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シンザンとは?

【品種】
サラブレッド
【性別】

毛色
鹿毛
【生誕】
1961年4月2日
【死没】
1996年7月13日
(35歳没・旧36歳)
【父】
ヒンドスタン
【母】
ハヤノボリ
母の父
ハヤタケ
【生国】
日本(北海道浦河町)
【生産】
松橋吉松
馬主
橋元幸吉
調教師
武田文吾(京都)
厩務員
中尾謙太郎
【競走成績】

【生涯成績】
19戦15勝(2着4回)
【獲得賞金】
6021万9700円(当時1位)

シンザン(1961年 - 1996年)は、1960年代に活躍した日本競走馬種牡馬である。

史上2頭目、戦後初のクラシック三冠馬1964年1965年啓衆社賞年度代表馬1984年顕彰馬に選出された。八大競走の勝利数から、日本競馬史上初めて「五冠馬」の称号を与えられ、戦後日本の競馬界に長く影響を与え続けた功績の大きさから「神馬」とも呼ばれている。その走りは「の切れ味」と形容された。

注意:馬齢はとくに断りがない限り旧年齢(数え)での表記とする(一部満年齢の使用箇所あり)。

概要

戦後期の日本競馬を代表する競走馬で、1964年日本クラシック三冠馬である。この三冠に加えて、翌1965年にも天皇賞(秋)および有馬記念で優勝したため、日本の競馬史上初めて「五冠馬」の称号を与えられた。

デビュー時はあまり期待されていなかったが次第に頭角を現し、クラシック三冠(皐月賞東京優駿菊花賞)、宝塚記念、天皇賞(秋)、有馬記念といった当時牡馬が獲得可能なGI級競走をすべて制した。デビュー戦から引退レースまでの連続連対数19は、中央競馬におけるレコードである(ちなみに次点はビワハヤヒデの15連続連対で、連対率100パーセントに限るとダイワスカーレットの12連続連対が次点となる)。この後、シンザンは「シンザンを超えろ」のキャッチフレーズと共に、後述のシンボリルドルフが現れる1984年までの約20年間にわたって、日本の競馬界全体の目標であり続けた。このように戦後日本の競馬界に長く影響を与え続けた功績の大きさから、シンザンは現在でも「神馬」と呼ばれることがある。

競走馬引退後は種牡馬となり、ミホシンザンミナガワマンナをはじめ、優秀な産駒を輩出。その活躍は当時冷遇されていた内国産馬に種牡馬の道を切り開いたとされる。

種牡馬引退後も1995年サラブレッドの最長寿記録、1996年には軽種馬の最長寿記録を更新するなど最期まで注目を集めた。

生涯

誕生

1961年に母ハヤノボリの第5子として松橋牧場で生まれたシンザンは血統名を「松風」と名付けられた。生後1か月のときに荻伏牧場の場長であった斉藤卯助の紹介により松橋牧場を訪れた京都競馬場調教師武田文吾に資質を認められ、さらに武田の紹介により牧場を訪れた馬主橋元幸吉によって当時としては高値である320万円で購入された。

同年秋に離乳し、直後に荻伏牧場で育成された。これは小規模な松橋牧場で育つことを嫌った武田の意向による。集団で運動をさせるといつも後ろを追走し、速くは走らないが決してばてないという特徴を見せた。また、育成中はまったく体調を崩すことがなかった。翌1962年11月に荻伏牧場を離れ、12月に武田文吾厩舎に入厩した。

幼少期のシンザンについては以下のようなエピソードがある。調教師の内藤繁春によるとある時、橋元幸吉から本業で資金が必要になったため所有するヒンドスタンの産駒2頭のうち1頭を他の馬主に売りたいと仲介を依頼された。そのうちの1頭が後のシンザンで、もう1頭よりも明らかに見栄えがいいと判断した内藤はシンザンの購入を希望した。しかしこの話を聞いた武田文吾が売却に強く反対したため、破談となった。

現役時代

3歳時(1963年)

競走内容

1963年11月にデビューし、無敗の3連勝を遂げる。しかし武田の評価は高くなく、デビュー時には前評判の高かったウメノチカラとの対戦を避けて出走を1週間遅らせ、2連勝して当時の関西3歳選手権競走・阪神3歳ステークスへの出走が可能になったが、武田厩舎からはプリマドンナオンワードセカンドが出走し、シンザンは回避させられた。

厩舎関係者による評価

武田厩舎に入厩した1961年生まれの競走馬のなかには、オンワードセカンド(母は牝馬クラシック二冠馬ミスオンワード、父はエプソムダービー優勝馬ガルカドール)や、ソロナウェー産駒のソロナリュー、持込馬のオンワードチェスなどがおり、それらと比べてシンザンへの評価はさして高くはなかった。また調教でも担当厩務員中尾謙太郎が同僚から冷やかされるほどに走らなかった。

中尾もはじめは「たいした馬ではない」という印象を抱いていたが、次第にシンザンに曖昧な感覚ながらも威厳や風格を感じるようになり、武田が管理した名馬と比べても遜色がないという印象を持つようになった。また、武田厩舎の主戦騎手栗田勝も「コダマよりも上かもしれない」と感じるようになり、シンザンへの騎乗を希望した。

一方、武田は年が明けてシンザンが4連勝を達成したあともオンワードセカンドのほうが強いと思っていた。そのためスプリングステークスを前に栗田が「オンワードセカンドとはものが違う。コダマより強い」と主張して皐月賞でのシンザンへの騎乗を希望したのに対し、思いとどまるよう説得した。スプリングステークスで負けると思っていたシンザンが優勝すると武田も評価を改め、「俺は目が見えなかった。お前がこれほどの大物とは知らなかった」とシンザンに詫びたという。

4歳時(1964年)

競走内容

1964年は1月にオープンを勝ち、4連勝を達成した。しかしここまでのローテーションは一流馬との対戦を避けたものであったため、皐月賞の前にシンザンの実力を測るべく東京競馬場で行われるスプリングステークスに出走した。レース前の調教の動きが良くなかったシンザンの人気は14頭中6番めであったが、レースではかつて武田が対戦を避けたウメノチカラや、弥生賞を勝ったトキノパレードなどを退けて優勝した。

皐月賞では単勝1番人気に推され、先行策をとると直線の入口で先頭に立ち、猛追するアスカに4分の3馬身差をつけ6連勝でまず一冠目を獲得した。競走後、武田は東京競馬場の調教師・中村広の自宅で、競馬記者の井上康文に「ひょっとするとクラシック三冠馬を取れる」と語った。

武田はクラシック二冠目の東京優駿(日本ダービー)を前に、調整のためシンザンを平場オープン競走に出走させたが2着に敗れ、初の敗北を喫する結果となった。本番の東京優駿では皐月賞と同様に1番人気に推され、レースが早いペースで推移するなか、中団を進んだシンザンは最後の直線コースで外から仕掛け、内から追い込んだウメノチカラに一時交わされるも、を入れられるとふたたび差し返して優勝した。優勝タイムの2分28秒8は前年のメイズイのレコードから0.1秒遅れの競走史上2位(当時)のタイムであり、のちに三冠馬となるミスターシービーや、シンボリルドルフのタイムを上回るものであった。

菊花賞へ向け、武田はシンザンを夏場の避暑のために北海道などへ移送することをせず、京都競馬場で調整することにした。しかしこの年の夏は40年ぶりの猛暑となり、シンザンは7月の下旬に重度の夏負けにかかった(具体的な症状としては体温が普段よりも5〜6分上昇し、汗をまったくかかなくなった)。武田は扇風機で馬房を冷やす、氷柱をつり下げるなど対策を講じ、8月の下旬にシンザンの体温はもとに戻った。

夏負けの影響から、シンザンは10月に入るまで本格的な調教を行うことができず、武田はシンザンをレースに使いつつ鍛える方針を立てた。まずオープン競走に出走(結果は2着)したが競走後も調子は上がらず、京都杯ではバリモスニセイの2着に敗れた。

11月に入りようやく体調は上向き、菊花賞直前の調教ではかつてない好内容の走りを見せた。しかし競馬ファンの間には体調に関する懸念が残り、菊花賞での人気はウメノチカラに次ぐ2番人気であった。

このレースは大きな注目を集め、有料入場者数40660人(推定全入場者数45000人超)は、京都競馬場のそれまでのレコードを大幅に更新した。売上も3億9402万4200円に達し、それまでの菊花賞レコードを27%更新するものだった。

レースはカネケヤキ大逃げを見せ、一時は20馬身以上の大差を付けた。武田から「早く追うな」と指示を受けていた栗田は、レースを実況していた小坂巖が「シンザン、どうした。三冠はもうだめだ」と発するほど仕掛けのタイミングを遅らせ、直線で一気にスパート。一時先頭に立ったウメノチカラを残り200メートルの地点で抜き去り、戦後初、セントライト以来23年ぶりの三冠を達成した。

三冠達成後、疲労が抜けずシンザンは休養に入った。回避を表明していた有馬記念でのファン投票は3位で、ウメノチカラ(ファン投票2位)より低かった。

シンザン鉄
「シンザン鉄」(京都競馬場)

1月に厩務員の中尾はシンザンの右後ろ脚の爪が出血しているのを発見した。原因は後ろ脚の脚力が増した結果踏み込みが深くなり、後ろ脚が前脚の蹄鉄にぶつかっていることにあると判明し、武田が対策を考えた。

対策として、当初は後ろ脚にゴムテープや革が巻かれたが、前者は馬場を歩くだけでとれてしまい、後者は水分を含む馬場に弱かった。試行錯誤の結果、装蹄師の福田忠寛とともに、後ろ脚の蹄鉄に通気穴の空いたスリッパのようなカバーを付けて後ろ脚の蹄を保護し、かつカバーがぶつかる衝撃から前脚の蹄鉄を守るため、前脚の蹄鉄に電気溶接によりT字型のブリッジを張った「シンザン鉄」と呼ばれる蹄鉄を考案した。

通常の蹄鉄の耐用期間は3週間ほどであったのに対し、シンザン鉄は1、2週間ほどで溶接部分がはがれ、使用ができなくなるという特徴があった。シンザン鉄の交換は、シンザンが武田厩舎にいるときにはその都度行われたが、シンザンが厩舎を離れて遠征するときには、あらかじめ作成した複数のシンザン鉄を中尾が持ち運んだ。

このシンザン鉄は通常の蹄鉄に比べ2倍以上の重量があったため、脚部に負担がかかり故障を招く恐れがあったが、シンザンはリスクを克服した。また、この特殊な蹄鉄の重さゆえにシンザンは調教で走らなかったという説もある。

5歳時(1965年)

競走内容

当初陣営は大阪杯を経て天皇賞(春)に出走する計画を立てたが、蹄が炎症を起こした影響から食欲が低下するなど体調が芳しくなく、また腰痛を発症していたため、武田は天皇賞(春)の回避を決定した。武田は計画を立て直し、オープンを経て宝塚記念に出走し、その後は秋まで休養させることにした。

シンザンはオープン競走に二度出走(いずれも優勝)したあと宝塚記念に出走。出走馬選定のファン投票では第1位であった。不良馬場への対応を不安視する声も上がったが、レースでは終始好位につけ、最後の直線コースに入ると外から先行馬を交わし、スタートの出遅れから追い込んだバリモスニセイを退け勝利した。

前年に引き続き夏は京都競馬場で過ごすことになった。この年は前年ほど暑くはならず、また早い段階から氷の柱で馬房を冷やすなど十分な対策を施したため、シンザンは夏負けを起こすことなく過ごすことができた。

秋のローテーションとして、武田は当初阪神競馬場のオープンに出走したあとで関東へ輸送し、オープンを経て天皇賞(秋)に出走する計画を立てた。しかし阪神競馬場のオープンを優勝した直後、東京、中山、阪神で馬インフルエンザが蔓延して競走馬移動禁止令が出され、禁止解除を待つ間に出走を予定していたオープンが行われてしまった。武田はやむなく目黒記念への出走を決めた。シンザンは63キログラムという重い斤量を課されたがこれを克服し、第4コーナーで先頭に立つとそのままゴールし優勝した。

天皇賞(秋)では目黒記念でシンザンに敗れた加賀武見騎乗のミハルカスが大逃げを打ったが、シンザンは直線でミハルカスを交わして先頭に立ち、そのままゴールし優勝した。栗田にとっては初の天皇賞優勝で、レース後の表彰式では涙を見せた。なお、この競走でシンザンの単勝支持率は78.3パーセントで、単勝の配当は100円元返しであった。GI級競走における単勝の100円元返しはほかに5例しか存在しない。

このあと、平場オープン競走を1戦はさみ第10回有馬記念に向かった。単勝オッズ1.1倍の圧倒的1番人気で、前年3位だった人気投票も1位となった。シンザンは第4コーナーで逃げたミハルカスに並びかけたが、ミハルカスに騎乗していた加賀はシンザンに馬場状態の悪いインコースを走らせるために故意に外へ進路をとり、外側のラチ近くを走行した。しかし、シンザンはミハルカスのさらに外を通ってミハルカスを交わし、優勝した。このときレースを撮影していたテレビカメラの視野からシンザンが消えてしまい、「シンザンが消えた!」と実況された。

レース後松本は「シンザンが外を回れと言った」とコメントした。また松本は、のちにレースを振り返って「3コーナーから4コーナーの中間で、前に居る馬は皆バテていたので、相手は加賀の馬だけだと思いながら、内には入らないつもりで乗った。4コーナーの入口で外に振られたが、内へ持ち直す必要は無い、並べばこっちが強いと信じていたから」とも語っている。

ローテーションをめぐる武田と栗田の対立

有馬記念を前に、武田はそれまで中山競馬場のレースに出走したことがなかったシンザンのスクーリングと、天皇賞(秋)からのレース間隔が開くことを避けるために、オープンに出走したあと連闘で有馬記念に出走することを決めたが、栗田はこれに強く反対した。武田博が騎乗したオープンでは、シンザンは伸びずにクリデイの2着に敗れた。勝ったクリデイが関西では無名の馬であったことにショックを受け、深酒を煽り泥酔した末に倒れて病院へ搬送される事件を起こした。これに激怒した武田は栗田を降板させ、松本善登を騎乗させることを決定した。さらに、のちに行われたシンザンの引退式でも栗田ではなく松本と武田博が騎乗した。

なお、シンザンのローテーションをめぐる両者の対立は前年の東京優駿の前にも起こっており、このときは東京優駿へ向け、武田が調教だけでは仕上がらないとしてオープンへの出走をはさむことを決定したのに対して、栗田はシンザンの能力を考えれば出走は不要と主張し、出走が決まったあとにはレース直前の調教で武田の指示よりも遅く走らせた。

シンザンの引退

目黒記念を前に、馬主の橋元は武田に対し有馬記念を最後にシンザンを引退させ、種牡馬にすることを打診した。天皇賞優勝後、武田は中村広厩舎で催された祝勝会の場で、シンザンを有馬記念を最後に引退させることを発表した。シンザンには1966年も現役を続行して海外遠征することを望む声もあったが、武田はシンザンが三冠を達成した時期にアメリカに遠征し、ワシントンDCインターナショナルに出走したリユウフオーレルが惨敗、その後故障を発症して引退したのを目の当たりにし、「決して遠征させない」と決意していた。1966年1月、東京競馬場(9日)と京都競馬場(16日)でシンザンの引退式が行われた。

1968年10月13日、京都競馬場にて銅像の除幕式を行った際、シンザンはゲストとして京都競馬場に呼ばれて3年ぶりに武田厩舎に戻った。朝の乗り運動ではひさびさに栗田が騎乗したほか、13日には銅像と対面。また昼休みには、ファンに現役時代より一回り大きくなった姿を披露した。

なおシンザン引退後、日本のホースマンにとってシンザンを超える競走馬を生産し、育成することが目標となり、シンボリルドルフが出現するまでの約20年間、「シンザンを超えろ」のスローガンが標榜され続けた。引退後のシンザンが冬の牧場で二本足で力強く立ち上がった姿を真横から捉えた写真にこのスローガンを添えた日本中央競馬会のPRポスターも存在する。なお、シンボリルドルフが無敗でクラシック三冠を達成したときに武田は「やっとシンザンを超える馬が出てきた」と述べたが、中尾はシンボリルドルフやナリタブライアンと比較しても「『超えるわけがない』という思いはあります」と述べている。

競走成績

年月日 |  | 競走名 | オッズ | 着順 | 距離 | タイム | 着差 | 騎手 | 1着馬/(2着馬)
1963.11.13 | 京都 | 3歳新馬 | 1.4(1人) | 1着 | 1200(良) | 1:13.9 | 4馬身 | 栗田勝 | (ホシツキ)
11.30 | 阪神 | オープン | 2.2(2人) | 1着 | 1400(稍) | 1:25.7 | 2 1/2 | 栗田勝 | (エイブルマン)
12.14 | 阪神 | 3歳中距離特別 | 1.9(1人) | 1着 | 1600(稍) | 1:40.0 | 4馬身 | 栗田勝 | (オークラヤマ)
1964. 1. 4 | 京都 | オープン | 1.0(1人) | 1着 | 1600(良) | 1:42.3 | 2馬身 | 栗田勝 | (ハナビシ)
3.29 | 東京 | スプリングS | 10.5(6人) | 1着 | 1800(良) | 1:51.3 | 1/2身 | 栗田勝 | (ヤマニンスーパー)
4.19 | 東京 | 皐月賞 | 2.7(1人) | 1着 | 2000(良) | 2:04.1 | 3/4身 | 栗田勝 | (アスカ)
5.16 | 東京 | オープン | 1.3(1人) | 2着 | 1800(良) | 1:50.8 | 0.1秒 | 栗田勝 | ヤマニンシロ
5.31 | 東京 | 東京優駿 | 2.1(1人) | 1着 | 2400(良) | 2:28.8 | 1 1/4 | 栗田勝 | (ウメノチカラ)
10.10 | 阪神 | オープン | 1.2(1人) | 2着 | 1800(良) | 1:51.6 | 0.1秒 | 栗田勝 | イチミカド
11. 1 | 京都 | 京都杯 | 2.5(1人) | 2着 | 1800(良) | 1:52.1 | 0.2秒 | 栗田勝 | バリモスニセイ
11.15 | 京都 | 菊花賞 | 2.4(2人) | 1着 | 3000(稍) | 3:13.8 | 2 1/2 | 栗田勝 | (ウメノチカラ)
1965. 5.29 | 阪神 | オープン | 1.9(1人) | 1着 | 1600(稍) | 1:37.7 | 4馬身 | 武田博 | (ヤマヒロ)
6.13 | 阪神 | オープン | 1.0(1人) | 1着 | 1850(良) | 1:53.7 | 1 1/2 | 武田博 | (ヤマヒロ)
6.27 | 阪神 | 宝塚記念 | 1.3(1人) | 1着 | 2000(不) | 2:06.3 | 1/2身 | 栗田勝 | (バリモスニセイ)
10. 2 | 阪神 | オープン | 1.8(2人) | 1着 | 1850(良) | 1:54.0 | アタマ | 武田博 | (ヒカルポーラ)
11. 3 | 東京 | 目黒記念(秋) | 2.4(1人) | 1着 | 2500(稍) | 2:42.2 | 1/2身 | 栗田勝 | (ブルタカチホ)
11.23 | 東京 | 天皇賞(秋) | 1.0(1人) | 1着 | 3200(良) | 3:22.7 | 2馬身 | 栗田勝 | (ハクズイコウ)
12.18 | 中山 | オープン | 1.0(1人) | 2着 | 2000(良) | 2:05.5 | 0.2秒 | 武田博 | クリデイ
12.26 | 中山 | 有馬記念 | 1.1(1人) | 1着 | 2600(稍) | 2:47.2 | 1 3/4 | 松本善登 | (ミハルカス)

受賞

引退後

京都競馬場のシンザン像

種牡馬時代

引退後は種牡馬となったが、当時は海外から輸入した種牡馬の活躍が著しく、内国産種牡馬の成績は低迷していた。そのような状況に配慮して、シンザンを繋養した谷川牧場は、「儲けることよりもシンザンの血統を後世に伝えることが重要」と考え、シンザンの種付け料は20万円に設定された。なお、競走馬引退後のシンザンの世話は谷川牧場の従業員・斉藤優が担当した。

初年度と2年目の産駒は数が少なかったが、2年目産駒から重賞を2勝したシングンが出る。産駒数が大幅に増えた3年目以降は急激に成績を伸ばし、レコードタイムを5回記録し快速で知られたスガノホマレやシンザンミサキといった重賞馬を送り出した、初期の産駒はこのほか日本で初めて2000メートルで2分を切るタイムを記録したシルバーランドなど、むしろ短距離を活躍の場とする産駒が多かった。シンザンの種牡馬としての人気は次第に高まり、1978年の5位(地方を含めた全日本で3位)を最高に合計7回種牡馬ランキングのトップ10に入った。

ライター山河拓也は、シンザンの活躍によって内国産種牡馬が見直され、アローエクスプレストウショウボーイの活躍に繋がったとしている。

1980年代に入ると種牡馬成績は次第に下降し、1980年に内国産種牡馬1位の座をアローエクスプレスに奪われ、1985年にはリーディングサイアートップ10から陥落した。

産駒からは八大競走などの大レースを勝つ馬がなかなか出なかったが、1981年ミナガワマンナが菊花賞に優勝した。この時点でシンザンは高齢であったためミナガワマンナは「シンザン最後の大物」とも呼ばれたが、さらにそのあと代表産駒となる二冠馬ミホシンザンが登場した。

シンザンはミホシンザンが天皇賞(春)を制した1987年に、授精能力低下により種牡馬を引退した。最終的に産駒の重賞勝利数は49勝に達した。また、1969年 - 1992年には産駒24年連続勝利の記録を打ち立てた。これはのちにノーザンテーストが更新するまで日本最長記録だった。

種牡馬引退後

種牡馬引退後は谷川牧場にて余生を送った。晩年は右目の視力を失い、歯をすべて失い、さらに1994年2月以降、幾度となく自力で立つことができなくなるなど身体の衰弱が目立つようになった。1996年7月13日2時ごろ、老衰により死亡。35歳3か月11日の大往生だった。

死後は盛大な葬儀が行われ、日本の競走馬としてはテンポイント以来となる土葬が行われた。シンザンの墓は生まれ故郷である北海道浦河郡浦河町の谷川牧場にあり、この牧場にはシンザンの銅像も建てられている。

軽種馬の日本最長寿記録を樹立

シンザンは1995年11月19日、シンザンと同世代の二冠牝馬カネケヤキが記録したサラブレッドの日本最長寿記録を更新し、さらに翌1996年5月3日にはタマツバキ(アングロアラブの名馬)が持っていた軽種馬の日本最長寿記録も更新した。

この記録は2011年6月28日にアングロアラブのマリージョイ(競走馬名:スインフアニー)によって破られ、サラブレッド記録としては2014年8月26日にシャルロット(競走馬名:アローハマキヨ)に破られた。以降も中央競馬重賞勝ち馬としての最長寿記録は保持していたが、これも2019年8月15日に、1987年共同通信杯4歳ステークス優勝馬マイネルダビテに破られた。

種牡馬成績

勝利数はいずれも中央競馬のみの集計。

【年】
【中央】
総合
【出走】
【勝利】
【順位
(内国産)】
AEI
【収得賞金】
順位
【頭数】
【頭数】
回数
1969年 | 21 | 5 | 5 | - | - | 1356万円 | -
1970年 | 30 | 11 | 19 | - | - | 7484万円 | -
1971年 | 42 | 14 | 23 | - | - | 1億4396万円 | -
1972年 | 41 | 26 | 49 | 17(1) | - | 2億755万円 | -
1973年 | 49 | 29 | 47 | 6(1) | - | 3億7431.8万円 | -
1974年 | 40 | 22 | 39 | 10(1) | 1.49 | 3億5605.8万円 | 9
1975年 | 41 | 19 | 35 | 20(1) | 1.24 | 3億760.78万円 | 18
1976年 | 54 | 18 | 37 | 10(1) | 1.24 | 4億3015.74万円 | 11
1977年 | 66 | 26 | 39 | 12(1) | 0.94 | 3億9808.3万円 | 12
1978年 | 53 | 22 | 52 | 5(1) | 1.87 | 6億4440.22万円 | 3
1979年 | 47 | 20 | 33 | 7(1) | 1.78 | 5億213.18万円 | 3
1980年 | 47 | 19 | 27 | 14(3) | 1.30 | 4億343.08万円 | 10
1981年 | 40 | 16 | 32 | 9(3) | 1.75 | 4億7929.06万円 | 9
1982年 | 45 | 18 | 28 | 8(2) | 1.32 | 4憶2036.7万円 | 22
1983年 | 49 | 22 | 32 | 14(6) | 1.21 | 4憶0573.8万円 | 23
1984年 | 44 | 17 | 23 | 40(8) | 0.93 | 2憶8007.8万円 | 50
1985年 | 45 | 20 | 32 | 15(5) | 1.60 | 5憶273.0万円 | 18
1986年 | 35 | 11 | 17 | 44(9) | 1.04 | 2憶5845.1万円 | 57
1987年 | 30 | 10 | 14 | 33(9) | 1.70 | 3憶4292万円 | 45
1988年 | 27 | 7 | 9 | 115(35) | 0.61 | 1億852.8万円 | 128
1989年 | 28 | 11 | 18 | 60(19) | 1.38 | 2億3405.1万円 | 86
1990年 | 17 | 7 | 10 | 84(31) | 1.29 | 1億8299.4万円 | 112
1991年 | 7 | 2 | 3 | 171(60) | 1.09 | 6732.7万円 | 238
1992年 | 1 | 1 | 1 | 345 | 2.11 | 1934.3万円 | 414
1993年 | 1 | 0 | 0 | 445 | 0.98 | 886.6万円 | 571
1994年 | 1 | 1 | 1 | 344 | 2.70 | 2390.7万円 | 462
1995年 | - | - | - | - | - | - | 881

おもな産駒

母の父(ブルードメアサイヤー)としては、以下の産駒がいる。

その後の子孫

シンザンの産駒は10頭が種牡馬入りした。多くはマイナー種牡馬の域を出なかったが、ハシコトブキミホシンザンは重賞馬を2頭ずつ出すことに成功した。更にミホシンザンの代表産駒 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/03/28 23:23

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