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サンクトペテルブルクとは?

サンクトペテルブルク
Санкт-Петербург

旧海軍省ペトロパヴロフスク要塞聖イサアク大聖堂フォンタンカ川青銅の騎士冬宮殿
 | 
市旗 | 市章

愛称 : Piter
位置

位置
サンクトペテルブルク (レニングラード州)
レニングラード州の地図を表示
サンクトペテルブルク (北西連邦管区)
北西連邦管区の地図を表示
サンクトペテルブルク (ヨーロッパロシア)
ヨーロッパロシアの地図を表示


座標 : 北緯59度56分 東経30度20分 / 北緯59.933度 東経30.333度 / 59.933; 30.333
歴史
建設 1703年5月27日
行政
ロシア
連邦管区 北西連邦管区
行政区画 サンクトペテルブルク連邦市
サンクトペテルブルク
市長 アレクサンドル・ベグロフ(代行)
地理
面積 | 
市域 1431 km
標高 3 ~ 175 m
人口
人口 (2018年現在)
市域 5,351,935人
その他
等時帯 モスクワ時間 (UTC+3)
郵便番号 190000 - 199406
市外局番 +7 812
ナンバープレート 78, 98
公式ウェブサイト : https://www.gov.spb.ru/
サンクトペテルブルク周辺の人工衛星写真
ラドガ湖から南西に流れ出したネヴァ川は北西に流路を変え、フィンランド湾最深部に流れ込む。サンクトペテルブルクの街はネヴァ川河口の三角州を中心に発達した。

サンクトペテルブルク(: Санкт-Петербург, サンクトピチルブールク, IPA:[sankt pʲɪtʲɪrˈburk] 発音)は、バルト海東部のフィンランド湾最東端に面するネヴァ川河口デルタに位置するロシア西部の都市レニングラード州州都1917年までロシア帝国首都であった。

都市建設ののち、第一次世界大戦まで(1703年 - 1914年)はサンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)、第一次世界大戦開戦以降(1914 - 24年)はペトログラード(Петроград)、ソビエト連邦時代(1924 - 91年)はレニングラード(Ленинград)と呼ばれた。

目次

  • 1 地理
  • 2 歴史
    • 2.1 名前の変遷
    • 2.2 市の建設以前
    • 2.3 都市の歴史-ロシア帝国時代
    • 2.4 都市の歴史-ソビエト連邦時代
    • 2.5 都市の歴史-ロシア連邦
  • 3 気候
  • 4 行政
    • 4.1 行政区
  • 5 経済
  • 6 文化
    • 6.1 文学
    • 6.2 音楽
    • 6.3 マスメディア
    • 6.4 スポーツ
  • 7 観光
    • 7.1 美術館
    • 7.2 教会・寺院・修道院
    • 7.3 その他の建造物
    • 7.4 年中行事
  • 8 教育
    • 8.1 大学
    • 8.2 研究所
  • 9 交通
    • 9.1 空港
    • 9.2 鉄道
    • 9.3 地下鉄
    • 9.4 路面電車
    • 9.5 道路
  • 10 近郊の都市
  • 11 姉妹都市
  • 12 双子都市
  • 13 標準時
  • 14 ギャラリー
  • 15 脚注
    • 15.1 注釈
    • 15.2 出典
  • 16 関連項目
  • 17 外部リンク

地理

サンクトペテルブルクと、フィンランド湾に面する他の主要2都市との距離は、フィンランドの首都ヘルシンキまでは300キロメートル (190 mi)、エストニアの首都タリンまでは350キロメートル (220 mi)である。

ソ連時代から現代に至るまでのロシアの首都そして帝政時代の副都でもあったモスクワとは、サンクトペテルブルクは直線距離で600km以上離れている(東京~函館、鹿児島~那覇、フランスのパリ~マルセイユ、イギリスのロンドン~アバディーン、ドイツのベルリン~スイスのチューリッヒ間の距離に相当)。これは、サンクトペテルブルクから、バルト海の対岸のスウェーデンの首都ストックホルムリトアニアの首都ヴィリニュスベラルーシの首都ミンスクとの各距離とほぼ等しい。

東方問題の最前線として開発された世界都市である。行政上はモスクワおよびセヴァストーポリとともに単独で連邦市を形成しており、ロシア連邦を構成する85連邦構成主体のひとつである。人口が100万を超える都市としては世界で最も北に位置する。

市街はネヴァ川河口デルタの島々と両岸に広がり運河網が発達し、バルト海において重要な港市の位置をしめる。ネヴァ川は運河や河川などにより、白海ドニエプル川ヴォルガ川と結ばれているため、この都市はカスピ海やウラル、ヴォルガからの船舶のバルト海への出口となっている。港は冬季である11月から4月に凍結してしまうが、厳寒期を除いて常に砕氷船が航路を維持している。また、市中心部に運河が縦横に巡る美しい街並みを有することから、「北のヴェネツィア」と称されることもある。

街の中心は、旧海軍省からアレクサンドル・ネフスキー大修道院にいたるネフスキー大通りである。この通りは帝政時代より街の中心であり、現在でもサンクトペテルブルクを代表する建築物や観光名所が立ち並び、多くの観光客も訪れる。

歴史

名前の変遷

青銅の騎士像。市の建設者ピョートル1世を記念した像である

都市の名は「聖ペテロの街」を意味する。これは、建都を命じたピョートル大帝が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもの。隣国のフィンランドではサンクトペテルブルクを、ペテロのフィンランド語名そのままにピエタリ (Pietari) の名で呼んでいる。

当初はオランダ語風にサンクト・ピーテルブールフ (Санкт-Питер-Бурх) と呼ばれていたが、後にドイツ語風にサンクト・ペテルブルク (Санкт-Петербург) と呼ばれるようになる。なお、単にペテルブルクと呼ばれることも多い。 ロシア帝国の首都として長く定着していた。

1914年、第一次世界大戦が始まり、ロシア帝国ドイツ帝国と交戦状態に入ると、ロシア語風にペトログラード (Петроград) と改められた。さらにロシア革命によりソビエト連邦が成立すると、1924年よりウラジーミル・レーニンにちなんでレニングラード (Ленинград, リニングラート) と改称され、この名称が半世紀続いた。

しかし、ソ連崩壊を受けて、1991年に住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻った。ロシア人の間ではピーテル (Питер, ピーチェル) の愛称で呼ばれる。州名は従来どおりレニングラード州となっている。

市の建設以前

ネヴァ川河口域は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう「ヴァリャーグからギリシャへの道」と呼ばれた交易ルートに位置し、ルーシの北辺に位置していた。キエフ公国が分裂するとノヴゴロド公国の辺境地帯となった。ノヴゴロドはここから発するネヴァ川水路でバルト海とつながっており、ハンザ同盟の4大商館のひとつが置かれた。一方で、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くスウェーデンとの国境地帯ともなっていた。1240年には両国の間に、現在の中心部東端に当たる場所でネヴァ河畔の戦いが起こった。この戦いはノヴゴロド公アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド側が勝利し、アレクサンドルはネヴァ川の勝利者という意味のネフスキーという名を加えて以後アレクサンドル・ネフスキーを名乗るようになった。アレクサンドル・ネフスキーはロシアの英雄の一人となり、サンクトペテルブルク建都後に彼を記念して、古戦場にアレクサンドル・ネフスキー大修道院が建てられた。その後はノヴゴロドを併呑したモスクワ公国領となっていたが、1617年にスウェーデンがここを奪取した(ストルボヴァの和約)。ほどなくスウェーデンは三十年戦争を通じて、フランスオランダと経済協力関係を結んだ。そしてアムステルダム資本がサンクトペテルブルクへ流入した。

都市の歴史-ロシア帝国時代

ピョートル大帝によって1703年5月27日(グレゴリオ暦。当時のロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)に築かれた人工都市であり、現在でも5月27日は建市記念日として市の祝日となっている。大北方戦争に苦心する中で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸のイングリアに新都として造営された。造営前のサンクトペテルブルク一帯は荒れ果てた沼地であった。河口付近にはペトロパヴロフスク要塞も同時並行で建設された。建造作業は過酷なもので1万ともいわれる人命が失われた。これらの建設費用と、これから必要とされる軍事費が、借款ないし貿易黒字としてサンクトペテルブルクに期待された。ロシアがポルタヴァの戦いに勝利してから、1713年この地へ遷都が行われた。

1725年に皇帝エカチェリーナ1世が首都へ科学アカデミーを創設した。同年、人口が10万人を超えた。翌年ロシアがウィーン同盟に加盟した。ウィーン同盟とは、1719年1月5日に神聖ローマ皇帝カール6世がロシアとプロイセン王国を仮想敵国として、ザクセンポーランド王国グレートブリテン王国ハノーファー王国と組成したものであった。仮想敵国はプロイセンだけとなった。1728年イスタンブールに印刷所ができた。オスマン帝国の情報が黒海経由で科学アカデミーに集積され、それがライン川へ送られた。1734年、英露通商条約。ロシアはオーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒに軍政を委ね、アゾフ海クリミア半島の奪取に成功した。

歴代ロシア皇帝は首都の整備を続けた。1754年には王宮として冬宮が完成。ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られていった。1757年には演劇アカデミーが創設された。7年戦争中の1760年、ロシアが一時ベルリンを占領。エカチェリーナ2世時代の1762年には冬宮の一角にエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設された。1766年、再び英露通商条約。1768年に貨幣改革をして、翌年1月にロシア初の紙幣アシグナツィアを流通させた。この年アムステルダムでロシア初の外債も発行した。このため市章はラバルムをモチーフとした。1779年、アシグナト銀行が設立された。ペテルブルクで銀行業務を行いながら、地方都市に割引事務所を開設した。1787年、仏露通商条約。

1800年、人口は22万人が居住していた。1812年、ナポレオンモスクワだけ焼いて帰った。1817年、アシグナト銀行本体と割引事務所が母体となり、国立商業銀行が誕生した。1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設された。1825年にはデカブリストの乱がこの街で起きたもののすぐ鎮圧された。1837年にはペテルブルクとツァールスコエ・セローとの間にロシア初の鉄道が建設された。この鉄道事業には、ベアリングス銀行ホープ商会が投資していた。1851年にはモスクワとサンクトペテルブルク間の鉄道が完成した。1860年、政府は国立商業銀行などを統合して、国立銀行を設置した。1869年、人口は67万となった。1873年当時のサンクトペテルブルクの様子は日本の岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』に詳しく記されている。

1910年時点におけるサンクトペテルブルクの地図

1894年、ロシアがドイツ帝国と通商条約を結んだ。1897年、国立銀行が中央銀行となり、このときロスチャイルドのロシア投資を仲介するアレクサンドル・スティグリッツが初代総裁となった。1898年6月、国立銀行が露清銀行の新株を全部引き受けて、パリバの支配力に対抗した。19世紀末には聖イサアク大聖堂血の上の救世主教会など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建築物が相次いで建設された。また、民間の経済力も向上し、ネフスキー大通りを中心に豪壮な建築物が立ち並ぶようになった。

1905年10月、サンクトペテルブルクでソヴィエトがゼネスト。1907年、英露協商1910年、人口は190万人に達していた。同年、露亜銀行が誕生した。このころ、株式商業銀行をふくめたペテルブルクの銀行群がロシアの金融界で支配力を急速に増した。これらは露仏同盟などをきっかけに都市開発が進んだ結果である。1912-14年、ロシアの大銀行がパリロンドンなどの国際金融市場へ支店・持株会社を設立した。1913年にはサンクトペテルブルクでゼネストが起きていた。

都市の歴史-ソビエト連邦時代

スモーリヌイ修道院はソビエト政権独立宣言がここで行われ、首都がモスクワに移されるまでソビエト政府の中枢であった。
ロシア革命時、冬宮前に押し寄せる民衆

ロシア革命では二月革命十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。その後、ソヴィエト政権は外国からの干渉を恐れ、首都をより国境から遠いモスクワに移転、1922年に正式に定められたことで、この町は政治の中心地から外れた。

レニングラード市の紋章

ロシア‐フィンランドの国境に近いため、スターリンはフィンランドに対して「大砲の射程内の地域」の割譲を要求したが、フィンランドはこれを拒み、1939年冬戦争が勃発。絶望的な戦力差においても多大な犠牲をソ連に強いたフィンランドは善戦したが、結局翌1940年には当該地域の割譲をもって講和がなされ、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営参加を招いた。第二次世界大戦中は、フィンランドとドイツ両軍を基幹とする枢軸軍によって約900日、足掛け4年にもわたる包囲攻撃を受けた(レニングラード包囲戦)。枢軸軍は敵の戦意を挫くため街と外部の連絡を徹底的に絶ち、物資が途絶えた市中では飢餓により市民・軍人に多数の死者が発生したが、ソ連側は凍結した湖から細々と物資輸送を行うなどして耐え抜いた。その功績により、レニングラードは英雄都市の称号を与えられた。

戦後もレニングラードはソ連第二の都市として存在したが、その歴史的経緯や地理的要因からモスクワとは違った文化や風土を維持した。また、レニングラードの共産党第一書記になることは、ソビエト体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力ゲームでも影響力を持つことになった。とはいえ、ロシア革命以降でサンクトペテルブルク(レニングラード)出身者がトップに登り詰めたのはソ連崩壊後、21世紀になって大統領や首相に選ばれたウラジーミル・プーチンが初めてである。

都市の歴史-ロシア連邦

1998年に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市やクロンシュタット等)を編入し、市域が拡大した。

2008年5月に首都モスクワから憲法裁判所が移転し、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなった。

2006年に第32回主要国首脳会議(G8サミット)、2013年にG20が開かれている。会場はストレルナコンスタンチン宮殿

2013年よりラフタ・センターという高層ビルが市の郊外に建設され2018年の完成を予定している。高さ463mを予定しており、完成すればロシア及びヨーロッパでもっとも高いビルとなる。

気候

ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤大陸性気候 (Dfb) に属する。北緯60度と非常に高緯度にあるため、5月半ばから7月半ばの2ヶ月間は昼が長く、日の入り後、日の出前も薄明の時間が長い。その一方、冬の日照時間は非常に短い。冬の寒さは暖流の影響で内陸部やモスクワよりは温和であるが、時に-25度前後の日々が一週間程度続くことも珍しくない。年間降雪量は297cmほどと欧州の都市のなかでは多い。高緯度なため、日照時間が増えてくる2月が最寒月である。過去最低気温は1883年の-35.9度、過去最高気温は2010年8月の37.1度である。

サンクトペテルブルクの気候
【月】
【1月】
【2月】
【3月】
【4月】
【5月】
【6月】
【7月】
【8月】
【9月】
【10月】
【11月】
12月 年
最高気温記録 °C (°F) 8.3
(46.9) | 10.2
(50.4) | 14.9
(58.8) | 25.3
(77.5) | 30.9
(87.6) | 34.6
(94.3) | 35.3
(95.5) | 37.1
(98.8) | 30.4
(86.7) | 21.0
(69.8) | 12.3
(54.1) | 10.9
(51.6) | 37.1
(98.8)
平均最高気温 °C (°F) -3.1
(26.4) | -3.1
(26.4) | 2.0
(35.6) | 9.3
(48.7) | 16.0
(60.8) | 20.0
(68) | 23.0
(73.4) | 20.8
(69.4) | 15.0
(59) | 8.6
(47.5) | 2.0
(35.6) | -1.5
(29.3) | 9.1
(48.4)
日平均気温 °C (°F) -5.5
(22.1) | -5.8
(21.6) | -1.3
(29.7) | 5.1
(41.2) | 11.3
(52.3) | 15.7
(60.3) | 18.8
(65.8) | 16.9
(62.4) | 11.6
(52.9) | 6.2
(43.2) | 0.1
(32.2) | -3.7
(25.3) | 5.78
(42.42)
平均最低気温 °C (°F) -8.0
(17.6) | -8.5
(16.7) | -4.2
(24.4) | 1.5
(34.7) | 7.0
(44.6) | 11.7
(53.1) | 15.0
(59) | 13.5
(56.3) | 8.8
(47.8) | 4.0
(39.2) | -1.8
(28.8) | -6.1
(21) | 2.7
(36.9)
最低気温記録 °C (°F) -35.9
(-32.6) | -35.2
(-31.4) | -29.9
(-21.8) | -21.8
(-7.2) | -6.6
(20.1) | 0.1
(32.2) | 4.9
(40.8) | 1.3
(34.3) | -3.1
(26.4) | -12.9
(8.8) | -22.2
(-8) | -34.4
(-29.9) | -35.9
(-32.6)
降水量 mm (inch) 44
(1.73) | 33
(1.3) | 37
(1.46) | 31
(1.22) | 46
(1.81) | 71
(2.8) | 79
(3.11) | 83
(3.27) | 64
(2.52) | 67
(2.64) | 56
(2.2) | 51
(2.01) | 662
(26.06)
平均月間日照時間 21.7 | 53.2 | 124.0 | 180.0 | 260.4 | 276.0 | 266.6 | 213.9 | 129.0 | 71.3 | 24.0 | 12.4 | 1,632.5
出典 1: Pogoda.ru.net
出典 2: HKO (sunshine hours)

行政

行政区

サンクトペテルブルク市行政区
詳細は「サンクトペテルブルクの行政区画」を参照

サンクト・ペテルブルクには、18の行政区が設置されている。

  1. アドミラルティ区(Адмиралтейский)
  2. ワシリエオストロフ区(Василеостровский、ワシリエフスキー島など)
  3. ヴィボルグ区(Выборгский)
  4. カリーニン区(Калининский)
  5. キーロフ区(Кировский)
  6. コルピノ区(Колпинский)
  7. クラスノグヴァールジェイスク区(Красногвардейский)
  8. クラスノセルスク区(Красносельский)
  9. クロンシュタット区(Кронштадтский)
    クロンシュタット」を参照
  10. クロールト区(Курортный)
  11. モスクワ区(Московский)
  12. ネヴァ区(Невский)
  13. ペトログラード区(Петроградский)
  14. ペトロドヴォレツ区(Петродворцовый)
  15. プリモルスク区(沿海区)(Приморский)
  16. プーシキン区(Пушкинский)
  17. フルンゼ区(Фрунзенский)
  18. 中央区(Центральный)

経済

旧サンクトペテルブルク証券取引所。現在は中央海軍博物館である
国際経済フォーラム

サンクトペテルブルクはロシアを代表する港湾工業都市である。造船業を初めとして、電気機器、工作機械・工具類、農業機械、化学工業、製紙、家具、繊維・衣類、食品加工、タバコ、皮革などの工業が発達している。

文化

文学

サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきた。そのため、特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動し、詩や小説などの題材としても扱われてきた。『青銅の騎士』を物した詩人で作家のアレクサンドル・プーシキン、いわゆる「ペテルブルクもの」を物したウクライナ出身の作家ニコライ・ゴーゴリ、『罪と罰』を物したフョードル・ドストエフスキーなどがその代表である。また、イワン・ツルゲーネフの作品にも描かれるように帝政時代のモスクワはひどい「田舎」扱いされており、ペテルブルクで活躍することこそがエリートの絶対条件であると看做されていた。音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本であり、特に帝政末期ペテルブルク以外で活動するようになった芸術家の一派は「移動派」と呼ばれた(ペテルブルク以外を巡業する派ということ)。こうしたことから、ペテルブルク人は文化意識・水準が高いという誇りを持っているとされている。

音楽

マリインスキー劇場
マリインスキー劇場のメインホール
エフゲニー・ムラヴィンスキーが指揮していた時代には、世界有数の実力を誇るオーケストラと言われた。旧称「レニングラード・フィルハーモニー交響楽団」。
20年間に渡り音楽監督を務めているヴァレリー・ゲルギエフのもと、現在のロシアで最も評価の高いオペラハウスに成長。オペラ・バレエだけでなくコンサート(同劇場管弦楽団として)においてもレベルの高い演奏を続けている。現在でも旧称の「キーロフ歌劇場管弦楽団」名義で販売されているCDが少なからずあることから、旧称で当該楽団を知る向きも多い。
1857年には、当時のサンクト・ペテルブルクの上流社会に因んで流行のフランス語でタイトルが与えられた、印象的な内容のカドリーユ『ル・ボー・モンド(=美しい世界)』op.199が誕生し、さらに翌1858年には、渋いチェロの独奏で開始される穏やかな内容のワルツ<サンクト・ペテルブルクとの別れ> op.210や、1859年にはコーダ部分で嵐の情景の様を効果的に描いた力作ワルツ<旅の冒険>op.227が、1860年には素朴ながらも感傷的なロシア情緒が交錯する幾分悲劇的な転調で変化を見せる内容の<宝石のポルカ> op.242や、さらに言えば、「北のヴェネツィア」の愛称の由来となったネヴァ川にちなんで1864年の夏に滞在先のロシアで偶然に書かれたとされる愛らしく無邪気な内容の<ネヴァ川ポルカ> op.288などの作品がいずれも避暑先のロシアで書かれている。これらの他にもロシア風な特徴を持つ作品群が多数ヨハン・シュトラウス2世の作品表上には眠っている。どのロシア時代の作品も傑作と呼ぶべき密度の濃い作品が揃っており、それらの大半は今日、演奏される機会にほとんど恵まれず隠され埋もれた状況となっている。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ニューイヤーコンサートでもシュトラウス2世のロシア滞在時代の作品は、いまだにそのほんの一部分の作品が繰り返し演奏・録音されるほかは発掘演奏されずコンサート・ピースとしてレパートリ―に定着していない感が否めない。

マスメディア

新聞

など

テレビ

など12チャンネルくらいがある。

ラジオ

がある。

テレビとラジオの番組表は土曜日の「ヴェースチ」紙、「テレヴィディェールニエ・ラジオ」週刊誌などに、翌週(月~日)のを載せている。

スポーツ

出典:wikipedia
2019/07/23 13:55

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