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シカゴ・カブスとは?

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シカゴ・カブス
Chicago Cubs

1871年創設
 | 

所属リーグ

チーム名
  • シカゴ・カブス (1902年 - )
    • シカゴ・ホワイトストッキングス (1876年 - 1889年)
    • シカゴ・コルツ (1890年 - 1897年)
    • シカゴ・オーファンズ (1898年 - 1901年)
    • シカゴ・カブス (1902年 - )

本拠地
1876-現在

永久欠番

獲得タイトル(獲得年)
ワールドシリーズ優勝(3回)

リーグ優勝 (17回)

地区優勝 (7回)
  • 1984
  • 1989
  • 2003
  • 2007
  • 2008
  • 2016
  • 2017

ワイルドカード (2回)
  • 1998
  • 2015

球団組織
オーナー | トム・リケッツ
GM | ジェド・ホイヤー
監督 | ジョー・マドン

シカゴ・カブス(英語: Chicago Cubs、略称:CHC)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)ナショナルリーグ中地区所属のプロ野球チーム。本拠地はイリノイ州シカゴにあるリグレー・フィールド

目次

  • 1 概要
  • 2 球団の歴史
    • 2.1 球団創設
    • 2.2 カブス〜2度の世界一
    • 2.3 1910年代 - 1930年代
    • 2.4 黄昏のホームラン
    • 2.5 ビリー・ゴートの呪い
    • 2.6 低迷期(1950年代 - 1970年代)
    • 2.7 復活の兆し(1980年代)
    • 2.8 サミー・ソーサの登場
    • 2.9 2003年:スティーブ・バートマン事件
    • 2.10 2004年以降
    • 2.11 2015年:悲願達成ならず
    • 2.12 2016年:呪いが解けた年、そして108年ぶりのワールドチャンピオン
  • 3 日本の商標登録問題
  • 4 映画の中で描かれたカブス
  • 5 選手名鑑
    • 5.1 現役選手・監督・コーチ
    • 5.2 殿堂入り選手
    • 5.3 永久欠番
  • 6 傘下マイナーチーム
  • 7 脚注
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク

概要

シーズン成績の詳細については年度別成績一覧を参照

アトランタ・ブレーブスと共に1871年創設の古い球団であり、創設以来本拠地を移転していないチームとしては最も長い歴史を持つ。メジャーリーグ黎明期はナショナルリーグ優勝16回、ワールドシリーズ優勝2回を誇る強豪だったが、その後は長期に渡って優勝を果たせず、リーグ優勝は1945年から2016年まで71年間、ワールドシリーズ優勝に至っては1908年から2016年まで108年間遠ざかっていた。

2003年のフロリダ・マーリンズとのナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ(NLCS)第6戦では、ワールドシリーズ進出まであとアウト5つまで迫りながら、ファウルボールを取ろうとしたファンの妨害が一因となり敗退。これは、かつて山羊を連れて観戦しようとしたところ入場を拒否された「ビリー・ゴートの呪い」ではないかと言われている。しかし、この呪いも2016年のリーグ優勝により解かれることになった。

MLBでも屈指の人気チームで、同じくシカゴを本拠地とするシカゴ・ホワイトソックス(2005年のワールドチャンピオンチーム)を人気面では凌駕している。ホワイトソックスが市南部で人気があるのに対して、カブスは市北部での人気が高い。ナイトゲームの試合数が制限されるリグレー・フィールドをホームスタジアムとしながら安定した集客を誇っている。同地区のセントルイス・カージナルスとは熾烈なライバル関係にあり、イリノイ州内の地域によってはホワイトソックスと共に人気を三分している。

本拠地球場のリグレー・フィールドは、ボストン・レッドソックスフェンウェイ・パークに次ぎ、全米で2番目に古いMLBの球場として有名。外野フェンス全体を覆うツタが名物となっており、これは1937年に当時のオーナーであるビル・ベックが考案したものである。

2008年4月23日にサンフランシスコ・ジャイアンツに次いで『メジャーリーグ通算10,000勝』に到達。日本人選手では、2008年から福留孝介が所属したが、11年にクリーブランド・インディアンスにトレード。2008年には、3年ぶりのメジャー復帰を目指す高津臣吾ともマイナー契約を結んだが、スプリングトレーニング途中で自由契約。2009年は田口壮門倉健がマイナー契約でスプリングトレーニングに参加したが、門倉のみメジャー昇格は果たせず。2013年は高橋尚成藤川球児が所属した。2014年は前年に続き藤川が所属し、和田毅が渡米3年目でメジャーデビューを果たした。2015年は前年に続き和田が所属した。2016年は川崎宗則が所属した。2017年は上原浩治が所属した。2018年からはダルビッシュ有が所属する。

球団の歴史

球団創設

シカゴ・ホワイトストッキングス(1885年)。上段中央がキャップ・アンソン

1871年、ナショナル・アソシエーションに加盟し、プロ球団として誕生。加盟当初はシカゴ・ホワイトストッキングスという名前だった。しかし、同年に起こったシカゴ大火によって球場や備品が全て焼け落ち、チームは丸2年間に渡って活動できない状況に陥る。1876年、同チームのオーナーだったウィリアム・ハルバートらによってナショナルリーグが創設され、同リーグに加盟。同年には監督兼投手を任されたアルバート・スポルディングの下、52勝14敗という成績で初代チャンピオンに輝いた。スポルティングはほぼ全ての試合に出場し、47勝12敗で初代最多勝を獲得している。後にスポルティングはスポーツ用品メーカーであるスポルティング社(現在ではNBAの公式球を製造していることで知られる)を創設し、ホワイトストッキングスの理事長に就任するなど、野球界の発展に尽力した。

1879年にはキャップ・アンソン選手兼任監督に就任し、1880年から1886年にかけて5度の優勝を果たした。アンソンは強烈なリーダーシップを発揮し、現在のチーム運営の基礎を作る。時には鉄拳制裁も厭わない厳しい采配を行う反面、選手がのびのびとプレーできる環境を作ることに尽力した。ヒットエンドランや投手の先発ローテーションスプリングトレーニングを導入したのも彼だった。選手としても優秀で27年間の現役生活で史上初の3000本安打を達成している。しかし、アンソンは強い人種差別主義者でもあり、当時存在した黒人選手をリーグから全て追い出すことを主張した。アンソンは白人選手チームとしか対戦せず、黒人選手チームとの対戦は練習試合でさえ拒んだといわれる。これが元となりMLBの黒人選手排斥は、ジャッキー・ロビンソンが現れる1940年代後半まで及ぶこととなる。

カブス〜2度の世界一

シカゴ・カブスの優勝メンバー(1906年)。この年シーズン最多の116勝を挙げた。

その後、1894年にコルツ、1898年にオーファンズとチーム名を変え、1903年に現在のカブス(小熊を意味する)に定着した。かつてボストン・ビーンイーターズ(現:アトランタ・ブレーブス)を5度のリーグ優勝に導いたフランク・セレーによるチーム再建は20世紀に入り徐々に成果を挙げ始めていたが、セレーは1905年のシーズン途中に結核のため監督を退き、フランク・チャンスが選手兼任監督に就任した。「比類なきリーダー」と言われたチャンス率いるカブスは、1906年にはシーズン最多記録となる「116勝」を挙げリーグ優勝を果たした。この頃のカブスは「スリーフィンガー(三本指)」の愛称で知られるモーデカイ・ブラウンをはじめ、エド・ロイルバックジャック・フィースターカール・ラングレンオーバル・オーバーオールといったシーズン防御率1点台で投げきれる投手を多く抱える投手王国を形成し、一塁手チャンス、二塁手ジョニー・エバース、遊撃手ジョー・ティンカーによる内野陣は多くの併殺プレーを見せた。初めて挑んだワールドシリーズでは同じシカゴを本拠地とするシカゴ・ホワイトソックスと対戦。この年のホワイトソックスもエド・ウォルシュをはじめとした強力な投手陣を擁していたが、「ヒットレス・ワンダーズ」と呼ばれたように極度の貧打のチームであり、戦前の予想では攻守共に圧倒的なカブスが有勢と見られた。しかしシリーズではホワイトソックスの強力な投手陣の前にカブス打線が沈黙し、結果2勝4敗で敗れた。

翌1907年も107勝をあげ、リーグ2連覇。雪辱を期すワールドシリーズではタイ・カッブを擁するデトロイト・タイガースと対戦した。そして今度はカブス投手陣がタイガース打線を抑え込み、4勝1敗でこれを下して初のワールドチャンピオンに輝いた。1908年はニューヨーク・ジャイアンツとの激しい首位争いを演じ、プレーオフの末にリーグ3連覇。2年連続でタイガースとの対戦となったワールドシリーズも4勝1敗で制し、2年連続のワールドチャンピオンに輝いた。

1910年代 - 1930年代

1910年のリーグ優勝以降、しばらくチームは優勝から遠ざかることとなる。1913年にはエバース、1916年にはティンカーがそれぞれ選手兼任監督を務めたが、どちらも優勝には届かなかった。1916年には本拠地を現在のリグレー・フィールドに移した。この球場は元々は1914年には「第3のリーグ」としてMLBへの加入を求めていたフェデラル・リーグシカゴ・ホエールズの本拠地球場だったが、1915年のフェデラル・リーグ解体の際、ホエールズの経営陣(チャールズ・ウィーグマン、ウィリアム・リグレーら)にカブスが譲渡されたの期に、老朽化が進んでいたウエスト・サイド・パークから移転する形となったものである。1918年にカブスはリーグ優勝を果たしたが、この球場で初開催となったボストン・レッドソックスとのワールドシリーズでは当時投手を務めていたベーブ・ルースに2敗を喫し、2勝4敗で敗れている。以降は再び優勝とは縁のないシーズンが続いた。

1926年、後にニューヨーク・ヤンキースで黄金時代を築くことになるジョー・マッカーシーが監督に就任。1929年にはロジャース・ホーンスビーを獲得し、この年には久々のリーグ優勝を果たした。翌1930年のシーズン途中にマッカーシーがチームを離れると、ホーンスビーが選手兼任監督に就任。同年にはハック・ウィルソンが当時のナ・リーグ記録となる56本塁打、MLB最多となる191打点を記録したが、セントルイス・カージナルスに優勝を奪われてしまった。翌1932年には3位に沈むなど、成績が振るわなかったことから1932年のシーズン途中でホーンスビーは監督を解任され、一塁を守っていたチャーリー・グリムが選手兼任監督に就任する。グリムが監督になるとチームは一気に白星を重ね、首位ピッツバーグ・パイレーツをかわしてリーグ優勝を果たす。しかし、ワールドシリーズではマッカーシー率いるヤンキースと対戦し、第3戦ではルースの予告ホームランが飛び出すなど、いいところなく4連敗を喫してしまった。その後はグリム監督の下でチームは安定した強さを誇り、1935年にもリーグ優勝を果たすものの、ワールドシリーズではタイガースに敗れ、またしてもワールドシリーズ制覇はならなかった。

黄昏のホームラン

1938年のシーズン途中、グリムに代わって捕手のギャビー・ハートネットが選手兼任監督に就任したが、カブスは首位のパイレーツを猛追し、シーズン最後の直接対決である2試合を残した時点で0.5ゲーム差まで迫った。その直接対決第1戦で5対5のまま9回表が終わり、辺りが暗くなった9回裏、2アウトとなったところでハートネットに打順が回った。当時リグレー・フィールドには照明施設がなく、これ以上の試合続行は不可能と判断され、同点のまま9回が終了すれば、翌日に再試合が行われることとなっていた。その状況で2ストライクと追い込まれた3球目、ハートネットの放った打球は夕闇迫るレフトスタンドに飛び込み、逆転勝利を収めた。その後、第2戦でも勝利を収め、チームはリーグ優勝を決めた。このチームを優勝に導いたハートネットのホームランは「黄昏のホームラン」と呼ばれ球史に残る一発として知られている。

ビリー・ゴートの呪い

第二次世界大戦が始まる1940年代に入ると、勝率5割を切るシーズンが続いたが、戦争が終わった1945年にはグリムが監督に復帰し、16回目となるリーグ優勝を果たす。

しかし、タイガースとのワールドシリーズでは3勝4敗で惜しくも敗れ去った。このシリーズの2勝1敗とカブスがリードして迎えた第4戦では、地元バーの店主でカブスの熱狂的なファンのビリー・サイアニスがペットのヤギを連れて入場しようとしたところ、球団側がヤギの入場を拒否し、サイアニスとヤギは球場から連れ出されてしまった。理由はヤギの臭いだった。これに激怒したサイアニスは「リグレー・フィールドにヤギの入場が許されるまで、カブスは2度とワールドシリーズに勝てない」と言い放って球場を後にしたという。なお、サイアニスはこれ以前にもヤギと共にいつも試合観戦に訪れており、ヤギの入場券も購入して入場していた。

サイアニスが放った言葉のとおり、これ以降、カブスはこのシリーズでワールドチャンピオンを逃すと、その後、2016年までの71年にわたり、ワールドチャンピオンはおろかワールドシリーズ出場さえ遠ざかることとなり、「ビリー・ゴートの呪い(ヤギの呪い)」と呼ばれた。しかし、2016年にリーグチャンピオンを達成し、ワールドシリーズも制したことで、「呪い」が解かれることとなった。

ビリー・サイアニスリグレー・フィールド#ヤギの呪いも参照

低迷期(1950年代 - 1970年代)

照明灯設置に反対するポスター。1988年までリグレー・フィールドではナイターの試合は開催されなかった。現在でも主催試合ではデーゲームが多い。

1950年代に入るとチームの状況は一層悪化。1966年までに勝率5割を上回ったシーズンは1952年と1963年の2シーズンのみで、1962年と1963年には球団ワーストとなる103敗を記録してしまう。1956年にはカブス初の黒人選手であるアーニー・バンクスがメジャーデビュー。バンクスは「Mr. Cub (ミスター・カブ)」と呼ばれ、2度のMVPを獲得するなど、現役引退までカブス一筋の看板選手として活躍したが、チームの好成績には結びつかなかった。

当時オーナーを務めていたフィリップ・リグレーは、チームを低迷から脱出させようと様々な案を講じた。1960年のシーズン途中には、この年に監督に再就任したばかりで、開幕から不調だったチャーリー・グリムと当時カブスの専属解説者を務めていたルー・ブードローを入れ替えた。翌1961年からは監督を固定せず、8人のコーチが監督を交代して務めるという類のない制度を導入し、1965年までこの制度を続けた。しかしどちらも成果を挙げることはできず、むしろチームの混迷はより深まることとなる。

1966年には名将レオ・ドローチャーが監督に就任。1960年代後半になると、ファーガソン・ジェンキンスビリー・ウィリアムズロン・サントといったスター選手も台頭し始め、チームも上位に進出する機会が多くなる。1969年には地区制が導入され、カブスはナショナルリーグ東地区に移動。そしてこの年には開幕から首位を独走し、シーズン終盤手前の8月19日の時点で2位ニューヨーク・メッツと8ゲーム差をつけた。しかしここからメッツの猛追によって差は縮まり、9月10日に首位を明け渡すと、そのままメッツの逆転優勝を許した。以降チームも優勝に絡むことはなくなり、上記選手の多くがワールドチャンピオンどころかリーグ優勝さえ経験することなくユニフォームを脱ぐこととなった。

1970年代にはリック・ラッシェルがエースとして活躍。1975年、1976年にビル・マドロック、1980年にビル・バックナーがそれぞれ首位打者を獲得し、1979年にはデーブ・キングマン本塁打王を獲得した。1981年には長年に渡ってオーナーを務めたリグレー一族がチームを売却し、代わって地元新聞社のシカゴ・トリビューンがチームを買収するなど、この頃は次第にチームの変革が進んだ時期でもあった。

復活の兆し(1980年代)

1981年、長い間オーナーを務めたリグレー一族は、地元シカゴの新聞社であるトリビューン・コーポレーションにチームを売却。同年オフ、フィラデルフィア・フィリーズの監督を務めていたダラス・グリーンをゼネラルマネージャーとして迎えたのが転機となる。グリーンは「Making a New Tradition」(新しい伝統づくり)をスローガンに掲げ、チームに蔓延していたぬるま湯的体質からの脱却のため、1980年にはワールドチャンピオン、1983年にもリーグ優勝を果たすなど当時の強豪であったフィリーズとの間のパイプを使い、トレードによる積極的な補強を試みる。1982年、チームの1番打者であったイバン・デヘスースとのトレードで、フィリーズの名遊撃手であったラリー・ボーワライン・サンドバーグをフィリーズから移籍させたのを手始めに、1984年にはジム・フライが監督に就任し、シーズン前にはフィリーズとの間のトレードで、1番打者のボブ・ダーニアーと中軸打者のゲイリー・マシューズ・シニアを獲得。シーズン途中にはバックナーとボストン・レッドソックスデニス・エカーズリーをトレード、同じくシーズン途中にはメル・ホールジョー・カータークリーブランド・インディアンズリック・サトクリフをトレードするなど補強に励んだ。ダーニアーはこの年45盗塁を記録して足による攻撃を加え、マシューズは強打の3番打者として活躍。サトクリフは16勝1敗という驚異的な成績でサイ・ヤング賞を獲得し、サンドバーグは「20盗塁・20二塁打・20三塁打・20本塁打」に後一歩と迫る成績を残した。フィリーズとのパイプで獲得した選手が大半を占めていたことから「シカゴ・フィリーズ」、また1983年に移籍していた主力打者の一人であるロン・セイとサトクリフはドジャース出身だったことから「シカゴ・ドジャース」と嘲笑されるも、サトクリフとサンドバーグの2人を中心にチームも快進撃を続け、この年には初の地区優勝を果たす。この年大ヒットした映画「ゴーストバスターズ」をもじった「カブバスターズ」は当時の流行語となった。リーグチャンピオンシップシリーズではサンディエゴ・パドレスと対戦。第1戦、第2戦と2連勝し、リーグ優勝に王手をかけるが、その後2連敗で決着は最終戦に持ち込まれた。迎えた最終戦では6回まで3対0とリードしていたが、7回に一塁を守っていたレオン・ダーラムがエラーを犯し、逆転負けを喫した。

その後4年間、再びチームは足踏みを続ける。1987年にはモントリオール・エクスポズ(現:ワシントン・ナショナルズ)からアンドレ・ドーソンが移籍し、49本塁打・137打点を記録したが、チームは最下位となった。ドーソンは二冠王に輝き、異例の最下位チームからのMVP選出となった。しかし1988年にはドン・ジマー監督が就任し、グレッグ・マダックスマーク・グレースら若手選手が台頭。そして1989年には上記選手を擁して、再び地区優勝を果たした。リーグチャンピオンシップシリーズでジャイアンツと対戦。本拠地リグレー・フィールドでの初戦は敗れたものの、第2戦で勝利し、1勝1敗で敵地キャンドルスティック・パークに乗り込んだ。しかし結果は全て僅差で敗れ、3連敗。またしてもリーグ優勝はならなかった。

サミー・ソーサの登場

1992年にホワイトソックスからトレードでサミー・ソーサを獲得。ソーサは本塁打王2回の他、シーズン60本以上を3回記録するなど、MLBを代表する強打者として活躍した。1998年にはマーク・マグワイアとの熾烈なシーズン最多本塁打記録争いを繰り広げ、66本塁打を記録。この年の5月6日には新人のケリー・ウッドロジャー・クレメンスと並ぶ1試合20奪三振の快挙を成し遂げ、どちらもカブスファンはもちろん全米の野球ファンが注目することとなった。この年にはチームもワイルドカードを獲得し、プレーオフに進出するが、ディビジョン・シリーズでは、マダックスら先発三本柱を擁するアトランタ・ブレーブスに手も足も出ず、3連敗を喫した。

2003年:スティーブ・バートマン事件

2003年にはダスティ・ベイカーが監督に就任。この年にはマーク・プライアー、ウッド、カルロス・ザンブラーノマット・クレメントからなる先発4本柱が揃って13勝以上挙げるなど活躍をみせ、14年ぶりに地区優勝を果たす。ディビジョンシリーズでブレーブスを下し、リーグチャンピオンシップシリーズではフロリダ・マーリンズと対戦。第1戦では敗れたものの、第2戦から3連勝し、悲願のリーグ優勝は目前と思われた。しかし第6戦、リードして迎えた8回に、ファウルボールの捕球をファンに妨害されアウトをとれず(スティーブ・バートマン事件)、ここから逆転負けを喫してしまう。そして続く第7戦も落としたことで、あと一歩のところでワールドシリーズには届かなかった。

2004年以降

その後、2004年、2005年と続けて地区優勝を逃し、2006年には6年ぶりに地区最下位に沈んでしまった。この年のオフにはベイカー監督を解任し、ルー・ピネラを新監督に据えた。アルフォンソ・ソリアーノを8年総額1億3600万ドルという巨額で獲得するなど、一大補強を行った。2007年はミルウォーキー・ブルワーズとナ・リーグ中地区で熾烈な首位争いを続け、4年ぶりに地区優勝を勝ち取ったが、ディビジョンシリーズでアリゾナ・ダイヤモンドバックスと対戦し3連敗で敗退した。

2007年オフには日本一になった中日ドラゴンズからFAとなった福留孝介を4年総額4800万ドルで獲得。投手陣ではカルロス・ザンブラーノをはじめとした豊富な先発投手を抱え、打撃陣ではソリアーノ、デレク・リーアラミス・ラミレスと強打者が揃っている。1908年のワールドシリーズ制覇からちょうど100年目にあたる2008年は、開幕からブルワーズと首位争いをして、ナ・リーグ最高勝率で2年連続の地区優勝。しかし、ディビジョンシリーズではロサンゼルス・ドジャースと対戦し、前年同様3連敗で敗退した。オーナーのトリビューンは、2007年シーズン終了後にチームを売却して球団経営から撤退する予定だったが、買い手が見つからないまま2008年末に経営破綻、2009年にようやくシカゴの富豪リケッツ家への球団譲渡が合意された。しかしその後は成績がぱっとせず、2011年は福留などを7月に一部金銭を付けて放出し、若手に切り替えた。

2012年シーズンはセオ・エプスタインが球団副社長に就任し、他にもサンディエゴ・パドレスから自身の腹心でもあり、GMだったジェド・ホイヤーをカブスGMに任命。そしてパドレスのスカウト・育成部長ジェイソン・マクロードを引き抜き放漫経営体制を変えると同時にエプスタインが以前在籍期間していたボストン・レッドソックスの様なファーム主導型チームに変革を進める年になる。

2013年・2014年は、連続で中部地区最下位に沈んだ。

2015年:悲願達成ならず

2015年、タンパベイ・レイズを2度の東部地区優勝、このうち2008年にはレイズをリーグ優勝に導き、地区優勝を果たした2008年と2011年にアメリカンリーグの最優秀監督に選ばれたジョー・マッドンを招聘し、さらにボストン・レッドソックスを2007年と2013年にワールドチャンピオンに導いたジョン・レスターを獲得するなどした。同監督の「若手の成長が必要だ、『頼りにされている』という自覚を選手達に持たせる」という方針のもと、リーグで2番目に若い平均26.9歳の打線が組まれ、就任1年目にして彼ら若手の能力が開花。若き主砲となったアンソニー・リゾ(31本塁打・101打点)、メジャー1年目のクリス・ブライアント(チームのルーキーレコードを更新する26本塁打を記録)をはじめ、アディソン・ラッセルカイル・シュワーバーなどが活躍。投手でもボルチモア・オリオールズから移籍して3年目でエースとなった ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/05/27 16:44

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