このキーワード
友達に教える
URLをコピー

ザ・ドリフターズとは?

 | 

この記事には複数の問題があります改善ノートページでの議論にご協力ください。

  • 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2018年10月)
  • 独自研究が含まれているおそれがあります。(2018年10月)
  • 雑多な内容を羅列した節があります。(2018年10月)

 | 
テレビ番組内での各種情報(終了した番組を含みます)は、DVDやBlu-rayなどでの販売や公式なネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい検証可能性に基づき除去される場合があります。

ザ・ドリフターズ

【別名】
いかりや長介とザ・ドリフターズ
【出身地】
日本
【ジャンル】
コミックソング
ロカビリー
【活動期間】
1956年 -
【レーベル】
東芝レコード
(東芝音楽工業→東芝EMI)

ワーナー・ブラザース・パイオニア
サウンズ・マーケッティング・システム
EXPRESS/EMI RECORDS
(EMIミュージック・ジャパンユニバーサル ミュージック)
【事務所】
イザワオフィス
【公式サイト】
「ザ・ドリフターズ」公式サイト
【】

【メンバー】
加藤茶(ドラムスボーカル)
高木ブー(リードギターキーボード)
仲本工事(リズムギターボーカル)
志村けん(ギター)
【】

【旧メンバー】
いかりや長介(ベース)
荒井注(オルガン)
その他多数
(詳細は「前期バンド時代のメンバー」を参照のこと)
ザ・ドリフターズ

【メンバー】
いかりや長介(故人)-2004年3月
高木ブー
仲本工事
加藤茶
志村けん1973年12月-
荒井注(故人)-1974年3月
すわ親治 1970年-1985年9月末
【別名】
ドリフ
【結成年】
1964年
【事務所】
イザワオフィス
【出身】
音楽バンド
【現在の活動状況】
不定期・再放送
【芸種】
喜劇コント
【過去の代表番組】
8時だョ!全員集合
ドリフ大爆笑
【同期】
コント55号 横山やすし・西川きよし
笑福亭仁鶴 六代目桂文枝など
【公式サイト】
「ザ・ドリフターズ」公式サイト

ザ・ドリフターズ(: The Drifters)は、日本の音楽バンドおよびコントグループである。1969年頃までバンドを主活動とし、それ以降は主としてコントグループとして活動した。通称はドリフ1970年代から1980年代中頃を全盛期に、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活動した。

目次

  • 1 概要
    • 1.1 所属事務所
    • 1.2 メンバー構成
    • 1.3 芸名の由来
    • 1.4 ミュージシャンとしてのドリフ
    • 1.5 コメディアンとしてのドリフ
  • 2 メンバー
    • 2.1 加藤茶
    • 2.2 高木ブー
    • 2.3 仲本工事
    • 2.4 志村けん
  • 3 元・新生ドリフメンバー
    • 3.1 綱木文夫
    • 3.2 荒井注
    • 3.3 いかりや長介
  • 4 付き人
  • 5 前期バンド時代のメンバー
  • 6 関係者
  • 7 ドリフの歴史
    • 7.1 前期バンド時代
    • 7.2 新生ドリフ時代
  • 8 TV出演
    • 8.1 主な出演番組
    • 8.2 主なCM出演
    • 8.3 NHK紅白歌合戦出場歴
    • 8.4 補足
  • 9 ディスコグラフィー
    • 9.1 シングル
    • 9.2 プロモーション・シングル
    • 9.3 アルバム
      • 9.3.1 オリジナルアルバム
      • 9.3.2 ベストアルバム
    • 9.4 タイアップ曲
    • 9.5 その他
  • 10 書籍
  • 11 主演映画作品
  • 12 脚注
  • 13 関連項目
  • 14 外部リンク

概要

1956年にマウンテンボーイズ(1952年 - 1955年)と東京ウエスタンボーイズが合併して結成(参考 [2])。クレージーキャッツの後輩。結成当初から4年ほどは音楽バンドとして活動していた。楽曲主体による音楽ネタなどを得意としており、テレビや映画出演が多くなるにつれ、コミックソング、コントやギャグが主体となっていった。

当たりギャグは『8時だョ!全員集合』の欄を参照。

所属事務所

いかりや長介リーダーに就任した当時は前リーダーの桜井輝夫が個人オーナーとしてメンバーの面倒をみる形をとっていたが、小野ヤスシら4人がドンキーカルテットを結成して脱退、かわって荒井注高木ブー仲本工事綱木文夫が加入し6人体制の新生ドリフに切り替わった。

間もなく綱木が脱退したものの、この時は代替のメンバーを募集せずに5人構成に減らしたが、活動が安定すると桜井はドリフの将来を見越してすべての権利を渡辺プロダクションに譲り渡した。1979年より当時のマネージャーだった井澤健(後述)が全額出資で立ち上げた「イザワオフィス」にいしだあゆみらとともに移籍した。

過去に所属していたレコード会社は東芝音楽工業(→東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン→現名称:ユニバーサル ミュージック合同会社)で、デビュー当初より在籍していた。なお、東芝音楽工業在籍中「ドリフのツーレロ節」のみ、当時渡辺プロが出資していたワーナー・ブラザース・パイオニア(→ワーナー・パイオニア→現名称:ワーナーミュージック・ジャパン)から出ている。また、「ドリフの早口ことば」及びドリフメンバーが歌唱に参加していない『全員集合』使用曲「『ヒゲ』のテーマ」「ドリフのわんダードッグ」は、渡辺プロの関連企業だったサウンズ・マーケッティング・システム(→アポロン→バンダイ・ミュージックエンタテインメント→ランティス→現名称:バンダイナムコアーツ)から発売された。

メンバー構成

前期バンド時代のメンバーは、当時のバンド移籍文化もあり、移り変わりが激しかった。

初期のメンバーには、坂本九小野ヤスシらがいたが、このうち小野は新リーダーになったいかりやに反発して、ジャイアント吉田(現在、催眠カウンセラーの吉田かずお)らとともに4人で脱退し、ドンキーカルテットを結成した。その時、残ったのはいかりやと加藤だけであった。

その後、新生ドリフになってからは、1年後に前述の綱木の脱退こそあったものの、それ以降はメンバーはほぼ固定され、常時5人の構成が取られるようになった。ただし、荒井注の活動休止宣言(実質的な脱退宣言)の際には志村けんが正式見習いとして加入し、一時的に6人構成となった。また、いかりやの著書では、すわしんじ(現:すわ親治)の活躍ぶりにより、正メンバーではないが彼を6人目のメンバーと見なしている。他に付き人は大勢在籍していたが、メンバーとして紹介されることはない。なお、いかりや没後には新メンバーを加入させる予定はなく、現在4人の構成となっている。

いかりやの著書によれば、いかりやは「自分が加入した当初のドリフターズがそうだったように、荒井が志村に交代したような形でメンバーを徐々に入れ替え、自分のようにネタを創れる志村とすわを中心にした新メンバーでドリフを継続する」ことを計画していた。

芸名の由来

新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格でドリフのメンバー達にとって憧れの存在だった「クレージーキャッツ」のリーダー・ハナ肇

なお、後に加入した志村は自分の父親の名前より芸名を決め、すわの芸名はいかりやにより名付けられた(各人の芸名の由来は各人の項参照)。

こうした経緯から、クレージーキャッツをドリフターズの師匠格とするような記述もあるが、個人やグループを問わず、特に芸について指導を受けたわけではないのでこれは正確ではない。

ミュージシャンとしてのドリフ

「新生ドリフ」はカバー曲や替え歌が主体のため、コミック・ソングとしては、「クレージーキャッツ」より低く見られがちだが、初期の多くの曲を手がけたなかにし礼の作詞と川口真のアレンジは、独自の「ドリフ・ミュージック」を作り上げた。

1966年6月30日、ビートルズ日本公演の前座を務めた。僅か1分15秒の出演時間ではあったが、前座用のステージではなく、ビートルズと同じメインステージで演奏した(ただし、加藤のドラムセットはリンゴ・スターのものとは隔離されていた)。これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。

「新生ドリフ」以降は歌謡グループとしての活動も顕著となり、コミックソングのほか、民謡軍歌等、日本で歌い継がれてきた曲の替え歌を多くレコードに吹き込む(ディスコグラフィーの項参照)。

1970年に「第12回日本レコード大賞大衆賞」を受賞し、同年「ドリフのズンドコ節」で「第1回日本歌謡大賞放送音楽賞」をそれぞれ受賞している。「ズンドコ節」は、1969年11月1日発売、オリコン最高位2位、売り上げ枚数115万枚以上という、大ヒットを記録。他にも、数十万枚のシングルヒット、または10位以内にランクインした曲は4-5はある。その1970年には、他の民放などでもいくつかの賞を受賞をする。この年の『第21回NHK紅白歌合戦』に出場が内定していたが、加藤茶の交通事故により出場を辞退した。

後述の通り、新生ドリフになった後は、グループの活動はお笑いが中心となったが、音楽活動は各メンバーごとに継続されており、全く音楽活動を休止した訳ではなかった。1990年代以降は、加藤、仲本、高木が『こぶ茶バンド』を結成する形でバンド活動を再開している。

2001年12月31日の『第52回NHK紅白歌合戦』にて、ドリフは正式な出場歌手として初出場を果たした(メンバーが応援に来たことは過去にもあった)。同年8月に放送された、『第33回思い出のメロディー』に出演したことがきっかけで選出となり、往年のヒットメドレーを披露した。

コメディアンとしてのドリフ

元々ドリフは純粋なバンドであり、お笑いとは程遠い存在だったが、桜井輝夫がリーダーになってからは、コミックの要素を音楽に取り入れるようになった。当時のドリフターズは出演の最初はメンバーが各ポジションでワンフレーズ演奏をして、いかりやの「全員集合」の一声で全員が舞台前面に出てきてコントを始めていた。これが後のキャッチフレーズとして使われる「全員集合」の由来である。コントの中身もそれぞれの楽器を使った音楽がらみの物が多かった。そして新生ドリフになった後からは、グループの活動はお笑いが中心となっていった。

1970年代になると憧れていた先輩バンドである、「ハナ肇とクレージーキャッツ」に取って代わる形でドリフターズが人気になった。

お笑いとしては、グループを生かした色々なパターンを生み出す。特に『ドリフ大爆笑』の「もしもシリーズ」では、ボケと突っ込み以外の「呆然とするいかりや」で笑いを取るという新しいパターンを生んだ。いかりや自身は、自らのグループを「お笑いの能力は一流でない」と卑下し、新生ドリフ初期のライバルであるコント55号に対抗する意味で、アドリブ無しの徹底的に練られたストーリー作り、練習でカバーし、土曜8時戦争と呼ばれるお笑い番組の視聴率争いで、長年にわたって優位を保った。

志村が正式メンバーになる前後でチームの笑いのパターンは変化している。ドリフ再結成直後は高木ブーを中心にした笑いだったが、すぐに加藤茶を中心としたコントに変更され、のっぽ(権力者役のいかりや)、でぶ(無芸大食の高木)、めがね(風見鶏、インテリ役の仲本工事)、はげ(ふてぶてしいおじさん役の荒井)、ちび(いじめられ役の加藤)という、吹き溜まりの集団内での人間関係というチームワークで、加藤がオチを取っていた。それと同時に「いかりやから加藤を中心として4人共にいじめられながらも表向きは従い、機会を見ては権力者であるいかりやに前述のキャラクターを生かしたそれぞれの方法で時には共謀して歯向かい、形勢がいかりやに戻るとその4人がそれぞれの個性をもった方法でばらばらになり、要領の悪いメンバー(加藤)だけがバレて犠牲になる」といった社会的な縮図を指摘する者もいる。時折、加藤といかりやとの権力争いの結果、リーダーの座が逆転したり始めから加藤がリーダーとなるパターンもあった。また、音楽の要素を残し、笑いに取り入れている時代でもあった。

後期は、まともでない役のメンバー(特に志村)に、いかりやが突っ込みを入れたり振り回されるという笑いのパターンになり、イントロの高木、つかみの仲本、オチの加藤、さらに加藤のオチよりパワーアップした奇天烈な行為をする志村という各々の順番でいかりやが突っ込みを入れていった。あるいは、金田一コントのように志村の独り舞台に近いものになり、加藤を含め他の四人は脇に回ることも多くなった。しかし、荒井の脱退から志村への交代で定着するまでには2年近くもの時間がかかった。この間、志村を前面に押し出そうと、他のメンバー、特にいかりやと加藤によるサポートがあった。

その後3枚目としての仲本も強調されたが、一方で志村はいかりやの演出を無視してアドリブでギャグを入れることがしばしば見受けられ、リハーサルでダメ出しをされても、実行してしまうこともあった。これは、「緻密なストーリーと演出に基づいたドリフコント」を崩すこととなったが、ハプニング時には他のメンバーもそれを乗り切るためにアドリフで対処したこともあった。

撮影用ではあるが、ケーキや鶏卵、牛乳などといった食べ物を粗末にするネタ、下品なコントが多く、また「金たらい落しや一斗缶で殴るなど、子供が真似ると危ない」などという名目の内容も含めてPTAの目の仇にされたが、メンバー以外の他人の誹謗や中傷をネタにすることはなく、かつ素人いじりをしなかった。また、体を張ったギャグや音楽ネタも多い。いかりやの著書によれば、いかりやが米兵相手にコミックバンドをしていた体験からこのような芸風を後々まで引き継ぐことになったという。

日本だけでなく、台湾などでも人気がある。

他の芸能人へも影響があり、『8時だョ!全員集合』、『ドリフ大爆笑』、テレビ朝日ドリフと女優の爆笑劇場』等の番組にゲスト出演した俳優、アイドル、歌手までもが、番組内では本来のイメージを越えた役作りやギャグをすることを、バーチャルなお笑いドラマやコント出演としてファンからも認められ、またドリフと一緒にコントをやりたいために自ら希望して演じる者も多数出てきた。そういったゲストからお笑いとしての個性を引き出され、新たな方向性や個性をも作っていった者も少なくない。また、実際に主に立ち回りながらしゃべって笑いを引き出すのはメンバーであっても、ゲストが笑いの中心であるように見せる企画力や技術もあった。

メンバー

加藤茶

詳細は「加藤茶」を参照

(1943-03-01) 1943年3月1日(76歳) 本名:加藤英文(かとう ひでゆき)

高木ブー

詳細は「高木ブー」を参照

(1933-03-08) 1933年3月8日(86歳) 本名:高木友之助(たかぎ とものすけ)

仲本工事

詳細は「仲本工事」を参照

(1941-07-05) 1941年7月5日(78歳) 本名:仲本興喜(なかもと こうき)

志村けん

詳細は「志村けん」を参照

(1950-02-20) 1950年2月20日(69歳) 本名:志村康徳(しむら やすのり)

元・新生ドリフメンバー

綱木文夫

荒井注

詳細は「荒井注」を参照

(1928-07-30) 1928年7月30日 - (2000-02-09) 2000年2月9日(71歳没) 本名:荒井 安雄(あらい やすお)

いかりや長介

詳細は「いかりや長介」を参照

(1931-11-01) 1931年11月1日 - (2004-03-20) 2004年3月20日(72歳没) 本名:碇矢長一(いかりや ちょういち)

付き人

すわしんじ
詳細は「すわ親治」を参照

(1952-11-14) 1952年11月14日(66歳) 本名:諏訪園 親治(すわぞの ちかはる)

前期バンド時代のメンバー

ドリフは元々バンドであり、コントを行っていたわけでなく、前期バンド時代には大御所ミュージシャンが在籍していた。

岸部清(1931年1月3日 - 2019年2月11日)(88歳没)
初代リーダー。ギター担当。元・東京ウエスタンボーイスの出身。1959年の春頃に脱退。1956年秋マウンテンボーイズとの合併により、サンズ・オブ・ドリフターズのリーダーとなる。1959年桜井輝夫にリーダーの座を譲り脱退して渡辺プロマネージャーとなる。その後芸能事務所第一プロダクション」社長を歴任したが第一プロは2017年9月に業績の悪化と岸部の高齢化もあり解散。音楽出版社協会(MPA)副会長、音事協の名誉理事を兼任。2019年2月11日、肺癌により死去。
大野義夫(1931年9月9日 - )(87歳)
結成当時のメンバーで、元・マウンテンボーイズの出身。1957年2月に脱退。バンジョー担当。現在も芸能活動をしているが、メディアへの露出は殆ど無く、稀にラジオ番組などにゲスト出演する程度。現在も現役で音楽活動をしており、「大野義夫&カントリーメイツ」を率いてライブ・コンサート・ディナーショーなどを行っている。結成当時の元メンバーで現在もシンガーもしくは器楽奏者として音楽関係に携わっていることが判明している唯一の人物である。なぎら健壱寺本圭一との親交が深く、元メンバーではジャイアント吉田、現ドリフメンバーの中では高木ブーと親交がある。
山下敬二郎(1939年2月22日 - 2011年1月5日)(71歳没)
ボーカル担当。1957年11月脱退。ドリフ脱退後に人気が爆発し、一世を風靡したロカビリー歌手。平尾昌晃ミッキー・カーチスと並んで「ロカビリー三人衆」と呼ばれる。実父は落語家喜劇俳優柳家金語楼。本人はコメディの分野には進んでいないが、『ドリフ大爆笑』に1977年ブームでロカビリーブームのコントに出演している。2011年1月5日胆管がんによる腎不全のため死去 71歳没
吉田博久
結成当時のメンバー。スティール・ギター担当。1959年の末に脱退。
鈴木修
結成当時のメンバー。ベース担当。1959年の末に脱退
桜井輝夫(1931年1月- )(88歳)
2代目リーダー。ギター、ボーカル担当。1965年の夏頃に脱退。1959年の末に岸部リーダー時のメンバーが小野以外全員脱退した後、脱退しなかった小野ヤスシ、新加入のポン青木、高橋一を誘って4人で解散寸前のドリフターズを再結成させる。ドリフをロカビリーからコミックバンドに転向させる際、桜井はコミックに精通していなかったため、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズより碇矢長一をヘッドハンティング。一般的に知られている5人のメンバーになったドリフメンバーの中では、いかりやと加藤のみが桜井リーダー時のメンバーとして在籍(荒井・高木、仲本の3人も居るには居たが、3人は桜井がオーナーの立場になってからの加入)。1964年の秋、リーダーの座を正式にいかりやに譲り、1965年にドリフの管理を渡辺プロダクションへ譲渡して脱退。フジテレビ系バラエティ番組『ウチくる!?』の2001年10月7日放送分において、加藤茶がゲスト出演した際に、加藤の芸能界の恩師として登場したことがある。
井上ひろし(1941年8月23日 - 1985年9月19日)(44歳没)
ボーカル担当。1959年11月に脱退。水原弘守屋浩と並んで「三人ひろし」と呼ばれるロカビリー歌手。山下の脱退後、ドリフのバンドボーイから昇格。長身と甘いマスクで女性ファンを魅了した。映画「青春を賭けろ」にも出演。代表曲は「雨に咲く花」。ドリフ脱退後も暫くは売れていたものの、その後は鳴かず飛ばずで料理人になるための勉強を始めるが急性心筋梗塞のため44歳という若さで死去。
坂本九(1941年12月10日 - 1985年8月12日)(44歳没)
ボーカル・ギター担当。1958年11月脱退。雑誌「ミュージックライフ」1958年10月号によれば、1958年5月に井上ひろしとドリフターズのボーヤとして加入し8月に正メンバーとなってボーカルをやっていた。同年8月、第3回日劇ウエスタンカーニバルにメンバーとして出演したが、ドリフターズではメインボーカルになることが出来ないという理由により12月にダニー飯田とパラダイス・キングに移籍の形で脱退。「8時だョ!全員集合」の第1回放送にゲスト出演している。1985年には日本航空123便墜落事故で死去 44歳没
小野ヤスシ(1940年2月11日 - 2012年6月28日)(72歳没)
元・正メンバー(1959年 - 1964年)。コンガ、ボーカル担当。1964年の秋に脱退。井上ひろしとザ・ドリフターズの最末期に加入。加入直後はメンバーの小山仁義の家に居候していたという。1964年の夏にいかりやと対立してドリフを脱退。後述するクーデターにより、ドリフが現在のメンバー構成となるきっかけを作った人物である。小野脱退以後のメンバー構成が世間では「ドリフターズ」と認知されているためか、彼がドリフメンバーだったことを知っている者は少ない。脱退後、後述する他のドリフ脱退メンバーと共にドンキーカルテットを結成。1970年よりソロ活動となり、バラエティー番組で活躍。ドリフ脱退後も加藤との交友関係は続き、1993年には加藤、仲本と共に「加トちゃんBAND」を結成している。腎盂がんのため都内の病院で死去 72歳没
ポン青木
1960年に桜井輝夫とザ・ドリフターズにメンバー入り。ビブラフォン担当。1962年に脱退。いかりやがドリフに加入して暫くの後にスクラップサウンズに移籍の形で脱退。いかりやの著書では、青木はコミックに前向きだったと述べている。脱退原因は不明だが、既に故人であることが判明している。脱退後、1970年代には真木ひでとのマネージャーを務めていたが白血病により40代の若さで他界した。
高橋一
桜井輝夫に誘われてポン青木とともにメンバー入りし、解散寸前だったドリフの復活に尽力したが、担当楽器やいつごろ脱退したのかなどの詳細については資料が無く、不明。
田中良夫
桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。テナー・サックス担当。1962年に脱退。加藤をドリフターズに加入するよう誘い、メンバーに加入させている。桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り、コミックの比重が強まった頃に完全なコミックバンド化に反対して脱退。
三好明
桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。ピアノ担当。1962年に脱退。桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り、コミックの比重が強まった頃に完全なコミックバンド化に反対して脱退。
小山威
エレ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/07/23 05:28

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「ザ・ドリフターズ」の意味を投稿しよう
「ザ・ドリフターズ」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

ザ・ドリフターズスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ザ・ドリフターズ」のスレッドを作成する
ザ・ドリフターズの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail