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サンデーサイレンスとは?

【品種】
サラブレッド
【性別】

毛色
青鹿毛
【生誕】
1986年3月25日
【死没】
2002年8月19日(16歳没)
【父】
Halo
【母】
Wishing Well
母の父
Understanding
【生国】
アメリカ合衆国
【生産】
Oak Cliff Throughbreds Ltd.
馬主
Gaillard & Hancock III
Charles Whittingham
Whittingham et al
吉田善哉
調教師
Charles Whittingham
厩務員
Charles Clay
【競走成績】

【タイトル】
エクリプス賞・米国年度代表馬(1989年)
エクリプス賞・最優秀3歳牡馬(1989年)
米国・名誉の殿堂入り(1996年選出)
【生涯成績】
14戦9勝
【獲得賞金】
4,968,554ドル
勝ち鞍
GI | ケンタッキーダービー | 1989年
GI | プリークネスS | 1989年
GI | BCクラシック | 1989年
GI | スーパーダービー | 1989年
GI | サンタアニタダービー | 1989年
GI | カリフォルニアンS | 1990年
GII | サンフェリペH | 1989年


【繁殖成績】

【タイトル】
日本リーディングサイアー(1995-2007年)
日本BMS1位(2007-2018年)

サンデーサイレンス(: Sunday Silence1986年 - 2002年)は、アメリカ合衆国生まれの競走馬種牡馬である。

※文中の「GI級競走」は日本のパート1国昇格前および昇格後のGI競走とJ・GI競走、ならびに昇格後のJpnI競走を指す(詳細については競馬の競走格付けを参照)。

概要

1988年10月に競走馬としてデビュー。翌1989年アメリカ三冠のうち二冠(ケンタッキーダービープリークネスステークス)、さらにブリーダーズカップ・クラシックを勝つなどG1を6勝する活躍を見せ、エクリプス賞年度代表馬に選ばれた。

1990年に右前脚の靭帯を痛めて競走馬を引退。引退後は日本社台スタリオンステーションで種牡馬入りし、初年度産駒がデビューした翌年の1995年から13年連続で日本のリーディングサイアーを獲得。さらに中央競馬における種牡馬にまつわる記録を次々と更新した。サンデーサイレンスを起点とするサイアーラインは日本競馬界における一大勢力となり、サンデーサイレンス系とも呼ばれる。そのイニシャルから、SSと呼ばれることもある。

2002年8月19日に左前脚の蹄葉炎を原因とする衰弱性心不全のため、16歳で死亡。幼少期は見栄えのしない容貌と地味な血統ゆえに買い手がつかず、生命にかかわる事態に見舞われながら、競走馬、さらに種牡馬としても成功した生涯は、童話『みにくいアヒルの子』(Ugly Duckling)に喩えられる。

生涯

誕生からデビューまで

誕生

サンデーサイレンスは1985年繁殖牝馬ウィッシングウェルと種牡馬ヘイローが交配された結果、翌1986年3月25日アメリカ合衆国ケンタッキー州にあるストーンファームで誕生した。両者が交配された要因は、ニックスとされるマームードインブリード(4×5)が成立することにあった。

サンデーサイレンスの毛色は、生国のアメリカでは「黒鹿毛ないし青鹿毛 (Dark Bay or Brown)」となっているが、のちに輸入した日本では「青鹿毛」と登録されている 。

見栄えが悪く、売れ残る

幼少期のサンデーサイレンスは体格が貧相で、後脚の飛節が両後脚がくっつきそうなくらいに内側に湾曲していた。ストーンファームの経営者アーサー・ハンコック3世は幼少期のサンデーサイレンスについて「脚がひょろ長くて、上体は華奢」であったと述べている。さらに、幼少期のサンデーサイレンスの馬体はくすんだ鼠色をしており、その容貌は、テッド・キーファーがストーンファームを訪れた際に必ず「あの真っ黒いケダモノをどこかへやってくれ。まったく、あんなひどい当歳(0歳)馬は見たことがないぞ」「あのウィッシングウェルの当歳は目にするのも不愉快だ」と言うほど見栄えがしなかった。

ハンコックによると、それでも前より良くなっているといくら言ってもキーファーは聞く耳を持たなかったといい、ある時にはキーファーがサンデーサイレンスに対して辛らつな言葉を浴びせていると、ストーンファーム牧場長のピート・ローガンがケンタッキーダービー馬のような一流の競走馬にも様々なタイプがいるものだと口を挟み、「まあキーファーさん、世の中わかりませんよ。この馬だっていつかバラのレイが似合うようになるかもしれないじゃありませんか」と諭すと、キーファーは即座に「あのろくでなしにバラのレイが似合うのは、墓に入った後だけさ」と言い返したという。また気性が激しく、扱いの難しい馬であった。

1986年11月27日サンクスギビング・デーの日にウイルス性の腸疾患にかかり、数日にわたってひどい下痢を起こして生死の境をさまよった。何人かの牧場スタッフと敷地内に住居を構える獣医のカール・モリソンが付き添い、失われた水分を補給するため何リットルもの点滴をひっきりなしに行ったもののなかなか回復しなかった。その後怒りを抑えられなくなり仕事を投げ出したモリソンからは見放されたものの、1日中23リットルもの点滴を続け、危機を脱した。

1987年ケンタッキー州で行われる世界的に有名なセリ市のキーンランド・ジュライセールに出品されたが、馬体の見栄えが悪かったサンデーサイレンスはセレクトセールへの出品が許可されず、一般部門に出品された。サンデーサイレンスには1万ドルの値がついたが、安すぎると感じたハンコックは1万7000ドルで買い戻した。ハンコックは、サンデーサイレンスを買い戻したことをトム・ティザムに報告し、買い取ってもらおうとしたが、ティザムは「所有する意思がない」と答えた(テッド・キーファーのアドバイスによるものだった)ため、そのままハンコックが所有することとなった。翌1988年3月、サンデーサイレンスはカリフォルニア州で行われたトレーニングセールに出品されたが、希望販売価格の5万ドルに届かず、3万2千ドルでふたたびハンコックに買い戻された。さらにハンコックは複数の競馬関係者に購入の打診をしたが、ことごとく断られた。

ハンコックはサンデーサイレンスをキーンランド・ジュライセールで買い戻したあと、同馬を友人のポール・サリバンと半分ずつの持ち分で共有した。その後サリバンは、カリフォルニア州のトレーニングセールで買い戻された時期に所有する競走馬の調教費と相殺する形で調教師チャーリー・ウィッティンガムに持ち分を売却し、ウィッティンガムは、そのうちの半分を友人の医師アーネスト・ゲイラードに売却した。

しかし、カリフォルニア州からケンタッキーに戻るセリからの帰り道では、道のりの半ばのちょうどテキサス州ニューメキシコ州オクラホマ州との間に細長く突き出ているあたりに差し掛かったところでトラック運転手が突然心臓発作を起こして馬運車が大きく傾きながら横転する事故に遭った。サンデーサイレンスは奇跡的に一命を取り留めて競走能力こそ失わなかったものの、全身に無数の切り傷と打撲を負い、しばらくまっすぐに歩けなくなるほどの重傷を負った。このとき馬運車を運転していた運転手、馬運車に乗っていたサンデーサイレンス以外の競走馬はすべて死亡した。サンデーサイレンスはオクラホマ州の獣医病院に搬送され、2週間後に退院してケンタッキーに戻り、数週間放牧に出されて様子見されたが、症状は見られなかったため、競走馬としてのデビューできることになった。

競走馬時代

1988年・1989年

競走内容

同馬の所有権を4分の1持つチャーリー・ウィッティンガムがサンデーサイレンスを管理することとなった。調教を進めるなかでサンデーサイレンスの能力を感じ取ったウィッティンガムは、ハンコックに「あの真っ黒い奴は走る」と電話で報告し、ハンコックを驚かせた。サンデーサイレンスは1988年10月に初めてレースに出走したが2着に敗れ、翌11月に初勝利を挙げた。12月の一般競走でふたたび2着に敗れたあと、ウィッティンガムは余力を残した状態で休養をとらせることにした。

1989年3月2日、サンデーサイレンスはサンタアニタパーク競馬場で行われた一般競走でレースに復帰して優勝。さらに同月19日、重賞 (G2) のサンフェリペハンデキャップをスタートで出遅れながら優勝した。この段階で主戦騎手パット・ヴァレンズエラは「今まで乗った中でも最高の3歳馬」と評し、ウィッティンガムは「ケンタッキーダービーでも5本の指には入るだろう」と述べた。この頃から、ケンタッキーダービーの優勝候補としてサンデーサイレンスは競馬ファンに認識され始めた。

ウィッティンガムはサンデーサイレンスのケンタッキーダービー出走について、「サンタアニタダービーが終わるまでは分からない」とも述べていたが、4月8日にサンタアニタダービーを11馬身差というレース史上最大の着差で優勝したことを受けてケンタッキーダービー出走を正式に表明。4月半ばにはケンタッキーダービーに備え、同レースが行われるチャーチルダウンズ競馬場へサンデーサイレンスを移送した。

迎えたアメリカ三冠初戦のケンタッキーダービーはレース前日に20mmを超える雨が降り、1967年以来といわれる悪い馬場状態で行われ、さらに発走時の気温は摂氏6.1℃でレース史上最低であった。サンデーサイレンスはスタートで体勢を崩して他馬と激しく接触し、さらに直線では左右によれる素振りを見せたが、1番人気のイージーゴアに1馬身半の着差をつけ優勝。レース後、ウィッティンガムは「この馬は三冠馬になる」と宣言した。

第2戦のプリークネスステークスに出走するまでの過程は平坦なものではなかった。まずレース1週間前の5月13日、サンデーサイレンスの右前脚に問題が発生(獣医師の診断は打撲または血腫による跛行)し、レースの4日前まで調教が行えなくなるアクシデントに見舞われた。さらにサンデーサイレンスはレースまでの期間をピムリコ競馬場で過ごしたが、数百人にものぼる観光客やマスコミが馬房に押しかけ、サンデーサイレンスは苛立った様子を見せるようになった。陣営は馬房の扉を閉めてサンデーサイレンスを隔離する措置を講じた。ケンタッキーダービーを優勝したサンデーサイレンスであったが、実力はケンタッキーダービーで1番人気に支持されたイージーゴアのほうが上と見る向きが多く、プリークネスステークスでもイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であった。

レースは中盤を過ぎてからイージーゴアがサンデーサイレンスの外に進出し、サンデーサイレンスが前方へ進出するためのスペースを塞ぐ展開となった。そのままイージーゴアは先頭に立ったが、サンデーサイレンスが猛然と追い上げ、最終コーナーを回ると2頭の競り合いとなり、さらにサンデーサイレンスはイージーゴアが内から抜け出そうとするたびに外から馬体を合わせてイージーゴアに噛みつこうとした。15秒以上にわたる競り合いの末、数センチの差でサンデーサイレンスが先着し優勝した。このマッチレースはアメリカ合衆国の競馬専門誌『ブラッド・ホース』で行われた読者によるアンケートで、年間ベストレースに選出されている。

第3戦となるベルモントステークスでは三冠達成の期待がかかり、サンデーサイレンスは、イージーゴアと対戦したレースで初めて1番人気に支持された。レース前の盛り上がりはニューヨーク競馬協会が発行した取材許可証の多さにも表れ、その数は、ソ連(当時)の共産党機関紙「プラウダ」の記者分を含めて1300枚だった。

しかし、レースでは残り400メートルの地点でイージーゴアに交わされるとそのまま差を広げられ、8馬身の着差をつけられ2着に敗れた。レース後、三冠のプレッシャーはあったかと問われたウィッティンガムは、「三冠レースなんてプレッシャーとは言えないさ。プレッシャーなんてものは、50年前にサンフランシスコのハイポケッツ・ケリー・ホテルの一室に12人で寝泊まりしていて、しかも誰も部屋代を払える余裕がなかった頃以来、感じたことはないよ。あれこそプレッシャーと呼ぶにふさわしい心境だったな」と答えた。三冠達成はならなかったもののサンデーサイレンスは三冠レースで最高ポイントを得て、Visa提供のボーナス100万ドルを獲得した。

ベルモントステークス出走後、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシック優勝を次の目標に据えた。ウィッティンガムはじめ厩舎スタッフは、サンデーサイレンスが調教に行きたがらないそぶりを見せていたため体調の低下を感じ取っていたが、短い休養を取らせたあとで、6週間後にハリウッドパーク競馬場で行われるスワップスステークスに出走した。サンデーサイレンスは単勝1.2倍の1番人気に支持され、かつてウィッティンガムの下で助手をしていたニール・ドライスデールが管理するプライズドが6倍の2番人気に推された。プライズドには120ポンドのハンデが課され、サンデーサイレンスには三冠レースで全ての出走馬が背負うのと同じ126ポンドが課された。レースでは出走馬に逃げ馬がいないと判断したヴァレンズエラがサンデーサイレンスにハナを切らせ、残り1ハロンのところでは2番手との差を4馬身に広げていたが、直線半ばの発送ゲートが設置された地点の脇辺りに差し掛かったところで突如失速し、プライズドに交わされ2着に敗れた。レース後、ウィッティンガムはレース途中でほかの馬を引き離し過ぎたことに不満を表した。合田直弘はヴァレンズエラがサンデーサイレンスに鞭を入れ過ぎたことを敗因に挙げている。敗戦を受けて陣営は、万全の体調でブリーダーズカップ・クラシックに出走できるよう態勢を整えることにした。9月に入り、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシックに向けた前哨戦として、9月24日ルイジアナ州ルイジアナダウンズ競馬場で行われるスーパーダービーへの出走を決めた。この時期にはサンデーサイレンスの体調は回復しており、レースの2週前に行われた追い切りで1マイル1分33秒4、3日前には5ハロン59秒8を計時し、当日は単勝1.4倍で1番人気に支持された。レース序盤は後方に位置して最終コーナーから追い込み、残り1ハロンのところでは後続に10馬身の差をつけた。最後はヴァレンズエラが手綱を緩めて2着に6馬身の差をつけて優勝した。

ブリーダーズカップ・クラシックの1週間前、サンデーサイレンスの主戦騎手パット・ヴァレンズエラに対して薬物(コカイン)検査で陽性反応が出たことを理由に60日間の騎乗停止処分が下され、急遽クリス・マッキャロンに騎手が変更されるアクシデントがあった。しかしサンデーサイレンス陣営は、同期のライバルであるイージーゴアが抱えていた脚部不安が深刻化していたことを察知し、勝利に対する自信を深めた。ベルモントステークスのあとG1を4連勝したイージーゴアもブリーダーズカップ・クラシックに出走することが決まり、このレースはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決のような形となった。競馬関係者のなかには2頭の対決をボクシングヘビー級のタイトルマッチに例えたり「10年に一度の大一番」と呼ぶ者もいた。レースではイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であったが、残り200メートルの地点で先頭に立つとイージーゴアの追い上げをクビ差しのいで優勝した。レース後、ウィッティンガムはサンデーサイレンスを、自身が管理したなかで「文句なしに最高の馬」と評している。この年、サンデーサイレンスは北アメリカにおける1年間の獲得賞金記録(457万8454ドル)を樹立した。さらに翌1990年1月、1989年度のエクリプス賞年度代表馬、および最優秀3歳牡馬に選出された。

イージーゴアとの対決

三冠競走ではイージーゴアがサンデーサイレンスのライバルとなった。血統背景が優れている点、馬体が美しい点などから、イージーゴアはサンデーサイレンスとは対照的な馬とされる。イージーゴアはケンタッキーダービーが行われる前から、競馬マスコミによって「セクレタリアトの再来か?」、「今、その存在は伝説となりつつある」と評されるなど高い評価を集め、ケンタッキーダービー、さらには同レースでサンデーサイレンスに敗れた直後のプリークネスステークスでも1番人気に支持された。前述のように三冠競走をサンデーサイレンスの2勝1敗で終えたあと、イージーゴアがG1を4連勝し、サンデーサイレンスがG1のスーパーダービーを優勝して迎えたブリーダーズカップ・クラシックはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となり、「10年に一度の大一番」といわれた。2頭の関係はアファームドアリダーの再来、競馬史上最高のライバル関係と評された。血統評論家の吉沢譲治によると人気の面ではサンデーサイレンスの方が勝っていたとしており、「競馬場で売られるTシャツなどのホースグッズも、エリート血統のイージーゴーアものよりもサンデーサイレンスもののほうが圧倒的に多く、それがまた飛ぶように売れた」と述べている。

サンデーサイレンスとイージーゴアとの比較についてウィッティンガムは、サンデーサイレンスの得意距離は1600メートルから2000メートルで、イージーゴアは一流のステイヤーと述べている。レイ・ポーリックは、「サンデーサイレンスは敏捷な馬でコーナーを回りながら加速することができたため、カーブがきつい競馬場を得意とし、一方イージーゴアは長い直線では圧倒的なパワーを発揮するが、きついカーブを苦手としていた」と分析している。

なお、イージーゴアはクレイボーンファームで生まれた競走馬である。サンデーサイレンスの馬主アーサー・ハンコック3世はクレイボーンファームの経営者ブル・ハンコックの息子であったが、父の死後後継者に指名されなかったことに不満を覚え、クレイボーンファームと袂を分かった過去があった。さらにイージーゴアの名義上の生産者であり馬主であったオグデン・フィップスは、顧問としてクレイボーンファームの後継者指名に関与していた。

薬物疑惑

前述のように、サンデーサイレンスはプリークネスステークスの直前期に脚部に問題を抱え、短期間で回復した。サンデーサイレンスの治療にあたった獣医師のアレックス・ハートヒルによると、施された処置は脚部をエプソム塩に浸して血液の循環を促進したあとで患部に湿布を貼るというものであったが、同じ時期に、前述のように厩舎サイドが観光客およびマスコミに苛立つサンデーサイレンスを隔離するために、馬房の扉を閉める措置を講じたことから、馬房のなかで違法な処置がとられているという疑惑を口にするマスコミ関係者が現れた。三冠の最終戦のベルモントステークスを前に、ニューヨーク州の競馬当局は同レースが行われるベルモントパーク競馬場の厩舎エリアへのハートヒルの立ち入りを禁止した。

1990年

古馬になればもっと強くなる」というウィッティンガムの主張により、サンデーサイレンスは1990年も現役を続行することになった 。ブリーダーズカップ・クラシックのあと、サンデーサイレンスは脚部に複数の故障(膝の剥離骨折と軟骨の痛み)を発症したため、骨片の摘出手術を行ったあとで休養に入った。1990年の3月に調教が再開された際にウィッティンガムは「ここからきっかり3ヵ月でレースに出られるように仕上げてみせる」と宣言し、宣言通り6月のカリフォルニアンステークスでレースに復帰させた。このレースをサンデーサイレンスは逃げ切って優勝した。2着馬との着差は4分の3馬身であったが、これは今後のハンデキャップ競走で重い斤量を課されないために、着差をつけないで勝つようウィッティンが指示を出したためであった。なおこのレースでは、当初ブリーダーズカップ・クラシックでサンデーサイレンスに騎乗したクリス・マッキャロンが引き続き騎乗する予定であったが、当日に行われた別のレースでマッキャロンは落馬し、復帰まで5か月を要す大怪我を負った。これによりパット・ヴァレンズエラがふたたび主戦騎手を務めることになった。

続いてサンデーサイレンスは中2週ハリウッドゴールドカップに出走した。レースでは直線に入りクリミナルタイプとのマッチレースとなったが交わせず、アタマ差の2着に敗れた。敗因として、ウィッティンガムとヴァレンズエラはともにクリミナルタイプより5ポンド重い斤量を課されたことを挙げている。合田直弘とハンコックは、ヴァレンズエラが鞭を入れ過ぎたことを挙げている。

その後、サンデーサイレンスはアーリントンパーク競馬場がサンデーサイレンスとイージーゴアを対決させる意図で企画した特別招待レース(アーリントンチャレンジカップ、8月4日開催予定)を目標に調整された。7月半ばにイージーゴアが脚部の骨折により競走馬を引退し、対戦が不可能になってからも、出走予定は変更されなかったが、レース直前に左前脚をかばう素振りを見せた。診察の結果左前脚にある「XYZ靭帯」と呼ばれる、馬の体重を支えるのに不可欠と言われている靱帯に小さな断裂が見つかり、獣医師のハートヒルは引退を勧告。陣営はそれに従い、引退を決定した。

競走成績

【出走日】
【競馬場】
【競走名】
【格】
【着順】
【騎手】
【距離】
【着差】
1着(2着)馬
1988.10.30 | サンタアニタパーク | 未勝利 |  | 2着 | P.ヴァレンズエラ | D6.5f | クビ | Caro Lover
11.13 | ハリウッドパーク | 未勝利 |  | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D6f | 10馬身 | (Moment of Time)
12.03 | ハリウッドパーク | 一般競走 |  | 2着 | A.グライダー | D6.5f | アタマ | Houston
1989.03.02 | サンタアニタパーク | 一般競走 |  | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D6.5f | 4 1/2馬身 | (Heroic Type)
03.19 | サンタアニタパーク | サンフェリペH | GII | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D8.5f | 1 3/4馬身 | (Flying Continental)
04.08 | サンタアニタパーク | サンタアニタダービー | GI | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D9f | 11馬身 | (Flying Continental)
05.06 | チャーチルダウンズ | ケンタッキーダービー | GI | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D10f | 2 1/2馬身 | (Easy Goer)
05.20 | ピムリコ | プリークネスS | GI | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D9.5f | ハナ | (Easy Goer)
06.10 | ベルモントパーク | ベルモントS | GI | 2着 | P.ヴァレンズエラ | D12f | 8馬身 | Easy Goer
07.23 | ハリウッドパーク | スワップスS | GII | 2着 | P.ヴァレンズエラ | D10f | 3/4馬身 | Prized
09.24 | ルイジアナダウンズ | スーパーダービー | GI | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D10f | 6馬身 | (Awe Inspiring)
11.04 | ガルフストリームパーク | BCクラシック | GI | 1着 | C.マッキャロン | D10f | クビ | (Easy Goer)
1990.06.03 | ハリウッドパーク | カリフォルニアンS | GI | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D9f | 3/4馬身 | (Stylish Winner)
06.24 | ハリウッドパーク | ハリウッドゴールドCHS | GI | 2着 | P.ヴァレンズエラ | D10.0f | アタマ | Criminal Type

種牡馬時代

ハンコックは総額1000万ドル(1株25万ドル×40株)のシンジケートを組み、サンデーサイレンスにアメリカで種牡馬生活を送らせる予定だった。しかし、ヘイロー産駒の種牡馬成績が優れなかったことや、ファミリーラインに対する評価の低さから、種牡馬としてのサンデーサイレンスに対する評価は低く、株の購入希望者は3人にとどまり、種付けの申込みを行った生産者はわずか2人であった。

吉田善哉の銅像(左、北海道ノーザンホースパーク内)

そんな中、1990年はじめにハンコックから250万ドルで持ち分の半分(全体の4分の1)を買い取っていた吉田善哉が、サンデーサイレンスの購入を打診してきた。当時ハンコックは、ストーンファームの経営を拡大させる中で出来た負債を抱えており、さらにアメリカ全体が深刻な不況に苦しんでいた経済的事情から「他に道はない」と判断し、サンデーサイレンスを売却することにした。

吉田善哉が購入のために使った金額は1100万ドル(当時の為替レートで約16億5000万円)であった。吉田善哉の子の吉田照哉によると、取引成立には善哉とウィッティンガム、さらに照哉とハンコックとの間に交友関係があったことが大きく作用しており、「築きあげてきた人脈なくしては不可能だった」と語った。照哉はかつてクレイボーンファームに隣接するフォンテンブローファームの場長を務めたことがあり、その縁でハンコックとは親しい間柄であった。しかしながら、この取引は当時、「日本人のブリーダーがとても成功しそうにない母系から生まれたヘイロー産駒を買っていった」とアメリカの生産者の笑いものになった。一方、「欧米の超スーパーホースが、いきなり日本で種牡馬入りするというのはまずあり得ない」と考えられていた当時の日本競馬界では衝撃をもって受けとめられ、吉沢譲治は「野球に例えるなら、メジャーリーグで現役バリバリの奪三振王ホームラン王が、何かの間違いで日本の高校野球に入ったようなものだった」と評している。

作家の吉川良によると、吉田善哉がサンデーサイレンスの購入を思い立ったのは、同馬が勝ったプリークネスステークスのビデオを観たときのことだという。吉田善哉は吉川の前で「欲が出るね。これは忙しくなる。わたしか照哉がしばらくアメリカに下宿しなくちゃならなくなるかもしれんな」と述べた。実際に購入に踏み切った動機について作家の木村幸治は、「社台ファームで繋養されていた種牡馬ディクタス1989年9月20日に死亡したため、その後釜を探していた」のだと推測している。木村によると当時社台ファームにはノーザンテーストリアルシャダイ、ディクタスに続く種牡馬を導入し、生産馬について「同じ系統の馬だけが増加し、近親の度合いが濃くなり過ぎる」ことを解消しようとする動きがあった。吉田善哉は、サンデーサイレンスが勝ったブリーダーズカップクラシックを現地で観戦して帰国後、「サンデーサイレンスを早来に持ってくるぞ」と宣言した。ハンコックによると、購入交渉における吉田善哉の「サンデーサイレンスに対する執着心は度外れたものだった」。吉田善哉は、サンデーサイレンス産駒のデビューを見ることなく、1993年8月にこの世を去っている。吉田善哉は生前、吉川良に次のように語っていた。

ノーザンテーストと同じくらい走ると信じてるサンデーサイレンスの子を走らせればね、そのうち、何十年したって、日本のあちこちでサンデーの血が走るわけだね。わたしは生まれ変われないが、わたしのね、馬屋の意地は生まれ変われるんだ — 吉川1999、412頁。

吉田善哉に購入されたサンデーサイレンスは日本へ輸入され、1991年から社台スタリオンステーションで種牡馬生活を開始した。種牡馬入りに際し、総額25億円(4150万円×60株)のシンジケートが組まれた。シンジケートは満口となったものの、当初サンデーサイレンスの評価はさほど高くなかったうえに種付料が1100万円と高額であったため、期待されていたほどの交配申し込みはなく、もっとも多く交配したのは吉田善哉が経営する社台ファーム千歳(現在

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出典:wikipedia
2020/06/29 23:15

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