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ジャズとは?

【ジャズ】

【様式的起源】
ブルースラグタイム黒人霊歌ワーク・ソングマーチクラシック音楽西アフリカ音楽
【文化的起源】
19世紀、アメリカ南部
【使用楽器】
ピアノトランペットトロンボーンサクソフォンクラリネットフルート鍵盤楽器コントラバスドラムギター
【派生ジャンル】

【サブジャンル】

  • アヴァンギャルド・ジャズ
  • ビッグバンド
  • ビバップ
  • チェンバー・ジャズ
  • クール・ジャズ
  • フリー・ジャズ
  • ジプシー・ジャズ
  • ハード・バップ
  • ラテン・ジャズ
  • コンテンポラリー・ジャズ
  • モード・ジャズ
  • M・ベース
  • ネオバップ
  • ポスト・バップ
  • プログレッシブ・ジャズ
  • ソウル・ジャズ
  • スウィング・ジャズ
  • 第三の流れ
  • トラッド・ジャズ

  • 【融合ジャンル】

  • アシッドジャズ
  • アフロビート
  • ボサノヴァ
  • クロスオーバー・ジャズ
  • ダンスバンド
  • フォーク・ジャズ
  • フリー・ファンク
  • humppa
  • インド・ジャズ
  • ジャム・バンド
  • パンク・ジャズ
  • ジャズ・ファンク
  • ジャズ・ロック
  • ジャズ・フュージョン
  • ジャズ・ラップ
  • マンボ
  • ニュージャズ
  • スカ・ジャズ
  • スムーズジャズ
  • スウィング・リバイバル
  • ワールド・ミュージック

  • 【関連項目】

  • スタンダード・ナンバー

  • ジャズ(: jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国南部の都市を中心に派生した音楽ジャンル。 西洋楽器を用いた高度なヨーロッパ音楽の技術と理論、およびアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感覚民俗音楽とが融合して生まれた。演奏の中にブルー・ノートシンコペーションスウィングコールアンドレスポンス(掛け合い演奏)、インプロヴィゼーション(即興演奏)、ポリリズム(複合リズム)などの要素を組み込んでいることが、大きな特徴とされている。

    その表現形式は変奏的で自由なものだった。また、初期からポール・ホワイトマンやビックス・バイダーベックらの白人ミュージシャンも深くかかわり、黒人音楽であると同時に人種混合音楽でもあった。演奏技法なども急速に発展し、20世紀後半には世界の多くの国々でジャズが演奏されるようになり、後のポピュラー音楽に多大な影響を及ぼした。

    目次

    • 1 歴史
      • 1.1 1920年代 - 1940年代
      • 1.2 1950年代 - 1960年代
      • 1.3 1970年代 - 1980年代
      • 1.4 1990年代 - 現在
      • 1.5 ジャズメンの来日
    • 2 ヨーロッパのジャズ
    • 3 ラテン・アメリカのジャズ
    • 4 アフリカのジャズ
    • 5 戦前日本のジャズ
    • 6 戦後日本のジャズ
    • 7 主なスタイル/ジャンル
    • 8 アーティスト
    • 9 著名なジャズ評論家
    • 10 ジャズが演奏された著名な場所
      • 10.1 著名なジャズクラブ
      • 10.2 ジャズクラブ以外
      • 10.3 ジャズ喫茶
    • 11 著名なジャズ・フェスティバル
      • 11.1 三大ジャズ・フェスティバル
      • 11.2 北アメリカ
      • 11.3 ヨーロッパ
      • 11.4 日本
        • 11.4.1 開催終了
    • 12 著名なジャズ教育機関
    • 13 ジャズに関するその他の作品・関連メディア
      • 13.1 TV・ラジオ番組
        • 13.1.1 ジャズ専門衛星放送
        • 13.1.2 ジャズ専門ネットラジオ局(無償配信)
        • 13.1.3 ラジオ放送
      • 13.2 映画
        • 13.2.1 洋画
        • 13.2.2 邦画
    • 14 その他
    • 15 参考文献
    • 16 関連図書
    • 17 脚注
    • 18 関連項目
    • 19 外部リンク

    歴史

    1920年代 - 1940年代

    Duke Ellington, 1943年
    Buddy Bolden, 1905年頃
    Art Blakey, 1985年

    ジャズは西洋音楽アフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽である。スピリチュアルブルースラグタイムの要素を含み、ルーツは西アフリカ、西サヘル(サハラ砂漠南縁に東西に延びる帯状の地域)、ニューイングランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカからの移民(多くは奴隷として扱われた)とその子孫の人種音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。ラグタイムの有名ミュージシャンにはアフロアメリカンのスコット・ジョプリンがいた。ラグタイムは1900年ごろから1920年ごろまで、人気の音楽となった。

    ニューオーリンズが発祥の地とされており、現在でもその語源ははっきりしない。20世紀初頭には、コルネット奏者の「アフロアメリカン」、バディ・ボールデンがニューオーリンズで人気を博したが、ボールデンは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない。

    1917年、ニューオーリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初のレコードとなる、“Dixie Jass Band One Step”と“Livery Stable Blues”の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表。

    初期のジャズは、マーチングバンドと20世紀初頭に流行したダンス音楽に影響を受けており、ブラス(金管楽器)・リード(木管楽器)・ドラムスによる組み合わせの形態はこれらの影響に基づく可能性もある。初期は黒人が楽器を買う金がなく、白人が捨てた楽器を拾って演奏することもあった。ジャズが普及していった理由は、ラジオが1920年代末には、かなり多くの家庭に普及し、楽譜を売っていた音楽業界も、蓄音機の発明により、レコード産業へと発展していったことが大きかった。ラグタイムは、後のダンス向きなスウィング・ジャズへと交代していく。アメリカの禁酒法時代(1920-1933年)に地下化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいはレコードラジオの普及によって、ダンスミュージックなどのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾然一体となっていた1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まった。第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後のエドワード8世も少年時代にレコードを収集するなど、幅広い層に受け入れられた。

    1930年代には、ソロ演奏がそれまで以上に重要視されるようになり、ソロを際だたせる手法の一つとして小編成バンドが規模拡大してビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズが確立されるようになり、人気を博す。人気の中心となったのは、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、カウント・ベイシー、トミー・ドーシー、スタン・ケントンらのスィング・バンドだった。人種的障壁で隔てられていた黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンの媒介としての役割を果たしたクレオールも媒介役になった。スウィング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場がより重要視されるようになった。ルイ・アームストロングは、ジャズとヴォーカルとの融合において重要な役割を果たした。

    その一方で、ソロを際だたせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる方向性を求めたり、スウィング・ジャズに反発するミュージシャンにより、即興演奏を主体としたビバップ等の新たなスタイルが模索されるようになる。1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋にかけて、アメリカで大規模なレコーディング・ストライキがあったため、初期ビバップの録音はわずかしか残されていない。戦前に設立されたアルフレッド・ライオンのブルーノート・レコードは弱小レーベルながら、ジャズの発展に大きく貢献した。

    1950年代 - 1960年代

    50年代にはチャーリー・パーカーディジー・ガレスピーセロニアス・モンクらによる「ビバップ」が誕生し、多くの録音を残した。ジャズの全盛期であった1950年代には、クール・ジャズウエストコースト・ジャズハード・バップ等の新たなスタイルが登場し、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。ナット・キング・コールメル・トーメ、リー・ワイリー、ペギー・リーらの歌手も、この時期活躍した。

    1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックを丸ごとジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィスが『死刑台のエレベーター』(監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』(監督:エドゥアール・モリナロ)に、ケニー・ドーハムが『彼奴を殺せ』(監督:エドゥアール・モリナロ)に参加。1958年には、アメリカ映画私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった。

    1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、即興演奏の自由度が増す。一方、オーネット・コールマンアルバート・アイラー、サン・ラらは、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名から「フリー・ジャズ」という言葉が広まっていった。また、ジャズ・ヴォーカルではビリー・ホリディサラ・ヴォーンカーメン・マクレエエラ・フィッツジェラルドニーナ・シモンアニタ・オディ、らも活躍した。白人歌手のヘレン・メリルウテ・レンパーらも人気を集めた。

    1960年代前半には、ブラジル音楽ボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなる。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)をビルボード誌のポップ・チャート1位に送り込み、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルトアントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を制作、グラミー賞アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。1965年には、『リカード・ボサノヴァ』が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。カーティス・フラーキャノンボール・アダレイホレス・シルヴァーナット・アダレイラムゼイ・ルイスらを中心としたソウル・ジャズ(ファンキー・ジャズ)も、50年代後半から60年代に人気となった。またリー・モーガンの『サイド・ワインダー』は大ヒットしすぎたために、ブルー・ノート・レコードが一度倒産状態になるという珍現象も見られた。

    1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギターハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、エレクトリック・ジャズ・アルバム『ビッチェズ・ブリュー』をヒットさせた。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成した。

    1970年代 - 1980年代

    70年代に入るとエレクトリック・ジャズは、クロスオーバーと呼ばれるスタイルに変容していく。この時期に大ヒットしたのが、デオダートの「ツアラトゥストラはかく語りき」である。さらには70年代半ばには、フュージョンと呼ばれるスタイルに発展していく。フュージョンのリー・リトナーラリー・カールトンアル・ディ・メオラらは、FMラジオなどでさかんにオンエアされた。スタッフ、クルセイダーズ、スパイロ・ジャイラジョージ・ベンソンチャック・マンジョーネグローバー・ワシントン・ジュニアらも活躍した。だが、フュージョンはそのポップ性、商業性、娯楽性からフリー・ジャズ、ビバップのアーティストやジャズ評論家、ジャズ・ファンの一部から強い拒否反応を受けた。これは商業か芸術かといった、普遍的な問題の表れでもあった。

    1990年代 - 現在

    1990年代のジャズは特定のスタイルが主流になるのでは無く多様化が進んでいる。フュージョンの後継とも言えるスムース・ジャズがその1つである。ブラッド・メルドーザ・バッド・プラスと共にロックを伝統的なジャズの文脈で演奏したり、ロックミュージシャンによるジャズ・バージョンの演奏を行なったりしている。90年代に入ってからも前衛的なジャズも伝統的なジャズも継承され演奏されている。

    またハリー・コニック・ジュニアダイアナ・クラールノラ・ジョーンズカサンドラ・ウィルソンホセ・ジェームスジェイミー・カラムなど、伝統的なジャズとポップスの音楽を組み合わせて人気を博したミュージシャンも登場している。電子楽器やロック由来の楽器をジャズに使用する動きは2000年代に入っても続いている。この流れはパット・メセニージョン・アバークロンビージョン・スコフィールドロバート・グラスパー・エクスペリメント、エスペランサ・スポルディング等に受け継がれている。

    ジャズメンの来日

    NHK『タモリのジャズスタジオ』において音楽評論家ピーター・バラカン氏が「ヨーロッパ日本がなければ、アメリカのジャズミュージシャンは生計が立たなかった」と述べた様に、ジャズプレイヤーにとって日本は重要なマーケットとなっており、多くのミュージシャンが来日公演を行なっている。日本にジャズミュージシャンとして初めて来日したアメリカ人は1952年、ベニー・グッドマン楽団で活躍したドラマー、ジーン・クルーパである。翌年には、オスカー・ピーターソンベニー・カーターエラ・フィッツジェラルドなどと共にジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)として再来日した(この一座にチャーリー・パーカーが参加し来日する予定もあったが結果的に実現しなかった)。その翌月にはルイ・アームストロングが初来日し公演を行っている。

    ヨーロッパのジャズ

    ヨーロッパではイギリス、フランス、ドイツ、北欧などでもジャズが発展した。イギリスのケニー・ボールの「遥かなるアラモ」、クリス・バーバーの「可愛い花」などはよく知られている。フランスではシドニー・ベシェや、後のデクスター・ゴードンらがジャズを演奏した。北欧でもジャズが、さかんに演奏された。しかし、ヨーロッパの一部では、保守層やファシズム政権等で、「黒人音楽」「軽佻浮薄」な「非音楽」であるとしてジャズを排斥する動きも起こった。ナチ党に支配されたナチス・ドイツでは、反ジャズが政府の公式な見解となり、「斜めの音楽」(比喩:「変な音楽」)と呼ばれ1935年に黒人が演奏するジャズの放送が禁止されるなど、様々な条例が作られた。しかし当局によるジャズの定義があいまいであったため、ドイツ人演奏家によるジャズ演奏自体は行われていた。ナチスは、すでに大衆音楽として普及していたジャズを禁止することは得策ではないとして、娯楽放送や宣伝放送にジャズを紛れ込ませた。

    ラテン・アメリカのジャズ

    アフロキューバン・ジャズと呼ばれ、ラロ・シフリンらが活躍した。

    アフリカのジャズ

    ダラー・ブランドがいたが、彼のジャズはアメリカのジャズとほぼ同じ音楽性だった。アフロ・ジャズ、アフロ・ディスコは、欧米や日本で考えられている、ジャズ、ディスコとは、サウンドが異なる。

    戦前日本のジャズ

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    • 独自研究が含まれているおそれがあります。(2017年12月)
    • 正確性に疑問が呈されています。(2017年12月)
    • 雑多な内容が羅列されています。(2017年12月)

    戦前の日本にすでに渡ってきていた舶来音楽、西洋音楽には、ジャズとタンゴがあった。初期のジャズ演奏家には、紙恭輔、南里文雄、井田一郎らがいた。井田は1923年に日本で初めてのプロのジャズバンドを神戸で結成した。

    ジャズの聴き手や演奏家には、都会人やブルジョワ階級の子弟が多かった。関西のプロたちが東京に流れた背景には1927年に警察が大阪市内のダンスホールを一斉閉鎖したことも一つの要因だった。当時のレコード業界はポリドール(1927)、ビクター (1927)、コロムビア(1928)と外資系の大手レコード会社が設立された。テイチクは、異業種参入組のキング(大日本雄弁会講談社のレコード会社)より更に遅い1934年だが、その年の12月に発売したディック・ミネの『ダイナ』がヒット。ダイナは最も多くカバーされた日本のジャズソングであり、榎本健一はパロディとしてカバーした。

    最初のジャズソングとされるのが二村定一がジーン・オースチンのマイ・ブルー・ヘブンをカバーした『青空』で、1927年にラジオ放送された。レコードが発売されたのは翌年の1928年。A面が「青空」、B面が「アラビヤの唄」だった。また、ラジオ、レコードで企画を立ち上げる人間も必要になり堀内敬三が登場した。初期のジャズ演奏家である紙恭輔がコロンビアに関わった。

    1930年代のスウィングジャズは、時代の最先端であり、服部良一は1935年当時のデザインの流線型を題材にした「流線型ジャズ」(志村道夫)を世に出した。しかし、1940年10月31日限りで日本全国のダンスホールは一斉閉鎖された。

    行政警察を管掌する内務省、映画や音楽を監督指導する情報局はジャズを「敵性音楽」として禁令を出したが、抽象的過ぎて何の曲がジャズに含まれるか、音楽の素人である役人に判別は難しかった。また1943年1月にはジャズレコードの演奏禁止、更にレコードの自発的提出、「治安警察法第十六条」の適用による強制的回収などにより米英音楽の一掃を図ったが、北村栄治のように自宅でこっそり聴いていた者もいた。最終的には役人に協力する音楽業界の人間が、日本音楽文化協会、いわゆる「音文」(音楽界の統制団体)の小委員会の決定により、「ジャズの演奏は禁止」となった。こののちジャズメンの活動は各種の慰問団などへシフトしていく。

    戦前に活躍したジャズ・ミュージシャン、ジャズ歌手としては、二村定一服部良一淡谷のり子ディック・ミネ、志村道夫、南里文雄、堀内敬三、川畑文子中野忠晴ベティ・稲田、井田一郎、レイモンド・コンデ、フランシスコ・キーコ、水島早苗、ハット・ボンボンズ、コロムビア・ナカノ・リズムボーイズあきれたぼういずらがいた。

    戦後日本のジャズ

    戦後、ジャズ、カントリー、ハワイアンなどのアメリカ音楽が、日本に入ってきた。進駐軍の音楽は、「ベース」で演奏された。戦後の日本のジャズの早い例には、ニュー・パシフィック・ジャズバンドがあげられる。伊東ゆかりしばたはつみは少女歌手として、米軍キャンプで歌った。

    戦後は、服部良一が作曲したブギウギ笠置シヅ子に歌わせたことから始まる。江利チエミジョージ川口ティーブ釜萢(ムッシュかまやつの父)、ナンシー・梅木世良譲などのすぐれた歌手、演奏家などが出、ジャズが大衆化した。一時期は、外国のポピュラー音楽をすべて「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がったほどである。また、ディキシーランドジャズ・バンドが数多く生まれている。

    鈴木章治とリズムエース、北村栄治らも音楽活動を始めた。宮沢昭、守安祥太郎らも活躍した。1956年穐吉敏子が、1962年渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学。1963年には松本英彦モントレー・ジャズ・フェスティバルに出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。八木正生、猪俣猛らも活躍した。

    1960年頃、アート・ブレイキーのモーニン(1958年発表)のヒットにより、ファンキー・ブームが起こった。

    1961年に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った高柳昌行富樫雅彦日野皓正菊地雅章山下洋輔らが、毎週金曜日に銀巴里ジャムセッションを行った。日野皓正は、そこが自身の原点だと述べる。

    1960年代、70年代から日本でもフリー・ジャズが盛んになってくる。日本のフリー・ジャズの先駆者となったのは、阿部薫、高柳昌行らである。1970年代後半になるとフュージョン・ブームとなり、渡辺貞夫らもフュージョン・アルバムを出すほどだった。中央線沿線を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、新星堂プロデューサーが続に中央線ジャズという言葉を提唱した。

    21世紀に入ってからも、H ZETTRIO山中千尋矢野沙織寺久保エレナ上原ひろみ、国府弘子、西山瞳、菊地成孔小曽根真らが活躍している。

    主なスタイル/ジャンル

    過去に演奏されたスタイルと、現在も演奏されているスタイルの双方を掲載している。

    2010Happy Mail