼ばれた方法、仲間の党員の手によって銃殺となった。粛清された人間には、サッダームの大統領就任に反対した、ムヒー・アブドゥル=フセイン・マシュハダーニー革命指導評議会・中央書記局長、サッダームの側近の一人だったアドナーン・アル=ハムダーニー副首相、イラク石油国有化の舵取り役だったムルタダー・ハディーシー元石油相も含まれる。また、この時に党から除名された人物も後になって暗殺や投獄を受けて処刑され、党内の反サッダーム派は一掃された形となった。

イラン・イラク戦争

イラン・イラク戦争当時、米国の特使として派遣されたドナルド・ラムズフェルドと握手するサッダーム
詳細は「イラン・イラク戦争」を参照

1979年イラン革命によってイランシーア派イスラーム主義イスラーム共和国が成立し、イラン政府は極端な反欧米活動を展開した。また、革命の波及を恐れていたのは欧米だけでは無く、周辺のバーレーンサウジアラビアなどの親米派の湾岸アラブ諸国も同様であった。

サッダームは、こうした湾岸諸国の危機感や欧米の不安を敏感に感じ取っていた。1975年に当時のパフラヴィー朝との間で締結したアルジェ合意で失ったシャットゥルアラブ川の領土的権利を回復し、欧米諸国や湾岸アラブ諸国の脅威であるイラン・イスラーム体制を叩くことで、これらの国の支持と地域での主導権を握り、湾岸での盟主の地位を目指すというのがサッダームの戦略であった。

また、サッダーム率いるバアス党政権は、イラン革命がイラク国内多数派のシーア派にも波及することを恐れていた。実際、1970年代には、南部を中心にアーヤトゥッラームハンマド・バーキル・アッ=サドル率いるシーア派勢力が、中央政府と対立していた。1980年4月には、ターリク・アズィーズ外相を狙った暗殺未遂事件が発生し、さらに同外相暗殺未遂事件で死亡したバアス党幹部の葬儀を狙った爆弾テロが起こり、事ここに到ってサッダームは、ムハンマド・バーキル・サドルを逮捕し、実妹と共に処刑した。

その間、イラン国境付近では散発的な軍事衝突が発生するようになり、緊張が高まった。1980年9月17日、サッダームはテレビカメラの前でアルジェ合意を破り捨てて、同合意の破棄を宣言。9月22日、イラク空軍がイランの首都テヘランなど数か所を空爆とイラン領内への侵攻が開始され、イラン・イラク戦争が開戦した。

戦争を開始した理由は、イスラーム革命に対する予防措置であると同時に、革命の混乱から立ち直っていない今なら、イラクに有利な国境線を強要できると考えたからである。侵攻当初はイラクが優勢であったが、しだいに物量や兵力に勝るイランが反撃し、戦線は膠着状態に陥り、1981年6月にはイラン領内から軍を撤退させざるを得なかった。1986年にはイランがイラク領内に侵攻し、南部ファウ半島を占領されてしまう。

サッダームはイラン南部フーゼスターン州に住むアラブ人が同じ「アラブ人国家」であるイラクに味方すると思っていたが、逆にフーゼスターンに住むアラブ人たちは「侵略者」であるイラク軍に対して抵抗し、思惑は外れた。また、北部ではイランと同盟を組んだクルド人勢力が、中央政府に反旗を翻して武装闘争を開始した。イラクと敵対していた隣国シリアは、イランを支持してシリアとイラクを結ぶ石油パイプラインを停止するなど、イラクを取り巻く状況は日増しに悪くなっていった。

こうした中、イラクは湾岸アラブ諸国に支援を求めた。湾岸諸国もイスラーム革命の防波堤の役割をしているイラクを支えるため経済援助を行った。また、湾岸諸国だけで無く、イスラーム革命の波及を恐れた欧州先進国もイラクに援助を行った。イラクに石油利権を持つイギリスフランスなどの欧州先進国、国内に多くのムスリムを抱えていた社会主義国ソビエト連邦中華人民共和国もイランからの「イスラーム革命」の波及を恐れてイラクを支援した。ソ連(ロシア)、フランス、中国は1980年から1988年までイラクの武器輸入先の9割を占め、後の石油食料交換プログラムでもこの3国はイラクから最もリベートを受けてる。さらにイタリアカナダブラジル南アフリカスイスチェコスロバキアもイラクに武器援助を行った。イランを支援したことを理由に北朝鮮とは1980年に国交断絶を行った。

サッダームは、イラン・イラク戦争が忘れられた戦争にならないように、戦争の停戦と先進国の利害を直接結びつけようとした。そのためにイラクは、1984年からペルシア湾を航行するタンカーを攻撃することによって、石油消費国を直接戦争に巻き込む戦術をとり始め、イランの主要石油積み出し港を攻撃した。この作戦が功を奏し、両国から攻撃されることを恐れたクウェートアメリカにタンカーの護衛を求めた。これにより、アメリカの艦隊がペルシア湾に派遣され、英仏もタンカーの護衛に参加したのであった。

当時、反米国家イランの影響力が中東全域に波及することを恐れたロナルド・レーガン政権は、イラクを支援するため、まず1982年に議会との協議抜きでイラクを「テロ支援国家」のリストから削除した。1983年12月19日には、ドナルド・ラムズフェルドを特使としてイラクに派遣し、サッダームと90分におよぶ会談を行った。

1984年にはイラクと国交を回復し、1988年に至るまでサッダーム政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の兵器供給や、ソ連製武器情報の供与を条件に、中央情報局による情報提供を行った。アメリカとの蜜月時代である。だが、後に亡命したワフィーク・アッ=サーマッラーイー元軍事情報局副局長によると、サッダームは完全にはアメリカを信用しておらず、「アメリカ人を信じるな」という言葉を繰り返し述べていたという。

1987年には国連で即時停戦を求める安保理決議が採択。1988年にイランは停戦決議を受け入れた。イラクはアメリカを含む国際社会の助けで辛くも勝利した形となった。その1年後にはホメイニーが死去し、湾岸諸国と欧米が危惧した「イスラーム革命の波及」は阻止された形になった。そして、後に残ったのは世界第4位の軍事大国と呼ばれるほど力をつけたイラクであった。

湾岸戦争

詳細は「湾岸戦争」を参照

1988年に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東最大の軍事大国の1つへと押し上げる一方で、かさんだ対外債務や財政悪化、物不足やインフレなど国内は深刻な経済状況にあった。また、サッダームの長男ウダイが大統領の使用人を殺害するという不祥事も発生した。

サッダームは政権に対する国民の不信が高まらないよう、「政治的自由化」を打ち出した。現体制を維持しつつ、限定的な民主化を推進して、国民の不満のガス抜きを行う狙いだった。バアス党を中心に、情報公開、複数政党制、憲法改正に関する特別委員会を設置し、大統領公選制などを盛り込んだ新憲法案が起草された。

政権が特に推進したのは情報公開であった。サッダームは各メディアに投書欄を充実させるよう命じた。だがそこに寄せられる政府批判は予想外に厳しいものであった。批判はサッダーム個人では無く、官僚批判の形で操作されていたが、失業戦後復興の遅れなど、ありとあらゆる分野に苦情が殺到した。さらに、ちょっとした情報公開でも体制崩壊に繋がりかねないと政権を恐れさせたのは、1989年に東欧各地で起こった民主化であった。

とりわけサッダームが衝撃を受けたのは、ルーマニアニコラエ・チャウシェスク大統領が、89年12月のルーマニア革命により政権の座を追われて処刑された出来事であった。サッダームとチャウシェスクは、非同盟諸国会議機構の中心的指導者として、互いに親密な関係にあったとされる。そのため、サッダームはイラクの各治安機関にルーマニア革命の映像を見せ、同政権崩壊の過程を研究させている。これを機に「政治的自由化」の動きは失速し、民主化も頓挫したのであった。

その一方で、イラクの軍備は増強されていった。兵力は180万人に膨れ上がり、戦闘機の数も700機に上った。サッダームは、イランが停戦に応じたのはイラク軍の軍備増強、ミサイル兵器による攻撃などイランを力で追い詰めることが出来たからだと考えていた。軍事大国化こそ勝利の道であるという信念がサッダームに植え付けられ、そのことが戦後も軍備増強を続ける原因になったとされる。

1990年3月、英紙「オブザーバー」のイギリス系イラン人の記者が、イラクの化学兵器製造工場に潜入取材をしたとして、イギリス政府の懇願にも関わらず処刑される事件が起きる。4月に入るとサッダームは「もしイラクに対して何か企てるなら、イスラエルの半分を焼きつくす」と発言した。これは、戦後のイラクの軍事的プレゼンスをアラブ諸国に印象づけ、アラブ世界における主導権の獲得を目指した発言であったが、西欧諸国の懸念を呼んだ。

さらに西欧諸国のサッダーム政権に対する懸念と警戒感を呼んだのは、イラクが自国民であるクルド人に対して化学兵器を用いた弾圧を行っていたことが、欧米の人権団体により明らかにされた。こうした事例に加え、イラクが核兵器起爆装置を製造しているのではないかという疑惑や、イギリスが長距離砲弾用と思われる筒(多薬室砲)をイラクが輸入しようとしていたのを差し押さえるなど、イラクの軍備拡大に警鐘を鳴らす出来ごとが起きた。欧米のメディアもこぞってサッダーム政権の「残忍性」を批判し、それにイラクが反発するなど欧州との関係は悪化していった。

一方、アメリカとの関係は非常に良好であった。アメリカは、1988年から89年までの間にイラク原油の輸入を急速に増やすと共に、年間11億ドルを越える対イラク輸出を行い、アメリカはイラクの最大の貿易パートナーとなっていた。また、クルド人に対するイラクの化学兵器使用を非難し、イラクに対する信用供与を停止する経済制裁決議を米下院が採択しても、アメリカ政府はとりたてて動かず「制裁は米財界に打撃」との理由で、イラクに警告する程度にとどまった。

酒井啓子は自著「イラクとアメリカ」の中でこうした一連のアメリカの対応が、サッダームに「少々のことが起こっても、アメリカは対イラク関係を悪化させたくない」というメッセージとなって伝わったに違いないとしている。

一方でサッダームは、戦後復興のために石油価格の上昇による石油収入の増大を狙っていた。1990年1月、サッダームは石油価格引き上げを呼びかけ、サウジアラビアや同様に戦後復興に苦慮していた敵国イランもイラクの呼びかけに応じた。しかし、クウェートはイラクの呼びかけに答えず、石油の低価格増産路線を続け、逆に価格破壊をもたらした。

イラクはクウェートを非難したが、クウェートは応じなかった。7月に入るとイラク側は「クウェートがイラク南部のルマイラ油田から盗掘している」と糾弾し、軍をクウェート国境に南下させて軍事圧力を強め、クウェートとの直接交渉に臨んだ。7月26日、クウェートはようやく石油輸出国機構の会議で、石油価格を1バレル21ドルまで引き上げるとの決定に同意したが、イラクは軍事行動を拡大し、7月30日には10万規模の部隊が国境に集結した。

こうして1990年8月2日、イラク共和国防衛隊がクウェートに侵攻した。当初は「クウェート革命勢力によって首長制が打倒され、暫定政府が樹立された」として、「クウェート暫定政府による要請で」イラクがクウェートに駐留すると発表していた。

イラクがクウェートに侵攻した理由について、上記の石油生産を巡る政治的対立の他にも、歴代のイラク政権がオスマン帝国時代の行政区分でクウェートがバスラ州の一部であったことを根拠に領有権を主張していたことや、クウェート領であるワルバ・ブービヤーン両島がイラクのペルシア湾に通じる狭い航路をふさいでおり、それを取り除いて石油輸出ルートを確保しようとしたとも言われている。

政権崩壊後、米国の連邦捜査局の取調官がサッダームにクウェート侵攻の理由について尋ねると、原油盗掘などの懸案協議に向け外相を派遣した際、クウェート側から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたとされ、侵攻に向けた決断が感情的なものであったことが明らかになった。

しかし、このイラクの軍事侵攻は国際社会から激しい批判を浴び、アメリカは同盟国サウジアラビア防衛を理由として、空母と戦闘部隊を派遣した。国際連合安全保障理事会は対イラク制裁決議とクウェート撤退決議を採択した。これに対してサッダームは、8月8日にクウェートを「イラク19番目の県」としてイラク領への併合を宣言。同時に、イスラエルがパレスチナ占領地から撤退するならば、イラクもクウェートから撤退するという「パレスチナ・リンケージ論」を提唱し安保理決議に抵抗した。

このサッダームの姿勢は、パレスチナ人など一部のアラブ民衆には支持されたが、同じアラブ諸国サウジアラビアエジプト反米国であるシリアもイラクに対して「クウェート侵攻以前の状態に戻る」ことを要求し、国際社会の対イラク包囲網に加わった。12月に入って、イラクが1991年1月15日までにクウェートから撤退しないのなら、「必要なあらゆる処置をとる」との武力行使を容認する安保理決議を採択した。

1991年1月17日、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が対イラク軍事作戦である「砂漠の嵐」作戦を開始し、イラク各地の防空施設やミサイル基地を空爆。ここに湾岸戦争が開戦した。サッダームは、多国籍軍との戦力差を認識しており、開戦後はいかにしてイラクの軍事力の損失を防ぐか、被害を最小限に食い止めるかに重きを置いており、空軍戦闘機をかつての敵国であるイランに避難させたりしている。同時に、弾道ミサイルを使ってサウジアラビアやイスラエルを攻撃させている。イスラエルを攻撃したのは、イスラエルを戦争に巻き込むことによって争点をパレスチナ問題にすり替えて、多国籍軍に加わっているアラブ諸国をイラク側に引き寄せようとの思惑であったが、アメリカがイスラエルに報復を自制するよう強く説得したため、サッダームの思惑は外れた。

2月に入り、サッダームと個人的に親交のあったソ連エフゲニー・プリマコフ外相がバグダードを訪れてサッダームと会談し、停戦に向けて仲介を始めた。そしてターリク・アズィーズ外相とミハイル・ゴルバチョフ大統領との間の交渉により、撤退に向けて合意した。その一方でイラクはクウェートの油田に放火するなど焦土作戦を始めた。

これに反発したブッシュ政権は2月24日、アメリカ軍による地上作戦を開始。ここへきてサッダームはイラク軍に対してクウェートからの撤退を命じ、2月27日にはクウェート放棄を宣言せざるを得なかった。4月3日、国連安保理はイラクの大量破壊兵器廃棄とイラクに連行されたクウェート人の解放を義務とした安保理決議を採択。4月6日、イラクは停戦を正式に受諾し、湾岸戦争は終結した。

国連制裁下の政権

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この節の加筆が望まれています。

敗戦による政権の隙をついて、国内のシーア派住民クルド人が政権への反乱を起こした(1991年イラク反政府蜂起)。民衆蜂起はまず南部で拡大し、一気に全国18県中14県が反政府勢力側の手に落ちた。しかし、反政府勢力が期待していたアメリカ軍の支援は無かった。アメリカイランと同じシーア派勢力の台頭を警戒しており、イラク国民に対してはサッダーム政権を打倒するよう呼びかけたが、自ら動くことは無かった。アメリカが介入しないとみるや、サッダームは温存させてあった精鋭の共和国防衛隊を差し向けて反政府勢力の弾圧に成功する。この際、反政府蜂起参加者に対して、非常に苛烈な報復が行われ、シーア派市民に対する大量虐殺が発生した。政権による弾圧の犠牲者は湾岸戦争の犠牲者を上回る10万人前後と言われている。

南部の反乱を平定すると、政権は北部のクルド人による反乱を抑え込もうと北部に兵を進めた。この時、サッダーム政権による化学兵器まで用いた弾圧の記憶が生々しく残っているクルド人たちは、一斉にトルコ国境を超え、大量の難民が発生し、人道危機が起こった。こうした事態を受けて、米英仏が主導する形でイラク北部に飛行禁止空域を設置する決議が採択され、イラクの航空機の飛行が禁止された。

1991年6月には、政権による強引な水路開発計画に抗議するため、南部の湿地帯に住むマーシュ・アラブ人が反乱を起こした。この反乱もマーシュ・アラブ人が住む湿地帯を破壊するという容赦の無い弾圧で抑え込んだものの、これにより飛行禁止空域はイラク南部にも拡大された。飛行禁止区域は2003年まで設定され、米英軍の戦闘機イラク軍の防空兵器を空爆したり、区域を侵犯したイラク軍機を撃墜するなどした。

1993年1月、サッダームは南部の飛行禁止空域に地対空ミサイルを設置し、再び国際社会を挑発する行動に出た。この時期、アメリカでは前年の大統領選挙の結果、ジョージ・H・W・ブッシュを破って当選したビル・クリントンアメリカ合衆国大統領就任式の数日前という微妙な時期であった。サッダームはこの時期ならばアメリカは軍事行動を起こせないと見込んでいたが、地対空ミサイル設置は国連安保理決議違反であるとして、米英仏による多国籍軍による空爆を招いてしまう。その結果、地対空ミサイルやレーダー施設、核関連施設などが爆撃された。

1993年4月には、クウェートを訪問したブッシュ前大統領暗殺を企てていたとして、イラク工作員逮捕されるという事件が起こった。同年6月、この報復として、アメリカ軍はトマホークミサイル23発をバグダードに発射し、イラクの諜報機関「総合情報庁」の本部を攻撃している。

政権崩壊

イラク戦争

詳細は「イラク戦争」を参照

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。9・11テロについてもサッダームは演説で「アメリカが自ら招いた種だ」と、テロを非難せず、逆に過去のアメリカの中東政策に原因があると批判、同年10月20日まで哀悼の意を示さなかった。同時テロ以降のアメリカ合衆国は、アルカーイダを支援しているとしてサッダーム政権のイラクに強硬姿勢を取るようになった。もっともイラク攻撃自体はアメリカ同時多発テロ事件以前から、湾岸戦争時の国防長官であった副大統領ディック・チェイニーや国防長官ドナルド・ラムズフェルドを中心とする政権内部の対イラク強硬派、いわゆるネオコンらによって既に議論されていたようである。ただし、サッダーム政権転覆計画については、前のクリントン民主党政権から対イラク政策の腹案の一つとして存在していた。

2002年1月、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ政権は、イラクイラン北朝鮮と並ぶ「悪の枢軸」と名指しで批判した。2002年から2003年3月まで、イラクは国際連合安全保障理事会決議1441に基づく国連監視検証査察委員会の全面査察を受け入れた。

2003年3月17日、ブッシュは48時間以内にサッダーム大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。サウジアラビアアラブ首長国連邦バーレーン戦争回避のために亡命をするように要請したがサッダームは黙殺したため、開戦は決定的となった。

2003年3月20日、ブッシュ大統領は予告どおりイラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始。攻撃はアメリカ軍が主力であり、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/11/19 14:15

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