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シャルル・ド・ゴールとは?

シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール
Charles André Joseph Pierre-Marie
de Gaulle




任期 1959年1月8日1969年4月28日
副大統領 なし

任期 1958年6月1日1959年1月8日
元首 ルネ・コティ大統領

任期 1944年8月20日1946年1月26日

出生 1890年11月22日
フランス共和国 ノール県リール
死去 (1970-11-09) 1970年11月9日(79歳没)
フランス オート=マルヌ県
コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズ
政党 フランス国民連合(RPF)
新共和国連合(UNR)
共和国民主連合(UDR)
配偶者 イヴォンヌ・ヴァンドルー
署名

シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール(Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle1890年11月22日 - 1970年11月9日)は、フランス貴族陸軍軍人政治家。フランス第18代大統領第二次世界大戦で本国失陥後、ロンドンにロレーヌ十字自由フランスを樹立しレジスタンスと共闘した。臨時政府で最初の首相となり、突然それを辞任してからもロスチャイルド家シュナイダー家といった金融資本家と関わりながら経済政策を展開した。1959年には大統領に就任した(第五共和政)。任期中アルジェリアの独立を承認し、フランスを核武装させたまま北大西洋条約機構から脱退させるなどした。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 軍歴
      • 1.2.1 第一次世界大戦まで
      • 1.2.2 ポーランドから中東へ
      • 1.2.3 電撃作戦の推進
    • 1.3 自由フランスと制憲議会
      • 1.3.1 亡命政権とアフリカ
      • 1.3.2 地中海の政治・経済
    • 1.4 第五共和制大統領
      • 1.4.1 再登板とリュエフ
      • 1.4.2 第五共和政の成立
      • 1.4.3 独自路線
      • 1.4.4 五月革命と金戦争
  • 2 後世
    • 2.1 死去
    • 2.2 家族
    • 2.3 論文・著書
    • 2.4 命名
    • 2.5 エピソード
    • 2.6 語録
    • 2.7 日本語伝記(近年刊のみ)
  • 3 脚注
    • 3.1 注釈
    • 3.2 出典
  • 4 参考文献
  • 5 関連項目

経歴

生い立ち

ド・ゴールは露仏同盟の時代にリールで生まれた。親はイエズス会学院の校長として歴史科を教えていた父アンリ(Henri de Gaulle)と、母ジャンヌ・マヨー(Jeanne Caroline Marie Maillot, 1860-1940)であった。

ジャンヌはノール県の名門実業家と姻戚関係にある(les Maillot-Drouers, les Kolb-Bernard, les Gustave de Corbie)。ジャンヌから五親等たどったところに、ソジェンからインドシナ銀行重役として派遣されたオクタヴ・オンベルグ・パパ(Octave Joseph Marie Homberg, 1844 - 1907)がいる。その子であるオクタヴ・オンベルグ・ジュニアは世界恐慌のときラザードとフランス植民地金融社を創業した。ロレーヌ地方の金融勢力はド・ゴールの政治生命にかかわる存在でありつづけた。

ド・ゴールの父アンリは医学・理学・文学の3つの博士号を持っていた。また、アンリは普仏戦争騎兵中尉として参戦して負傷、祖国の敗戦を経験している。幼少のド・ゴールをたびたび戦跡に連れて行くなどの軍人教育を行った。祖父ジュリアン(Julien Philippe de Gaulle)は著名な歴史学者だったという。曽祖父(Jean Baptiste Philippe de Gaulle)はルイ16世の法律顧問で、フランス革命時に投獄された。

ド・ゴールは、フットボールが好きな少年であり、16歳のときには、「悪しき出会い」と題された詩がコンクールで一等に入賞した。25フランの賞金は、自書の出版に用いられた。

軍歴

第一次世界大戦まで

ド・ゴールは幼いころより歴史に興味を覚え、地元の中学校を卒業した。

1909年、サン・シール陸軍士官学校に入学した。卒業後は、歩兵第33連隊に陸軍少尉として配属された。歩兵第33連隊はフィリップ・ペタン(のちのヴィシー政権の指導者)の連隊だった。第一次世界大戦では大尉としてドイツ軍と戦い、1916年にはヴェルダン戦で部隊を指揮した。ド・ゴールはもっとも厳重な捕虜収容所だったインゴルシュタット城の牢獄「天女の宿」で生活しており、戦中5回脱獄を図ったもののすべて失敗した。1916年3月2日、ヴェルダンのドゥオーモン要塞付近で捕虜となったド・ゴールは、インゴルシュタット第9要塞捕虜収容所、ドイツ中部クロナッハのローゼンベルク捕虜収容所、インゴルシュタットとニュルンベルクの中間にあるヴァイセンブルク近郊のヴュルツブルク捕虜収容所などを転々とし、この間に5回もド・ゴールは脱走しているが、そのたびに連れ戻され、ようやく休戦を迎えた。

ポーランドから中東へ

戦後ポーランド軍事顧問となり、同国へ赴任した。当時ポーランドは革命ロシア赤軍の侵攻を受けており、首都ワルシャワまで迫られていた(ポーランド・ソビエト戦争)。ド・ゴールはこの戦いで活躍し、「ポーランド軍少佐」の称号を得るとともに、ポーランド政府から勲章も授与された。1921年、ド・ゴールは帰国し、サン・シール陸軍士官学校の軍事史担当教官として勤めた。同年4月7日、イヴォンヌ・ヴァンドルー(Yvonne Charlotte Anne Marie Vendroux)と結婚した。この年、弟ピエール・ド・ゴールユニオン・パリジェンヌへ入行した。1922年11月、ド・ゴールがフランス陸軍大学校へ入学した(1924年10月卒業)。そして数年の間ペタンに買われ軍事教育を担い、「戦闘行為と指揮官」という特別講演も行った。1926年、レイモン・ポアンカレ内閣が預金供託金庫と別個の独立償却金庫を廃して「国防証券管理・たばこ産業経営・公債償却のための独立金庫」を創設し、旧オスマン帝国領から莫大な財源を得た。1929年11月、ド・ゴールがベイルートキャンプで軍事情報を管理した。1931年11月、パリの軍事最高会議事務局に入る。1932年、ド・ゴールは中佐となり、軍事最高会議事務長に就任した。1934年に『機甲化軍にむけて』、1938年に『フランスとその軍隊』を執筆した。アドルフ・ヒトラーはド・ゴールの著書『職業的軍隊を目指して』を読み感銘を受けたが、著者はアンリ・ジローだと勘違いしていた。前後して、1934年にはエルヴェ・アルファンオスマン債務管理局の廃止されたトルコに派遣されている。

電撃作戦の推進

ヴェルダン戦の経験からド・ゴールは、これからの戦争は塹壕戦ではなく、機動力のある戦車飛行機を駆使した機械化部隊による電撃作戦になることを論じ、いくつかの著書の中でそのことに言及した。この見解は、ペタンらフランス軍の主流派には受け入れられなかった。その後、皮肉にもドイツ軍が積極的に採用している。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発した。まやかし戦争と呼ばれるにらみ合いのあと、1940年5月にドイツ軍のフランス侵攻が始まった。「マジノ線」をドイツ軍は機動力のある装甲部隊で迂回し、フランス軍はわずか1か月間で敗北した。開戦直後の5月15日、ド・ゴール大佐は新編の第4機甲師団長に任命されており、そこで戦車の集中運用を行った。ソンム県アブヴィル近辺の反撃では、ソンム川南岸の敵橋頭堡3つのうち2つまでを取り返した。

その後まもなくド・ゴールは陸軍次官に任命され、部隊の指揮を離れた。

自由フランスと制憲議会

亡命政権とアフリカ

1940年6月には、同年3月のエドゥアール・ダラディエの辞任により新たに首相に就任したポール・レノー率いる新内閣の国防次官兼陸軍次官に任命され、フランス軍史上最年少の49歳で少将となった。ドイツ軍によるフランス侵攻に対するイギリス軍の協力を得るためロンドンに飛び、ウィンストン・チャーチル戦時内閣と交渉を開始する。その中で、合法的に英仏連合軍の指揮権の統合と亡命的性格の政策、英仏連合(フランスとイギリスとの政治統合構想)に奔走した。イギリス側の閣議決定後、フランス政府の避難先ボルドーに向かったがレノー内閣は英仏連合の案件と休戦派の圧力で総辞職し、次官職を解かれた。

自由フランス旗

6月15日に首都パリが陥落した。やむなくド・ゴールは、イギリスへ召還された連合軍顧問の英陸軍将校スピアーズ将軍(Edward Spears)に同伴して亡命することを決断した。そしてロンドンに亡命政府自由フランス」を結成し、BBCラジオを通じて、対独抗戦の継続とヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかけた。こうした情報戦をアンドレ・ドゥヴァヴラン(パッシ大佐)がさらに展開した。彼は、ロスチャイルド家と古くから姻戚のヴォルム銀行(Banque Worms)を代理する立場にあった。ヴィシー政権の主要な閣僚は同行から出ていた。翌1941年10月25日ド・ゴールはジャン・ムーランと会見、ひとつの大きな組織「レジスタンス国民会議」を作るためムーランを極秘でフランス本土に派遣する。同年、エルヴェ・アルファンがド・ゴールの経済顧問となり、ヴォルムとロスチャイルドの共同出資によりSNPA(エルフ・アキテーヌの前身。いわゆるFRANCAREP)が設立された。パッシ大佐はSNPAの監査役となった。

チュニジアで指揮を執るド・ゴール(1943年)
カサブランカ会談でチャーチル、ルーズヴェルト、ジローとともに(1943年)

ドゴールは自ら自由フランス軍を指揮してアルジェリアチュニジアなどのフランスの植民地を中心とした北アフリカ戦線で戦い、対独抗戦を指導した。しかし、仏領インドシナマダガスカルをはじめとする植民地やフランス本国のフランス軍の多くは、中立を維持するかヴィシー政権に帰属した。その後、自由フランス軍は連合国と共同でフランス植民地のガボン、マダガスカルを攻略した。1942年にはアルジェリアのフランソワ・ダルラン大将が連合国側につき、北アフリカのフランス主席となったが暗殺された。この暗殺の背後にはド・ゴールの関与があったという説もある。アンリ・ジロー大将がダルランの後継となり、ド・ゴールとフランスを代表した。

地中海の政治・経済

1943年1月、フランスの指導者を決めるためカサブランカ会談が開かれたが決着しなかった。5月にフランス国内のレジスタンス組織全国抵抗評議会はド・ゴールをレジスタンスの指導者と決定したが、6月にアルジェリアで結成されたフランス国民解放委員会はド・ゴールとジローを共同代表とした。この二頭体制は11月にジローが辞職するまで続いた。委員会は翌1944年にフランス共和国臨時政府に改組され、ド・ゴールが代表となった。

1944年6月、連合軍によるヨーロッパ大陸への再上陸作戦・ノルマンディー上陸作戦が成功。ドゴールは祖国に戻って自由フランス軍を率い連合軍とともに戦い、同年8月25日パリを解放した。翌26日、エトワール凱旋門からノートルダム大聖堂まで凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びた。

フランス解放後、臨時政府がフランスの統治を行うこととなり、制憲議会は満場一致でド・ゴールを臨時政府の主席に選出した。ド・ゴールは自由フランス時代から第三共和政の議会制度には欠陥があると主張していたため、ほかの指導者・政党の意見を無視することが多くなり、とりわけ社会党 (SFIO)共産党から批判を受けた。ド・ゴールは経済政策として蔵相エメ・ルペルク(Aimé Lepercq)を用いた。エメは1923年からシュナイダー家でキャリアを積み東欧に確固たる地盤を築いていた。そしてド・ゴールは1945年10月、ミシェル・ドブレデクレフランス国立行政学院を設けて格差国家を運命づけた。社会党が軍備費を20パーセント削減する予算を提案するにおよび、ド・ゴールは予算案に反発して1946年1月に突如として首相を辞任した。

制憲議会が制定した草案が否決され、再度行われた制憲議会選挙で人民共和派が躍進した。ド・ゴールは自らの憲法構想を表明するようになった(1946年6月16日バイユー演説など)。ド・ゴールは政府と大統領の権限を強化し、政府内部での統一が図られるべきだと主張したが、実際に採択されたフランス第四共和政憲法には反映されなかった。彼はこの信念から1947年にフランス国民連合(略称RPF)を結成した。この前後にわたりド・ゴールは財政を支配して、1945年ルノーを、1948年エールフランス航空を国営化した。翌1949年8月4日、シコバンを創設した。この間には閨閥も固めた。1946年、長女エリザベート(Élisabeth de Gaulle)が軍人アラン・ボワシュー(Alain de Boissieu)と結婚した。ボワシュー家はシュナイダー家と姻戚関係にある。ボワシュー家のミシェル(Michel de Boissieu、1917 - 2009)はロスチャイルドのペナロヤ(Société minière et métallurgique de Peñarroya)で専務理事となる。1947年、長男フィリップ(Philippe de Gaulle)がモンタランベール家(Famille de Montalembert)の娘と結婚。モンタランベール家は1929年4月からすでにヴァンデル家(Famille de Wendel)と姻戚であった。

ド・ゴールはマーシャル・プランを受け入れ、ジャン・モネが独占資本のさらなる育成計画を立案した(モネ・プラン、1948年 - 1953年)。1951年、欧州石炭鉄鋼共同体が誕生した。1952年、欧州防衛共同体の批准を拒んだ。1955年、ザール独立が住民投票で阻止され、ド・ゴールは「公的生活から引退する」と宣言した。1956年からはボワシューがアルジェリア戦争で軍を指揮した。

第五共和制大統領

再登板とリュエフ

1958年5月、アルジェリアのフランス植民者(コロン)が、アルジェリアの独立運動に対抗するため、アルジェリア駐留軍と結託して本国政府に反旗を翻し、「ド・ゴール万歳」を唱えてフランス本土への侵攻計画を立てた(アルジェ動乱)。現地駐屯の落下傘連隊がコルシカ島を占領し、鎮圧に向かった共和国保安隊も到着後反乱軍に同調し、フランス本土に脅威を与え始めた。そこでピエール・フリムラン首相とルネ・コティ大統領は軍に顔の利くド・ゴールに出馬を要請した。

ド・ゴールは「現在のきわめて困難な情勢の中で行動するために必要な全権」を求めた。ド・ゴールは、1946年憲法が「政党支配性(Régime des partis)」にほかならず、執行府により大きな安定性と権威とを与えるが、だからといって民主的であることをやめないような新しい政治体制に、座を譲るべきであると確信していた。ド・ゴールは首相指名を受けたあとの6月1日、国民議会に対して6か月間の全権委任を要求し、新憲法草案を提示した。議会はこれを承認し、ド・ゴールは正式に首相に就任した。この全権は1958年6月3日の憲法的法律によって承認された。ジャック・マシュ将軍やラウル・サラン将軍など駐留軍首脳部はこれを支持した。そして6月4日にアルジェのアルジェリア総督府からド・ゴールが「私は諸君を理解した!」と叫んだ。

欧州ぐるみの周到な計画によりアルジェリア情勢は落ち着いた。その全貌は説明しきれない。1958年からジャック・リュエフ(Jacques Rueff)が動態の基軸をなしていた。レイモン・ポアンカレのときから政府の経済顧問であったが、フランス銀行副総裁の地位をヴィシー政権に追われた彼は、戦後にモンペルラン・ソサイエティーを主導、1952年から10年もの間欧州司法裁判所で判事を、1959年から翌年にかけてモナコ首相を務めた。リュエフ・プランがフランスの対外債務を償却した。

第五共和政の成立

ド・ゴールは、正規の形式に従い議会から憲法案を準備する権力の承認を獲得、その憲法案は人民投票に付託されることになった。ド・ゴールが示した憲法草案では、大統領の権限を強化し議会の力を抑制する新憲法を立案し、ただちにこれは国民投票に付された。1958年9月に行われた国民投票で、新憲法は投票者の80パーセント近くもの賛成により承認された。同年10月4日、フランス第五共和政憲法が公布・制定され、ド・ゴールは第18代大統領に就任した(フランス第五共和政の成立)。

すぐ憲法評議会が設置された。これをローヌ・プーランエッソの重役であったレオン・ノエル(Léon Noël)が主宰した。彼はペタンの死後に政権を継承するよう遺言された7人のうちの1人で、さらにフランス国民連合の指導者の1人でもあった。1949年には連合の全国評議会副議長となり、1951年から1958年まで下院議員を務めていた。

1958年9月、フランス領西アフリカおよびフランス領赤道アフリカの広大なフランス領の植民地に対し、フランス共同体の元での大幅な自治を認める第五共和国憲法の承認を求めた。急進的独立派だったセク・トゥーレ率いるギニアはこれを否決し単独独立の道を歩んだものの、それ以外の植民地はすべてこれを承認した。1959年9月、ド・ゴールはアルジェリア人に民族自決を認めると発言した。これにコロンは激しく反発し、1960年1月にはアルジェ市でバリゲードの1週間と呼ばれる反乱を起こした。1961年4月、アンドレ・ゼレールラウル・サランモーリス・シャールエドモン・ジュオーの4人が反乱し、ド・ゴールが速やかに鎮圧した(将軍達の反乱)。右翼組織OASテロによりアルジェリア領有の継続を主張したが、1962年にドゴールは独立を承認した。ド・ゴールはこの間にたびたびOASのテロと暗殺の標的となった(→詳細は「ジャッカルの日」項を参照)。1962年8月にはパリ郊外のプティ=クラマールで、乗っていた自動車がOASにより機関銃で乱射されたが、ド・ゴールは九死に一生を得た。

独自路線

1964年、アルゼンチンイリア大統領
カナダのド・ゴール像
ド・ゴールとアメリカのリチャード・ニクソン大統領。後列中心にいるのはヘンリー・キッシンジャー

ド・ゴールを支えるフランスとベルギーの財界は、冷戦の陰で欧州統合を推進し、再び地中海のビジネスを繁栄させようと考えていた。こうした思惑がド・ゴールの「独自路線」として実を結んだ。いわゆるド・ゴール主義は独裁体制と異なるのである。ド・ゴールは西ドイツと和解・協力を進める反面、東ヨーロッパ諸国も歴訪し、アメリカ主導の北大西洋条約機構(NATO)や国際連合に対して批判的な態度を取った。

1960年2月、フランスはサハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実験に成功し、アメリカ・ソ連・イギリスに次ぐ核保有国となった。1963年の部分的核実験禁止条約には加盟せず、以降もアルジェリアなどで核実験を繰り返し、フランス領ギアナギアナ宇宙センターを建設してフランスの宇宙開発も推し進めた。

1964年にはイギリスを除く西側先進国ではもっとも早く、共産主義政権下の中華人民共和国国家承認した。同年5月、キューバへ機関車を輸出する契約を結び、合衆国から非難された。9月からド・ゴールが直々に中南米諸国を歴訪した。

1965年、仏ソ原子力平和利用協定を締結した。

1966年、フランスがNATOの軍事機構から脱退(一般の政治部門には残留)し、NATO本部がパリからブリュッセルへ移転した。このときフランスは国連分担金の支払いを停止、アメリカと近い立場を取るイギリス欧州経済共同体(EEC)への加盟拒否も表明、同年11月に仏ソ直通電話線設置協定に調印した。また当時激化していたベトナム戦争に対するアメリカの介入を批判し、ベトナムの中立化をアメリカに提案したが、受け入れられなかった。

1967年7月24日には、モントリオール万国博覧会訪問のために訪れていたカナダケベック州モントリオール市で、群集を前に「自由ケベック万歳!」(Vive le Québec libre!)と声を上げ、カナダとフランスとの間の外交問題になっただけでなく、ケベック独立運動の火に油を注ぐ結果ともなった。9月にポーランドを訪問し体勢を立て直した。

1967年に勃発したビアフラ戦争で、フランスはビアフラの分離独立を支援した。これはビアフラにある石油利権を狙ったもので、ド・ゴールも腹心を通じて巧みに工作員を使い、ビアフラ分離独立運動を先導させ、資金・戦事物資をふんだんに送ったという証言がのちに出ている。結局アメリカ・イギリス・ソ連の支援を受けたナイジェリア連邦軍が優勢で、ビアフラは悲惨な飢餓状態に陥って崩壊し、独立はならなかった。

五月革命と金戦争

金戦争(Gold war)は新聞が実際に用いた表現である。

世界的な学生運動の高まりとともに、1968年に五月革命が起こった。フランス全土をストライキの嵐が襲い、ド・ゴールの政治生命は危機に陥った。そこで5月24日に国民投票を提案した。29日、バーデン=バーデンに赴いて軍と連携し、翌日ジョルジュ・ポンピドゥー首相の説得で国民投票を翻意して議会解散を表明した。それに呼応したド・ゴール支持の大規模なデモが行われ、またオリヴィエ・ジェルマントマソルボンヌ大学大講堂でド・ゴール支持の演説を行った。五月革命は急速に力を失い、ド・ゴールは議会選挙でも圧勝して危機を乗り越えた。しかしノール県のBSNサンゴバンの買収に失敗した。翌1969年、彼が国民投票に付した上院および地方行政制度の改革案が否決された。同年3月、金価格が高騰して24時間のゼネストが巻き起こり、4月にド・ゴールは辞任した。

ド・ゴール主義と金価格の関係は、1948年にブレトン・ウッズ協定に対立する形でCFAフランの対ドル相場がフランスフランと乖離し、ド・ゴールを支える金融資本家の経済利権となったことに始まる。1952年と1958年のピネー国債は金価格に応じてスライドするものであった。ド・ゴールは証券収入について累進課税を適用しなかった。むしろ国債応募者の所得に応じて国債利率を引き上げたうえ、相続税と贈与税を減免した。1957年にセーヌ県で行われた調査によれば、1953年までに亡くなったわずか33人の相続人が、被相続人の購入した1952年国債について10億フランの相続税を免れた。この額は、ナポレオン戦争の後に亡命貴族へ支払われた補償金総額に等しいが、デノミされて1,000万新フランとなった。リュエフと19世紀以来の大資本が1960年前後にわたりアフリカで新たな利権を手にすると、1963年、ド・ゴールが国際通貨制度を金本位制に戻そうと言い出した。そして1965年1月、フランス銀行が公然と米財務省へ1億5,000万ドルをつきつけ正金へ交換した。翌月4日の記者会見にド・ゴールが登場し、「アメリカは基軸通貨という地位を利用してフランス経済を支配しようとしている」などと、疎い者を騙すような説明をした。合衆国資本はリュエフ・プランが誘致したものであった。1967年10月、ポーランド訪問とシュナイダー・コネクションが実を結び、ローマ教皇ギリシア正教総主教の会見が実現した。11月、ポンド危機に際しド・ゴールが金価格を2倍に引き上げるよう提唱した。翌1968年3月の7か国中央銀行総裁によるストックホルム会議で金の二重価格制が採用された。ユーロダラーのインフレーションはド・ゴール主義の集大成であった。

後世

ド・ゴール没後もゴーリスト(ド・ゴール主義者、ド・ゴール派)はジョルジュ・ポンピドゥー率いる共和国民主連合に結集して議会内最大会派となり、ヴァレリー・ジスカール・デスタンフランソワ・ミッテランといった非ゴーリズム政権下においても共和国連合として議会に大勢力を維持し続け、ジャック・シラクの元で再び政権を握った。エンジニアのアンブロワーズ(Ambroise Roux)はド・ゴールの政府でキャリアを積み、アルカテル・ルーセントの前身CGEを経営しながらフランスの資本主義を動かした。彼の母はサノフィ創設者の1人であった。彼自身も金融家としてパリバジェネラル・デ・ゾーなどの重役となった。

死去

ド・ゴールの墓
ド・ゴールが亡くなったコロンベ・レ・ドゥ・セグリーズには彼を記念した43メートルもの巨大なロレーヌ十字の十字架がある。

大統領辞任後は地方の山村コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズに住居を移して執筆活動に専念し、翌1970年11月に解離性大動脈瘤破裂により79歳で死去した。『希望の回想』と題した回想録が未完の絶筆となった。

「国葬は不要。勲章等は一切辞退。葬儀はコロンベで、家族の手により簡素に行うように」という遺言に従い、簡素に行われた。霊柩は第4偵察連隊の装甲車によって運ばれた。

フランス政府の希望により、追悼式という形での国葬もパリ・ノートルダム寺院にて執り行われた。第二次世界大戦で

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出典:wikipedia
2019/12/14 13:50

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